本堂茂親(ほんどう しげちか)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて、激動の時代を駆け抜けた一人の武将である。彼の生涯は、戦国時代の地方豪族が、いかにして天下の趨勢を読み、徳川幕府の統治体制下で近世の旗本として生き残る道を見出したかを示す、象徴的な軌跡を描いている。その実像に迫るため、まずは彼が生まれた本堂一族の出自と、戦国の荒波の中での苦闘の歴史から紐解いていく。
本堂氏は、公式な系譜の上では清和源氏為義流を称し、源頼朝の末裔を自称している 1 。これは、戦国の世において多くの武家が自らの権威を高めるために用いた手法であり、中央の権威たる源氏に連なることで、在地における支配の正統性を主張しようとする意識の表れであった。
しかし、より現実的な起源としては、陸奥国和賀郡(現在の岩手県)を本拠とした豪族・和賀氏の庶流とする説が有力である。南北朝時代の観応年間(1350年~1352年)頃に、和賀氏の一族が出羽国仙北郡本堂の地(現在の秋田県美郷町)に進出し、土着して本堂氏を名乗ったと推定されている 2 。この事実は、本堂氏が中央の権威に連なる家伝を持つ一方で、その実態は東北地方の土着性に深く根差した在地豪族であったという二重性を示唆している。
戦国時代の出羽国において、本堂氏が置かれた立場は常に不安定であった。北には戸沢氏、南には小野寺氏、西には安東氏といった有力大名が割拠し、本堂氏はこれらの強大な勢力に挟まれ、絶えず存亡の危機に晒されていた 2 。
その苦難の歴史は、茂親の祖先たちの相次ぐ戦死によく表れている。義親は戸沢氏との戦いで、頼親は金沢城主との戦いで、そして朝親もまた戦場で命を落としたと伝えられており、一族の存続がいかに絶え間ない闘争の上に成り立っていたかを物語っている 2 。当初、一族は山城である元本堂城を拠点としていたが、天文4年(1535年)頃には平地に本堂城を築いて本拠を移した 3 。これは、本堂氏が単なる山岳地帯の小豪族から、平野部を安定的に支配する小領主へと成長を遂げたことを示す画期的な出来事であった。
茂親の父である本堂忠親(ただちか)は、卓越した政治的判断力を持つ武将であった。天正18年(1590年)、天下統一を目前にした豊臣秀吉が小田原征伐の軍を起こすと、忠親は東北の諸将に先んじて小田原へ馳せ参じ、いち早く秀吉に臣従の意を示した 3 。この迅速な行動が功を奏し、上杉景勝の配下である藤田信吉による検地(太閤検地)に協力した結果、本堂氏は8,983石余の所領を安堵され、豊臣政権下の公的な領主としてその地位を認められた 6 。これは、戦国的な実力支配から、中央政権が公認する近世的な支配体制へと移行する重要な一歩であった。また、忠親は実子のいなかった本家筋の和賀氏を継いだとされ、和賀一族の中でも重要な地位を占めていたことが窺える 2 。
このような激動の時代背景の中、本堂茂親は天正13年(1585年)に忠親の嫡男として生を受けた 6 。彼は、父が築いた巧みな生存戦略を間近で見ながら、次代の当主として成長していくことになる。
表1:本堂茂親 年表
年代(和暦) |
年齢 |
主な出来事 |
出典 |
天正13年(1585年) |
1歳 |
出羽国仙北郡本堂城にて、本堂忠親の嫡男として誕生。 |
6 |
慶長4年(1599年) |
15歳 |
父・忠親と共に徳川家康に属する。 |
7 |
慶長5年(1600年) |
16歳 |
関ヶ原の戦いに際し、慶長出羽合戦で東軍として戦う。最上義光の指揮下で上杉景勝勢や小野寺義道勢と戦い、武功を挙げる。 |
6 |
慶長6年(1601年) |
17歳 |
1月に伏見城の城番を務める。同年6月、常陸国新治郡志筑に8,500石で転封となる。 |
6 |
慶長9年(1604年) |
20歳 |
江戸城の堀普請(天下普請)に参加。 |
6 |
慶長14年(1609年) |
25歳 |
