最終更新日 2025-07-14

松倉重政

二つの顔を持つ大名 ― 松倉重政の栄光と暴虐の実像

序章:二つの顔を持つ大名、松倉重政

松倉豊後守重政(まつくら ぶんごのかみ しげまさ)。この名を聞いて多くの人々が思い浮かべるのは、おそらく肥前国(現在の長崎県)島原藩の初代藩主として君臨し、苛烈なキリシタン弾圧と過酷な重税によって領民を塗炭の苦しみに陥れ、日本史上最大の一揆である「島原の乱」の主因を作った暴君の姿であろう 1 。その統治は、オランダ商館長やポルトガル船長の記録にも残るほど残忍を極め、彼の名は圧政の象徴として歴史に刻まれている 3

しかし、この人物像は彼の生涯の一側面に過ぎない。驚くべきことに、彼が島原へ移る前に治めた大和国(現在の奈良県)五條の地では、重政は全く正反対の評価を得ている。そこでの彼は、商業を振興し、町の発展の礎を築いた「名君」として、「豊後様」の愛称で今なお慕われているのである 5 。江戸時代には彼に感謝を捧げる「松倉祭り」が行われた記録があり、現代に至ってもその功績を称える顕彰碑が市民の手によって建立されている 4

一人の武将が、なぜ統治する場所と時代によって、これほどまでに毀誉褒貶の激しい、正反対の評価を受けるに至ったのか。この「二つの顔」の間に横たわる深い溝こそ、松倉重政という複雑な人間を理解する上で避けては通れない謎である 7 。本報告書は、彼の出自から戦国の世を渡り歩いた前半生、そして大名としての栄光と破滅に至る後半生まで、その生涯を丹念に追う。史料を基に、彼の行動原理、彼を取り巻く時代の要請、そして彼自身の内面に潜む性格的要因を多角的に分析することで、この極端な二面性の謎に迫り、松倉重政という人物の多面的な実像を解き明かすことを目的とする。

第一章:大和の豪族、筒井家臣としての時代 ― 武将の原点

松倉重政の人物像を理解するためには、まず彼の出自と、武将としての基礎が形成された時代に遡る必要がある。松倉氏は、その祖先を藤原姓あるいは橘姓と伝えられ、もとは越中の出身であったが、嘉吉年間(1441-1444年)に大和国添上郡横田に移り住み、以来、大和の戦国大名である筒井氏に仕えた国人であった 7

重政の武門としての矜持を形成した上で、父・松倉重信(しげのぶ)の存在は無視できない。通称を右近(うこん)と称した重信は、主君・筒井順慶(つつい じゅんけい)の重臣として、かの有名な島左近(しま さこん)こと島清興(しま きよおき)と並び称され、「右近左近」と謳われるほどの有力武将であった 7 。森好之を加えて「筒井家三老臣」の一人に数えられることもあるが、その具体的な活躍を裏付ける確かな一次史料は乏しいのが現状である 11 。それでも、父が主家の中核を担う重臣であったという事実は、若き重政の自負心の源泉となり、後の立身出世への渇望に繋がった可能性は十分に考えられる。

重政は、天正2年(1574年)の生まれとされ 1 、父の跡を継いで筒井家の家臣となった。順慶の死後、その養子である筒井定次(つつい さだつぐ)が天正13年(1585年)に伊賀国(現在の三重県)へ転封されると、重政もこれに従い、伊賀名張の梁瀬城(後の名張城)主として8千石余の所領を与えられた 1 。この時点で彼は、単なる一武将ではなく、一城の主として領地経営の経験を積んでいた。この経験は、彼が後に独立した大名として歩む上での重要な基盤となったであろう。

第二章:乱世を渡る ― 独立と徳川への接近

戦国末期から江戸初期にかけての激動の時代は、武将たちに自らの主君を選択し、家の存続と発展を賭けることを強いた。松倉重政のキャリアは、この時代の流動性を巧みに乗りこなした典型例と言える。

