戦国時代から江戸時代初期にかけての激動の時代を駆け抜け、徳川幕府の礎を築いた武将は数多い。徳川四天王のような華々しい武功で知られる人物がいる一方で、その影で着実に主君を支え、政権の安定に不可欠な役割を果たした譜代大名たちがいた。本多康俊(ほんだ やすとし)は、まさにその後者の典型と言える人物である。彼は、徳川家康の天下統一事業とその後の体制固めに、その類稀なる出自と実直な働きで貢献した。本報告書は、諸史料を丹念に読み解き、この本多康俊という一人の大名の生涯を、その出自、戦功、治世、そして人物像に至るまで徹底的に解明することを目的とする。
本多康俊の生涯を理解する上で、まず彼の出自の特異性を把握することが不可欠である。彼は永禄12年(1569年)、徳川四天王の筆頭と称された重臣、酒井忠次(さかい ただつぐ)の次男として生を受けた 1 。さらに、その母は徳川家康の祖父・松平清康の娘であり、家康の父・松平広忠の妹にあたる碓井姫(うすいひめ)であった 1 。この血筋により、康俊は主君である徳川家康と従兄弟という、他の家臣とは一線を画す極めて近しい縁戚関係にあった 1 。
この出自は、彼の生涯にわたって計り知れない影響を与えた。それは単なる血の繋がり以上の意味を持ち、徳川宗家からの絶対的な信頼の証左であった。戦国乱世が終わり、徳川による新たな統治体制を構築する過程において、武功だけでなく、主君への揺るぎない忠誠心と血縁による強い結束が何よりも重視された。康俊は、譜代家臣の中でも「御連枝(ごれんし)」に近い特別な存在として、その後のキャリアを歩むことになるのである。
康俊がその名を継ぐことになった本多家は、三河国宝飯郡伊奈(現在の愛知県豊川市伊奈町)を本拠とした一族で、通称を「伊奈本多家」あるいは「彦八郎家」という 8 。この家系は、同じく徳川四天王に数えられる本多忠勝の「平八郎家」や、家康の謀臣として知られる本多正信の「弥八郎家」とは系統を異にする 8 。本多一族は非常に多くの分家を抱え、それぞれが徳川家中で重要な役割を担っていたが、伊奈本多家もその有力な一支流であった。
伊奈本多家は、家康の祖父・清康の代から松平家に仕えた古参の譜代であり、徳川家の象徴である「三つ葉葵」の家紋の由来にまつわる逸話を持つ家としても知られている 11 。享禄2年(1529年)、伊奈城主であった本多正忠が、松平清康による吉田城攻めに従軍し、戦勝の祝宴で城内の池にあった水葵の葉に肴を盛って献上したところ、清康がこれを吉例として本多家の家紋「立葵」を譲り受け、後に徳川家の家紋になったという伝承である 12 。この逸話の真偽はともかく、伊奈本多家が古くから松平宗家と深い関係にあったことを物語っている。
康俊の複雑な家族関係を理解するため、以下にその家系図を示す。
関係 |
氏名 |
備考 |
実父 |
酒井忠次 |
徳川四天王筆頭。 |
実母 |
碓井姫 |
松平清康の娘。徳川家康の叔母。 |
養父 |
本多忠次 |
伊奈本多家当主。康俊の養父。 |
主君/従兄 |
徳川家康 |
江戸幕府初代将軍。母(於大の方)が碓井姫の異母妹。 |
兄 |
酒井家次 |
酒井家宗家を継承。越後高田藩主。 |
弟 |
小笠原信之 |
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松平久恒 |
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|
酒井忠知 |
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正室 |
菅沼定盈の娘 |
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長男 |
本多俊次 |
康俊の跡を継ぎ、膳所藩2代藩主となる。 |
次男 |
