最終更新日 2025-07-13

本城常光

石見銀山に命を懸けた猛将、本城常光 ― その武勲と悲劇的末路の真相

序章:戦国史に埋もれた豪勇の武将

本城常光(ほんじょう つねみつ、永正十年(1513年) - 永禄五年十一月五日(1562年12月1日))という武将の名は、毛利元就や武田信玄といった戦国時代の巨星の影に隠れがちである 1 。しかし、彼の生涯は、戦国時代の地方における権力闘争の熾烈さ、経済的要衝の戦略的価値、そして一個人の武勇が歴史に与えたインパクトを鮮烈に物語っている。

利用者によって提示された「尼子家臣で山吹城主。毛利元就に降伏後、その勇を恐れられ誅殺された」という概要は、彼の生涯の骨子を的確に捉えている 3 。だが、その背後には、なぜ彼がそれほどまでに毛利元就を苦しめ、そしてなぜ一度は受け入れられたにもかかわらず無慈悲に一族もろとも抹殺されなければならなかったのか、という深い問いが存在する。

本報告書は、本城常光の出自から、彼が守護した石見銀山の世界史的価値、毛利氏との死闘、そして降伏から誅殺に至る謎に満ちた過程を、現存する資料を駆使して徹底的に解明する。単なる悲劇の武将としてではなく、戦国中期の中国地方における地政学的・経済的力学の結節点に生きた重要人物として、彼の実像に迫ることを目的とする。

第一章:出自と時代背景 ― 常光を形作ったもの

第一節:石見の有力国人・高橋氏一門

本城常光の生涯を理解する上で、彼の出自は極めて重要な意味を持つ。彼は安芸国・石見国に勢力を張った有力国人「高橋氏」の一門の出身であった 1 。これは、彼が単なる尼子氏配下の一武将ではなく、自立性の高い国人領主としての側面を強く持っていたことを示唆している。

常光の兄、あるいは一族の惣領であった高橋興光の時代、高橋氏は安芸国において、後に中国地方の覇者となる毛利氏の勢力を凌駕するほどの力を持っていた時期もあった 1 。しかし、享禄年間(1528-1532年頃)、高橋氏の惣領家は周防の大内氏、備後の和智氏、そして安芸の毛利氏らの連合軍によって攻め滅ぼされるという悲劇に見舞われる 5 。この一族の根幹を揺るがす事件が、常光を含む高橋一門の残存勢力が、大内氏と敵対する出雲の尼子氏を頼る直接的な契機となったと考えられる。

この出自は、彼の行動原理を深く規定した。彼の判断基準は、主家への絶対的な忠誠というよりは、自らの一族と所領を守り抜くという国人領主特有の現実主義に根差していた。後述する彼の主君の変遷(尼子→大内→尼子→毛利)は、この立場から見れば、単なる裏切りや変節ではなく、激動の時代を生き抜くための必然的な選択であったと言える 4 。そしてこの事実は、毛利元就の彼に対する評価にも影を落とすことになる。元就にとって常光は、単に敵方から降った将ではなく、かつて自らが滅亡に関与した有力氏族の末裔であり、その存在自体が潜在的な脅威となりうる人物であった。

第二節:世界史を動かした銀の山 ― 石見銀山の価値

本城常光がその命運を託された山吹城は、ただの山城ではなかった。それは、16世紀の世界経済を揺るがした巨大な富の源泉、石見銀山を防衛するための戦略拠点であった。当時の石見銀山は世界有数の銀産出量を誇り、一説には16世紀後半に世界で取引された銀の総量のうち、少なくとも10%は石見産であったと推計されている 7 。また、別の説では世界の銀の3分の1を日本産が占め、その多くが石見銀山からもたらされたとも言われる 8

この莫大な銀は、当時の国際経済において絶大な価値を持っていた。特に、明(中国)では銀で税を納める制度が施行されており、国内で銀に対する需要が爆発的に高まっていた 7 。石見から産出された銀は、東アジアの国際貿易を飛躍的に活性化させ、ポルトガル商人たちは日本のことを「銀山の王国」と呼び、その交易網を通じて石見の銀は世界中に流通した 7

