松平忠輝、徳川家康の六男。その名は、日本の歴史において特異な響きを持つ。一般に語られる彼の姿は、「父・家康にその容貌の醜さから『鬼っ子』と疎まれ、大坂夏の陣への遅参を咎められて改易された悲劇の武将」というものだろう 1 。しかし、その生涯を深く掘り下げると、この単純化された物語には収まりきらない、数多の矛盾と謎が浮かび上がってくる。
一方で、家康は忠輝に対し、織田信長、豊臣秀吉、そして家康自身と渡り歩いた「天下人の笛」とも称される名笛「野風」を与え、さらに200万両という破格の大金を与えたとも伝えられている 3 。冷遇された息子への不可解な厚情。これは単なる気まぐれか、それともそこには深遠な政治的意図が隠されていたのか。粗暴な暴君と非難される一方で、キリスト教宣教師と交流して複数の外国語を操り、武芸百般に通じた類稀なる文化人としての一面も持つ 3 。
本報告書は、松平忠輝という人物にまつわるこれらの矛盾に着目し、通説の裏に隠された複雑な実像に迫ることを目的とする。彼の生涯を、単なる一個人の悲劇としてではなく、徳川幕府という巨大な権力機構が形成される草創期の政治力学、徳川家という家族内部の葛藤、そして時代の奔流に翻弄された個人の資質が複雑に絡み合った歴史的産物として捉え直す。一次資料、二次資料に残された多様な記述を比較検討し 5 、疎外された貴公子が如何にして75万石の大守へと駆け上がり、そしてなぜ歴史の表舞台から姿を消さねばならなかったのか、その栄光と悲劇の全貌を、多角的な視座から解き明かしていく。
年号 |
西暦 |
忠輝の動向(年齢) |
関連人物・幕府の動向 |
国内外の主要な出来事 |
文禄元年 |
1592 |
徳川家康の六男として江戸城で誕生(1歳)。母は茶阿局。 |
母・茶阿局が家康の側室となる。 |
文禄の役 |
文禄3年 |
1594 |
(3歳) |
舅・伊達政宗の長女・五郎八姫が京都で誕生。 |
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慶長4年 |
1599 |
長沢松平家の家督を継ぎ、武蔵国深谷1万石を領す(8歳)。 |
弟・松千代が早世。 |
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慶長7年 |
1602 |
元服し、上総介忠輝と名乗る(11歳)。 |
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慶長8年 |
1603 |
下総国佐倉5万石に加増移封(12歳)。 |
兄・徳川秀忠が征夷大将軍に就任。 |
徳川幕府開府 |
慶長10年 |
1605 |
信濃国川中島12万石に加増移封(14歳)。 |
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慶長11年 |
1606 |
伊達政宗の長女・五郎八姫と結婚(15歳)。 |
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慶長14年 |
1609 |
養父・皆川広照ら家臣団との対立が表面化(18歳)。 |
家臣らが家康に忠輝の不行状を訴えるも、逆に処罰される。 |
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慶長15年 |
1610 |
越後国福島城主となり、合計75万石の大守となる(19歳)。 |
堀氏の改易に伴う措置。 |
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慶長18年 |
1613 |
附家老・大久保長安が死去。死後、不正蓄財が発覚(22歳)。 |
大久保長安事件。忠輝にも疑念が向けられる。 |
キリスト教禁教令(全国) |
慶長19年 |
1614 |
天下普請により高田城を築城。居城を移す(23歳)。 |
大坂冬の陣。忠輝は江戸城留守居役を命じられる。 |
大坂冬の陣 |
元和元年 |
1615 |
大坂夏の陣に参陣するも遅参。将軍直臣を斬殺(24歳)。 |
家康より勘当を言い渡される。 |
