戦国時代の出羽国庄内地方、数多の豪族が興亡を繰り返す中にあって、その名を歴史に刻んだ一族がある。飽海郡観音寺城を拠点とした国人領主、来次(きすぎ)氏である。本報告書は、一族の礎を築いた父・**来次時秀(きすぎ ときひで)**と、激動の時代を巧みな政治判断で生き抜いた子・**来次氏秀(きすぎ うじひで)**の生涯を中心に、現存する史料を網羅的に分析し、その実像を徹底的に解明することを目的とする。
来次氏に関する記録を精査する上で、まず直面する課題は、父子の事績の混同である。特に、軍記物や後世の編纂史料において、子の氏秀の行動が父「時秀」の名の下に語られる例が散見される 1 。この混乱は、単なる記録上の誤謬に留まらない。それは、個人よりも「家」の存続が至上命題であった戦国期の地方社会において、当主が「来次殿」という家の代表者として一括りに認識されていたことの証左でもある。本報告書では、この父子の事績を慎重に分離・再整理し、それぞれの時代における役割と行動を明確に描き出すことを第一の分析軸とする。
本報告書は、まず第一章で来次一族の出自と庄内地方におけるその地位を明らかにする。続く第二章では、父・時秀の時代に焦点を当て、一族の基盤がいかにして築かれたかを検証する。第三章では、子の氏秀の時代へと移り、主家である大宝寺氏との確執から最上氏の調略、そして大宝寺氏の滅亡に至る過程を追う。第四章では、庄内の覇権を巡る「十五里ヶ原の戦い」における来次氏の決断と、その後の上杉家臣としての後半生を詳述する。最後に、結論として、父子の役割分担と、戦国国人領主の生存戦略の典型としての来次氏の歴史的意義を考察する。
本報告書における分析の基礎として、来次時秀・氏秀父子の活動と関連する主要な出来事を時系列で整理する。これにより、両者の事績を明確に区別し、以降の記述の理解を助ける。
年代(西暦) |
元号 |
来次時秀の動向 |
来次氏秀の動向 |
関連事項 |
1543年 |
天文12年 |
生誕 3 |
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1570-73年頃 |
元亀年間 |
防備上の理由から、居城を古楯から観音寺城へ移転・築城 3 |
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大宝寺義氏が土佐林氏を滅ぼし、庄内三郡を掌握 |
1575年 |
天正3年 |
砂越氏と大宝寺氏の和睦の動きを越後本庄繁長に報告 1 |
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1578年 |
天正6年 |
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主君・大宝寺義氏に対し謀反を起こすが、懐柔される 1 |
上杉謙信が急死 |
1582年 |
天正10年 |
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最上家臣・鮭延秀綱からの調略を受け、日和見の立場をとる 6 |
最上義光による庄内侵攻が本格化 |
1583年 |
天正11年 |
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砂越氏と共に離反。東禅寺義長による主君・大宝寺義氏殺害の遠因となる 2 |
大宝寺義氏、自害 |
1588年 |
天正16年 |
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十五里ヶ原の戦いで本庄繁長・大宝寺義勝(上杉方)に加勢し、最上方を破る 6 |
庄内地方が上杉氏の支配下となる |
1590年 |
天正18年 |
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上杉景勝配下として小田原征伐に従軍 6 |
観音寺城が廃城となる 12 |
1592年 |
文禄元年 |
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文禄の役で肥前名護屋へ派兵 6 |
