日本の戦国時代は、数多の武将たちがその名を歴史に刻んだ時代であるが、その中には実力に比して必ずしも広く知られていない人物も存在する。毛利氏の家臣、杉原盛重(すぎはら もりしげ)はその代表格と言えよう。彼の生涯は、備後国の一国人に過ぎなかった身から、毛利氏の中国地方経略、特に吉川元春が主導した山陰方面作戦において方面軍司令官とも言うべき枢要な役割を担うまでに駆け上がった栄光と、その死後に一族が辿る悲劇的な末路という、戦国乱世のダイナミズムと非情さを色濃く映し出している。
本報告書は、この杉原盛重という一人の武将の生涯を、現存する多様な史料を駆使して徹底的に掘り下げ、その実像に迫ることを目的とする。彼の人物像を形作る上で、『陰徳太平記』に代表される軍記物語が描く、勇猛で時に奇抜な武将像は非常に魅力的である。そこでは、敵将・吉川元春を唸らせるほどの武勇や、宿敵・山中幸盛との宿命的な対決、さらには忍者集団を率いたという特異な逸話までが生き生きと語られている 1 。しかし、これらの物語は後世に編纂されたものであり、歴史的事実と文学的脚色が混淆している点を看過できない。
一方で、彼自身が発給した書状や、寺社に残された寄進状、同時代の武将たちの書簡といった一次史料からは、軍事司令官としてだけでなく、地域の安定に心を砕く統治者として、また毛利家中枢との連携を図る実務家としての、より客観的な姿が浮かび上がる 2 。杉原盛重という人物を正確に理解するためには、これら性質の異なる史料群を批判的に吟味し、比較検討することが不可欠である。彼の研究は、単なる一個人の伝記に留まらない。それは、毛利氏が敵対勢力に属した有能な国衆をいかにして自らの支配体制に組み込み、活用したかという「国衆統制策」の具体的な現れであり、また、史実がどのように語り継がれ、「物語」として受容されていったかという「軍記物語の成立過程」を探る上でも、極めて示唆に富む事例研究となる。
本報告書では、まず盛重の出自と、彼の名を世に知らしめた神辺城時代を概観する。次いで、毛利家臣となり、その地位を確立していく過程を、実力評価と婚姻政策の両面から分析する。そして、彼の武将としてのキャリアの頂点である山陰経略における活躍、特に宿敵・山中幸盛との攻防を詳述し、織田氏との全面対決の中で迎えた最期を描き出す。さらに、猛将、軍略家、そして「忍者マスター」という多面的な人物像を掘り下げ、最後に彼の一族が辿った悲劇的な運命とその歴史的評価をもって筆を置くこととしたい。この多角的な分析を通じて、一人の武将の生涯を丹念に追うことが、戦国という時代の複雑な構造を理解する一助となることを期待するものである。
表1:杉原盛重 略年表
和暦 (西暦) |
年齢 |
杉原盛重の動向 |
関連する動向 |
大永元年 (1521) |
1歳 |
備後国にて杉原匡信の次男として誕生か 4 。 |
(天文二年(1533)生誕説もあり 2 ) |
天文17年 (1548) |
28歳 |
神辺合戦 。山名理興の家臣として、大内・毛利軍と戦う。吉川元春の部隊と交戦し、その武勇で元春に強烈な印象を与える 5 。 |
吉川元春、初陣を飾る。 |
弘治3年 (1557) |
37歳 |
2月以前、神辺城主・杉原豊後守が死去。吉川元春の強い推挙により、神辺城主となる。毛利興元の娘(元春の従姉)を娶る 2 。 |
毛利氏、防長経略を完了。 |
永禄6年 (1563) |
43歳 |
毛利氏の出雲侵攻に伴い、伯耆国尾高城の守備を命じられる 8 。 |
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永禄7年 (1564) |
44歳 |
伯耆国尾高城主となる。前城主・行松正盛の未亡人と再婚 2 。弓浜合戦、江尾城攻略などで尼子方と戦う 5 。 |
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永禄12年 (1569) |
49歳 |
尼子再興軍の山中幸盛に一時的に尾高城を奪われる 2 。 |
尼子再興軍、出雲・伯耆で蜂起。 |
元亀2年 (1571) |
51歳 |
浄満原の合戦 で尼子残党を撃破。降伏した山中幸盛を尾高城に幽閉するも、脱走される 1 。 |
毛利元就、死去。毛利輝元が家督継承。 |
天正6年 (1578) |
58歳 |
播磨国上月城の戦い に参陣。尼子勝久・山中幸盛を滅ぼす 4 。 |
織田信長と毛利氏の対立が激化。 |
