戦国時代の越後国は、守護上杉氏の権威が揺らぎ、長尾為景の台頭以降、国内の国人領主間の抗争が絶えない混沌とした状況にあった。特に阿賀野川以北に割拠した揚北衆(あがきたしゅう)と呼ばれる国人領主たちは、中央の権力に対して強い独立性を保持する傾向があった 1 。本庄繁長もこの揚北衆の一員として、その生涯を通じて複雑な立場に身を置くこととなる。この揚北衆が持つ、中央権力からの地理的隔絶と外部勢力との隣接という地政学的条件は、彼らの自立志向を育んだ一因であり、後の繁長の行動を理解する上で重要な背景となる。
本庄氏は、桓武平氏の流れを汲む秩父氏の一族で、越後国岩船郡小泉荘本庄(現在の新潟県村上市)を本拠とした名門である 1 。その祖先は鎌倉幕府の有力御家人であり、越後においては色部氏らと共に越後秩父氏を形成していた 1 。繁長は、天文8年(1539年) 4 、あるいは同8年12月4日(西暦1540年1月12日) 2 に、本庄房長の長子として生を受けた。幼名は千代猪丸と伝わる 2 。
繁長の誕生前後は、本庄家にとって激動の時期であった。父・房長は、越後守護上杉定実が伊達稙宗の子・時宗丸(後の伊達実元)を養子に迎えようとした問題で、同族の色部氏と共にこれに反対し、入嗣推進派の中条藤資らと対立した 2 。この対立の渦中、房長は弟である小川長資(繁長にとっては大叔父)の策謀により居城の本庄城を追われ、出羽国庄内地方の盟友大宝寺氏のもとへ逃れたが、そこで憤死したと伝えられる 4 。これは繁長誕生のわずか7日前、あるいは繁長がまだ幼少の頃の出来事であったとされる 4 。近親者による裏切りと、父と本領を同時に失うという幼少期の過酷な経験は、繁長の強靭な意志と、時に他者を容易に信用しない慎重さ、そして一族の再興と勢力拡大への渇望を育んだ可能性は否定できない。
以下に、本庄繁長の生涯における主要な出来事を略年表として示す。
本庄繁長 略年表
和暦 |
西暦 |
年齢 (数え) |
主要な出来事 |
典拠 |
天文8年 |
1539年 |
1歳 |
生誕(1540年1月12日説もあり) |
2 |
天文20年 |
1551年 |
13歳 |
叔父・小川長資を討ち、本庄城を奪還 |
4 |
永禄4年 |
1561年 |
23歳 |
第四次川中島の戦いに上杉謙信方として参陣か |
7 |
永禄6年 |
1563年 |
25歳 |
上杉謙信に属し関東出陣に参加 |
4 |
永禄11年 |
1568年 |
30歳 |
武田信玄と内通し上杉謙信に謀反(本庄繁長の乱) |
5 |
永禄12年 |
1569年 |
31歳 |
謙信と和睦、長男・顕長を人質に出す |
2 |
天正6年 |
1578年 |
40歳 |
御館の乱勃発。上杉景勝方に与する |
4 |
天正9年頃 |
1581年頃 |
43歳頃 |
新発田重家の乱鎮圧に貢献 |
9 |
天正16年 |
1588年 |
50歳 |
十五里ヶ原の戦いで最上軍を破り、庄内を制圧 |
5 |
天正18年 |
1590年 |
52歳 |
豊臣秀吉の小田原征伐に従軍 |
11 |
天正19年 |
1591年 |
53歳 |
藤島一揆扇動の嫌疑で改易、大和国へ流罪 |
5 |
文禄元年 |
1592年 |
54歳 |
文禄の役への参加を機に赦免され、上杉家に復帰 |
5 |
慶長3年 |
1598年 |
60歳 |
上杉景勝の会津移封に従い、守山城代、後に福島城代となる |
2 |
慶長5年 |
1600年 |
62歳 |
関ヶ原の戦いに関連し、松川の戦いで伊達政宗軍を撃退 |
5 |
慶長6年 |
1601年 |
63歳 |
上杉家減封に伴い米沢へ。繁長は引き続き福島城代。上洛し徳川方と交渉 |
