徳川家康の天下統一事業を、その比類なき智謀で支えた謀臣、本多正信 1 。その一族は、徳川幕府の黎明期において特異な光を放っていた。父・正信と嫡男・正純が「知」の官僚として幕政の中枢を掌握し、権勢を振るったのに対し、三男・忠純は「武」を体現する猛将として、その名を戦場の記憶に刻んだ 3 。この対照的な親子・兄弟関係は、徳川家という巨大な権力機構の中で、本多一族が果たした役割の二面性を象徴している。
本報告書は、この「知」と「武」の狭間に生きた本多忠純の生涯を、その出自から悲劇的な最期、そして家系の流転に至るまで、徹底的に追跡・分析するものである。彼の生涯は、戦国乱世の終焉と「元和偃武」という新たな秩序の到来という、時代の巨大な転換点に翻弄された一人の大名の軌跡を、鮮烈に映し出している。大坂の陣における輝かしい武功、その裏にあった敗走。譜代大名としての栄達と、家臣を虐待し殺害する破滅的な狂気。そして、家臣による暗殺という前代未聞の結末。これらの事象は、単なる一個人の資質の問題として片付けることはできない。
本多忠純の生涯は、我々にいくつかの問いを投げかける。彼の武功と狂気は、いかにして形成され、なぜ破滅的な結末を迎えなければならなかったのか。そして彼の存在は、泰平の世を迎え、その役割を根本から問い直された武士という存在のあり方、そして徳川初期という時代の持つ矛盾と力学について、何を物語っているのであろうか。本報告書は、これらの問いに答えるべく、史料を丹念に読み解き、その深層に迫ることを目的とする。
本多忠純の生涯を理解するためには、まず彼が置かれた時代背景と、本多一族内での彼の位置づけを正確に把握する必要がある。以下の年譜と系図は、そのための基礎的な枠組みを提供するものである。
本多忠純 年譜
年(西暦/和暦) |
忠純の年齢(数え) |
出来事 |
典拠 |
1586年(天正14年) |
1歳 |
遠江国にて、本多正信の三男として誕生。 |
3 |
1605年(慶長10年) |
20歳 |
徳川家康より下野国榎本に1万石を与えられ、榎本藩を立藩。初代藩主となる。 |
5 |
1615年(元和元年) |
30歳 |
大坂夏の陣、天王寺・岡山の戦いに参陣。首級217を挙げる武功を立てる。 |
4 |
1615年(元和元年) |
30歳 |
大坂の陣の戦功により、下野国皆川に1万8千石を加増され、合計2万8千石となる。 |
5 |
1626年(寛永3年) |
41歳 |
実子の長男・忠次が17歳で早世する。 |
3 |
1631年(寛永8年) |
46歳 |
12月13日、江戸から領地への帰途、武蔵国栗橋にて家臣・大助に刺殺される。 |
5 |
本多正信家(弥八郎家)略系図
コード スニペット
graph TD
A[本多正信] --> B(本多正純<br>長男);
A --> C(本多政重<br>次男);
A --> D(本多忠純<br>三男);
A --> E(娘<br>三浦重政室);
A --> F(娘<br>小栗但馬室);
D -- 実子 --> G(本多忠次<br>早世);
D -- 実子 --> H(娘<br>本多政遂室);
D -- 実子 --> I(娘<br>長谷川広清室);
C -- 実子 --> J(本多政遂);
C -- 実子 --> K(本多政朝);
D -- 婿養子 --> J;
J -- 実子 --> L(本多犬千代<br>夭折・改易);
subgraph 凡例
direction LR
M(男性) -- 血縁 --> N(男性);
O(男性) -- 養子縁組 --> P(男性);
end
注:上記は主要人物の関係性を簡略化したものである。
本多忠純は、天正14年(1586年)、徳川家康の懐刀として知られる謀臣・本多正信の三男として、遠江国に生を受けた 3 。彼が生まれた本多弥八郎家は、徳川家臣団の中でも異彩を放つ一族であった。父・正信は、かつて三河一向一揆で家康に敵対し、流浪の末に帰参したという経歴を持ちながら、その卓越した知謀と政治力で家康の絶対的な信頼を勝ち取り、幕政の最高首脳にまで上り詰めた人物である 1 。長兄・正純もまた父の路線を継承し、家康の死後は二代将軍・秀忠の側近として権勢をふるった 1 。この父子は、まさに徳川幕府の「知」を象徴する存在であった。