彼の最初の大きな転機は、主家である筒井家からの離脱であった。主君・筒井定次は、家臣団の統制に苦慮し、島左近をはじめとする有力家臣の離反を招くなど、その治世は盤石とは言い難かった 15 。このような状況下で、重政は定次が慶長13年(1608年)に改易されるのを待たずして、筒井家を離れ、天下人である豊臣秀吉の直臣になったとされている 4 。これは、没落しつつある主家に見切りをつけ、中央政権に直接結びつくことで新たな活路を見出そうとした、彼の先見性と強い野心を示す行動であった。この判断は、伝統的な主従関係よりも、実利と将来性を重んじる彼の現実主義的な思考を物語っている。

第二の、そして決定的な転機は、豊臣秀吉の死後に訪れた。天下の趨勢が徳川家康へと傾くのを見るや、重政は機敏に家康へ接近する 1 。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、彼は東軍に味方した。特筆すべきは、多くの史料が彼を「単身参陣」したと記している点である 4 。これが事実であれば、動員できる兵力がなかったのか、あるいは最小限のリスクで自らの忠誠を最大限にアピールするための計算された行動であったのか、いずれにせよ、彼の存在を家康に強く印象付けることに成功した。この機を見るに敏な決断力と、自らを売り込む大胆さこそが、彼の本質であった。

この功績が認められ、重政は戦後、大和国宇智郡五條に1万石を与えられ、ついに念願の大名としての地位を確立した 1 。時代の転換点において、的確な判断で勝ち馬に乗り、自らの価値を証明することに成功したのである。主家を離れ、時の権力者に次々と仕えるその姿は、節操がないと映るかもしれないが、それは家を存続させ、自らを高めるための、乱世を生き抜く合理的な生存戦略に他ならなかった。

第三章:大坂の陣における武功 ― 武人としての頂点

大名となった重政にとって、その武人としての価値を天下に示す最大の機会が、慶長19年(1614年)から元和元年(1615年)にかけて勃発した大坂の陣であった。この戦いにおける彼の活躍は目覚ましく、武将としてのキャリアの頂点であり、後の肥前島原への大栄転を決定づけるものとなった。

慶長19年の冬の陣では、徳川方として参陣し、真田信繁(幸村)が守る真田丸の攻防戦にも加わった記録が残っている 17 。彼の真価が発揮されたのは、翌年の夏の陣においてであった。

元和元年4月、大坂方が豊臣秀頼の命を受け、大野治房を大将として大和国へ侵攻した。彼らが郡山城を襲撃し、奈良に迫った際、大和国内の他の大名が日和見する中、五條二見城主であった重政は迅速に行動を起こした 18 。彼は果敢に出陣し、大和の諸士を糾合しながら大坂方を迎え撃ち、その侵攻を食い止めたのである 18 。この迅速な判断とリーダーシップは、大和国の中心地である奈良を戦火から守る上で決定的な役割を果たし、彼の統治者としての責任感と軍事的能力の高さを示した。

さらに、夏の陣における最大の激戦の一つ、道明寺の戦いでは、重政は徳川方の先鋒部隊として、大坂方屈指の猛将・後藤又兵衛基次が率いる精鋭部隊と小松山で激突した 18 。この戦いは凄惨を極め、松倉隊は後藤隊の猛攻を受けて一時は壊滅しかけるほどの損害を被ったが、水野勝成らの援軍を得てかろうじて持ちこたえた 20 。この死闘の中で、重政自身も危地に陥りながら奮戦し、30余 18 、あるいは53 24 とも伝わる首級を挙げるという大功を立てた。

この大坂の陣における一連の戦功は、幕府から高く評価された。その結果、元和2年(1616年)、彼は大和五條1万石から、一挙に肥前日野江4万3千石へと、4倍以上の加増転封を命じられた 1 。これは、彼が武人として最も輝いた瞬間であり、その後の彼の人生を栄光と悲劇の両面で決定づける、重大な転換点となったのである。

