天正十七年(1589年)、豊臣秀吉による天下統一事業が最終段階を迎える中、日本海に浮かぶ島、佐渡国は歴史の大きな転換点に立たされていた。越後の大名、上杉景勝が率いる大軍が、三百数十年にわたりこの島を支配してきた豪族・本間一族の打倒を掲げて海を渡ったのである。この「佐渡征伐」と呼ばれる軍事侵攻は、島内の諸勢力を次々と屈服させ、佐渡の独立時代に終止符を打った。
この激動の渦中にあって、最後まで上杉軍に屈することなく、一族の命運を賭して抵抗を続けた人物がいた。南佐渡に勢力を誇った羽茂(はもち)城主、本間高貞(ほんま たかさだ)である。彼の名は、史料によって「高茂(たかもち)」とも記されるが 1 、本報告書では、利用者様の認識と多くの史料に基づき、主に「高貞」として記述を進める。
本間高貞の生涯は、単なる一地方武将の興亡史に留まらない。それは、鎌倉時代以来の伝統を持つ地方国人領主が、戦国末期に中央集権化という抗いがたい時代の奔流にいかにして向き合い、そして呑み込まれていったかを示す、極めて象徴的な事例である。佐渡金銀山という莫大な富を巡る争い、一族内部の分裂、そして天下人の代理人として侵攻する上杉氏との絶望的な戦い。本報告書は、これらの複雑に絡み合った要因を多角的に分析し、本間高貞という悲劇の島主の実像に迫ることを目的とする 3 。
佐渡本間氏の歴史は、遠く相模国(現在の神奈川県)にその源流を求めることができる。彼らは、平安時代末期から鎌倉時代にかけて関東に勢力を張った武士団、武蔵七党の一つである横山党海老名氏の庶流にあたる 5 。その名の由来は、相模国愛甲郡依知郷本間(現在の神奈川県厚木市周辺)の地名にあり、現在も同地には本間氏ゆかりの史跡が残されている 6 。
本間氏が佐渡国と深く関わるようになるのは、承久三年(1221年)に起こった「承久の乱」が契機であった。この乱で朝廷方に勝利した鎌倉幕府は、佐渡を幕府の支配下に置き、執権北条氏の一門である大仏(おさらぎ)北条氏を佐渡守護に任じた。本間氏は、この大仏北条氏の被官(家臣)であり、初代の佐渡本間氏とされる本間能久(よしひさ)が、守護代として主君に代わり佐渡統治のために海を渡ったのである 2 。
こうして佐渡に根を下ろした本間氏は、一族を島内各地に広げ、鎌倉時代から戦国時代の天正十七年(1589年)に至るまで、約370年という長きにわたり佐渡を実質的に支配する最大の武士団へと成長した 5 。
長年にわたる在地支配の過程で、本間一族は多くの分家を生み出し、島内各地に割拠するようになる。当初、一族の惣領家(本家)は、佐渡中央部の国仲平野を本拠とする雑太城(さわだじょう)主、雑太本間氏であった 9 。しかし、室町時代から戦国時代にかけて、惣領家の権威は次第に形骸化し、有力な庶流が台頭してくる 10 。
その中でも特に強大な勢力へと成長したのが、国府川を挟んで佐渡を二分した二つの家であった。一つは、佐渡北部から西部にかけてを支配した河原田本間氏。その居城は河原田城(別名:獅子ヶ城)と呼ばれた 11 。もう一つが、本間高貞が率いた、佐渡南部に勢力基盤を持つ羽茂本間氏である。両家は、佐渡の覇権を巡って激しい抗争を繰り返し、島内はさながら内乱状態を呈していた 12 。この根深い内部対立こそが、結果的に外部勢力である越後の上杉氏に介入の口実を与え、一族全体の命運を左右する最大の要因となったのである 10 。
本間高貞が率いた羽茂本間氏が、宿敵・河原田本間氏と渡り合うほどの強大な勢力を築き上げることができた背景には、盤石な経済基盤と堅固な軍事拠点の存在があった。
経済的な側面では、羽茂本間氏は二つの大きな柱を持っていた。一つは、居城の麓を流れる羽茂川流域に広がる豊かな穀倉地帯である。この地は古くから「羽茂太郎」と称されるほどの農業生産力を誇り、安定した兵糧の確保を可能にした 14 。もう一つは、日本海交易の拠点となる良港、羽茂港の掌握である 15 。これにより、農業生産力に加えて海上交通の利権を独占し、他国との交易を通じて莫大な富を蓄積したと考えられる。
