最終更新日 2025-06-23

斯波義銀

斯波義銀の生涯に関する包括的調査報告書 ― 名門の矜持と時代の奔流

はじめに

本報告書は、戦国時代の武将・斯波義銀(しば よしかね)の生涯について、その出自から最期、そして後世に与えた影響に至るまでを徹底的に調査し、多角的な視点から分析するものである。一般的に斯波義銀は、織田信長の尾張統一過程における脇役、あるいは悲劇の貴公子として語られることが多い。しかし、彼の生涯を丹念に追うことで、室町幕府の権威が失墜し、新たな実力主義の秩序が形成されていく戦国という時代の転換点を、その身をもって体現した重要人物として捉え直すことが可能となる。

本報告は、義銀の人生を貫く三つの主題―すなわち、三管領筆頭という「名門の矜持」、守護代に実権を奪われた「権力の実態」、そして時代の激流の中で一族の血脈を繋いだ「生存戦略」―を軸に展開する。これにより、単なる人物史にとどまらず、戦国時代における権威と実力、伝統と革新の相克を、斯波義銀という一人の人間の軌跡を通して浮き彫りにすることを目的とする。

【参考資料】斯波義銀 関連年表

報告書本文の理解を補助するため、斯波義銀の生涯と関連する主要な出来事を時系列で以下に示す。

年号(西暦)

義銀の年齢

出来事(斯波家・織田家・中央政権)

出典

天文9年(1540年)

1歳

尾張守護・斯波義統の嫡男として誕生。幼名は岩竜丸。

1

天文23年(1554年)

15歳

7月、父・義統が守護代・織田信友とその家臣・坂井大膳に殺害される。義銀は織田信長のもとへ亡命。

2

弘治元年(1555年)

16歳

4月、信長が叔父・信光と協力し、主君殺しの名目で信友を討伐。義銀は信長に擁立され、清洲城主となる。

5

弘治2年(1556年)

17歳

4月、三河国の上野原にて、同族の名門・吉良義昭と会見するも、席次を巡って対立し、物別れに終わる。

2

永禄2年(1559年)頃

20歳

傀儡であることに不満を抱き、吉良義昭、石橋氏らと結び、今川義元の勢力を引き入れる信長追放計画を画策。

10

永禄4年(1561年)頃

22歳

謀反計画が信長に露見。尾張国から追放され、守護大名としての斯波武衛家は事実上滅亡する。

1

時期不詳

-

河内国の畠山高政らを頼り流浪。のちに信長と和解し、「津川義近」と改名。娘を信長の甥・織田信重に嫁がせる。

2

元亀2年(1571年)

32歳

尾張にて祖父・斯波義達(義敦)の三回忌法要を営む。この頃までに尾張への帰国が許されていたとみられる。

2

天正10年(1582年)

43歳

本能寺の変。変後は織田信雄に仕える。

2

天正12年(1584年)

45歳

小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉に降伏し、その家臣となる。

2

天正13年(1585年)

46歳

豊臣秀吉の御伽衆となり、大名並みの待遇である「公家成」が認められる。

2

慶長5年(1600年)

61歳

8月16日、死去。法名は衛陽院殿道蘊龐山。

1

第一章:名門斯波氏の落日 ― 義銀、誕生の背景

斯波義銀の生涯を理解するためには、彼が背負って生まれた「斯波氏」という家の栄光と、彼が生まれた時点で既に進行していた衰退の歴史をまず把握する必要がある。彼の悲劇は、その誕生以前から構造的に準備されていた。

第一節:三管領家の栄光と衰退

斯波氏は、清和源氏の名門・足利氏の支流であり、室町幕府の創設に多大な功績を上げた足利尊氏の同族である 13 。幕府内での家格は極めて高く、細川氏、畠山氏と共に将軍に次ぐ最高職である「管領」を交代で務める三家の一つ、「三管領家」の筆頭とされた 10 。その当主は代々、左兵衛督や左兵衛佐といった官職に任じられたことから、その唐名である「武衛」にちなみ、「武衛家」と尊称された 8 。最盛期には越前、尾張、遠江など8ヶ国もの守護を兼ね、幕府政治に絶大な影響力を誇った 10

