本多忠朝(ほんだ ただとも)。その名は、戦国時代から江戸時代初期にかけての歴史を語る上で、ひときわ異彩を放つ存在として記憶されている。彼は、「徳川四天王」の筆頭にして、「家康に過ぎたるもの」とまで謳われた伝説的な武将、本多忠勝の次男として生を受けた 1 。その出自は、彼に栄光をもたらすとともに、生涯にわたって超克すべき巨大な影を落とすこととなる。
忠朝の生涯は、単なる武勇伝として語られるにはあまりに複雑な葛藤に満ちている。父から受け継いだ勇猛さで初陣を飾り、若くして大名となる一方で、その偉大すぎる父の存在は常に比較の対象となり、彼の自尊心を苛んだ。その葛藤が頂点に達したのが、天下分け目の最後の戦い、大坂の陣であった。冬の陣で受けた屈辱的な叱責は、彼の心に死の覚悟を刻み込み、夏の陣における壮絶な最期へと駆り立てる 3 。その死は、武士としての「名誉」を「恥」から回復するための、命を賭した自己証明の行為であった。
しかし、本多忠朝の物語は、戦場での死をもって終わりはしない。驚くべきことに、彼はその死後、「酒封じの神」という類稀な神格を得て、現代に至るまで人々の信仰を集め続けているのである 5 。武人としての栄光と挫折、そして死後に訪れた異色の転身。本報告書は、史実と伝承を丹念に検証し、彼が生きた時代の価値観、特に「名誉」と「恥」の文化が一個人の行動に与えた影響を深く考察することで、この悲劇の勇将、本多忠朝の実像に迫るものである。
本多忠朝は、天正10年(1582年)、徳川家康の最も信頼する重臣、本多平八郎忠勝の次男として生を受けた 7 。母は安知和右衛門の娘と伝わる 9 。兄には、後に本多家の家督を継ぐことになる忠政がいた 10 。
父・忠勝は、息子たちに対し、単なる個人の武勇を磨くこと以上に、大将としての器量を身につけることを強く求めた。ある時、息子たちの槍の稽古を見た忠勝は、「合戦において自ら槍を振るうのは一兵卒の技である。大将たる者は、兵を自在に動かす采配の振り方をこそ稽古すべきだ」と説いたという逸話が残っている 11 。この教えは、忠勝自身が個人的武勇に秀でた猛将であると同時に、軍団を率いる優れた指揮官であったことを示している。そして、その万能の武人としての在り方を、息子たちにも継承させようという強い期待の表れであった。忠朝は、このような父の薫陶を受け、徳川家の中核を担う武将として成長していく。
慶長5年(1600年)9月、天下の趨勢を決する関ヶ原の戦いが勃発する。この時19歳の忠朝は、父・忠勝と共に徳川家康の本隊に属して従軍し、初陣を飾った 7 。若き忠朝は、この大舞台で父の名に恥じぬ働きを見せる。特に、西軍の中でも屈指の精鋭として知られた島津義弘の部隊と対峙した際には、凄まじい奮戦ぶりを示した。その激闘の様は、佩刀が大きく曲がり、鞘に収めることすらできなくなったほどであったと伝わる 9 。この勇猛果敢な戦いぶりは、総大将である徳川家康の目に留まり、直接賞賛の言葉を賜ったという。父譲りの武才を天下に示す、輝かしい初陣であった。
この忠朝の活躍は、兄・忠政の境遇と鮮やかな対比をなす。長男である忠政は、徳川秀忠の軍勢に属して中山道を進み、上田城の真田昌幸・信繁(幸村)親子を攻めたが、真田の巧みな戦術の前に大敗を喫した。その結果、関ヶ原の本戦には遅参するという、武将として大きな失態を犯してしまったのである 10 。この対照的な結果は、戦後の兄弟の処遇に少なからず影響を与えることとなった。
