最終更新日 2025-07-15

松平乗寿

松平乗寿の再評価―武断から文治へ、転換期を生きた老中の実像

序論:松平乗寿をめぐる謎―武功と「柔懦」の狭間で

江戸幕府第四代将軍・徳川家綱の治世は、徳川の支配体制が「武断政治」から「文治政治」へと大きくその舵を切った、日本史における重要な転換期であった。この時代、幕政の中枢にあって将軍を支えた老中の一人に、松平乗寿(まつだいらのりなが)がいる 1 。彼は、家綱政権の安定に貢献したキーパーソンでありながら、その人物像は一筋縄ではいかない謎に包まれている。

乗寿の生涯を追うと、そこには一見して矛盾する二つの側面が浮かび上がる。一つは、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣において、わずか16歳にして敵兵57の首級を挙げるという、戦国武将さながらの壮絶な武功である 1 。この逸話は、彼が武門の棟梁としての苛烈な一面を持っていたことを物語る。しかしその一方で、同時代を生きた当代随一の碩学、林鵞峰(林春斎)は、乗寿を「柔懦(じゅうだ)な人物」、すなわち穏やかで意志が弱い、と評しているのである 2

武勇に優れた若き武将と、柔弱と評された老中。この「武」と「柔」の評価の著しい乖離こそが、松平乗寿という人物を理解する上で避けては通れない核心的な問いとなる。林鵞峰の評価は、乗寿個人の資質のみを的確に捉えたものなのか。あるいは、彼が置かれた特殊な政治的環境、すなわち「知恵伊豆」と称された松平信綱や「篤実」で知られる阿部忠秋といった、歴史に燦然と輝く巨星たちと肩を並べた幕閣の中での、相対的な位置づけを反映したものではないのか。また、大坂の陣での武功は彼のキャリアに如何なる影響を及ぼし、老中として断行したとされる大奥改革のような大胆な政策は、「柔懦」という評価とどのように両立しうるのか。

本報告書は、この矛盾を手がかりとして、現存する史料を多角的に分析し、乗寿の生涯を丹念に追うことで、彼をめぐる皮相的な評価の裏に隠された複合的な実像に迫ることを目的とする。乗寿の人生を、単なる個人の伝記としてではなく、江戸幕府が創成期から安定期へと移行する過程で、武将から行政官僚へとその役割の変容を迫られた譜代大名の典型例として捉え直し、その歴史的意義を再検討する。

第一章:大給松平家の嫡男―その出自と武将としての萌芽

松平乗寿の生涯を理解する上で、まず彼の出自と初期の経歴を形作った時代背景を把握することが不可欠である。彼が背負った名門の家格と、戦国の遺風が未だ色濃く残る時代に求められた武人としての資質は、後の彼の人生航路を決定づける羅針盤となった。

第一節:名門・大給松平家の系譜

松平乗寿は、慶長5年1月12日(1600年2月26日)、松平家乗の長男として生を受けた 2 。彼が属する大給(おぎゅう)松平家は、徳川家康の代までに松平本家から分かれた「松平庶流十四家」の一つに数えられる、由緒ある家柄である 1 。その始祖は、三河国加茂郡大給(現在の愛知県豊田市)を本拠とした松平乗元に遡る 5

乗寿の祖父・真乗、そして父・家乗の代に、大給松平家は徳川家康の譜代家臣として着実にその地位を固めていった 4 。特に父の家乗は、天正18年(1590年)の家康の関東入封に伴い上野国那波藩1万石の大名となり、慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦における功績によって、翌慶長6年(1601年)に美濃国岩村藩へ2万石で加増転封された 6 。家乗は「人となり剛正で勤検」「華麗を好まず、細行を忽(ゆるがせ)にせず」と評される実直な人物であり、その家風は乗寿にも色濃く受け継がれたと考えられる 8

大給松平家は、乗寿自身を含め、江戸時代を通じて実に5人もの老中を輩出する名門として幕政に重きをなすことになる 4 。乗寿のキャリアは、彼個人の能力もさることながら、徳川一門に連なる高い家格と、幕府への絶対的な忠誠を重んじる家風によって、その初期段階から強固に支えられていたのである。

