天正14年(1586年)、九州の情勢は、薩摩の島津氏がその覇権をほぼ手中に収め、長年の名門であった豊後の大友氏は滅亡の淵に立たされていた。主家を見限り、強大な島津に寝返る者が続出する絶望的な状況下で、一人の若き武将が歴史の表舞台に躍り出る。豊後岡城主、志賀親次。彼は、圧倒的な大軍を前にしても一歩も引かず、孤城に籠もり徹底抗戦の意志を固めた 1 。
その戦いぶりは、敵将である島津義弘をして「天正の楠木正成」と称賛せしめるほど見事なものであった 3 。この評価は、南北朝時代の忠臣・楠木正成になぞらえられたものであり、親次の武勇と忠節を端的に象徴している。しかし、彼の生涯は単なる武勇伝に集約されるものではない。
本報告書は、志賀親次という人物を、その類稀なる武功のみならず、彼を形成した複雑な出自、行動原理の根幹をなした篤いキリスト教信仰、そして主家や家族との間で揺れ動いた「忠義」の本質という三つの軸から多角的に分析し、その知られざる実像を徹底的に解明することを目的とする。裏切りが日常であった戦国の世にあって、彼が何を信じ、何のために戦ったのか。その軌跡を追うことで、一人の孤高の名将の姿を浮き彫りにする。
志賀親次の行動原理を理解するためには、まず彼が属した志賀一族の出自と、大友家におけるその特異な立場を把握することが不可欠である。彼の忠義と決断は、この血脈と家格という土壌の上に成り立っていた。
志賀氏は、鎌倉時代に豊後へ下向した大友氏初代当主・大友能直の子孫を祖とする、大友一門の中でも屈指の名門であった 1 。田原氏、託摩氏などと並び称される有力な庶家(支流)であり、その立場は単なる一国人領主を遥かに超えるものであった。
その証左に、志賀氏は代々、大友宗家の政権中枢において「加判衆」(かはんしゅう)と呼ばれる最高意思決定機関の構成員を務めていた 8 。加判衆は、現代で言えば家老職に相当し、大友家の重要政務に連署する権限を持つ宿老・年寄衆である。さらに、志賀氏は大友館で正月元旦に行われる「御椀飯」(おわんめし)という重要な儀礼を担当する家柄でもあり、政治・軍事のみならず、儀礼的な側面においても大友宗家と不可分な関係を築いていた 10 。この事実は、志賀氏が大友家臣団の中で特別な地位を占めていたことを物語っている。
親次の生涯を語る上で、その複雑な家族関係は避けて通れない。各種系図や『志賀文書』などの史料を分析すると、彼の血縁は単純な親子関係ではなかったことが判明する 11 。親次の祖父は、加判衆も務めた志賀親守(入道して道輝)であり、実父はその長男である志賀親度(ちかのり、親孝とも)であった。しかし、親次は実父・親度の養子という形で家督を継承している 11 。
この異例の家督相続は、天正12年(1584年)9月、父・親度が主君である大友義統(よしむね)と不和になり失脚したことに起因する 11 。主君の勘気を蒙った父に代わり、親次はわずか19歳(一説には18歳)で志賀家の当主となることを命じられた。若くして名門の重責を担うことになったこの経験は、彼の自立心と責任感を涵養する上で大きな影響を与えたと考えられる。
さらに重要なのは、彼の母が大友宗麟の正室であった奈多氏の、前夫との間にもうけた連れ子であったという事実である 14 。これにより、親次は大友宗麟の「義理の孫」という極めて近い姻戚関係にあった。宗麟はこの義理の孫を実の嫡男・義統以上に可愛がり、一時は家督を継がせようと考えたほどであったと伝えられる 15 。この宗麟との強い絆は、後の親次の信仰と忠義の在り方を決定づける重要な要素となる。
表1:志賀親次をめぐる主要人物関係図
人物名 |
親次との関係 |
備考 |
大友宗麟 |