天正8年 (1580) |
60歳 |
拠点を東伯耆の八橋城に移す。織田方に寝返った南条元続の攻撃を撃退 7 。 |
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天正9年 (1581) |
61歳 |
羽柴秀吉による 鳥取城攻め に対し、吉川元春の後詰軍の先鋒として南条氏の羽衣石城を攻めるが、鳥取城は落城 11 。 |
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天正9年12月25日 (1582/1/19) |
61歳 |
伯耆国八橋城内にて病没 5 。 |
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天正10年 (1582) |
没後 |
嫡男・元盛が次男・景盛に殺害される 4 。 |
本能寺の変。羽柴秀吉と毛利氏が和睦。 |
天正12年 (1584) |
没後 |
次男・景盛が毛利氏に討伐され自刃。盛重の嫡流は断絶 7 。 |
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杉原盛重が歴史の表舞台に登場するのは、毛利氏の宿敵・尼子氏方の武将としてであった。彼のキャリアの原点が、後に主君となる毛利氏の敵としてその実力を示した点にあることは、戦国時代の流動的な主従関係と実力主義を象徴しており、彼の後の異例の抜擢を理解する上で極めて重要な意味を持つ。
杉原盛重の出自については、複数の説が存在し、いまだ謎に包まれている部分が多い。これは彼の人物像に神秘性を与える一因となっている。
最も広く知られているのは、備後国の名族であった山手杉原氏(やまてすぎはらし)の出身とする説である 2 。江戸時代に編纂された長州藩の公式記録である『萩藩閥閲録』などに残る系図によれば、山手銀山城主・杉原匡信(まさのぶ)の次男として生まれたとされる 4 。ただし、その生年については、大永元年(1521年)とする説 4 と、天文二年(1533年)とする説 2 があり、確定を見ていない。前者の説に従えば、彼は神辺城主となった時点で30代半ばの脂の乗り切った武将であり、後者の説では20代半ばの若き将であったことになる。
一方で、異説として備後国の郷土史料である『備陽六郡志』などが伝える、備後国深津郡下岩成村(現在の広島県福山市御幸町)の土豪・宗岡(むねおか)氏の出身であるという説も存在する 13 。この説は、盛重が山名理興の跡を継いで神辺城主となった際に、本姓の宗岡から杉原へと改姓したと主張するものである 13 。しかし、近年の研究では、この説の根拠となった広徳院の位牌が、盛重本人のものではないことの誤解に基づいている可能性が高いと指摘されている 13 。とはいえ、なぜ地域社会にそのような伝承が根付いたのかを考察することは、地域の歴史認識を理解する上で興味深い視点を提供する。
本報告書では、これらの諸説と最新の研究動向を鑑み、盛重はいわゆる「山手杉原氏」の一族ではあるものの、神辺城主であった杉原豊後守(ぶんごのかみ)と直接の父子関係にはなく、その分家筋の出身であったとする説 2 を最も妥当性の高いものとして採用し、以降の論述を進める。この立場に立つことで、彼が吉川元春の推挙という外部からの力によって、本家の家督を継承するという異例の出世を遂げた経緯が、より明確に理解できるからである。
表2:杉原盛重の出自に関する諸説比較表
説の名称 |
根拠となる史料・伝承 |
説の概要 |
研究上の評価・信憑性 |
山手杉原氏説(通説) |
『萩藩閥閲録』、各種系図 7 |
備後国の名族、山手銀山城主・杉原匡信の次男とする。 |
最も広く受け入れられている説。ただし、神辺城主家との直接の父子関係については近年の研究で否定的な見解が有力 7 。 |
宗岡氏出身説(異説) |
『備陽六郡志』、深草大明神縁起 13 |
備後国下岩成村の土豪・宗岡氏の出身で、神辺城主就任時に杉原姓に改姓したとする。 |
位牌の誤解に基づく可能性が高く、信憑性は低いとされる 13 。しかし、地域伝承として存在した事実は注目される。 |
八ツ尾杉原氏説 |
『福山志料』など 12 |
備後国芦田郡八ツ尾城主の杉原氏の出とする説。 |
山手杉原氏説と混同されている部分が多く、独立した説としての確証は乏しい。 |
