御宿勘兵衛(みしゅく かんべえ)、その諱(いみな)は政友(まさとも)。生年は永禄7年(1564年)あるいは永禄10年(1567年)と諸説あり、元和元年5月7日(1615年6月3日)、大坂夏の陣の戦塵のなかでその生涯を閉じた 1 。彼は、日本の歴史が大きな転換点を迎えた戦国時代の終焉を、その身をもって体現した武将の一人である。
彼の歴史的評価は、特異な光彩を放っている。大坂の陣において敵方の総大将であった徳川家康は、開戦に先立ち大坂城に入城した浪人衆の名簿に目を通し、「浪人衆の中で武者らしいのは、後藤又兵衛と御宿勘兵衛だけだ」と、その武名を高く評価したと伝わる 3 。天下人から最大級の賛辞を贈られながらも、後世における彼の知名度は、同じく大坂の陣で活躍した真田信繁(幸村)や、共に名を挙げられた後藤基次(又兵衛)のそれには及ばない。勘兵衛の生涯は、信頼性の高い一次史料が断片的である一方、後世に成立した軍記物や逸話集によって豊かに彩られており、その実像は歴史の霧に深く包まれている。
近年では、小説『くせものの譜』などで描かれるように、仕えた主家が次々と滅びることから「厄神」と忌避されたという側面や、一筋縄ではいかぬ「くせもの」としての人物像が注目を集めている 5 。本報告書は、散在する史料の断片、例えば『落穂集』や『国事叢記』、『摂戦実録』といった記録と、そこに織り込まれた伝承を丹念に拾い上げ、比較検討することで、この流転の豪傑、御宿勘兵衛の実像に可能な限り迫ることを目的とする。
御宿勘兵衛の出自をたどる旅は、駿河国駿東郡御宿村(現在の静岡県裾野市御宿周辺)から始まる 2 。この地は、戦国時代に駿河東部で勢力を誇った有力国人・葛山(かずらやま)氏の支配領域にあった。御宿氏は、この葛山氏の一門であったとされ、勘兵衛の出自を理解する上で、両者の関係は不可分である 4 。
勘兵衛の父は、御宿友綱(ともつな)、あるいは信友(のぶとも)という人物であったとされる 1 。この友綱という人物もまた、多面的な顔を持つ。一説には武田信玄の侍医であったとされ、医学の知識を有していた可能性が示唆される 10 。また別の説では、武田氏が葛山氏を事実上支配下に置いた際、その旧領を治めるための軍代(現地支配官)として派遣されたともいう 11 。これらの伝承が事実であれば、友綱は単なる武人ではなく、文武に通じた有能な吏僚であったことが窺える。武田家が天正10年(1582年)に滅亡した後は、後北条氏に客将として仕え、天正18年(1590年)の小田原征伐で北条氏が滅亡すると、上野国藤岡に隠棲し、慶長11年(1606年)にその生涯を終えたと記録されている 12 。
御宿勘兵衛の出自をめぐる謎の中で、最も劇的なものが「武田信玄の孫」であるという伝説である。『摂戦実録』などの後代の軍記物によれば、勘兵衛は御宿友綱の実子ではなく、武田信玄の六男(一説には五男)で葛山氏の名跡を継いだ葛山信貞(かつらやまのぶさだ)の子、すなわち信玄の孫にあたるというのである 1 。
この信玄孫伝説は、勘兵衛の並外れた武勇や、大坂の陣における華々しい活躍をより一層際立たせるための、後世における創作、あるいは脚色である可能性が高い。しかし、単なる創作として片付けるだけでは、この伝説が生まれた背景を見過ごすことになる。武田旧臣としての彼の矜持や、滅び去った武田家への人々の追慕の念が、勘兵衛という一人の武将の姿に投影され、このような高貴な血脈の物語を生み出したと解釈することもできる。
