本報告書は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての激動の時代を生き、主家である細川家に四代にわたって仕えた筆頭家老、松井興長(まつい おきなが、1582-1661)の生涯とその多岐にわたる功績を、現存する史料に基づき徹底的に解明するものである 1 。彼の名は、単に忠義を尽くした家臣として記憶されるに留まらない。関ヶ原合戦や島原の乱といった歴史的事件における武功、藩の存亡の危機を救った政治的手腕、そして宮本武蔵の才能を見出し後世にその名を伝える礎を築いた文化的慧眼は、彼が「最強の家老」と称されるにふさわしいことを物語っている 4 。
興長の人物像は、勇猛な武士、冷静な政治家、そして文化の庇護者という、一見すると異なる複数の側面から構成される。本報告書では、これらの側面が彼の生涯において如何にして形成され、互いに影響を及ぼし合いながら、細川藩、ひいては日本の近世史に確かな足跡を遺したのかを多角的に分析する。
西暦 |
和暦 |
興長の年齢 |
主要な出来事 |
関連人物・場所 |
1582年 |
天正10年 |
0歳 |
松井康之の次男として誕生 1 。 |
松井康之 |
1593年 |
文禄2年 |
12歳 |
兄・興之が朝鮮出兵で戦死し、後継者となる 6 。 |
松井興之 |
1600年 |
慶長5年 |
19歳 |
関ヶ原合戦に従軍。岐阜城攻めで負傷する(初陣) 2 。 |
細川忠興、岐阜城 |
(不詳) |
慶長年間 |
- |
忠興の娘・古保を正室に迎え、長岡姓を賜る 8 。 |
細川忠興、古保 |
1611年 |
慶長16年 |
30歳 |
父・康之から家督を相続する 7 。 |
松井康之 |
1632年 |
寛永9年 |
51歳 |
細川家の肥後熊本への転封に伴い、玉名・合志郡に3万石を与えられる 11 。 |
肥後国(熊本) |
1637年 |
寛永14年 |
56歳 |
島原の乱に細川軍の指揮官として出陣。陣中で宮本武蔵と交流する 11 。 |
宮本武蔵、原城 |
1640年 |
寛永17年 |
59歳 |
興長の尽力により、宮本武蔵が客分として熊本藩に招聘される 12 。 |
細川忠利、宮本武蔵 |
1646年 |
正保3年 |
65歳 |
主君・細川忠興の死後、八代城を預かり城主となる 1 。 |
八代城 |
1649年 |
慶安2年 |
68歳 |
藩主・光尚の早逝後、幼君・綱利の家督相続に際し、藩の改易回避に奔走する 16 。 |
細川光尚、細川綱利 |
1660年頃 |
万治3年頃 |
79歳 |
藩主・綱利の素行を諌めるため、5メートルに及ぶ諫言状を送る 3 。 |
細川綱利 |
1661年 |
寛文元年 |
80歳 |
八代にて死去。享年80 1 。 |
八代、春光寺 |
松井興長の生涯を理解する上で、彼がその礎の上に立った父・康之の功績と、細川家との間に築かれた特異な関係性を抜きにして語ることはできない。それは単なる主従関係を超え、血縁と信頼によって固く結ばれた運命共同体であった。
興長の父・松井康之(1550-1612)は、室町幕府13代将軍・足利義輝に仕えた後、義輝の死を機に細川藤孝(幽斎)の家臣となった人物である 3 。康之は文武に秀で、特に細川家が窮地に陥った際にその才覚を遺憾なく発揮し、藤孝、そしてその子・忠興から絶大な信頼を得た。その忠誠心と能力の高さは、豊臣秀吉が康之を直参大名として取り立てようとした際に、細川家への忠義を貫いてこれを辞退したという逸話にも象徴されている 4 。この逸話は、松井家に代々受け継がれる忠節の精神の源流を示すものである。