本多忠相 |
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三男 |
本多俊昌 |
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四男 |
本多俊之 |
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五男 |
本多景次 |
|
娘 |
前田利孝正室 |
加賀藩支藩の七日市藩主・前田利孝に嫁ぐ。 |
出典: 1
この家系図は、康俊が徳川政権の中枢を担う複数の名門と深く結びついていたことを示している。酒井家という筆頭家老の家柄、本多家という譜代名門の家名、そして徳川宗家との直接的な血縁という三つの要素を一身に体現する彼の存在は、家康にとって家臣団の結束を象徴し、強化する上で極めて重要な戦略的人事であった。酒井家の次男であった康俊は、いずれ他家へ養子に出る可能性が高かったが、後継者に不安のあった伊奈本多家へと送り込まれた背景には、家康の深謀があったと考えられる。これにより、伊奈本多家は徳川宗家とより強固に結びつき、その忠誠心は盤石なものとなった。康俊は、他の誰にもない独自の立場を確立し、それが後の厚遇へと繋がっていくのである。
本多康俊の青年期は、徳川家が天下取りへの道を歩む中で、極めて重要な役割を担う人質としての生活から始まった。この経験は、彼の武将としての資質を形成する上で、計り知れない影響を与えたと考えられる。
天正3年(1575年)、武田勝頼の大軍に長篠城を包囲された徳川家康は、同盟者である織田信長に援軍を要請した。この重大な局面において、家康は信長への忠誠と盟約の証として、人質を差し出す決断を下す。その役目を担ったのが、当時わずか7歳の康俊であった 1 。
『寛政重修諸家譜』などの史料によれば、信長は康俊が人質として岐阜城(一説には安土城)に送られてきたことを受けて、大軍の派遣を決定したと記されている 16 。これは、康俊の存在が、戦国史の転換点の一つである長篠の戦いの勝敗を左右する、極めて重要な鍵であったことを示している。家康が自身の従兄弟であり、筆頭家老の次男という極めて身分の高い少年を人質に出したことは、この戦いにかける並々ならぬ覚悟を信長に示すものであった。康俊の幼少期は、このように徳川家の命運を背負うという、過酷な状況下で始まったのである。
約5年間にわたる織田家での人質生活を終えた康俊は、天正8年(1580年)、12歳で正式に伊奈本多家の当主・本多忠次の養子となった 1 。忠次は兄の光忠が病弱であったため家督を継いだが、自身も後継者となる実子に恵まれなかったか、あるいはその子が病弱であったと推測される 18 。忠次にとって、人質としての大役を果たし、かつ徳川宗家と深い血縁を持つ康俊は、まさに理想的な後継者であった。
天正10年(1582年)、康俊は家康の御前で元服し、主君の諱(いみな)から「康」の一字を賜り、「康俊」と名乗ることを許された 16 。これは、彼が正式に徳川家臣団の一員として認められ、将来を嘱望されていたことの証である。そして天正17年(1589年)、養父・忠次から家督を譲り受け、伊奈本多家の当主となった 16 。
天下統一を目前にした豊臣秀吉が、天正18年(1590年)に小田原の北条氏を攻めた際、康俊は再び人質としての役割を担う。家康の命により、彼は徳川家の忠誠を示す人質として、秀吉の権力の象徴であった京都の聚楽第に赴いた 3 。この時、康俊は22歳。織田、豊臣という二つの天下人の下で人質生活を送った経験は、彼に戦場での武勇とは異なる、大国の力関係を肌で感じる鋭い政治感覚を養わせたに違いない。力と力の狭間で生き抜く術、そして武力だけでなく、交渉や情報、忠誠の表明がいかに重要であるかを、彼は若くして体得したのである。後に彼が息子たちに説いたという統率者としての哲学は、こうした経験に裏打ちされたものと解釈できよう。
