松平定勝(まつだいら さだかつ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将・大名であり、その名は徳川家康の「異父弟」という出自によって歴史に刻まれている。しかし、彼の存在意義は単なる血縁者という一点に留まらない。本報告書は、松平定勝という人物を、戦国乱世の終焉と江戸幕府の確立という時代の大きな転換期において、軍事的・政治的に重要な役割を担った一人の大名として多角的に分析し、その実像を明らかにすることを目的とする。
定勝の生涯は、異父兄・家康との固い絆、戦場での武勲、そして幕府黎明期における親藩大名としての重責によって彩られている。彼は、他に類を見ない特別な立場にあったがゆえに、徳川一門の結束と権威を象徴する存在であった。その価値は、若き日の戦場での武功のみならず、幕藩体制が確立されていく中で、西国大名への睨みを利かせる要衝に配置された親藩の祖としての役割にこそ見出される。
本報告では、定勝個人の生涯を詳細に追うだけでなく、彼を始祖とする久松松平家が、特に伊予松山藩や伊勢桑名藩といった形で徳川の天下泰平の礎にいかに寄与したかを検証する。彼の生涯を丹念に紐解くことは、徳川幕府の支配体制がいかにして構築され、盤石なものとなっていったのか、その一端を解明することに繋がるであろう。
松平定勝は、永禄3年(1560年)正月、尾張国知多郡の坂部城(現在の愛知県阿久比町)において、城主・久松俊勝(ひさまつ としかつ)を父とし、於大の方(おだいのかた)を母として、その四男として生を受けた 1 。彼の血脈を語る上で決定的に重要なのは、母・於大の方が、かつて徳川家康(幼名・竹千代)の父である三河の松平広忠に嫁ぎ、家康を産んだ後に離縁され、久松俊勝に再嫁したという経緯である 3 。これにより、定勝は徳川家康の異父同母弟という、極めて特殊な血縁関係を持つことになった。
この出自は、定勝の生涯に二重のアイデンティティをもたらした。父方の久松氏は、菅原氏を遠祖と伝える尾張の在地領主であり、独自の家柄と歴史を持つ武家であった 6 。一方で、母を通じて彼は、三河から天下統一へと駆け上がっていく松平氏、すなわち徳川将軍家と最も近しい血縁者の一人となった。この久松家という独立した武家の系譜と、徳川一門という新たな支配階級の中核に連なるという二重性は、単なる血縁関係を超え、彼のキャリア全体を規定する根本的な要因となった。そして、この特異な立場こそが、彼と彼の子孫が親藩大名として特別な地位を築き、幕藩体制の中で重要な役割を担う上での強固な基盤となったのである。
定勝の運命が徳川家と分かち難く結びついたのは、生後間もない時期であった。永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いを経て今川氏から独立したばかりの異父兄・松平元康(後の家康)は、久松家を訪れ、定勝を含む三人の異父弟たちと対面した。この時、元康は彼らに対し、家門に准ずる者として「松平」の姓と「葵」の紋を授けたのである 1 。
この措置は、単なる家族愛の表れではない。幼少期に実の兄弟を持たなかった家康にとって、この異父弟たちは最も信頼に足る肉親であった 9 。戦国の世において一族の結束は何よりも強固な力の源泉であり、家康は久松家の兄弟を「松平」一門に正式に編入することで、自らの権力基盤を実質的かつ象徴的に拡大しようとした。これは、血縁による支配ネットワークの構築を重視する家康の統治思想の、極めて初期の表れであった。
この松平姓下賜は、後に御三家や御家門といった親藩を幕府の藩屏(はんぺい、守りの意)として全国に配置する徳川の統治構想の、いわば萌芽と見なすことができる。松平定勝は、その壮大な構想の最初の具体的な対象者の一人であり、彼の生涯は、徳川の天下を支える親藩大名の「原型(プロトタイプ)」としての歴史的意義を担うことになったのである。
松平定勝は、徳川家康の弟という立場に安住することなく、自らも戦場に身を投じ、武将として確かな功績を積み重ねた。その軍歴は、彼のキャリアの基盤を形成し、家康からの信頼を不動のものとする上で不可欠であった。
定勝は若くして異父兄・家康に従い、徳川家が勢力を拡大していく過程で重要な合戦に参加した。天正3年(1575年)の長篠の戦いや、天正10年(1582年)の武田氏滅亡に繋がる天目山の戦いに従軍した記録が残されている 1 。これらの経験を通じて、彼は武将としての基礎を固めていった。