しかし、その栄華は15世紀半ばの応仁・文明の乱を境に、急速に色褪せていく。斯波義敏と、一族の渋川家から迎えられた斯波義廉との間での家督相続争いは、幕府全体を巻き込む大乱の一因となった 13 。この長期にわたる内紛は斯波氏自体の国力を著しく消耗させただけでなく、領国における守護代の自立を促す決定的な契機となった。戦国時代に入ると、本拠地であった越前国は守護代の朝倉氏に、遠江国は隣国の駿河守護・今川氏によって事実上奪われ、斯波氏が直接的な影響力を行使できる領国は、尾張一国のみにまで縮小していた 8

第二節:尾張における権力構造 ― 守護と守護代の相克

斯波義銀が生まれた頃の尾張国は、斯波氏の権威が名目化し、その下で守護代の織田氏が実権を掌握するという、典型的な下剋上の様相を呈していた。

本来、尾張の支配は守護である斯波氏が行うべきであったが、当主は京都に在住することが多く、現地の統治は守護代として派遣された織田氏に一任されていた 16 。その織田氏も一枚岩ではなく、尾張の上四郡を支配する守護代「織田伊勢守家」(岩倉織田氏)と、下四郡を支配する又守護代から守護代に成り上がった「織田大和守家」(清洲織田氏)に分裂していた 17 。さらに清洲織田氏の家臣として「清洲三奉行」が置かれ、織田信長の家系である「弾正忠家」はその一つに過ぎなかった 17

斯波氏の権威失墜を決定づけたのは、義銀の祖父・斯波義達の時代であった。義達は失われた遠江国の奪還を目指し、今川氏との戦いを繰り返したが、永正12年(1515年)の合戦で大敗を喫し、捕虜となる屈辱を味わう 3 。この軍事的失敗により義達は失脚し、わずか3歳であった義銀の父・義統が、清洲の守護代・織田信友(大和守家)の完全な傀儡として新たな尾張国主に擁立された 3

義統の時代、斯波氏はもはや「守護」という名の飾り物に過ぎなかった。政治の実権は織田信友が握り、さらにその信友を凌駕する勢いで台頭したのが、弾正忠家の織田信秀(信長の父)であった 8 。義銀がこの世に生を受けた時、彼が継承すべき斯波家の権威は、既に行政的・軍事的な実体を伴わない、空虚なものとなっていたのである。彼の人生は、この実権なき名門の末裔という、極めて不安定な立場から始まった。

第二章:悲劇の継承者 ― 信長との出会い

名ばかりの権威を背負って生まれた斯波義銀の運命は、父の非業の死によって大きく動き出す。そして、彼の前に現れたのが、旧来の秩序を破壊し、新たな時代を創造する織田信長であった。

第一節:父・義統の暗殺 ― 清洲城の凶刃

天文23年(1554年)7月、尾張守護・斯波義統は、その居城である清洲城内で守護代の織田信友によって殺害されるという悲劇に見舞われた 2 。この凶行の直接的な引き金は、義統が信友の企てていた織田信長暗殺計画を、事前に信長側へ密告したことであったとされる 4 。主君を傀儡としていた信友にとって、義統が敵対する信長と通じたことは許しがたい裏切りと映ったのである。

事件当日、当時15歳の義銀は、家臣を率いて川狩りに出かけており、城を留守にしていた 2 。信友とその腹心である小守護代・坂井大膳らは、この好機を逃さなかった 2 。この偶然の不在が、結果的に義銀の命を救うことになった。父を殺され、帰るべき城を失った義銀に残された道は、父が最後の望みを託した織田信長を頼ることだけであった。

第二節:信長への亡命と清洲城主への道

父の仇討ちを誓う義銀は、織田弾正忠家の当主・織田信長のもとへ落ち延びた 1 。当時の信長は、尾張国内の主導権を巡って、本家筋にあたる信友の清洲織田家(大和守家)と激しく対立していた。信長にとって、正統な守護の遺児である義銀が助けを求めてきたことは、まさに渡りに船であった。

信長は「主君を殺害した逆賊・織田信友を討つ」という、誰もが反論できない絶対的な大義名分を掲げることに成功する。彼は叔父の織田信光らと連携し、信友討伐の兵を挙げた。萱津の戦いなどで清洲勢を破り、弘治元年(1555年)、ついに信友を滅ぼして清洲城を奪取した 6

戦後、信長は義銀を新たな尾張国主として清洲城に迎え入れた。そして自らは城の北の屋敷に退き、「隠居」するという形式をとった 9 。これは、信長が旧来の権威である「守護」を尊重する姿勢を内外に示すための、巧みな政治的演出であった。信長は、滅びかけた斯波氏の権威を戦略的に利用することで、自らの主家筋を討った行為を正当化し、尾張国内における支配権確立への大きな一歩を踏み出したのである。