2 |
慶長18年12月20日 |
1614年1月29日 |
75歳 |
福島城にて死去 |
2 |
天文20年(1551年)、繁長は13歳(一説に12歳)にして、その後の彼の武将としての資質を鮮烈に示す行動に出る。父・房長の13回忌の法要の席で、父の仇であり本庄家の実権を握っていた叔父(実際には大叔父)・小川長資を強引に切腹させ、本庄城(後の村上城)を奪還、本庄氏の当主としての地位を確立したのである 4 。この早熟な武勇と決断力は、単に個人的な勇猛さだけでなく、父に忠実であった家臣団の支持と周到な計画があったことを示唆しており、若くして人心を掌握し、複雑な状況を打開する指導者としての片鱗をうかがわせる。
その後、繁長は越後の統一を進める長尾景虎、後の上杉謙信の麾下に入った。永禄6年(1563年)頃には謙信に従って関東に出陣し、軍功を挙げたとされる 4 。戦国時代を代表する合戦の一つである川中島の戦いにも参陣したと伝えられ、その勇猛果敢な戦いぶりは、後世、歌川国芳の武者絵の題材ともなった 2 。特に、敵の銃弾を盾で受け止める姿が描かれており、彼の武勇を象徴する逸話として語り継がれている 8 。しかしながら、揚北衆という独立性の高い出自と、繁長自身の強烈な自負心を考慮すれば、当初の謙信への「臣従」は、絶対的な忠誠というよりは、むしろ戦略的な提携、あるいは相互の利害に基づく同盟関係に近いものであった可能性も考えられる。この関係性の機微が、後の両者の間に生じる緊張と対立の伏線となるのである。
永禄11年(1568年)、繁長は甲斐の武田信玄と内通し、主君である上杉謙信に対して公然と反旗を翻した。世に言う「本庄繁長の乱」である 2 。この謀反の背景には、一国人領主としての強い独立心、謙信による家臣への恩賞に対する不満、あるいは揚北衆としての自立への渇望など、複数の要因が複雑に絡み合っていたとされる 5 。さらに繁長は、上杉家と対立関係にあった芦名氏や伊達氏とも連携を図り、多方面にわたる外交戦略を展開していた 7 。
繁長の謀反に対し、謙信は自ら大軍を率いて出陣し、繁長が籠る本庄城を包囲攻撃した。しかし、繁長は巧みな戦術と不屈の意志をもって籠城戦を展開し、謙信の猛攻を半年以上にわたって凌ぎ切った 2 。本庄城周辺の岩船、猿沢といった地域でも両軍は激しい戦闘を繰り広げた 7 。
最終的に、この戦いは繁長が長男・松千代(後の顕長)を人質として差し出すことで和睦が成立し、終結した 2 。注目すべきは、これほど大規模な反乱を起こしながらも、繁長が死罪や所領没収といった厳罰を免れた点である。これは、繁長自身の軍事力と揚北衆に対する影響力の大きさを謙信が無視できなかったため、あるいは謙信が繁長の器量を惜しんだためとも考えられる 9 。繁長が謙信の包囲に長期間耐え抜いたという事実は、彼の軍事的能力の高さを証明すると同時に、謙信にとっても力攻めによる完全な制圧が困難、あるいはその代償が大きすぎると判断させた可能性がある。結果として、和睦という形で決着したことは、繁長にとって完全な独立達成とはならなかったものの、その武名と勢力を内外に改めて示すことになった。
天正6年(1578年)、上杉謙信が急逝すると、その後継を巡って養子の上杉景勝と上杉景虎の間で家督相続争い、すなわち「御館の乱」が勃発した 4 。この上杉家の内乱において、繁長は景勝方に与することを決断し、景虎方に付いた同じ揚北衆の鮎川氏らと戦った 4 。