第四章:大和五條藩主としての善政 ―「豊後様」と慕われた名君

島原での暴君というイメージとは対極に、松倉重政が大和五條藩主として見せた姿は、驚くほど有能な為政者のものであった。彼の統治は、後の島原での圧政が能力の欠如によるものではなく、彼の価値観の歪みに起因することを示唆している。

重政が関ヶ原の戦いの功績により五條に入り、二見城主となったのは慶長13年(1608年)のことである 5 。以後、島原に移封されるまでの約8年間、彼はこの地を治めた 5 。1万石という小藩の領主として、彼が統治能力を示す方法は、大規模な軍役や普請ではなく、領国そのものを豊かにし、安定させることにあった。

彼の最大の功績は、城下町の整備と商業の振興である。重政は、既存の二見村と五條村の間にまっすぐな道を通し、その両側に商家を誘致して、全く新しい町「五條新町」を創設した 4 。これは、彼の都市計画家、あるいは町づくりのプロデューサーとしての優れた才能を示すものであった 6

さらに、この新町に商人を集め、経済を活性化させるため、彼は「諸役免許」という画期的な政策を打ち出した。これは、新町の住民に対して、本年貢以外の様々な税や労役(諸役)を免除するというもので、その免許状を町人に公布したことは有名である 5 。初期の税収減というリスクを負ってでも、自由な経済活動を促し、長期的な繁栄を目指すこの政策は、現代の経済特区構想にも通じる合理的なものであった。この施策は見事に成功し、五條は紀伊と大和、そして吉野を結ぶ交通の要衝として、南和地域の商業・経済の中心地として発展する礎が築かれた 6

これらの善政により、重政は領民から深く敬愛され、官位である豊後守にちなんで「豊後様」と呼ばれ、慕われた 4 。彼が島原へ去った後もその人気は衰えず、江戸時代には彼の徳を偲んで「松倉祭り」が催されたという記録が残る 4 。そして平成20年(2008年)、新町創設400年を記念して、彼の功績を称える顕彰碑が新町通りに建立されたことは、彼の善政が時を超えて語り継がれている何よりの証拠である 4 。五條での成功は、重政が領国の実情に即した持続可能な発展モデルを理解し、実行する能力を持っていたことを明確に証明している。

第五章:肥前島原への転封 ― 栄光と破滅の序曲

元和2年(1616年)、大坂の陣における赫々たる武功の恩賞として、松倉重政は肥前国日野江4万3千石への加増転封を命じられた 1 。これは、一万石の小大名から中堅大名への飛躍であり、彼の武将としてのキャリアの頂点であった。しかし、この栄光の転封こそが、彼の人生を破滅へと導く序曲となったのである。彼が赴くことになった島原という土地は、五條とは全く異なる、複雑で困難な課題を内包していた。

第一に、その地はキリシタン大名として知られる有馬晴信の旧領であり、領民の間にはキリスト教の信仰が深く、広く根付いていた 1 。セミナリヨやコレジヨが置かれたこの地は、日本のキリスト教布教の中心地の一つであり、その影響は領民の生活や文化にまで浸透していた。しかし、重政が移封される4年前の慶長17年(1612年)、徳川幕府は全国に禁教令を発布しており、キリシタンの根絶は幕府の最重要政策の一つとなっていた 29 。したがって、この地を統治することは、幕府の政策を忠実に実行する能力を試される、極めて困難な任務であった。

第二に、島原半島が持つ地政学的な重要性である。長崎の天領に近く、有明海を挟んで肥前佐賀藩の鍋島氏や筑後柳川藩の立花氏といった、強大な外様大名と接するこの地は、幕府にとって西国、特に九州の外様大名を監視・牽制するための戦略的要衝であった 31 。このような場所に、譜代格の大名と見なされた重政を配置したこと自体、幕府が彼に寄せる期待の大きさを物語っている。彼は、単なる一藩の領主ではなく、幕府の九州における「監視役」としての役割を強く意識せざるを得なかった。