盛重の名が初めて歴史の舞台に大きく現れるのは、天文12年(1543年)から断続的に6年以上にわたって続いた「神辺合戦」においてである 6 。当時の備後国は、西の周防国を本拠とする大内氏と、東の出雲国を本拠とする尼子氏という二大勢力が覇を競う最前線であった。備後南部の要衝であった神辺城(当時は村尾城とも呼ばれた)は、尼子方の有力国衆・山名理興(実質的には杉原一族で、山名姓を名乗っていた)が守る拠点であった 1 。
大内義隆は神辺城を攻略すべく、重臣の陶隆房(後の陶晴賢)を総大将とし、毛利元就・隆元父子、そして元就の次男で吉川家の家督を継いだばかりの吉川元春らを加えた大軍を派遣した 5 。杉原盛重は、この時、籠城する山名理興配下の家老として、圧倒的な兵力を誇る大内・毛利連合軍を相手に獅子奮迅の働きを見せた 6 。
特に彼の武名を高めたのが、天文17年(1548年)6月23日の戦いである。『陰徳太平記』によれば、この日、初陣を飾るべく意気軒昂な若き吉川元春が手勢1,000余騎を率いて城下に攻め寄せ、放火を行った 6 。これに対し、盛重は1,000余騎を率いて城から打って出て元春隊に猛然と攻めかかった。緒戦において盛重軍の勢いは凄まじく、元春の部隊を押し崩し、一時は敗走寸前にまで追い込んだという 5 。この時、元春はわずか19歳であったが、自ら槍を振るって奮戦し、盛重が負傷して兵を引いた隙を突いて反撃に転じ、城の柵際まで攻め込んだ 6 。
結果として神辺城方は押し返されたものの、この一戦で盛重が見せた勇猛果敢な戦いぶりは、敵将であった吉川元春の脳裏に強烈な印象を焼き付けた。盛重の人生における最大の転機は、毛利家に仕える遥か以前、敵として最高の武功を示したこの瞬間に、既にその萌芽があったと言える。戦国時代の武将評価において、敵味方の別なく、戦場での働きこそが最も重視されるという鉄則を、この邂逅は如実に物語っているのである。
神辺合戦で敵将として毛利氏の前に立ちはだかった杉原盛重が、いかにしてその家臣となり、ついには方面軍の主力を担うまでに至ったのか。その過程は、吉川元春による個人的な評価という単純な構図では説明できない。そこには、毛利氏が国衆を取り込むために駆使した、実力評価、既存の姻戚ネットワークの活用、そして新たな婚姻政策という、三つの要素が複雑に絡み合った戦略的な判断が存在した。
神辺合戦の後、大内氏が厳島の戦い(1555年)で毛利元就に敗れて滅亡すると、備後国における勢力図は一変し、神辺城も毛利氏の支配下に入った。弘治3年(1557年)頃、城主であった杉原豊後守某が嗣子なく病死すると、その後継者を誰にするかという問題が毛利家中枢で協議された 6 。
この時、杉原盛重を強く推挙したのが、かつて神辺城で彼と刃を交えた吉川元春であった 4 。元春は、神辺合戦で目の当たりにした盛重の抜群の武勇こそ、これから本格化するであろう対尼子戦において不可欠な戦力となると考えたのである 1 。
しかし、この元春の推薦に対し、弟の小早川隆景は異を唱えたとされる。『陰徳太平記』巻三十二には、この時の隆景の盛重評が記されている。それによれば、隆景は盛重を「乱暴者で、人を生きた虫ほどにも思わず、その上、常に博打を好み、自らの強さを誇って危険な合戦にも強引に仕掛けるような人物」と評し、そのような危険人物に要衝・神辺城を任せることに強い懸念を示したという 1 。武を重んじ、剛直な性格の元春と、智を重んじ、温厚で慎重な性格の隆景。この対照的な評価は、毛利両川と称された兄弟の性格の違いを鮮やかに映し出すと同時に、盛重という人物が持つ粗暴で型破りな一面をも示唆している。
最終的に、父・毛利元就は元春の意見を容れ、盛重の軍事的能力を高く評価した。これは、対尼子戦という喫緊の軍事的課題を前に、隆景が指摘するようなリスクを承知の上で、有能な将を登用するという戦国大名ならではの実利主義的な判断であった。こうして盛重は、かつての主家を継ぐ形で、備後神辺城主に大抜擢されることとなったのである。
盛重の抜擢が、単なる戦場での武勇評価のみによってなされたわけではないことは、彼を巡る婚姻関係を分析することで明らかになる。毛利氏は、国衆を支配体制に組み込むにあたり、婚姻政策を極めて巧みに利用したが、盛重のケースはその典型例であった。
