日本の戦国時代から江戸時代初期にかけての激動期、多くの武将が歴史の荒波に翻弄された。その中でも、本庄義勝(ほんじょう よしかつ)の生涯は、一人の武将が時代の転換点においていかに複雑で劇的な運命を辿ったかを示す、象徴的な事例である。彼の人生は、与えられた役割と自らの血脈との間で揺れ動き、その時々の立場に応じて複数の名を名乗ることで特徴づけられる。
越後の猛将・本庄繁長の次男として生を受けた彼は、幼名を千勝丸(せんかつまる)といった。やがて出羽国庄内地方の名門・大宝寺氏の養子となり、大宝寺義勝(だいほうじ よしかつ)、あるいは武藤義勝(むとう よしかつ)として、滅亡寸前の家の再興を託される 1 。しかし、その栄光は束の間であり、中央政権の巨大な力と主家の思惑によって全てを失い、流浪の身となる。赦免された後は上杉家の家臣として忠実に仕え、父の死後は本庄氏に復して本庄充長(ほんじょう みつなが)と名を改め、一族の家督を継いだ 4 。
本報告書は、この本庄義勝という一人の武将の生涯を、単なる個人史としてではなく、彼を動かした本庄氏、大宝寺氏、そして主家である上杉氏、さらには宿敵・最上氏といった周辺勢力の政治力学、そして豊臣、徳川という中央政権が地方に及ぼした強大な影響力という多層的な文脈の中に位置づけ、その実像を徹底的に解明することを目的とする。彼の生涯は、戦国的な秩序が終焉を迎え、近世的な支配体制へと移行していく時代の縮図そのものであった。
西暦(和暦) |
年齢(数え) |
本庄義勝の動向・関連事項 |
関連人物・勢力 |
1573年(天正元年) |
1歳 |
越後国の武将・本庄繁長の次男として誕生。幼名は千勝丸 2 。 |
父:本庄繁長、主君:上杉謙信 |
1583年(天正11年) |
11歳 |
大宝寺義氏が家臣・東禅寺義長(前森蔵人)の謀反により自害。弟の義興が家督を継ぐ 7 。 |
大宝寺義氏、大宝寺義興、東禅寺義長、最上義光 |
1586年頃(天正14年頃) |
14歳頃 |
最上氏の圧迫に苦しむ大宝寺義興の養子となる 9 。 |
養父:大宝寺義興、上杉景勝 |
1587年(天正15年) |
15歳 |
養父・義興が東禅寺・最上連合軍に攻められ自刃。庄内を追われ、実父のいる越後へ退去 9 。 |
大宝寺義興、最上義光、東禅寺義長 |
1588年(天正16年) |
16歳 |
父・繁長と共に庄内に侵攻。十五里ヶ原の戦いで東禅寺・最上軍に勝利し、庄内を奪還 11 。 |
本庄繁長、上杉景勝、東禅寺義長、東禅寺勝正 |
1589年(天正17年) |
17歳 |
豊臣秀吉に拝謁。「豊臣」姓と「出羽守」の官位を授かり、大宝寺(武藤)義勝として庄内領主の地位を公認される 14 。 |
豊臣秀吉、上杉景勝 |
1591年(天正19年) |
19歳 |
庄内における太閤検地への反発から起きた「藤島一揆」を扇動した嫌疑により、父と共に改易。大和国へ配流される 3 。 |
豊臣秀吉、上杉景勝、直江兼続 |
1592年(文禄元年) |
20歳 |
文禄の役への参陣により赦免され、上杉家に家臣として復帰する 2 。 |
豊臣秀吉、上杉景勝 |
1600年(慶長5年) |
28歳 |
関ヶ原の戦いに際し、父・繁長と共に福島城に籠城。侵攻してきた伊達政宗軍を撃退する(松川の戦い) 4 。 |
本庄繁長、上杉景勝、伊達政宗 |
1614年(慶長19年) |
42歳 |
父・繁長の死に伴い、本庄氏に復して「充長」と改名。本庄家の家督を相続し、福島城代となる 4 。 |
上杉景勝 |
1623年(元和9年) |
51歳 |
嗣子なく死去。上杉定勝の命により、弟の重長が養子として家督を継承 6 。 |