軍事的な拠点であった羽茂城は、南佐渡最大の山城であり、その構造は戦国時代の城郭の特徴をよく示している 4 。城は、複雑な山々の地形を巧みに利用して築かれ、平時には山麓の居館(平城跡)で政務を執り、戦時には山頂の要害に立て籠もるという二元的な構造を持っていた 14 。山頂部には殿屋敷跡、元屋敷、大手門跡などが配置され、一大軍事拠点として機能していた 16 。羽茂城跡の発掘調査では、中国明代の青磁や白磁などが出土しており、交易による一族の豊かさを物語っている。同時に、城内で武具を生産していたことを示す鍛冶遺構も発見されており、高い軍事的な自給能力を有していたことが窺える 18 。さらに、羽茂城の周囲には大石城、岡田城、村山城といった数多くの支城を配し、敵の侵攻に対して縦深的な防御陣地を形成していた 14 。
『越佐人物誌』に引用された『佐島遺事』によれば、高貞の知行は1,920石に及び、その支配領域は小木、羽茂本郷をはじめとする南佐渡一円から、対岸の越後国にまで及んでいたとされる 21 。
本間一族の権力構造の変遷は、こうした経済基盤の変化と密接に結びついている。鎌倉時代に守護代として入部した当初は、雑太惣領家を中心とした比較的安定した支配体制があった 2 。しかし、戦国期に入ると、羽茂本間氏が掌握した穀倉地帯や港湾、そして沢根城主の本間左馬助らが支配した鶴子銀山など、新たな経済力を背景に持つ新興勢力が台頭する 9 。本間氏の内紛は、単なる武力衝突ではなく、旧来の権威を持つ惣領家と、農業・港湾・鉱山といった新たな富の源泉を握る庶流との間の、経済的覇権を巡る争いであった。本間高貞が率いた羽茂本間氏は、まさにこの新興勢力の筆頭格であり、彼の時代は佐渡本間氏の内部力学が最も激しく変動した時期であったと言える。
本間高貞は、羽茂本間氏の当主であった本間高信(たかのぶ、別名:高季(たかすえ))の次男として生まれたとされる 23 。兄の存在も示唆されるが、高貞が家督を継承した。また、弟には赤泊城主であった羽茂高頼(たかより)がおり、彼は三河守を称し、兄である高貞と運命を共にすることになる 10 。
高貞自身は、官途名として対馬守(つしまのかみ)を名乗っていたことが複数の史料で確認できる 9 。一方で、彼の諱(いみな、実名)については、史料によって「高貞(たかさだ)」と「高茂(たかもち)」という二つの表記が見られる 1 。これは同一人物を指すものと考えられており、高貞が本来の諱で、高茂は通称であった可能性や、後世の軍記物などにおける記述の揺れが定着した可能性などが考えられる。この表記の揺れは、戦国期の地方豪族に関する史料が限られていることを示す一例でもある。
羽茂本間氏と、対岸の越後を支配する長尾氏(後の上杉氏)との関係は、時代と共に劇的に変化した。
その始まりは、協力関係にあった。永正六年(1509年)、越後守護代であった長尾為景(上杉謙信の父)が、主君筋にあたる関東管領・上杉顕定との戦いに敗れ、命からがら佐渡へと亡命した。この時、為景を匿い、翌年の長森原の戦いでの反攻を支援したのが、羽茂本間氏であった 15 。一説には、為景の妹(あるいは姪)が高貞の父・高信に嫁いだとされ、両家が婚姻関係によって結ばれていた可能性も指摘されている 15 。
為景の子である上杉謙信の代においても、この伝統的な友好関係は維持されていたと見られる。謙信が佐渡産の金銀を京都の朝廷や寺社に贈ったという記録があるが 26 、これは彼が佐渡を領有していたわけではなく、羽茂本間氏との交易などを通じて入手したものと考えられている 27 。この時期、佐渡はあくまで上杉氏の領国外にある、独立した友好勢力であった。
しかし、謙信の養子である上杉景勝が家督を継ぎ、豊臣政権の一大名として中央の政治体制に組み込まれると、状況は一変する。景勝にとって佐渡は、もはや対等な協力者ではなく、支配下に組み込むべき領土であり、金銀を産出する極めて重要な財源と見なされるようになった 20 。かつての恩義は忘れ去られ、両者の関係は急速に悪化していく。
本間高貞と上杉景勝の関係悪化を決定づけたのは、当時の日本全体の政治構造の変革であった。天正十五年(1587年)、天下統一を目前にした豊臣秀吉は、全国の大名に対し「惣無事令(そうぶじれい)」を発布した。これは、大名間の私的な領土争いを全面的に禁じ、領土問題はすべて豊臣政権の裁定に委ねるという命令である。これに違反した大名は、豊臣軍による「征伐」の対象となった 12 。