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1600年 |
慶長5年 |
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関ヶ原の戦後、上杉家の米沢移封に従う 6 |
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1640年 |
寛永17年 |
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没 13 |
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来次氏の出自を語る上で欠かせないのが、平安時代後期に東北地方に覇を唱えた出羽清原氏の後裔であるという伝承である 3 。伝承によれば、後三年の役(1083年~1087年)が起こると、清原氏の末弟とされる時衡(ときひら)が羽黒山に入って山伏となり、以来二十代にわたって世を忍んだ。その後、氏房の代に至り、武家としての再興を期して還俗し、市条の地(現在の酒田市市条)に渡ったのが来次氏の始まりとされる 3 。
しかし、この伝承には確たる史料的裏付けがなく、戦国時代の武将が自らの家格と支配の正統性を高めるために、著名な武家の系譜に自らを繋げる「仮冒(かぼう)」の一例であった可能性が高い 6 。清原氏はかつて出羽国を実質的に支配した名族であり、その名を称することは、在地社会において自らの権威を確立する上で極めて有効な手段であった 17 。
この伝承の中で特に注目すべきは、「羽黒山伏として世を忍んだ」という部分である。これは単なる物語ではなく、来次氏が庄内地方における精神的・経済的中心地であった羽黒山修験と深い繋がりを持っていたことを示唆している 9 。羽黒山は広大な寺社領、宗教的権威、そして独自の武力と情報網を持つ一大勢力であった。来次氏がその羽黒山に連なる家系であると称することは、清原氏という「武」の権威に、羽黒山という「聖」の権威を重ね合わせる、非常に巧みな自己演出戦略であったと分析できる。これにより、来次氏は在地社会において、単なる武力豪族ではない、由緒正しい支配者としての地位を確立しようとしたのである。
16世紀の庄内地方は、鶴岡の大宝寺城を本拠とする大宝寺(武藤)氏が盟主的な立場にあったものの、その支配は盤石ではなかった。最上川以北の飽海郡や田川郡北部では、来次氏をはじめ、砂越城の砂越氏、藤島城の土佐林氏といった有力な国人領主が割拠し、一種の連合政権的な様相を呈していた 6 。
この中で来次氏は、大宝寺氏の完全な被官というよりは、独立性の高い「同盟者的立場にあった外様衆」と位置づけられる 3 。彼らは大宝寺氏の権威を認めつつも、自らの領地と家臣団を保持し、地域の紛争解決などにおいては大宝寺氏を中心とする合議に参加していた 21 。この独立性の高さこそが、後の時代に氏秀が主家である大宝寺氏に反旗を翻したり、最上氏や上杉氏と独自に交渉したりすることを可能にした背景である。
来次氏の知行高については、約二千五百石であったと伝えられている(ユーザー提供情報)。戦国時代の石高は後の江戸時代とは単純比較できないものの、これは国人領主として相当な経済力と、それを基盤とする軍事力を有していたことを示している。
来次氏の権威とアイデンティティを象徴するものとして、家紋と菩提寺が挙げられる。来次氏の家紋は「丸に竪三つ引き」であった 23 。この紋は、源頼朝の挙兵以来、鎌倉幕府の有力御家人として名を馳せた相模国の名族・三浦氏が用いた「三つ引両紋」の変形である 25 。三浦一族は出羽国にも所領を得ており、来次氏が三浦氏の権威を借りた、あるいは何らかの主従関係や血縁関係があった可能性も考えられる。いずれにせよ、出自における清原氏の仮冒と同様に、家紋においても東国を代表する名門武家の威光を借りることで、自らの家格を高めようとする意図がうかがえる 27 。
また、来次氏の菩提寺は、居城・観音寺城の麓にある見龍山円通寺である 28 。寺伝によれば、この寺の山門は観音寺城の裏門を移築したものであり、寺紋も来次氏の家紋「丸に竪三つ引き」を賜ったものとされている 23 。現在も境内には来次家の墓碑が残されており、一族がこの地で深く根を下ろしていたことを物語っている 23 。