この信頼をさらに強固なものにしたのが、婚姻政策であった。藤孝は、康之の才能を自らの手元に永く繋ぎ止めるため、妻・麝香の姪にあたる沼田光長の娘を養女とし、康之に娶せた 6 。これにより、康之は単なる家臣ではなく、主君の縁者という一門に準ずる特別な地位を確立した。この戦略的な婚姻は、松井家が細川家の内情に深く関与し、その権威を背景に家臣団の中で重きをなす基盤となった。
松井興長は、天正十年(1582年)、父・康之の次男として生を受けた 1 。本来であれば家督を継ぐ立場ではなかったが、兄・興之(与八郎)が文禄の役(朝鮮出兵)において若くして戦死したため、興長が松井家の後継者となった 6 。
父・康之が築いた細川家との特別な関係は、興長の代でさらに深化する。関ヶ原合戦での功績が認められた興長は、主君・細川忠興からその娘である古保(こほ)姫を正室として与えられた 8 。父・康之が藤孝の養女を、子・興長が忠興の実の娘を娶るという二代にわたる主家との婚姻は、松井家が細川家の「外戚」として、藩政の中枢で極めて重要な役割を担うことを公に示すものであった。この婚姻は、興長の生涯にわたる活躍の正当性を担保する「公的なお墨付き」となり、後の大胆な藩政への介入や主君への諫言を可能にする権威の源泉となったのである。
さらに興長は、この功績により細川家の本姓である「長岡」を名乗ることを許され、「長岡佐渡守」を称した 7 。これは、彼が家臣という身分でありながら、一門と同格の待遇を受けていたことを明確に示している。
細川家 |
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松井家 |
細川藤孝(幽斎) |
―正室― |
沼田麝香 |
│ |
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(沼田光兼の娘) |
│ |
(姪) |
│ |
細川忠興 |
沼田光長の娘(藤孝養女) |
―正室― |
│ |
│ |
(藤孝家臣) |
│(娘) |
│ |
│ |
古保姫 |
―正室― |
松井興長 |
│ |
|
(康之次男) |
│(六男) |
|
│ |
細川寄之 |
―養子― |
(興長養子、後の松井家三代) |
この系図が示すように、松井家と細川家の関係は、単なる主従のそれを超えた、血縁による強固なネットワークによって支えられていた。この盤石な信頼関係こそが、興長が「最強の家老」としてその生涯を全うするための最大の資産であった。
松井興長のキャリアは、戦国の遺風が色濃く残る戦場での武勇から始まった。しかし、彼の真価は単なる個人の武勇に留まらず、時代の変化と共に、大軍を率いる指揮官、そして冷静な戦略家へとその能力を進化させていった点にある。
慶長五年(1600年)、徳川家康が上杉景勝討伐のため会津へ軍を進めると、細川忠興もこれに従った。当時19歳の興長も忠興の配下として従軍し、これが彼の初陣となった 8 。しかし、一行が下野国小山に至ったところで石田三成挙兵の報が入り、東西両軍による天下分け目の戦い、関ヶ原合戦の火蓋が切られる。
東軍に与した忠興らは、西へ反転し、西軍の織田秀信が守る岐阜城の攻略に参加した。興長はこの岐阜城攻めで奮戦し、武功を挙げたものの、その際に負傷を負った 2 。松井家に伝わる史料『関ヶ原表高名覚書』によれば、この時の傷が原因で、9月15日の関ヶ原本戦には参加できなかったことが確認されている 9 。一方で、国元に残った父・康之は、忠興の飛び地であった豊後杵築城を預かり、旧領回復を目指す西軍の大友義統の猛攻を、わずかな兵で耐え抜いた。そして救援に駆けつけた黒田如水(官兵衛)の軍勢と合流し、石垣原の戦いで大友軍を破るという大功を挙げている 19 。この父子の働きは、戦後の細川家の地位を盤石なものとし、豊前小倉39万9千石への大加増に繋がる重要な布石となった。