第一に、盛重の兄・杉原直良の存在が挙げられる。近年の研究により、この直良の妻が、安芸国の有力国衆・熊谷信直の姪であり、かつ吉川元春の正室である新庄局の従妹にあたることが判明した 7 。この熊谷氏を介した姻戚関係は、盛重が神辺城主となる以前から、山手杉原氏と毛利氏、特に吉川家との間に一定の繋がりがあったことを示唆している。元春にとって、盛重は全くの無縁の人物ではなく、「縁戚の弟」とも言うべき存在であり、このことが彼の推挙を後押しした可能性は高い。
第二に、盛重自身の婚姻である。彼は神辺城主の座を継ぐにあたり、先代城主の未亡人を娶った。そしてこの女性こそ、毛利元就の兄・毛利興元の娘、すなわち元春・隆景兄弟にとっての従姉であった 2 。これにより、盛重は毛利一門に準ずる極めて高い地位を得ることになった。この婚姻は、元春による抜擢を決定的なものにし、外様国衆に過ぎなかった盛重を毛利家の支配体制に深く組み込むための、いわば「楔(くさび)」として機能した。彼はこの二重の姻戚関係によってその地位を盤石なものとし、単なる一武将から毛利一門に連なる特別な存在へと変貌を遂げたのである。
異例の抜擢と毛利一門への編入は、当然ながら旧来の勢力との間に軋轢を生んだ。盛重が家督を継いだことに不満を抱いた山名理興の旧臣・藤井皓玄(ふじい こうげん)が、盛重の留守を狙って神辺城を一時的に占拠するという事件が発生した 4 。
これは、旧来の家臣団が、外部から入ってきた新城主に対して反発を抱いていたことを示す出来事である。しかし、この反乱は毛利本家の支援も得て速やかに鎮圧され、首謀者の藤井皓玄は備中国へ逃亡した後に自刃した 4 。この試練を乗り越えたことで、盛重の神辺城における支配体制は揺るぎないものとなり、結果的に彼の権威は一層強化されることになった。彼はこの事件を通じて、自らの支配の正統性が毛利本家の強力な後ろ盾によって保証されていることを内外に示したのである。
神辺城主として毛利家中に確固たる地位を築いた杉原盛重は、その武勇をいよいよ本格化する山陰経略、すなわち対尼子戦線で遺憾なく発揮することになる。彼は吉川元春率いる山陰方面軍の事実上の「先鋒」として、尼子氏の本拠地である出雲国に隣接する伯耆国(ほうきのくに、現在の鳥取県中西部)に派遣され、その生涯を通じての宿敵となる山中幸盛と死闘を繰り広げた。この時期、彼は「伯州の神辺殿」と称され、軍事司令官として、また統治者として、その名を山陰に轟かせたのである。
永禄6年(1563年)頃、毛利元就による出雲侵攻が本格化する中、盛重に新たな指令が下る。それは、備後神辺城主の地位を維持したまま、対尼子戦の最前線である伯耆国西部の要衝・尾高城(おだかじょう、現在の鳥取県米子市)の城主を兼任せよ、というものであった 2 。これは通常の国替えではなく、大幅な加増を意味する破格の待遇であり、毛利元就・吉川元春父子からの絶大な信頼と期待がいかに大きかったかを物語っている 17 。この人事は、備後という安定した経済基盤 18 を背景に、最前線である伯耆での軍事活動に専念させるための、毛利首脳部の巧みな戦略的判断であった。伯耆は古来より「たたら製鉄」が盛んな地であり 20 、この地の掌握は毛利氏の軍事経済力を支える上でも極めて重要であった。
盛重は、この新たな任地においても巧みな手腕を見せる。尾高城主就任にあたり、前城主であった行松正盛(ゆきまつ まさもり)が病死していたため、その未亡人と再婚し、遺児を養育するという形で家督を継承した 2 。これにより、行松氏の旧家臣団を円滑に自らの支配下に組み込むことに成功したのである。さらに彼は、伯耆国内の瑞仙寺(ずいせんじ)や霊峰・大山寺(だいせんじ)、比江津神社(ひえつじんじゃ)などに対し、寺領の所有権を保証する安堵状や所領を寄進する旨を記した寄進状を次々と発給している 2 。これらの文書は、彼が単なる軍事司令官ではなく、現地の宗教勢力や在地社会との関係構築に努める、有能な統治者であったことを雄弁に物語っている。
盛重の伯耆統治は、滅亡した主家・尼子氏の再興に執念を燃やす不屈の武将、山中幸盛(通称・鹿介)との戦いの連続であった。二人は生涯の好敵手として、伯耆・出雲の地で幾度となく激突する 4 。
山中幸盛は脱走後、京に上り織田信長を頼った。信長の支援を得て尼子勝久を主君に擁立し、播磨国上月城(こうづきじょう、現在の兵庫県佐用町)を拠点として、三度目の尼子家再興の兵を挙げる。これに対し、毛利氏は天正6年(1578年)、吉川元春・小早川隆景を総大将とする3万を超える大軍で上月城を完全に包囲した 4 。