このように来次氏は、出自、家紋、そして地域の宗教拠点との結びつきを通じて、自らの支配の正統性を多角的に構築していた。これは、実力のみがものをいう戦国時代にあっても、伝統的な権威や系譜がいかに重要な役割を果たしていたかを示す好例と言えよう。
来次氏の歴史において、父・時秀の時代は、一族の存続基盤を固めた重要な時期として位置づけられる。子の氏秀のような華々しい活躍は記録されていないが、彼の堅実な領国経営と先見性のある判断が、後の氏秀の行動を可能にしたのである。
史料によれば、来次時秀は天文12年(1543年)に生まれ、父である氏房の跡を継いだとされる 3 。彼の活動が具体的に記録されているのは、天正3年(1575年)の出来事である。この年、時秀(史料では孫四郎時秀)は、長年対立していた主家の大宝寺氏と砂越氏との間に和睦の動きがあることを、越後国の有力武将・本庄繁長に報告している 1 。
この書状の存在は、時秀が単に自領を守るだけの城主ではなく、大宝寺氏を中心とする庄内国人連合の外交の一翼を担う、重要な立場にあったことを示している。大宝寺氏と本庄氏は伝統的に繋がりが深く、時秀はそのパイプ役として機能していたと考えられる。この時期の時秀は、主家である大宝寺氏の体制下で安定的に活動し、一族の地位を固めることに注力した、実務的で堅実な領主であったと推察される。
来次時秀の最大の功績は、戦略的拠点となる観音寺城を新たに築城したことである。元亀年間(1570年~1573年)頃、時秀はそれまでの居城であった平城の「古楯(ふるたて)」(現在の酒田市立八幡小学校の敷地とされる)から、防備上の理由で約1キロメートル北東の丘陵地(楯山)に拠点を移した 3 。
この移転と築城は、戦国の動乱が激化していく時代への的確な対応であった。平時の居館であった古楯は、日向川を天然の堀としていたものの、防御性に限界があった 5 。対して新たに築かれた観音寺城は、標高約50メートルの丘陵に位置し、西と南は急斜面、東と北は深い沢に囲まれた天然の要害であった 12 。城の規模は東西約150メートル、南北約350メートルに及び、曲輪、土塁、そして主郭と副郭を分断する深さ4メートルの空堀(横堀)といった堅固な防御施設を備えていた 12 。
この観音寺城の築城は、時秀の優れた先見性を示すものである。築城が行われた元亀年間は、大宝寺義氏が強権的な手法で家中を統一し、周辺への拡大政策を開始した時期と重なる 20 。義氏の強引な政策は、必然的に家中の国人衆や周辺勢力との緊張を高めるものであった。時秀は、こうした時代の空気の変化を敏感に察知し、来るべき大規模な軍事衝突に備えて、一族の存続を賭けた物理的な拠点を確保するという、極めて戦略的な判断を下したのである。父・時秀が築いたこの堅固な城塞こそが、後に子の氏秀が、大宝寺氏、最上氏、上杉氏という三大勢力の間で、大胆かつ柔軟な外交・軍事行動を展開するための強力な後ろ盾となった。時秀の築城は、まさに子の時代の伏線となる、一族の未来への投資だったのである。
父・時秀が築いた安定基盤を引き継いだ子・氏秀の時代、庄内地方は激動の渦に巻き込まれる。主家・大宝寺氏の弱体化と、周辺大名である最上氏、上杉氏の介入という複雑な情勢の中、氏秀は一族の存続をかけて、危険な政治的選択を繰り返していく。
来次氏秀は、父・時秀の子として生まれ、当初は庄内の領主・大宝寺義氏に仕えた 6 。その名にある「氏」の一字は、主君・義氏から与えられた偏諱であると考えられ、当初は忠実な家臣として、義氏の北方拡大政策に協力していた 6 。由利地方の国人衆(由利十二頭)に大宝寺氏への仕官を促す書状を送るなど、外交の現場で活動した記録も残っている 6 。
しかし、両者の関係は、天正6年(1578年)に大きな転機を迎える。この年、大宝寺氏の最大の後ろ盾であった越後の上杉謙信が急死すると、義氏の求心力は急速に低下する。この好機を捉え、氏秀は義氏に対して突如反旗を翻した 1 。