一方で、本多正信の息子たちの中には、異なる道を歩んだ者もいた。次兄の政重は、若くして秀忠の乳母の子を斬って出奔し、大谷吉継、宇喜多秀家、福島正則、前田利長、直江兼続といった名だたる大名家を渡り歩いた、生粋の武将であった 10 。そして、三男である忠純もまた、この次兄・政重と同様に、知略よりも武勇を本領とする「武将型」の人物であったと評されている 3 。
ここに、本多正信家における一つの特徴的な構造が見て取れる。すなわち、父と長男が「吏僚・謀臣」として幕府の統治機構を担い、次男と三男が「武将」として軍事的な役割を担うという、明確な機能分化である。これは単なる個人の資質の違いに起因する偶然とは考えにくい。むしろ、戦国から江戸へと時代が移行する中で、一族が生き残りを図るための戦略的な適応であった可能性が指摘できる。天下統一が成り、巨大な官僚機構が形成されていく過程で、「知」の能力は平時における統治と権力維持に不可欠となる。同時に、大坂の陣のような大規模な戦乱の可能性が残る限り、「武」の能力もまた、徳川家に対する重要な奉公であった。この両方の機能を一族内に保持することは、徳川家への多角的な貢献を可能にし、本多一族の安泰を盤石にするための、極めて合理的な選択であったと言えよう。
しかし、この役割分担は、時代の変化という大きな波に直面した時、個人の運命を大きく左右する刃ともなった。戦乱が完全に終息し、泰平の世が訪れた時、「武」の価値は相対的に低下し、その能力を発揮する場は失われる。純粋な武将型の人間であった忠純の生涯の悲劇は、まさにこの構造的要因の中に、その萌芽を宿していたのである。
幼少期より徳川家康に仕えた忠純は、慶長10年(1605年)、数え20歳にして、その忠勤を認められる形で大名に取り立てられた 5 。下野国都賀郡榎本(現在の栃木県栃木市大平町榎本周辺)に一万石を与えられ、ここに下野榎本藩が立藩したのである 4 。
この榎本という地は、単なる一万石の所領以上の戦略的意味合いを持っていた。地理的には、江戸と、徳川家にとって聖地である日光、さらには東北諸藩へと続く奥州街道の結節点に位置する。また、近隣には兄・正純が後に15万5千石で入封することになる宇都宮城があり、榎本城はその支城としての機能も期待されうる場所であった 14 。幕府が、譜代大名筆頭格である本多家の、しかも将来を嘱望される若き武将をこの地に配置したことは、関東における徳川支配を盤石にするための重要な布石であったことは疑いない。
初代藩主となった忠純は、藩政の初期段階において、旧領主であった小山氏の遺臣を家臣として登用するなど、在地勢力を巧みに取り込みながら、藩の統治基盤を固める努力を行ったことが記録されている 3 。これは、彼が単なる猪武者ではなく、大名としての統治能力を一定程度、発揮しようとしていたことを示唆している。しかし、彼の本領が発揮されるのは、この静かな領国経営の場ではなかった。時代の風雲が、再び彼を戦場へと呼び寄せたのである。
慶長20年(元和元年、1615年)、豊臣家を滅ぼし、徳川による天下泰平を完成させるための最後の大戦、大坂夏の陣が勃発した。本多忠純にとって、この戦いは彼の武人としての能力を天下に示す絶好の機会であり、その生涯における最大のハイライトとなった。しかし、その戦功の輝かしい光の裏には、敗走という濃い影もまた存在していた。
大坂夏の陣における最終決戦、天王寺・岡山の戦い。徳川方と豊臣方の総力が激突したこの戦いで、忠純は徳川家康本陣の前面に布陣する天王寺口の部隊の一翼を担った 4 。戦いは熾烈を極め、豊臣方の真田信繁(幸村)や毛利勝永らの猛攻により、徳川方の戦線は一時崩壊し、家康本陣そのものが危機に陥るほどの激戦となった。
この乱戦の中、本多忠純は獅子奮迅の働きを見せる。幕府の公式史書である『寛政重修諸家譜』によれば、忠純はこの一戦で敵兵の首を217も挙げるという、ずば抜けた武功を立てたと記録されている 4 。これは、単独の武将が挙げた戦功としては驚異的な数字であり、彼の個人的な武勇と戦闘能力が、当代随一であったことを雄弁に物語っている。この功績は、彼の武人としてのキャリアの頂点であった。
