本多政重の生涯は、主君と名前を幾度も変え、安住の地を求めて流転を重ねた複雑な軌跡を辿る。その波乱に満ちた経歴の全体像を俯瞰するため、以下に詳細な年譜を記す。
西暦 |
和暦 |
年齢 |
主な出来事 |
仕えた主君 |
当時の名前・官位・俸禄 |
1580年 |
天正8年 |
1歳 |
徳川家臣・本多正信の次男として誕生 1 。 |
徳川家康 |
本多某(幼名不明) |
1591年 |
天正19年 |
12歳 |
徳川家臣・倉橋長右衛門の養子となる 1 。 |
徳川家康 |
倉橋長五郎 |
1597年 |
慶長2年 |
18歳 |
徳川秀忠の乳母の子・川村荘八を斬殺し、出奔 1 。 |
(浪人) |
倉橋長五郎 |
1597年頃 |
慶長2年頃 |
18歳 |
大谷吉継の家臣となる 2 。 |
大谷吉継 |
(不詳) |
1599年頃 |
慶長4年頃 |
20歳 |
宇喜多秀家の家臣となる 3 。 |
宇喜多秀家 |
正木左兵衛、2万石 1 |
1600年 |
慶長5年 |
21歳 |
関ヶ原の戦いで西軍として奮戦。敗戦後、近江堅田に隠棲 1 。 |
宇喜多秀家 |
正木左兵衛、2万石 |
1601年頃 |
慶長6年頃 |
22歳 |
福島正則に仕える 3 。 |
福島正則 |
(不詳)、3万石 |
1602年 |
慶長7年 |
23歳 |
前田利長に仕える 3 。 |
前田利長 |
本多山城守、3万石 3 |
1603年 |
慶長8年 |
24歳 |
旧主・宇喜多秀家の流罪を知り、前田家を離れる 1 。 |
(浪人) |
本多山城守 |
1604年 |
慶長9年 |
25歳 |
直江兼続の婿養子となり、兼続の娘・於松と結婚 1 。 |
上杉景勝 |
直江大和守勝吉 |
1605年 |
慶長10年 |
26歳 |
妻・於松が病死。兼続の懇願で養子関係は継続 1 。 |
上杉景勝 |
直江大和守勝吉 |
1609年 |
慶長14年 |
30歳 |
兼続の養女・阿虎(大国実頼の娘)と再婚。本多安房守政重と改名 1 。 |
上杉景勝 |
本多安房守政重 |
1611年 |
慶長16年 |
32歳 |
上杉家を出奔し、武蔵国岩槻に潜伏 1 。 |
(浪人) |
本多安房守政重 |
1612年 |
慶長17年 |
33歳 |
藤堂高虎の仲介で前田家に帰参。家老となる 1 。 |
前田利常 |
本多安房守政重、3万石 |
1613年 |
慶長18年 |
34歳 |
幕府の越中返上要求を撤回させ、2万石加増 2 。 |
前田利常 |
本多安房守政重、5万石 |
1614年 |
慶長19年 |
35歳 |
大坂冬の陣に従軍。真田丸で真田信繁に敗れる 1 。 |
前田利常 |
本多安房守政重、5万石 |
1615年 |
慶長20年 |
36歳 |
従五位下・安房守に叙任される 1 。 |
前田利常 |
本多安房守政重、5万石 |
1627年 |
寛永4年 |
48歳 |
嫡男・政次、正室・阿虎が相次いで死去。西洞院時直の娘と再々婚 1 。 |
前田利常 |
本多安房守政重、5万石 |
1647年 |
正保4年 |
68歳 |
3月に隠居し「大夢」と号す。6月3日、死去 1 。 |
(隠居) |
大夢 |
徳川家康の「知恵袋」と称され、その権謀術数をもって天下統一を支えた本多正信 4 。そして、父の路線を継承し、江戸幕府初期に老中として絶大な権勢を誇った兄・本多正純 11 。この謀臣の家系に、天正8年(1580年)、一人の男子が生まれた。正信の次男、本多政重である。
父や兄が「知」の人であったのに対し、政重は「豪胆で武勇に優れた」 3 と評される、まさに対照的な気性の持ち主であった。その生涯は、一つの家に安んじることなく、徳川、大谷、宇喜多、福島、前田、そして上杉と、名だたる大名の門を渡り歩く流浪の連続であった。一時は、上杉家の重鎮・直江兼続の婿養子にまでなっている 2 。