第二節:大坂夏の陣での武功―武人としての証明

慶長19年(1614年)3月、父・家乗が40歳で死去すると、乗寿はわずか15歳で家督を相続し、美濃岩村2万石の藩主となった 1 。その直後、彼の武人としての真価が問われる舞台が訪れる。徳川と豊臣の最終決戦、大坂の陣である。

翌元和元年(1615年)の大坂夏の陣において、16歳になったばかりの乗寿は河内国枚方へ出陣した 1 。この戦いで、豊臣方が徳川軍の進軍を阻むために出口村に堀を築き、淀川の水を引き入れて防御を固めるという戦術に出た。これに対し、乗寿の軍勢はこの堀を埋め立て、味方の進路を確保するという、戦闘の帰趨を左右しかねない重要な工兵的役割を果たしたのである 1

さらに、同年5月7日、大坂城が落城し、豊臣方の敗兵が四散する中、乗寿は守口方面へ進軍 2 。逃れようとする敵兵を追撃し、57名の首級を挙げるという目覚ましい戦功を立てた 2 。この初陣における鮮烈な武功は、幕府首脳に強く印象付けられた。戦後の元和2年(1616年)正月、乗寿は駿府城にて大御所・徳川家康に拝謁を許され、同月27日には従五位下・和泉守に叙任された 2 。時に16歳。この異例の抜擢は、彼の武功がいかに高く評価されたかを物語っている。

この時代の武家社会において、戦場での功績は、当主としての器量と家の武威を示す上で何よりも雄弁な証明であった。乗寿にとって大坂の陣での働きは、単なる勇猛さの誇示ではなく、徳川の譜代大名として幕政の中枢へと至るキャリアを築く上で、不可欠な「資格」を獲得する決定的な出来事となったのである。

第三節:若き藩主の治世―信仰と合理性の交錯

大坂の陣での武功により幕府内での評価を確立した乗寿は、その後、岩村藩主として領国経営にあたる。この時期の彼の行動には、後の人物像を解き明かす上で興味深い、二つの側面が見て取れる。

一つは、彼の深い信仰心である。寛永9年(1632年)、乗寿は岩村城の鎮護と領民の安泰繁栄を祈願し、「石室千体仏」と呼ばれる、千体の光明仏を安置した経塚を建立した 9 。これは、領主として民の安寧を願う、敬虔な信仰心の発露であった。

しかしその一方で、彼の統治者としての合理主義的、あるいは冷徹ともいえる側面を示す逸話も残されている。寛永15年(1638年)、乗寿は美濃岩村2万石から遠江浜松3万6000石へと加増移封される 2 。この栄転に伴い、彼は驚くべき決断を下す。岩村城下にあった父・家乗の墓所が置かれた菩提寺の一つ、龍巌寺を廃寺としたのである 2

父の墓がある寺を廃するという行為は、儒教的道徳観が重んじられる社会において、一見すると冷徹非情に映る。しかし、この行動の背景には、単なる不信心では片付けられない、近世大名としての高度な経営判断があった可能性が考えられる。第一に、領地替えには莫大な費用がかかり、旧領地の寺社を維持し続けることは財政的な負担となる。第二に、大名家にとって菩提寺は統治の象徴でもあり、それを新たな領地である浜松に集約しようとする意図があったのかもしれない。事実、浜松藩主時代には、前任の高力忠房の代から続いていた五社神社・諏訪神社の造営事業を引き継ぎ、寛永18年(1641年)にこれを完成させている 10

この「石室千体仏の建立」という敬虔な行為と、「父の墓所の廃寺」という合理的な判断は、乗寿の人物像に複雑な陰影を投げかける。彼の信仰心はあくまで個人的な内面の問題であり、藩の統治という公務においては、過去の慣習や個人の情よりも、藩経営の効率性と合理性を優先する。この二面性には、中世的な価値観から脱却し、近世的な行政官僚へと変貌していく譜代大名の姿が象徴的に示されている。

