戦国時代の歴史を彩る数多の武将の中で、島左近(清興)は際立った存在感を放つ。石田三成に「三成に過ぎたるもの」とまで言わしめたその智勇は、今なお多くの人々を魅了してやまない。しかし、その左近と「右近左近」として対で語られながら、歴史の深い霧に包まれている人物がいる。本報告書の主題である、松倉右近重信その人である 1 。
一般に、松倉右近は島左近、森好之とともに「筒井家三老臣」の一人に数えられ、主君・筒井順慶を支えた重臣として知られている 3 。この肩書は、彼が筒井家の中核を担う重要な存在であったことを強く示唆する。だが、その具体的な活動を伝える信頼性の高い同時代の史料は驚くほど少なく、特に同僚であった島左近の華々しい伝説と比較した場合、その記録の乏しさは際立っている 5 。この「伝説」と「記録」の間に横たわる深い溝こそが、松倉右近という人物を理解する上での出発点となる。
本報告書は、この謎多き武将、松倉右近重信の実像に多角的な視点から光を当てることを目的とする。まず、筒井家臣としての右近の姿を、信頼性の高い史料に基づいて再構築する。次に、主家の転封という時代の大きな転換点において彼が下した選択を分析し、その人物像を浮き彫りにする。さらに、彼の生涯における最大の謎である「没年問題」を徹底的に考証し、最後に、彼の血を受け継いだ息子・松倉重政が辿った栄光と破滅の軌跡を追う。これらを通じて、一人の武将、そして松倉一族の歴史的意義を深く論じていく。
松倉氏の起源については、藤原姓あるいは橘姓ともいわれ、その祖は元来、越中の出身であったと伝わる 6 。嘉吉年間(1441年~1444年)に大和国へ移り住み、筒井氏に仕えるようになったとされる 6 。その本拠地は、大和国添上郡横田(現在の大和郡山市横田町)にあり、この地は中世の典型的な防御集落である環濠集落としての機能を有していた 7 。この事実は、松倉氏が単なる主君に従属する家臣というだけでなく、在地に深く根を張り、独自の勢力基盤を持つ国人領主としての一面を併せ持っていたことを示唆している。
右近の実名は、一般に「重信(しげのぶ)」と伝えられるが、史料によっては「勝重(かつしげ)」とも記される 1 。さらに、同時代の一次史料、特に興福寺多聞院の僧侶が記した貴重な日記『多聞院日記』などでは、「松蔵」という表記が用いられている 5 。これは、当時の武家社会において通称や官途名が実名以上に通用していたことの証左であり、史料を追う上で留意すべき重要な点である。
右近は、筒井家において極めて高い地位を占めていた。島清興(左近)、森好之(志摩守)と共に「筒井家三老臣」と称されるほどの宿老であり、その中でも特に島左近と並び称されることが多かった 3 。彼の父は松蔵権助秀政と見られており、父の代から筒井家の中枢を担ってきた譜代の家臣であった可能性が高い 9 。永禄2年(1559年)以来、筒井家は畿内に覇を唱える松永久秀と熾烈な抗争を繰り広げていたが、その過程で松倉一族も大きな犠牲を払っている。永禄13年(1570年)には、松永氏に人質として預けられていた右近の11歳の弟が殺害されるという悲劇に見舞われた 9 。このような過酷な時代背景が、彼の武将としての人間形成に大きな影響を与えたことは想像に難くない。
松倉右近の名が語られる際、必ずと言ってよいほど引き合いに出されるのが、島左近との「右近左近」という対の呼称である。二人は「筒井家の両翼」と称えられ、その武勇は敵方からも恐れられていたと伝わる 1 。この呼称は、二人が筒井順慶を軍事と政治の両面から支える、盤石な家臣団体制を象徴する言葉として、後世の軍記物などで好んで用いられた 5 。
しかし、この華々しい伝説とは裏腹に、信頼性の高い一次史料において、二人が具体的な軍事作戦や戦略会議で共闘したことを示す記録は、実のところ皆無に等しい。二人の名が揃って登場する数少ない確かな史料が、『多聞院日記』が記す天正12年(1584年)10月の主君・筒井順慶の葬儀の場面である 5 。この記録によれば、右近は葬儀において千人の僧侶が経典を分担して読誦する「千部経」の催しを差配したとある 5 。これは、彼が勇猛な武将としてだけでなく、大規模な儀礼を取り仕切る優れた行政官僚としての一面を持っていたことを物語っている。