彼の前半生には、もう一つ興味深い逸話が伝わっている。『葛山家譜』によれば、勘兵衛は幼少期に父・友綱から勘当され、後北条氏のもとへ移ったという 2 。しかし、史実として、武田家滅亡後には父子ともに北条氏に仕えていることが確認されており、この勘当の逸話には矛盾が生じる 2 。もし勘当が事実であったとすれば、それは武田家が滅亡する以前の出来事か、あるいは北条家滅亡後に父子間で何らかの確執が生じた結果と考えるべきであろう。あるいは、武田家から北条家へと主君を乗り換えた事実を、父との不和という個人的な物語に置き換えて正当化しようとしたのかもしれない。
これらの情報の錯綜は、勘兵衛という人物が、固定化された家の権威に頼るのではなく、激動の時代の中で仕える主君や自らの武功によって、その都度自己の存在価値を証明し続けた人物であったことを物語っている。
勘兵衛の諱は、一般に「政友(まさとも)」として知られるが、その初名は「綱秀(つなひで)」であったと伝わる 2 。史料によっては、綱貞(つなさだ)、正友(まさとも)、正倫(まさとも)といった表記も見られるが 4 、その名の変遷は彼の武士としての経歴を雄弁に物語っている。
「綱秀」の「綱」の字は、彼が仕えた後北条氏の通字(代々用いられる特定の漢字)であり、北条氏綱やその一族から与えられた可能性がある。そして、後に名乗った「政友」の「政」の字は、当時の北条家当主であった北条氏政からの一字拝領(偏諱)と考えるのが最も自然である 2 。武士にとって主君から名の一字を賜ることは、家臣として正式に認められ、高い評価を得ていることの証であった。したがって、「綱秀」から「政友」への改名は、単なる名前の変更ではなく、勘兵衛が北条家中で確固たる地位を築いたことを示す、彼の経歴における明確な転換点であったと推測される。彼の前半生は、確固たる地盤を持たない一人の武士が、戦国の荒波を乗り越え、自らの「名」と「価値」をその腕一つで築き上げていく、典型的な立身出世の物語として読み解くことができる。
御宿勘兵衛の武士としての経歴は、駿河の今川氏、甲斐の武田氏、そして相模の北条氏という、戦国時代を代表する大名の盛衰と軌を一にしている 1 。彼が仕えた主家は、いずれも織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった天下人の巨大な力の前に、次々と滅亡の道をたどった。これは勘兵衛個人の能力や忠誠心の問題というよりも、彼が歴史の「敗者」となる側に身を置かざるを得なかった、時代の必然であったと言えよう。
特に彼が長く仕えた後北条氏においては、その立場も複雑であった。記録によれば、彼は北条家の宿老・松田憲秀(まつだ のりひで)に仕えた、あるいはその与力(よりき、配下の武将)として配属されたとされる 2 。歴史家の福本日南は、勘兵衛は松田憲秀の直接の家臣ではなく、与力であった可能性を指摘しているが 4 、これは勘兵衛が北条家譜代の家臣ではなく、その武勇を評価されて迎えられた客将に近い、外様の武将であったことを示唆している。そして、この松田憲秀こそ、天正18年(1590年)の小田原征伐の際に豊臣方への内応を疑われ、開城後に秀吉の命によって切腹させられた人物である 15 。勘兵衛の周辺には、常に時代の大きな転換点に伴う不穏な空気が漂っていたことが窺える。
その他、上杉景勝、福島正則、黒田長政といった名だたる大名にも仕えたという伝承が存在するが 1 、これらは確たる史料に裏付けられておらず、高名な武将であった勘兵衛の流浪の経歴をより華々しく見せるための、後世の創作である可能性が高い。
仕えた主家が次々と滅びていくその経歴から、御宿勘兵衛は「厄神(やくじん)」と周囲から忌避されたという風評が伝わっている 5 。