元号

西暦

乗寿年齢

石高

役職・官位

主な出来事

慶長5年

1600年

1歳

-

-

松平家乗の長男として誕生 2

慶長19年

1614年

15歳

2万石

美濃岩村藩主

父・家乗の死去に伴い家督相続 1

元和元年

1615年

16歳

2万石

美濃岩村藩主

大坂夏の陣に出陣。敗兵57の首を挙げる武功を立てる 1

元和2年

1616年

17歳

2万石

従五位下・和泉守

初陣の功により叙任 2

寛永9年

1632年

33歳

2万石

美濃岩村藩主

岩村城に石室千体仏を建立 9

寛永10年

1633年

34歳

-

-

長男・乗久が誕生 11

寛永15年

1638年

39歳

3万6000石

遠江浜松藩主、奏者番

浜松へ加増移封。奏者番に就任 1

寛永19年

1642年

43歳

3万6000石

従四位下、世子傅

将軍世子・家綱の傅役となる 2

正保元年

1644年

45歳

6万石

上野館林藩主

館林へ加増移封 2

慶安4年

1651年

52歳

6万石

侍従、老中

家綱の将軍就任に伴い老中に就任 2

承応3年

1654年

55歳

6万石

老中

1月26日、館林にて死去 1

第二章:幕政の中枢へ―家綱政権下の老中として

浜松藩主時代に奏者番として幕政への参画を始めた乗寿は、その実直な働きぶりを評価され、徳川三代将軍・家光から次代を担う幕閣の中核として見定められていく。彼のキャリアは、譜代大名としての栄達の道を順調に歩み、やがて幕府の最高職である老中へと至る。

第一節:将軍世子傅という栄誉―次代への布石

寛永19年(1642年)12月、乗寿の人生における大きな転機が訪れる。将軍・家光の嫡男であり、後の四代将軍となる竹千代(徳川家綱)の世子傅(せいしふ)に任命されたのである 2 。世子傅とは、将軍後継者の傅役(もりやく)であり、教育係を兼ねた側近中の側近というべき、極めて名誉ある役職であった 12 。この任命と同時に、乗寿は従四位下に昇叙されており、これは家光からの絶大な信頼の証であった 2

この抜擢の背景には、大坂の陣での武功や、岩村・浜松での藩主としての実績に加え、父・家乗から受け継いだであろう「剛正勤検」な実直さが評価されたものと考えられる 8 。この重要な役職を通じて、乗寿は幼い家綱と極めて近しい関係を築くことになった。これは、後に家綱政権が発足した際、彼が幕政の中枢で重きをなすための、何物にも代えがたい政治的資本となったのである。

第二節:文治政治への転換と集団指導体制

慶安4年(1651年)、将軍家光が48歳でこの世を去り、長男の家綱がわずか11歳で四代将軍の座を継いだ 14 。これに伴い、乗寿は正式に老中に就任し、幕政の中枢を担うこととなる 2

幼君を戴いた家綱政権初期の幕政は、将軍の叔父にあたる会津藩主・保科正之が後見人として全体を支え、老中首座の酒井忠勝、そして「知恵伊豆」の異名を持つ松平信綱、「篤実」で知られる阿部忠秋、さらに乗寿を加えた老中たちによる集団指導体制で運営された 14 。この体制下で、幕府はそれまでの武力や威光による支配、すなわち「武断政治」から、法と制度を整備し、儒教的徳治を目指す「文治政治」へと大きく方針を転換していく。

この転換を象徴する政策が、大名の改易(取り潰し)の主要因となっていた「末期養子の禁」の緩和であった 16 。これにより、跡継ぎがいないことを理由に家が断絶し、家臣が浪人となる事態を抑制し、社会の安定を図ったのである。

この歴史的な転換期において、乗寿は単独で政策を主導したわけではない。彼の同僚には、松平信綱や阿部忠秋といった、江戸幕府の歴史の中でも屈指の傑物たちが名を連ねていた 18 。信綱は「知恵が湧くように出た」と評される天才的な行政官僚であり 20 、忠秋はその清廉で実直な人柄から「細川頼之(室町幕府の名宰相)以来の執権」とまで称賛された人物であった 22

このような強力な個性を持つ同僚たちの中で、乗寿はどのような役割を果たしたのか。彼が突出した指導力を発揮するのではなく、各人の意見を調整し、合議を円滑に進めるバランサーとしての役割を担った可能性が高い。この協調性を重んじる政治姿勢こそが、後に林鵞峰が彼を「柔懦」と評した一因となったのかもしれない。つまり、この評価は乗寿の政治的無能を指すのではなく、集団指導体制という特殊な環境下における、彼の機能的な役割と穏健な振る舞いを捉えたものと解釈することができる。