関ヶ原の戦いが徳川方の勝利に終わると、戦後の論功行賞が行われた。父・忠勝は、その絶大な功績により、伊勢国桑名10万石へと加増移封された 12 。そして忠朝は、関ヶ原での目覚ましい武功を認められ、父の旧領であった上総国大多喜に5万石を与えられ、大名としての第一歩を踏み出した 7 。
この時、家康は忠勝に対し、桑名10万石に加えてさらに5万石を加増しようとしたが、忠勝は「分に過ぎたるもの」としてこれを固辞した。そこで家康は、その加増分を次男である忠朝に与えることにした、という逸話も伝わっている 5 。この話が事実であれば、家康が忠朝の武功を高く評価していたこと、そして父・忠勝が次男の将来を思い、その独立を後押ししたことの証左となろう。
関ヶ原における兄弟の功罪の差は、通常であれば確執を生みかねないものであった。長男で家督を継ぐべき忠政が失態を犯し、次男の忠朝が手柄を立てて大名となるという状況は、戦国時代の家督相続の力学から見れば極めて繊細な問題をはらんでいた 13 。しかし、後に見られる遺産相続を巡る逸話では、兄弟が互いに財産を譲り合うという謙虚で美しい姿が示される。このことから、本多家の家風、とりわけ父・忠勝の教育が、個人的な功名心よりも家全体の結束や武士としての義理を重んじる気風を育んだと推察される。関ヶ原での対照的な結果は、兄弟の公的な評価を一時的に分けたかもしれないが、彼らの私的な絆を損なうものではなく、むしろ互いを尊重し合う美徳へと昇華されていったのである。
大坂の陣における悲劇的な最期が本多忠朝のイメージを強く規定しているが、その一方で、彼は上総大多喜藩主として優れた為政者の一面も持っていた。戦場での武勇のみならず、領国経営においても確かな手腕を発揮したのである。
大多喜藩5万石の藩主となった忠朝は、まず藩政の基盤を固めることに注力した。領内の状況を正確に把握し、安定した統治を実現するため、検地を実施した記録が残っている 12 。彼の統治者としての具体的な手腕を今に伝えるのが、千葉県立中央博物館大多喜城分館に保管されている『本多忠朝新田開発文書』である 15 。
この史料には、慶長14年(1609年)の「国吉原新田就相起定条々」と、慶長16年(1611年)の「万喜原新田掟之条々」という二つの文書が含まれている 15 。これらは、忠朝が領内の原野を開墾し、石高の増加を図るために発令した法令である。その内容は、新たに田畑を開墾した者に対し、3年間の諸役や年貢を免除するという手厚いもので、領民の開発意欲を刺激する合理的な政策であった 15 。これらの史料は、忠朝が単なる武人ではなく、領国の発展と民政の安定に心を砕く、近世初期の為政者として必要な実務能力を備えていたことを明確に示している。
忠朝の人間性と統治者としての冷静な判断力を示す象徴的な出来事が、慶長14年(1609年)に発生した。前フィリピン総督ドン・ロドリゴ・デ・ビベロ一行を乗せたスペイン船サン・フランシスコ号が、航海の途中で嵐に遭遇し、忠朝の領内である上総国岩和田村(現在の千葉県御宿町)の沖で難破したのである 17 。
突然の異国船の漂着と多数の外国人の上陸は、当時の地方領主にとって大きな混乱と脅威になり得る一大事であった。しかし、忠朝の対応は迅速かつ人道的であった。彼は直ちに役人を派遣し、溺死者を除く317名の乗組員を保護。住居や食料、衣服、さらには酒などを提供し、彼らを手厚くもてなした 6 。ドン・ロドリゴが後に著した『日本見聞録』には、忠朝の居城である大多喜城が「城門は鉄製で、御殿は金粉で装飾されていた」と壮麗であったことや、忠朝自身の温情あふれる対応に対する深い感謝の念が記されている 16 。この事件は、大多喜町が日本、スペイン、メキシコの国際友好の原点として、今日でも誇りをもって語り継ぐ歴史的出来事となっている 18 。