義理の祖父 |
キリシタン大名。親次を寵愛した。 |
大友義統 |
主君 |
宗麟の嫡男。後に親次と確執が生じる。 |
志賀親守(道輝) |
祖父 |
大友家加判衆。後に島津方に通じる。 |
志賀親度(親孝) |
実父・養父 |
義統と不和になり失脚。島津方に降る。 |
志賀親次 |
本人 |
岡城主。洗礼名ドン・パウロ。 |
田北鎮周の娘 |
妻 |
12 |
戸次鎮連 |
義兄 |
姉妹の夫。大友家重臣。 |
吉弘統幸 |
義兄 |
姉妹の夫。大友家重臣。 |
志賀親次の岡城籠城戦における行動は、一見すると主家への純粋な忠義の発露と捉えられる。しかし、その背景を深く探ると、彼の「忠義」が単純なものではなかったことが浮かび上がる。それは、島津に与した実父・親度への「反逆」という側面を内包した、苦渋に満ちた選択であった。
豊薩合戦が勃発すると、祖父・親守と実父・親度は、主家大友氏の劣勢を見て島津方へ内通、あるいは降伏した 1 。封建社会の規範において、家父長たる父への服従は絶対的な徳目であった。しかし、親次はこの規範から逸脱し、父祖に弓を引くことを選択する。この重大な決断を可能にした要因は、二つ考えられる。
第一に、大友宗麟の義理の孫という血縁的、そして精神的な繋がりである。宗麟からの深い寵愛は、親次にとって実の父祖との関係性以上に重い意味を持っていた可能性がある 15 。第二に、次章で詳述するキリスト教信仰である。島津氏がキリスト教を厳しく禁じる政策を掲げていたのに対し、親次は熱心なキリシタンであった 18 。彼の信仰は、父祖への忠義よりも優先されるべき、より高次の行動原理となった。
したがって、親次の岡城籠城は、単なる軍事行動や主君への忠誠心の発露に留まらない。それは、大友宗家への恩義、自身の信仰、そして直系の家族への忠義という、複数の倫理が複雑に絡み合い、衝突した末に下された、極めて個人的かつ思想的な決断だったのである。
志賀親次の人格形成と、その後の苛烈な戦いを支えた精神的支柱を理解する上で、キリスト教信仰は決定的な要素である。彼の武勇は、この信仰と分かちがたく結びついていた。
親次は10代前半の頃からキリスト教に強い関心を抱いていた。そのきっかけは、侍女イザベルの影響であったとされる 15 。キリスト教を嫌う家族、特に祖父・親守の猛烈な反対を押し切り、彼は臼杵の教会へ赴き、ゴメス神父から洗礼を受けた。この時授かった洗礼名が「ドン・パウロ」である 11 。
彼の信仰は、形式的なものではなく、極めて情熱的かつ徹底したものであった。その激しさは、イエズス会宣教師ルイス・フロイスの『日本史』にも記録されている。親次は自らの腕に十字架の刺青を彫り、信仰の証とした 15 。さらに、居城である岡城の全ての瓦に十字の紋様を入れるという徹底ぶりであった 15 。また、偶像崇拝を忌み嫌う教えに忠実に、領内にあった神社仏閣をことごとく破壊し、そこにあった仏像や石像を城下の深い谷底へ投棄したという 15 。この過激とも言える行動は、彼の純粋で妥協を許さない性格と、信仰への献身を物語っている。
家族からの棄教の圧力は凄まじく、祖父からは廃嫡されそうになるほどであったが、親次の決意は揺らがなかった。彼は「たとえ家督を返上することになろうとも、キリスト教の信仰を捨てることはない」と公言し、妻と共に信仰を守り抜いた 15 。
親次の信仰は、個人の内面だけに留まらなかった。彼は領主として、その影響力を最大限に活用し、領内での布教活動を積極的に推進した。レイマン神父を岡城下に招聘し、キリスト教の教えを広めた結果、その勢いは驚異的なものとなった 15 。
