本稿は、戦国時代に島津氏の武将として目覚ましい活躍を見せた島津家久(しまづ いえひさ)——島津貴久の四男として天文16年(1547年)に生まれ、天正15年(1587年)に没した人物——に焦点を当てる。彼の生涯と業績は、島津氏の九州統一が現実味を帯びていく激動の時代と深く結びついている。本稿では、現存する史料に基づき、この島津家久の人物像を軍事面と文化面から多角的に検証することを目的とする。
特に留意すべきは、同名の武将との区別である。島津義弘の子である島津忠恒(ただつね)は、後に関ヶ原の戦いを経て島津家第18代当主となり、名を家久と改めた(天正4年(1576年)生~寛永15年(1638年)没) 1 。この二人の「家久」は、生きた時代も島津家における立場も全く異なるため、歴史を正確に理解する上で両者を混同しないことが極めて重要である。本稿で詳述するのは、あくまで島津貴久の子である家久であり、彼が島津氏の勢力拡大期に軍事司令官として、また一人の文化人として果たした役割を明らかにしていく。
島津家久は、天文16年(1547年)、島津氏第15代当主であった島津貴久(たかひさ)の四男としてこの世に生を受けた 1 。父・貴久は、島津氏が戦国大名としての地位を確固たるものとし、薩摩・大隅・日向のいわゆる三州統一に向けて大きく勢力を伸張させる礎を築いた重要な人物である 1 。家久が後に活躍する舞台は、この貴久の時代にその基礎が固められたと言える。
家久の母は、肥後国(現在の熊本県)の岡某の娘とされ、「橋姫」と伝えられている。彼女は貴久の側室であった 3 。この点は、家久の生涯を考察する上で無視できない要素である。彼の三人の兄、すなわち島津義久(よしひさ)、義弘(よしひろ)、歳久(としひさ)は、いずれも貴久の正室である雪窓夫人の子であった 3 。側室の子という出自は、当時の武家社会において、正室の子弟との間に微妙な立場や待遇の違いを生じさせることが少なくなかった。実際に、家久と兄たちとの間には若干の家格差があった可能性も指摘されており、兄たちとは年齢も義久と14歳、義弘と12歳、歳久と10歳離れていた 3 。このような環境が、逆に家久の内に秘めた競争心や、自身の価値を証明しようとする強い意志を育んだ可能性は十分に考えられる。武功を重ねること、あるいは文化的な素養を磨き、それを披露することは、自らの存在価値を高め、家中にあって確固たる地位を築くための有効な手段であったろう。彼の後の目覚ましい軍功や、高度な文化活動への傾倒は、こうした背景と無縁ではなかったかもしれない。
家久の通称は又七郎(またしちろう)と伝わる 2 。官位としては中務大輔(なかつかさのたいふ)を称した 2 。この官名は、彼自身が記した日記が『中書家久公御上京日記』と題されていることからもわかるように 2 、彼の公的な立場や自己認識を示す上で重要なものであったと考えられる。「中書」とは、律令制における中務省の唐名(中国風の呼称)である。
家久が最初に迎えた正室は、島津家の御一家(一門衆の中でも特に家格の高い家)であり、父・貴久にとっては義弟にあたる樺山善久(かばやま よしひさ、通称は玄佐)の娘であった 3 。母方の外戚(母の実家)による強力な後ろ盾を持たなかった家久にとって、この婚姻は極めて重要な意味を持った。有力な一門である樺山氏との姻戚関係は、彼の家中における立場を強化し、活動の幅を広げる上で大きな助けとなったであろう 3 。義父となった樺山善久は、武勇に優れるだけでなく、和歌にも通じた教養人であり、後には近衛前久から古今伝授(こきんでんじゅ、古今和歌集の秘伝を伝授されること)を受けるほどの人物であった 3 。このような義父の存在が、家久自身の文化的な関心や素養の形成に影響を与えた可能性は高い。身近な人物が当代一流の文化に触れていたという環境は、家久が後に自らも古今伝授を受け、和歌や連歌といった文化活動に深く親しむ素地を育んだ一因となったと推察される。