慶長15年(1610年)、偉大なる父・忠勝が63歳でその生涯を閉じた。忠勝は死に際し、詳細な遺言を残していた。それによると、家督や武具、茶道具といった本家の財産はすべて長男の忠政に譲るが、個人的に蓄財した黄金一万五千両については、所領が小さく何かと物入りであろう次男の忠朝に与える、と記されていた 5 。
この遺言を知った兄弟の対応は、後世に美談として語り継がれることになる。忠朝は、「兄上は10万石の大名であり、多くの家臣を抱え、私よりも遥かに費用がかかるはずです。父上のご厚意はありがたいですが、これを受け取ることは義にかないません」と述べ、受け取りを固く固辞した。一方の忠政も、「父の遺言は絶対である。これに背くことは嫡子として許されない」として、弟に黄金を受け取るよう迫った。互いに譲り合って決着がつかないため、親族らが間に入り、最終的に黄金は兄弟で折半することになった。しかし、それでも忠朝は自らの取り分に封をし、兄の蔵に預けたまま、生涯その黄金に手を付けることはなかったと伝えられている 5 。この逸話は、本多兄弟の清廉な人柄と、損得を超えた固い絆を象徴する物語として、多くの軍記物に採録されている。
これらの藩主としての実績は、忠朝が父の武勇を受け継いだだけでなく、新しい時代に求められる統治者としての実務能力、政治的判断力、そして人間性を兼ね備えていたことを証明している。彼が自らの領国という管理可能な範囲では冷静かつ有能な統治者であったという事実は、後に大坂の陣という巨大なプレッシャーの下で見せる激情的な姿との対比において、彼の人物像の多面性と人間的な深みを理解する上で不可欠な視点となる。
為政者として着実に実績を積み上げていた本多忠朝であったが、慶長19年(1614年)に勃発した大坂冬の陣は、彼の運命を大きく狂わせる転機となった。この戦いで受けた屈辱が、彼の心に死の覚悟を植え付け、悲劇的な最期へと繋がっていくのである。
豊臣家との決戦が始まると、忠朝は徳川方の一員として出陣し、大坂城の東に位置する玉造口に布陣するよう命じられた 1 。しかし、彼が割り当てられた場所は、前面に深い沼地が広がり、堀が幾重にも巡らされているなど、物理的に攻め込むことが極めて困難な地形であった 1 。手柄を立てる機会が乏しいこの持ち場に不満を抱いた忠朝は、あろうことか総大将である徳川家康のもとへ直接赴き、陣替えを願い出たのである 3 。
この忠朝の直訴に対し、家康は激怒した。そして、周囲の諸将が聞いている面前で、次のように厳しく叱責したと伝わる。
「汝が父、本多忠勝は、生涯五十七度の合戦において、陣の良し悪しなど一度たりとも口にしたことはなかった。山であろうが川であろうが、与えられた場所でただ黙々と戦功を立ててきた。それに比べて汝は何だ。諺に言う『体は大きいが鬼も食わぬ男』(見かけ倒しで役に立たない者の意)とは、まさにお前のことではないか」 3。
この言葉は、忠朝の心に深々と突き刺さった。武士道において、「名誉」は何よりも重んじられ、それを傷つけられることは「恥」として、時に死よりも重い苦痛とされた 22 。天下人である主君から、しかも最も尊敬し、同時に超えるべき目標であった偉大な父と比較される形での叱責は、単なる注意や命令違反への咎めではない。それは、忠朝の武士としての存在価値そのものを否定するに等しい、耐え難い「恥辱」であった。この瞬間、彼の心は決まったとされる。すなわち、次の戦では必ずや華々しい手柄を立て、この汚名を死をもって雪ぐ、と 3 。