人質としての大役を果たした本多康俊は、徳川家康の天下取りの過程で、武将として着実に功績を重ね、大名への道を切り拓いていく。彼のキャリアは、単なる戦場での働きだけでなく、主君からの深い信頼に支えられていた。
天正18年(1590年)、小田原征伐の後、豊臣秀吉の命により徳川家康は本拠地を三河から関東へ移された。この関東移封に伴い、康俊は下総国匝瑳郡小笹郷(現在の千葉県香取郡多古町周辺)に5,000石の所領を与えられた 1 。これは、彼が譜代の重臣として、徳川家の新たな本拠地である関東の防衛と安定化を担う一員に正式に組み込まれたことを意味する。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、康俊は家康率いる本隊に属してこれに従軍した 2 。当時の陣立書によれば、彼は家康の本陣が置かれた桃配山(ももくばりやま)の旗本備(はたもとぞなえ)、すなわち徳川軍の直属精鋭部隊の一員として名を連ねている 20 。これは、彼が家康の側近くで戦況を見守るという、極めて信頼された立場にあったことを示している。
この戦いにおいて、康俊個人が立てた突出した武功に関する記録は多くない。しかし、彼の役割は、目立つ前線での戦闘ではなく、総大将である家康の周囲を固めるという、敗北が許されない最も重要な任務であった。
合戦後、家康が江戸へ帰還する際には、康俊は三河国吉田城(現在の愛知県豊橋市)の留守居役を命じられている 16 。吉田城は東海道の要衝であり、徳川家にとって旧領三河における重要拠点の一つであった。このような城を任されたことは、彼の忠誠心と統治能力が高く評価されていたことの証左である。
関ヶ原での戦功により、康俊は慶長6年(1601年)、三河国西尾に2万石を与えられ、西尾城主となった 2 。これにより、彼は5,000石の旗本から2万石の大名へと昇進し、ここに三河西尾藩が立藩された。この加増は、関ヶ原での直接的な戦闘行為だけでなく、それまでの人質としての忠勤や、家康の従兄弟という血縁関係、そして戦後の重要拠点管理といった、彼の「信頼」という無形の資産が大きく評価された結果であった。
家康にとって、天下統一後の政権安定期には、武勇一辺倒の武将だけでなく、絶対的に信頼でき、重要拠点を安心して任せられる親族・譜代大名が不可欠であった。康俊への西尾2万石の付与は、過去の功績と将来への期待を含んだ、徳川政権の基盤を固めるための戦略的な配置であったと言える。彼の価値は、戦場での首級の数だけでは測れない部分にこそあったのである。
大名となった後も、康俊は幕府の重要な儀式に参加している。慶長8年(1603年)、家康が征夷大将軍に就任し、朝廷に参内した際には、その行列に供奉し、将軍の履物を預かる「御沓(おくつ)の役」という名誉ある役を務めた 4 。これは、彼が徳川家中で確固たる地位を築いていたことを示している。
徳川の世が盤石になりつつあった中で勃発した大坂の陣は、本多康俊にとって、その武将としての能力を最大限に発揮し、生涯最大の武功を挙げる舞台となった。この戦いでの活躍が、彼の評価を決定的なものにする。
慶長19年(1614年)に始まった大坂冬の陣において、康俊は近江膳所城の守備を命じられた 1 。膳所城は、京都と東国を結ぶ東海道を押さえ、琵琶湖の水運を掌握する上で極めて重要な拠点であった。大坂の豊臣方に対する最前線の一つであり、この城の守備を任されたことは、幕府からの信頼がいかに厚かったかを物語っている。
康俊はこの大役を全うするだけでなく、守備の傍ら、河内国で徳川方に敵対して蜂起した一揆勢を鎮圧するという功績も挙げている 3 。これにより、彼は単なる城の守将に留まらず、能動的に敵対勢力を排除する能力も示した。