第三節:名ばかりの国主 ― 権威と実権の乖離

清洲城主という華々しい地位に返り咲いた義銀であったが、その実態は信長の後見のもとに置かれた完全な傀儡であった 2 。尾張の軍事、政治に関する一切の実権は、後見人である信長が掌握しており、義銀に許されたのは、その権威を信長のために貸し与えることだけであった。

実権を失ってもなお、義銀の中に流れる名門・武衛家の血と矜持は、時に現実との間に深刻な乖離を生じさせた。その象徴的な出来事が、弘治2年(1556年)に行われた三河の吉良義昭との会見である。吉良氏もまた、足利将軍家に次ぐとされる名門であった。信長の仲介で実現したこの会見は、両家の同盟を目的としていたが、いざ対面の段になると、どちらが上座に着くかという席次を巡って両者は激しく対立した。互いに一歩も譲らず、結局、ろくに言葉も交わさずに会見は物別れに終わったと伝えられている 2

この逸話は、実力の世界である戦国にあって、なおも形式的な家格や序列に固執する義銀の人物像を浮き彫りにしている。彼にとって、斯波武衛家当主であるという事実は、現実の権力を失ってもなお、何物にも代えがたい自己の根幹をなすものであった。しかし、この強すぎる矜持こそが、やがて彼を保護者である信長との破滅的な対立へと導いていくことになる。義銀と信長の関係は、当初から「保護者と被保護者」であると同時に、「権威の利用者と利用される者」という、極めて非対称な力学の上に成り立っていたのである。

第三章:権威と野心 ― 信長への叛逆

信長によって擁立された守護という立場は、義銀に安寧をもたらすどころか、彼の内に秘めたる野心と名門としての矜持を刺激し、やがては自らを破滅へと導く謀反へと駆り立てた。

第一節:傀儡としての不満と失われた権勢への渇望

信長が弟・信勝(信行)との家督争いに勝利し、さらに岩倉織田氏を滅ぼして尾張統一を推し進めるにつれて、義銀が持つ「守護」という象徴的な価値は、信長にとって次第に不要なものとなっていった 10 。かつては信長の行動を正当化するための錦の御旗であった義銀は、尾張統一が現実のものとなるにつれ、むしろ信長の絶対的な支配を阻害しかねない存在へと変質していったのである。

一方、義銀にとって、元は家臣の、それも分家の出身である信長の傀儡であり続けることは、耐え難い屈辱であったに違いない 12 。彼は、名ばかりの国主という現状に甘んじることなく、かつて斯波氏が有した栄光と権勢を取り戻すことを渇望するようになった 2 。その野心は、やがて信長への叛逆という危険な道を選択させることになる。

第二節:今川氏との密約と謀反の露見

永禄年間、義銀は信長を尾張から追放し、実権を奪還するための陰謀を企てた。彼は、席次争いで遺恨のあった三河の吉良義昭や、同じく足利一門である石橋氏といった、信長に不満を持つ可能性のある勢力と連携を図った 1

この謀反計画の成否は、外部からの強力な軍事支援にかかっていた。義銀らが頼ったのは、当時、海道一の弓取りと称され、尾張への侵攻を虎視眈々と狙っていた駿河の大大名・今川義元であった 11 。計画の具体的な内容は、河内国の服部友定(友貞)を仲介役として、今川氏の軍勢を海上から尾張へと引き入れ、信長を内外から挟撃するというものであった 11 。これは、信長の支配体制を根底から覆しかねない、極めて大胆かつ危険な計画であった。

しかし、この密議は実行に移される前に信長の知るところとなった。計画に加わっていた家臣の中から情報が漏洩したとされている 11

この義銀の謀反計画は、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いの直前という、信長にとって最も危機的な時期に進行していたという点できわめて重要である。一般に桶狭間の戦いは信長の鮮やかな奇襲作戦として知られるが、その背景には、最大の外的脅威である今川義元と、国内の最高権威者であるはずの主君・斯波義銀の裏切りが同時に迫るという、まさに四面楚歌の状況があった 11 。信長は、いつ足元をすくわれてもおかしくない内部崩壊の危機に直面していたのであり、彼の桶狭間への出陣は、単なる奇襲攻撃という側面だけでなく、この絶体絶命の状況を打開するための背水の陣であった可能性を強く示唆している。