大坂夏の陣、豊臣家滅亡 |
元和2年 |
1616 |
兄・秀忠により改易。伊勢国朝熊へ配流(25歳)。五郎八姫と離縁。 |
父・徳川家康が死去。 |
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元和4年 |
1618 |
配流先が飛騨国高山へ移される(27歳)。 |
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寛永3年 |
1626 |
配流先が信濃国諏訪へ移される(35歳)。 |
三代将軍・徳川家光の時代。 |
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天和3年 |
1683 |
諏訪の配流先にて死去。享年92。 |
五代将軍・徳川綱吉の時代。 |
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松平忠輝の生涯を理解する上で、その原点である出自と幼少期の環境は決定的に重要である。彼の人格形成と運命を方向づけたのは、数奇な運命を辿った母の存在と、絶対的な権力者である父との複雑な関係性であった。
忠輝の母、茶阿局(本名はお久、または於八)の生涯は、それ自体が一つの物語である 7 。彼女は元々、遠江国金谷村(現在の静岡県島田市)の鋳物師の後妻であった 8 。しかし、その美貌が地元の代官の目に留まり、代官は彼女を我が物にするため、夫を闇討ちにするという凶行に及ぶ 8 。夫を殺されたお久は、幼い娘を連れて復讐を決意し、鷹狩りに訪れた徳川家康の一行の前に飛び出して直訴したと伝えられている 9 。
この劇的な直訴が、彼女の運命を大きく変える。家康は彼女の訴えを聞き入れ、代官を処罰すると、そのまま彼女を浜松城に召し出し、奥勤めをさせた 8 。この逸話が示すのは、彼女が単なる美貌の持ち主ではなかったという事実である。封建社会の厳しい身分制度の中、一介の民が最高権力者に直訴し、それを成功させるには、並外れた胆力、行動力、そして理路整然と状況を説明できる聡明さが必要であった 9 。彼女はその後、家康の信頼を得て側室となり、「茶阿局」を名乗る。さらには、浜松城の家内取り締まりを任されたり、故郷の寺社間の紛争を解決したりするなど、政治的な影響力をも持つ存在へと上り詰めた 8 。
彼女の出自には、地侍である山田氏の娘であったという説も存在する 8 。さらに注目すべきは、彼女の実兄が石田三成に仕える重臣であり、関ヶ原の戦いの後、その息子(茶阿局の甥)を忠輝の家老として取り立てているという記録である 8 。この人脈は、徳川政権、特に譜代の家臣団から見れば、潜在的なリスク要因と見なされた可能性がある。関ヶ原の戦いを経て成立した徳川の世において、「西軍」との繋がりは些細なことでも疑念の対象となり得た。忠輝が後に直面する構造的な警戒感の根源の一つが、この母方の「政治的に好ましからざる」背景にあった可能性は否定できない。
このように、自らの力で運命を切り開き、権力の中枢で確固たる地位を築いた母の主体性と行動力は、息子である忠輝の気質に色濃く受け継がれたと考えられる。権威に屈しない大胆さや型破りな性格は、この母の生き様に源流を求めることができるであろう。
忠輝と父・家康との関係は、一言で言えば「相克」であった。家康が忠輝を疎んだ理由は諸説紛々としており、その真相は定かではない。当時不吉とされた双子で生まれたため(弟の松千代は夭折) 1 、母・茶阿局の身分が低かったため 1 、あるいはその容貌が醜かったため 1 、さらには家康が自刃に追い込んだ長男・松平信康に面影が似ていたため、その苦い記憶を呼び起こさせたから、などと伝えられている 1 。
特に、『藩翰譜』などには、家康が生まれたばかりの忠輝を見て「捨てよ」と命じたという逸話が記されている 12 。これは家康の嫌悪感を示すものと解釈されがちだが、当時は子の健やかな成長を願って一度捨てるという儀礼を行う「捨て子」の風習も存在したことから 12 、一概に憎悪の表れと断定することはできない。