この反乱の背景には、大宝寺義氏自身の政治姿勢が大きく影響していた。義氏は、弱体化した大宝寺氏の権威を回復すべく、強権的な領国経営や度重なる外征を行った。しかし、それは由利十二頭をはじめとする国人衆や領民の大きな反発を招き、次第に「悪屋形」と渾名されるほど人望を失っていた 2 。氏秀の反乱は、こうした義氏の失政に対する国人層の不満が噴出した、象徴的な事件であったと解釈できる。
義氏は武力をもってこの反乱を鎮圧しようとしたが、失敗に終わる 1 。結局、義氏は氏秀を処断することができず、逆に知行を与えるという「懐柔策」によって事を収めるしかなかった 1 。この一連の出来事は、大宝寺氏の権力がもはや来次氏のような有力国人を完全に統制できないほどに脆弱化していたことを如実に示しており、後の大宝寺氏滅亡の序曲となった。
大宝寺氏の内部対立に乗じ、庄内への勢力拡大を虎視眈々と狙っていたのが、山形城主・最上義光であった。義光は、庄内の有力国人である来次氏秀や砂越次郎を標的に、執拗な調略を開始する 1 。
その具体的な証拠となるのが、天正10年(1582年)9月21日付で来次氏秀が砂越次郎に宛てた書状である。この書状(『筆濃余理所収文書』、『山形県史 史料編1』所収)の中で氏秀は、最上家臣の鮭延秀綱から連絡(御音信)があったことを砂越に伝えている 7 。これは、最上方の調略が水面下で進行し、氏秀がその窓口となっていたことを示す一級史料である。
この書状の内容から、氏秀が主家である大宝寺氏を半ば見限り、最上氏と通じていたことは明らかである。しかし、彼はすぐさま最上氏に完全に臣従するのではなく、大宝寺方と最上方の両者を天秤にかけ、自らの価値を最大限に高めようとする、巧みな日和見戦略をとっていたことがうかがえる 6 。
最上義光の調略は、ついに大宝寺氏の中枢を揺るがす。天正11年(1583年)、最上氏と内通した大宝寺家臣・前森蔵人(後の東禅寺義長)が突如謀反を起こし、主君・義氏が居城としていた尾浦城を急襲。義氏はなすすべなく、自害に追い込まれた 9 。
複数の史料が、この前森蔵人の謀反の「遠因」として、来次氏秀と砂越次郎の離反を挙げている 6 。彼らが直接手を下したわけではないにせよ、庄内北部の有力国人である両者が公然と反抗的な態度をとり、最上氏と通じていたことが、前森蔵人が決起しやすい政治状況を生み出したことは疑いない。
さらに、来次氏の関与をより直接的に示唆する記録も存在する。『酒田市史年表』によれば、氏秀の妻は「東禅寺筑前守の娘」であったとされる 13 。この東禅寺筑前守が義氏を討った東禅寺義長と同一人物であるならば、来次・東禅寺両氏は義氏打倒に向けて婚姻同盟を結んでいた可能性があり、氏秀が単なる傍観者ではなく、クーデターの共謀者の一人であった可能性が極めて高くなる。
主君・大宝寺義氏の死後、庄内地方の覇権を巡る争いは新たな局面を迎える。来次氏秀は、最上氏と上杉氏という二大勢力の狭間で、再び一族の存亡を賭けた決断を迫られることとなる。
大宝寺義氏の死後、その弟である義興が跡を継いだものの、庄内の実権は最上義光の支援を受けた東禅寺義長が掌握した 2 。しかし、義興は越後の上杉景勝と結び、さらに本庄繁長の次男・千勝丸を養子に迎えて大宝寺義勝と名乗らせ、庄内回復の機会をうかがっていた 9 。
この間、来次氏秀は義氏打倒に間接的に協力したにもかかわらず、最上方に完全に与することはなかった。彼は、庄内を巡る最上・上杉両陣営の力関係を冷静に見極め、どちらにつくのが最も有利かを見定める、巧みな日和見戦略を継続した 6 。これは、自らの軍事的価値を最大限に利用し、より良い条件で生き残りを図るという、戦国国人領主の典型的な行動様式であった。
天正16年(1588年)、遂に本庄繁長・大宝寺義勝親子が庄内奪還のため、越後から大軍を率いて侵攻した。これに対し、最上義光は東禅寺義長・勝正兄弟を主将とする迎撃軍を派遣。両軍は尾浦城下の十五里ヶ原で激突した(十五里ヶ原の戦い) 10 。
この決戦に際し、来次氏秀は最終的に本庄・上杉方に加勢することを決断する 6 。この寝返りの背景には、庄内における最上方の支配が未だ盤石ではないこと、そして旧主・大宝寺氏の名跡を掲げる本庄方に大義名分があるという政治的判断があったと考えられる。来次氏のような有力国人が味方についたことは、本庄方の士気を大いに高め、合戦の趨勢を決定づける重要な要因となった。