上杉定勝、弟(養子):本庄重長 |
本庄義勝の生涯を理解するためには、彼がその血を受けた本庄氏と、運命を託された大宝寺氏という、二つの氏族の特性と、彼らが置かれていた状況を深く分析する必要がある。一方の武門の誇りと独立不羈の精神、もう一方の没落しつつある名門の苦境。この二つの要素が交差する点に、義勝の人生の出発点はあった。
義勝の父、本庄繁長(1540-1614)は、戦国時代の越後において「鬼神」とまで称された傑出した武将であった 17 。繁長の生涯は波乱に満ちている。誕生前に父・房長が同族の小川長資の謀略で命を落とし、自身も母の胎内で刀傷を負ったという逸話が残るほど、その出自からして壮絶であった 17 。天文20年(1551年)、わずか12歳(一説に13歳)で父の仇である叔父を討ち、本庄城(後の村上城)の城主として実権を奪還したという逸話は、彼の剛毅な気性を物語っている 20 。
繁長は上杉謙信に仕え、川中島の戦いや関東出兵で数々の武功を挙げたが、その一方で、極めて強い独立性を保持していた 22 。彼が属した越後北部の国人領主層は「揚北衆(あがきたしゅう)」と呼ばれ、上杉家の中にあって半独立的な地位を保ち、主家と利害が対立すれば、時に反旗を翻すことも厭わない気風を持っていた 23 。事実、繁長は永禄11年(1568年)、恩賞への不満などから武田信玄と通じ、謙信に対して大規模な反乱を起こしている(本庄繁長の乱) 21 。この反乱は、謙信自ら率いる大軍を相手に1年近く籠城し、上杉軍に多大な損害を与えるほどの激戦となった 20 。最終的に蘆名氏の仲介で降伏し、嫡男・顕長を人質に差し出すことで赦免されたが、この一件は繁長の武名と、揚北衆の統制の難しさを天下に知らしめた 21 。
謙信死後の御館の乱では、いち早く上杉景勝を支持し、その勝利に貢献 22 。景勝政権下では、新発田重家の乱の鎮圧などで活躍し、下越(越後北部)随一の実力者としての地位を不動のものとした 17 。繁長のこのような、主家への従属と自家の勢力拡大とを両立させようとする行動原理は、次男である義勝の運命を方向づける決定的な要因となる。
義勝が養子に入った大宝寺氏は、本姓を武藤氏といい、鎌倉時代に庄内地方の地頭として入部して以来の名門であった 3 。一時は出羽国において大いに権勢を誇ったが、戦国時代に至ると、一族内での内紛や周辺勢力との抗争により、その力は大きく衰退していた 8 。
義勝の養父・大宝寺義興の兄にあたる第17代当主・大宝寺義氏(1551-1583)の時代、大宝寺氏は一時的に勢力を回復させる。義氏は上杉謙信の後ろ盾を得て家中の反抗勢力を討伐し、庄内三郡(田川、櫛引、遊佐)を掌握した 8 。しかし、頼みとする謙信が天正6年(1578年)に急死すると、大宝寺氏の立場は再び不安定になる。義氏は織田信長に接近して後ろ盾を得ようとしたが、度重なる遠征や重税は領民や国人衆の反発を招き、次第に「悪屋形」と渾名されるようになった 8 。
権力基盤の脆弱化は、隣国・山形城主の最上義光による介入を招く絶好の機会を与えた。天正11年(1583年)、最上義光に通じた家臣・前森蔵人(後の東禅寺義長)が謀反を起こし、義氏は居城の尾浦城を急襲され自害に追い込まれた 3 。兄の跡を継いだ弟の義興が第18代当主となるも、もはや独力で最上・東禅寺連合の猛攻を防ぐことは不可能であった 9 。
絶体絶命の窮地に立たされた大宝寺義興は、活路を越後の上杉景勝に求めた 9 。上杉氏にとって、宿敵である最上氏が、越後と国境を接する庄内地方を完全に支配下に置くことは、自国の安全保障上、看過できない事態であった。一方、本庄繁長にとっても、庄内は自領に隣接する魅力的な勢力拡大の場であった。ここに、大宝寺・上杉・本庄の三者の利害が「対最上」という一点で一致する。