この「疎外」というテーマを考える上で、家康の次男・結城秀康の事例との比較は示唆に富む。秀康もまた、双子説や母の身分の低さを理由に、家康から冷遇された不遇な幼少期を送った 14 。しかし、秀康はその武勇と優れた判断力を後に家康に認められ、関ヶ原の戦いでは対上杉景勝の抑えという重責を任されるなど、最終的には武将として確固たる信頼を勝ち得ている 16 。
この二人の対比から見えてくるのは、家康の息子に対する評価基準である。出自や生まれは一つの要因であったかもしれないが、決定的なのはその後の本人の資質と行動であった。忠輝の場合、後述する非凡な才能を持ちながらも、その粗暴で制御不能な気性が、父の信頼を最終的に失わせる致命的な欠点となった。
一方で、家康の忠輝に対する感情は、単なる嫌悪だけでは説明がつかない。家康は死に際し、信長・秀吉から伝わる天下人の象徴「野風の笛」を、母・茶阿局を通じて忠輝に与えたとされる 3 。さらに、200万両もの大金を与えたという話もある 3 。これらは、断絶した関係の中にも残っていた複雑な親心の発露だったのか。あるいは、有能だが危険極まりない息子を、あえて将軍家の外に置くことで、幕府の「目付け役」として機能させようとした、家康ならではの高度な政治的計算だったのか。その真意は定かではないが、この矛盾こそが、父子の関係の複雑さを物語っている。
父から疎外され、下野国栃木の皆川城主・皆川広照に預けられて育った忠輝であったが、その才能は幼少期から抜きん出ていた 12 。家康の兵法指南役であった奥山休賀斎のもとで武術や兵法を学び、剣の達人にして軍略にも通じていた 3 。それだけでなく、楽器の名手でもあった 3 。
彼の特異性を最もよく示しているのが、国際的な知見への関心である。当時、幕府が禁教へと舵を切る中で、忠輝はキリスト教の宣教師と積極的に交流し、西洋医学や外国語を学んだ。ラテン語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語、英語をマスターしていたとさえ言われている 3 。異国の優れた文化を積極的に取り入れ、自国の発展に役立てるべきという、極めて開明的な思想の持ち主であった。これは、後に鎖国体制を国是とする徳川幕府の方向性とは、明らかに一線を画すものであった。
『玉輿記』や『柳営婦女伝系』といった史料には、「此人平生、行跡実に相協力、騎射万人に勝れ、両脇自然に三鱗あり、水練の妙、神に通ず。故に淵川に入って蛇龍を捜し、山に入って鬼魅を索め、剣術絶倫、性化現の人」と記されており、人間離れした超人的な能力を持つ人物として、同時代の人々から畏怖の念をもって見られていたことが窺える 4 。
しかし、この非凡な才能こそが、彼にとって諸刃の剣となった。幕府創成期の不安定な状況下において、その規格外の能力、特に外国への関心やキリスト教への寛容な姿勢は、幕府中枢、とりわけ兄である将軍・秀忠からすれば、秩序を乱しかねない危険な思想と映ったであろう。忠輝の才能は、彼を栄光に導くどころか、むしろ幕府からの警戒と嫉妬を招き、彼の孤立を深める一因となった。彼の悲劇の根源には、その卓越した才能が、時代と致命的にミスマッチであったという側面が存在するのである。
青年期の忠輝は、父からの疎外という逆境を乗り越え、破竹の勢いで出世街道を駆け上がる。その所領は最終的に75万石に達し、家康の子の中でも屈指の大大名となった。しかし、その栄光の裏では、幕府との緊張関係、そして自らの家臣団との深刻な軋轢が進行していた。
忠輝の出世は目覚ましいものであった。慶長4年(1599年)、わずか8歳で名門・長沢松平家の家督を継ぎ、武蔵国深谷に1万石を与えられたのが始まりである 1 。その後、慶長8年(1603年)には下総国佐倉5万石 1 、慶長10年(1605年)には信濃国川中島12万石へと、着実に加増移封を重ねていく 1 。
そして慶長15年(1610年)、越後福嶋騒動で堀氏が改易されると、家康はその後釜として忠輝を指名。従来の川中島12万石に加え、越後一国63万石が加増され、合計75万石という、将軍家の一門としても破格の所領を持つ大大名となった 21 。この事実は、「家康に嫌われていた」という通説だけでは到底説明がつかない。家康が忠輝の能力を高く評価し、北陸の要衝を任せるに足る器量の持ち主と認めていた証左と見るべきであろう。