この栄転は、重政に大きな名誉と禄高をもたらした一方で、幕府への過剰なまでの忠誠心を示すことを常に要求されるという、計り知れないプレッシャーを彼に与えた。五條での地道な領国経営とは全く異なる、新たな状況下で自らの価値を証明する必要に迫られた重政は、やがてその手段として、破滅的な道を選択することになる。

第六章:島原藩の経営と圧政の実態

肥前島原藩主となった松倉重政の統治は、五條での善政とは一転し、圧政そのものであった。彼の政策は「壮大な築城」「破綻した財政」「残忍なキリシタン弾圧」という三つの側面から特徴づけられるが、これらは個別の問題ではなく、「幕府への過剰な忠誠アピール」という一つの歪んだ目的のために相互に連関し、領民を絶望の淵へと追い詰めていく破滅的なシステムを形成していた。

第一節:分不相応の巨城・島原城築城

島原に入った重政が最初に着手したのが、新たな居城の建設であった。彼は、旧領主有馬氏が拠点とした日野江城と原城を廃城とし、有明海交通の中心地である島原に、全く新しい城を築くことを決断した 2 。元和4年(1618年)に始まった築城工事は、7年以上の歳月を費やし、寛永2年(1625年)に完成した 4

完成した島原城は、破風を持たない質実剛健な外観とは裏腹に、五層の壮麗な天守閣を中心に、広大な曲輪と高い石垣を備えた、壮大かつ堅固な城郭であった。その規模は、当時の島原藩の石高4万3千石に対して、10万石クラスの大名に匹敵する、明らかに分不相応なものであった 2

この巨大プロジェクトの動機は複合的であった。統治の中心を、キリシタン勢力の強い半島南部から、交通の要衝である島原へ移すという実利的な側面に加え、新領主としての権威を内外に誇示し、周辺の外様大名に対する幕府の威光を示すという、強い政治的意図があった 32 。幕府が武家諸法度で新規築城を原則禁止する中、この大工事を許可した背景には、島原の戦略的重要性を鑑み、信頼できる重政に強力な拠点を構築させたいという幕府の思惑があったと考えられる 31

しかし、この壮大な城の石垣の一つ一つは、領民の血と汗で築かれたものであった。莫大な築城費用は、すべて領民への過酷な税と無償の労役によって賄われたのである 24 。この築城は、藩財政を著しく圧迫すると同時に、領民の心に松倉氏への最初の、そして消えることのない恨みを深く刻み込むこととなった。

第二節:藩財政の逼迫と苛烈な収奪

島原城築城によって既に逼迫していた藩財政は、重政のさらなる行動によって破綻へと突き進んだ。彼は、幕府への忠誠心を示すため、自藩の石高に見合わない規模の江戸城改築の公儀普請(天下普請)を積極的に請け負ったのである 2 。これらの過大な支出は、藩の財政能力を完全に超えていた。

この財政的窮地を乗り切るため、重政は禁じ手とも言える手段に訴えた。彼は検地を実施し、領内の実際の石高を倍近くに見積もって幕府に報告したのである 2 。例えば、本来4万石程度の生産力しかない土地を10万石と偽り、その石高を基準に年貢を算定した 37 。これにより、領民には生産能力を遥かに超える、収穫物の大半を奪われるに等しい過酷な年貢が課せられた。

その取り立ては冷酷無比を極めた。悪天候による凶作の年であろうと一切容赦はなく、米や麦はもちろん、タバコや綿などの商品作物に至るまで、情け容赦なく徴収した 32 。食料を奪われた領民は飢餓に苦しみ、その生活は困窮を極めた 37 。この経済的収奪は、島原の乱が単なる宗教一揆ではなく、生活を脅かされた農民の生存を賭けた闘争であったことを示している。

