最終更新日 2025-05-19

木造長政(木造具政の子)

日本の戦国時代における武将 木造長政(具政の子)に関する調査報告

1. はじめに

本報告書の主題と目的の明示

本報告書は、日本の戦国時代から江戸時代前期にかけて活動した武将、木造長政(こづくり ながまさ)について、その出自、生涯、そして事績を詳細に調査し、記述することを目的とする。特に、本報告書で扱う木造長政は、木造具政(ともまさ)の子である。

調査の核心的課題は、木造具康(ともやす)という名の武将、具体的には木造俊茂(とししげ)の子である具康とは明確に区別し、木造長政(具政の子)を別人としてその生涯と事績を詳述することにある。この区別は、利用可能な史料間に見られる異同を踏まえつつ、本調査依頼者の指示に基づき徹底するものである 1

木造長政が生きた時代背景の概観

木造長政が活動した時代は、16世紀後半から慶長9年(1604年)の没年までであり、織田信長、豊臣秀吉による天下統一事業が進展し、徳川家康による江戸幕府の成立へと至る、日本史上未曾有の激動期であった。伊勢国もまた、この大変革の渦中にあり、長きにわたり国司として君臨した北畠氏の支配から織田氏の勢力下へと組み込まれ、さらに豊臣政権、そして徳川幕府へと支配体制が移行する過程を経験した。このような時代背景は、長政のような地方武将の生涯や、その主家の変遷に多大な影響を与えずにはおかなかった。武士たちは、自らの家名を存続させ、あるいは立身出世を果たすために、目まぐるしく変わる政治情勢の中で、時には主君を変えることも厭わない、厳しい選択を迫られる時代であった。

本報告書で扱う情報源について

本報告書を作成するにあたり、『寛政重修諸家譜』や『系図纂要』といった江戸時代に編纂された主要な系図史料をはじめ、各種軍記物、地方史資料などを参照する 3 。これらの史料は、木造氏に関する貴重な情報を提供する一方で、記述内容に異同が見られる場合もあるため、情報の取捨選択と解釈には慎重を期し、可能な限り客観的な記述を心がける。特に、木造長政(具政の子)と木造具康(俊茂の子)の区別に関しては、史料間の比較検討を重視する。

2. 木造長政の出自と家系

木造氏の概要

木造氏は、村上源氏中院流を称し、伊勢国司として名を馳せた北畠家の庶流にあたる一族である 3 。その本拠は伊勢国一志郡木造庄(現在の三重県津市木造町周辺)に置かれ、木造城を居城とした 4 。木造氏は「木造御所(こづくりごしょ)」とも称され、その格式の高さを示している 3 。また、京都においては油小路に屋敷を構えていたことから、「油小路殿(あぶらのこうじどの)」とも呼ばれた記録があり、中央政界との繋がりも有していたことがうかがえる 4

室町時代には、北畠宗家と同等の待遇を室町幕府や朝廷から受けることもあったが、応仁の乱の際には宗家と刃を交えるなど、必ずしも一様な従属関係にあったわけではなく、独自の勢力を保持しようとする動きも見られた 3 。戦国時代に入ると、政宗、俊茂、具康といった当主のもとで戸木城や川北城を築城し、北畠宗家と共に長野工藤氏と抗争するなど、伊勢国内における有力な武家としての地位を確立していた 3

木造氏が北畠氏の庶流でありながら、時に宗家と対立し、独自の行動をとった背景には、その戦略的な立地と影響力が関わっていると考えられる。木造氏の所領は、北畠氏の本拠である南伊勢に対して、北伊勢や尾張方面からの勢力が侵入する際の最前線、あるいは緩衝地帯としての軍事的重要性を有していた 6 。このような地理的条件は、木造氏が独自の外交戦略を展開し、時には宗家とは異なる勢力と結びつくことを可能にした。後の木造具政による織田信長への帰順も、こうした木造氏の伝統的な立場と無関係ではないだろう。

父・木造具政について

木造長政の父である木造具政は、伊勢国司・北畠晴具の三男(あるいは次男とする説もある 7 )として享禄3年(1530年)に生まれた 7 。その後、北畠一門である木造俊茂の子、木造具康の養子となり、木造家の家督を継承した 2

具政は当初、実家である北畠宗家に従っていたが、永禄12年(1569年)、尾張の織田信長が伊勢国に侵攻を開始すると、実兄である北畠具教に背き、信長に与した 3 。この背景には、具政自身の北畠家内における序列への不満や、家臣である柘植保重、そして木造氏一族出身の僧侶であった源浄院(後の滝川雄利)らの勧めがあったと伝えられている 3 。信長に帰順した直後、具政は北畠具教の軍勢による攻撃を木造城で受けるが、これを堅守し、信長の援軍を得て撃退した 7 。その後、信長による大河内城攻めの際には、具教に和睦を進言したともいう 7