関ヶ原から37年後の寛永十四年(1637年)、九州を揺るがす大規模な一揆「島原の乱」が勃発する。この時、興長は56歳。もはや若武者ではなく、細川藩の筆頭家老として、また一軍を率いる大将としてこの鎮圧戦に臨んだ 5 。
彼の役割は、最前線での戦闘指揮に留まらなかった。細川軍は幕府軍の中核として、一揆勢が立てこもる原城への総攻撃に参加したが、その中で興長は幕府の上使(総大将代理)や、鍋島家など他藩との間の連絡・調整役という重要な政治的役割を担ったことがうかがえる 21 。これは、父・康之の代から培われた幕府の重臣たちとの人脈と、興長自身の冷静な判断力が高く評価されていたことの証左である。
しかし、この戦いはキリシタンを含む多くの農民を殺戮するという悲劇的な側面も持っていた。興長は原城への総攻撃にも参加しており、この凄惨な弾圧の実行者の一人として、その歴史的責任から逃れることはできない 22 。この経験が、後の彼の統治思想や人間性にどのような影響を与えたかは想像に難くない。
関ヶ原での個人的武勇と、島原での組織を動かす政治的・戦略的手腕。この二つの戦いは、興長が一個の武士から、藩という巨大な組織を動かす経営者へと成長を遂げた軌跡を明確に示している。
戦乱の時代が終わり、幕藩体制が安定期に入ると、武士に求められる能力は戦場での武勇から、領地を治める行政手腕へと移行した。松井興長は、この時代の要請に見事に応え、肥後八代城主として、また細川藩の「後見人」として、その真価を発揮することになる。
寛永九年(1632年)、二代将軍・徳川秀忠の死後、細川家は豊前小倉から、加藤忠広改易後の肥後熊本54万石へと転封された。この国替えに伴い、興長は筆頭家老として玉名郡・合志郡内に3万石という、大名に匹敵する知行を与えられた 11 。
そして、興長のキャリアにおける最大の転機が訪れる。正保二年(1645年)に藩主・忠利の嫡子・光尚が、そして同年末に隠居していた大御所・忠興(三斎)が相次いで世を去った。これを受け、幕府は肥後統治の要衝であり、一国一城令の例外として存続が認められていた八代城の守衛として、興長を指名した 1 。これは事実上の城主就任であり、以後、松井家は明治維新に至るまで220年以上にわたり八代を治める「八代の殿様」として君臨することになる 14 。松井家は3万石の知行に加え、将軍への御目見や独自の参勤が許されるなど、藩内の一家老でありながら、幕府からは支藩の大名に準じる破格の待遇を受けた 24 。これは、松井家が細川藩の安定を支える重要な存在として、幕府からも公認されていたことを意味する。
八代城主となった興長は、球磨川河口域での大規模な干拓事業を推進するなど、領地経営に優れた手腕を発揮した 14 。しかし、彼が藩政において果たした最大の功績は、細川家を存亡の危機から救ったことにある。
慶安二年(1649年)、藩主・細川光尚が31歳の若さで急逝。跡を継いだのは、わずか6歳の嫡男・六丸(後の綱利)であった。当時は、幼君の家督相続を認めず、大名の領地を没収(改易)する幕府の方針が厳格に運用されていた時代であり、54万石の細川家も改易、もしくは大幅な減封(領地削減)の危機に瀕した 16 。
この国家存亡の危機に際し、筆頭家老として藩政を預かっていた興長は迅速に動いた。彼は、先代藩主・忠利の義兄にあたる縁戚の小倉藩主・小笠原忠真に密かに連絡を取り、細川家の存続のために幕府へ働きかけてくれるよう支援を要請した 16 。この興長の機敏な外交交渉が功を奏し、小笠原家の後押しもあって、幕府は綱利の家督相続を承認。細川家は最大の危機を乗り越えることができた。この一件は、興長が単なる行政官ではなく、藩の運命を左右する決断を下せる、卓越した政治家であったことを証明している。