この事実から浮かび上がるのは、「右近左近」という呼称の持つパラドックスである。島左近の歴史的名声は、その多くが筒井家を離れた後、石田三成の家臣として関ヶ原の戦いなどで見せた獅子奮迅の働きに由来する。一方で、松倉右近の確かな記録は、葬儀の差配や領地の統治といった、より内向きで地道な行政活動に関連するものが多い。この非対称性から考察すると、「右近左近」という呼称は、二人が常に対等なパートナーシップで共闘していたという史実そのものを反映するというよりは、むしろ後世の軍記作者などが、筒井家の全盛期を象徴する分かりやすい物語的効果を狙って用いた、修辞的な表現であった可能性が高いと考えられる。したがって、松倉右近の人物像を捉える際には、伝説上の「勇将」というイメージに囚われることなく、むしろ筒井家の屋台骨を支えた「能吏」としての側面を強く評価する必要があるだろう。
こうした視点から、右近にまつわる有名な逸話を再検討することも重要である。天正10年(1582年)の本能寺の変に際し、主君・順慶に明智光秀と羽柴秀吉のどちらに味方すべきか態度を保留するよう進言した、いわゆる「洞ヶ峠の日和見」を献策したのが右近である、という逸話が広く知られている 9 。しかし、この話は江戸時代に成立した軍記物などによる創作である可能性が極めて高く、史実とは考え難いとする見方が有力である 9 。このような逸話は、順慶の優柔不断さを強調する文脈で語られることが多いが、そこに重臣である右近を登場させることで、物語に深みと具体性を与える効果があった。伝説と史実を峻別し、一次史料に基づいた客観的な評価を下すことが、右近の実像に迫るための不可欠な作業となる。
天正12年(1584年)に主君・順慶が病没すると、その養子であった筒井定次が家督を継承した 14 。しかし、その翌年の天正13年(1585年)閏8月、筒井家は豊臣秀吉から突如として、長年の本拠地であった大和郡山から伊賀上野への転封を命じられる 14 。これは、秀吉が実弟である豊臣秀長を大和・和泉・紀伊百万石の国主として郡山城に据え、畿内を豊臣一門で固めるという、天下統一政策の一環であった 14 。表向きは伊賀一国を与えられる栄転のようにも見えるが、実態は、大和という政治的・経済的に重要な地から遠ざけられる事実上の左遷であり、筒井家にとってはまさに青天の霹靂であった。
この転封は、大和の地に深く根を張ってきた筒井家臣団に大きな衝撃と動揺をもたらした。新当主・筒井定次の器量に対する不満や、定次が新たに寵愛し始めた中坊秀祐ら新参の家臣たちの専横も相まって、順慶の代から家を支えてきた譜代の有力家臣たちが次々と離反するという、深刻な事態を招くことになる 16 。
その筆頭が島左近であった。彼は灌漑用水を巡る争いにおいて定次が下した裁定に憤慨し、筒井家を去ったと伝えられる 16 。故郷の大和を離れた左近は、蒲生氏郷や豊臣秀長らに一時仕えた後、石田三成に所領の半分にあたる二万石という破格の待遇で迎えられ、その名を天下に轟かせることになる 19 。また、三老臣の一人であった森好之(森志摩守)もまた筒井家を離れ、故郷の大和へ戻り帰農したと伝えられている 14 。
このような家臣団の崩壊ともいえる状況下で、松倉右近は彼らとは全く異なる道を選択した。彼は、斜陽の主家を見限ることなく、主君・定次に従って伊賀の地へ移るという、忠臣としての道を選んだのである 14 。この行動は、彼の旧来の主家に対する忠誠心の厚さ、そして時代の大きな変化の波に抗うかのような、古風な武士としての矜持を示すものとして高く評価できよう。