第三節:キリシタン弾圧の激化

重政の圧政は、経済的な搾取だけに留まらなかった。幕府の禁教政策を遂行する中で、彼のキリシタン弾圧は次第にエスカレートし、常軌を逸した残忍さを見せるようになる。

島原入封当初、重政は南蛮貿易の利益を考慮し、領内のキリシタンに対しては比較的寛容な態度、あるいは黙認する姿勢をとっていた 4 。しかし、元和7年(1621年)頃から幕府の禁教政策が強化されるのに伴い、弾圧を開始する 4 。そして寛永2年(1625年)、江戸城で三代将軍・徳川家光に拝謁した際、キリシタン対策の甘さを直接叱責されるという屈辱を味わう 2 。この出来事が、彼の行動を決定的に変えた。将軍の不興を買ったことに発奮した重政は、幕府への忠誠を証明するため、徹底的かつ残忍な弾圧へと豹変したのである 2

その手法は、当時のオランダ商館長やポルトガル船長の記録によって、生々しく後世に伝えられている 3 。棄教を拒む者に対し、顔に「吉利支丹」の三文字を焼きごてで押す、見せしめに指を切り落とすといった拷問を行った 2 。さらに、寛永4年(1627年)には、雲仙地獄の沸騰する熱湯を用いた拷問・処刑を開始した 4 。この地獄責めは、年貢を納められない農民に対しても行われたと記録されており 4 、彼の統治が宗教弾圧と経済的収奪の区別なく、暴力によって民衆を支配するものであったことを示している。また、信者に蓑を着せて火をつけ、苦しみもだえる様子を「蓑踊り」と称して楽しんだという、彼のサディスティックな一面を伝える逸話も残されている 19

この弾圧の苛烈さを象徴する事件が、寛永4年(1627年)のパウロ内堀(うちぼり)らの殉教である。有馬氏の旧臣であったパウロ内堀とその同志たちは、棄教を拒んだために捕らえられ、雲仙地獄で凄惨な拷問の末に熱湯の中に投げ込まれて殉教した 42 。宣教師クリストヴァン・フェレイラの書簡には、内堀の幼い息子たちまでもが父の目の前で指を切り落とされるなど、その詳細が記録されている 45 。この事件は、重政の弾圧が、幕府の政策を遂行するという名目の下に、人間性を完全に喪失した暴虐へと堕していたことを物語っている。

第七章:壮大なる野心 ― ルソン(呂宋)遠征計画

島原での圧政を推し進める松倉重政の行動は、やがて国内の統治に留まらず、海外へと向けられた壮大な野心へと発展する。それが、キリシタンの海外における根拠地、スペイン領ルソン(現在のフィリピン)への遠征計画であった。この計画は、彼の歪んだ忠誠心の頂点であり、自己顕示欲の極致を示すものであった。

重政は、自らのキリシタン弾圧への取り組みを幕府に対して最大限にアピールするため、老中に対して次のような建議を行った。「ルソンはスペインの統治下にあり、南蛮(ポルトガル)と共に我が国を侵略する機会を常に窺っている。宣教師が日本に潜入するのも、皆ルソンを経由してくる。この元凶を断つため、私が軍を率いてかの地を征服し、西洋人の基地を破壊すれば、日本は未来永劫安泰となるであろう」 4 。そして、遠征の許可と、征服後のルソンに10万石の所領を与える朱印状を幕府に求めたのである 4

この途方もない計画に対し、意外にも将軍・徳川家光や幕閣の一部は乗り気を示した 4 。幕府は遠征の確約こそしなかったものの、重政に計画の実現可能性の調査と、それに向けた軍備を整えることを許可した 4

許可を得た重政は、早速準備に取り掛かった。寛永7年(1630年)、彼は長崎奉行であった竹中重義(たけなか しげよし)の協力を得て、家臣の吉岡九郎右衛門と木村権之丞を商人に偽装させ、マニラへ先遣隊として派遣した 4 。彼らの任務は、スペイン側の守備体制や軍事力を探ることであった。また、国内では遠征軍のための軍備増強を進め、一説には3,000張の弓と同数の火縄銃を収集したとされる 4

