徳川四天王の筆頭として、また徳川家康の天下取りを支えた武功の将として、その名を戦国史に刻む本多忠勝。しかし、その忠勝の父、本多忠高(ほんだ ただたか)については、徳川家草創期の動乱の中で若くして散った悲劇の武将として、断片的に語られるに留まることが多い。忠高の生涯は、大永6年(1526年)あるいは享禄元年(1528年)に生を受け、天文18年(1549年)に没するまで、わずか20数年という短いものであった 1 。
本報告書は、この夭折の将が、弱小国人領主に過ぎなかった松平氏が、やがて天下を掌握する徳川家へと飛躍する黎明期において、いかにしてその礎の一つとなり得たのかを、現存する史料に基づき多角的に解明することを目的とする。
忠高の死は、単なる一武将の戦死という個人的な悲劇に終わるものではない。それは、存亡の危機にあった松平家の行く末、後の徳川家康の運命、そして遺児である本多忠勝の成長に、間接的ながらも決定的な影響を及ぼした歴史的連鎖の起点であった。本稿では、忠高の生涯を、当時の三河国が置かれた地政学的状況の中に位置づけ、その武功と忠死が持つ歴史的意義を詳細に分析・考察する。
本多忠高の人物像を理解する上で、まず彼が属した本多一族の出自と、松平家臣団におけるその地位を把握することが不可欠である。本多氏は、藤原北家兼通流を称し、その祖先である助秀が豊後国本多(大分県)に住んだことから本多姓を名乗るようになったと伝わる 4 。
三河における本多氏は、松平氏の始祖・親氏の代から仕えたとされる最古参の家臣団「安祥譜代」七家の一つに数えられる、まさに譜代中の譜代であった 2 。この「安祥譜代」という家格は、松平氏が安祥城を本拠としていた時代からの家臣であることを意味し、江戸時代を通じて徳川家臣団の中でも特別な敬意と信頼を寄せられる根拠となった。
忠高の系統は、代々「平八郎」を通称とする本多宗家(本多平八郎家)であり、三河国額田郡蔵前(現在の愛知県岡崎市西蔵前町)にあった西蔵前城を居城としていた 8 。この地は、忠高の死後にその武勇を継ぐことになる嫡男・忠勝の誕生地でもある 13 。
忠高が生きた16世紀半ばの三河国は、西に尾張国の織田信秀(織田信長の父)、東に駿河国の今川義元という二大戦国大名の勢力が衝突する最前線であった 14 。
かつて三河統一を目前にしながら、天文4年(1535年)に家臣の謀反によって当主・松平清康(徳川家康の祖父)が陣中で斃れるという悲劇(守山崩れ)に見舞われて以降、松平氏の勢力は急速に衰退した 16 。清康の子である松平広忠(家康の父)の代には、織田氏の絶え間ない侵攻に抗するため、今川氏の軍事的な庇護を受けざるを得ず、事実上の従属国という苦しい立場に置かれていた 15 。
このような国際情勢は、松平家の一家臣に過ぎない本多忠高の運命をも直接的に規定した。彼の戦いは、主家である松平家を守るためのものであったと同時に、今川家の三河支配戦略の一翼を担うという側面を強く帯びていたのである。
本多平八郎家に流れる忠節の血は、忠高の父・本多忠豊の代において既に証明されていた。忠豊もまた、松平清康・広忠の二代に仕え、数々の戦功を挙げた武将であった 20 。
天文14年(1545年)、織田方に奪われた西三河の要衝・安祥城をめぐる戦い(第二次安城合戦)において、松平軍は織田軍の挟撃に遭い敗走する 22 。この時、忠豊は主君・広忠を無事に岡崎城へ帰還させるため、殿(しんがり)という最も危険な役割を引き受け、敵中に踏みとどまり奮戦の末、討死を遂げた 9 。