この不可解とも言える彼の経歴は、多くの謎を後世に投げかける。彼の行動は、単なる若気の至りや抑えきれぬ放浪癖の産物だったのか。あるいは、その背後には、幕府の権力者である父・正信の遠大な謀略が隠されていたのか 3 。巷間では、有力外様大名の内情を探る「間諜」であったという説すら囁かれている 14 。
本報告書は、断片的な逸話の集合体としてではなく、本多政重という一人の人間の行動原理と、彼が生きた時代の激しい政治力学との相互作用を解き明かすことを目的とする。流浪の果てに加賀百万石の礎を築き上げたこの矛盾を宿す武将の実像に、多角的な視点から迫るものである。
本多政重の人生を理解する上で、彼の出自、すなわち父・正信と兄・正純の存在は決定的に重要である。彼らは政重にとって、単なる家族ではなく、生涯にわたり影響を及ぼし続ける巨大な影であった。
父・本多正信は、徳川家康の覇業を陰で支えた第一の功臣と目される人物である。しかしその経歴は平坦ではない。かつて三河一向一揆の際に家康に背き、一度は出奔の憂き目に遭っている 4 。諸国を放浪した後に許されて帰参すると、その知謀と、時に「汚れ役」も厭わない徹底した現実主義で家康の絶対的な信頼を勝ち得た 10 。武功派の家臣団からは疎まれながらも、彼は家康の側近として幕政の根幹に関与し続けた 15 。
兄・本多正純は、父の知略と政治的地位を色濃く受け継いだ。家康の死後、二代将軍・徳川秀忠の下で老中となり、幕府の中枢で権勢を振るった 12 。しかし、その権勢を背景にした傲慢ともとれる振る舞いが多くの政敵を生み、後の失脚に繋がったとされている 18 。
このような知略と謀略を家風とする家に生まれながら、次男・政重は異質な存在であった。史料は彼を「豪胆で武勇に優れていた」と評しており 3 、父兄とは明らかに異なる気質を持っていたことが窺える。この知と武の対比こそ、彼のその後の人生を方向づける原点となったのである。
政重の人生が大きく動き出すのは、慶長2年(1597年)、彼が18歳の時であった。この年、政重は徳川秀忠の乳母であった大姥局の息子、川村荘八(岡部荘八とも)と諍いを起こし、朋友の戸田為春と共にこれを斬殺するという事件を起こす 1 。
この事件は、単なる若者同士の喧嘩では済まされない、極めて重大な意味を持っていた。被害者の川村荘八は、次期将軍たる秀忠の乳母の子という、政治的に極めて機微に触れる立場にあった 20 。このような人物を殺害することは、徳川家、特に秀忠の面目を著しく傷つける行為であり、許されるはずもなかった。
この「大罪」を犯した政重が選んだ道は、出奔であった 2 。父や兄の権勢をもってしても庇いきれないほどの失態を犯した彼は、生まれ育った徳川家を捨て、自らの腕一本で乱世を生き抜くことを余儀なくされた。これが、彼の長く険しい「渡り奉公」の始まりであり、彼のキャリアと運命を決定づけた最初の、そして最大の岐路であった。
この出奔は、彼の人生にとって一見、破滅的な出来事に見える。しかし、逆説的に捉えれば、この事件こそが本多政重という武将を真に誕生させた「原動力」であったと分析できる。もしこの事件がなければ、彼は父兄の威光の下、徳川家の数多いる旗本の一人として、歴史に名を残すことなく凡庸な一生を終えた可能性が高い。しかし、徳川の庇護という安寧を失ったことで、彼は否応なく自己の能力を証明し、その価値を他者に認めさせる必要に迫られた。この逆境こそが、彼の内に秘められた「豪胆さ」や「武勇」を研ぎ澄まし、他大名から見れば「徳川のしがらみがなく、かつ実力のある魅力的な人材」としての価値を高める結果につながったのである。彼の出奔は、安定したキャリアの終わりではなく、波乱に満ちた、しかし彼自身の力で切り拓く人生の真の始まりであった。