繁長のこの選択は、景勝の正統性(謙信の甥)や将来性を見据えた、熟慮の末の戦略的判断であったと考えられる。彼の強力な軍事力は景勝方にとって大きな支えとなり、乱の帰趨に少なからぬ影響を与えた。結果として景勝が勝利を収めると、繁長はその功績を認められ、上杉家中における地位を一層強固なものとし、越後下越地方において最大の勢力を有するに至った 4 。一方で、この内乱は繁長の家庭内に悲劇をもたらした。繁長の長子・顕長は父とは袂を分かち、大宝寺義氏と共に景虎方に加担したため、乱の終結後に廃嫡されるという厳しい運命を辿った 5 。この事実は、戦国時代の武家社会において、一族の存亡を賭けた選択が、父子の絆よりも優先される非情な現実を物語っている。
御館の乱後、上杉景勝体制が確立される過程で、同じ揚北衆の有力国人である新発田重家が、伊達氏など外部勢力と結んで景勝に対して反乱を起こした(新発田重家の乱)。この新たな内乱において、本庄繁長は景勝方として鎮圧に大きく貢献し、かつての謙信への反乱で失墜した信頼を回復し、上杉家中での確固たる地位を再び築き上げた 6 。
かつて自らも主君に反旗を翻した経験を持つ繁長が、同じ揚北衆の反乱鎮圧に積極的に関与したことは、景勝への忠誠を明確に示すと同時に、自身の政治的立場を強化する戦略的な行動であったと解釈できる。この功績により、繁長は景勝からの信頼を確実なものとし、揚北衆の中でも突出した存在感を示すことになった。また、景勝にとっても、繁長の力は、しばしば動揺を見せる揚北地域の安定化に不可欠であった。
天正16年(1588年)、出羽国庄内地方の覇権を巡り、最上義光の支援を受ける東禅寺氏と、本庄繁長が後援する大宝寺氏(武藤氏)との間で激しい抗争が続いていた 9 。繁長は、実子である千勝丸(後の大宝寺義勝、本庄充長)を大宝寺義興の養子に入れるなど、庄内への影響力拡大に深く関与していた 5 。
この状況下で、繁長は上杉景勝の命を受け、あるいは自らの戦略的判断に基づき、上杉軍を率いて庄内へ出兵した。そして、現在の山形県鶴岡市に位置する十五里ヶ原において、最上義光・東禅寺連合軍と激突した。兵力では劣勢であったにもかかわらず、繁長は巧みな采配と将兵の奮戦により最上軍を大破するという輝かしい戦果を挙げた 5 。この戦いで繁長自身も敵将・東禅寺右馬頭に兜を斬りつけられるほどの激戦であったが 10 、その武勇は敵味方に鳴り響き、庄内地方における上杉氏の、そして実質的には本庄氏の支配権を確立する決定的な勝利となった。この庄内への進出は、単なる上杉家の軍事行動というだけでなく、繁長自身の息子が関わる大宝寺家の将来を左右するものであり、個人的な利害も深く絡んだ戦いであった。寡兵をもって大軍を破ったこの戦いは、繁長の卓越した戦術眼と統率力を如実に示すものであり、上杉家屈指の猛将としての評価を不動のものとした。
十五里ヶ原の戦いでの勝利により、繁長の息子・大宝寺義勝は、天正17年(1589年)に豊臣秀吉から庄内地方の領有を一旦は公認された 5 。しかし、その栄光は長くは続かなかった。天正19年(1591年)頃、奥羽地方で太閤検地や奥州仕置に対する反発から大規模な一揆(仙北一揆、藤島一揆など)が発生すると、繁長と義勝親子はこの一揆を扇動したという嫌疑をかけられたのである 4 。
この結果、繁長親子は豊臣秀吉の怒りを買い、改易処分となり、繁長は大和国へ流罪(蟄居)を命じられるという失脚の憂き目に遭った。この出来事は、天下統一を進める豊臣政権の強大な権力と、それに伴う地方の有力武将たちの立場の危うさを象徴している。繁長が過去に主君謙信に反逆した経歴や、庄内での急激な勢力拡大が、中央政権から警戒された可能性も否定できない。