しかし、この評価はあくまで結果論に過ぎない。勘兵衛の視点に立てば、彼は滅びゆく家に最後まで仕え続けた忠義の士であったとも言える。主家が滅亡した後、有能な武将が新たな仕官先を求めるのは戦国時代の常であり、彼が次々と新たな主君に求められたこと自体が、その武士としての価値の高さを証明している。したがって、「厄神」という不名誉なレッテルは、彼の武勇や人格とは別の次元で、ただ運命に翻弄された武士の悲劇性を象徴する言葉と捉えるべきである。
この風評の裏には、より深い時代の断絶が見て取れる。勘兵衛が体現していたのは、個人の武勇こそが最大の価値を持つという戦国時代的な価値観であった。一方で、豊臣、徳川による天下統一が進むにつれ、求められる武士像は、主家の安泰と存続に貢献する、近世的な組織人へと変化していった。その過渡期において、旧時代の秩序に殉じた勘兵衛のような武士は、新しい価値観の中では「縁起の悪い者」として扱われたのである。彼の流浪の生涯は、個人の力だけでは抗うことのできない巨大な時代の変革の波に、地方の旧勢力が飲み込まれていく悲哀そのものを体現している。
天正18年(1590年)の小田原征伐により後北条氏が滅亡し、再び浪人の身となった御宿勘兵衛に、大きな転機が訪れる。徳川家康の次男であり、結城家の名跡を継いだ結城秀康(ゆうき ひでやす)に、一万石という破格の厚遇で召し抱えられたのである 1 。
この結城秀康という人物は、勘兵衛を理解する上で欠かせない存在である。家康に疎まれ、幼くして豊臣秀吉のもとへ人質(実質的な養子)に出されるなど、不遇な前半生を送った秀康は、武勇に優れ、豪放磊落な気性の持ち主として知られる 19 。江戸中期の軍学者・大道寺友山が著した『落穂集』や『越叟夜話』によれば、秀康は、たとえ主君である徳川家に背いた過去を持つ者であっても、「武士道の乙度(おちど、落ち度)」さえなければ、その過去を一切問わず、有能な人材を積極的に登用したという 4 。勘兵衛のほかにも、武田家の旧臣である依田康勝や天方通綱といった、いわば「訳あり」の武士たちが、秀康の度量を慕って越前福井藩に集っていた。
一説には、勘兵衛は主君である家康からの直接の仕官の誘いをあえて断り、その息子である秀康に仕える道を選んだとも言われている 5 。これが事実であれば、中央の巨大な権力者に安易に靡かず、自らが仕えるべき主君を自らの目で見極めようとする、勘兵衛の気骨や「くせもの」としての一面を強く示す逸話と言えるだろう。
慶長12年(1607年)、勘兵衛にとっての理想の主君であった結城秀康が34歳の若さでこの世を去ると、福井藩の運命、そして勘兵衛の運命にも暗雲が立ち込める。秀康の跡を継いだのは、嫡男の松平忠直(まつだいら ただなお)であった。しかし、当時まだ13歳と若く、加えてその性格は激しい一面を持っていたとされる 20 。
父・秀康という強力な求心力を失った福井藩では、間もなく深刻な内紛が勃発する。筆頭家老の本多富正(ほんだ とみまさ)を中心とする派閥と、秀康の寵臣であった今村掃部(いまむら かもん)を中心とする派閥との間で、藩の主導権をめぐる激しい権力闘争が始まったのである。この「越前騒動(久世騒動とも)」は、藩を二分するほどの規模に発展し、最終的には徳川幕府の介入を招き、今村一派が追放されるという形で一応の決着を見た 6 。