この銀がもたらす富は、戦国大名の勢力図を塗り替えるほどの戦略的価値を持っていた。銀は軍資金や家臣への恩賞の原資となり、さらにはポルトガル商人から鉄砲やその火薬の原料となる硝石といった最新兵器を購入するための対価となった 9 。これにより日本の戦術は一変し、国内の統一への動きが加速したのである 10 。毛利元就が死に際し、石見銀の使途を主として軍事費に充てるよう遺言したという事実が、その重要性を何よりも雄弁に物語っている 9 。したがって、本城常光と毛利元就が繰り広げた山吹城を巡る攻防は、単なる一地方の領土争いではなく、日本の、ひいては世界の経済と軍事を動かす戦略資源の支配権を賭けた、極めて重要な戦いであった。

第三節:中国地方の覇権争いと本城常光

16世紀半ばの中国地方は、周防の大内義隆、出雲の尼子晴久、そして安芸から急速に台頭する毛利元就の三者が覇を競う激動の時代であった。当初、石見銀山は大内氏の勢力圏にあったが、その支配は盤石ではなかった 10 。天文二十年(1551年)、大内義隆が家臣の陶晴賢の謀反によって非業の死を遂げると(大寧寺の変)、巨大勢力であった大内氏は内乱状態に陥り、中国地方に権力の空白が生じる 9

この好機を逃さず、出雲の尼子氏が石見銀山へ侵攻し、その支配権を掌握した。弘治二年(1556年)、尼子軍は毛利方に属していた山吹城主・刺賀長信を攻め、降伏させる。長信は降路坂を通り温泉津の海蔵寺にて自刃に追い込まれた 9 。そしてこの時、尼子氏は出雲国須佐(現在の島根県出雲市佐田町)の高屋倉城主であった本城常光を、銀山防衛の最重要拠点である山吹城の新たな城主として抜擢したのである 5 。これにより、常光は中国地方の覇権争いの渦中、歴史の表舞台へと躍り出ることになった。

年代 (西暦)

主要な出来事

石見銀山支配者

本城常光の動向

天文6年 (1537)

尼子氏が銀山を攻撃し、大内氏から奪取する 9

尼子氏

尼子氏に属する。

天文9年-10年 (1540-41)

吉田郡山城の戦いで尼子氏が大敗を喫する 4

大内氏

敗戦後、大内義隆に服属する 4

天文12年 (1543)

大内義隆の出雲侵攻(第一次月山富田城の戦い)が失敗に終わる 4

大内氏

再び尼子氏に帰参する 4

弘治2年 (1556)

尼子氏が毛利方の山吹城を攻略。城主・刺賀長信は自刃 9

尼子氏

尼子晴久の命により、山吹城主に就任する 5

永禄元年 (1558)

忍原崩れ。毛利元就の銀山攻略軍を撃退する 9

尼子氏

尼子軍の主力として毛利軍を破る。

永禄2年-4年 (1559-61)

毛利元就・吉川元春による数度の大規模な山吹城攻撃を全て撃退する 9

尼子氏

籠城戦で武名を馳せる。

永禄5年6月 (1562)

周辺の尼子方勢力が掃討され孤立し、毛利氏に降伏する 14

毛利氏

所領安堵などの有利な条件で降伏する 14

永禄5年11月 (1562)

毛利氏の出雲侵攻に従軍中、陣中にて一族もろとも誅殺される 1

毛利氏

殺害される。

第二章:山吹城の守護神 ― 不屈の武功

第一節:叛服常なき選択

本城常光のキャリアを俯瞰すると、主君の乗り換えが目立つ。初めは尼子経久に仕えたが、天文九年(1540年)からの吉田郡山城の戦いで尼子氏が大敗すると、時流を読み大内義隆に服属した 4 。しかし、その大内氏が天文十二年(1543年)に出雲へ侵攻して大敗を喫すると、今度は再び尼子氏の麾下に復帰している 4

これは、彼の個人的な資質としての「不忠」と断じるのは一面的であろう。むしろ、大内・尼子・毛利という巨大勢力の狭間で自らの所領と一族の存続を図らなければならなかった国人領主の、極めて現実的な生存戦略の現れであった。当時の「忠義」という概念は、近世以降の主君への絶対的な服従とは異なり、より双務的で現実的な契約関係に基づいていた。常光の行動は、その時代における国人領主の典型的な行動様式であり、彼のリアリストとしての一面を物語っている。