杉原盛重も、この毛利軍の主力部隊として参陣し、長きにわたる宿敵との最後の戦いに臨んだ。この上月城の戦いにおいても、二人のライバル関係を象徴する逸話が『陰徳太平記』に記されている。城兵を大いに苦しめていた盛重の陣地には、大砲(台無鉄砲)が据えられていた。これに目を付けた山中幸盛は、決死隊を編成して夜陰に乗じて盛重の陣に忍び込ませ、見事この大砲を奪って谷底へ突き落としたという。この報告を受けた盛重は、「かかる油断をして大砲を盗まれるとは、盛重生涯の面目を失い、死後の恥辱である。この鉄砲を取り返せぬならば、我はこの城を枕として討死するまでだ」と、激しく悔しがったと伝えられる 1 。この逸話の史実性は定かではないが、盛重が当時最新鋭の兵器を運用する部隊を率いていたことを示唆すると同時に、二人の宿命の対決の最後を飾るにふさわしい物語として語り継がれている。
羽柴秀吉率いる織田の援軍も、別所長治の離反(三木合戦)などによって救援に駆けつけることができず、上月城は完全に孤立した。食料も尽き、力尽きた尼子勝久は城兵の助命を条件に自刃。山中幸盛も降伏し、捕虜として毛利輝元の元へ護送される途中、備中国の阿井の渡しで謀殺された 26 。ここに尼子再興の夢は完全に潰え、杉原盛重と山中幸盛の、山陰の覇権を巡る長きにわたる宿命の対決も、ついに終焉を迎えたのである。
宿敵・尼子氏の再興運動を完全に鎮圧した毛利氏であったが、息つく間もなく、次なる強大な敵、織田信長との全面対決の時代に突入する。杉原盛重の晩年は、この織田氏の圧倒的な物量の前に、毛利氏が防戦一方となっていく苦難の時代と重なる。彼は山陰方面における対織田戦線の防衛の要として奮闘したが、その死は、毛利氏の山陰支配を支えた一つの大きな柱が失われたことを意味した。
上月城の戦いの後、毛利と織田の対立は決定的となった。特に山陰方面では、因幡国守護であった山名豊国が織田方に寝返り、さらに伯耆国東部を支配していた有力国衆・南条氏も織田方へと鞍替えした。これにより、山陰における毛利氏の支配領域は東西に分断される危機に瀕した。
この新たな脅威に対応するため、吉川元春は戦略の再構築を迫られる。杉原盛重は、この対織田戦線の最前線を担うべく、拠点を西伯耆の尾高城から、より東に位置する八橋城(やばせじょう、現在の鳥取県琴浦町)へと移した 7 。八橋城は、東伯耆の南条氏を直接牽制し、因幡国への侵攻路を確保するための極めて重要な戦略拠点であった。天正8年(1580年)、盛重は早速、織田方についた南条元続・小鴨元清兄弟の攻撃を受けるが、これを撃退。東伯耆における毛利方の防衛線を死守し、その健在ぶりを示した 4 。
天正9年(1581年)、織田信長の命を受けた羽柴秀吉が、2万の大軍を率いて因幡国鳥取城に侵攻した。秀吉は兵糧攻め、いわゆる「鳥取の渇え殺し」という非情な戦術で鳥取城を追い詰める。城を守る毛利方の将、吉川経家はわずか数千の兵で籠城し、絶望的な戦いを強いられた。
毛利氏の山陰方面軍司令官である吉川元春は、鳥取城を救援すべく後詰の軍勢を率いて伯耆へ出陣し、盛重の守る八橋城に着陣した 5 。ここで盛重ら諸将と軍議を開き、救援策を練るが、状況は絶望的であった。秀吉の調略によって周辺の国衆の多くが織田方になびくか、日和見の態度を決め込んでおり、毛利方の呼びかけに応じる者がほとんどいなかったのである 11 。これは、もはや大勢が織田方に傾きつつあることを、現地の国衆たちが敏感に察知していた証拠であり、毛利氏のかつての支配力が山陰において大きく揺らいでいたことを示している。
それでも元春は救援を諦めず、鳥取城へ進軍する上で最大の障害となっていた南条氏の居城・羽衣石城(うえしじょう)を攻撃することを決定。盛重はその先鋒として南条軍と激戦を繰り広げた 11 。しかし、南条方の抵抗は頑強であり、この戦いで多くの死傷者を出し、戦線は膠着した。この足止めが致命的となり、ついに鳥取城への救援は間に合わず、籠城から4ヶ月後、城兵の助命を条件に吉川経家は自刃し、鳥取城は落城した。
鳥取城の落城は、毛利氏の山陰支配にとって大きな痛手であった。そして、その悲報からわずか2ヶ月後の天正9年12月25日(西暦1582年1月19日)、杉原盛重は対織田戦線の拠点であった伯耆国八橋城の陣中にて、病のためにその生涯を閉じた 5 。享年は、生年を大永元年(1521年)とすれば61歳、天文二年(1533年)とすれば49歳であった 1 。
長年にわたる山陰での激戦が、彼の心身を蝕んでいたことは想像に難くない。鳥取城救援の軍議が開かれた際には、既に重病であったため、嫡男の元盛と次男の景盛が諸将の接待や兵糧管理などの采配を代行したと伝えられている 5 。