当時、佐渡では本間高貞率いる羽茂本間氏と、本間高統率いる河原田本間氏との間で、長年にわたる内乱が続いていた 12 。これは、秀吉が禁じた「私戦」に他ならず、「惣無事令」への明確な違反行為であった。
上杉景勝はこの状況を巧みに利用した。彼はこの「惣無事令違反」を大義名分として、佐渡征伐の許可を秀吉から得ることに成功する。天正十六年(1588年)、景勝は上洛して秀吉に謁見し、佐渡平定の「お墨付き」を得たのである 10 。これは、もはや佐渡の独立が許されない時代の到来を意味していた。
羽茂本間氏と上杉氏の関係性の変質は、単に当主が謙信から景勝に代わったという個人的な問題ではなかった。それは、日本の政治体制そのものが、地方領主が割拠する中世的な分権体制から、中央集権的な統一国家へと移行する過程で生じた、構造的な変化であった。かつて長尾為景を庇護した頃の両家の関係は、独立勢力同士の「外交」であった。しかし、景勝の時代、彼は豊臣政権という巨大な権力構造の「執行者」という立場にあった。これにより、上杉氏と本間氏の関係は、国家間の外交から、中央政権(を代行する上杉)と地方勢力(本間)という「支配・被支配」の関係へと強制的に転換させられたのである。本間高貞の抵抗は、この新たな世界秩序に対する、旧来の「独立領主」としての地位と誇りを守ろうとする最後の戦いであったと言える。
上杉景勝が佐渡侵攻に踏み切った最大の動機は、この島が秘める莫大な鉱物資源の掌握にあった。当時、佐渡では鶴子(つるし)銀山や西三川(にしみかわ)砂金山などが稼働しており、特に銀の産出量は全国でも有数であった 22 。これらの金銀は、上杉家の財政を潤すだけでなく、天下人である秀吉への上納金や、来るべき朝鮮出兵の軍資金としても極めて重要な戦略的価値を持っていた 20 。
上杉軍の総司令官とも言うべき軍奉行・直江兼続は、単なる武力による制圧ではなく、周到な調略をもって佐渡平定に臨んだ。彼は侵攻に先立ち、島内の本間一族に対し、戦闘を避けて降伏するよう通達を送った。この調略にいち早く応じたのが、沢根城主の本間左馬助(さまのすけ)であった 1 。彼は、長年対立してきた河原田本間氏への反感や、上杉方につくことで自らの地位を保とうとする計算から、上杉軍に内応。その後の上陸作戦を手引きし、佐渡平定の鍵を握る役割を果たすことになる 12 。
天正十七年(1589年)五月、上杉軍の先発隊が佐渡に派遣され、同年六月、景勝自らが一千艘以上とも伝えられる大船団を率いて、越後の出雲崎から佐渡へと出陣した 1 。黄金の島を巡る、最後の戦いの火蓋が切られようとしていた。
本間左馬助の手引きにより沢根に上陸した上杉軍は、まず佐渡の北半分を支配する河原田城へと矛先を向けた。城主・本間高統(たかつな)は籠城して激しく抵抗したものの、大軍の前に衆寡敵せず、最期は城に火を放って自刃したと伝えられている 8 。続いて、形骸化していたとはいえ惣領家の本拠であった雑太城も陥落し、城主・本間憲泰も降伏を余儀なくされた 3 。これにより、佐渡の中部から北部にかけては、ほぼ上杉軍の制圧下に入った。
北の宿敵・河原田本間氏が滅び、佐渡平定の総仕上げとして、上杉軍は全軍をもって南の羽茂城に殺到した 3 。城主である本間高貞は、弟の赤泊城主・高頼や家臣団と共に、羽茂城とその支城網を駆使して徹底抗戦の構えを見せた 2 。
羽茂勢は数百の寡兵で奮戦したと伝えられるが、数千ともいわれる上杉の大軍の前に、村山城などの支城は次々と陥落 20 。本城である羽茂城も猛攻に晒され、天正十七年六月十六日、ついに落城の時を迎えた 9 。
しかし、この佐渡征伐の経緯については、近年、通説とは異なる解釈が提示されている。上杉軍が発給した制札(軍事行動中の略奪などを禁じる文書)や、上杉景勝が家臣に与えた感状(感謝状)などの一次史料を分析した結果、特に河原田城の攻略時期について、新たな可能性が浮上しているのである。以下の表は、通説と新説を比較したものである。
日付(天正17年) |
通説に基づく出来事 |
新説(制札・書状に基づく解釈) |
典拠史料 |
6月12日 |