伊賀の地に移った松倉右近は、筆頭重臣としてその忠義に報いられた。定次は伊賀上野に本城を構える一方、南伊賀の要衝である名張の地に右近を配置し、8千石から8千3百石の知行を与えた 3 。右近はこの地に新たに名張城を築城し、その城主となった 22 。この城の縄張り(設計)は、当時まだ若かった息子・重政が担当したという説も伝わっており、これが事実であれば、重政のキャリアの初期における重要な経験であったといえる 22 。
伊賀国は、天正伊賀の乱で織田信長による徹底的な掃討作戦が行われた後も、依然として在地勢力の抵抗が根強い土地であった。右近は、この統治の難しい名張の地を任されることで、定次の伊賀統治を軍事・行政の両面から支える、極めて重要な役割を担ったのである 14 。
筒井家の危機という重大な岐路において、「三老臣」と称された三者がいかに異なる道を選んだかを比較することは、松倉右近という人物の特異な立ち位置を理解する上で非常に有益である。
表1:筒井家三老臣の動向比較
武将名 |
知行(推定) |
伊賀転封への対応 |
筒井家退去後の動向 |
特記事項 |
松倉右近重信 |
8,300石 3 |
主君・定次へ随行 |
伊賀にて没したと推定される |
息子・重政が後に大名へ出世 24 |
島左近清興 |
7,000石以上 10 |
筒井家を離反 |
石田三成家臣として活躍 |
石田三成に「三成に過ぎたるもの」と称された |
森志摩守好之 |
7,000石 10 |
筒井家を離反 |
大和へ帰国後、帰農 14 |
筒井順昭の義弟という親族関係 10 |
この表が示すように、島左近と森好之がそれぞれ新たな道を求めて筒井家を去ったのに対し、松倉右近のみが最後まで主家と運命を共にしようとした。この選択は、彼の人物像を「忠臣」として際立たせると同時に、なぜ彼の息子・重政が、父とは全く異なる、野心的な上昇志向の道を歩むことになったのか、という次なる問いを我々に投げかけるのである。
松倉右近の生涯を追う上で、避けては通れない最大の難問が、彼の没年に関する問題である。複数の史料が異なる年を記しており、その特定は長らく歴史家の頭を悩ませてきた。この謎を解き明かすことは、単なる日付の確定に留まらず、彼の生涯の再評価、ひいては息子・重政の独立の経緯を理解する上で決定的な意味を持つ。
松倉右近の没年については、大きく分けて二つの説が存在する。
一つは 天正十四年(1586年)説 である。これは『和州諸将軍傳』といった後世に編纂された軍記物や地誌などに散見される説である 5 。この説に従うならば、右近は筒井家と共に伊賀へ転封した翌年には、早くもこの世を去っていたことになる。この場合、息子・重政は父の死後、速やかに家督を継ぎ、その後筒井家を離れたという、比較的単純な継承の物語が想定される。
もう一つは 文禄二年(1593年)説 である。これもまた、複数の文献で伝えられており、天正十四年説と並んで有力な説の一つとされてきた 9 。この説を採る場合、右近は伊賀に移ってから約8年間生存していたことになり、筒井家の伊賀統治が安定していく過程や、家臣団の再編などを目の当たりにしていた可能性が出てくる。
これら二つの説が並立し、混乱を招いていた状況に、決定的な一石を投じたのが、同時代の記録として最も信頼性の高い一次史料の一つである『多聞院日記』の記述であった。
興福寺多聞院の英俊が記したこの日記の 天正十七年(1589年)六月六日条 に、以下のような一文が存在する。
「松蔵右近煩大事云々」 5
これは、「松蔵右近(松倉右近)が重い病気であると聞いた」という意味であり、天正17年6月の時点で、彼が伊賀の地で存命していたことを明確に示している。この記述は、噂話の聞き書きとはいえ、同時代人の記録として極めて高い史料的価値を持つ。
この『多聞院日記』の記録は、天正十四年(1586年)に右近が没したとする説を、史料的に完全に否定するものである。これにより、後世の編纂物である『和州諸将軍傳』などが記す天正十四年没という情報は、何らかの誤伝に基づくものであると結論付けられる。この発見は、単なる日付の修正以上の意味を持つ。それは、右近の生涯を少なくとも3年以上延長させることであり、彼が主家・筒井家の伊賀における苦難の時代を、より長く経験したことを意味するからである。