彼の武名が特に高まったのは、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いである。この戦役における蟹江城合戦において、定勝は果敢に城内に攻め入り、「二番乗り」という目覚ましい武功を挙げた 1 。この功績は高く評価され、彼の勇猛さと戦場での実力を徳川家中に知らしめるものとなった。
天下分け目の戦いとなった慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、定勝は最前線での戦闘ではなく、後方の戦略的要衝の確保という重要な任務を担った。彼は、山内一豊が去った後の遠江掛川城の守備を命じられた 11 。掛川城は東海道の押さえであり、西軍主力がこのルートを通過する可能性を考慮すれば、その守備は地味ながらも極めて重大な役割であった。
さらに、豊臣家との最終決戦となった大坂の陣(冬の陣:1614年、夏の陣:1615年)においても、定勝の役割は後方拠点の防衛であった。彼は畿内における幕府の最重要拠点である伏見城や二条城の守備を担い、大坂方面への往来を厳しく監視した 11 。
定勝の軍事的役割は、そのキャリアを通じて明確な変化を見せている。若き日には蟹江城攻めのように自ら先陣を切る「突撃隊長」としての側面が強かったが、徳川の天下が現実のものとなるにつれて、掛川、伏見、二条といった失うことのできない戦略拠点を確実に保持する「戦略的拠点防衛官」へとその役割を移行させた。これは、家康が定勝の武勇だけでなく、血縁者としての絶対的な忠誠心を高く評価し、徳川の支配体制の根幹を揺るがしかねない重要拠点の守りを、最も信頼できる身内に委ねたことを示している。彼の価値が、個人の武勇から、体制の安定を保証する「信頼性の担保」へと昇華したことの証左と言えよう。
松平定勝の生涯は、異父兄・家康との深く複雑な関係性によって大きく規定された。その関係は、絶対的な信頼と親愛に満ちていた一方で、天下人としての家康の政治的判断と、肉親としての情愛が交錯する中で、緊張と葛藤を生む場面もあった。
小牧・長久手の戦いが和睦に至った後、天正12年(1584年)、羽柴秀吉は和睦の証として、家康の近親者を養子として差し出すよう要求した。この時、秀吉が名指しで求めたのが松平定勝であった 1 。
この要求に対し、母・於大の方が烈火のごとく反対した。彼女は、かつて定勝の次兄・康俊(勝俊)が今川氏、次いで武田氏への人質に出された結果、逃亡の際に凍傷で両足の指を全て失うという悲惨な経験をしたことを引き合いに出し、「あなたが他国にいる時、私は定勝を頼りとしているのです。その定勝を他家へ遣わすことなど、決してあってはなりません」と、家康に強く迫ったのである 1 。
天下人への道を歩む家康も、母のこの強い意向には逆らえなかった。結局、家康は自身の次男である於義丸(後の結城秀康)を身代わりとして秀吉の養子に出すという苦渋の決断を下した。この一件により、定勝はしばらくの間、家康から疎んじられ、「御不快を得る」ことになったと伝えられている 1 。
この逸話は、定勝の運命が、彼自身の能力や意思のみならず、母・於大の方の強い情愛と影響力によって大きく左右されたことを象徴している。また、天下人・家康でさえも母の意向には抗えず、その結果生じた政治的な不満を弟に向けてしまうという人間的な側面を浮き彫りにする。定勝のキャリアにおける最初の大きな試練は、敵ではなく、最も近しいはずの身内から訪れたのであった。
定勝の人生における重要な節目は、家康の政治的配慮によって形作られていった。彼の正室となったのは、奥平信昌の養女(実際には信昌の重臣・奥平貞友の次女)である「たつ」であった 1 。この婚姻は、長篠の戦いにおいて、武田方に預けていた人質(信昌の弟ら)を犠牲にしながらも徳川に忠誠を尽くした奥平家に対し、家康がその功に報いるために自ら口利きした、典型的な政治的縁組であった 1 。これは、定勝が徳川一門の重要な駒として、同盟関係や主従関係の強化に用いられたことを示している。
また、慶長7年(1602年)に家康の十男・頼宣(後の紀州徳川家初代藩主)が誕生した際には、家康の命により、定勝は自らの幼名である「長福丸」をこの男子に譲っている 1 。これは、家康が定勝を極めて近しい存在と認め、その幸運にあやかろうとした証であり、定勝にとっては大変な名誉であった。