家久には複数の子女がいたことが記録されている。長女は後に祢寝重張(ねじめ しげひら)の室となり、長男には島津豊寿丸(とよひさまる)、後の島津忠豊(ただとよ)、通称で知られる島津豊久(とよひさ)がいた。次男は鎌徳丸(かまとくまる)といい、後に東郷重尚(とうごう しげなお)の養子となり、名を忠直(ただなお)と改めた。この他にも、次女(佐多久慶室)、三女(島津久信室)、四女(相良頼安室)がいたとされている 3 。長男の豊久は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、伯父・島津義弘の身代わりとなって壮絶な戦死を遂げ、その勇名は後世に語り継がれることになる。豊久の家系は、彼の死後、弟の忠直が永吉島津家(のちの佐土原島津分家)として継承し、家名を存続させた 3 。
島津家久の初陣は、永禄4年(1561年)6月、彼が15歳の時のことであったと伝えられている。この戦いは大隅国(現在の鹿児島県東部)の廻城(めぐりじょう)攻略戦であり、家久は敵将であった工藤隠岐守(くどう おきのかみ)を見事討ち取り、父・貴久から賞賛されたという 3 。この時期、島津氏は大隅国の支配を巡って肝付氏(きもつきし)と激しい抗争を繰り広げており、若くして武功を立てたことは、家久の武将としての将来を嘱望させる出来事であった。
その後、元亀元年(1570年)には、薩摩国(現在の鹿児島県西部)の隈城(くまじょう)を与えられ、串木野(くしきの)の領主となった 2 。串木野は、後に彼が伊勢参宮などを目的に上洛する際の出発点ともなった地であり 5 、家久にとって重要な所領であったと考えられる。
天正6年(1578年)6月、家久は日向国(現在の宮崎県)の佐土原城(さどわらじょう)主となる 2 。佐土原は、日向経営における戦略的要衝であり、この地を任されたことは、島津家内における家久の軍事的評価がいかに高かったかを示している。しかしながら、佐土原城主としての具体的な統治政策、例えば検地の実施や民政に関する詳細な記録は、現存する史料からは限定的である 6 。例えば、ある史料では検地が農民を土地に縛り付けたと一般的に述べられているが 6 、これが家久自身の政策であるかは断定できない。また、別の史料は後代の佐土原藩主への指示であり 7 、家久の治世を直接示すものではない。この点については、今後の研究による解明が待たれる。
島津氏が日向国の平定を進める中で、天正6年(1578年)、豊後国(現在の大分県)の大友宗麟(おおとも そうりん)が大軍を率いて日向に侵攻した。これに対し、島津義久を総大将とする島津軍が迎え撃ったのが高城川の戦い、通称「耳川の戦い」である 10 。この戦いにおいて、家久は兄・義久を補佐し、軍事の要として重要な役割を担い、島津軍の大勝に貢献した 2 。耳川の戦いは、九州の勢力図を大きく塗り替える画期的な勝利であり、大友氏の勢力を大きく後退させた。家久はこの合戦に島津軍の主要な指揮官の一人として参陣している 10 。ただし、家久個人の具体的な戦術や部隊の動き、あるいは個別の功績に関する詳細な記述は、現時点で見られる史料では総括的なものが多く、その詳細についてはさらなる史料の発見と分析が望まれる 2 。
日向方面での勝利に続き、島津氏は肥後国への勢力拡大を図る。天正8年(1580年)、家久は肥後国水俣(みなまた)への侵攻軍の大将を務め、ここでも島津氏の勢力拡張に大きく貢献した 2 。日向に続き、肥後方面でも大将を任されたことは、彼が島津軍の中核を担う武将として、兄たちからも厚い信頼を寄せられていたことを示している。
家久の軍事的才能が最も輝かしく発揮された戦いの一つが、天正12年(1584年)の沖田畷(おきたなわて)の戦いである。この戦いで家久は、島津・有馬連合軍の総大将として出陣し、当時九州で島津氏と覇を競っていた肥前国(現在の佐賀県・長崎県)の龍造寺隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)を討ち取るという大殊勲を挙げた 2 。