『多聞院日記』の記述によって、松倉右近が少なくとも天正十七年(1589年)までは生存していたことが確実となった。この事実を踏まえると、もう一つの説である文禄二年(1593年)没という説は、この確実な情報と何ら矛盾しない。したがって、現時点の史料状況においては、 文禄二年(1593年)説が最も蓋然性の高い説 であると結論付けることができる 9 。
右近の没年が、これまで定説の一つとされてきた天正十四年よりも大幅に後年に修正されることで、彼の生涯、そして息子・重政のキャリア初期の物語は、大きくその姿を変えることになる。
もし右近が天正十四年に早世していたのであれば、当時まだ13歳であった重政が直ちに家督を継ぎ、筒井家から独立への道を歩み始めたとは考えにくい。しかし、父・右近が文禄二年まで存命していたとすれば、重政が青年期に達するまで父の庇護の下にあったことになる。そして、彼が筒井家を離れ、豊臣家の直臣となる道を選択したのは 7 、父の死後、家督を継いでからであった可能性が高まる。
これは、「父の早すぎる死によって、若くして苦難の道を歩んだ息子」という物語ではなく、「父が築いた伊賀での地盤と忠臣としての名声を背景に、父の死を契機として、息子が自らの判断で新たな時代を生き抜くための、より能動的で戦略的な選択をした」という、より複雑で深みのある人間ドラマを浮かび上がらせる。歴史の霧が晴れた先に現れたのは、父から子へと受け継がれる時代のバトンと、それぞれの世代が下した決断の重みなのである。
父・右近が忠義を尽くした筒井家は、主君・定次の代に改易され、歴史の表舞台から姿を消す。しかし、松倉家の物語はそこで終わらなかった。右近の嫡男・重政の手によって、一族はかつての主家をも凌ぐ栄光を掴み、そして日本史上類を見ないほどの壮絶な破滅へと突き進んでいくことになる。
天正2年(1574年)生まれの松倉豊後守重政は、父・右近の死後、あるいはその晩年から、もはや斜陽の主家である筒井氏に見切りをつけ、新たな道を模索し始める 7 。彼は父のように伊賀の地に留まることなく、大和に戻り、天下人・豊臣秀吉の直臣となることを選んだ 24 。これは、旧来の主従関係に固執した父とは全く対照的な、時代の変化を鋭敏に捉えた行動であった。
重政の先見の明が最も顕著に現れたのが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおける選択である。彼の旧主・筒井定次は西軍に与したが、重政は徳川家康率いる東軍に与することを決断。一説には単身で家康のもとに馳せ参じたともいわれ、その功績を高く評価された 24 。この行動は、彼がもはや地域に根差した封建的な主従関係に縛られることなく、中央の政局を的確に見極め、新たな天下人に自らの未来を賭けるという、新時代の武将の生存戦略を完全に体得していたことを示している。
ここに、父子の生き方の鮮やかな対比を見ることができる。父・右近は、不利な状況にあっても主君への忠義を貫き、滅びゆく主家と運命を共にする「戦国武士」の価値観を体現した。対照的に、息子・重政は、衰退する旧主を見限り、上昇志向の強い新興勢力(豊臣、そして徳川)に乗り換えることで、自らの立身出世を追求する「近世大名」のプロトタイプであった。この父子の生き方の違いは、単なる個人の性格差に留まらない。それは、主従の絆が絶対であった「戦国時代」から、中央集権的な幕藩体制下で実力と処世術が問われる「江戸時代」へと移行する、時代の大きな価値観の断層そのものを象徴しているのである。
関ヶ原の戦功により、重政は徳川家康から大和国宇智郡に一万石の所領を与えられ、ついに大名の仲間入りを果たした 7 。彼は本拠地として五條に二見城を築き、城下町(現在の五條新町)の整備に着手する。特筆すべきは、彼がこの地で敷いた善政である。商業を振興するために「諸役免許(税の免除)」を実施し、多くの商人を呼び寄せて町を大いに発展させた 7 。この功績により、重政は領民から「豊後様(ぶごさま)」と敬愛を込めて呼ばれ、後世に至るまで名君として語り継がれることになる 24 。この時期の彼は、統治能力に優れた有能な領主であった。