『陰徳太平記』などの軍記物語によれば、盛重は臨終の床で息子たちを呼び寄せ、「我が弔いは僧侶に頼むに及ばず。敵城を攻略せよ。それこそが我に対する最大の供養である」と言い遺したという 5 。この逸話は、彼が最後まで武将としての気概と矜持を失わなかったことを示している。
盛重の死は、吉川元春にとって、山陰方面の軍事と統治を安心して任せられる最も信頼の置ける部将を失ったことを意味した。この強力な支柱を失ったことは、翌年の本能寺の変の後、秀吉と和睦交渉を行う際に、毛利氏が山陰方面で譲歩(伯耆国東部を放棄し、八橋城を国境とする)を余儀なくされる遠因の一つになった可能性も否定できない 1 。一人の猛将の死は、毛利氏の防衛戦略そのものに大きな影を落としたのである。
杉原盛重は、単なる一人の武将として片付けることのできない、複雑で多面的な人物像を有している。彼は戦場では比類なき猛将でありながら、常に冷静沈着な指揮官でもあった。また、地域の安定を図る統治者としての顔を持つ一方で、忍者や山賊といった異能の集団を率いたという特異な伝承にも彩られている。毛利家中枢との関係性も、単純な主従関係では語れない深みを持っている。
盛重が当代屈指の猛将であったことは、神辺合戦での奮戦や、尼子再興軍との数々の激闘が証明している 5 。敵であった吉川元春がその武勇に惚れ込み、家臣として大抜擢したという経緯そのものが、彼の武人としての評価の高さを物語っている。
しかし、その一方で、彼は感情を表に出さない、極めて冷静沈着な人物であったとも伝えられている。常に無表情で戦場に臨んだことから、「お面杉原(おめんすぎはら)」という異名があったとされ、感情に左右されることなく的確な判断を下す指揮官であったことがうかがえる 24 。この「猛」と「静」を併せ持つ二面性こそが、彼の強さの源泉であったのかもしれない。
興味深いのは、主君である毛利元就からの評価である。『萩藩閥閲録』に残る毛利元就・隆元父子の連署書状の中に、盛重が家臣の久芳賢直(くばかたなお)との間で何らかのトラブルを起こした際に、元就が盛重を「そ忽者(そそうもの)」、すなわち軽率でそそっかしい者、と評している記述がある 27 。これは、盛重が時に直情的で強引な行動に出ることがあったことを、主君である元就が見抜いていたことを示す貴重な一次史料である。隆景が当初抱いた「乱暴者」という評価 1 とも通じるこの記述は、完璧な武将というイメージとは異なる、人間的な欠点や愛嬌をも感じさせ、彼の人物像に深みを与えている。
杉原盛重の人物像を語る上で最も興味深く、また謎に満ちているのが、彼が忍びの集団を率いていたという伝承である。
『陰徳太平記』などの軍記物語には、盛重がその家臣団に、忍者や山賊、海賊あがりの者といった、いわゆるアウトロー的な人材を多数採用していたと記されている 1 。そして、この特殊な軍団は、夜討ちや忍び働き、放火といったゲリラ戦術を得意とし、敵の堅固な城や厳重な包囲網をもやすやすと突破したという 1 。さらに、佐田彦四郎(さだ ひこしろう)、甚五郎(じんごろう)、小鼠(こねずみ)の「佐田三兄弟」といった、具体的な忍びの名も挙げられており、盛重が彼ら忍びの頭領であったかのように描かれている 28 。
これらの記述がどこまで史実を反映しているのかを判断するのは難しい。盛重軍の特異な戦術や、彼の型破りな性格から着想を得て、物語としての面白さを追求した軍記物語作者による脚色の可能性は高い。しかし、これを全くの創作と断じることもまた早計であろう。彼が情報収集や攪乱工作に長けた非正規戦闘員を効果的に活用していた可能性は十分に考えられる。例えば、上月城の戦いで大砲を奪われたという逸話も、敵陣への高度な潜入工作が実際に行われたことを示唆していると解釈できる 1 。
この「忍者マスター」としての側面は、史実と伝承を慎重に切り分けつつも、彼の人物像を豊かにする重要な要素である。小早川隆景が当初彼を危険視したのも、盛重が率いる集団のこうした異質性、すなわち既存の武士の規範から外れた「無頼の者」の集団であったことに起因するのかもしれない。彼の型破りな性格が、そうしたアウトロー的な人材を惹きつけ、彼らを効果的に活用する能力に繋がっていたとすれば、彼の軍団の特異性は、彼の個人的な資質と不可分であったと言えるだろう。