第二節:毛利大軍を退けた籠城戦

弘治二年(1556年)に山吹城主となって以降、本城常光は石見銀山を手中に収めんとする毛利氏にとって、最大の障壁として立ちはだかることになる。

永禄元年(1558年)、毛利元就は銀山奪還を目指して本格的に進軍するが、尼子晴久は本城常光らを迎撃に向かわせた。常光は山吹城への兵糧道を封鎖するなど巧みな戦術を用い、忍原(現在の大田市川合町)において毛利軍を撃破した。この「忍原崩れ」と呼ばれる戦いは、毛利方にとって手痛い敗北となった 9

この一度の勝利に留まらず、常光の武名はさらに高まっていく。永禄二年(1559年)には、毛利軍は1万4000ともいわれる大軍で山吹城に殺到したが、常光はこれを撃退 13 。翌々年の永禄四年(1561年)にも、毛利元就・吉川元春父子が再び攻撃を仕掛けるが、またしても山吹城を落とすことはできなかった 9 。彼の武勇と卓越した籠城戦の指揮能力は、敵である毛利方からも「鬼」と恐れられるほどであった 3 。ある戦いでは、常光軍の猛烈な追撃に対し、元就が他の部隊との共同対処を命じたものの、各軍の合流が間に合わず、元就父子はやむなく撤退を余儀なくされたという逸話も残っており、常光率いる兵の精強さを物語っている 16

この一連の戦いは、常光の運命を決定づけるものとなった。彼は中国地方の覇権を狙う毛利元就と、その嫡男で猛将として知られる吉川元春の軍を、繰り返し、そして完膚なきまでに打ち破ったのである。この軍事的な大成功は、彼の武名を高めると同時に、毛利元就の心中に、決して看過できない危険な存在として常光の名を深く刻み込むことになった。彼の類稀なる武功こそが、皮肉にも彼自身の生存を許さない最大の理由となっていくのである。

第三節:難攻不落の要塞・山吹城

本城常光の武勲を支えたのが、彼が拠点とした山吹城の堅固な構造であった。城は石見銀山を見下ろす要害山(標高414m)に築かれた典型的な山城である 17 。最高所に主郭を置き、そこから南北に伸びる尾根上に複数の郭(曲輪)を階段状に配置した連郭式の縄張りであった。城の周囲は急峻な自然地形を活かし、さらに人工的な堀切や、斜面を敵が登るのを防ぐための畝状竪堀群といった防御施設で固められていた 17

この城は、銀山を防衛し、麓の鉱山町である大森の集落や街道を完全に掌握するための絶妙な位置に築かれていた。主郭の北側、つまり麓の町から見える側には、権威の象徴として「見せる」ための石垣が築かれていた可能性も指摘されており、単なる軍事拠点であると同時に、銀山支配の象徴としての役割も担っていたと考えられる 17 。この堅牢な城郭の構造と、それを最大限に活用した常光の優れた戦術眼が組み合わさることによって、山吹城は当代随一の謀将・毛利元就率いる大軍を幾度となく寄せ付けない、難攻不落の要塞と化したのであった。

第三章:降伏と誅殺 ― 栄光から奈落へ

第一節:謀将・元就の調略

度重なる敗北により、毛利元就は山吹城の武力による攻略を事実上断念せざるを得なかった。そして、彼は最も得意とする謀略戦、すなわち調略へと戦術を切り替える 11

その頃、本城常光を取り巻く状況は急速に悪化していた。永禄五年(1562年)に入ると、毛利氏は石見国内に残っていた他の尼子方勢力、例えば福屋氏や多胡氏などを次々と攻略し、常光は戦略的に孤立しつつあった 15 。さらに、尼子氏の本拠地である出雲国内の国人領主たち、例えば赤穴氏などの中からも毛利方へ寝返る動きが出始め、尼子氏全体の劣勢は誰の目にも明らかとなっていた 15