具政のこの決断は、木造家の存続を賭けた大きな賭けであった。実の兄に反旗を翻すという行動は、当時の武家社会においても尋常なことではなく、失敗すれば一族滅亡の危機に瀕するものであった。しかし、急速に勢力を拡大する織田信長の将来性を見抜き、それに乗じることで、木造家は北畠宗家の支配下から脱し、新たな活路を見出そうとしたのである。この父の大きな決断が、息子である長政のその後の人生、特に織田家との関わりに大きな影響を与えたことは想像に難くない。北畠具教が具政の妻子を捕らえ、木造城に向けて磔にしたという記録は 10 、この兄弟間の対立がいかに深刻で凄惨なものであったかを物語っている。

信長の次男・茶筅丸(後の織田信雄)が北畠家の養嗣子となると、具政はその家老となった 3 。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、戸木城に籠城して羽柴秀吉方の蒲生氏郷軍と奮戦したが、信雄と秀吉の和議成立に伴い、城を退去した 7 。官位は従四位下、左近衛中将などに昇っている 7

木造長政の生誕と家族

木造長政の生年は、残念ながら史料には明確に記されておらず、不詳である 1 。戦国時代の武将、特に大名家の嫡流でない人物については、生年が不明であることは決して珍しいことではない。合戦や政変による記録の焼失、家系の断絶、あるいは元服前の情報が重視されなかったことなどが、その理由として考えられる。長政の場合も、木造氏が北畠氏の庶流であり、父・具政の代に大きな立場の変動があったことなどから、幼少期の記録が失われたか、あるいは当初から詳細に記録されなかった可能性が指摘できる。

長政の母についても、その名は伝わっていない 11 。兄弟姉妹としては、織田信雄の継室となり、後に上野国小幡藩主となる織田信良の生母となった娘がいたことが知られている 7 。また、木造長雄という兄弟もいたとされる 7 。長政の子としては、木造右京長雄(うきょう ながお、または「ながかつ」とも読まれる)の名が記録されている 1 。右京長雄については、後の章で詳述する。

3. 木造長政の生涯と事績

織田信雄への仕官

木造長政は、父・具政が仕えた織田信雄(織田信長の次男。北畠家の養子となり北畠具豊、後に信意、信勝と改名)に、その武将としてのキャリアの初期から仕えた 1

天正2年(1574年)7月、長政は侍大将として水軍を率い、伊勢長島一向一揆攻めに従軍している 1 。この時期、信雄は父・信長から伊勢方面の平定を主要な任務の一つとしており、長政はその指揮下で重要な役割を担っていたことがわかる。水軍を率いたという記述は、木造氏が伊勢湾沿岸部において一定の影響力を有し、水上戦力をも動員し得た可能性を示唆している。

天正12年(1584年)には、信雄の家老であった津川義冬が信雄によって討伐されるという事件が起こる。この際、義冬の家臣団が松ヶ島城に籠城したが、長政はこれを攻める軍勢に加わっている 1 。これは主君の命に従った行動であり、信雄への忠誠を示すものであると同時に、戦国武将が時には旧知の者とも戦わねばならなかった非情な現実を物語っている。

戸木城(へきじょう)の戦いと田辺城への移転

天正12年(1584年)に勃発した小牧・長久手の戦いは、長政の父・具政、そして長政自身にとっても重要な転機となった。具政は、自らが築いた戸木城に、長政と共に籠城し、羽柴秀吉方の大軍、特に蒲生氏郷が率いる部隊と激しく戦った 6 。この籠城戦は長期に及び、最終的には一身田専修寺の門跡である堯慧(ぎょうえ)の仲介によって和睦が成立した 9

信雄と秀吉の和睦が成立した後、長政はそれまでの居城であった戸木城を廃城とし、天正14年(1586年)に伊勢国員弁郡に新たに田辺城を築き、そこを新たな居城とした 1 。戸木城は父・具政以来の木造氏の拠点であり、籠城戦の実績もある城であった。それを廃して新たな城を築いた背景には、小牧・長久手後の政治情勢の変化への対応があったと考えられる。信雄が秀吉に対して実質的に臣従する形となり、その支配領域や軍事戦略も大きな影響を受けたはずである。田辺城の具体的な立地や規模に関する詳細な情報は乏しいが、より防衛に適した場所、あるいは新たな支配体制に合致した戦略的拠点として選ばれた可能性が考えられる。あるいは、和睦の条件として戸木城の放棄が含まれていた可能性も否定できない。この拠点移動は、長政が戦後の新たな状況に適応しようとした戦略的判断の表れと言えるだろう。