この戦略的提携を確固たるものにするため、天正14年(1586年)頃、本庄繁長の次男・千勝丸(後の義勝)が、大宝寺義興の養子として送られることになった 2 。当時14歳前後であった義勝の意思が、この決定に介在する余地はなかったであろう。彼は、本庄氏の血を引く大宝寺氏の次期当主として、上杉・本庄連合による庄内介入を正当化するための「大義名分」そのものであり、まさに政略の駒であった。この養子縁組により、義勝は自らの血脈である本庄家を離れ、滅びゆく名門・大宝寺氏の宿命を背負うことになったのである。
本庄義勝の養子入りは、大宝寺氏の再興を約束するものではなく、むしろ庄内地方を巡る上杉・最上両陣営の対立を決定的なものにした。義勝は、歴史の表舞台に登場するや否や、故郷を追われる憂き目に遭い、そして父・繁長と共に雪辱戦に臨むことになる。そのクライマックスが、戦国末期の出羽を揺るがした「十五里ヶ原の戦い」であった。
義勝の養子入りは、大宝寺家中の親最上派国人たちの反発を一層激化させた 17 。本庄繁長が越後国内で新発田重家の乱の対応に追われ、庄内へ大規模な援軍を送れない隙を突き、最上義光は攻勢を強めた 17 。
天正15年(1587年)10月、最上義光の支援を受けた東禅寺義長は、大宝寺義興の居城・尾浦城を総攻撃した。義興は奮戦するも衆寡敵せず、ついに自刃 9 。これにより、鎌倉時代から約400年続いた名門・大宝寺氏は事実上滅亡した。養子の義勝は、この時、清水城にいたが、落城の報を受け、実父・繁長を頼って越後国境の小国城へと辛うじて逃げ延びた 11 。15歳にして、彼は名ばかりの当主となり、守るべき領地と家臣の全てを失ったのである。
失地回復の機会は、翌天正16年(1588年)に訪れた。当時、最上義光は、伊達政宗が介入した大崎氏の内紛(大崎合戦)に主力部隊を派遣しており、庄内方面の守りが手薄になっていた 11 。この好機を捉えた上杉景勝は、本庄繁長・義勝父子に庄内奪還を厳命した。
同年8月、繁長・義勝率いる上杉・本庄連合軍約5,000は、小国口から庄内へと侵攻した 13 。対する東禅寺義長・勝正兄弟は、最上からの援軍を含め約10,000の兵力でこれを迎え撃つべく、尾浦城下の十五里ヶ原に布陣した 11 。兵力では劣勢であったが、歴戦の将である繁長の戦術は冴えわたっていた。合戦に先立ち、庄内の国人衆に調略を仕掛けて敵陣の結束を乱し、さらに夜陰に紛れて別働隊を渡河させ、敵の背後に回り込ませるなど、周到な準備を進めていた 11 。
夜明けと共に始まった合戦は、当初から本庄軍のペースで進んだ。背後を突かれて混乱に陥った東禅寺・最上軍は総崩れとなる 29 。不利を悟った兄・義長は敵本陣に突撃して壮絶な討死を遂げた。その報を聞いた弟の勝正もまた、単騎で繁長本陣に突入。不意を突いて繁長に斬りかかり、その兜をこめかみから耳下まで斬り割る深手を負わせたと伝えられる 11 。この時、勝正が手にしていた名刀が、後に繁長の手に渡り「本庄正宗」として知られるようになったという逸話は名高い 11 。しかし、勝正もまたその場で討ち取られ、東禅寺兄弟の奮戦も空しく、戦いは上杉・本庄連合軍の圧勝に終わった 11 。
この戦いにおいて、義勝は失われた大宝寺氏の正統な後継者として、軍の象徴的な中心にいた。父と共に軍を率い、雪辱を果たしたのである 13 。