元和元年(1615年)の和議破綻により、大坂夏の陣が勃発すると、康俊は自ら軍勢を率いて出陣する。そして、豊臣家との最終決戦となった天王寺・岡山の戦いに参加した。この戦いで康俊は目覚ましい働きを見せ、敵兵の首を105(一説には113)も挙げるという大戦果を記録した 1 。これは徳川譜代大名の中でも際立った武功であり、彼の武将としての名声を不動のものとした。冬の陣での堅実な守備と、夏の陣での勇猛果敢な攻撃という、静と動の両面で高い能力を発揮したのである。
大坂の陣における一連の功績は高く評価された。そして元和3年(1617年)、幕府は康俊に対し、1万石を加増した上で、彼が冬の陣で死守した近江膳所へ3万石の藩主として移封することを命じた 1 。
この采配には、単なる恩賞以上の象徴的な意味が込められていた。康俊が自らの働きで守り抜いた城を、その戦功によって領地として与えられるという事実は、「自ら勝ち取った城」という強力な物語性を生み出す。これは、康俊自身の権威を高めるだけでなく、彼の膳所藩主としての正統性を家臣や領民、さらには他の大名に対しても強く示す効果があった。彼の膳所入封は、単なる幕府命令による配置転換ではなく、「英雄的な戦功の末に獲得した領地」という、武門の誉れに満ちた出来事として認識されたのである。
本多康俊は、関ヶ原の戦いと大坂の陣という二つの大きな戦功によって、西尾藩、そして膳所藩の藩主となった。しかし、彼の藩主としての時代の記録は、その後の平和な時代の藩主たちに比べて多くはない。これは、彼の歴史的役割が、長期的な民政家ではなく、戦乱の終結と新たな支配体制を確立する「創業者」であったことを示唆している。
慶長6年(1601年)から元和3年(1617年)までの約16年間、康俊は初代西尾藩主として三河国に2万石を領した 22 。藩主として、彼は領国の基礎固めに着手したと考えられるが、その藩政に関する具体的な記録、例えば検地の実施や独自の法令発布といった事績は、現存する史料からはほとんど見出すことができない 6 。
しかし、断片的な記録からは、彼が藩主として、また家康の近親者として、巧みに藩の権威を高めていた様子が窺える。『寛政重修諸家譜』などによれば、家康が鷹狩りの際にしばしば西尾城に立ち寄り、その都度、康俊が御膳を献上して歓待したとある 4 。家康はこれに満足し、康俊に時服(じふく、季節に応じた衣服)や白銀などを下賜したという。これは、単なる主君と家臣の関係を超えた、親密な交流があったことを示している。将軍が頻繁に訪れることは、藩の格を示す何よりの証であり、領民や周辺大名に対する強力な権威付けとなったであろう。
また、慶長7年(1602年)には、後に本多家の菩提寺となる縁心寺を西尾の地に建立している 26 。これは、藩主としての宗教政策の一環であり、領国における精神的な支柱を確立しようとする意図があったと考えられる。
元和3年(1617年)、大坂の陣の功により、康俊は3万石に加増の上で近江膳所藩の初代藩主(本多家として)となった 21 。膳所城は、関ヶ原の戦い直後の慶長6年(1601年)に、徳川家康自らが築城を命じ、城造りの名手と謳われた藤堂高虎に縄張りをさせた、天下普請第一号の城であった 30 。琵琶湖の湖水を引き込んだ水城であり、「瀬田の唐橋を制する者は天下を制す」と言われた交通の要衝を守る、京都防衛の最重要拠点である。この地を任されたことは、幕府が康俊に寄せる信頼の絶大さを物語っている。
しかし、膳所における康俊の治世は、元和7年(1621年)に53歳で死去するまでの、わずか4年間という短い期間に終わった 1 。そのため、城下町の本格的な整備や産業振興といった具体的な藩政の実績に関する記録はほとんど残されていない 21 。これらの事業は、跡を継いだ息子の俊次や、一度藩主家が交代した後に7万石で再封された本多家の時代に本格化していくことになる 33 。