このような状況下で、元就からの執拗な懐柔工作が行われた。四面楚歌の中、常光はこれ以上の抵抗は無益と判断し、永禄五年六月、ついに毛利氏に降伏した 5 。この降伏は、石見における尼子方勢力の組織的抵抗が完全に終焉したことを意味する、決定的な出来事であった 15

しかし、この降伏は一方的な城の明け渡しではなかった。史料によれば、常光は降伏後も石見銀山と、さらには出雲国内の所領(原手郡)の支配を認められるなど、対等な立場に近い和談であったとされる 14 。これは、元就が常光の武勇と影響力を高く評価し、彼を味方に引き入れるために破格の条件を提示したことを示唆している。だが、この破格の待遇こそが、後に訪れる悲劇の伏線となるのであった。

第二節:永禄五年の惨劇

降伏からわずか5ヶ月後の永禄五年十一月五日、毛利氏の出雲侵攻に従軍していた本城常光とその一族は、出雲国宍道(しんじ)の丸倉城山麓、幡屋(はたや)に構えた陣中において、毛利元就の命令によって突如誅殺された 5

この粛清は、吉川元春の軍勢によって実行された。それは、常光一人の暗殺に留まらない、一族の根絶を目的とした極めて計画的かつ残忍なものであった。陣中にいた常光本人に加え、三男・親光、四男・春光、そして弟の昌光がその場で斬殺された 14 。さらに、人質として宍道にいた次男・隆任は山県氏によって、都賀(現在の島根県邑南町)の光宅寺にいた長男・隆光は監視役であった天野元定によって、それぞれ別の場所で殺害された 14 。この時、常光の家臣であった服部若狭が主君を救うべく吉川勢に斬りかかって抵抗したが、奮戦の末に討ち取られたという記録も残っている 5 。さしも豪勇を誇った本城一族は、この日、歴史の舞台から完全にその姿を消したのである。

第三節:誅殺の真相 ― 元就の深謀遠慮

なぜ元就は、破格の条件で受け入れたはずの常光を、これほど無慈悲に抹殺したのか。その理由は複合的であり、元就の冷徹な深謀遠慮を読み解く必要がある。

一般的に知られる「その豪勇を恐れた」という理由は、もちろん根底にあるだろう 3 。将来、再び敵に回った際の脅威を考えれば、事前に摘み取っておくという判断は、元就の合理主義からすれば自然な発想である。また、降伏にあたって常光が所領の加増などを要求したとされ、その傲慢な態度が元就の逆鱗に触れたという説もある 14 。これは誅殺を正当化するための直接的な口実として、元就が利用した可能性が高い。

しかし、この事件の本質は、より高度な政治的計算にあったと考えられる。この誅殺は、単なる恐怖や怒りによる感情的な行動ではなく、元就が中国地方の新たな支配秩序を構築するために行った、冷徹な「政治的テロ」であった。当時の中国地方には、常光のように戦況に応じて主君を乗り換える半独立的な国人領主が数多く存在した。元就が目指すのは、彼らを完全に支配下に置く中央集権的な体制であり、国人との緩やかな連合体であった大内氏や尼子氏の旧体制とは根本的に異なっていた。

その新秩序を確立するため、元就は「見せしめ」を必要とした。その対象として、最も武勇に優れ、毛利軍をさんざん苦しめ、そして有利な条件で降伏した最も象徴的な国人領主、本城常光以上の適任者はいなかった。彼とその一族を、一度受け入れた後で無慈悲に皆殺しにすることで、元就は他の全ての国人領主たちに恐怖と共に明確なメッセージを送ったのである。すなわち、「もはや条件交渉による服属や、過去の武勲は意味をなさない。生き残る道は、毛利家への絶対的かつ無条件の服従のみである」と。常光の誅殺は、新たな時代の幕開けを告げる、血塗られた宣言だったのである。

第四章:歴史的影響と後世への遺産

第一節:毛利氏の天下取りに与えた波紋

本城常光の誅殺は、元就の狙い通り、他の国人領主たちを震撼させた。しかし、その効果は元就の計算を一部狂わせる予期せぬ結果をもたらした。「明日は我が身」と恐怖に駆られた出雲の三沢氏、三刀屋氏、赤穴氏といった、一度は毛利方になびいていた国人領主たちが、一斉に尼子方へと再離反してしまったのである 1