十五里ヶ原の戦いの勝利により、庄内地方は再び本庄・上杉方の支配下に入った 15 。天正17年(1589年)、17歳となった義勝は上洛して豊臣秀吉に拝謁する。秀吉は義勝に「豊臣」の姓と「出羽守」の官位を与え、名を武藤(大宝寺)義勝として、庄内領主としての地位を正式に認めた 14 。
しかし、この戦いは豊臣秀吉が天正15年(1587年)に発令した「惣無事令(そうぶじれい)」、すなわち大名間の私的な戦闘を禁じる命令に明確に違反するものであった 31 。にもかかわらず秀吉が義勝の支配権を追認したのは、奥羽地方における勢力均衡を考慮した高度な政治判断の結果であったと考えられる。秀吉は、最上義光のこれ以上の勢力拡大を望まず、上杉景勝の与力大名という形で義勝が庄内を治めることを、当面の策として容認したのである 11 。
こうして本庄義勝は、父の武力と主君の威光、そして中央政権の政治的計算によって、一度は失った庄内の地に領主として返り咲いた。それは彼の人生における頂点であったが、その基盤は極めて脆弱で、他者の思惑の上に成り立つ束の間の栄光に過ぎなかった。
庄内領主として公認された本庄義勝の栄光は、わずか2年足らずで終わりを告げる。豊臣政権による全国統一事業の総仕上げである「奥州仕置」の波が、彼の運命を再び暗転させた。一揆の勃発と、それを扇動したという嫌疑。それは、戦国的な秩序が解体され、近世的な中央集権体制へと移行していく時代の大きなうねりの中で、一地方領主がいかに無力であったかを示す悲劇であった。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉は奥羽地方の領地再編、いわゆる「奥州仕置」を断行した。その一環として、上杉景勝に対し、義勝が治める庄内地方での「太閤検地」の実施を命じた 14 。この検地は、全国統一の基準で石高を算出し、年貢制度を再編するもので、従来の慣習を無視した重い負担を在地の人々に強いるものであった。
案の定、検地に対する不満は庄内各地で噴出し、大規模な農民・土豪一揆へと発展した。特に藤島城周辺で激しかったことから、これは「藤島一揆」と呼ばれる 3 。一揆勢は上杉家が配置した城代らを次々と攻め落とし、庄内は騒乱状態に陥った 14 。この一揆は、最終的に上杉景勝と、援軍として派遣された前田利家らによって鎮圧された 14 。
問題は、その事後処理であった。天正19年(1591年)、豊臣政権は、この一揆を領主である大宝寺義勝とその後見人である父・本庄繁長が裏で扇動したものであると断定した 14 。この嫌疑により、義勝は庄内領を没収(改易)され、父・繁長と共に大和国(現在の奈良県)へ配流されるという、極めて重い処分を受けることになった 2 。庄内は上杉景勝の直轄領として与えられた 3 。
義勝父子が一揆を扇動したという明確な証拠は、今日まで見つかっていない 17 。彼らの失脚は、表向きの理由の裏に、豊臣政権と上杉家中の双方の、より複雑な政治的意図が隠されていたと分析するのが妥当である。
第一に、豊臣政権の意図である。秀吉は、惣無事令や太閤検地を通じて、全国の土地と軍事に関する権限を中央に集約し、大名の力を削ぐことで、磐石な支配体制を築こうとしていた 14 。十五里ヶ原の戦いは、惣無事令違反という側面を持っており、秀吉はそれを一旦は黙認したものの、本庄父子のような自立性の強い在地勢力を排除する機会を窺っていた可能性がある 31 。藤島一揆は、この「戦国的なるもの」を一掃し、庄内を完全に中央の管理下に置くための絶好の口実となった。