この父・忠豊の自己犠牲的な死は、本多忠高、そしてその子・忠勝へと受け継がれる「忠義の鑑」として、一族の精神的支柱を形成した。主君のために命を捧げることを無上の誉れとする「忠死」の系譜は、本多平八郎家のアイデンティティそのものであり、後の徳川家臣団が理想とする「三河武士」の精神性を象徴する物語として、後世まで語り継がれることになる。忠高の生涯における決断と行動を理解する上で、この一族に流れる気風と、それを賞賛する主家の価値観は、極めて重要な背景となる。
本多忠高は、大永6年(1526年)または享禄元年(1528年)、本多忠豊の長男として生を受けた 1 。父・忠豊が天文14年(1545年)に戦死すると、家督を継承し、父祖代々の通称である「平八郎」を名乗った 1 。彼は父と同様に、松平清康、そしてその子である広忠の二代にわたり、松平家の武将として仕えた 2 。
忠高が家臣として活動した時期は、松平家が内憂外患に苛まれる最も困難な時代であった。彼は数々の合戦でその武勇を発揮し、主家の危機を支えた。
天文16年(1547年)、松平広忠の弟(一説に叔父)にあたる松平信孝が、織田氏と結んで家督の奪取を企て、謀反を起こした。この松平一族の内紛に際し、忠高は主君・広忠方として出陣し、反乱の鎮圧に大きく貢献した 1 。これは、彼が松平家内部の権力闘争においても、一貫して正統な主君である広忠への忠誠を貫いたことを示す重要な戦功である。
翌天文17年(1548年)には、尾張の織田信秀が三河へ大軍を侵攻させた。これに対し、今川義元は軍師・太原雪斎を総大将とする救援軍を派遣。忠高は今川・松平連合軍の一員として、第二次小豆坂の戦いに参戦し、織田軍を撃破する勝利に貢献した 21 。
忠高は、同じく松平家の重臣であった植村新六郎氏明(氏義とも)の娘・小夜(さよ)を正室に迎えた 1 。この婚姻は、安祥譜代の家柄である本多家と、同じく譜代家臣である植村家との結束を強め、不安定な松平家臣団の内部固めを図る政略的な意味合いも持っていたと考えられる。
そして天文17年(1548年)、忠高と小夜の間に、嫡男である鍋之助が誕生する 3 。この鍋之助こそが、後に「徳川四天王」「戦国最強」と謳われる本多平八郎忠勝その人である。しかし、忠高が戦場に散った時、忠勝はまだ数えで2歳という幼さであった。
また、忠高には弟に本多忠真がいた 1 。忠真は槍の名手として知られ、兄・忠高の死後、幼い忠勝の後見役として彼を育て上げ、その武勇を伝授した重要な人物である 35 。
項目 |
詳細 |
典拠 |
氏名 |
本多 忠高(ほんだ ただたか) |
3 |
生没年 |
大永6年(1526年)/享禄元年(1528年) - 天文18年3月19日(1549年4月16日) |
1 |
別名 |
平八郎(通称) |
1 |
戒名 |
泰元院殿行誉忠高大居士 |
1 |
氏族 |
藤原北家兼通流 本多氏(平八郎家) |
1 |
主君 |
松平清康 → 松平広忠 → 今川義元 |
1 |
本拠地 |
三河国西蔵前城(愛知県岡崎市西蔵前町) |
9 |
父母 |
父:本多忠豊、母:不詳 |
1 |
兄弟 |
弟:本多忠真 |
1 |
正室 |
小夜(植村氏明の娘) |
1 |
子 |
本多忠勝 |
1 |
墓所 |
妙源寺(愛知県岡崎市)、大乗寺(愛知県安城市、戦死地の墓碑) |
1 |
天文18年(1549年)3月、松平家を震撼させる事件が起こる。主君・松平広忠が岡崎城内にて、近臣の岩松八弥によって殺害されたのである 3 。当主を失った松平家は統制を失い、三河国は再び混乱に陥った。
この機を逃さず、織田氏の三河における影響力が拡大することを危惧した今川義元は、先手を打つことを決断する。その戦略目標は、当時織田方の手にあり、三河支配の拠点となっていた安祥城の攻略であった 21 。そして、その真の狙いは、織田家の人質となっていた松平家の正統後継者・竹千代(後の徳川家康)を奪還することにあった。