第三節:揺れる幕政と危機管理―承応の変への対応

家綱政権が文治政治への道を歩み始めた矢先、幕府を震撼させる事件が相次いで発生する。将軍代替わりの社会不安に乗じ、増加した浪人たちが幕府転覆を企てたのである。

慶安4年(1651年)7月、軍学者の由井正雪らが決起を企てた「慶安の変」が発覚 15 。幕府はこれを未然に鎮圧したものの、浪人問題の深刻さを改めて認識させられた。そしてその翌年、承応元年(1652年)9月には、同じく軍学者であった別木庄左衛門(戸次庄左衛門とも)らが、徳川秀忠夫人(崇源院)の27回忌が増上寺で執り行われる機会を狙い、老中たちを暗殺する計画を立てていたことが発覚した 24 。これが「承応の変」である。

この事件は、老中たちが直接の標的とされており、幕政の中枢にいた乗寿にとっても、まさに生命の危機を伴う深刻な事態であった 24 。計画は密告により事前に露見し、首謀者たちは捕らえられ処刑されたが、幕閣に与えた衝撃は計り知れないものがあった 25

乗寿は老中として、これらの危機管理の渦中に身を置いていた。一連の浪人騒動は、武断政治がもたらした負の遺産であり、幕府はこれを教訓として、浪人対策を強化すると同時に、社会の安定を最優先課題とする文治政治への転換を、より一層加速させることになった。乗寿の老中としての職務は、平時の政務だけでなく、こうした幕府の根幹を揺るがす非常時における国家運営の重責をも担うものであった。

第四節:大奥への介入―「柔懦」ならざる一面の証明

集団指導体制の中で協調的な役割を担ったとされる乗寿だが、彼の人物像を「柔懦」の一言で片付けることを躊躇させる、極めて大胆な政策を実行したとする逸話が残されている。それは、幕府最大の聖域ともいえる大奥への介入である。

ある記録によれば、老中に就任した乗寿は、当時肥大化し、政治的な影響力を増しつつあった大奥に対し、抜本的な改革を断行したとされる 1 。具体的には、大奥に仕える女中3700人を解雇し、それに伴い建物の規模も縮小したというのである 1 。この改革の背景には、幼い将軍・家綱が大奥に入り浸ることで、その成長に悪影響が及ぶこと、そして将軍の私生活の場である大奥の発言力が増大し、幕政に不健全な影響を与えることを懸念したためと記されている 1

この逸話が事実であるとすれば、それは単なる綱紀粛正や財政削減といった次元の話ではない。大奥は将軍の私的空間であると同時に、将軍の生母や側室を通じて政治に介入しうる、幕閣にとってはある種のアンタッチャブルな存在であった。その聖域にメスを入れ、数千人規模の人員整理という、現代の組織においても極めて困難な改革を断行したとすれば、それは乗寿が並々ならぬ決断力と政治力を持っていたことの証左となる。

この大胆な行動を可能にしたのは、彼がかつて家綱の世子傅であったという、他の老中にはない特別な立場であったかもしれない。将軍の後見人としての権威を背景に、将来の幕政の安定を見据え、極めて高度な政治判断に基づき、この難事業を成し遂げた可能性がある。この大奥改革の逸話は、乗寿の「柔懦」という評価を根底から覆し、彼が状況に応じて極めて剛毅な決断を下せる政治家であったことを強く示唆している。

第三章:人物像の多角的分析―「柔懦」評価の再検討

松平乗寿の生涯を貫く最大の謎は、大坂の陣での武功や大奥改革といった剛毅な行動と、林鵞峰による「柔懦」という評価との間の著しい乖離である。この章では、この中心的な問いに立ち返り、「柔懦」という評価が下された背景を分析し、彼の行動原理を多角的に検証することで、その真の人物像を立体的に浮かび上がらせる。

第一節:林鵞峰による評価の文脈

まず、乗寿を「柔懦な人物」と評した林鵞峰の視点とその文脈を考察する必要がある 2 。この評価は、必ずしも乗寿の全体像を捉えたものではなく、特定の状況下における一面を切り取ったものである可能性が高い。