この藩内抗争において、御宿勘兵衛のような、先代・秀康個人の器量によって集められた外様の高禄家臣は、極めて不安定な立場に置かれた。彼を庇護していた秀康という重しがなくなったことで、藩の譜代家臣たちとの間に軋轢が生じたことは想像に難くない。勘兵衛は特定の派閥に属していたか、あるいはどちらからも疎まれる孤立した存在であった可能性も考えられる。彼は秀康の時代の「遺産」であり、忠直が築こうとする新しい体制には馴染まない存在と見なされたのかもしれない。
そして、若き新藩主・忠直との「不和」が決定的なものとなる 1 。その直接的な原因を記した史料はないが、この越前騒動に巻き込まれ、藩内での居場所を失ったことが最大の要因であろう。忠直自身の短気で粗暴な性格が、誇り高い老将である勘兵衛との衝突を避けられないものにした。結果として、勘兵衛は理想の主君によって与えられた一万石の安住の地を、自ら去らねばならなくなった。これは、彼の波乱に満ちた生涯の中でも、最も大きな挫折の一つであったに違いない。この越前での栄光と失望の経験が、彼を大坂の陣という最後の賭けへと向かわせる、大きな動機となったのである。
越前福井藩を出奔し、再び浪々の身となった御宿勘兵衛。彼が次なる死に場所として選んだのは、慶長19年(1614年)に勃発した大坂の陣であった。豊臣秀頼からの招きに応じた勘兵衛は、大坂城に入城し、大野治房(おおの はるふさ)の補佐役を務めたとされる 2 。
彼の参陣は、単なる浪人の再仕官活動ではなかった。豊臣方は、彼を迎えるにあたり「越前一国を与える」という破格の約束をしたと伝わる 1 。これは、彼が不和の末に去った因縁の地であり、彼の武士としての誇りを最大限にくすぐる条件であった。この誘いに応じ、勘兵衛は自ら「越前守」を称した 1 。この報せは、かつての主君・松平忠直のもとにも届いた。忠直は激怒し、勘兵衛の首に五千石もの莫大な賞金を懸けたという 1 。これにより、両者の対立は個人的な確執から、戦場での公的な敵対関係へと昇華した。勘兵衛にとって大坂の陣は、豊臣家への忠誠心や反徳川の思想といった理念のためだけではなく、自らが捨てた「越前」をその手で奪い返し、失われた名誉を回復するための、極めて個人的な復讐劇の側面を帯びていたのである。
そして、その武名は敵方にまで轟いていた。序章で触れた通り、徳川家康は開戦前に大坂方の将士の名簿を見て、「武者らしい」と評した武将として、後藤又兵衛と並び御宿勘兵衛の名を挙げた 3 。これは、彼の武士としての価値を最も雄弁に物語る逸話であり、彼がこの最後の戦いに臨むにあたり、いかに高い評価を受けていたかを示す証左である。
表1:大坂の陣における豊臣方牢人衆の比較
大坂の陣において豊臣方の主力を担ったのは、関ヶ原の戦いなどで主家を失った浪人たちであった。彼らの経歴を比較することで、その中での御宿勘兵衛の特異な立ち位置が浮き彫りになる。
武将名 |
出自 |
浪人になった経緯 |
大坂城での役割・部隊 |
最期 |
関連資料 |
御宿勘兵衛 |
駿河国人・葛山氏一門 |
結城秀康に仕えるも、その子・松平忠直と不和になり出奔。 |
大野治房の補佐。本町橋の夜討ちなどで活躍。 |
天王寺・岡山の戦いで、旧主の家臣・野本右近に討たれる。 |
1 |
真田信繁(幸村) |
甲斐・信濃の戦国大名・真田氏 |
関ヶ原の戦いで西軍に与し、九度山へ配流。 |
真田丸を構築し冬の陣で活躍。夏の陣では家康本陣に突撃。 |
天王寺・岡山の戦いで奮戦の末、討死。 |
27 |
後藤基次(又兵衛) |
播磨国人、黒田家家臣 |
黒田長政との不和により出奔。「奉公構」により仕官できず。 |
牢人衆の旗頭。冬の陣では鴫野・今福で奮戦。 |
夏の陣・道明寺の戦いで突出、孤軍奮闘の末に討死。 |
4 |
毛利勝永 |