徳川家を出奔した政重の人生は、まさに流浪の連続であった。しかし、その足跡を丹念に追うと、それは単なる当てのない放浪ではなく、乱世を生き抜くためのしたたかな生存戦略であったことが浮かび上がってくる。彼の「渡り奉公」は、自らの「市場価値」を証明し、人脈を形成していく戦略的なプロセスであったと解釈できる。
出奔した政重が最初に身を寄せたのは、越前敦賀城主・大谷吉継の許であった 1 。その後、慶長4年(1599年)頃、彼は五大老の一人であり、備前岡山57万石を領する大大名・宇喜多秀家に仕官する。ここで彼は「正木左兵衛」と名乗り、2万石という、一介の浪人としては破格の待遇で迎えられている 1 。これは、彼の武勇や、あるいは本多正信の子という出自が、早くも高く評価されていたことを示している。
そして慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発する。政重は宇喜多軍の一翼を担い、西軍の武将として奮戦した 1 。徳川家康に敵対する側で戦ったのである。西軍の敗北後、彼は戦場を離脱し、近江国堅田に潜伏した 1 。西軍に与したにもかかわらず、彼が戦後に罪を問われることはなかった。これは、幕府内で絶大な力を持つ父・正信の存在が大きく影響していたことは想像に難くない 1 。
関ヶ原の戦いを生き延びた政重は、再び仕官の道を探る。まず、安芸広島49万石の領主、猛将・福島正則に3万石で仕えたが、これは長続きせず、程なくして辞去している 1 。
次に彼が向かったのは、加賀百万石を領する前田利長の許であった。慶長7年(1602年)、彼はここでも3万石という高禄で召し抱えられ、「本多山城守」と称した 3 。しかし、この前田家での奉公も長くは続かなかった。翌慶長8年(1603年)、かつての主君であった宇喜多秀家が徳川家康に捕縛され、八丈島への流罪が決定する。この報に接した政重は、前田家を去る決断を下す。その理由は、前田利長の正室・玉泉院が宇喜多秀家の縁者であったため、旧主が罰せられる中でその縁戚の家に仕え続けるのは義理に反すると考えたからであった 1 。
この一見、非合理的にも見える行動は、彼の人物像を理解する上で極めて重要である。彼は、自らのキャリアよりも武士としての「義理」を重んじる男であるという強烈な自己を周囲に示した。この行動は、彼が単なる利に聡いだけの浪人ではないことを証明し、かえってその人物としての評価を高める効果的な自己演出となった可能性がある。
政重が宇喜多、福島、前田といった豊臣恩顧の有力外様大名を渡り歩いたことから、彼の行動は父・正信の意を受けた「間諜(スパイ)」活動だったのではないか、という説が根強く存在する 3 。確かに、彼の経歴は徳川幕府にとって極めて有益な情報をもたらしたであろう。
しかし、彼の行動の全てを「間諜」という言葉だけで説明するのは短絡的であろう。宇喜多秀家への義理立てに見られるように、彼の行動には彼自身の価値観や武士としての矜持が色濃く反映されている。彼の「渡り奉公」は、父の意向という側面があったとしても、それ以上に、徳川家を出奔した「無価値」な存在から、自らの実力と評価(2万石、3万石という俸禄)を段階的に積み上げ、一流の武将たちとの間に人脈を築き、自らの「価値」を証明していくための、彼自身の主体的な戦略であったと見るべきであろう。
前田家を去り、再び浪人となった政重に、思いもよらぬ話が舞い込む。関ヶ原で徳川と敵対し、120万石から30万石へと大減封された米沢の上杉家から、重臣・直江兼続の婿養子として迎え入れたいという申し出であった。
