現代において、戦国武将・成田長親の名は、和田竜氏の小説『のぼうの城』とその映画化作品によって広く知られている。作品の中で彼は、領民から「でくのぼう」を略して「のぼう様」と呼ばれ親しまれる、一風変わった人物として描かれる 1 。武勇や智謀に長けているわけではないが、不思議な人望に恵まれ、豊臣秀吉の大軍を相手に奇跡的な籠城戦を成功させた英雄として、その姿は多くの人々の記憶に刻まれている 4 。
しかし、この広く浸透した「のぼう様」のイメージは、果たして歴史上の成田長親の実像を正確に伝えているのだろうか。小説や映画がフィクションの要素を含むことは自明であるが 2 、その魅力的な物語の陰で、史実の人物像はどのように覆い隠されてしまったのか。本報告書は、この問いに答えることを目的とする。
本報告の使命は、同時代の史料や後世の記録を丹念に分析し、歴史上の人物としての成田長親の生涯を再構築することにある。彼の生きた16世紀の関東地方の複雑な政治情勢の中に彼を位置づけ、その出自から忍城籠城戦での役割、そしてその後の流転の半生と子孫の行末までを徹底的に追跡する。これにより、虚像としての一面的な英雄譚から脱却し、一人の戦国武将の多角的で深みのある実像を提示し、その歴史的評価を再検討することを目指す。
成田長親という人物を理解するためには、まず彼が属した成田一族の歴史的背景と、戦国時代におけるその立ち位置を把握することが不可欠である。関東の有力な国衆(在地領主)であった成田氏は、二大勢力の狭間で常に存亡を賭けた選択を迫られていた。
成田氏は、公式には藤原北家の流れを汲み、藤原師輔を祖とすると称していた 9 。その名は『保元物語』や『吾妻鏡』といった初期の軍記物語にも見え、古くから武蔵国を本拠とする武士団であったことが確認できる 11 。鎌倉時代には御家人として幕府に仕え、その地位を確立していた。
しかし、戦国期に忍城を拠点とした成田氏が、この鎌倉時代以来の成田氏の直系であったかについては、学術的な疑義が呈されている。有力な説として、彼らは武蔵七党の一つである丹党の安保氏(あぼし)の庶流であったとするものがある 11 。この説によれば、鎌倉幕府の滅亡と共に本来の成田氏が没落した後、姻戚関係にあった安保氏の一族がその名跡と所領を継承し、戦国期の成田氏として台頭したとされる 11 。
この系譜の曖昧さは、戦国時代における社会的・政治的流動性の象徴とも言える。出自の権威付けのために名門の系譜を称することは、当時の武家社会では常套手段であった。安保氏出自説は、古代からの名門というよりは、実力で台頭し、機を見て旧家の名跡を継承した、より現実的でたくましい戦国武士の姿を浮かび上がらせる。この出自の背景は、成田氏が戦国時代を通じて見せる、現実主義的でしぶとい生存戦略の根源を理解する上で重要な示唆を与える。
16世紀の関東地方は、古河公方や関東管領上杉氏の権威が衰退し、相模国小田原を拠点とする新興勢力・後北条氏が急速に台頭する、まさに動乱の時代であった 13 。成田氏のような国衆は、上杉と北条という二大勢力の狭間で、どちらに与することが自家の存続に繋がるか、常に厳しい選択を迫られていた 15 。
当初、成田氏は関東管領である山内上杉氏に仕えていたが、天文15年(1546年)の河越合戦で上杉方が北条氏康に大敗を喫すると、関東の勢力図は一変する。これを機に、成田氏は北条方へと帰属を転換した 13 。
成田氏の立ち位置を決定づけたのが、永禄4年(1561年)の「下馬事件」である。越後から関東に出兵した上杉謙信(当時は政虎)が小田原城を包囲した際、成田氏当主の成田長泰(氏長の父、長親の伯父)は謙信に従っていた。しかし、鎌倉の鶴岡八幡宮に参詣する謙信の前で、長泰が古来の慣例に従い下馬しなかったことに謙信が激怒。衆目の前で扇をもって長泰の烏帽子を叩き落とすという屈辱を与えた 19 。この一件により、長泰は謙信を見限り、完全に後北条氏の傘下へと入ることになる 20 。