家康からの叱責とは別に、あるいはその原因として、忠朝の失敗を象徴する逸話が広く知られている。それは、彼が酒を過したことによる不覚である。冬の陣の最中、忠朝は深酒が原因で判断を誤り、敵の猛攻を受けて敗走するという失態を犯したとされている 4 。この「酒による失敗」という具体的で人間的な物語は、彼の武人としての評価に影を落とす一方で、後に彼が「酒封じの神」として信仰される直接的な伏線となっていく。
具体的な戦闘経過を見ると、鴫野・今福の戦いにおいて、当初後詰として控えていた忠朝は、激戦で疲弊した佐竹義宣隊に代わって今福の守備に就いている 20 。この時点での一次史料には明確な敗走の記録は見られないものの、一連の戦いの中で酒に起因する何らかの不覚があったという伝承が、彼の人物像の一部として定着していった。
忠朝が夏の陣で死を決意するに至った心理的なメカニズムは、この「恥」の意識を抜きにしては理解できない。家康の「お前の父は…」という言葉は、忠朝が最も触れられたくない核心を突き、彼のアイデンティティを根底から揺るがした。これにより、彼の思考は「いかに生き残り、勝利に貢献するか」という合理的な判断から、「いかにして名誉ある死を遂げ、受けた恥を清算するか」という、武士道特有の精神構造に支配された行動原理へと完全に転換したのである。翌年の夏の陣における彼の行動は、すべてこの心理的転換点から必然的に導き出されたものと言えるだろう。
大坂冬の陣で受けた屈辱は、本多忠朝の心に消えない烙印を押した。翌年の元和元年(1615年)5月、再び豊臣家との決戦の火蓋が切られると、彼はその汚名を雪ぐため、死を覚悟して戦場へと向かった。
大坂夏の陣。忠朝は、徳川と豊臣の最終決戦となった天王寺・岡山の戦いにおいて、自ら先鋒大将の任を熱望し、家康にこれを認められた 5 。最も危険で、最も手柄を立てる機会の多い役目を引き受けることで、冬の陣の屈辱を晴らそうとしたのである。
彼の悲壮な決意を暗示するような伝承が、故郷である千葉県大多喜町に残されている。「駒返し坂」の逸話である。大多喜城から出陣した忠朝の軍勢が江戸へ向かう途中、一匹のイタチが馬の前を横切った。これを不吉な兆候と見た忠朝は、一度軍勢を停止させ、馬を引き返させて別の道を選び、進軍を続けたという 21 。この逸話は、彼の死の運命を予感させる物語として、地元で語り継がれている。
5月7日、天王寺・岡山一帯で、戦国時代最後の大規模な野戦が開始された。徳川方の兵力約15万に対し、豊臣方は約5万5千と、数では徳川方が圧倒的に優位であった 32 。徳川軍は天王寺口と岡山口の二方面から大坂城へ進軍を開始し、忠朝は志願通り、天王寺口の先鋒を務めた 32 。
しかし、彼の正面に布陣していたのは、豊臣方の武将の中でも随一の戦上手と評された毛利勝永の軍勢であった 17 。毛利勝永は、真田信繁(幸村)と並び称されるほどの猛将であり、その采配の巧みさは敵味方から恐れられていた 36 。忠朝は、汚名返上のため、最も困難な敵と対峙するという運命を選択したのである。
正午頃、戦端は開かれた。軍監の制止を振り切って突出気味に進軍していた本多隊が、毛利隊の物見に銃撃を加えた(あるいは、された)のがきっかけであったとされる 35 。冬の陣での屈辱を晴らしたいという焦りが、忠朝を冷静な判断から遠ざけていたのかもしれない。
これに対し、毛利勝永は老練な采配を見せた。彼は兵を地面に伏せさせ、突出してきた本多隊を十分に引きつけると、頃合いを見計らって一斉射撃を命じた。この攻撃で本多隊の先鋒は大きな損害を受ける 39 。勝永はすかさず本隊を左右に分け、側面からも攻撃を仕掛けるという巧みな戦術で、数に劣る本多隊を包囲、圧倒した 39 。