織田秀信への仕官

天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が終わり、天下統一が目前となると、長政の主君であった織田信雄は、秀吉から尾張・伊勢から東海地方への国替えを命じられた。しかし信雄はこれを拒否したため、改易処分となり領地を没収された 1 。主君を失った長政であったが、秀吉に召し出されることとなる。

その後、長政は、信雄の甥(織田信忠の子)であり、織田家の当主とみなされていた岐阜城主・織田秀信(幼名三法師)の家老として配属された。この時、美濃国において2万5千石という高い知行を与えられている 3 。信雄の改易という危機的な状況下で、かつて敵対した秀吉から直接召し出され、さらに織田本家の家老という重職と高禄を与えられたことは、長政の武将としての能力やこれまでの実績が高く評価されていた証左である。これは、単に旧信雄家臣の取り込みというだけでなく、若年の秀信を補佐し、その体制を固めるための重要な人材登用であったと考えられる。

関ヶ原の戦い

慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発する。この時、岐阜城主であった織田秀信は、当初、徳川家康率いる東軍への参加を検討していたとされる。しかし、石田三成ら西軍からの誘いを受け、最終的に西軍に与することを決断した。この重要な意思決定の過程において、家老であった木造長政は、秀信に対し、家康の東軍に味方するよう強く進言したと伝えられているが、その意見は容れられなかった 1 。さらに、開戦が不可避となった際には、岐阜城に籠城して徹底抗戦すべきであると進言したが、これも採用されず、緒戦は野戦を選択することとなった 1

米野の戦い及び岐阜城防衛戦での奮戦

結果として西軍に与した秀信軍は、美濃国に侵攻してきた東軍の福島正則や池田輝政らが率いる大軍と衝突することになる。長政は、子である木造右京長雄と共に約1千の兵を率いて、関ヶ原の前哨戦の一つである米野の戦いで奮戦した 1

続く岐阜城籠城戦では、長政は城の重要な防衛拠点である七曲口を守備し、東軍の猛攻に対して果敢に戦った 1 。しかし、衆寡敵せず、東軍の激しい攻撃の前に織田方は苦戦を強いられる。ある記録によれば、この戦いで長政自身も鉄砲で撃たれて負傷し、それが守備隊の士気低下や混乱を招き、城の防御が破られる一因となったとも伝えられている 16 。奮戦も虚しく、岐阜城は落城し、秀信は降伏した。また、別の記録では、敗走する中でも百々綱家・木造長政隊が追撃する東軍と戦いながら後退し、上加納(現在の岐阜市)付近で激しく鉄砲を打ちかけてその日の東軍の進撃を食い止めたとあり、敗色濃厚な中でも粘り強く戦った様子がうかがえる 17

西軍に属し、結果的に敗れたにもかかわらず、長政の岐阜城での戦いぶりは、敵方であった東軍の諸将に強烈な印象を与えた。特に、東軍の先鋒として岐阜城を攻めた福島正則は、長政の武勇や指揮能力を高く評価したとされている 1 。これは、戦国時代において、敵味方の立場を超えて個人の能力が評価され、それが後の仕官や処遇に繋がるケースが少なくなかったことを示す好例である。長政が負傷を押して奮戦したことは、その評価をさらに高めた可能性が高い。

福島正則への仕官と晩年

関ヶ原の戦いで主君・織田秀信が改易されると、木造長政もまた主家を失い、浪人の身となるはずであった。しかし、岐阜城攻めで敵将として長政の勇猛な戦いぶりを目の当たりにしていた東軍の将・福島正則は、その能力を高く評価し、長政を招き寄せた 1

福島家においては、1万9千石という高禄で迎えられた(史料によっては2万石ともされるが 13 、『勢州軍記』を典拠とする1万9千石説が有力か 1 )。織田秀信の家老として2万5千石を得ていたことを考えると、これは旧禄に近い破格の待遇であり、福島正則がいかに長政の武将としての力量を認めていたかがうかがえる。

しかし、新たな主君のもとでの活躍も長くは続かなかった。木造長政は、慶長9年(1604年)に死去した 1 。福島正則に仕えてから比較的短い期間での死没であった。福島正則はその後、安芸広島藩主となり、さらに後年には改易されるという波乱の生涯を送るが 18 、長政はその激動を見ることなくこの世を去った。