この養子縁組は、極めて高度な政治的計算に基づいていた。上杉家にとって、関ヶ原の敗戦後、お家の安泰をいかに図るかは最大の課題であった。その方策として兼続が目を付けたのが、幕政を牛耳る本多正信との間に直接的なパイプを築くことであった 2 。そのための最良の駒が、浪人中の正信の次男・政重だったのである。上杉家の窮状を知りたい正信と、徳川家との関係を改善したい兼続、双方の利害が完全に一致した政略結婚であった 14 。
慶長9年(1604年)閏8月、政重はこの申し出を受諾。兼続の長女・於松を娶り、上杉家の主君・景勝から「勝」の一字を拝領して「直江大和守勝吉」と名乗った 1 。ここに、徳川家を出奔した武将が、敵方であった上杉家の中枢に名を連ねるという、異例の事態が生まれた。
しかし、この政略的な縁組は順風満帆とはいかなかった。翌慶長10年(1605年)、妻の於松がわずか1年で病死してしまう 1 。徳川との繋がりを失うことを恐れた兼続は、政重に懇願して養子関係を継続させた 1 。
さらに慶長14年(1609年)、兼続は自らの弟・大国実頼の娘である阿虎を養女とし、政重の継室として嫁がせた 1 。この縁組に際しては、実頼が強く反対し、迎えの使者を斬り殺して出奔するという激しい騒動まで起きている 2 。兼続がそこまでの犠牲を払ってでも、政重という「パイプ」を繋ぎ止めようとした執念が窺える。
ところが、この再婚からわずか2年後の慶長16年(1611年)、政重は突如として上杉家を出奔する 1 。その明確な理由は史料に残されていない。しかし、当時の状況からいくつかの要因が推測される。一つは、兼続には実子・景明が存在しており 7 、政重が直江家の家督を継ぐ見込みは薄かったこと。また、政重自身の武将としての野心が、陪臣の立場に飽き足らなくなっていた可能性もある。上杉家という組織内での彼の立場が限界に達した結果の行動であったのかもしれない。
政重の上杉家からの離脱は、一見すると恩義を仇で返す「裏切り」のようにも映る。しかし、この時、驚くべきことが起きる。彼が米沢を去る際、妻の阿虎はもちろんのこと、同じく兼続の養子であった本庄長房や、篠井重則ら数十名の上杉家臣が、彼を慕って行動を共にしたのである 2 。
この事実は、彼が上杉家で孤立していたのではなく、むしろ人を惹きつける強い人望、すなわちカリスマ性を有していたことを雄弁に物語っている。通常、主家を離反する者に家臣が追随することなどあり得ない。この異例の出来事は、彼が単なる政略の駒に終わらず、上杉家内で一定の派閥を形成するほどの影響力を持っていたことを示唆する。
このことから、彼の上杉家離脱は、単純な裏切りではなく、双方にとってある種の合理的な帰結であった可能性が浮かび上がる。上杉家にとって、徳川との関係が安定期に入ったことで、政重という「生きたパイプ」の政治的価値は相対的に低下していたかもしれない。一方で、彼の人望が将来的に家中の火種になることを兼続が懸念した可能性も考えられる。政重自身は、より活躍できる新天地を求めていた。彼の離脱は、双方の暗黙の了解の下に行われた「役割の終了」であり、「円満な契約解除」に近いものであったのかもしれない。
上杉家を去った政重は、武蔵国岩槻に潜伏した後、再び大きく運命を転回させる。彼の流浪の人生で得た全ての経験、すなわち武勇、人脈、そして政治感覚が、ついに一つの場所で結実する時が来たのである。その舞台は、加賀百万石、前田家であった。
慶長17年(1612年)、政界のフィクサーとして名高い津藩主・藤堂高虎の仲介により、政重はかつて仕えた前田家に3万石で「帰参」を果たす 1 。高虎と父・正信が親密な関係にあったことも 25 、この復帰を後押ししたと考えられる。