同年8月、母・於大の方が伏見城でその生涯を閉じると、定勝はその霊柩が江戸へ向かう際の護衛という大役を務めた 1 。久松家と徳川家を結ぶ唯一無二の象徴であった母の最期を、息子として、そして家康の名代として見送るこの重要な儀礼は、彼が両家にとって不可欠な存在であることを改めて示すものであった。
松平定勝は、戦場での武功と家康からの信頼を背景に、江戸幕府の成立と安定化の過程で着実にその地位を高めていった。彼の経歴は、加増と転封の連続であり、それは幕府内における彼の重要性の高まりを如実に物語っている。
【表1:松平定勝の経歴と石高の変遷】
西暦/元号 |
年齢 |
出来事・役職 |
藩・所領 |
石高 |
典拠 |
1590年/天正18年 |
31歳 |
関東移封に伴い拝領 |
下総国 小南 |
3,000石 |
1 |
1600年/慶長5年 |
41歳 |
関ヶ原の戦いの功により加増 |
伊勢国 長島城主 |
27,000石 |
1 |
1601年/慶長6年 |
42歳 |
山内一豊に代わり入封 |
遠江国 掛川藩主 |
30,000石 |
1 |
1607年/慶長12年 |
48歳 |
伏見城代に就任 |
山城国 伏見藩主 |
50,000石 |
8 |
1617年/元和3年 |
58歳 |
大坂の陣の功により加増転封 |
伊勢国 桑名藩主 |
110,000石 |
1 |
1624年/寛永元年 |
65歳 |
桑名城にて死去 |
伊勢国 桑名藩主 |
110,000石 |
1 |
上表が示すように、定勝のキャリアは目覚ましい栄進の連続であった。天正18年(1590年)の徳川氏関東移封に際して下総小南に3,000石を与えられたのを皮切りに、関ヶ原の戦い、大坂の陣という歴史的な画期を経て、その石高は飛躍的に増大した。
それぞれの転封には、幕府の明確な戦略的意図が込められていた。
松平定勝個人の藩主としての具体的な治績、例えば検地の実施や大規模な治水工事、城下町の抜本的な町割りといった記録は、史料上、豊富には見られない。これは、彼の役割が、一つの領地に腰を据えて内政に注力する実務的な領国経営者というよりも、幕府の権威を代表して各地に駐在する軍事・政治的な側面が強かったためと考えられる。頻繁な転封と、伏見城代という幕府の公務が中心であった彼のキャリアは、それを裏付けている。
しかし、彼の「治世」の影響は、息子たちの藩政に見出すことができる。例えば、彼の後を継いだ次男・定行は、掛川藩主時代に町屋用水を完成させ、城下の水利を改善した記録がある 16 。また、伊予松山藩に移ってからは、茶や楮の栽培を奨励するなど殖産興業に力を注いだ 17 。三男・定綱も、桑名藩主として新田開発に努め、慶安3年(1650年)の大洪水の際には自ら船に乗って領民の救助にあたるなど、領民保護に熱心であったと伝えられている 19 。
これらの事実から推察されるのは、定勝の統治スタイルが、自ら細かな内政を指揮するのではなく、徳川一門の重鎮として領地に君臨し、幕府の権威と秩序を示すことに主眼があったということである。そして、彼が家康から受け継いだであろう為政者としての理念や人材育成の方針を息子たちに伝え、それが各藩の具体的な政策として結実したと考えられる。桑名の鋳物業 22 や掛川の葛布 25 といった地場産業も、彼や彼の一族が藩主として安定した治世の礎を築いた時期に、その発展の基盤が固められたと見ることができる。定勝は「藩政の実務家」というよりは、後世に続く久松松平家の「統治理念の創始者」としての役割を果たしたと評価できよう。
松平定勝は、徳川幕府がその支配体制を確立する黎明期において、将軍家との特別な血縁関係を背景に、唯一無二の役割を果たした。その行動や逸話からは、彼の忠実かつ実直な人物像が浮かび上がってくる。
徳川家康がその死に臨んで、定勝に二代将軍・秀忠の相談役となるよう遺言したという逸話は、定勝に対する家康の絶大な信頼を物語っている 14 。家康にとって定勝は、単なる弟ではなく、自らの後継者と天下の行く末を託すに足る、最も信頼できる重鎮の一人であった。
家康の死後、甥にあたる将軍秀忠は、叔父である定勝を深く敬った。元和9年(1623年)7月、秀忠は定勝に侍従の官位を授けようとしたが、定勝はこれを固辞した 1 。しかし、その2ヶ月後、重ねての勧めにより左近衛権少将に任ぜられ、これ以降「桑名少将殿」と称されるようになった 1 。