笠間城の城番を務める。 |
6 |
慶長19年(1614年) |
30歳 |
大坂冬の陣に徳川方として従軍。 |
6 |
元和元年(1615年) |
31歳 |
大坂夏の陣において二条城の留守居役を務める。 |
6 |
元和年間以降 |
- |
伏見城、駿河国久能城、陸奥国岩城城、大坂城、甲斐国谷村城、甲府城などの御番・城番を歴任。 |
6 |
寛永2年(1625年) |
41歳 |
幕府より領知朱印状を与えられる。 |
1 |
正保2年(1645年) |
61歳 |
4月、甲府城勤番へ赴く途中で落馬。これが原因となり、5月2日に死去。法名は良英。 |
6 |
慶長5年(1600年)、徳川家康と石田三成の対立が頂点に達し、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、その戦火は遠く離れた出羽国にも飛び火した。後に「慶長出羽合戦」と呼ばれるこの戦いは、本堂茂親にとって、一族の未来を決定づける最初の、そして最大の試練であった。
当時の東北地方は、会津120万石の上杉景勝と、山形を拠点とする最上義光という二大勢力が鋭く対立する、一触即発の状態にあった。本堂氏の領地は、この両勢力に隣接する小野寺氏の領地と境を接しており、まさに最前線に位置していた。豊臣政権下では父・忠親が秀吉から所領を安堵された恩顧がある一方で、天下の実権は家康へと急速に移行しつつあった。どちらの陣営に与するかは、一族の存亡に直結する極めて重大な選択であった。
このような状況下で、本堂家は早くも慶長4年(1599年)には徳川家康に属することを決断している 7 。この早期の決断こそが、後の本堂家の運命を大きく左右することになる。
慶長5年(1600年)、家康が上杉討伐のために軍を発すると、茂親は父・忠親と共に東軍に与力し、故国にあって来るべき戦いに備えた 6 。家康は、本堂茂親や戸沢政盛といった出羽の国衆に対し、最上口(米沢口)から上杉領へ侵攻するよう直接命令を下しており、本堂氏が東軍の戦略において重要な役割を期待されていたことがわかる 12 。
家康が軍を西に向け関ヶ原に向かうと、上杉家の重臣・直江兼続が最上領へ侵攻を開始し、慶長出羽合戦の火蓋が切られた。これに呼応して、西軍に与した隣国の小野寺義道も、最上氏方の湯沢城を攻撃した 13 。この危機に際し、茂親は父と共に本拠の本堂城を固く守るだけでなく、最上義光の指揮下に入って上杉勢と対峙した 6 。さらに、小野寺領内で発生した一揆を鎮圧するなど、単なる防衛に留まらない積極的な軍事行動を展開し、東軍の勝利に貢献した 6 。
茂親の東軍参加は、単に時流に乗っただけの追従ではなかった。それは、一族の存亡を賭けた、計算された戦略的決断であったと考えられる。本堂氏が置かれた状況を鑑みれば、中立は事実上不可能であり、どちらかの陣営につく必要があった。もし西軍(上杉方)が勝利すれば、東軍に与した最上氏もろとも滅亡は免れない。一方で、東軍が勝利すれば、敵対した小野寺氏の弱体化に伴う何らかの恩賞が期待できる。父・忠親が小田原征伐で秀吉にいち早く味方して成功を収めた先例は、天下の趨勢を見極め、勝者につくことの重要性を茂親に教えていたはずである 6 。彼は、関ヶ原の本戦の行方だけでなく、出羽における局地戦での勝利と、その後の論功行賞までを見据え、最も生存と発展の可能性が高いと判断した徳川方へ、能動的に賭けたのである。この決断こそが、本堂氏が戦国期の地方領主から近世の幕臣へと脱皮する、最大の転換点となった。
関ヶ原で東軍が勝利すると、茂親の功績は家康に高く評価された。彼は旗本として徳川家の直臣に加えられ、その忠誠心はすぐに具体的な形で報いられた。翌慶長6年(1601年)1月には、早速京都の伏見城の城番を命じられており、家康からの厚い信頼を勝ち取ったことが窺える 6 。この一連の出来事を通じて、本堂茂親は新たな時代の支配者である徳川家の一員として、その第一歩を力強く踏み出したのである。