しかし、同じ戦場で忠純は深刻な敗北も経験している。彼の部隊は、豊臣方で真田信繁と並び称される猛将・毛利勝永の部隊と正面から激突した。勝永の鬼気迫る突撃は凄まじく、徳川方の陣形を次々と突き破り、家康本陣に肉薄するほどの勢いであった 16 。
この勝永の猛攻の前に、本多忠純の部隊は持ちこたえることができなかった。榊原康勝や安藤直次といった他の徳川方諸将の部隊とともに撃破され、敗走を喫したのである 16 。この事実は、忠純の武功を語る上で見過ごすことのできない側面である。彼の個人的な武勇がいかに優れていようとも、部隊を率いる将としては、戦術的に勝永に圧倒されたことを示している。個人の勇猛さと、組織を率いて勝利する指揮能力とは、必ずしも一致しない。この敗走は、その冷徹な現実を彼に突きつけた出来事であった。
戦いが徳川方の勝利に終わった後、論功行賞が行われた。ここで注目すべきは、忠純の評価である。彼は毛利勝永の前に敗走したにもかかわらず、その事実は不問に付され、むしろ天王寺口で挙げた「首級217」という大功が最大限に評価された。
その結果、忠純は下野国皆川(現在の栃木市皆川地区)周辺において、新たに一万八千石を加増され、所領は合計二万八千石となった 1 。これは、彼の武功に対する正当な報酬であると同時に、極めて政治的な判断が働いた結果と見るべきであろう。
この評価の背景には、いくつかの要因が考えられる。第一に、毛利勝永の突撃はあまりに強力で、徳川方の多くの部隊が同様に崩壊しており、忠純一人の責任とは見なされなかったこと。第二に、戦いは最終的に徳川方の圧勝に終わったため、個々の部隊の小さな敗北は、全体の勝利という大きな文脈の中に吸収され、問題視されなかったこと。そして最も重要な要因は、父・正信と兄・正純が幕府内で築き上げた絶大な権力と影響力が、三男である忠純の評価に有利に作用した可能性である。幕府としても、譜代大名の筆頭格である本多家の面子を保つ必要があった。輝かしい武功を公式の評価とし、都合の悪い敗走の事実は記録の片隅に留めることで、幕府は本多一族全体の功績に報いるという政治的配慮を示したのである。この加増は、忠純の武勇を称えるとともに、本多一族の徳川政権内における盤石な地位を再確認させるものであった。
大坂の陣での武功により、二万八千石の大名へと躍進した本多忠純。しかし、戦乱の時代が終わりを告げ、世が「元和偃武」と呼ばれる泰平の時代へと移行する中で、彼の持つ武人としての気質は、次第にその負の側面を露呈させていく。彼の藩内における振る舞いは、もはや武勇ではなく、統制を欠いた「暴力」そのものであった。
複数の史料が、本多忠純の性格を「短気」「気性が荒い」と一致して伝えている 1 。この激しい気性は、特に自らの家臣に対して、極めて粗暴な形で発揮された。彼の下では、家臣が「些細な失敗でもすぐに手討ちにする」という理不尽な暴力が常態化していたという 5 。
これは、単なる厳格な主君という範疇を遥かに超えている。家臣たちは常に生命の危機に晒され、主君の機嫌一つで命を奪われかねない、恐怖政治の下にあった。戦場であれば、あるいはその場の勢いや軍律によって正当化されたかもしれない行為も、平時における藩内での私的な制裁となれば、それは単なる虐待であり、殺人でしかない。忠純の領国は、法や理非よりも主君の感情が優先される、異常な空間と化していたのである。
大坂の陣の終結は、日本の歴史における大きな分水嶺であった。世は「元和偃武」と呼ばれる、武器を収め、文治を以て国を治める時代へと突入した 18 。徳川幕府は、この新たな秩序を維持するため、「武家諸法度」を制定し、大名に対しては私的な争い(私闘)の禁止や、領内における法秩序の遵守を厳しく求めた 19 。
このような時代の大きな潮流の中で、忠純が自らの藩内で行っていた家臣の手討ちは、単なる個人の悪癖では済まされない、極めて危険な意味合いを帯びていた。それは、幕府が心血を注いで構築しようとしている新たな法秩序への、真っ向からの挑戦とも受け取られかねない行為であった。