この帰属先の変更は、単なる感情的な離反ではなく、国衆としての合理的な生存戦略であった。謙信が要求する絶対的な権威への服従に対し、長泰は関東武士としての誇りと家の名誉を主張した。しかし、それ以上に、地理的に近く、より安定した支配を築きつつあった後北条氏を新たな主君として選ぶという、冷静な政治的計算が働いていたと考えられる。この一件は、名誉を重んじつつも、実利を優先して生き残りを図る関東国衆のしたたかな気質を如実に物語っている。
多くの戦国大名家がそうであったように、成田氏もまた内部の権力闘争と無縁ではなかった。永禄9年(1566年)、当主・長泰は実子である成田氏長によって城から追放され、隠居を余儀なくされるという下克上が発生する 21 。このクーデターは、手島高吉といった有力家臣の支持を得て実行されたものであり、一族内の権力基盤が決して盤石ではなかったことを示している 19 。
当主が実子に追放されるというこの事件は、成田家中に派閥争いや不信感が根付いていたことを示唆する。一族内での権力奪取が前例として存在したという事実は、後の世代、すなわち氏長と長親の関係を理解する上で重要な伏線となる。後に長親が氏長のもとを去る原因となる「讒言事件」も、こうした一族の内紛の歴史という文脈の中に位置づけることで、その根深さがより明確になる。彼らの確執の種は、この世代間対立の時点ですでに蒔かれていたのである。
小説で描かれた「のぼう様」のイメージが先行する成田長親だが、籠城戦以前の彼の姿は、史料から全く異なる実像を浮かび上がらせる。
成田長親の生没年には諸説あり、主に天文15年(1546年)生、慶長17年(1612年)没 22 、あるいは天文14年(1545年)生、慶長18年(1613年)1月24日没 4 とされる。いずれにせよ、享年は67歳か68歳であった 4 。
彼は成田長泰の弟である成田泰季(やすすえ)の嫡男であり、当時の成田家当主・氏長の従兄弟にあたる 9 。妻は後北条氏の家臣である遠山藤九郎の娘を迎えている 8 。子には長季(ながとし)、泰家、元由といった男子がいたことが記録されている 23 。
成田長親の人物像をめぐる議論において、最も決定的な史料が『成田御家臣分限帳』である。天正6年(1578年)および天正10年(1582年)に作成されたこの家臣団の知行(給与)リストには、「成田大蔵」あるいは「成田大内蔵長倫」という名で長親が登場する 8 。
これらの文書によれば、彼の知行高は「永三百貫文」であった 8 。この額は、成田家の家臣団の中でも最高位に位置する「家門侍」(一門衆)に属することを示しており、一族の中でも特に有力な人物であったことを物語っている 8 。戦国時代において、知行高は家臣の地位、権力、そして負うべき責任の大きさを直接的に示す指標であった。三百貫文という高額な知行は、長親が単なる当主の親族というだけでなく、相応の兵力を動員し、軍事的・行政的に重要な役割を担っていた有力な武将であったことを証明している。
この史実こそが、小説で描かれた「のぼう様」という人物像が創作であることを明確に示している。小説家の和田竜氏自身が、物語上の都合から、農民が自発的に仕えたくなるような城主像として「のぼう様」を創造したと語っているように 8 、史実の長親は愚鈍などではなく、武家社会のエリートとして一族の重責を担う、有能な人物だったのである。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐は、成田長親の運命を大きく変える歴史的転換点となった。この忍城籠城戦こそが、彼の名を後世に伝える最大の功績である。