第二に、より直接的な要因として、上杉家中の権力構造の変化が挙げられる。執政として家中の実権を握っていた直江兼続は、主君・上杉景勝の下で家臣団を直接掌握する中央集権的な支配体制の確立を目指していた 33 。その過程において、揚北衆の筆頭格であり、半独立的な気風を持つ本庄繁長は、潜在的な脅威と見なされていた可能性がある 35 。繁長が、息子の義勝を通じて庄内という広大な地を実質的な影響下に置くことは、景勝・兼続ラインにとって容認しがたい事態であった。一揆の責任を本庄父子に負わせることで、彼らを排除し、庄内を上杉家の直轄領とすることは、家中の統制を強化し、近世大名としての集権化を完成させる上で、極めて合理的な選択であった。
義勝の転落は、彼個人の資質や失政によるものではなく、時代の転換期における必然ともいえる流れの犠牲であった。彼は、戦国武将としての父の野心と、近世大名を目指す主家の政策との狭間で、その存在価値を失ったのである。
19歳にして全てを失った義勝は、父・繁長と共に大和国で蟄居生活を送ることになった 2 。しかし、彼らの武名は完全に忘れ去られたわけではなかった。
文禄元年(1592年)、豊臣秀吉が朝鮮出兵(文禄の役)を開始すると、全国の大名に動員が命じられた。この国家的な大事業は、罪を犯した武将たちが戦功によって名誉を回復し、赦免される機会ともなった 36 。本庄父子もこの機を捉え、文禄の役に参陣。これにより罪を許され、上杉家への帰参が認められた 2 。
ただし、失われた庄内領が返還されることはなかった。彼らは一介の上杉家臣として復帰し、1万石を与えられた 17 。大宝寺氏再興の夢は完全に潰え、義勝は再び父の下で、上杉家の武将として再出発することになったのである。
配流先から赦免され、上杉家臣として復帰した本庄義勝の後半生は、かつてのような政略の駒としての華やかさはない。しかしそこには、激動の時代を生き抜く武士として、主家への忠誠と一族の存続という、より現実的で重い責務を担う姿があった。彼の役割は「大宝寺義勝」から、上杉家の忠実な家臣、そして「本庄充長」へと明確に変化していく。
慶長3年(1598年)、豊臣秀吉の命により、上杉景勝は越後から会津120万石へと移封された。これに伴い、本庄父子も会津へ移り、父・繁長は陸奥国信夫郡の福島城代に任じられ、1万石を与えられた 18 。福島は、奥羽の覇権を争う伊達政宗の領地と境を接する、軍事上の最重要拠点であった。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発する。上杉家が西軍に与したため、東軍に属した伊達政宗は、この機に乗じて旧領回復を目指し、上杉領へと侵攻を開始した。同年10月6日、片倉景綱らを将とする2万の伊達軍が、本庄父子が守る福島城に殺到した。これが「松川の戦い」である 17 。
この戦いで、繁長はまず義勝に迎撃を命じた。義勝は城から討って出て伊達軍と野戦を交えたが、衆寡敵せず敗れ、城内へと撤収した 17 。しかし、伊達軍が城に攻めかかると、老将・繁長の老練な指揮が光る。繁長は城兵を鼓舞して城門から一斉に討って出させ、伊達軍の先鋒に大打撃を与えた。さらに、背後の梁川城を守る須田長義の部隊が伊達軍の側面を突く動きを見せたため、伊達軍は挟撃される形となり、多くの死傷者を出して撤退を余儀なくされた 4 。
この戦いにおける義勝の役割は、もはや庄内領主ではなく、父の指揮下で戦う上杉家の一武将としてのものであった。彼は、かつての夢破れた後、主家への忠誠を戦働きで示すことで、自らの存在価値を再び確立したのである。
関ヶ原での西軍敗北により、上杉家は会津120万石から米沢30万石へと大減封された。この存亡の危機に際し、父・繁長は徳川家康との和平交渉を主張し、自ら上洛して折衝にあたるなど、上杉家の存続に大きく貢献した 21 。