この「固辞」という行為には、単なる謙遜以上の政治的な意味合いが込められていると考えられる。将軍の叔父という彼の立場は、幕府の官位序列に単純に組み込まれるべき臣下とは一線を画す、特別なものである。侍従職を一度固辞することで、定勝は自らが幕府の官僚機構の一員として仕えるのではなく、将軍家を外から支える特別な「身内」であることを、幕閣に対して暗に示したのではないか。これは、幕府の権力構造の中における自らの独自の立ち位置を深く自覚し、それを維持しようとする高度な政治感覚の表れと解釈できる。最終的に少将に任じられたのは、その特別な立場を幕府側も認めつつ、公式な序列にも位置づけるという、双方の配慮が働いた折衷の結果だったのであろう。
定勝の人物像は、彼の生涯を彩るいくつかの重要な逸話から窺い知ることができる。秀吉への養子入りを母・於大の方が体を張って阻止した一件は、彼の運命が家族の情愛に強く影響されたことを示すと同時に、彼自身が母にとってかけがえのない精神的な支えであったことを物語っている 1 。
また、秀忠からの官位の打診を固辞したことに見られるように、彼は自らの地位や名誉に執着するタイプではなかった。しかし、一度与えられた軍事的・政治的な任務は、それが後方支援であっても確実に遂行する、実直で責任感の強い人物であった。その忠誠心は、異父兄・家康、そして甥・秀忠へと一貫して向けられていた。
寛永元年(1624年)3月14日、定勝は居城である伊勢桑名城にて、65年の生涯を閉じた 1 。その遺骸は桑名に葬られ、彼の死を悼んだ次男・定行が、将軍秀忠の命を受けて菩提寺を建立した 27 。この寺は当初、定勝の法号「崇源院殿前四品羽林次将雲巌円徹大居士」に因んで「崇源寺」と名付けられた 28 。しかし後に、秀忠の正室・お江の方にも「崇源院」の法号が贈られたため、将軍正室と同名を憚り、寺号を「照源寺」と改めたと伝えられている 28 。この改名の経緯自体が、定勝の家が将軍家からいかに特別な配慮を受けていたかを示す貴重な証拠である。
定勝への崇敬は、死後も長く続いた。時代は下り、文政6年(1823年)、彼の子孫である伊予松山藩11代藩主・松平定通は、藩祖である定勝に「息長福玉命(おきながさきたまのみこと)」の神号を贈り、松山城内に東雲神社を創建して祀った。この神号は後に「東雲大明神」と改められ、定勝は久松松平家の守護神として神格化された 8 。これは、彼が単なる一人の大名を超え、子孫の繁栄を約束する神聖な祖として、後世まで深く敬愛されたことを意味している。
松平定勝の歴史的評価は、彼一代の功績に留まらない。彼の最大の遺産は、徳川の天下を支える強固な親藩ネットワークの礎を築いたことにある。彼の子女たちは、それぞれが重要な大名家の祖となったり、有力大名家へ嫁いだりすることで、徳川の支配体制を血縁の力で盤石なものにした。
【表2:松平定勝の主要な子女と家系の展開】
子女 |
名前 |
生没年 |
主な経歴・役割 |
婚姻相手・子孫(家系) |
典拠 |
長男 |
松平定吉 |
1585-1603 |
智勇兼備の嫡男。家康に武勇を披露するも叱責され自害。 |
未婚 |
1 |
次男 |
松平定行 |
1587-1668 |
伊予松山藩(15万石)初代藩主 。定勝家宗家2代。 |
島津家久の養女 |
1 |
三男 |
松平定綱 |
1592-1652 |
伊勢桑名藩(11万石)初代藩主 (定綱系)。 |
浅野長政の娘 |
1 |
長女 |
松尾君 |
1582-1635 |
家康の養女として嫁ぐ。 |
服部正就(譜代大名)正室 |
1 |
次女 |
阿姫 |
1595-1632 |
家康の養女として嫁ぐ。 |
山内忠義(土佐藩主)正室 |
1 |
四男 |
松平定実 |
1597-1632 |
旗本。定実系久松松平家の祖。 |
井上氏の娘 |
1 |
五男 |
松平定房 |
1604-1676 |
伊予今治藩(3万石)初代藩主 。 |
蜂須賀至鎮の娘 |
1 |
四女 |
菊君 |
1603-1677 |
|
酒井忠行(譜代大名)正室 |
1 |
六男 |
松平定政 |
1610-1673 |
三河刈谷藩主。幕政批判の建白書を提出し改易。 |
なし |
41 |