杉原盛重の生涯は、毛利氏の首脳陣、特に毛利両川と称された吉川元春・小早川隆景との関係性抜きには語れない。
吉川元春は、盛重を見出し、推挙し、終生にわたって庇護し続けた最大の理解者であった 1 。盛重は元春が率いる山陰方面軍の、文字通り「右腕」としてその期待に応え続け、両者の間には主従を超えた固い信頼関係が築かれていた。
一方、小早川隆景との関係は、より複雑な変遷を辿った。前述の通り、隆景は当初、盛重の登用を「危険である」として反対した 1 。しかし、盛重が神辺城主として、そして伯耆方面の司令官として着実に功績を積み重ねていく中で、その評価は変化していったと考えられる。後年には、吉川元春と小早川隆景が、盛重や天野隆重といった方面司令官と連名で書状を発給している事例が確認されており 3 、毛利家の重臣として緊密に連携する関係を築いていたことがわかる。これは、盛重が長年にわたる忠勤と実績によって、慎重な隆景の信頼をも勝ち得た結果であろう。この関係性の変化は、盛重の毛利家中における地位がいかに安定し、重要なものとなっていったかを物語っている。
主君である毛利輝元の代になっても、盛重の重要性は変わらなかった。輝元は元就・隆元時代からの宿老である盛重を、引き続き山陰方面の重鎮として重用した 7 。その信頼の証左として、輝元は盛重の死後、一族が内紛によって崩壊の危機に瀕した際に、盛重の多大な功績に免じて杉原家の名跡存続を特別に許している 1 。これは、輝元が盛重の生涯にわたる忠功を高く評価していたことの何よりの証拠である。
表3:杉原盛重と主要人物の関係性変遷
対象人物 |
関係性の初期段階(評価と根拠史料) |
関係性の後期・最終段階(評価と根拠史料) |
考察 |
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吉川元春 |
最高の評価者・推挙者 ・神辺合戦で敵将として武勇を高く評価 5。 |
・神辺城主へ強く推挙 1。 |
終生の盟友 ・山陰方面軍の司令官と先鋒として常に連携 29。 |
・鳥取城後詰でも八橋城で軍議 5。 |
盛重の武勇と軍事的才能を最も理解し、一貫して支援した最大の庇護者。両者の信頼関係は毛利氏の山陰支配の根幹を成した。 |
小早川隆景 |
警戒・危険視 ・「乱暴者」「博打好き」と評し、神辺城主就任に懸念を示す(『陰徳太平記』)1。 |
協力者・同僚 ・元春や盛重と連名で書状を発給するなど、毛利家の重臣として協力関係を構築 3。 |
当初は盛重の型破りな性格を危険視したが、その後の功績と忠勤を認め、毛利家の重臣として信頼するに至った。この関係性の変化は、盛重の人間的成長と政治的手腕を物語る。 |
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毛利元就 |
実利主義的登用 ・隆景の懸念を退け、元春の意見を採用し、盛重を神辺城主に任命 1。 |
・一方で、トラブルを起こした盛重を「そ忽者」と評し、その性格を見抜いていた 27。 |
(元亀2年に死去) |
盛重の危険性を認識しつつも、対尼子戦という大局のためにその軍事的能力を優先する、冷徹な実利主義者としての判断を下した。盛重を巧みにコントロールしようとしていた様子がうかがえる。 |
杉原盛重が一代で築き上げた栄光と権勢は、彼の死と共に、あまりにもあっけなく内部から崩壊した。その死からわずか数年のうちに、息子たちの骨肉の争いによって嫡流は断絶するという悲劇的な末路を辿る。この杉原家の悲劇は、単なる家中の内紛に留まらず、織田氏の脅威という外部からの圧力と、急拡大した家臣団が抱える内部の矛盾という、二つの要因が複合的に作用した結果であった。それは、強力なカリスマを失った新興勢力が直面する、権力継承の困難さを示す典型例と言える。
天正9年(1581年)末に盛重が病没すると、家督は嫡男の杉原元盛(もともり)が継いだ 5 。しかし、この家督相続に強い不満を抱いたのが、次男の杉原景盛(かげもり)であった。
この兄弟間の対立の根底には、複雑な家系の事情があった可能性が指摘されている。景盛は、元は盛重が城主となる前の伯耆国尾高城主・行松正盛の子であり、盛重が正盛の未亡人と再婚した際に養子として引き取られた人物であった 33 。この出自は、杉原家中に、盛重が備後神辺城から率いてきた旧来の家臣団と、伯耆尾高城の旧行松家臣団との間に対立があった可能性を示唆する 34 。景盛の不満は、この家臣団内部の派閥対立に根差していたのかもしれない。