慶長18年(1614年)、父・繁長が74歳で死去 17 。これを受け、義勝は養子先であった大宝寺(武藤)の名を捨て、実家の姓である本庄氏に復帰した。そして名を「充長(みつなが)」と改め、正式に本庄家の家督を相続した 3 。この改名と家督相続は、彼が背負わされた大宝寺氏再興という役割との完全な決別であり、自らの血脈である本庄家の当主、そして上杉家の家臣として生きることを最終的に選択したことを意味する。これにより、大宝寺氏の家名は歴史から完全に姿を消すことになった 3 。
充長は父の跡を継いで福島城代を務め、米沢藩の重臣として、減封に伴う藩体制の再構築という困難な時期の藩政の一翼を担ったと考えられる 18 。
元和9年(1623年)、本庄充長(義勝)は51年の波乱に満ちた生涯を閉じた 2 。
充長には実子がいなかったため、本庄家の断絶が危ぶまれた。しかし、米沢藩主・上杉定勝の命により、充長の実弟で繁長の六男であった本庄重長(1602-1654)が充長の養子という形で家督を継ぐことが認められた 4 。これにより、繁長から続く本庄家の血脈は、米沢藩士として存続していくこととなる。
充長の墓は、父・繁長や後継の当主たちと共に、福島市の菩提寺・長楽寺にあり、五輪塔が今もその生涯を静かに伝えている 37 。
本庄義勝の生涯は、父・本庄繁長のような際立った武勇伝や、主家の執政・直江兼続のような華々しい政治手腕に彩られたものではなかった。彼は歴史の主役というよりは、むしろ時代の大きな力に翻弄され続けた人物であった。しかし、だからこそ彼の人生は、戦国末期から江戸初期へと至る時代の転換期の特質と、そこに生きた地方武将の宿命を、一個人の視点から鮮烈に映し出す鏡となっている。
彼の生涯は、三つの異なる名前と役割によって分節することができる。
第一に、**「大宝寺義勝」**としての彼は、庄内地方の覇権を巡る上杉氏と最上氏の角逐の渦中に投げ込まれた、政略の象徴であった。十五里ヶ原の戦いでの勝利と、豊臣政権による一時的な公認は、彼の人生の頂点であったが、その地位は自らの力で勝ち取ったものではなく、父の武威と主家の戦略の上に築かれた砂上の楼閣に過ぎなかった。
第二に、**「配流者」**としての彼は、中央集権化を進める豊臣政権と、家中の統制強化を図る上杉家の双方の思惑によって、全てを剥奪された地方領主の悲哀を体現している。彼の失脚は、個人の失敗というよりも、戦国的な自立性が許されなくなり、近世的な支配秩序へと組み込まれていく歴史の必然であった。
第三に、**「本庄充長」**としての彼は、赦免後に上杉家への忠誠を尽くし、減封された主家を支える一人の家臣としての道を歩んだ。松川の戦いで伊達軍と対峙し、父の死後は自らの血脈である本庄家の家督を継承した。これは、大宝寺氏再興という他者から与えられた壮大な夢を諦め、一族を近世の米沢藩士として存続させるという、現実的な責務を果たしたことを意味する。
本庄義勝の生涯は、華々しい成功物語ではない。しかし、大名の政略に利用され、一度は全てを失いながらも、武将としての本分を忘れず、最終的には一族存続の礎を築いた。この粘り強い生き様こそが、本庄義勝という武将の歴史的価値である。彼が継承させた本庄家は、その後、米沢藩の要職である鮎貝御役屋将(城代)を世襲し、幕末まで上杉家を支え続けた 44 。さらに明治維新後、その子孫は北海道開拓の屯田兵として新たな時代を切り拓いている 24 。義勝の苦難と決断がなければ、この一族の長い歴史は存在しなかったかもしれない。彼の人生は、それ自体が完結した物語であると同時に、未来へと繋がる重要な一環であったと言えるだろう。