宣教師の書簡によれば、1585年には岡の領内で6,000人から8,000人が洗礼を受け、さらに30,000人が洗礼を待っている状態であった。翌年には新たに15,000人が受洗し、岡藩は当時の豊後において最大のキリシタン信者数を擁する地域となった 15 。当時の岡藩の人口を約4万5千人と仮定すると、領民の大多数がキリシタンになることを望んでいたことになり、彼の領主としての求心力と信仰の伝播力の大きさがうかがえる。
親次にとってキリスト教とは、単に来世の救済を約束する宗教ではなかった。それは、裏切りと混沌が渦巻く現世の絶望的な状況を戦い抜くための精神的な支柱、いわば「信仰という名の鎧」であった。
彼が家督を継いだのは、父が失脚し、主家である大友家が衰退の一途をたどる混乱の最中であった 11 。周囲の有力な国人領主は次々と主家を裏切り、ついには自らの父祖さえもが敵方に通じるという、まさに四面楚歌の状況に彼は置かれた 1 。このような極限状態では、従来の封建的な価値観、すなわち家や主君への盲目的な忠誠心は拠り所となり得ない。
その時、彼の前に現れたのが、現世の利害や複雑な人間関係を超越した、絶対神への信仰という新たな価値観であった。この信仰は、裏切りが横行する乱世において、彼の行動に揺るぎない正当性と、死をも恐れぬ強い意志を与えた。島津との戦いにおける彼の頑ななまでの抵抗は、大友家への忠義心に加え、神の教えを守り、信仰を共有する領民を異教の弾圧から守るという「聖戦」の側面を帯びていたのである。彼の比類なき武勇は、この強固な信仰心によって内面から支えられていたと結論付けられる。
天正14年(1586年)、九州統一を目指す島津軍の侵攻は、大友氏の命運を賭けた「豊薩合戦」へと発展した。この戦いにおいて、志賀親次と岡城は、後に語り継がれる不落の伝説を打ち立てることになる。
島津義久は軍を二手に分け、弟の島津義弘が率いる部隊が肥後方面から、同じく弟の家久が率いる部隊が日向方面から豊後へ侵攻した 1 。義弘の軍勢は、猛将・新納忠元らを擁し、その数3万5千(一説に2万から3万7千)とも言われる大軍であった 11 。
これに対し、大友方は総崩れの状態であった。親次の父・親度をはじめとする豊後南部の国人領主「南郡衆」が次々と島津に寝返り、侵攻軍の道案内役を務める有様だった 1 。完全に孤立した親次が岡城で動員できた兵力は、わずか1,500名ほどに過ぎなかった 11 。兵力差は20倍以上。常識的に考えれば、岡城の落城は時間の問題であった。
しかし、志賀親次は単なる勇将ではなかった。彼は卓越した知略と戦術眼を持つ指揮官であり、圧倒的な兵力差を覆すための非対称戦争を展開した。
まず、彼は岡城の地形を最大限に活用した。『豊薩軍記』に「四方ことごとく岩壁峨々として峙ち、苔深く岩滑にして手足を措く所に無し」と記されるように、岡城は稲葉川と白滝川に挟まれた断崖絶壁の上に築かれた天然の要害であった 18 。親次はこの難攻不落の地形を熟知し、防御戦を有利に進めた。
さらに、彼は籠城に留まらず、奇計やゲリラ戦を積極的に仕掛けた。支城である笹原目城では、城代の阿南惟秀が島津軍に偽りの降伏をし、巧みに敵将を信用させた上で内部から岡城本隊と呼応し、油断した島津軍を撃退した 21 。また、駄原城では、一度城を放棄して敵を誘い込み、伏兵をもってこれを殲滅するという見事な誘引作戦を成功させている 21 。これらの戦術には、籠城戦や野戦において鉄砲隊が効果的に運用されており、彼が当時の最新兵器を巧みに使いこなす、近代的な戦術家であったことがうかがえる 1 。
岡城を攻めあぐねた島津方は、業を煮やし、親次を城から誘い出す策に出る。島津歳久(義弘の弟)は、「若いが名の知れた勇者と聞くが、城に籠もる臆病者ではないか」という挑発的な書状を送りつけた 1 。