興長の人柄と、主家に対する責任感の強さを最も象徴するのが、若き藩主・綱利に向けられた諫言の逸話である 5 。無事に家督を継いだ綱利であったが、若さゆえか、江戸で当時流行していた相撲に熱中し、藩の財政を顧みずに力士を召し抱えるなど、藩主としてあるまじき振る舞いが目立つようになった。
これを知った79歳の興長は、病身を押して筆を執る。そして、10日もの歳月をかけて、長さが五メートルにも及ぶ長大な手紙を書き上げ、江戸の綱利に送りつけた 3 。その手紙は、単なる説教ではない。「誰も言わないから、老い先短い自分が言います」という悲壮な覚悟から始まり、「細川家の藩主として、いかにあるべきか」という帝王学が、古今の故事を引用しながら、あの手この手で切々と綴られていた 17 。これは、主君への絶対的な忠誠心と、藩の将来を憂う深い愛情がなければ到底できない行為であった。この諫言状は、興長が自らを藩の「後見人」と任じ、その責任を全うしようとした、彼の生涯を貫く矜持の究極的な発露であったと言えよう。
松井興長の名は、政治史や軍事史だけでなく、文化史においても特筆すべき足跡を遺している。その中心にあるのが、天下無双の剣豪として知られる宮本武蔵との深い交友関係である。興長の存在なくして、今日我々が知る宮本武蔵の姿はなかったかもしれない。
興長と宮本武蔵の最初の接点は、武蔵の伝記によれば、豊前小倉藩時代に行われた佐々木小次郎との「巌流島の決闘」に、興長が後見人の一人として関わったことに遡るとされる 11 。確実な史料として二人の関係が確認できるのは、島原の乱の陣中である。興長は、小倉藩の客将として参陣していた武蔵に贈り物をするなど、旧知の仲として親交を深めていた。このことは、乱の後に武蔵が興長に宛てた礼状からも明らかである 12 。
乱の後、全国を放浪し仕官先を探していた武蔵は、旧知の興長を頼って肥後を訪れる。寛永十七年(1640年)、武蔵が興長に宛てた直筆の書状が現存しており、その文面には「こちら(肥後)に来たので、お目にかかりたい」という面会の希望が記されている 13 。これは、事実上の「就職依頼」であったと見られている。
この申し出に対し、興長は迅速かつ誠実に対応した。彼の尽力により、武蔵は藩主・細川忠利の「客分」として、当初の扶持米からすぐに三百石という破格の待遇で熊本藩に迎え入れられることとなった 12 。一介の浪人でしかなかった武蔵に対し、これほどの厚遇が実現したのは、興長が武蔵の持つ兵法家としての価値を正しく見抜き、主君に強く推薦したからに他ならない。
熊本に迎えられた武蔵であったが、すでに高齢で病がちであった。興長と、その養子であり忠興の実子でもある寄之は、この晩年の武蔵を手厚く庇護した 12 。武蔵の世話をするために家臣を付け、武蔵の弟子たちを松井家の家臣として召し抱えるなど、その生活を全面的に支えた。この松井親子の配慮に対し、武蔵の養子で小倉藩家老であった宮本伊織が、丁重な礼状を送っていることからも、その関係の深さがうかがえる 12 。
この安定した環境と、興長らの深い理解があったからこそ、武蔵は兵法家としての思索に専念し、死の直前に不朽の名著『五輪書』を完成させることができた。武蔵の死後、興長らはその遺志を尊重し、弟子たちの面倒を見続け、八代に引き取った 13 。この結果、武蔵が巌流島で用いたとされる木刀を自ら模して作った作品や、優れた水墨画など、数多くの武蔵ゆかりの遺品や美術品が、八代の松井家に遺されることとなったのである 12 。
興長の武蔵への後援がもたらした影響は、これに留まらない。今日、我々が抱く「剣豪・宮本武蔵」の具体的なイメージは、その多くが吉川英治の小説『宮本武蔵』に由来するが、その小説の重要な典拠となったのが、八代の松井家家臣、豊田景英らによって編纂された武蔵の伝記『武公傳』や『二天記』であった 12 。