豊臣家臣・森氏(後に毛利姓) |
関ヶ原の戦いで西軍に与し改易。土佐山内家預かりとなる。 |
牢人衆の中心格。夏の陣で徳川軍の諸隊を撃破し家康本陣に迫る。 |
豊臣秀頼の介錯後、城内で自刃。 |
31 |
長宗我部盛親 |
土佐の戦国大名・長宗我部氏当主 |
関ヶ原の戦いで西軍に与し改易。京都で寺子屋の師匠をしていた。 |
牢人衆最大の兵力を率いる。夏の陣・八尾の戦いで藤堂高虎隊を撃破。 |
逃亡潜伏中に捕縛され、六条河原で斬首。 |
32 |
明石全登 |
備前国人、宇喜多秀家家臣 |
関ヶ原で西軍の殿を務め敗走。キリシタン信仰のため潜伏。 |
キリシタン牢人を率いる。夏の陣・天王寺口で奮戦後、戦場を離脱。 |
消息不明。討死説、海外逃亡説など諸説あり。 |
28 |
この表から明らかなように、他の主要な牢人衆が関ヶ原の戦いで西軍に与した結果として浪人となったのに対し、勘兵衛は一度徳川一門の家臣として安住の地を得ながら、個人的・政治的な確執によってそこを離反している。この一点において、彼の参陣動機が他の牢人衆とは異なる、より複雑で個人的なものであったことが強く示唆される。
大坂冬の陣において、御宿勘兵衛はその武名を遺憾なく発揮する。特に知られているのが、塙直之(ばんなおゆき)、長岡是季(ながおかこれすえ、米田是季とも)らと共に行った本町橋の夜討ちである 1 。
この夜襲は、徳川方の蜂須賀家政・至鎮父子の陣を狙ったもので、大坂方は少数ながらも奇襲を成功させ、敵将・中村重勝を討ち取るなどの戦果を挙げた。この戦いで功名を立てた者は「夜討二十三士」として賞賛されたが、そのリストに勘兵衛自身の名は見られない 33 。しかし、彼の配下である嶋田五左衛門、津田半三郎、都築茂左衛門の三名が名を連ねていることは重要である 33 。さらに、史料によれば勘兵衛は夜襲部隊の指揮官の一人として作戦の立案と実行に深く関与しており、彼の率いる部隊が精鋭であり、彼自身が有能な指揮官であったことを示している 33 。
また、一説には、冬の陣で最も激しい攻防が繰り広げられた真田信繁の出城「真田丸」に、加勢として籠城したとも伝えられているが、その具体的な活躍を記した記録は乏しい 4 。いずれにせよ、勘兵衛が冬の陣において、大坂方の主要な武将の一人として重要な役割を担っていたことは間違いない。
大坂夏の陣、その最終決戦である天王寺・岡山の戦いを目前にしたとき、御宿勘兵衛の武士としての美学が最も鮮烈な形で発揮される逸話が生まれる。福井藩の逸話を収録した『国事叢記』によれば、自らの死を予期した勘兵衛は、驚くべき行動に出た 2 。
彼は、敵陣にいる旧知の仲であり、かつての主君・松平忠直の家臣である野本右近(のもと うこん)のもとへ使者を送った。その伝言の内容は、前代未聞のものであった。「自分は不肖ながら大坂方の大将として出陣するが、乗るべき馬に不自由している。ついては、旧主・忠直様が秘蔵されている名馬“荒波”を、この最後の戦のために拝領したい」 3 。これは、敵将に対する、あまりにも大胆不敵な願いであった。
報告を受けた忠直は、「この物言いをどうしてくれようか」と激怒した。当然の反応である。しかし、使者との仲介役を務めた野本右近が取りなした結果、忠直は最終的にその願いを聞き入れ、名馬「荒波」を勘兵衛のもとへ遣わした 3 。
この逸話は、勘兵衛という人物の多層的な性格を見事に描き出している。そこには、旧主に対する最後の意地と皮肉が込められていると同時に、自らの死に場所を最高の形で飾ろうとする、武士としての純粋な美学が感じられる。また、敵味方に分かれてもなお通じ合う、武士同士の旧知の絆の存在も示唆されている。そして何より、忠直が激怒しながらも、最終的には勘兵衛の器量を認めざるを得ず、その最後の願いを叶えたという複雑な心境が、この逸話を一層味わい深いものにしている。