4. 木造具康(俊茂の子)との明確な区別

別人説の提示と史料的根拠

本報告書は、依頼者の強い指示に基づき、木造長政(具政の子)と木造具康(俊茂の子)を明確に別人として扱う。この立場は、江戸時代に編纂された主要な系図史料の記述に依拠するものである。

『寛政重修諸家譜』をはじめとする多くの信頼性の高い系図史料において、木造長政と木造具康はそれぞれ別の人物として記載されている 3 。これに対し、『木造氏系図』という史料では両者を同一人物とする説が採られていることも確認できるが 2 、これは少数説であるか、あるいは後世における情報の混同や誤伝の可能性が高いと考えられる。木造長政の別名として「具康」が挙げられることがあるが 1 、これは木造具康(俊茂の子)とは異なることを明確にしておく必要がある。

戦国時代から江戸初期にかけて編纂あるいは書写された系図は、家の由緒を飾るためや、当時の政治的状況を反映して、記述に異同が生じたり、時には創作が加えられたりすることも少なくなかった。木造氏の場合、本家である北畠氏との複雑な関係、長政の父・具政の養子縁組(具政は木造具康(俊茂の子)の養子となった 2 )、そして具政自身の立場の大転換(北畠宗家から織田信長への帰順)など、家系に関する情報が錯綜しやすい要因が複数存在した。特に「具康」という名が、長政の父の養父(すなわち俊茂の子の具康)と、長政自身の別名としても伝わっていること 11 が、後世の混同を助長した一因である可能性は否定できない。本報告書では、より多くの史料で支持され、かつ系譜関係の整合性が高いと考えられる『寛政重修諸家譜』などの記述を重視し、両者を別人として扱う。

【表1】木造長政(具政の子)と木造具康(俊茂の子)の比較

以下に、木造長政(具政の子)と木造具康(俊茂の子)の主要な情報を比較表としてまとめ、両者の違いを明確に示す。この表は、両者を別人として理解するための一助となることを意図している。

項目

木造長政(具政の子)

木造具康(俊茂の子)

典拠例(主なもの)

木造具政 1

木造俊茂 2

11 (長政の父), 2 (具康の父)

生年

不詳 1

不詳 2

2

没年

慶長9年(1604年) 1

不詳(父・俊茂により殺害されたとの説あり 2

11 (長政の没年), 2 (具康の最期)

主な通称・官位

大膳(通称)、左衛門尉、左衛門佐、大膳大夫 1

左近衛中将、従四位下 2

11 (長政の官位), 2 (具康の官位)

主な仕官先

織田信雄、織田秀信、福島正則 1

北畠晴具 2

11 (長政の主君), 2 (具康の主君)

主要な事績

伊勢長島攻め、松ヶ島城攻め、戸木城の戦い、関ヶ原の戦い(米野の戦い、岐阜城防衛戦) 1

永正11年(1514年)叙爵以降、天文6年(1537年)従四位下・左近衛中将に至るまでの官位昇進が主。具体的な軍功は不明 2

1 (長政の事績), 2 (具康の事績)

右京長雄 1

木造具次(実子)、木造具政(長政の父、養子) 7

11 (長政の子), 2 (具康の子・養子)

系図上の言及

『寛政重修諸家譜』等で具康(俊茂の子)とは別人として記載。別名に「具康」あり 3

『木造氏系図』では長政と同一人物とされるが、多くの史料では別人として扱われる 2

2

この表からも明らかなように、両者は親子関係(具康が長政の父・具政の養父)、活動時期、官位、そして何よりも主要な事績において大きな隔たりがあり、別人として捉えるのが自然である。

5. 木造長政に関する補足情報

通称、字、官位

木造長政の通称は「大膳(たいぜん)」であったと伝えられている 1 。また、諱(いみな)である「長政」の他に、「長正(ながまさ)」や「長忠(ながただ)」といった別名も記録されている 1 。さらに、前章で触れたように「具康(ともやす)」という名も長政の別名として挙げられることがあるが、これは木造具康(俊茂の子)との混同を招く要因の一つとなっているため、注意が必要である。

官位については、左衛門尉(さえもんのじょう)、左衛門佐(さえもんのすけ)、そして大膳大夫(だいぜんだいぶ)などを歴任したとされる 1 。これらの官位は、長政が仕えたそれぞれの主君のもとで、その武功や家格に応じて与えられたものと考えられる。

子・木造右京長雄について

木造長政の子として、木造右京長雄(木造長雄とも記される 7 )の名が史料に見える 1 。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいては、父・長政と共に西軍の織田秀信方として米野の戦いに参加したとされている 1