松井家とその家臣団が、武蔵の言行録や逸話を丹念に記録・保存し、伝記として編纂しなければ、武蔵は一介の剣術家として、その実像の多くが歴史の闇に埋もれていた可能性が高い。興長の個人的な関心から始まった武蔵への支援は、意図せずして、武蔵という人物を日本の国民的英雄へと昇華させる、文化史上の重要な「触媒」の役割を果たした。「八代は宮本武蔵のイメージが生まれた地」と評される所以である 13 。
八十年の長きにわたる生涯を通じて、主家を守り、文化を育んだ松井興長。彼の晩年は、自らが築き上げた盤石な基盤を次代へといかに継承するかに捧げられた。そして彼が遺したものは、物理的な財産だけでなく、後世の我々が歴史を知るための貴重な「情報」そのものであった。
興長には実子がいなかったため、主君・細川忠興の六男である寄之を養子に迎え、松井家の家督を継がせた 7 。これは、松井家と細川家の血縁をさらに強固にし、藩内における松井家の地位を永続的なものにするための、興長の最後の深謀遠慮であった。
藩主への諫言という大役を果たし、自らの責務を全うした興長は、万治四年(寛文元年、1661年)、八代城にて80年の生涯に静かに幕を閉じた 1 。その墓所は、八代市古麓町にある松井家の菩提寺・春光寺にあり、その墓碑には彼の法名「智海院殿前佐州太守 松雲宗閑大居士」が刻まれている 18 。
興長の死後、その人物を偲ぶ数々の遺産が後世に伝えられた。その一つが、彼の肖像画である 30 。興長の三回忌に際して養子・寄之が描かせたこの肖像画には、三代将軍・徳川家光から拝領したと伝わる「緋黒羅紗段替陣羽織」を纏った興長の姿が描かれている。そしてその背後には、父・康之が豊臣秀吉から拝領したと伝わる兜が置かれている 30 。これは単なる記念の肖像画ではない。豊臣と徳川という、当代最高の二つの権威から認められた松井家の「家格」を視覚的に表現し、その栄誉を後世に伝えるための、極めて政治的な意図を持った作品である。
興長をはじめとする松井家代々が遺した最大の遺産は、八代市立博物館未来の森ミュージアムや松井文庫に収蔵されている、膨大な古文書群「松井家文書」であろう 10 。戦国時代末期から明治に至るまでの約300年間にわたるこれらの記録は、細川家の公式記録である「永青文庫」と相まって、肥後藩政史研究における第一級の史料となっている 33 。武人でありながら、記録と文化を重んじた興長らの知性がなければ、本報告書で論じたような興長の詳細な人物像や、宮本武蔵の晩年の実像を再構築することは不可能であった。
また、松井家が築いた御茶屋「松浜軒」は、現在も国指定の名勝としてその優美な姿を保ち、興長の時代の気風を今に伝えている 14 。興長の遺産とは、建造物や美術品に留まらず、歴史そのものを後世に伝える「知のインフラ」そのものであったと言える。
松井興長の80年の生涯は、戦国の遺風が残る乱世の終焉から、盤石な徳川幕藩体制が確立される時代への、大きな過渡期と完全に重なる。彼は、武勇を以て名を上げる武士としてそのキャリアをスタートさせ、やがて藩の存亡を双肩に担う政治家・経営者へと、時代の要請に応じて自己を変革させていった。
彼が「最強の家老」と称される所以は、何か一つの能力が突出していたからではない。それは、
これら全ての要素を、極めて高いレベルで兼ね備えていた点にある。興長は、江戸初期における「理想の家老像」を、その生涯を以て体現した人物と言える。彼の生き様は、激動の時代において、一個人がいかにして組織(藩)を守り、発展させていくかという、現代にも通じる普遍的な問いに対する、一つの優れた解答を示している。松井興長の存在は、細川家の歴史を語る上で不可欠であることはもちろん、日本の近世武家社会の構造と、そこに生きた人々の精神性を理解する上で、欠くことのできない重要な事例なのである。