当時の加賀藩は、藩祖・利家の跡を継いだ利長が病で隠居し、その弟である若年の前田利常が三代藩主となっていた 2 。政重は家老として、この若き藩主を補佐し、巨大な外様大名である前田家の舵取りを担うという重責を負うことになった 2 。前田家が彼を再び迎え入れたのは、彼が持つ「幕府中枢への直接交渉ルート」という、他のどの家臣も持ち得ない唯一無二の価値を高く評価したからに他ならない 12 。
政重の価値は、すぐに証明されることとなる。
功績一:越中国返上問題の解決
慶長18年(1613年)、江戸幕府は突如として加賀藩に対し、所領の一部である越中国の返上を要求するという、藩の存亡に関わる危機が訪れた。この絶体絶命の状況で、政重は江戸へ赴き、幕府の中枢にいる父・正信と兄・正純に直接働きかけ、この要求を完全に撤回させるという離れ業を成し遂げた 2。この絶大な功績により、彼は2万石を加増され、その知行は合計5万石に達した 2。
功績二:謀反嫌疑の釈明
その後も、幕府の警戒心が強い加賀藩には、謀反の疑いがかけられることがあった。その都度、政重は江戸に赴いて懸命に釈明し、懲罰を回避した 1。ある時、この功績に対してさらなる加増の話が持ち上がったが、政重はこれを固辞。その代わりに、前田家から名器として名高いルソン壺「村雨の壺」を拝領したと伝えられている。この壺は、彼の功績を象徴するものとして「五万石の壺」とも呼ばれ、加賀本多家第一の家宝となった 27。
外交や藩政で手腕を振るう一方、政重は武人としての側面も持ち続けていた。慶長19年(1614年)に勃発した大坂冬の陣では、前田軍の一員として従軍する。しかし、豊臣方の名将・真田信繁(幸村)が構築した難攻不落の出城「真田丸」の攻略戦において、信繁の巧みな戦術に誘い込まれ、手痛い敗北を喫してしまう 1 。この敗戦は、信繁の武名を一層高める結果となり、政重の武勇伝における数少ない汚点として記録されている。この敗戦後、彼は兄・正純の命を受け、信繁の叔父である真田信尹と連携して信繁への調略工作を行ったが、これは成功しなかった 2 。
元和8年(1622年)、本多家に激震が走る。兄・正純が、二代将軍・秀忠の暗殺を企てたという濡れ衣を着せられ、改易の上、出羽国への流罪に処されたのである 30 。世に言う「宇都宮釣天井事件」である。この事件は、実際には釣天井などは存在せず、家康死後に権勢を増した正純を疎む秀忠側近らによる政治的陰謀であったというのが通説である 18 。
兄が絶望的な状況に追い込まれる中、加賀藩筆頭家老という要職にあった政重が、兄の救済のために動いたという記録は一切見当たらない 30 。これは冷酷な仕打ちにも見えるが、彼の立場を考えれば、それは極めて現実的かつ合理的な判断であった。もし彼が下手に動けば、ただでさえ幕府から警戒されている前田家そのものに嫌疑が及び、藩全体が危機に瀕する可能性があった。
この「沈黙」は、彼がもはや単なる「本多正信の子」ではなく、完全に「前田家の家老」としての自己認識を確立していたことの力強い証左である。個人的な兄弟の情よりも、主家である前田家の安泰を最優先する。それは、流浪の末に安住の地を得た男が示した、江戸時代の家臣としての究極の忠誠の形であった。彼の人生の最終章は、流浪の個人から、巨大な組織の守護者へと変貌を遂げた物語なのである。
加賀藩に確固たる地位を築いた政重は、その後の人生を前田家の安泰と発展に捧げた。彼の流浪の旅は終わり、新たな家を創設し、その礎を固めるという新たな役割が始まったのである。
政重は、三代藩主・利常だけでなく、四代・光高、五代・綱紀の代に至るまで、家老として藩政を支え続けた 1 。彼の家は、加賀藩の家臣団の中でも最高位に位置づけられる「加賀八家」の筆頭となり 21 、その子孫は幕末に至るまで藩の重臣として重きをなし続けた 14 。