しかしながら、右京長雄の生没年や、父の死後の詳細な事績、そして子孫の有無などについては、現存する史料からは「生没年不詳」「その人と成りについては不明」 10 とされており、残念ながら詳らかではない。戦国時代から江戸時代初期にかけては、当主や特に顕著な功績を残した人物以外の情報は記録として残りにくい傾向があった。右京長雄が父・長政ほどには歴史の表舞台で目立った活躍がなかったのか、あるいは父の死後、福島家の改易などの混乱の中で家系が途絶えてしまったのか、もしくは単に彼に関する史料が散逸してしまったのか、その理由は定かではない。彼の存在は確認できるものの、その生涯の詳細は歴史の陰に隠れてしまっていると言わざるを得ない。

史料に見られる逸話

木造長政に関する逸話として最も特筆すべきは、やはり関ヶ原の戦いにおける岐阜城防衛戦での勇猛な戦いぶりであろう。福島正則が率いる東軍の猛攻に対し、長政は城の七曲口という要所を守備し、果敢に奮戦した。しかし、激戦の中で鉄砲に撃たれて負傷したと伝えられている 1 。この負傷が守備隊の動揺を招き、結果的に岐阜城の陥落に繋がった一因ともされるが、この時の長政の勇戦奮闘ぶりは、敵将であった福島正則に強い印象を与え、高く評価された。そして、これが戦後、長政が正則に召し抱えられる直接のきっかけとなったのである 1

また、『勢州軍記』には、長政が福島正則に仕官した際の知行が1万9千石であったと具体的に記されている 1 。これは、敗軍の将に対する待遇としては破格であり、いかに長政の武将としての能力が買われていたかを物語るものである。

墓所に関する情報

木造長政の明確な墓所の所在地については、本調査で参照した資料の中からは特定することができなかった 1 。長政は慶長9年(1604年)に死去しているが、当時仕えていた福島正則は安芸広島藩(49万8千石)の藩主であった 18 。そのため、もし長政の墓所が現存するとすれば、広島に関連する寺院などに存在する可能性も考えられるが、具体的な情報は見当たらない。戦国時代の武将の墓所は、その後の戦乱や都市開発、寺院の統廃合などにより失われたり、不明になったりするケースも少なくないため、長政の墓所についても同様の状況である可能性が考えられる。

6. 結論

木造長政(具政の子)の生涯と歴史における位置づけの要約

木造長政は、伊勢国の有力な国衆であった木造具政の子として、戦国時代末期から江戸時代初期という、日本史上類を見ない激動の時代を武将として駆け抜けた人物である。その生涯は、織田信雄、織田秀信、そして福島正則と、主君を変えながらも、それぞれの陣営において忠実に任務を果たし、武功を重ねたものであった。特に、伊勢長島攻めにおける水軍指揮、父と共に戦った戸木城の戦い、そして関ヶ原の戦いにおける岐阜城防衛戦など、数々の重要な戦役に参加し、その武勇を示した。

中でも、関ヶ原の戦いにおける岐阜城での奮戦は、たとえ敗軍の将という立場に終わったとはいえ、敵将であった福島正則にその勇猛さと指揮能力を高く評価され、戦後に厚遇をもって召し抱えられるという結果に繋がった。この事実は、長政個人の武将としての器量が、当時の実力主義的な価値観の中で正当に評価された証左と言えるだろう。

木造長政の生涯は、戦国武将が主家の盛衰や目まぐるしく変わる時勢の中で、自らの武をもって立身出世し、あるいは家名を保とうとした典型的な姿を映し出している。父・具政の代からの織田家との繋がり、そして自らの武功によって道を切り開いたその生き様は、戦国という時代のリアリティを我々に伝えてくれる。

木造具康(俊茂の子)とは異なる人物であることの再度の強調

本報告書で詳述してきた木造長政(具政の子)は、その父、仕えた主君、主要な事績、そして没年など、多くの点において、木造俊茂の子である木造具康とは明確に区別されるべき人物である。史料によっては、両者の記述に混同が見られたり、あるいは同一人物説が唱えられたりすることもあるが、『寛政重修諸家譜』などの主要な系図史料の記述に基づけば、両者は異なる時代背景と経歴を持つ、全く別の個人として理解することが妥当である。

本報告書は、この木造長政(具政の子)という一人の武将の生涯を、現存する史料に基づいて可能な限り正確に再構築し、その実像に迫ることを試みたものである。今後、新たな史料の発見や研究の進展によって、さらに詳細な事実が明らかになることを期待したい。

引用文献

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  15. 岐阜城の戦い/古戦場|ホームメイト https://www.touken-collection-kuwana.jp/mie-gifu-kosenjo/gifujo-kosenjo/
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