康俊の藩主としての役割は、内政改革や大規模な開発事業よりも、大坂の陣の直後という緊迫した情勢の中で、畿内の軍事的安定を確保し、徳川の支配を盤石にすることであった。彼の功績は、文書に残る藩政記録の多寡ではなく、後の藩政の前提となる「安定した領地」を確保したことそのものにあると言えよう。
康俊の生涯は、徳川家の発展と共に着実に石高を増やしていった、譜代大名の典型的な上昇軌道を示している。
年代 |
国・郡 |
領地名 |
石高 |
備考 |
天正18年(1590年) |
下総国 匝瑳郡 |
小笹郷 |
5,000石 |
徳川家康の関東移封に伴い拝領。 |
慶長6年(1601年) |
三河国 |
西尾 |
20,000石 |
関ヶ原の戦いの戦功により加増。西尾藩を立藩。 |
元和3年(1617年) |
近江国 |
膳所 |
30,000石 |
大坂の陣の戦功により加増移封。膳所藩主となる。 |
出典: 1
本多康俊の人物像を直接伝える一次史料は限られている。しかし、数少ない逸話やその生涯の軌跡から、彼の武将観や人間性を垣間見ることができる。彼は、戦国乱世の猛将とは一線を画す、新しい時代のリーダー像を体現した人物であった。
康俊の人物像を最も象徴的に物語るのが、息子たちの教育に関する逸話である 3 。ある日、康俊が息子たちの槍の稽古を目にした際、彼はそれを制し、次のように諭したと伝えられる。
「合戦の時に自ら槍を振るって戦うのは、禄高の低い小身の武士の役目である。お前たちのような大身の者が学ぶべきは、軍全体を動かす采配のとり方、将としての戦術である」
この言葉は、康俊が個人の武勇よりも、組織を率いる統率力や戦略眼をこそ、大名たる者の最も重要な資質と考えていたことを明確に示している。これは、同じ本多一族でありながら、「生涯57度の合戦でかすり傷一つ負わなかった」と伝えられる猛将・本多忠勝の武将観とは実に対照的である 36 。
この逸話は、康俊が時代の変化を鋭敏に感じ取っていたことを示唆する。戦乱が終わり、幕藩体制という巨大な統治機構が確立されつつある時代において、大名に求められるのは、もはや個人的な武勇ではない。多くの家臣を束ね、領地を経営し、幕府の秩序の中で役割を果たす、高度な組織管理能力であった。康俊は、これからの大名が、自らが槍を振るう「駒」ではなく、多くの家臣という駒を効果的に動かす「将棋の指し手」でなければならないと理解していたのである。彼は、戦国乱世の「個の武勇」を重視する価値観から、江戸時代の「組織の統率力」を重視する価値観への移行を体現した、新時代のリーダー像の先駆者であったと言えよう。
康俊が主君・家康から寄せられていた信頼の厚さは、その生涯の様々な場面で確認できる。前述の通り、西尾藩主時代には、家康が鷹狩りの際に何度も彼の居城を訪れ、親密な交流を重ねている 4 。これは、彼が単なる家臣ではなく、心を許せる近親者として扱われていたことの現れである。
さらに、元和2年(1616年)に家康が薨去した際には、岡崎の大樹寺で執り行われた法会において、奉行という重要な役職を務めている 3 。徳川家の祖廟である大樹寺での、初代将軍の法会を取り仕切るという大役は、幕府からの絶対的な信頼がなければ任されるものではない。
一方で、『常山紀談』や『名将言行録』といった、江戸時代に編纂された武将の逸話集には、本多忠勝や酒井忠次のような派手なエピソードはほとんど収録されていない 3 。これは、彼の功績が、後世に語り継がれるような奇抜な言動や一騎打ちの武勇伝ではなく、組織の中での堅実な働きや、主君への揺るぎない忠誠心といった、地道なものであったためかもしれない。彼の人物像は、その生涯の軌跡—高貴な血筋、二度にわたる人質としての忠勤、重要な戦で常に信頼された役割を担ったこと、そして大坂の陣での決定的な戦功—から総合的に推察するほかない。それは、派手さはないが、極めて忠実で、与えられた任務を確実にこなし、大局観を持った、信頼に足る指揮官であったと評価できる。