慶長20年(1615年)5月7日、決戦の日。御宿勘兵衛は、旧主から贈られた名馬「荒波」にまたがり、天王寺口の小橋村(現在の大阪市天王寺区小橋町付近)に布陣し、最後の奮戦を繰り広げた 1 。
激しい戦闘の末、彼の最期はあまりにも劇的な形で訪れる。彼を討ち取ったのは、奇しくも名馬「荒波」を届ける仲介役となり、越前時代からの旧知であった、松平忠直家臣・野本右近その人であった 1 。因縁は巡り、勘兵衛はかつての同僚の手によって、その波乱の生涯に幕を下ろしたのである。
後藤又兵衛や長宗我部盛親のように、その死後に墓所が各地に建立されたり、生存伝説が語り継がれたりすることもなく、勘兵衛の痕跡は戦場の塵と共に消えた 30 。これは、彼の最期が比較的明確に記録されており、また彼の死後にその跡を弔うべき一族や家臣団が存在しなかったことを示唆しているのかもしれない。
御宿勘兵衛とは、いかなる人物であったのか。断片的な史料と逸話から、その肖像を再構築する。
まず、彼の核を成すのは、家康に「武者らしい」と言わしめた、その卓越した武勇である。槍術に長けていたとされ、一対一の勝負で相手の槍を巧みに捌き、兜の緒を切り落として兜を地に落としたという、その技量の高さを示す逸話も残る 26 。この武勇こそが、彼の最大のアイデンティティであり、流浪の生涯を支えた唯一無二の資本であった。
また、彼の出自の古さを示す可能性のある伝承も存在する。徳川家康の愛刀として知られ、現在、久能山東照宮に重要文化財として伝わる名刀「妙純傳持ソハヤノツルキウツスナリ」は、元は御宿氏に伝来した刀であったとする説である 4 。これが事実であれば、御宿氏が単なる新興の武士ではなく、古くからの由緒を持つ家であったことの間接的な証拠となり得る。
これらの要素を総合すると、一人の「くせもの」の姿が浮かび上がってくる 5 。彼は誇り高く、気難しい一面を持っていたであろう。主家を転々とし、仕える家が次々と滅びる「厄神」と揶揄されながらも、その武勇一つで一万石の大名家臣にまで上り詰めた。しかし、組織の論理や主君との人間関係に悩み、理想の主を失うと、再び安住の地を捨てて浪人となる。そして最後は、自らの死に様さえも壮大な物語として演出しようとする、強烈な自意識と美学を持った武将であった。
御宿勘兵衛の生涯は、個人の武勇が絶対的な価値を持った「戦国」という旧時代の価値観を体現した武士が、徳川による新たな秩序、すなわち「近世」という身分制社会へと移行する時代の大きなうねりの中で、自らの生きる場所を求めて流転し、最後は戦場で華々しく散っていった物語である。
彼は、歴史の「勝者」の記録には、その名を大きく刻むことはできなかった。しかし、その生き様は、時代の転換期に翻弄され、歴史の表舞台から姿を消していった数多の武士たちの思いを代弁しているかのようである。敵将・徳川家康から贈られた「武者らしい」という評価は、彼がその生涯を通じて最後まで失わなかった、武士としての本質を最も的確に捉えた言葉であったと言えよう。
史料の断片性は、彼の生涯に多くの謎を残した。だが、その謎こそが後世の創作者たちの想像力を刺激し、小説やゲームの世界で、彼は魅力的なキャラクターとして再発見され続けている。御宿勘兵衛は、歴史の記録の狭間で忘れ去られることなく、物語の中で生き続ける「武者」の記憶そのものなのである。