第一に、比較対象の存在である。前章で述べた通り、家綱政権初期の幕閣には、松平信綱や阿部忠秋といった、江戸幕府史上でも屈指の傑物たちが並び立っていた 14 。信綱は「知恵伊豆」と称賛された天才的な政治手腕を持ち 18 、忠秋はその篤実な人柄で「細川頼之以来の執権」とまで讃えられた理想的な為政者であった 19 。このような傑出した個性を持つ同僚たちと比較した場合、乗寿の振る舞いは相対的に穏やかで、目立たないものに映ったかもしれない。「柔懦」とは、彼らのような突出した「非凡さ」がない、という意味合いで用いられた可能性が考えられる。

第二に、儒学者としての視点である。幕府の官学を司る林家の当主として、鵞峰は為政者に対し、儒教的な徳に基づく理想的な統治(徳治主義)を求めた。乗寿の政策、特に父の墓所がある寺を合理的な判断で廃寺にした行為 2 や、数千人の女中を解雇した大奥改革 1 は、鵞峰の目には、儒教的な徳目である「仁」や「情」に欠ける、あるいは「剛」よりも「柔」の策を用いた、と映った可能性も否定できない。

第三に、集団指導体制における役割である。乗寿が、強力な個性を持つ同僚たちの間で、自己主張を抑えて全体の調和を重んじる「調整役」に徹していたとすれば、その協調的な姿勢が、外部の観察者である鵞峰からは「主体性がない」「意志が弱い」と見えた可能性も十分に考えられる。この場合、「柔懦」とは政治的無能を意味するのではなく、集団指導体制を円滑に機能させるための彼の政治的スタンスを指したものと解釈できる。

第二節:行動に見る剛毅と冷徹

「柔懦」という評価とは裏腹に、乗寿の具体的な行動は、むしろ彼の内面に秘められた剛毅さと、時に冷徹ともいえる合理性を雄弁に物語っている。

まず、大坂夏の陣での武功である。16歳の少年が、落城の混乱の中で敵兵57の首級を挙げるという行為は、尋常な精神力と胆力で成し遂げられるものではない 2 。これは、彼が戦国の武将としての気質を色濃く受け継いでいた動かぬ証拠である。

次に、大奥改革の断行である。幕府の聖域に果敢にメスを入れ、数千人規模の人員整理を実行する決断力と政治力は、「柔懦」という言葉とはまさに対極にある 1 。これは、幕政の将来を見据え、抵抗を恐れずに困難な課題に取り組む、改革者としての強い意志を示している。

そして、岩村からの転封に際しての龍巌寺の廃寺である 2 。父の墓所という、個人的な情愛や家の伝統が深く関わる場所であっても、藩の統治という公務の合理性を優先する。この判断は、私情を排して公務に徹する、極めて近代的で官僚的な思考の持ち主であったことを示唆している。

これらの行動を総合すると、乗寿は「柔懦」という一面的な評価では到底捉えきれない、多面的な人物であったことが明らかになる。彼は、状況に応じて「武人」「行政官」「改革者」としての顔を的確に使い分けることができた。彼の「柔」は、集団指導体制における協調的な振る舞いや外面的な物腰であり、その内面には、目的を達成するためには断固たる手段も辞さない「剛」の意志が、確かに秘められていたと考えるべきであろう。

第三節:信仰と政治の分離

乗寿の人物像をさらに深く理解する上で、彼の信仰心と政治行動の関係性も重要である。岩村藩主時代に建立した「石室千体仏」は、彼が個人的に篤い信仰心を持っていたことを示している 9

しかし、その信仰心が彼の政治判断を直接的に左右することはなかったように見受けられる。父の墓所の廃寺という決断は、その最たる例である。彼は、信仰を個人の内面の問題として捉え、藩の統治や幕政の運営といった公的な領域においては、あくまで合理性と効率性を追求した。この姿勢は、ある種の「政教分離」的な思考の萌芽と見ることもでき、中世的な価値観から近世的な官僚の価値観へと社会が移行する、まさにその過渡期を生きた人物像を象徴している。個人的な敬虔さと、公人としての冷徹な合理性を両立させていた点にこそ、松平乗寿という人物の複雑さと近代性を見出すことができる。

結論:移行期の有能な官僚

松平乗寿は、林鵞峰による「柔懦」というあまりにも有名な評価によって、その多角的で有能な実像が長らく見過ごされてきた人物である。しかし、本報告書で検証したように、彼の生涯における具体的な行動を丹念に読み解くと、その評価が極めて一面的なものであることが明らかになる。彼は、戦国の遺風を受け継ぐ武将としての剛毅さと、近世の行政官僚としての冷徹な合理性、そして困難な改革を断行する決断力を兼ね備えた、徳川家への忠誠心篤い、極めて有能な譜代大名であった。