ここに、本多忠純を「かぶき大名」として捉える視点が生まれる。江戸初期には、関ヶ原の戦いや大坂の陣を経て活躍の場を失った武士たちが、異様な風体や常軌を逸した行動に走る「かぶき者」と呼ばれる社会現象が見られた 21 。彼らは、既存の価値観や規範に反抗する、戦国乱世のエネルギーの残滓ともいえる存在であった。忠純の行動様式は、まさにこの「かぶき者」の精神性と軌を一にする。彼は旗本奴のような下級武士ではなく、二万八千石を領する大名でありながら、その行動は、理由なき暴力と衝動的な殺人に支配されていた。
戦場でこそ武勇と称えられた彼の激しい気性は、泰平の世においては、もはや統制不能な暴力でしかなかった。彼は自らの領地を、法ではなく自らの感情が支配する治外法権的な空間に変えてしまっていたのである。これは、泰平の世における大名に課せられた役割、すなわち領民を慈しみ、法を遵守する為政者という理想像からの、完全な逸脱であった。彼の悲劇は、戦国時代の価値観(個人の武勇こそが絶対)を、江戸時代の新たな価値観(秩序と法こそが絶対)が支配する世界に、そのまま持ち込んでしまったことによる、必然的な破綻であったと言える。
忠純のこの抑制の効かない暴力的な振る舞いは、父・本多正信の処世術とは全く対極に位置するものであった。伝えられるところによれば、父・正信は嫡男・正純に対し、常々「我が死後、汝は必ず加増されるだろう。しかし、三万石までは家の分として受けよ。それ以上は決して受けてはならない。もし辞退しなければ、必ず禍が降りかかるであろう」と説いていたという 2 。これは、権力の頂点に立つ者がいかに身を処すべきかを示した、抑制と均衡を重んじる「知」の思想の現れである。
一方で、忠純の行動には、このような抑制や自制のかけらは見られない。彼は、父や兄が体現した本多家の「知」の側面を全く受け継ぐことなく、「武」の衝動のみが剥き出しになった存在であった。父が説いた均衡の思想は、三男である彼には届かなかったのか、あるいは彼の気性がそれを受け入れることを拒んだのか。いずれにせよ、この父子の思想的乖離は、忠純が歩む破滅への道を暗示していた。
寛永8年(1631年)、本多忠純の生涯は、誰もが予期し得なかった、しかし彼の生き様を考えれば必然ともいえる、衝撃的な結末を迎える。それは、武家社会の秩序を根底から揺るがす、家臣による主君殺害という前代未聞の事件であった。
寛永8年12月13日、忠純は江戸での勤めを終え、領地である下野国への帰途にあった。その道中、江戸と日光を結ぶ日光街道の主要な宿場町であった武蔵国栗橋(現在の埼玉県久喜市栗橋地区)に差し掛かった時、事件は起きた 4 。供をしていた家臣の一人、大助なる人物が、突如として忠純に刃を向け、刺殺したのである 5 。享年46。武勇を誇った大名は、戦場ではなく、平穏な旅路の途中で、自らの家臣の手によって命を落とした 1 。
事件の動機として伝えられているのは、極めて単純かつ悲痛なものであった。犯人である大助が、道中で何らかの過失を犯した。彼は、日頃から些細なことで家臣を手討ちにする主君の凶暴性を熟知しており、領地に帰り着けば間違いなく自分も殺されると確信した。その恐怖と絶望から、彼は手討ちにされる前に主君を殺害するという、追い詰められた末の凶行に及んだのである 5 。これは、忠純が自らの領内で振りかざしてきた理不尽な暴力が、ブーメランのように彼自身に返ってきた瞬間であった。
この衝撃的な事件について、新井白石が編纂した大名史『藩翰譜』は、少し異なるニュアンスの伝聞情報を記録している。そこには、忠純の家が不慮の禍によって絶えたとし、その死因を「みずから郎等を誅せんとして誤ちて死したり」と記されているのである 4 。
この記述は、家臣が一方的に主君を殺害した「暗殺」とは趣が異なる。「自ら家来を斬り殺そうとして、誤って死んでしまった」という表現は、忠純が家臣を斬ろうとした際の乱闘や、もみ合いの末に起きた「事故死」という含みを持つ。この異説の存在は、事件の真相を巡る複雑な背景を示唆している。