大和国での蟄居生活を余儀なくされた繁長であったが、文禄元年(1592年)に豊臣秀吉が朝鮮出兵(文禄の役)を開始すると、事態は転機を迎える。この大規模な外征において、経験豊富な武将の必要性が高まったことから、繁長は赦免され、上杉景勝の家臣として再び軍役につくことを許された。この時、一万石の所領を与えられ、上杉軍の一翼を担って朝鮮へ渡海したと記録されている 4 。
秀吉によるこの赦免は、繁長の過去の嫌疑が完全に晴れたというよりは、彼の卓越した軍事的能力を戦役で活用しようという、極めて現実的な判断に基づいていたと考えられる。繁長にとって、この朝鮮出兵への参加は、名誉挽回と上杉家への再奉公を果たす貴重な機会となった。
繁長の失脚と復帰に先立つ天正18年(1590年)、豊臣秀吉による天下統一事業の総仕上げともいえる小田原征伐が行われた。この際、主君上杉景勝も秀吉の命に従い大軍を率いて参陣しており、繁長も上杉軍の主要な武将の一人としてこれに従軍した 11 。上杉軍は主に関東地方北部の上野国や武蔵国の北条氏方諸城の攻略を担当しており、繁長もこれらの戦いで武功を挙げたものと推察される。
この小田原征伐への参加は、上杉氏が豊臣政権の構成大名であることを明確に示すものであり、繁長個人にとっても、秀吉の天下人としての権威を再認識し、それに従う姿勢を示す機会となった。かつて独立を志向した繁長が、時代の大きなうねりの中で、中央集権化する新たな政治秩序に適応していく過程を物語る出来事の一つである。
慶長3年(1598年)、豊臣秀吉の命により、上杉景勝は長年本拠地とした越後国から、陸奥国会津120万石へと大規模な国替えを命じられた。主君の移封に伴い、本庄繁長もこれに従い、新たな領国へと赴いた。会津において繁長は、当初、田村郡の守山城代を務め、その後、信夫郡の福島城代に任じられ、引き続き一万石の知行を与えられた 2 。
福島は伊達氏の領国と境を接する戦略上の要衝であり、このような重要な拠点の守りを、高齢に達していた繁長に委ねたという事実は、上杉景勝が繁長の軍事的能力と忠誠心に依然として絶大な信頼を寄せていたことを示している。これは単なる名誉職ではなく、国境防衛の最前線を担う重責であった。
慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後、天下の覇権を巡って徳川家康率いる東軍と石田三成ら西軍が対立し、関ヶ原の戦いが勃発した。上杉景勝は西軍に与し、家康に対して敵対行動を取った。これに対し、東軍に属した伊達政宗は、上杉領である福島城へと侵攻を開始した。
この時、福島城代であった本庄繁長は、老齢にもかかわらず、梁川城主須田長義らと連携し、伊達軍の攻撃を迎え撃った。兵力では劣勢であったものの、繁長は巧みな指揮と将兵の勇戦により、伊達軍に大きな損害を与えて撃退することに成功した(松川の戦い) 2 。この戦いは、関ヶ原の主戦場から離れた東北地方における重要な局地戦であり、繁長の衰えぬ武勇と戦術眼を改めて天下に示すものであった。60歳を超えてなお、伊達政宗という当代きっての驍将の軍勢を退けたことは、繁長の武将としての器量の大きさを物語っている。
関ヶ原の戦いは東軍の圧倒的な勝利に終わり、西軍に与した上杉家は厳しい処分を受けることとなった。会津120万石の広大な所領は没収され、出羽国米沢30万石へと大幅に減封されたのである。この上杉家の危機に際し、繁長も主家と運命を共にし、その知行も3,300石へと減少したが、引き続き福島城代としての任を務めた 2 。
さらに、上杉家の戦後処理において、繁長は重要な役割を担った。景勝の命を受け、上洛して徳川家康との講和交渉にあたったと伝えられている 2 。これは、繁長の武名が広く諸大名に知れ渡っており、徳川方からも一目置かれる存在であったため、敗軍の将である上杉家が少しでも有利な条件で交渉を進めるために、景勝が繁長を交渉役に立てたからであるとも言われる 2 。戦場での武勇だけでなく、敗戦処理という困難な外交交渉においても、繁長の存在が上杉家にとって不可欠であったことを示している。