しかし、彼の私生活は必ずしも平穏ではなかった。寛永4年(1627年)、嫡男であった政次が18歳の若さで早世し、そのわずか2ヶ月後には、上杉家から連れ添ってきた正室・阿虎も後を追うように亡くなるという深い悲しみに見舞われた 1 。同年、彼は公家である西洞院時直の娘を後妻に迎えている 1 。
正保4年(1647年)3月、68歳となった政重は病を理由に隠居。自ら「大夢」と号し、家督を再々婚相手との間に生まれた五男・政長に譲った 1 。そして同年6月3日、波乱に満ちたその生涯に静かに幕を下ろした 1 。
「豪胆で武勇に優れた」という彼の評価は、川村荘八を斬殺した若き日の激情や、関ヶ原での奮戦によく表れている。しかし、大坂の陣における真田信繁への敗北は、彼が戦の天才や万能の武将ではなかったことも同時に示している。
彼の真骨頂は、単なる武勇にあったのではない。それは、父兄から受け継いだであろう政治的な嗅覚と、渡り奉公という特異な経験を通じて培った交渉力、そして人を惹きつける人望を巧みに融合させ、自らの価値を時代の要求に応じて最大化し続けた、類稀なる生存戦略にあった。彼は、武人でありながら、優れた政治家でもあったのである。
彼の墓所は金沢市の大乗寺にあり 1 、その辞世の句が伝えられている。
「ひとたつと うちつくる下に 何も無し おもへばおもふ 夢もまた夢」 13
力強く槌を振り下ろしてみても、その下には結局何もない。人生で成し遂げたと思った数々のことも、今静かに思い返してみれば、それ自体がまた夢のように儚いものであった――。この句には、主君を転々とし、栄光と挫折、喜びと悲しみを幾度も味わった男が、その生涯の終わりにたどり着いた無常観と、全てを受け入れた達観の境地が深く刻まれている。
本多政重が遺したものは大きい。彼が創設した加賀本多家は、5万石の大禄を得て加賀藩の筆頭家老として幕末まで続き、藩政を支え続けた 14 。
彼の子孫たちもまた、様々な形で歴史に名を残している。次男の政遂は、叔父である下野榎本藩主・本多忠純の養子となり、藩主の座を継いだ 2 。また、早世した長男・政次の孫にあたる青地礼幹は、室鳩巣門下の儒学者として知られ、『可観小説』などの著作を残した 13 。政重の血脈は、武門だけでなく、学問の世界にも受け継がれていったのである。
本多政重の生涯は、徳川の謀臣の家に生まれながら、自らの意思(あるいは過ち)によってその安寧を捨て、あえて流浪の道を選んだ一人の武将の物語である。彼は、父・正信や兄・正純が築いた盤石の地位とは対極の、不安定な浪人という立場から自らの人生を始めなければならなかった。
しかし、その苦難の道程こそが、彼を鍛え上げた。彼は、渡り歩いた先々で武勇を示し、人脈を築き、そして何よりも時代の力学を鋭敏に読み解く感覚を磨き上げた。その全てを武器として、彼は自らの価値を乱世の市場で証明し続けたのである。
彼の行動は、時に不可解で、矛盾に満ちているように見える。しかし、その根底には、武士としての義理と、自己の能力を最大限に発揮できる場所を求める強い意志が一貫して流れていた。彼は、父の操り人形でも、単なる武辺者でもなかった。
最終的に、彼は加賀百万石という巨大な外様大名の懐に飛び込み、その卓越した政治手腕で主家を存亡の危機から救い、筆頭家老として後世に続く盤石な礎を築き上げた。彼の生涯は、出自という宿命に抗い、自らの手で運命を切り拓き、組織の守護者へと変貌を遂げた壮大な記録である。本多政重とは、まさしく乱世が生んだ、稀有な生存能力と自己実現能力を兼ね備えた「異能の臣」であったと結論付けられる。