景勝本隊、沢根に上陸。 |
景勝本隊、沢根に上陸。河原田氏は協力者として迎えた可能性。 |
8 |
6月13日 |
河原田城、激戦の末に落城。高統自刃。 |
大規模な戦闘はなし。羽茂攻めのための連合軍が形成される。 |
8 |
6月16日 |
羽茂城、落城。高貞逃亡。 |
上杉・河原田連合軍により羽茂城落城。高貞逃亡。 |
9 |
7月7日 |
(佐渡平定完了後) |
直江兼続の計略により、 河原田城が奇襲され落城 。高統討死。 |
12 |
7月中 |
(該当なし) |
河原田の妙経寺に「七月」の日付が入った制札が発給される。 |
12 |
この新説が示唆するのは、直江兼続の極めて冷徹な謀略である。通説では、上杉軍が河原田、羽茂の順に敵対勢力を単純に撃破したとされている 8 。しかし新説に従うならば、作戦はより複雑なものであった。まず、上杉軍は佐渡の二大勢力の一方である河原田本間氏を、「長年の宿敵である羽茂本間氏を共に討つ」という共通の目的で味方に引き入れる。そして、この「連合軍」をもって、最大の抵抗が予想された本間高貞の羽茂城を攻略する(6月16日)。共通の敵がいなくなった後、今度は用済みとなった協力者の河原田本間氏を、油断に乗じて奇襲し、殲滅する(7月7日)。このシナリオの根拠となるのが、景勝が家臣に宛てた「去る七日に河原田表において一戦に及び、勝利を得た」という内容の感状と、河原田城の近隣にある妙経寺に残る「七月」の日付が入った制札である 12 。
この解釈は、直江兼続を単なる勇将としてではなく、目的のためには味方すら欺き、最小限の損耗で完全支配を達成しようとする、マキャベリスト的な謀将として描き出す。本間高貞と本間高統という佐渡の二大勢力を共倒れさせるこの戦略は、戦国末期の非情な現実を浮き彫りにしている。
羽茂城の攻防戦は、上杉・河原田連合軍の圧倒的な物量の前に、長くは続かなかった。落城を悟った本間高貞は、弟の高頼や一族、そして少数の近臣と共に城を脱出。再起を図るべく、海路、出羽国(現在の山形県・秋田県)を目指して落ち延びようと試みた 2 。
しかし、天は彼らに味方しなかった。一行が乗った船は、日本海の荒波に翻弄され、目指した出羽ではなく、敵地である越後国に吹き寄せられてしまったのである。そこで潜伏する間もなく上杉軍に発見され、高貞らは全員捕縛された 2 。
捕らえられた高貞と高頼らは、佐渡へと送還された。彼らの処遇は、新たな支配者である上杉氏による統治の始まりを島民に知らしめるための、政治的な意味合いを強く帯びていた。
天正十七年(1589年)、本間高貞と弟の高頼は、佐渡の国府川(こうのがわ)の河畔にあった市場において、斬首に処された 8 。多くの人々が集まる市場での公開処刑は、旧支配者である本間氏の権威を公衆の面前で完全に粉砕し、逆らう者への見せしめとするための、冷徹な政治的パフォーマンスであった。越後で捕らえた者をわざわざ佐渡へ送還し、公開の場で処刑したという事実は、この処刑が単なる刑の執行ではなく、上杉氏による支配権の確立を島内外に宣言する儀式であったことを物語っている。
高貞の亡骸は、一族の菩提寺であった羽茂本郷の大蓮寺(だいれんじ)に葬られたと伝えられている 21 。奇しくもこの大蓮寺には、羽茂城落城の際に焼失を免れた東門が山門として移築され、今なお現存している 36 。それはまるで、滅び去った主君の最後の姿を静かに見守っているかのようである。
本間高貞の死をもって、承久の乱以来、約370年にわたって続いた本間氏による佐渡支配は、名実ともに完全に終焉した 8 。
佐渡一国は上杉景勝の所領となり、直江兼続配下の与板衆や上田衆といった家臣団が統治にあたった 10 。羽茂城にも、上杉家臣の富永長綱らが城代として在番した記録が残っている 16 。
しかし、上杉氏による佐渡支配も長くは続かなかった。慶長三年(1598年)、豊臣秀吉の命により上杉氏は越後から会津120万石へ転封となり、佐渡もそれに伴い上杉領の一部となった。だが、その後の関ヶ原の戦い(1600年)で西軍に与した景勝は、徳川家康によって米沢30万石に減封される。その際、佐渡は上杉領から没収され、徳川幕府の直轄地(天領)となった 16 。