兵力では龍造寺軍が圧倒的に優勢であったが、家久は巧みな戦術を用いた。彼は、決戦の地を湿地帯である沖田畷(現在の長崎県島原市)に選定し、龍造寺の大軍をこの不利な地形におびき寄せた。そして、伏兵を巧みに配置し、鉄砲や弓による奇襲攻撃を仕掛けることで龍造寺軍を大混乱に陥れたのである 2 。この戦いでの龍造寺隆信の戦死は、龍造寺氏の勢力を急速に衰退させ、島津氏の九州制覇を目前にまで引き寄せる画期的な勝利となった 13 。
この沖田畷の戦いの結果は、九州内の勢力バランスに大きな変動をもたらした。龍造寺氏という巨大勢力が弱体化したことは、九州北部の情勢を不安定化させた。一方で、島津氏の圧迫に苦しんでいた豊後の大友宗麟は、中央の豊臣秀吉に救援を求めていた 14 。全国統一を目指す秀吉にとって、九州のこのような混乱は、介入の絶好の口実となり得た。もし龍造寺氏が依然として強大な勢力を保っていれば、秀吉の九州平定はより困難なものとなったであろう。その意味で、沖田畷の戦いにおける島津家久の勝利は、期せずして豊臣秀吉の九州介入を容易にし、その後の歴史の展開に間接的な影響を与えたと考えられるのである。
島津氏による九州統一が目前に迫る中、天正14年(1586年)から翌15年にかけて、豊臣秀吉による九州征伐が開始された。圧倒的な物量で進軍する豊臣軍に対し、島津家久は日向方面の防衛大将としてこれを迎え撃った 2 。天正15年(1587年)の戸次川(へつぎがわ)の戦いでは、豊臣方として参戦していた四国の長宗我部信親(ちょうそかべ のぶちか、元親の嫡男)や十河存保(そごう まさやす)らを討ち取るなど、奮戦を見せた 2 。この戦いは、島津の武勇を示すものではあったが、豊臣政権の強大な軍事力の前に、大局を覆すには至らなかった。
豊臣秀吉の弟である豊臣秀長(ひでなが)が、伊東祐兵(いとう すけたけ)らを率いて日向国に侵攻すると、家久は人質を差し出して降伏した 2 。これは、兄・義久をはじめとする島津家本隊の降伏 14 に先立つか、ほぼ同時期のことであったと考えられる。この降伏の際に家久が示したとされる態度——秀長に従って京に上り、秀吉に奉公したいと申し出たという逸話 2 ——は、後の彼の死因を巡る様々な憶測を生む一因ともなっている。
島津家久は、勇猛果敢な武将としての側面だけでなく、高い教養と文化的素養を兼ね備えた人物でもあった。
天正3年(1575年)、家久は島津氏による薩摩・大隅・日向の三州平定が成就したことへの感謝と、今後の武運長久を祈願するため、伊勢神宮への参詣などを目的として上洛の途に就いた 2 。この旅の道中における日々の出来事、見聞、そして感慨を詳細に書き留めたものが、『中書家久公御上京日記』(ちゅうしょいえひさこうごじょうきょうにっき)である 2 。
この日記には、薩摩の串木野を出発してから京都に至るまでの道程、各地の関所での出来事(時には役人とのいさかいも記録されている 5 )、宿泊先での地元の人々との交流、道々で目にする風景の描写、さらには和歌の贈答といった風流な交流までが生き生きと記されている。京都では、当代一流の連歌師であった里村紹巴(さとむら じょうは)をはじめとする文化人、公家衆、堺の商人など、幅広い層の人々と交流した様子がうかがえる 2 。
『中書家久公御上京日記』は、単なる個人的な記録に留まらず、当時の武士の旅の実態、主要な交通路の状況、社寺参詣の慣習、そして地方の武将と中央の文化人との間にどのような交流があったのかを知る上で、極めて貴重な一次史料と評価されている 2 。家久自身の鋭い観察眼や豊かな感受性、そして高い教養の一端を垣間見ることができる。日記からは、関所の役人や無礼な水夫に対しては薩摩武士らしい血気盛んな一面を見せる一方で 5 、古典文学の舞台となった地を訪れては感慨にふけり、和歌や連歌に興じる知的な側面も読み取れる 17 。このような武辺と文雅の二面性は、戦国時代の理想的な武将像の一つとも言えるが、家久の場合、その両面が彼自身の手による具体的な記録として残されている点で特に興味深い。
家久が和歌や連歌といった文芸に深い造詣を持っていたことは、前述の上洛日記からも明らかである。特に京都滞在中には、連歌界の第一人者であった里村紹巴らと親しく交流し、連歌の会に度々参加してその腕を磨いた 2 。