今川義元は、腹心の軍師であり、当代随一の知将と謳われた太原雪斎を総大将として、1万余の大軍を三河へ派遣した 15 。主君を失った松平家臣団もその指揮下に入り、安祥城を包囲した。この戦いは、安城合戦の中でも第三次、あるいは第四次合戦と称される。
雪斎の戦術は巧妙であった。彼の主目的は城の陥落そのものよりも、城将であった織田信秀の庶長子・織田信広を生け捕りにすることにあった 40 。信広を捕らえ、竹千代との人質交換の交渉材料とすることこそが、この軍事行動の核心であった。そのため、雪斎は全軍に対し、信広を殺害せず、必ず生きて捕らえるようにと厳命したと伝えられている。
この重要な戦において、本多忠高は松平軍の主将、すなわち先鋒の大将として、最前線で指揮を執った 27 。安祥城の守りは堅固であり、攻城戦は熾烈を極めた。忠高は、同じく松平家の重臣である大久保忠俊らと共に、昼夜を問わず猛攻を仕掛け、夜襲を敢行するなど、果敢に戦った 1 。
その奮戦は目覚ましく、忠高はついに敵の防衛線を突破し、城将・織田信広が守る本丸近くまで肉薄することに成功する 38 。これは、松平軍の士気を大いに高めるとともに、織田方の守備に大きな動揺を与えたと考えられる。
しかし、勝利を目前にしたその瞬間、悲劇が訪れる。本丸へ迫った忠高に対し、城内から放たれた一本の矢がその眉間を正確に貫いた 2 。先鋒大将・本多忠高は、その場に倒れ、壮絶な戦死を遂げた。享年22、あるいは24であった。彼を討ち取った具体的な武将の名は記録に残されていないが、城を守る織田信広の軍によるものであったことは間違いない 2 。
忠高の死は、一見すると武功を焦り、深入りしすぎた結果の無謀な死と映るかもしれない。しかし、彼の死を軍事的に評価するならば、その見方は変わってくる。先鋒大将の役割は、身を挺してでも敵陣を切り崩し、後続部隊の進路を拓くことにある。忠高の猛攻と死は、織田軍の防衛体制に決定的な綻びを生じさせた。彼の犠牲によって開かれた突破口が、結果として太原雪斎の本隊による総攻撃を成功に導き、戦略目標であった織田信広の捕縛へと繋がったのである。忠高の死は、戦術的には大きな損失であったが、松平・今川連合軍の戦略目標達成においては、決して無駄ではなかった。
本多忠高の死という大きな犠牲を払いながらも、今川・松平連合軍は安祥城の攻略に成功し、最大の目標であった城将・織田信広の捕縛を成し遂げた 22 。これにより、太原雪斎の描いた筋書き通り、捕虜となった信広と、織田家で人質生活を送っていた竹千代(徳川家康)との人質交換が実現する 22 。
この人質交換は、日本の歴史における極めて重要な転換点であった。もし、忠高の奮戦がなく、信広の捕縛が失敗に終わっていたならば、家康は織田家の人質として、歴史の表舞台に出ることなく生涯を終えた可能性さえ否定できない。忠高の死は、意図せずして、後の天下人・徳川家康の未来を切り拓く鍵となったのである。彼の犠牲によって松平家の正統な後継者は守られ、今川家の庇護下で英才教育を受ける機会を得て、後の独立と飛躍への基盤を築くことができた。忠高の死は、徳川幕府成立という壮大な歴史の、まさに黎明期を支えた決定的な出来事と評価できる。
父・忠高の戦死により、わずか2歳で本多平八郎家の家督を継いだ忠勝は、叔父にあたる本多忠真の手によって養育された 28 。槍の名手として知られた忠真は、甥であり跡継ぎである忠勝に武士としての心得と武芸、特に槍術を徹底的に叩き込んだ 35 。この厳しい薫陶が、後に「生涯57度の合戦においてかすり傷一つ負わなかった」と伝えられる天下無双の猛将・本多忠勝を育て上げたのである 20 。