「家臣による主君殺し」は、主君の不徳が極みに達し、藩の統治が完全に破綻していることを天下に晒す、武家社会における最大級のスキャンダルである。これは、幕府内で絶大な権勢を誇った本多一族の名誉に、計り知れない傷を付けるものであった。一方で、「家臣を誅殺しようとして誤って死亡した」という物語は、事件の原因をあくまで忠純個人の粗暴な性格に帰着させ、藩の統治システムそのものの崩壊という側面を薄める効果を持つ。
したがって、『藩翰譜』に記された異説は、事件の真相そのものというよりは、事件後に本多家や、あるいは幕府が事態を穏便に収拾するために採用、もしくは黙認した「公式見解」に近いものであった可能性が考えられる。譜代大名が家臣に殺害されるという前代未聞の事態は、幕府の統治の根幹を揺るがしかねない危険な前例となる。幕府としては、犯人である大助を主殺しの罪で極刑に処す一方で(彼の処遇に関する直接的な記録は見当たらないが、当時の法制では主殺しは磔などの極刑が科された 26 )、事件の公的な性質を「主君の不慮の事故」として処理することで、体制の動揺を最小限に抑えようとしたのではないか。二つの物語の存在は、この事件が持つ深刻さと、それを隠蔽しようとする政治的な力学の存在を物語っている。
江戸時代の武家社会において、主君や親の仇を討つ「仇討ち」は、時に美徳として称揚された 28 。しかし、その逆、すなわち家臣が主君を殺害することは、秩序を破壊する「下剋上」に他ならず、許されざる大罪であった 27 。本多忠純の死は、単なる一人の大名の死に留まらず、譜代大名の権威と幕藩体制の秩序そのものに対する、深刻な問いを投げかけるものであった。
にもかかわらず、事件後、忠純の養嗣子である政遂への家督相続が速やかに認められている点は注目に値する 6 。これは、幕府が事件の異常性を認識しつつも、故・本多正信や、当時なお権勢を誇った本多正純の功績と面子に免じて、家の存続を優先した、極めて政治的な判断であったことを示している。忠純の死は、彼の暴力的な生涯の終着点であると同時に、徳川幕府の統治術の複雑さを浮き彫りにする一幕でもあった。
家臣による暗殺という衝撃的な形で初代藩主・忠純を失った榎本藩本多家。その前途には、さらなる悲劇が待ち受けていた。忠純が自らの暴力によってその身を滅ぼしたのに対し、彼が遺した「家」は、時代の制度と運命の悪戯によって、静かに、しかし確実に崩壊へと向かっていく。
榎本(皆川)藩 本多家 歴代藩主
代 |
藩主名 |
続柄 |
在位期間 |
石高 |
没年・享年 |
備考 |
初代 |
本多 忠純(ほんだ ただずみ) |
正信三男 |
1605年~1631年 |
2万8000石 |
1631年(46歳) |
家臣により暗殺される 5 。 |
二代 |
本多 政遂(ほんだ まさもろ) |
忠純甥・婿養子 |
1632年~1638年 |
2万8000石 |
1638年(26歳) |
早世 6 。 |
三代 |
本多 犬千代(ほんだ いぬちよ) |
政遂長男 |
1638年~1640年 |
2万8000石 |
1640年(5歳) |
夭折。これにより無嗣改易となる 6 。 |
本多忠純には、もともと実子の長男・忠次がいた。しかし、忠次は父に先立ち、寛永3年(1626年)に17歳という若さでこの世を去っていた 3 。跡継ぎを失った忠純は、次兄・政重の子である甥の政遂(まさもろ)を、自らの娘と娶せ、婿養子として迎えることで家名の存続を図った 3 。
忠純の死後、二代藩主となった政遂であったが、彼もまた運命に恵まれなかった。寛永15年(1638年)、藩主の座についてわずか6年で、26歳の若さで早世してしまう 6 。
藩の命運は、政遂と忠純の娘との間に生まれた幼子、犬千代の双肩にかかった。しかし、その儚い希望も長くは続かなかった。三代藩主となった犬千代は、寛永17年(1640年)5月13日、わずか5歳で夭折したのである 6 。
これにより、本多大隅守家は正嫡の跡継ぎを完全に失った。幕府はこれを「無嗣断絶(むしだんぜつ)」とみなし、所領二万八千石を没収。ここに下野榎本藩は廃藩となり、本多忠純の家は改易の処分を受けた 6 。
榎本藩本多家の改易は、三代将軍・徳川家光の治世、特に「寛永期」と呼ばれる時代に行われた、幕府による厳格な大名統制政策の文脈の中で理解する必要がある。この時代、幕府は全国の大名に対し絶大な権威を確立するため、些細な理由で大名を取り潰す「改易」を頻繁に断行した 33 。