関ヶ原の戦後処理は、徳川家康による全国規模での大名の再配置、すなわち「天下の仕置」として実行された。本堂茂親の運命もまた、この巨大な地殻変動の中で新たな局面を迎える。出羽の地を離れ、常陸国へと移るこの国替えは、本堂家が徳川幕府の統治体制に完全に組み込まれていく過程を象徴する出来事であった。
慶長7年(1602年)、常陸国を54万石で支配していた大大名・佐竹義宣が、関ヶ原での曖昧な態度を咎められ、出羽国秋田へ20万石で減転封された 1 。家康は、この広大な佐竹氏の旧領を分割し、水戸に自らの子である徳川頼房を配置するなど、関東の守りを固めるための戦略的な配置転換を行った。
本堂茂親の常陸国新治郡への移封は、この家康の国家構想の一環であった 1 。佐竹氏のような潜在的な脅威となりうる大名を江戸から遠ざけ、その跡地には茂親のような関ヶ原で功績を挙げた信頼できる武将や、譜代の家臣を配置することで、幕府の支配基盤を盤石にしようとしたのである。茂親は、故郷の出羽本堂を離れ、常陸国新治郡に8,500石の知行地を与えられて入部した 1 。出羽時代の約8,983石から石高はわずかに減少しているが、これは懲罰的な意味合いではなく、江戸に近く、水戸徳川家にも隣接する戦略的要地を与えられたという価値が、石高以上に重視された結果と解釈できる。
常陸国に入った茂親であったが、すぐさま領主としての拠点が定まったわけではなかった。『寛政重修諸家譜』などの公的な記録では、茂親は志筑に住したとされている 1 。しかし、複数の資料によれば、当初は近隣の笠松城(現在のかすみがうら市中佐谷)を仮の拠点としていた可能性が指摘されている 1 。このことは、新たな領地の統治体制を整え、本拠地となる正式な陣屋を建設するまでには、相応の準備期間を要したことを示唆している。
本堂氏の志筑領主としての地位が幕府から公的に確定したのは、寛永2年(1625年)に領知朱印状が下付された時であった 1 。これにより、本堂茂親は名実ともに常陸志筑の領主となったのである。
茂親の常陸への転封に伴い、一族が戦国時代を通じて本拠としてきた出羽の本堂城は、その歴史的役割を終えて廃城となった 3 。小領主の城としては大規模なものであった本堂城は、主を失い、その城下町も次第に姿を変えていった。しかし、城跡は現在、秋田県指定史跡として良好な状態で保存されており、内堀などが往時の姿をよく留めている 3 。この城跡は、本堂氏が出羽の地で刻んだ栄光と苦闘の歴史を、静かに今に伝えている。
常陸国志筑の領主となった本堂茂親は、江戸幕府から「交代寄合」という特殊な家格を与えられた。これは、彼のその後の生涯を規定する重要な地位であり、本堂家が徳川の治世において果たした役割を理解する上で鍵となる。茂親の生涯は、もはや戦国武将として領地拡大を目指すものではなく、幕府への忠実な奉公に捧げられることとなる。
交代寄合とは、江戸幕府における旗本の家格の一つで、一万石未満の旗本でありながら、大名に準じる特別な待遇を受けた家々を指す 7 。一般の旗本が江戸に常住する「定府」であったのに対し、交代寄合は領地に陣屋を構えて居住し、大名と同様に参勤交代の義務を負っていた 17 。その支配は若年寄ではなく、大名を管轄する老中の下に置かれ、江戸城における詰所も大名が列する帝鑑間や柳間が与えられるなど、その格式は際立っていた 17 。
茂親と本堂家がこの交代寄合に任じられたのは、単なる名誉職ではなかった。それは、幕府の地方統治と安全保障を担う、重要な戦略的役割を内包していた。交代寄合の多くは、大坂の陣前後に交通の要衝に配置されており、反乱勢力や治安の乱れに備える役割を期待されていた 17 。本堂家の志筑領は、江戸と御三家の一つである水戸徳川家を結ぶ水戸街道に近く、かつて強大な勢力を誇った佐竹氏の旧領でもあった。この地に信頼できる武将を配置することは、幕府にとって地域の安定化と監視という二重の意味で重要であった。茂親がその生涯で歴任した数々の城番任務は、彼が単なる地方領主ではなく、幕府の軍事・警察力の一部として機能していたことを明確に示している。幕府は本堂茂親を交代寄合とすることで、彼に一定の格式と領地支配の自律性を認めつつ、その忠誠心と軍事力を、幕府直轄の機動的な警備力として活用したのである。茂親の生涯は、この交代寄合という制度が、初期の徳川幕府の安定にいかに貢献したかを示す好例と言えよう。