この大規模な反乱は、元就にとって大きな誤算であった。これにより、毛利氏の出雲平定計画は大幅な見直しを迫られ、結果として尼子氏本家の滅亡は数年間遅れることになった 1 。常光一人の命が、中国地方の統一スケジュールに直接的な影響を与えたという事実は、冷徹な計算を重ねる謀将・元就ですら、人間の恐怖という感情の動きを完全には制御しきれなかったことを示す興味深い事例である。

第二節:残された者たちの運命

主家である本城氏が滅亡する一方で、その家臣たちの運命は様々であった。常光が誅殺された際、山吹城の留守を預かっていた家臣の服部治部は、抵抗することなく城を毛利方に明け渡した 5 。この現実的な判断が功を奏し、彼は毛利氏から新たに銀山代官に任じられている。

さらに、服部治部の後継者とみられる服部就久は、毛利元就から偏諱(名前の一字)を受けて「就久」と名乗り、引き続き銀山支配の実務を担った 5 。主家は滅びたが、有能な実務官僚であった家臣は、新たな支配者の下でその能力を活かして生き残ったのである。これは、主家の滅亡が必ずしも家臣団全体の終わりを意味しない、戦国時代の人の流動性と実力主義を示す一例と言える。

第三節:本城常光という武将の再評価

本城常光を単に「時代の波に翻弄された悲劇の英雄」と見るのは、あまりに一面的であろう。彼の生涯を再評価する時、彼は自らの武勇と、石見銀山という経済的な切り札の価値を過信した側面はなかったか、という問いが浮かび上がる。

彼の生涯は、一個人の武勇や局地的な経済力だけでは、巨大な政治権力の奔流には抗うことができないという、戦国時代における国人領主という階層の限界を象徴している。彼は、国人との緩やかな連合体として君臨する大内氏や尼子氏といった旧来型の大名と同じ感覚で、より強固な中央集権化を志向する新興勢力・毛利元就と渡り合おうとしたのかもしれない。その時代の変化、すなわち権力構造の質的変化を読み切れなかったことこそが、彼の悲劇の根源にあったのではないだろうか。

それでもなお、彼の存在が歴史に刻んだ意味は大きい。彼の存在は、石見銀山という経済的要衝が戦国史に与えた影響の甚大さを証明し、毛利元就という謀将の非情なリアリズムを何よりも鮮明に浮き彫りにする。彼の不屈の抵抗と壮絶な最期は、戦国時代の地方史における、忘れられがたい強烈な一幕として記憶されるべきである。

終章:石見の地に散った孤高の魂

本城常光の生涯は、武勇による栄光と、政治的力学による悲劇が交錯する、まさに戦国乱世の縮図であった。彼は石見銀山という世界的な富の源泉を守り抜き、当代随一の謀将・毛利元就を幾度も退けるという比類なき武功を挙げた。しかし、その強さゆえに警戒され、そして時代の変化の奔流の中で、一族もろとも歴史の闇に葬り去られた。

彼の生き様は、個人の力量と、巨大な組織や時代の流れとの関係性について、現代の我々にも問いを投げかける。彼の名は全国的な知名度こそ低いものの、その生涯を深く掘り下げることは、戦国という時代の多層的な現実と、そこに生きた人々の息遣いを、より鮮明に理解するための一助となる。彼の魂は、今も世界遺産・石見銀山を見下ろす山吹城址に、静かに眠っているのかもしれない。

引用文献

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  2. 本城常光- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E6%9C%AC%E5%9F%8E%E5%B8%B8%E5%85%89
  3. 本城常光(ほんじょうつねみつ)『信長の野望 天道』武将総覧 http://hima.que.ne.jp/tendou/tendou_data_d.cgi?equal1=D302
  4. 本城常光 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%9F%8E%E5%B8%B8%E5%85%89
  5. 服部 就久 はっとり なりひさ - 戦国日本の津々浦々 ライト版 https://kuregure.hatenablog.com/entry/2024/05/16/215302
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  8. 世界遺産「石見銀山」が生んだシルバーラッシュの功績とその後の暮らし - イーアイデム「ジモコロ」 https://www.e-aidem.com/ch/jimocoro/entry/negishi19
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