その改易理由の中で最も多かったのが、榎本藩と同じ「無嗣」、すなわち跡継ぎがいないことによる断絶であった。当時の幕府は、藩主が死に瀕してから急いで養子を迎える「末期養子」を原則として認めておらず、藩主が若くして子を残さずに急死した場合、その家は容赦なく取り潰されたのである 32 。
したがって、榎本藩の改易は、初代藩主・忠純の不行跡や、藩の謀反といった政治的な理由によるものではなく、あくまで跡継ぎの相次ぐ夭折という不運と、それに対する幕府の厳格な制度的対応が重なった結果であった。
ここに、江戸初期の大名が直面した二重の危うさが、象徴的な形で現れている。一つは、本多忠純自身がそうであったように、戦国時代の荒々しい気風を平時に持ち込むことによる、個人的な破滅の危険性。もう一つは、平時の為政者として、家の血筋を絶やさず、制度的な責務を全うしなければならないという、生物学的かつ社会的な存続の危険性である。忠純の物語は、彼自身が前者の罠にかかって命を落とし、彼の家が後者の罠にかかって断絶するという、二重の悲劇として読み解くことができる。彼の暴力による自己破壊と、制度による家の破壊は、時代の転換期における大名の脆弱性を、異なる側面から示しているのである。
藩は改易となり、大名としての本多大隅守家は一度、歴史から姿を消した。しかし、将軍家光は、徳川創業の功臣である本多正信・正純父子の功績を重んじ、その一族の家名が完全に絶えることを惜しんだ 6 。
そこで家光は、夭折した二代藩主・政遂の弟(すなわち忠純のもう一人の甥)にあたる本多政朝を召し出し、絶家となった本多大隅守家の名跡を継がせるという、温情ある措置をとった。政朝には、かつての藩領であった下野国内に新たに五千石が与えられ、彼は大名ではなく大身旗本として、徳川家に仕え続けることとなった 6 。
これは、幕府の厳格な大名統制策の一方で、功臣の家に対しては一定の配慮と恩情を示すという、硬軟織り交ぜた統治術の現れであった。絶対的な権威を振りかざすだけでなく、こうした「温情」を見せることで、諸大名や旗本からの忠誠心を維持しようとする、高度な政治的判断がそこにはあった。本多忠純の家は、彼の狂気と悲劇の果てに一度は潰えたが、彼の一族が徳川家に築いた功績によって、かろうじてその名を未来へと繋ぐことを許されたのである。
本多忠純の生涯は、戦国乱世が生み出した「武」の価値観が、徳川の「治」が確立されていく新たな時代にいかにして通用しなくなり、悲劇的な破綻を遂げたかを、一個人の人生を通して生々しく物語っている。
彼は、大坂の陣という最後の戦乱において、首級二百十七という驚異的な戦功を挙げ、武人としての誉れの頂点を極めた。しかし、ひとたび世が泰平になると、彼の武勇の源泉であった激しい気性は、もはや「狂気」と「暴力」以外の何物でもなく、彼を新たな時代の社会不適合者へと変貌させた。藩内での理不尽な家臣虐待と殺害は、彼が時代の変化を理解できず、あるいは拒絶し、自らの内に戦国の論理を保持し続けたことの証左である。
家臣による暗殺という、武家社会において前代未聞の死は、彼の個人的な資質の破綻であると同時に、新たな時代の秩序に適応できなかった武士の一つの末路を、極めて象徴的に示している。それは、主君への絶対的な忠誠という封建的秩序が、主君自身の理不尽な暴力によって内部から崩壊した瞬間でもあった。
そして、彼の死後、その家系が「無嗣」という、血縁と制度に起因する極めて官僚的な理由によって断絶したことは、この物語の結末をさらに痛烈なものにしている。個人の武勇や暴力がいかに卓抜していようとも、家の存続という、より大きな構造の前ではいかに無力であるかを冷徹に示しているからだ。
本多忠純は、徳川幕府という巨大な秩序が確立される過程で、戦国の遺風をまとって鮮烈に咲き誇り、そして自らの抑えがたい激情と、時代の抗いがたい奔流の中で為すすべもなく散っていった、まさに「時代の徒花(あだばな)」であった。彼の存在は、歴史の転換期における個人の悲劇性と、それを規定する社会構造の冷徹さを、後世の我々に強く示唆しているのである。