第三節:尾張追放 ― 守護大名斯波氏の終焉

謀反の全てを察知した信長の対応は、迅速かつ苛烈であった。永禄4年(1561年)頃、信長は義銀、そして共謀した吉良義昭、石橋氏らを、即座に尾張国から追放した 1 。父の仇討ちのために信長に庇護を求めてから、わずか7年後のことであった。

この追放劇によって、室町時代を通じて尾張国主であった守護大名・斯波武衛家は、名実ともに滅亡した 10 。かつて斯波氏の権威の象徴であった京都の邸宅「武衛陣」は、後に信長が足利義昭を奉じて上洛した際、皮肉にもその義昭の御所(二条御所)として改築・利用されることになる 2 。時代の潮流を読み誤り、名門の矜持と野心の間で身を滅ぼした義銀の追放は、旧時代の権威が完全に終わりを告げ、新たな実力者の時代が到来したことを象徴する出来事であった。

第四章:流転と再生 ― 津川義近としての後半生

尾張を追放され、大名としての地位を完全に失った斯波義銀であったが、彼の人生はそこで終わらなかった。彼は武将としての道を断たれた後、自らが持つ唯一無二の資産、すなわち「斯波武衛家」という血統の価値を最大限に活用することで、新たな生きる道を見出していく。

第一節:流浪の日々と信長との和解

尾張を追われた義銀は、河内国の畠山高政など、各地の勢力を頼って流浪の日々を送ったとされるが、この時期の具体的な足跡については不明な点が多い 2

しかし、いつしか彼は宿敵であったはずの織田信長と和解を果たす。その正確な時期は定かではないが、和解に際し、彼はもはや尾張守護ではない自らの立場を鑑み、斯波姓を名乗ることを憚って名を「 津川義近(つがわ よしちか) 」と改めた 2 。これは、過去の栄光と決別し、新たな立場で生きるという彼の決意の表れであった。

この和解を確かなものにしたのが、織田家との姻戚関係であった。義近は自らの娘を、信長の弟・信包の子である織田信重に嫁がせたのである 2 。これにより、彼は単なる元守護ではなく、「織田家親族中の貴種」という新たな地位を確保した。元亀2年(1571年)には、尾張国内で祖父・義達の三回忌法要を営んでいることから、この頃までには信長の赦免を得て尾張への帰国が許されていたと考えられる 2 。武力での再起を諦め、血縁と伝統的権威を武器に新たな権力構造の中に自らの居場所を築くという、見事な生存戦略への転換であった。

第二節:秀吉政権下の御伽衆 ― 貴種としての価値

天正10年(1582年)の本能寺の変で信長が倒れた後、義近は信長の次男・織田信雄に仕えた。小牧・長久手の戦いでは、羽柴秀吉軍に攻められて降伏し、これを機に秀吉の家臣となる 2

秀吉の天下統一が進むと、義近が持つ「武衛家」の血筋は、再び大きな価値を持つことになった。出自の低い秀吉にとって、自らの政権に伝統的な権威を付与することは重要な課題であった。義近は、追放された前将軍・足利義昭らと共に、秀吉の側近である「御伽衆」に加えられた 2 。これは、秀吉が旧主・信長が追放した旧尾張守護を庇護する姿を示すことで、信雄ら信長の子らと対立した自らの立場を正当化する狙いもあったと考えられる。

天正13年(1585年)、義近は従五位下侍従以上に叙せられた大名・武家を指す「公家成」を認められ、大名並みの待遇を受けた 2 。一時は、小田原征伐で降伏した北条氏直の赦免を嘆願したことが秀吉の怒りを買い、失脚する場面もあったが、後に赦免されている 2 。彼はもはや領地を持つ大名ではなかったが、その血統ゆえに、天下人の傍らで特別な存在として遇され続けたのである。

第三節:最期と墓所

義近の後半生は、巧みな処世術によって比較的穏やかなものであった。晩年には、次の天下人となる徳川家康・秀忠父子とも親交があったことを示す書状が残されており、時代の変化を鋭敏に感じ取り、新たな権力者との関係構築にも余念がなかったことが窺える 2

慶長5年(1600年)8月16日、関ヶ原の戦いが目前に迫る激動の中、義近は61年の生涯を閉じた 1 。その法名は「衛陽院殿道蘊龐山」という。特定の墓所の所在は明らかではないが、彼の位牌や、腕に鷹を乗せた姿を描いた肖像画が、京都の臨済宗大本山・妙心寺の塔頭である大龍院に現存しており、この寺院と深い関わりがあったことが知られている 2