定勝の長男・定吉は、智勇に優れ、温厚な人柄から家臣の信頼も厚く、将来を嘱望された嫡男であった 26 。しかし、慶長8年(1603年)、父と共に家康を迎えた際、自らの弓の腕前を示そうと空を飛ぶ鷺を見事に射落とした。武勇の証ともいえるこの行為に対し、家康は「無益な殺生である」と厳しく叱責した。これを深く恥じた定吉は、掛川にて自害してしまった。享年19であった 8 。
この悲劇的な事件は、単なる若者の早すぎる死として片付けることはできない。関ヶ原の戦いが終わり、世が「元和偃武」と呼ばれる泰平の時代へと向かう中で、家康の叱責は、武功を誇示する戦国の価値観から、秩序と仁政を重んじる新たな治世者の価値観への転換を、最も近しい身内である定吉に教え諭そうとしたものと解釈できる。定吉の自害は、その新旧の価値観の狭間で、武士としての名誉を汚されたと感じた純粋さゆえの悲劇であり、時代の大きな転換期を象徴する出来事であったと言えよう。
兄・定吉の死によって、次男であった定行が嫡子となった。父・定勝の死後、桑名藩11万石を継承したが、寛永12年(1635年)、幕府の命により4万石の加増を受け、伊予松山15万石へと転封された 11 。
この配置は、幕府の西国支配戦略における極めて重要な一手であった。伊予松山は、中国・四国の外様大名、特にかつての敵対勢力であった毛利氏や長宗我部氏の旧領、そして強大な力を持つ島津氏を監視・牽制するための絶好の位置にあった。定行は、四国に初めて入部した親藩大名であり、その役割は軍事的にも政治的にも極めて重大であった 37 。定勝の血筋が、西国の抑えという徳川の藩屏の最前線に据えられたのである。
定行が伊予松山へ移った後、その弟である三男・定綱が伊勢桑名藩11万石を継承した 21 。これにより、定勝の家系は、西国の要・伊予と、東海道の要・伊勢という、二つの戦略的拠点を同時に支配することになった。この配置は、徳川の支配体制を盤石にするための、巧みな人事戦略であった。
さらに、この定綱の系統は後世、大きな発展を遂げる。江戸時代中期、この桑名藩(当時は白河藩へ転封中)に、将軍吉宗の孫である松平定信が養子として入る。後に老中として「寛政の改革」を断行する名君・定信の登場により、久松松平家は再び幕政の中枢で決定的な役割を果たすことになった 14 。
定勝の他の息子たちも、それぞれに重要な役割を担った。五男・定房は伊予今治に3万石の分家を立て、兄・定行の松山藩を補佐する体制を築いた。一方で、六男・定政は、将軍家光の死後に幕政を痛烈に批判する建白書を提出して領地を没収されるという、異色の経歴をたどった 41 。
また、娘たちは徳川政権の安定化に大きく貢献した。長女・松尾君は譜代大名の服部正就へ、次女・阿姫は土佐24万石の外様大名・山内忠義へ、四女・菊君は譜代大名の酒井忠行へと嫁いだ 1 。これらの婚姻政策は、有力大名を徳川の親族ネットワークに組み込み、幕府への忠誠心を高め、支配体制を内側から強化するための重要な手段であった。
松平定勝の生涯を俯瞰するとき、彼が単に「徳川家康の弟」という幸運な出自に恵まれただけの人物ではないことが明らかになる。彼は、戦国の荒波の中で自らの武功と一貫した忠誠心によって異父兄・家康の絶対的な信頼を勝ち取り、江戸幕府の礎を築いた重要な功労者の一人であった。
彼の役割は、若き日の武将としての勇猛さから、幕府の重鎮として戦略的要衝を預かる信頼性の高い管理者へと昇華していった。特に、畿内の抑えである伏見城代、そして西国への睨みを利かせる伊勢桑名藩主としての経歴は、彼が徳川の天下泰平においていかに重要な存在と見なされていたかを物語っている。
しかし、定勝の最大の功績は、彼一代の働きに留まらない。それは、自らが徳川の藩屏となるだけでなく、多くの子女をもうけ、彼らを西日本を中心とする要衝に大名として配置し、あるいは有力大名家と縁組させることで、徳川の支配体制を血縁という最も強固な絆で盤石なものにした点にある。伊予松山15万石、伊勢桑名11万石、伊予今治3万石という、彼の子らが築いた藩は、まさに徳川の天下を守るための防波堤そのものであった。
彼は、戦国武将としての気概と、近世大名としての忠実さを兼ね備えた、時代の転換期を体現する人物であった。その生涯と、彼が遺した久松松平家という巨大なレガシーは、江戸時代260年余にわたる平和の基盤が、いかにして築き上げられたのかを理解する上で、不可欠な要素であると言えるだろう。松平定勝は、歴史の表舞台で華々しい主役を演じることは少なかったかもしれないが、徳川という巨大な構造物をその根底から支え続けた、紛れもない「縁の下の力持ち」であった。