幕臣となった茂親は、幕府が命じる様々な公務に忠実に応えた。慶長9年(1604年)には、全国の大名や旗本が動員された江戸城の堀普請、いわゆる天下普請の一翼を担っている 6 。
さらに、徳川の世を盤石にするための最後の戦いであった大坂の陣においても、重要な役割を果たした。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣には、徳川方の一員として従軍 6 。そして翌元和元年(1615年)の大坂夏の陣では、将軍徳川秀忠が出陣して不在となった京都の二条城の留守居役という大役を務めた 6 。これは、前線での戦闘能力だけでなく、後方を守るための高い統率力と、何よりも幕府からの絶対的な信頼がなければ任されない重職であった。
大坂の陣が終結し、世が泰平に向かうと、茂親の役割は幕府の重要拠点を守る城番へと移っていく。彼の経歴は、まさに諸国の城番を歴任する旅路であった。その勤仕は、彼がいかに幕府から信頼され、重用されていたかを物語っている。
表2:本堂茂親が歴任した主な城番・御番
就任年(和暦) |
役職 |
場所 |
備考 |
出典 |
慶長6年(1601年) |
伏見城勤番 |
山城国 |
関ヶ原の戦後、いち早く命じられた役職。 |
6 |
慶長14年(1609年) |
笠間城勤番 |
常陸国 |
|
6 |
元和元年(1615年) |
二条城留守居役 |
山城国 |
大坂夏の陣における重要任務。 |
6 |
元和年間 |
伏見城御番 |
山城国 |
大坂の陣後、再任。 |
6 |
元和年間 |
駿河国久能城御番 |
駿河国 |
徳川家康ゆかりの重要拠点。 |
6 |
元和年間 |
陸奥国岩城城勤番 |
陸奥国 |
|
6 |
元和年間 |
大坂城御番 |
摂津国 |
旧豊臣氏本拠地の安定化を担う。 |
6 |
寛永年間 |
甲斐国谷村城勤番 |
甲斐国 |
|
6 |
寛永21年(1645年) |
甲斐国甲府城勤番 |
甲斐国 |
最後の任地となる。 |
6 |
この一覧が示すように、茂親が派遣された地は畿内、東海、関東、奥州と広範囲に及び、その多くが旧豊臣勢力の拠点(大坂、伏見)や徳川家ゆかりの地(駿府)、あるいは戦略上の要地であった。これは、彼がもはや一地方の武将ではなく、全国に及ぶ幕府の支配体制を支える有能な官僚として、その生涯を捧げたことを雄弁に物語っている。
戦国の動乱を生き抜き、江戸幕府の忠実な臣として各地で重責を果たしてきた本堂茂親であったが、その最期は戦場ではなく、勤番の道中で不意に訪れた。しかし、彼の死は終わりではなく、彼が礎を築いた常陸志筑における本堂家の歴史の始まりを告げるものであった。
寛永21年(1645年、同年12月に正保へ改元)4月、茂親は甲斐国甲府城の勤番を命じられ、任地へと赴く途上にあった。その道中で不運にも落馬し、これが致命傷となる 6 。同年5月2日、茂親は61年の生涯を閉じた。法名は良英 6 。天下分け目の合戦を乗り越え、泰平の世の礎を築くために奔走した武将の、あまりにもあっけない最期であった。
茂親の亡骸は、常陸国志筑の地に葬られた。その墓所は、現在のかすみがうら市にある曹洞宗の寺院、長興寺に現存する 6 。この長興寺は、単に領内にある寺院というだけではない。寺伝によれば、この寺はもともと本堂氏が出羽国にあった一族の菩提寺・瑞雲院を、慶長7年(1602年)の国替えに伴ってこの地に移したものである 16 。