第五章:血脈の行方 ― 斯波氏の遺産

戦国大名としては滅びた斯波武衛家であったが、義銀(義近)の巧みな生存戦略により、その血脈は途絶えることなく後世へと受け継がれていった。彼の生涯は、武力による勝敗とは異なる、もう一つの「家の存続」という物語を我々に示している。

第一節:津川氏と津田氏 ― 子孫たちの道

津川義近と改名した義銀には、4男2女がいたと記録されている 2 。彼らは父が築いた新たな道を歩み、それぞれの場所で家名を伝えた。

  • 長男の 義康 は、秀吉に仕えて羽柴姓を賜り、従五位下侍従にまで任官したが、若くして亡くなったと見られる 2
  • 次男の 津川近利 は、徳川家康・秀忠に仕え、江戸幕府の幕臣(旗本)となった 2
  • 三男の 津川辰珍 は、九州の有力大名である細川氏に仕官し、その子孫は熊本藩士として続いた 2
  • 末子の 津川近治 は、織田有楽斎の娘を娶り、豊臣秀頼に仕えたが、大坂の陣で戦死した 2

中でも特筆すべきは、加賀藩前田家に仕えた 津田氏 の存在である。『加賀藩史稿』などの資料によれば、加賀藩の家老職を務めた津田正勝は、義銀の落胤(正式な子として認知されていなかった子)、すなわち斯波義忠という人物と同一視されている 2 。この津田氏は、加賀百万石の中で1万石という高い禄高を得る重臣として代々続き、藩政に重きをなした。

そして明治維新後、この津田家は政府に対し、本来の姓である「斯波」への復姓を願い出て許可された。さらに、その由緒ある家柄が認められ、男爵の位を授けられて華族に列したのである 8 。戦国の動乱の中で一度は滅びたかに見えた斯波武衛家の血脈は、形を変え、場所を移し、近代に至るまで見事に存続した。

第二節:歴史的評価 ― 時代の奔流に翻弄された名門の末裔

斯波義銀の生涯を評価する際、その視点をどこに置くかで人物像は大きく異なる。

「戦国大名」という尺度で見れば、彼は紛れもない敗者である。父を家臣に殺され、自らも傀儡として利用された末に、謀反に失敗して領国を追われた。彼の行動は、旧時代の権威に固執するあまり、新しい時代の潮流を読み切れなかった悲劇の貴公子として映る。信長にとっては、尾張統一を正当化するための「道具」であり、同時にその野心を警戒すべき「脅威」でもあった。

しかし、視点を「一族の存続」というより長期的なスパンに置くとき、その評価は一変する。彼は、武力闘争からの鮮やかな転身を遂げ、自らの血統という政治的資産を巧みに利用して、信長、秀吉、家康という時の天下人たちと渡り合い、生き抜いた。短期的な敗北を、一族の血脈を未来へ繋ぐという長期的勝利へと転換させたのである。戦国大名としては滅びたが、貴種としては生き残り、その血は明治の華族にまで繋がった。この事実は、彼の生涯を評価する上で決して見過ごすことのできない、驚くべき成果と言えるだろう。

おわりに

本報告書で詳述したように、斯波義銀の生涯は、単なる一地方武将の盛衰史にとどまらない、深い射程を持つ物語である。彼は、室町時代から続く「権威」が、戦国時代の「実力」の前にいかに無力であったかを象徴する悲劇の人物であった。同時に、武力や領土を失った後も、「血統」という無形の資産を武器に時代の激流を乗りこなし、一族を存続させた、したたかな生存戦略家でもあった。

信長にとっては、旧秩序を破壊するための触媒であり、また自らを脅かす旧秩序の亡霊でもあった。秀吉にとっては、自らの成り上がりを正当化するための権威の源泉であった。義銀の人生は、常に時代の中心にいた権力者たちの思惑に翻弄され続けたが、彼はその中で自らの価値を見出し、巧みに立ち回った。

彼の生涯は、戦国という時代が、単なる武力による覇権争いだけでなく、「権威と実力」「伝統と革新」「個人の野心と時代の潮流」といった、より複雑で普遍的なテーマが交錯する場であったことを我々に教えてくれる。斯波義銀という人物を通して、我々は戦国時代の多層的なダイナミズムを、より深く理解することができるのである。

引用文献

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