戦いは本庄・上杉方の圧勝に終わり、東禅寺兄弟は討死。庄内地方は最上氏の手を離れ、上杉氏の支配下に入った。戦後、氏秀は上杉景勝に恭順の意を示し、その支配体制下に組み込まれることとなった 11 。
上杉家臣となった来次氏秀は、もはや一国人領主ではなく、巨大な大名権力に組み込まれた武将として活動することになる。天正18年(1590年)には、豊臣秀吉による小田原征伐に上杉軍の一員として従軍。さらに文禄の役(1592年)では、主君・景勝に従い、遠く九州の肥前名護屋まで赴いている 6 。これらの従軍は、来次氏が中央政権の秩序の中に完全に組み込まれたことを示している。
一方で、氏秀は単なる武人ではなかった。書に優れ、豊臣秀吉にもその才能を気に入られたという逸話が残るほか、上杉家では主君の右筆(秘書役)や和歌の相手も務めたとされ、高い文化的素養を持つ能吏としての一面も持ち合わせていた 11 。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍が敗れると、上杉家は会津120万石から米沢30万石へと大幅に減移封された。氏秀もこれに従い、故地である庄内を離れて米沢へ移った 6 。その後の子孫は米沢藩士として続き、来次氏の血脈は明治維新まで保たれた。
『酒田市史年表』の記録によれば、来次氏秀は寛永17年(1640年)に没したとされる 13 。生年は不明ながら、父・時秀の生年から逆算すると、戦国の動乱を生き抜き、かなりの長寿を全うしたことになる。その生涯は、時代の荒波に翻弄されながらも、巧みな政治手腕と武略、そして文化的素養を武器に、一族を見事に存続させた国人領主の姿を我々に伝えている。
来次氏の行動を理解するため、彼らを取り巻く庄内地方の複雑な勢力関係の変遷を図示する。
時期1:上杉謙信存命期(~天正6年/1578年)
時期2:謙信死後~大宝寺義氏自害(天正6年~天正11年/1578年~1583年)
時期3:義氏自害後~十五里ヶ原の戦い(天正11年~天正16年/1583年~1588年)
この関係図は、来次氏の行動が単独の意思決定ではなく、常に変化する周辺勢力のパワーバランスの中で行われた戦略的な選択であったことを視覚的に示している。
出羽国飽海郡の豪族・来次氏、とりわけ来次時秀と氏秀父子の生涯を追うことは、戦国時代という巨大な転換期を地方の視点から捉え直す上で、極めて重要な示唆を与える。
第一に、来次氏の歴史は、父・時秀による「守り」と「基盤構築」、そして子・氏秀による「攻め」と「政治的選択」という、見事な役割分担によって成り立っていたと評価できる。父・時秀は、激化するであろう戦乱を予見し、一族の存続の要となる堅固な観音寺城を築いた。この物理的・軍事的な基盤があったからこそ、子・氏秀は主家への反乱、最上氏との内通、そして最終的な上杉氏への帰順といった、危険を伴う大胆な政治行動をとり、その都度、一族を滅亡の淵から救い、生き残らせることができたのである。
第二に、来次氏の動向は、戦国時代における国人領主の生存戦略の典型例として捉えることができる。彼らの行動は、現代的な価値観や、忠誠・裏切りといった単純な二元論では到底測れない。それは、大宝寺、最上、上杉という強大な勢力の狭間で、自らの「家」の存続という唯一絶対の目的を達成するための、極めて現実的かつ合理的な選択の連続であった。主家を見限り、敵と通じ、そして新たな主君に仕える。その一連の行動は、戦国という時代の非情さと、その中で生き抜こうとした在地領主たちのしたたかな知恵を象徴している。
最後に、来次時秀・氏秀父子のような、歴史の表舞台に立つことの少ない人物の生涯を丹念に追跡することの歴史研究上の意義は大きい。彼らの物語は、織田信長や豊臣秀吉といった中央の天下人の動向が、いかにして出羽庄内のような地方の小領主の運命にまで影響を及ぼしたか、そして、その巨大なうねりに翻弄されながらも、決して無力な存在ではなく、主体的に状況を判断し、自らの道を切り拓こうとした人々の姿を鮮明に描き出してくれる。来次氏の歴史は、戦国時代の多層性と複雑性を理解するための、貴重な一つの窓なのである。