天下統一の総仕上げとして、秀吉が20万を超える大軍で関東に侵攻すると、後北条氏の支配下にあった諸城は次々とその標的となった。成田氏も後北条方の配下として、当主の氏長は主力の家臣団を率いて本城である小田原城の防衛に赴いた 21 。
主不在となった忍城の守りは、城代として長親の父である宿老・成田泰季に託された。しかし、豊臣方の大軍が目前に迫る中、泰季は開戦直前に病に倒れ、急死してしまう 4 。父の「我が死んだらお前が本丸に入って指揮をとれ」という遺言を受け、従兄弟である長親が急遽、籠城軍の総大将としての重責を担うことになった 6 。城内の兵力は武士わずか数百名、城下に避難してきた農民や町人らを合わせても三千人程度であり、圧倒的な兵力差の中での絶望的な戦いの始まりであった 31 。
忍城攻めの総大将を命じられたのは、秀吉の腹心・石田三成であった。三成が考案したとされる「水攻め」は、彼の戦下手を象徴する逸話として長く語られてきた。しかし、近年の研究では、この通説は大きく見直されている。
同時代の書状などを分析すると、水攻めは三成自身の発案ではなく、豊臣秀吉が直接指示した作戦であったことが明らかになっている 28 。三成は当初、力攻めを主張したが、かつて備中高松城などで水攻めを成功させた経験を持つ秀吉は、その再現を強く命じた 20 。秀吉の狙いは、単に城を落とすことだけではなかった。巨大な堤を短期間で築き上げ、城を水没させるという大規模な土木工事を敢行すること自体が、豊臣政権の圧倒的な財力、動員力、そして技術力を関東の諸大名に見せつけるための、壮大な示威行為、すなわちプロパガンダとしての側面を持っていたのである 29 。
三成は主君の命令に従い、近隣の農民らを高賃金で動員し、昼夜兼行で工事を進めた。その結果、総延長28キロメートルにも及ぶとされる長大な堤防、通称「石田堤」がわずか1週間足らずで完成した 29 。しかし、この前代未聞の作戦は、いくつかの要因によって失敗に終わる。
第一に、忍城の地理的特性である。忍城は広大な沼沢地の中に築かれた、わずかに高い土地に位置する「水城」であった 32 。元々が水に囲まれた要害であり、水攻めに対する耐性が高かった。水が満ちても城は沈まず、あたかも水に浮かんでいるように見えたことから、「忍の浮き城」の異名をとった 40 。
第二に、天候と堤の決壊である。折しも梅雨の時期であり、降り続いた豪雨によって堤内の水位が急上昇し、堤防が決壊。濁流は豊臣軍の陣に流れ込み、数百名の溺死者を出すという皮肉な結果を招いた 34 。一部の記録では、籠城側が夜陰に乗じて堤を破壊したとも伝えられている 34 。
この水攻めの失敗は、長らく三成個人の軍事的無能の証とされてきた。しかし、その実態は、現地の地形を熟知しない最高権力者(秀吉)の強引な命令を、有能な官僚(三成)が忠実に実行しようとした結果の破綻であった。この評価の見直しは、忍城の戦いを正しく理解する上で不可欠であり、豊臣政権のトップダウン型の意思決定のあり方を示す事例としても興味深い。
忍城の防衛は、武士だけでなく、城内に籠もった領民たちの総力戦であった。彼らは食料の炊き出しや物資の運搬といった後方支援を担い、さらには城壁に多くの旗指物を立てて大軍に見せかけるなど、士気を維持するために重要な役割を果たした 36 。
この籠城戦において、象徴的な活躍を見せたのが、当主・氏長の娘であり、長親から見れば従姪にあたる甲斐姫である。様々な軍記物において、彼女は自ら甲冑を身に纏い、城兵を率いて反撃に打って出て、敵兵を次々と討ち取ったと伝えられている 20 。その勇猛な姿は、籠城軍の士気を大いに高めた。