この海外遠征という壮大な計画は、重政にとっては幕府への忠誠と自らの武威を示す絶好の機会であったかもしれない。しかし、そのための莫大な戦費は、さらなる増税という形で領民に重くのしかかった 2 。島原城築城、公儀普請、そしてルソン遠征準備という三重の負担は、島原の民衆を、もはや逃げ場のない破滅的な状況へと追い込んでいったのである。

第八章:突然の死と残されたもの

壮大なルソン遠征計画の実現に向けて邁進していた松倉重政の野心は、あまりにも突然の形で終焉を迎える。寛永7年(1630年)11月16日、先遣隊をルソンへ派遣した直後、重政は持病の治療のために滞在していた島原半島西部の小浜温泉にて、急死した 1 。享年57であったと伝えられる 4

その死因については、公式には病死とされるが、当時から暗殺説が根強く囁かれている 1 。彼の苛烈な統治は、領民はもちろんのこと、家臣団の中にも多くの恨みを買っていた。また、ルソン遠征計画を共に進めていた長崎奉行・竹中重義による毒殺説もその一つである 1 。彼の常軌を逸した行動の数々を鑑みれば、誰に殺されても不思議ではない状況であったことは想像に難くない。キリシタンの間では、彼の死は神の天罰が下ったのだと噂されたという 39

重政の死によって、ルソン遠征計画は頓挫した。しかし、彼が島原に残した負の遺産は、あまりにも大きかった。彼の圧政を支えた統治システム、すなわち、石高の偽装に基づく過酷な年貢収奪と、暴力的なキリシタン弾圧は、跡を継いだ嫡男・松倉勝家(かついえ)にそのまま引き継がれた。藩主としての器量に欠けていたとされる勝家は、父の政策を見直すどころか、それをさらに悪化させた 2 。年貢の取り立ては一層厳しくなり、人頭税や家屋税といった新たな税まで創設して領民を搾取したと伝わる 16

初代・重政が築き上げた、領民の犠牲の上に成り立つ歪んだ統治体制は、二代・勝家の時代についに限界点を迎え、崩壊する。重政の死から7年後の寛永14年(1637年)、蓄積された領民の怒りと絶望が爆発し、日本史を揺るがす大規模な一揆、島原の乱が勃発するのである 3

重政の墓所は、島原城下の江東寺にあり、市の史跡に指定されている 28 。その墓石は、彼の死から約150年後の「島原大変」と呼ばれる雲仙普賢岳の噴火とそれに伴う津波で一度流失したが、後に発見され、再建された墓碑の傍らに安置されている 47 。その数奇な運命は、まるで彼の波乱に満ちた生涯を象徴しているかのようである。

終章:松倉重政の再評価 ― 名君か、暴君か

松倉重政の生涯を俯瞰するとき、我々は「名君」か「暴君」かという単純な二元論では到底捉えきれない、一人の人間の複雑な実像に直面する。五條での善政は彼の為政者としての「能力」を証明し、一方で島原での悪政は、彼の「性格的欠陥」と「時代の要請」が絡み合って引き起こされた「統治の破綻」を示している。

以下の表は、彼が統治した二つの領地における政策と評価を比較したものである。

比較項目

大和五條藩

肥前島原藩

統治期間

約8年間(1608年~1616年)

約14年間(1616年~1630年)

石高

1万石 1

4万3千石 1

主要政策

・五條新町の創設 5

・「諸役免許」による商業振興 8

・城下町の整備 26

・分不相応な島原城の築城 2

・石高偽装と苛烈な年貢収奪 2

・残忍なキリシタン弾圧 4

・ルソン遠征計画 1

領民からの評価

「豊後様」と慕われる名君 4

現代に至るまで顕彰碑が建立される 4

島原の乱の原因を作った暴君 1

圧政者として記憶される 2

政策の背景・目的

小藩として、領国経営の安定と統治能力の証明を目指した合理的政策 27

幕府への過剰な忠誠の誇示と自己の栄達を目的とした、虚栄心に基づくパフォーマンス 7

この対比が明確に示すように、重政は決して無能な領主ではなかった。むしろ、彼は町づくりや城づくりに優れた才能を持つ、有能な人物であった 6 。問題は、その能力をどの方向に向けるかにあった。五條では領国の持続的発展という健全な目標に向けられた能力が、島原では幕府への追従と自己顕示という歪んだ目標に向けられた。その根底には、彼自身の「虚栄心」 7 と、認められたいという強い承認欲求があったと推察される。