しかし、彼の運命は、大坂の陣での武功が認められ、肥前日野江(島原)四万三千石へと大幅に加増転封されたことで、大きく暗転する 24 。この栄転が、彼の内面に潜んでいた悪魔を呼び覚ますことになった。
新たな領地で彼を駆り立てたのは、元は小大名の家臣であったという出自への劣等感からくる、過剰なまでの「虚栄心」であったと分析されている 27 。彼はそのコンプレックスを払拭し、幕府に対して自らの忠誠心と存在価値を誇示するため、常軌を逸した行動を繰り返す。まず、わずか四万石余りの禄高には全く見合わない、壮麗な五層の天守を持つ島原城の築城を開始 27 。その莫大な費用を捻出するため、領民に「人頭税」をはじめとする過酷な年貢を課し、容赦ない搾取を行った 24 。さらに、幕府の禁教政策に積極的に協力する姿勢を示すため、徹底的なキリシタン弾圧を開始。雲仙地獄の熱湯を用いた残忍な拷問・処刑を行うなど、その手法はあまりにも苛烈を極めた 7 。五條での「名君」の姿はそこにはなく、彼は完全な「暴君」へと変貌してしまったのである。
重政の野心は留まるところを知らなかった。彼はさらなる功名を求め、キリシタンの根拠地であるルソン(フィリピン)への海外遠征を幕府に献策し、その準備を進める。しかし、その計画が実行に移される直前の寛永7年(1630年)、彼は遠征の拠点であった小浜温泉で急死した 24 。その死因については暗殺説も囁かれている。
父・重政の圧政と負の遺産は、嫡男・松倉勝家へとそのまま引き継がれた。勝家は父以上の悪政を敷き、領民の不満と絶望はついに限界点に達する。寛永14年(1637年)、ついに日本史上最大規模の一揆である「島原の乱」が勃発した 7 。
この大乱の鎮圧後、松倉家はその元凶として幕府から厳しく断罪され、領地は没収(改易)された。そして当主・勝家は、武士としての名誉ある切腹すら許されず、大名としては江戸時代を通じて唯一の「斬首刑」に処されるという、最も不名誉な形でその生涯を終えたのである 7 。
忠臣として主家と運命を共にし、歴史の表舞台から静かに消えていった父・右近。一方で、飽くなき野心に駆られ、新たな時代を駆け上がった末に、一族を未曾有の破滅に導いた息子・重政。このあまりにも対照的な父子の結末を以て、筒井家の家臣から大名へと成り上がった松倉家の歴史は、悲劇的な幕を閉じることとなった。
松倉右近重信は、その生涯の大部分において、二つの強烈な光によって生じた「影」の中にいた人物であったといえる。一つは、同僚として常に比較され、後世に不滅の名声を残した島左近という光。もう一つは、後に歴史に名を(そして悪名を)轟かせることになる息子・重政という光である。これらの光が強ければ強いほど、右近の存在は相対的に地味で、目立たないものとして映る。
しかし、彼の生涯を丹念に追うことで見えてくるのは、単なる無名な武将の姿ではない。彼の生き方は、戦国乱世の価値観、すなわち主家への揺るぎない忠誠を第一とする「旧き武士」の姿を、静かに、しかし雄弁に物語っている。彼は、島左近や息子・重政のように時代の激しい変化の波に乗りこなすのではなく、自らの分をわきまえ、与えられた役割を最後まで誠実に全うしようとした。その結果、彼は歴史の表舞台で脚光を浴びることはなかったが、一族を破滅させることもなかった。
松倉右近の生涯を研究することは、単に一人の武将の伝記を掘り起こす作業に留まらない。それは、彼の忠実な生き方と、息子・重政の野心に満ちた悲劇的な生涯とを対比させることで、戦国から近世へと移行する時代の価値観の劇的な変容、そして人間の忠誠と野心が織りなす普遍的な物語を浮き彫りにする試みなのである。
彼の地味で誠実な「影」を深く理解することによって初めて、松倉一族を包む栄光の光と、破滅の闇の全貌が、真に明らかになるのだ。松倉右近は、その静かな存在によって、我々に歴史の深淵を覗き込ませてくれる、稀有な人物であるといえよう。