親次は、この挑発に乗るふりをして、逆に敵の策を逆手に取った。彼は「決戦は望むところ。明日、鬼ヶ城と呼ばれる高台で勝敗を決しよう」と返答し、島津軍を巧みに指定の場所へとおびき寄せた 1 。鬼ヶ城は岡城の支城であり、三方を川に囲まれた堅固な地形であった。親次は、この地の利を活かし、斜面の茂みに兵を潜ませて完璧な伏兵陣を敷いた。
何も知らずに攻め寄せた数千の島津軍に対し、待ち構えていた志賀勢の鉄砲が一斉に火を噴き、奇襲攻撃を敢行した。不意を突かれた島津軍は大混乱に陥り、散々に打ち破られた。この「鬼ヶ城の決戦」における志賀軍の損害はわずか20名程度であったのに対し、島津軍は数百の死傷者を出したと伝えられる 4 。この決定的な勝利により、島津軍はついに岡城の攻略を断念せざるを得なくなったのである 2 。
志賀親次の籠城戦術は、ほぼ同時期に筑前で行われた高橋紹運の岩屋城籠城戦と比較することで、その戦略思想の独自性がより鮮明になる。両者ともに絶望的な状況で大友家への忠義を貫いた名将であるが、その戦い方は対照的であった。
高橋紹運の岩屋城の戦いは、豊臣の援軍が到着するまでの時間を稼ぐことを至上命題とした、全滅覚悟の壮絶な玉砕戦であった 25 。紹運は、自らの部隊が「捨て石」となることで、息子の立花宗茂が守る立花山城など、後方の拠点を守るという大局的な戦略的自決を選んだ。彼の目的は「華々しく散る」ことであり、それによって武士としての名誉を後世に残し、味方のための時間を稼ぐことにあった。
一方、志賀親次の岡城の戦いは、玉砕を全く前提としていない。偽計、ゲリラ戦、伏兵を駆使し、自軍の損害を最小限に抑えながら、敵に最大限の打撃を与え、撃退することを目指した 2 。これは、両者の置かれた戦略的役割の違いに起因する。紹運が筑前防衛線の「盾」としての役割を覚悟していたのに対し、親次は豊後南部における最後の抵抗拠点であり、彼には「生き残って抵抗を続ける」という使命があった。
したがって、親次の戦術は、単なる受け身の防衛戦ではなく、敵の戦意を削ぎ、戦線を膠着させ、最終的に勝利を掴むことを目的とした、極めて能動的かつ現実的な「サバイバル戦略」であったと言える。この点が、彼の戦術家としての先進性と、紹運とは異なる種類の凄みを示している。
岡城での輝かしい勝利は、志賀親次に最高の栄誉をもたらした。しかし、その栄光は皮肉にも主家との間に深い溝を生み、やがて大友家そのものの終焉へと繋がっていく。
豊臣秀吉率いる本隊が九州に迫っているという報は、豊後国内の戦況を一変させた。この好機を逃さず、親次は守勢から攻勢へと転じた。天正15年(1587年)2月、志賀軍は島津方が占拠していた小牧城を攻略し、さらに鬼ヶ城を奪回するなど、失地回復に目覚ましい活躍を見せた 29 。
豊臣軍が豊後に上陸すると、島津軍は撤退。大友家は滅亡を免れた。この一連の戦いにおける親次の奮戦は、天下人・豊臣秀吉の耳にも達していた。秀吉は親次の功績を高く評価し、再三にわたり感状を送ってその忠節と武勇を称えた 29 。後に親次が主君・大友義統の嫡男に従って大坂城を訪れた際には、秀吉は義統の筆頭家老よりも上座に親次を座らせるという破格の待遇で迎え、その功を激賞したと伝えられる 2 。さらに、秀吉は親次に大友家を介さず、直接、日田郡大井庄に1,000石の所領を与えた 29 。これは、親次がもはや単なる大友家臣ではなく、豊臣政権から直接評価される独立した武将として認められたことを意味していた。