幾多の戦乱を生き抜き、上杉家を支え続けた本庄繁長であったが、慶長18年12月20日(西暦1614年1月29日)、任地の福島城においてその75年の生涯を閉じた 2 。法名は憲徳院殿傑伝長勝大居士 2 。
繁長の墓所は、福島県福島市にある長楽寺に現存しており、同寺には繁長の木像も安置され、毎年供養祭が営まれている 2 。晩年を過ごし、城代として統治した福島において、今なおその遺徳が偲ばれていることは、松川の戦いでの奮戦をはじめとする彼の功績が、地域の人々にとって記憶すべきものであったことを物語っている。
本庄繁長は、戦国時代を代表する勇将の一人として、その武名は広く知られている。特に少数の兵力を率いて大軍を破る戦術に長けており、十五里ヶ原の戦いや松川の戦いなど、寡兵をもって強敵を打ち破った事例は枚挙にいとまがない 2 。また、籠城戦においてもその手腕は卓越しており、本庄繁長の乱においては、当代随一の軍略家である上杉謙信自らが率いる大軍を相手に、本庄城を長期間にわたり守り抜いた 2 。
個人の武勇においても逸話が多く、川中島の戦いでは盾で銃弾を防いだと伝えられ 8 、十五里ヶ原の戦いでは敵将・東禅寺右馬頭に兜を斬りつけられる深手を負いながらも怯むことなく戦い続けたと記録されている 10 。これらの戦歴は、繁長が単なる猪武者ではなく、状況に応じて柔軟な戦術を駆使できる、攻守に優れた知勇兼備の将であったことを示している。
その圧倒的な強さと戦場での活躍から、繁長は上杉家中にあって「鬼神あり」とまで畏怖され、特に主君である上杉景勝からは「武人八幡(軍神である八幡大菩薩の化身たる武人)」という最大級の賛辞をもって称えられた 2 。これらの勇壮な異名は、繁長の武勇が単に個人的な強さにとどまらず、軍全体の士気を高め、敵には脅威を与えるほどの存在であったことを物語っている。その武名は、戦場での勝敗を左右するだけでなく、関ヶ原戦後のような外交交渉の場においても、一定の影響力を持っていた可能性が考えられる。
繁長の人物像を伝える逸話として、まず挙げられるのが、生まれながらにして眉間に傷があったという伝承である。これは、母が小川長資の謀反の際に負った刀傷が、胎内の繁長にまで達したためと伝えられており 2 、彼の波乱に満ちた宿命を象徴する話として語られている。このような逸話は、歴史上の偉大な人物の周囲にしばしば生まれるものであり、事実関係は別として、繁長の非凡さを強調する効果を持っていたであろう。
また、名刀「本庄正宗」にまつわる逸話も有名である。ある戦で敵将・東禅寺勝正(東禅寺右馬頭の誤伝か)を討ち取った際、その佩刀であった正宗の刀を戦利品として手に入れたとされる。この刀は後に「本庄正宗」として知られ、上杉景勝に献上されたとも、あるいは景勝が織田信長から名物の提出を求められた際に差し出した名刀の一つであったとも言われている 20 。この逸話は、繁長を天下の名刀と結びつけることで、その武将としての格を高めるものであった。
本庄氏が古来より使用してきた家紋は、源頼朝から拝領したと伝えられる「五七の桐」であった 3 。後年、上杉景勝は繁長の功績を高く評価し、上杉一門に連なる上杉景信の名跡を継がせると共に、上杉氏ゆかりの「竹に雀」の紋を下賜しようとした。これは繁長を上杉一門として遇するという破格の待遇であったが、繁長は自家の出自が桓武平氏畠山の流れであることを重んじ、藤原氏系とされる上杉氏の紋に全面的に替えることを固辞したという 2 。