兵力差は歴然(本多隊約1,000に対し毛利隊約5,000とも言われる)で、戦術的にも完全に劣勢に立たされた忠朝であったが、その戦いぶりは鬼神の如くであったと伝わる 27 。父・忠勝の象徴でもあった鹿角の脇立兜をかぶり、自ら槍を振るって敵陣に斬り込み、逃げ腰になる兵を叱咤激励しながら奮戦した 39 。
しかし、衆寡敵せず、奮戦も空しく毛利隊の三方からの集中砲火を浴び、忠朝は胸板と脇腹を撃ち抜かれて落馬する。だが、その闘志は尽きなかった。槍を杖にしてどうにか立ち上がると、自らを撃った鉄砲兵を斬り伏せるという最後の意地を見せた。全身に20箇所以上もの傷を負い、もはや満身創痍となった忠朝のもとへ敵兵が群がる。そしてついに、毛利家臣の雨森伝右衛門によって首を挙げられた。享年34(数え年) 29 。彼はその死をもって、武士としての名誉を回復したのである。
大将である忠朝を失った本多隊は、総崩れとなって壊走した 39 。この混乱は徳川方の戦線全体に波及する。忠朝隊を救援しようとした後続の小笠原秀政・忠脩の父子も討死・重傷を負い、天王寺口の徳川軍先鋒は壊滅的な打撃を受けた 5 。勢いに乗った毛利勝永隊は、徳川方の第二陣、第三陣をも突き破り、一時は徳川家康の本陣にまで肉薄した 36 。
後に、忠朝の亡骸が戸板に乗せられて家康の本陣前を通過した際、家康は涙を流し、「忠朝、よくぞ勇敢に戦った。父・忠勝に劣らぬ武将であった。惜しい男を死なせてしまった」と、その死を深く悼んだという 1 。この言葉には、冬の陣での自らの厳しい叱責が、この若き勇将を死に追いやったことへの悔恨の念が込められていたとも解釈されている。
忠朝が直面した戦況の厳しさは、以下の両軍の布陣からも明らかである。彼の死は単なる個人の勇み足の結果ではなく、戦国最後の大規模決戦における、最も熾烈な戦線での壮絶な戦いの結末であった。
表1:天王寺口の戦いにおける主要部隊の配置と兵力(推定)
軍 |
区分 |
主要武将 |
兵力(推定) |
典拠 |
徳川方 |
先鋒 |
本多忠朝 |
約5,500 |
33 |
|
二番手 |
榊原康勝、小笠原秀政、仙石忠政、諏訪忠恒 |
約5,400 |
33 |
|
三番手 |
酒井家次、松平康長 |
約5,300 |
33 |
|
本陣 |
徳川家康 |
15,000 |
32 |
豊臣方 |
四天王寺南 |
毛利勝永 、毛利勝家、山本公雄 |
約4,000 |
36 |
|
茶臼山 |
真田信繁(幸村)、真田幸昌 |
約3,500 |
33 |
|
その他 |
渡辺糺、大谷吉治、明石全登 |
不明 |
33 |
本多忠朝の生涯は、天王寺の地で壮絶な幕を閉じた。しかし、彼の物語はそこで終わらなかった。武士としての死は、後世において彼を全く異なる存在へと昇華させる序章に過ぎなかったのである。
忠朝の亡骸と記憶は、二つの場所に祀られている。
一つは、彼が討死した大坂・天王寺の地にある 一心寺 である 9 。境内には、元和2年(1616年)に建立されたと伝わる、ひときわ大きな五輪塔の墓が現存する 6 。ここは、彼の「武人」としての壮絶な最期を記憶し、後述する特異な信仰が生まれた場所である。
もう一つは、彼の領地であった上総国大多喜にある菩提寺、 良玄寺 である 46 。この寺はもともと父・忠勝が「良信寺」として開基したが、忠朝が戦死した後、彼の法号「三光院殿前雲州岸譽良玄大居士」にちなんで「良玄寺」へと改称された 46 。ここには、父・忠勝とその夫人、そして忠朝の墓(分骨)が並んでおり、故郷の人々によって「領主」としての彼が記憶されている場所と言える 46 。