本多康俊の生涯は、元和7年(1621年)2月7日、53歳で幕を閉じた 1 。しかし、彼の遺産は、彼が創始した大名家を通じて、幕末まで受け継がれていくことになる。彼の最大の功績は、個人的な武勇伝ではなく、徳川の世を支える安定した譜代大名家を築き上げたことにある。
西暦(和暦) |
康俊の年齢 |
康俊の動向・事績 |
日本の主な出来事 |
1569年(永禄12年) |
1歳 |
酒井忠次の次男として誕生。 |
|
1575年(天正3年) |
7歳 |
織田信長への人質として岐阜城へ赴く。 |
長篠の戦い |
1580年(天正8年) |
12歳 |
本多忠次の養子となる。 |
|
1582年(天正10年) |
14歳 |
家康の前で元服し、「康俊」と名乗る。 |
本能寺の変 |
1589年(天正17年) |
21歳 |
養父・忠次より家督を継承。 |
|
1590年(天正18年) |
22歳 |
小田原征伐に際し、豊臣秀吉への人質となる。家康の関東移封に伴い、下総小笹5,000石を拝領。 |
小田原征伐 |
1600年(慶長5年) |
32歳 |
関ヶ原の戦いに家康本隊として従軍。戦後、三河吉田城の留守居役を務める。 |
関ヶ原の戦い |
1601年(慶長6年) |
33歳 |
戦功により三河西尾2万石を拝領。西尾藩主となる。 |
|
1603年(慶長8年) |
35歳 |
家康の将軍宣下に供奉。 |
徳川家康、征夷大将軍に就任。 |
1614年(慶長19年) |
46歳 |
大坂冬の陣で近江膳所城を守備。 |
大坂冬の陣 |
1615年(元和元年) |
47歳 |
大坂夏の陣、天王寺・岡山の戦いで首級105を挙げる武功を立てる。 |
大坂夏の陣 |
1616年(元和2年) |
48歳 |
家康薨去。岡崎大樹寺での法会で奉行を務める。 |
徳川家康、死去。 |
1617年(元和3年) |
49歳 |
大坂の陣の戦功により、近江膳所3万石に加増移封。 |
|
1621年(元和7年) |
53歳 |
2月7日、膳所にて死去。 |
|
出典: 1
康俊は、近江膳所藩主本多家(康俊系本多家)の初代藩祖として歴史に名を刻んだ 6 。彼の死後、家督は長男の俊次が継承した 1 。しかし、俊次は父の死後まもなく、膳所から旧領である三河西尾へ3万5,000石で移封されるという異例の采配を受ける 16 。その後、膳所藩は一時的に菅沼氏、石川氏が治めた。
しかし、慶安4年(1651年)、本多俊次は伊勢亀山藩から7万石という大加増を受けて膳所に再封される 22 。この再入封以降、膳所藩は幕末に至るまで13代にわたり本多家が世襲し、譜代の名門として存続した 8 。これは、康俊が築いた徳川幕府への忠誠と功績の基盤がいかに強固であったかを物語っている。
康俊のひ孫にあたる本多康慶が発布した「家中定書」には、幕府法度の遵守や武家の嗜みなどが厳しく説かれており、康俊が創始したであろう忠実で規律正しい家風が、代々受け継がれていたことが窺える 43 。
本多康俊は、徳川四天王のような後世に語り継がれる華々しいスター性こそ持たなかったかもしれない。しかし、徳川家康の親族という特別な立場を背景に、人質、指揮官、そして藩祖として、徳川幕府の創成期に不可欠な役割を、実直かつ確実に果たした人物であった。彼の生涯は、戦乱の時代を戦功によって生き抜き、泰平の世の礎を築いた譜代大名の、まさに典型例と言える。
彼の最大の功績は、一つの合戦の勝利や一つの逸話ではなく、幕末まで徳川の世を支え続けた安定した大名家「膳所本多家」を創始し、徳川の天下を盤石にする一翼を担ったことそのものにある。彼は、歴史の表舞台で輝く英雄たちの影にあって、静かに、しかし力強く、新しい時代の秩序を支えた、真の功臣であったと評価できるであろう。