この逸話は、繁長が自らの家柄と伝統を深く尊ぶ人物であったことを示している。最終的には、景勝の厚意も汲み、「竹に雀」を表紋(公式の紋)とし、本庄氏本来の「五七の桐」を裏紋(私的な紋)として併用することで決着したと伝えられる。この妥協点を見出す過程は、繁長が単に頑固なだけでなく、主君の意向を尊重しつつ自家の矜持も保つという、高度な政治感覚とバランス感覚を併せ持っていたことを示唆している。
本庄繁長は、正室に上杉景信の娘を迎え、継室として須田満親の娘を迎えている 2 。また、側室には大川忠秀の娘がいたことも記録されている 2 。
多くの子女に恵まれ、男子では長男・顕長(御館の乱で景虎方に与し廃嫡)、次男・充長(初め大宝寺義勝として大宝寺氏を継承、後に本庄氏に復帰して家督を相続)、六男・重長(充長の養子となり本庄氏の家督を継承)などが知られている 1 。女子も多く、それぞれ福王寺氏、黒川氏、石川氏、須田氏といった周辺の有力武家へ嫁いでおり、婚姻政策を通じて他家との連携を深めていた様子がうかがえる 2 。戦国時代の武家にとって、婚姻は重要な外交戦略の一環であり、繁長もまた、一族の安泰と勢力拡大のために、こうした手段を巧みに用いていたと考えられる。また、嫡男の廃嫡や養子縁組による家督相続の複雑さは、当時の武家社会における家名維持の困難さと、政治状況に応じた柔軟な対応の必要性を示している。
本庄繁長は、上杉謙信、そして上杉景勝という二代の当主にわたり、その卓越した武勇をもって仕えた武将であった。時には主君に反旗を翻すこともあったが、最終的には上杉家にとって欠くことのできない重臣として、その存続と発展に大きく貢献した。特に謙信没後の混乱期から景勝の時代にかけては、その軍事的能力と豊富な経験が高く評価され、軍事面における最前線での活躍はもとより、関ヶ原の戦い後の困難な時期には、徳川方との交渉役を務めるなど、政治的な局面においても重要な役割を果たした 2 。景勝にとって繁長は、激動の時代を乗り越えるための、まさに柱石ともいうべき存在であった。
繁長の生涯は、一族の家名を維持し、領土を拡大するためには、時には主君に反逆し、また時には忠誠を尽くすという、戦国時代の武将の典型的な生き様を体現している。裏切りと戦い、失脚と復権を繰り返す波乱に満ちたものであったが 7 、その都度、類稀なる勇猛さと実力によって危機を乗り越え、常に歴史の表舞台で重要な役割を担い続けた。その強靭な生命力と、いかなる状況下でも自己の価値を証明し続けた姿勢は、まさに戦国乱世を生き抜いた武将の姿そのものである。彼の生涯は、個人の武勇と才覚が、時に組織の運命をも左右し得た時代の証左と言えよう。
本庄繁長に関する歴史史料としては、「本庄氏記録」や「大系図」といった家譜類、上杉景勝らが発給した書状などが、「本庄家文書」として北海道立文書館に所蔵されていることが確認されている 2 。これらの一次史料は、繁長個人のみならず、本庄氏一族や当時の上杉家の動向を解明する上で非常に貴重であり、今後の更なる詳細な分析と研究が期待される。
既に、渡邊三省氏の著作『本庄氏と色部氏 ―中世武士選書9―』 22 をはじめとする専門的な研究も存在しており、これらの先行研究の成果を踏まえつつ、未開拓な史料群に光を当てることで、本庄繁長という武将の多面的な実像や、彼が生きた時代の地域社会の様相が、より深く明らかにされていくことが望まれる。特に「本庄家文書」に含まれる書状類は、繁長の具体的な行動や意思決定の背景、さらには彼の人となりを垣間見せる手がかりを秘めている可能性があり、歴史学研究における今後の進展に大きな期待が寄せられる。