この菩提寺の移転という行為は、極めて象徴的な意味を持つ。武家にとって菩提寺は、先祖代々の霊を祀り、一族の結束と正統性を象徴する精神的な支柱である。国替えは、土地だけでなく、その土地に根差した先祖からの繋がりを物理的に断ち切る行為でもある。茂親は、故郷の寺を丸ごと新しい領地に移すことで、物理的な移住を精神的なレベルで完結させようとした。これにより、志筑は単なる幕府からの拝領地ではなく、本堂家の新たな「故郷」となり、一族のアイデンティティを新天地に深く根付かせたのである。彼は、城や陣屋といった物理的な拠点だけでなく、長興寺という精神的な拠点を築くことで、出羽から常陸への一族の完全な移行を成し遂げ、後継者たちが迷いなく志筑の領主として生きていくための礎を築いたのだ。
茂親の死後、家督は長男の本堂栄親(よしちか)が継承した 1 。栄親は、弟の親澄(ちかすみ)に500石を分与したため、本堂宗家の知行は8,000石となった 1 。そして、父・茂親の時代から計画が進められていたであろう志筑の陣屋が完成したのは、奇しくも茂親が亡くなり栄親が家督を継いだ正保2年(1645年)のこととされている 1 。これは、志筑における本堂家の支配拠点の確立が、茂親が計画し、その死の直後に息子が完成させた、父子二代にわたる事業であったことを示唆している。こうして、本堂茂親が遺した構想は後継者の手によって結実し、志筑本堂家の約250年にわたる歴史が幕を開けたのである。
本堂茂親の生涯は、戦国末期の地方領主から近世の幕臣へと、時代の大きな転換点を見事に乗り越えた一人の武将の姿を鮮やかに映し出している。彼の功績は、単に一族を存続させたことに留まらず、その後の本堂家の在り方、さらには日本の歴史の転換期における一つの生存戦略のモデルを後世に示した点にある。
本堂茂親は、二つの異なる顔を持つ人物であった。戦国の動乱期においては、父・忠親譲りの鋭い政治的嗅覚で的確に時勢を読み、一族を滅亡の淵から救い出す大胆な決断を下した「武将」。そして、泰平の江戸時代に入ってからは、幕府への地道で忠実な奉公を生涯にわたって続け、交代寄合という新たな身分に一族を適応させた有能な「官僚」。彼の生涯は、戦国期の独立した地方勢力が、いかにして巨大な徳川幕府の統治体制に組み込まれ、その中で確固たる地位を築いて存続し得たかを示す、典型的な成功例として評価することができる。
茂親が築いた盤石な基盤の上で、本堂家は交代寄合として約250年の長きにわたり、志筑の地を治め続けた 9 。そして、一族の歴史において特筆すべきは、茂親が示した「時代の流れを読む力」が、後世にも受け継がれていたことである。
幕末の動乱期、10代当主の本堂親久(ちかひさ)は、日本の歴史が再び大きく動く中で、かつての茂親と同じく、重大な決断を下す。彼は、徳川幕府の権威が揺らぐのを見るや、いち早く明治新政府に忠誠を誓った。この功績が認められ、慶応4年(1868年)、本堂家は1万110石への加増を受け、ついに大名の列に加えられ、志筑藩を立藩したのである 7 。
ここに、本堂家の歴史を貫く驚くべき共通点が見出せる。1600年の関ヶ原と1868年の戊辰戦争という、日本の二大転換期において、本堂家は常に旧来の権威(豊臣政権、徳川幕府)ではなく、新たな時代の担い手となる「勝者」の側につくという、極めて現実主義的な政治的選択を成功させた。本堂茂親が示した「時代の趨勢を見極め、的確な側に付く」という生存戦略は、一族の家風として深く根付き、約270年の時を経て幕末の当主によって再現された。茂親が遺した最大の遺産は、石高や家格といった物理的なものではなく、危機を乗り越え、一族を未来へと繋ぐための政治的知恵そのものであったのかもしれない。
本堂茂親とその一族が刻んだ歴史は、今もなお各地の史跡にその痕跡を留めている。
これらの史跡は、本堂茂親という一人の武将が、いかにして激動の時代を生き抜き、一族の未来を切り拓いたかを、現代に生きる我々に静かに語りかけている。