彼の悲劇は、個人の性格だけに帰せられるものではない。それはまた、時代の産物でもあった。戦国乱世を武功によって成り上がってきた武将が、武力で功名を立てる機会が失われた泰平の世(江戸初期)において、いかにして自らの存在価値を証明しようとしたか。彼の行動は、幕府の支配体制が確立していく過渡期にあって、外様大名が生き残りをかけて行った、歪んだ努力の一つの帰結と見ることもできる 36 。壮麗な城、過激な弾圧、そして海外遠征計画は、戦場での手柄に代わる、新たな時代の「武功」の代用品だったのかもしれない。

結論として、松倉重政は単純な善悪の物差しで測れる人物ではない。彼は、時代の変化の奔流に翻弄され、自らの内なる野心と虚栄心によってその優れた能力を誤った方向に用い、結果として多くの人々を塗炭の苦しみに陥れた、極めて人間的な弱さを持つ複雑な大名であった。彼の生涯は、権力と個人の関係、そして為政者の一つの判断がいかに民衆の運命を左右するかという、恐るべき歴史的教訓を、現代にまで痛切に伝えている。

引用文献

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  2. 江戸時代、極めて非人道的な政策で「島原の乱」を引き起こした愚かで無能な藩主・松倉親子の愚行【前編】 | 歴史・文化 - Japaaan - ページ 2 https://mag.japaaan.com/archives/223542/2
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  4. 松倉重政 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%80%89%E9%87%8D%E6%94%BF
  5. コラム「五條新町を興した 松倉重政」 - 奈良県 https://www3.pref.nara.jp/miryoku/masumasu/2487.htm
  6. 暴君か名君か、先駆者か - 紀行歴史遊学 https://gyokuzan.typepad.jp/blog/2017/03/%E6%9D%BE%E5%80%89%E9%87%8D%E6%94%BF.html
  7. 家康が見抜けなかった松倉重政の「虚栄心」 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/29216
  8. 松倉重政 紙芝居 - 五條市 https://www.city.gojo.lg.jp/soshiki/kankoshinko/12/2579.html
  9. 島原城築城主松倉重政の物語ついに完成!! | 株式会社 島原観光ビューローのプレスリリース https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000037.000077395.html
  10. 武家家伝_松倉氏 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/matukura.html
  11. 松倉重信 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%80%89%E9%87%8D%E4%BF%A1
  12. 不詳の人・松蔵右近 - M-NETWORK http://www.m-network.com/tsutsui/t_column02.html
  13. 島左近関連人物列伝1 - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/sakon/retsuden01.html
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  15. 筒井定次 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%92%E4%BA%95%E5%AE%9A%E6%AC%A1
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  18. 古戦場訪問と大坂の役 - 新町松倉講へようこそ http://sinmatsukou.com/kosenjou-osakanoeki.html
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  48. 江戸時代、極めて非人道的な政策で「島原の乱」を引き起こした愚かで無能な藩主・松倉親子の愚行【後編】 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/223540
  49. 江戸時代最悪の暗君親子・松倉家の悪政はなぜ見過ごされた?「天下泰平前夜」の幕藩体制の実際 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/166724
  50. 【歴史解説】しくじり大名 松倉勝家とは?!【MONONOFU物語】 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=qFQ2rBStkJ4
  51. 島原城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%8E%9F%E5%9F%8E
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  53. 名君のち悪人!?松倉重政 - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=gSiLgo_NuKM
  54. 江戸幕府はなぜ長く続いたのか/ホームメイト - 刀剣ワールド東京 https://www.tokyo-touken-world.jp/tokyo-history/edobakufu/