さらに特筆すべきは、家久が「古今伝授」を受けていたという事実である 2 。古今伝授とは、『古今和歌集』の解釈や秘儀を師から弟子へと伝承するものであり、これを受けることは当代最高の文化人としてのステータスを意味した。和歌の道における奥義を究めた者のみが許されるこの伝授を受けたということは、家久が単に戦場での武勇に優れた武人であっただけでなく、高度な文化的素養を身につけた一流の文化人でもあったことを明確に示している。
こうした家久の文化活動、特に里村紹巴のような中央の著名な文化人との交流は、単に個人的な趣味や教養の獲得に留まるものではなかった可能性がある。戦国時代において、情報は戦略的に極めて重要であり、中央政界や文化界の動向を正確に把握することは、地方を拠点とする大名にとって死活問題であった。文化的な交流は、公式な外交ルートとは別に、非公式な情報交換や人脈形成の貴重な機会を提供し得た。家久の洗練された文化活動は、島津氏にとって中央とのパイプを築き、情報収集や外交交渉において有利な立場を確保するための、いわばソフトパワーとしての役割も担っていたのではないかと推察される。武力による勢力拡大と並行して、文化を通じた影響力の行使も視野に入れていたのかもしれない。
輝かしい武功を重ね、文化人としてもその才能を発揮した島津家久であったが、その生涯はあまりにも早く幕を閉じることとなる。天正15年(1587年)6月5日、家久は急逝した 2 。享年41歳であった 2 。
その死因については、現在に至るまで確定的な説はなく、謎に包まれている 2。
主な説としては、まず病死説が挙げられる。豊臣秀長の側近であった福地長通(ふくち ながみち)が、家久の死の直前である同年5月13日付で島津義弘に宛てた書状の中に、家久が病気である旨が記されていることから、一般的には病死したとする見方が有力視されている 2。
しかし一方で、毒殺説も根強く囁かれている。その内容は多岐にわたり、日向の佐土原において豊臣方の秀長によって毒殺されたという説 2 、あるいは、秀吉への降伏の際に家久が示したとされる「京に上って秀吉に奉公したい」との申し出を、島津本家の一部の強硬派が快く思わず、裏切りと見なして毒殺したとする見解もある 2 。さらには、かつて島津氏と敵対した大友氏や伊東氏の残党による報復的な毒殺であったとする説も存在する 15 。その他、九州平定戦の過程で、栂牟礼城(とがむれじょう)攻略中に負った戦傷が悪化したことが死因であるとする説など、枚挙にいとまがない 15 。
このように様々な説が存在するものの、いずれも決定的な証拠に欠け、真相は依然として歴史の闇の中である。病気であったことを示唆する記録 2 は病死説を補強する材料となるが、当時の複雑な政治状況を考慮すると、毒殺説も完全に否定することは難しい。
家久の死が、豊臣秀吉による九州平定が完了した直後というタイミングであったことは、この問題を考察する上で極めて重要である。秀吉は、降伏したとはいえ強大な力を持つ外様大名である島津氏に対して、常に警戒の目を向けていた。少しでも不穏な動きを見せれば、容赦なく処断する可能性も否定できなかった。また、島津家内部においても、秀吉への対応を巡って、徹底抗戦を主張する強硬派と恭順の意を示す穏健派との間で意見の対立があった可能性も考えられる。家久が降伏の際に示したとされる「京に上って奉公したい」という申し出 2 は、豊臣方からは忠誠の証と好意的に受け止められる可能性がある一方で、島津家中の強硬派にとっては日和見的な態度、あるいは裏切りに近い行為と見なされる危険性もはらんでいた。さらに、家久は卓越した軍事的才能を持つ武将であり、その存在自体が豊臣方にとって将来的な脅威となる可能性、あるいは島津家内部における権力闘争の火種となる可能性も皆無ではなかった。これらの複雑な要因が絡み合い、彼の死を巡る様々な憶測、特に毒殺説が生まれる土壌となったと推測されるのである。
島津家久は、勇猛果敢さで知られる島津一門の中にあっても、特に武略に秀でた武将であったと高く評価されている 2 。ある記録には「性質甚だ敏捷勇猛なり」との記述も見られる 19 。沖田畷の戦いにおける見事な采配は、その軍事的才能を如実に物語っている。