忍城は、豊臣方の大軍の猛攻に一ヶ月以上にわたって耐え抜いた。最終的に城が落ちることはなく、戦いが終結したのは、本城である小田原城が降伏したという報せが届いたためであった 21 。小田原で豊臣方に降った氏長からの開城命令を受け、長親ら籠城軍はついに城を明け渡した。『成田系図』によれば、長親は当初、豊臣方が提示した厳しい開城条件に反発したが、秀吉自らの仲裁によってこれを受け入れたとされ、最後まで城兵の誇りを守ろうとした姿勢が窺える 8 。
忍城での輝かしい功績とは裏腹に、長親の後半生は平穏なものではなかった。一族の再興と、その中での新たな対立が彼を待ち受けていた。
後北条氏の滅亡後、成田一族は領地を没収され、当主の氏長や長親らは、秀吉配下の智将・蒲生氏郷にその身柄を預けられることになった 8 。これは懲罰的な意味合いを持つと同時に、有能な武士団を再活用するための措置でもあった。
氏長は氏郷の配下として、奥州の九戸政実の乱鎮圧などで武功を挙げた。この働きぶりに加え、娘の甲斐姫が秀吉の側室として迎えられたことも幸いし、成田氏は大名としての復帰を許される 8 。天正19年(1591年)、氏長は下野国烏山城主として2万石を与えられ、長親もこれに従い烏山へと移った 23 。
忍城で共に戦った氏長と長親であったが、烏山において両者の関係は決定的に破綻する 20 。『成田系図』によれば、この不和の原因は、ある人物による讒言(ざんげん)であった 8 。
この史料は、「成田近江守」なる人物が、長親に謀反の心(逆心)ありと氏長に虚偽の告げ口をしたと記している 8 。この「成田近江守」が具体的に誰を指すのかは定かではないが 17 、一族内のライバルか、影響力を狙う有力家臣であった可能性が高い。氏長はこの讒言を信じ、忍城防衛の最大の功労者であるはずの長親に疑いの目を向けた。
この裏切りに対し、長親は烏山を去り、浪人の身となることを選んだ。後に氏長は讒言が偽りであったことを知り、長親に謝罪の書状を送ったが、誇りを傷つけられた長親はこれに応じなかったという 8 。この逸話は、長親が単なる従順な家臣ではなく、自らの名誉を何よりも重んじる、気骨ある武将であったことを示している。また、一度は滅亡の淵に立った成田氏が、大名として再興された後も、かつての下克上の歴史に象徴されるような内部の派閥争いや脆弱性を依然として抱えていたことを物語っている。
一族と袂を分かった長親は、新たな地で晩年を過ごし、その血脈は意外な形で後世へと受け継がれていく。
烏山を出た長親が最終的に終の棲家としたのは、尾張国(現在の愛知県西部)であった 6 。彼が尾張を選んだ背景には、息子・長季の存在があった。
長季は、徳川家康の四男である松平忠吉に仕えていた 8 。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、忠吉はその功績により尾張国清洲城主となる。長親は、息子の新たな主君の領地である尾張に移り住み、その庇護のもとで晩年を過ごしたと考えられる 8 。
慶長17年(1612年)末、あるいは翌年はじめに、長親は尾張の地でその生涯を閉じた。法名は青岩義栢菴主。菩提寺は名古屋市にある大光院であり、現在もその墓所が残されている 8 。
長親の死後、成田一族の二つの家系は、対照的な運命を辿ることになる。それは、戦国から江戸へと時代が移り変わる中で、何が真の「生存」を意味したかを示す、歴史の皮肉ともいえる結末であった。