本多忠朝の死後における最もユニークな展開は、彼が「酒封じの神」として信仰の対象となったことである。
その由来は、彼の最期の言葉にあるとされる。忠朝は死の間際に、大坂冬の陣での酒による失敗を深く悔い、「我が死後は、酒のために身を誤る者を救わん」と誓って息絶えたと伝えられている 4 。
この遺言が人々の間に広まるにつれ、一心寺にある忠朝の墓は、いつしか酒害に苦しむ人々が救いを求める聖地となった。酒癖に悩む本人やその家族が、断酒の成就を祈願するために参拝に訪れるようになったのである 6 。その信仰は独特の形式を持っており、参拝者は願い事を書いた「しゃもじ」を墓所の周りに奉納する。これは、ご飯を「すくいとる」ことと、苦しみから人々を「救いとる」ことをかけた願掛けであるとも言われ、現在でも多くのしゃもじが奉納されている 6 。
通常、武将が神として祀られる場合、その武勇や治績が神格の源泉となる。しかし忠朝の場合、自らの「失敗」と「後悔」が信仰の核となっている点で、極めて稀有な例である。彼の生涯が「完璧な英雄」ではなく、「失敗し、苦しみ、それでも最後に名誉を回復しようとした人間」の物語であったからこそ、時代を超えて多くの人々の共感を呼んだ。特に「酒」という普遍的な悩みは、彼の存在を歴史上の武将という枠を超え、個人の苦しみに寄り添う「救済者」へと昇華させた。彼の武士としての死が、後世の民衆にとっては、人間的な救済の物語として受容されたのである。
現代においても、本多忠朝は様々な形で記憶されている。地元である千葉県大多喜町では、サン・フランシスコ号救助の逸話などから、武勇だけでなく、人間性豊かな名君として親しまれている 18 。近年では、父・忠勝と共にNHK大河ドラマの主人公として誘致する活動が地元で活発に行われるなど、地域振興のシンボルとしても新たな光が当てられている 18 。
本多忠朝の生涯を振り返る時、我々は一人の武将が背負った栄光と苦悩の深さに思いを馳せずにはいられない。彼は「家康に過ぎたるもの」とまで称された偉大なる父・忠勝の影の下で、常に自らの存在証明を求め続けた人物であった。
藩主としては、新田開発の具体的な史料や、サン・フランシスコ号救助事件に見られる冷静かつ人道的な対応など、近世初期の統治者に求められる実務能力と政治的判断力を備えた、有能な為政者であったことは再評価されるべきである。彼は決して父の武勇にのみ頼る存在ではなかった。
一方で、武人としての彼の評価は、大坂の陣における劇的なコントラストによって複雑なものとなっている。冬の陣での失態と、夏の陣での死。しかし、その一連の行動は、武士道における「名誉」と「恥」という中核的な価値観を理解することで、一つの首尾一貫した論理の下にあったと解釈できる。彼の死は、単なる戦場での敗北ではない。それは、自らが受けた屈辱を命をもって清算し、失われた武士としての名誉を回復しようとした、壮絶な意志の表出であった。
そして何よりも、彼の物語を特異なものにしているのは、その死後の展開である。自らの人間的な弱さ、すなわち酒による失敗を深く悔いたという最期の姿が、時代を超えて人々の心を打ち、「酒封じの神」という他に類を見ない形で、彼の名を現代にまで留めている。
本多忠朝は、完璧な英雄ではなかった。しかし、その不完全さ、人間的な弱さとの葛藤、そしてそれを乗り越えようとした最期の壮絶さこそが、彼を単なる歴史上の人物から、我々の記憶に深く刻まれる稀有な存在へと昇華させたのである。彼の生涯は、武士として生き、武士として死ぬことの意味を、我々に問いかけ続けている。