そして天正10年(1582年)、本能寺の変で織田信長が斃れ、世情が騒然とする中、景盛はついに凶行に及ぶ。「兄の元盛が羽柴秀吉と内通している」という名分を掲げ、尾高城の二の丸付近で兄・元盛とその二人の子を謀殺し、実力で家督を奪い取ったのである 4 。
景盛が兄を殺害する口実とした「羽柴氏との内通」は、当時の毛利家中が織田氏の調略に極度に神経を尖らせていた状況を反映している。しかし、毛利輝元および吉川元春・元長親子は、この兄殺しという非道な行いと、景盛自身にかけられた織田方への内通疑惑を理由に、彼の家督相続を断じて認めなかった 4 。
天正12年(1584年)8月、ついに吉川元長が景盛討伐の軍を派遣した。景盛は居城の佐陀城(さだじょう、現在の島根県松江市)に籠城して抵抗を試みるが、その悪逆な所業と普段の素行の悪さから人望を完全に失っており、家臣たちの離反が相次いだ 7 。最後まで忠節を尽くした家臣すらも疑心暗鬼から殺害するに至り、完全に孤立無援となった景盛は、為す術なく毛利軍に捕らえられ、自刃して果てた 33 。
これにより、杉原盛重が一代で築き上げた神辺杉原氏の嫡流は、彼の死からわずか3年足らずで、その血と野望の跡を歴史から消し去ることとなった。盛重という強力な指導者を失った途端に家中が分裂し崩壊した事実は、彼の権力が極めて個人的なカリスマと能力に依存していたこと、そしてその権力基盤がいかに脆弱であったかを物語っている。
嫡流は悲劇的な形で断絶したものの、杉原盛重の血脈が完全に途絶えたわけではなかった。
毛利輝元は、盛重が生涯にわたって毛利家に尽くした多大な功績に鑑み、杉原家の名跡が断絶することを惜しんだ 1 。そして、盛重の三男であった杉原景保(かげやす、後に三谷重信と改名)に1,400貫(約3,000石とも)の所領を与え、家名の存続を許した 1 。景保は後に吉川家の家臣となり、その子孫は江戸時代を通じて長州藩の支藩である岩国藩士として続いた 2 。
また、盛重は息子たちだけでなく、娘たちも毛利家の有力者と縁組させていた。一人の娘は毛利元就の八男・末次元康(すえつぐ もとやす)の正室となり、また別の娘は毛利氏の重臣で、後に盛重の旧領である伯耆尾高城の城代を務めた吉田元重(よしだ もとしげ)に嫁いでいる 2 。これらの婚姻を通じて、杉原盛重の血は毛利家中枢に受け継がれ、その影響を後世に残したのである。
杉原盛重の生涯は、戦国乱世という時代の光と影を凝縮したものであった。備後の一国人に過ぎなかった彼が、その比類なき武勇と、時代の潮流を読む政治的嗅覚によって、大大名・毛利氏の方面軍司令官という異例の地位にまで上り詰めた功績は、特筆に値する。彼は、実力次第で下位の身分からでも成り上がることができた戦国時代の流動性、いわゆる下剋上の精神を体現する人物であった。
彼の功績の中心は、吉川元春の右腕として山陰経略を実質的に主導した点にある。執拗に抵抗を続ける宿敵・尼子氏の再興勢力を、山中幸盛との十数年にわたる死闘の末に完全に鎮圧し、毛利氏の山陰支配を確立した。さらに、織田信長という新たな脅威が西に及ぶと、その最前線に身を置き、東伯耆の防衛線を死守することに尽力した。彼の存在なくして、毛利氏の山陰における支配体制の構築はあり得なかったであろう。
しかし、彼の成功は単なる武勇のみによるものではなかった。敵将であった吉川元春にその実力を認めさせ、毛利一門との二重の姻戚関係を築き上げることで自らの地位を盤石にするなど、彼は政治的手腕にも長けていた。また、伯耆の統治者として現地の寺社や在地勢力との関係構築に努めたことは、彼が優れた実務家であったことを示している。
その一方で、彼が一代で築き上げた権勢は、彼の死と共に内部崩壊という悲劇的な結末を迎えた。これは、個人の武勇や才覚だけでは乗り越えられない、戦国乱世の非情さと、急成長した新興勢力が抱える権力継承の構造的脆弱性を物語っている。彼の生涯は、毛利氏の勢力拡大期を象徴する輝かしい成功譚であると同時に、その後の衰退期を予感させる影を落とす物語でもあった。
結論として、杉原盛重は、単なる一介の猛将ではない。彼は、毛利氏の国衆統制政策を体現し、その軍事力と政治力をもって山陰の秩序形成に不可欠な役割を果たした、極めて重要な人物であった。その複雑で多面的な人物像と、栄光と悲劇が交錯する生涯は、彼が日本戦国史の中に確固たる位置を占めるべき武将であることを、我々に強く示唆しているのである。