しかし、この輝かしい武功と秀吉からの寵愛は、主君である大友義統の猜疑心と嫉妬を掻き立てる結果となった 11 。家臣が主君を飛び越えて中央の権力者から直接評価されることは、大名としての義統の権威を著しく傷つけるものであった。
両者の溝は、宗教問題によってさらに深まった。父・宗麟の死後、義統はキリスト教に対し弾圧的な姿勢を強めていく 31 。一方、親次は棄教を断固として拒否し、豊後におけるキリシタンの事実上の保護者となっていた。義統は、親次が大坂に滞在している留守を狙って、領内の宣教師たちを追放するという挙に出るなど、両者の対立は抜き差しならないものとなっていった 11 。
主従間の不協和音は、最悪の形で大友家の運命を決定づける。文禄2年(1593年)、文禄の役(朝鮮出兵)において、大友義統は明軍の猛攻に晒された小西行長隊からの救援要請を無視し、独断で戦線を離脱するという致命的な失態を犯した 3 。この敵前逃亡と見なされた行為は秀吉の逆鱗に触れ、豊後400年の名門・大友氏は改易、所領を全て没収されるという結末を迎えた 32 。
この時、親次もまた義統の軍に加わっていた。記録によれば、彼は誤報を信じ、義統に撤退を進言してしまったとされている 11 。主家を滅亡の危機から救った英雄が、最終的には主家の終焉に直接関与してしまうという、あまりにも皮肉な悲劇であった。
志賀親次と大友義統の対立、そして大友家の改易という結末は、地方の旧来的な主従関係が、豊臣秀吉という強大な中央集権的権力との接触によって変質し、崩壊していく過程の典型例である。
秀吉の九州平定以前、大友家臣団の序列は、大友家という閉じた世界の中での家格や血縁によって定められていた。しかし、秀吉という絶対的な中央権力は、その序列を根底から揺るがした。秀吉は、旧来の家格ではなく、自らへの「功績」という新たな評価軸で武将を判断し、恩賞を直接与えた 29 。
これにより、家臣であるはずの親次が、主君・義統を介さず中央権力と直接結びつくという、伝統的な主従関係における「序列の逆転」が生じた。義統にとって、これは自らの存在意義と権威の失墜を意味し、到底容認できるものではなかった。彼の親次への嫉妬は、単なる個人的な感情に留まらず、失われゆく大名としての権威を守るための必死の防衛反応でもあった。
この主従間の深刻な機能不全が、朝鮮出兵という極限状況下で破綻をきたし、大友家改易という最終的な結末を招いたのである。親次の英雄的な行為が、結果として主家の結束を内部から蝕み、その崩壊の一因となったという事実は、戦国末期の権力構造の激変がもたらした、一つの悲劇的な物語と言えるだろう。
主家・大友氏の滅亡後も、志賀親次の人生は長く続いた。彼は乱世を生き抜いた武将として、また一人のキリシタンとして、その信念を貫き通し、万治3年(1660年)、95歳という当時としては驚異的な長寿を全うした。
大友家改易によって所領を失い浪人となった親次であったが、その武名は全国に轟いていた。彼はその名声を頼りに、蜂須賀家政、福島正則、小早川秀秋といった有力大名に客将として仕えた 11 。小早川家改易後は、毛利輝元に仕えたとも、肥後の細川氏に召し抱えられたとも伝えられている 11 。
特筆すべきは、慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦における彼の動向である。この時、西軍に与した旧主・大友義統は、毛利輝元の支援を受けて豊後で再起を図るべく挙兵した(石垣原の戦い)。親次はこの義統の戦いを支援したとされ、主君との間に深刻な確執がありながらも、大友家への最後の忠義を果たそうとした彼の複雑な心境がうかがえる 11 。