大坂の陣で見せた武功は、彼が武門の棟梁としての資格を十分に有していたことを証明し、その後のキャリアの礎となった。岩村藩主時代の父の墓所の廃寺は、私情よりも藩経営という公務を優先する、近代的官僚としての側面を早くから示していた。そして、幕政の中枢においては、将軍世子傅という重責を担って次代を育成し、老中としては松平信綱や阿部忠秋といった傑物たちと共に集団指導体制の一翼を担った。特に、幕府の聖域であった大奥にまで踏み込んだとされる改革は、「柔懦」という評価を覆すに足る、彼の剛毅な一面を物語っている。

彼の生涯は、徳川幕府が創成期の武断政治から、安定期の文治政治へとその統治理念を移行させる、まさにその歴史的転換点を体現している。傑出した同僚たちの輝かしい業績の陰に隠れがちではあるが、乗寿は、時代の要請に的確に応え、自らに課せられた役割を冷静に、そして着実に果たし抜いた。彼は、派手さはないものの、幼君・家綱の治世を盤石なものとする上で不可欠な「縁の下の力持ち」であり、その存在なくして家綱時代の安定した治世はなかったかもしれない。

結論として、松平乗寿は、単なる「柔懦な人物」ではなく、移行期の時代に求められた資質を兼ね備え、幕府の安定に大きく貢献した、再評価されるべき重要な政治家である。彼の実像を正しく捉えることは、江戸幕府初期の政治力学と、武家社会の変容を理解する上で、極めて重要な示唆を与えてくれる。

引用文献

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  2. 松平乗寿 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E4%B9%97%E5%AF%BF
  3. 松平乗寿(まつだいら のりなが)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E4%B9%97%E5%AF%BF-1110767
  4. 館林藩主の系譜 http://tatebayasi-sidan.sakura.ne.jp/data/20220215tatebayashihansyunokeifu.pdf
  5. 松平乗寿とは? わかりやすく解説 - Weblio国語辞典 https://www.weblio.jp/content/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E4%B9%97%E5%AF%BF
  6. ja.wikipedia.org https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E4%B9%97#:~:text=%E6%9D%BE%E5%B9%B3%20%E5%AE%B6%E4%B9%97%EF%BC%88%E3%81%BE%E3%81%A4%E3%81%A0%E3%81%84%E3%82%89,%E4%BA%94%E4%BD%8D%E4%B8%8B%E3%83%BB%E5%92%8C%E6%B3%89%E5%AE%88%E3%80%82
  7. 松平家乗(まつだいら いえのり)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E4%B9%97-1110355
  8. 松平家乗 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E4%B9%97
  9. MT23 松平乗寿 - 系図コネクション https://www.his-trip.info/keizu/mt23.html
  10. 松平乗寿 | 浜松情報BOOK http://www.hamamatsu-books.jp/category/detail/4e7fdf1bf2447.html
  11. 松平大給家 - 水野日向守のページ http://himuka.blue.coocan.jp/daimyou/ookyuu.htm
  12. 徳川 光圀とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%BE%B3%E5%B7%9D+%E5%85%89%E5%9C%80
  13. 第13代将軍/徳川家定の生涯|ホームメイト https://www.meihaku.jp/tokugawa-15th-shogun/tokugawa-iesada/
  14. 徳川家綱|国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1922
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  20. 人間の域を超えた知恵者~ 松平信綱の逸話 「将軍・家光、家綱を支えた知恵伊豆」 https://kusanomido.com/study/history/japan/edo/69701/
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  24. 承応事件(じょうおうじけん)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%89%BF%E5%BF%9C%E4%BA%8B%E4%BB%B6-78854
  25. 承応の変 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%BF%E5%BF%9C%E3%81%AE%E5%A4%89
  26. 徳川幕府転覆を計画した男・由井正雪 【数千人の浪人で江戸城を襲撃~慶安の変】 - 草の実堂 https://kusanomido.com/study/history/japan/edo/42368/
  27. 老媼茶話巻之弐 惡人(承応の変始末) - Blog鬼火~日々の迷走 https://onibi.cocolog-nifty.com/alain_leroy_/2017/09/post-ea6c.html