同時に、彼は古今伝授を受けるほどの深い学識と文化的素養を持ち合わせた文化人でもあった 2 。『中書家久公御上京日記』は、その文才と豊かな感受性を今に伝えている。
総じて、島津家久は、武勇と知略、そして高い文化的教養を兼ね備えた、戦国時代における理想的な武将像に近い人物であったと言えるだろう。しかし、その類稀なる才能を十分に開花させる前に41歳という若さで早世したことは、島津氏にとって計り知れない損失であったに違いない。
本稿で取り上げてきた島津家久(島津貴久の四男)と、その甥にあたる島津忠恒(島津義弘の子、後に家久と改名し島津家第18代当主、薩摩藩初代藩主となる人物)は、同名であるためにしばしば混同されることがある。しかし、両者は活躍した時代も、島津家における立場も全く異なる別人である。歴史の誤認を防ぐため、ここに両者の違いを改めて明確に示したい。以下の表は、両者の主要な情報を比較したものである。
表1:島津家久(貴久の子)と島津忠恒(後の家久)の比較
項目 |
島津家久(貴久の子) |
島津忠恒(後の家久、義弘の子) |
肖像・通称 |
中務大輔、又七郎 |
初名・忠恒、後に家久。松平薩摩守 |
生没年 |
天文16年(1547年)~天正15年(1587年)6月5日 2 |
天正4年(1576年)~寛永15年(1638年)4月7日 1 |
父 |
島津貴久(島津氏15代当主) 1 |
島津義弘(貴久の次男) 1 |
母 |
橋姫(側室) 3 |
広瀬夫人あるいは他の側室(諸説あり) |
兄弟との関係 |
義久・義弘・歳久の異母弟 3 |
兄に鶴寿丸(早世) |
主な活動時期 |
戦国時代中期~後期(島津氏の九州統一戦が本格化する時期) |
戦国時代末期~江戸時代初期 |
主要な合戦 |
耳川の戦い 2 、沖田畷の戦い(総大将として龍造寺隆信を討伐) 2 、戸次川の戦い 2 |
関ヶ原の戦い(父・義弘と共に参戦、敵中突破) 20 、琉球侵攻(総司令官) 1 |
統治・地位 |
薩摩国串木野領主、日向国佐土原城主 2 |
島津氏18代当主、薩摩藩初代藩主 1 |
文化的側面 |
『中書家久公御上京日記』著者 2 、古今伝授拝受 2 、里村紹巴らと交流 4 |
茶道(千利休直伝 21 )、朝鮮からの陶工招来 20 は父・義弘の功績だが、その影響下にあった |
特記事項 |
九州平定戦の最中に急逝 |
徳川家康との交渉により本領安堵、薩摩藩の基礎を築く 1 |
関連史料 |
2 |
1 |
この表からも明らかなように、二人の「家久」は親子(貴久と家久)、叔父と甥(貴久の子の家久と義弘の子の忠恒=家久)という関係にはあるものの、その生涯と歴史的役割は大きく異なる。
島津家久(島津貴久の四男)は、島津氏が九州統一へと邁進する上で、特に軍事面において計り知れない貢献を果たした武将であった。沖田畷の戦いにおける龍造寺隆信討伐という輝かしい戦功は、彼の軍事的才能を象徴する出来事として特筆されるべきである。
しかし、彼の評価は単なる武勇に留まらない。高い文化的素養を身につけ、自ら筆を執って『中書家久公御上京日記』という貴重な記録を残したことは、彼が文武両道に秀でた人物であったことを示している。この日記は、当時の社会状況や武士の文化活動を知る上で、今日においても重要な価値を持つ史料である。
戦国という極めて厳しい時代を駆け抜け、武と文の両面で確かな足跡を残した島津家久の生涯は、現代に生きる我々にも多くの示唆を与えてくれる。特に、側室の子という出自からくるかもしれないハンディキャップを乗り越えようとしたかのような彼の目覚ましい活躍や、絶え間ない戦乱の中にあっても文化を希求し続けたその姿勢は、時代を超えて注目に値するものである。
最後に改めて強調したいのは、本稿で対象とした「島津貴久の子、家久」と、後に島津家当主となり同じく「家久」を名乗った島津忠恒との明確な区別である。本稿が、前者の島津家久——すなわち、天文16年に生まれ、天正15年にその生涯を閉じた中務大輔家久——の歴史的実像の理解に少しでも資することを願うものである。