親次の生涯を貫いたもう一つの柱は、キリスト教信仰であった。その信念の篤さを示す象徴的な逸話が、豊薩合戦中の天草五人衆の救出劇である。豊後国内の城に籠城していた島津方の天草五人衆は、豊臣軍の反攻により孤立無援の窮地に陥っていた。この時、寄せ手の将であった親次は、籠城する敵将の中にキリシタンである天草久種(ドン・ジョアン)がいることを知る。親次は「同じキリシタンの誼」として、久種をはじめとする五人衆全員を助命した 34 。
この行為は、敵味方という戦国の論理を超えた、信仰に基づくものであった。そして、親次のこの慈悲深い行動に感銘を受けた天草の領主たちは、帰国後に続々とキリスト教に入信し、天草地方におけるキリスト教布教に大きな影響を与えたという 34 。
親次は万治3年(1660年)に95歳でその長い生涯を閉じた 12 。その墓は現在、山口県宇部市小野地区に現存している。また、一部の子孫は九州に戻り、熊本藩細川家に仕官して藩士として明治維新まで家名を伝えたとされる 11 。
志賀親次の後半生は、主家を失った後も「武士」としての矜持を保ち続ける一方で、その行動原理の根底には常に「キリシタン」としてのアイデンティティが存在したことを示している。天草五人衆の救出劇は、彼の内面で「武士の情け」と「キリスト教の博愛」という二つの倫理観が分かちがたく結びついていたことを象徴する出来事である。
戦国武将が敵将を助命する場合、その武勇への敬意や将来的な政治的打算が動機となることが多い。しかし、親次が天草五人衆を救った最大の理由は、フロイスの記録によれば「同じキリシタンの誼」であった 34 。これは、彼の行動が封建的な敵味方の論理を超え、信仰共同体への帰属意識に基づいていたことを明確に示している。
この逸話は、彼のアイデンティティが、もはや「大友家臣・志賀親次」という特定の枠組みだけでは定義できず、「キリシタン武将ドン・パウロ」という、より普遍的なものへと昇華していたことを示唆している。主家滅亡後も諸大名から求められ、仕官の道が拓けていたのは、彼の戦術家としての武名だけでなく、このような信義に厚い人物であるという評価が、宗派を超えて認められていたからかもしれない。彼の生涯は、戦国時代における二つの異なる倫理体系(武士道とキリスト教)が、一人の傑出した人間の中でいかにして共存し、統合され得たかを示す、極めて貴重な事例と言えよう。
志賀親次の生涯を俯瞰する時、我々は一人の武将の中に、類稀なる武勇、篤い信仰心、そして複雑な忠義の念が絡み合い、類例を見ない人物像を形成している様を目の当たりにする。
彼の名は、同じ大友家の名将として知られる立花宗茂や高橋紹運ほどには、今日広く知られていないかもしれない。紹運は岩屋城で壮絶な玉砕を遂げて武名を不滅のものとし、宗茂は主家改易後もその武才によって独立大名として復活を遂げた。対照的に、親次は最後まで一介の武将としての道を歩んだ。その知名度の差は、最終的な立身出世の差に起因するものであり、決して武将としての能力や人物の魅力において劣るものではなかった。
親次は、父祖を含む味方の裏切り、主君の嫉妬と没落という、幾重もの逆境の中で、自らが信じる道、すなわち主家への忠義と神への信仰を貫き通した。彼は、圧倒的な物量差を覆す知略と、最新兵器を駆使する先進性を兼ね備えた戦術家であった。同時に、敵対する者であっても同じ信仰を持つ者には慈悲をかける、信義に厚いキリシタンでもあった。
「天正の楠木」と敵将から称えられたこの男は、まさに「知られざる名将」の名にふさわしい。彼の生涯は、戦国という激動の時代の終焉期において、一個人がいかにして自らの尊厳を保ち、信念に基づいて生き抜いたかを示す力強い物語として、現代に生きる我々にも多くの示唆を与え続けている。