以後、佐渡金銀山は幕府の最重要財源として位置づけられ、初代佐渡奉行に任命された大久保長安らの下で、全国から山師や労働者が集められ、大規模かつ組織的な開発が進められていくことになる 27 。本間高貞が守ろうとした島は、彼の死後、日本の近世国家の財政を支える巨大な鉱山都市へと姿を変えていったのである。
天正十七年の佐渡征伐において、羽茂本間氏は一族全員が上杉景勝によって抹殺された、というのが通説であった。しかし、その過酷な粛清を生き延びた者たちがいたことを示唆する伝承や記録が存在する。
本間高貞の子孫を名乗る本間高明氏の著書『佐渡羽茂本間家 滅亡した先祖からの伝言』には、一族が滅亡した際に山中へ逃れ、奇跡的に助かった幼子がいたという、家に代々伝わる秘事が記されている 41 。これは、公式の歴史記録の裏側で、一族の血脈と記憶が、いかにして語り継がれてきたかを示す貴重な証言である。
伝説だけでなく、より具体的な証拠をもって羽茂本間氏の生存を物語るのが、能登(現在の石川県)の旧家・桜井家の存在である。
桜井家に伝わる古文書群『佐渡本間遺文桜井家文書』の調査によれば、彼らの先祖は、上杉氏の侵攻から辛くも逃れた羽茂本間家の一族であった 7 。彼らはまず、対岸の富山県黒部市桜井という地に身を隠し、その後、能登の北方村(現在の珠洲市)に百姓として定住。「桜井」という姓を名乗り、江戸時代を通じて製塩業などを営む旧家として続いたという 7 。この古文書の存在は、羽茂本間氏の血脈が、武士としての地位を失いながらも、確かに受け継がれていたことを証明する一級の史料である。
羽茂本間氏の悲劇の一方で、佐渡の本間一族の全てが敵対したわけではなかった。上杉方に味方した一部の本間氏は、上杉家の家臣として召し抱えられ、その後の上杉家の移封に伴い、越後や会津、さらには米沢へと移り住んでいった 45 。
また、佐渡は現代においても、人口比で「本間」姓が全国で最も多い地域の一つとして知られている 45 。これは、武士階級としての本間氏が滅んだ後も、その一族や配下の者たちが島に残り、その名を後世に伝えた結果であろう。
さらに、佐渡をルーツに持つ本間一族が、近世から近代にかけて各地で新たな歴史を築いた事例も存在する。出羽国酒田(現在の山形県酒田市)で日本一の大地主とまで言われた豪商・本間家や、明治期に北海道の開拓に大きく貢献した増毛の丸一本間家、羽幌の丸籐本間家なども、その起源を辿ると佐渡本間氏に行き着くと伝えられている 6 。
これらの事実は、「本間氏の滅亡」という言葉が持つ意味の多層性を示している。政治的・軍事的な権力体としての「羽茂本間家」は、天正十七年に本間高貞の死と共に確かに「滅亡」した 8 。しかし、生物学的な血脈や、一族としての文化的アイデンティティは、決して滅びなかった。それは、能登の桜井家のように姓を変えて潜行することもあれば、酒田や北海道の本間家のように商人や開拓者として新たな道を切り拓くこともあった。本間高貞の死は、「領主としての本間氏」の歴史の終わりであったが、同時に、その一族が各地へ拡散し、多様な形で存続していくという、新たな物語の始まりでもあったのである。
羽茂城主・本間高貞の生涯は、鎌倉時代以来の長きにわたる伝統と誇りを持った地方の名族が、戦国末期の激しい権力闘争と、それに続く中央集権化という巨大な歴史のうねりに抗しきれず、悲劇的な最期を遂げた典型的な事例であった。
彼の抵抗は、単なる一個人の反乱ではなく、佐渡という島が三百数十年にわたって育んできた独自の歴史と独立性を守ろうとする、最後の戦いであったと評価できる。しかし、皮肉なことに、佐渡が有する金銀山という莫大な富は、彼らを守るどころか、逆に中央の巨大な権力、すなわち豊臣政権とその代理人である上杉景勝の欲望を強く惹きつける最大の要因となってしまった。
最終的に、本間高貞の死と本間氏一族の滅亡は、中世的な分権体制が終焉を迎え、近世的な統一国家体制へと移行していくという、日本の歴史における大きな転換点を象徴する出来事であった。彼の悲劇は、一人の武将の個人的な物語であると同時に、もはや地方の論理だけでは生き残ることが許されなくなった、時代の必然が生んだ構造的な物語でもあったと言えるだろう。