また、忠勝という名には、祖父・忠豊、父・忠高と二代続けて戦死した本多家の悲運を乗り越え、「ただ、勝つのみ」であってほしいという、一族の切なる願いが込められていたという逸話も伝わっている 9 。
江戸時代中期に幕府によって編纂された故実書『柳営秘鑑』には、徳川家康の馬印(うまじるし)の一つである「金の扇」の由来が本多家にあるという、興味深い逸話が記されている 2 。
同書によれば、この扇は元々、本多忠豊が主君・松平清康の危急を救った際に下賜されたもので、忠豊の死後は忠高、そして忠勝へと受け継がれた。その後、文禄2年(1593年)になって、家康がその由来を重んじ、本多家から召し上げて自らの馬印にした、とされている 54 。
しかし、この逸話には史料批判的な視点が必要である。『柳営秘鑑』は合戦から200年近く後、幕府の権威が確立した寛保3年(1743年)に成立した二次史料であり、その記述には後世の脚色や、徳川将軍家と譜代筆頭である本多家の特別な絆を強調するための創作が含まれている可能性が高い 54 。この物語は、本多家の「二代にわたる忠死」という史実と結びつき、徳川と本多の主従関係が運命的で強固なものであったことを後世に示すための、一種の「創られた伝統」として機能したと考えられる。
本多忠高の生き様と死に様は、父・忠豊と共に、主君のために命を惜しまず、己の武をもって忠節を尽くす「三河武士」の理想像として、後世まで語り継がれた 20 。
その忠義は江戸時代を通じて顕彰され続けた。その証左として、忠高が討死した安城市安城町の地には、寛政9年(1797年)、子孫である岡崎藩主・本多忠顕によって巨大な亀の背に乗った墓碑が建立された 38 。この墓碑は、主君の菩提寺である大乗寺の境内に今も残り、忠高の奮戦と忠死の記憶を現代に伝えている。
本多忠高の生涯は、戦国乱世の非情さと、その中で育まれた主従の絆を鮮烈に体現している。彼の武功、そしてその壮絶な死は、松平家が最も脆弱であった時代を支え、歴史の大きな歯車を動かす一因となった。
徳川四天王・本多忠勝という稀代の武将をこの世に遺し、自らはその礎となって歴史の舞台から消えた本多忠高。その名は、息子の忠勝ほど華々しくはない。しかし、彼の忠死がなければ、徳川家康の運命は大きく異なっていた可能性があり、ひいては徳川三百年の泰平の世も訪れなかったかもしれない。彼はまさに、徳川黎明の時代にその命をもって礎を築いた、知られざる重要人物の一人であると結論付けられる。
本報告書における本多忠高に関する記述は、『寛政重修諸家譜』や『柳営秘鑑』といった江戸時代に編纂された二次史料、及び各種の系譜資料に多く依拠している。これらの史料は、徳川幕府の治世が安定した後に、幕府の正統性や譜代家臣との主従関係を強調する意図をもって編纂されたものであり、記述には後世の脚色や創作が含まれる可能性がある点に留意が必要である 55 。
一方で、大久保忠教による『三河物語』は、比較的同時代に近い記録ではあるが、著者である大久保一族の功績を中心に描いているため、本多忠高個人に関する詳細な記述は見られない 59 。また、織田家側の一次史料である『信長公記』にも、忠高に関する直接的な言及は乏しい。これは、彼が敵方である松平家の一家臣であり、織田家側から見た重要人物ではなかったためと推察される。
したがって、本多忠高の実像に迫るには、これらの史料が持つ性格や編纂意図を理解し、相互に比較検討する批判的な視点が不可欠である。本報告書では、この史料批判の観点から、確度の高い事実と後世に形成された評価・伝承を可能な限り区別しつつ、論述を進めた。