一つは、大名として復帰した氏長の嫡流である。氏長の後を継いだ成田泰親(長忠)には実子がおらず、跡継ぎ問題が発生した。江戸幕府は、大名の跡継ぎ断絶に厳しい姿勢で臨んでおり、これを理由に寛永4年(1627年)頃、成田氏は改易、すなわち所領を没収され、大名としての地位を完全に失った 8 。戦国を生き抜き、一度は返り咲いた名門は、こうして歴史の表舞台から姿を消した。
一方、対照的な運命を辿ったのが、一族を離れた長親の家系である。長親の息子・長季が仕えていた松平忠吉が若くして亡くなった後、その家臣団の多くは、新たに尾張藩主となった徳川御三家筆頭の尾張徳川家に引き継がれた 23 。長季もその一人として尾張藩士となり、長親の子孫はその後も代々、尾張藩の家臣として江戸時代を通じて存続したのである 8 。
この二つの家系の運命の分岐を、以下の表にまとめる。
項目 |
成田氏嫡流 (氏長系) |
成田長親系 |
主要人物 |
成田氏長、成田泰親(長忠) |
成田長親、成田長季 |
小田原征伐後の動向 |
蒲生氏郷預かりの後、下野国烏山藩主(2万石)として大名に復帰 |
蒲生氏郷預かりの後、氏長と不和になり出奔、浪人となる |
江戸時代の身分 |
烏山藩主 (大名) |
尾張藩士 |
最終的な結末 |
寛永4年(1627年)頃、跡継ぎ問題により改易(所領没収) |
尾張徳川家の家臣として幕末まで存続 |
この結末は、歴史の大きな転換期における生存戦略のあり方を深く示唆している。大名として復帰した氏長の嫡流は、一見すれば戦国武士として最大の成功を収めた。しかし、その地位は江戸幕府の厳格な統制下にあり、極めて脆弱なものであった。対して、一時は浪人の身にまで落ちた長親の家系は、徳川家の有力な分家である尾張藩の家臣という、より安定的で確実な地位を確保することで、結果的に家名を後世に残すことに成功した。混沌とした戦国時代から、厳格な秩序の江戸時代へと移行する中で、最高の栄誉が必ずしも永続的な存続を保証するものではなかった。むしろ、新たな権力構造の中で確固たる地位を築くことこそが、真の勝利であった。一族内の争いに敗れたかに見えた長親が、結果として「生存」という長期的な競争の勝者となったのである。
本報告書で検証してきたように、史料から浮かび上がる成田長親の実像は、小説『のぼうの城』が創り出した「のぼう様」のイメージとは大きく異なる。
歴史上の成田長親は、関東の由緒ある武家の有力な一門衆として、相応の地位と責任を担った有能な武将であった 8 。彼は、絶望的な状況下で突如として総大将の任を負わされると、その重責を勇敢に、そして粘り強く果たし、圧倒的な敵を前に籠城戦を成功に導いた 4 。その後、主君からの不当な疑いに対しては、自らの地位を捨ててでも誇りを守るという、気骨ある一面も見せた 8 。
ではなぜ、「のぼう様」という虚像がこれほどまでに人々を魅了するのか。それは、この物語が、伝統的な武勇や智謀ではなく、人望や民との繋がりといった非典型的な力で勝利を収める「異端の英雄」という、現代人が共感しやすい普遍的な原型に根差しているからであろう 2 。この神話は現代の物語的要請に応えるものであり、それ自体に価値はあるが、歴史そのものではない。
成田長親の真の歴史的遺産は、幸運に恵まれた愚か者の物語ではない。それは、激動の時代を生き抜いた関東国衆の、一人の武将の物語である。忍城の防衛戦は、彼の指導力と、彼を支えた城兵や領民の強靭さの証である。その後の人生は、彼の揺るぎない誇りの現れであった。そして彼の名を現代にまで伝えた究極の功績は、大名家としては断絶した本家を尻目に、自らの血脈を幕末まで繋ぎとげた、その静かな、しかし確実な歴史的勝利にある。
成田長親は、彼が創られたカリカチュアとしてではなく、彼が生きたありのままの人物として記憶されるべきである。