ただし、広大な領国の経営は、当初、附家老として付けられた大久保長安が実質的に統括していた 22 。忠輝自身が藩政にどのような手腕を発揮したかを示す具体的な記録は乏しいが、後に築城する高田の城下町において、職人町や寺町を機能的に配置するなど、都市計画に意を尽くした痕跡は見られる 23 。
越後に入封した忠輝は、当初、堀氏が築いた福島城を居城とした。しかし、慶長19年(1614年)、幕府の「天下普請」として、内陸部の高田に新たな城を築くことを決定する 21 。この大規模なプロジェクトには、複数の戦略的意図が込められていた。第一に、出羽の上杉家、加賀の前田家という強力な外様大名への備え。第二に、佐渡金山の支配を強化し、その利益を確保すること。そして第三に、天下普請という形で諸大名に経済的負担を強いることで、その勢力を削ぐという幕府の基本政策の一環であった 1 。
この一大事業において、総監督(総奉行)を務めたのが、忠輝の舅である伊達政宗であった 1 。政宗をはじめ、上杉景勝、前田利常ら13家の大名が動員され、工事は驚くべきことに、わずか4ヶ月で完成した 1 。この異例の速さは、目前に迫っていた大坂の陣に備えるための、家康の強い意向が働いていたためとされる 12 。この高田城築城を通じて、忠輝と政宗の連携はより緊密なものとなった。しかし、将軍家の子と、奥州の覇者という野心を隠さない大大名との密接な結びつきは、江戸の幕府中枢に強い警戒感を抱かせるに十分であった。
栄華を極める忠輝の足元では、深刻な内紛が進行していた。その中心にあったのが、忠輝の粗暴な性格と、それを巡る家臣団の派閥対立である。忠輝の養父であり附家老の皆川広照、長沢松平家以来の家臣である松平清直と山田重辰。この三人は「上総介殿の三臣」と称され、主君である忠輝の不行状をたびたび強く諫めていた 12 。
しかし、忠輝はこうした諫言に耳を貸すどころか、かえって彼らを疎んじ、自らに従順な花井吉成(母・茶阿局の前夫との間の娘の婿)ら新参の側近を重用するようになる 6 。これにより、譜代の重臣と新参の側近との間で激しい対立が生じ、主従関係は破綻寸前であった 26 。
慶長14年(1609年)、事態はついに爆発する。皆川広照ら三臣は、駿府に隠居していた大御所・家康のもとへ赴き、忠輝の素行の悪さを直訴したのである 12 。これは、主君の非道を幕府に訴え、その裁定を仰ぐ「主君押込」の一種であった。しかし、知らせを受けた忠輝もすぐに駿府へ駆けつけ、「三臣が家中で権力をほしいままにしている」と逆に反論。さらには母・茶阿局が息子のために必死の取りなしを行った結果、家康は驚くべきことに、息子の弁明を全面的に聞き入れた 12 。
その結末は、訴え出た側にあまりにも過酷なものであった。主君を訴えた罪を問われ、筆頭格の皆川広照は改易、松平清直は減封、そして最も強く忠輝を諫めたとされる山田重辰は切腹を命じられたのである 12 。この一件は、忠輝の運命に決定的な影響を与えた。家康が息子の肩を持ったことで、忠輝の増長はもはや誰にも止められなくなった。何より、彼の行動を抑制し、軌道修正させる可能性のあった重臣という内部の重石が、この事件によって完全に取り除かれてしまった。自らの衝動を制御する機能を失った忠輝は、これ以降、破滅への道をひたすらに突き進むことになる。
大坂の陣での失態が忠輝改易の直接的な引き金とされているが、そのわずか2年前に発生した「大久保長安事件」こそ、彼の運命を事実上、決定づけたターニングポイントであった。この事件を境に、幕府にとって忠輝は「管理すべきリスク」から「排除すべき脅威」へと、その認識を大きく変えた可能性が高い。
大久保長安は、戦国から江戸初期にかけての時代を象徴する、異能のテクノクラートであった。元々は武田信玄に仕える猿楽師の子であったが、その卓越した鉱山経営や算術の能力を家康に見出され、武田家滅亡後に徳川家に仕えることとなる 28 。家康の庇護のもと、彼は驚異的な出世を遂げ、全国の金銀山の支配を任される「金山奉行」として、幕府の財政基盤を支える絶大な権勢を握った 29 。
その一方で、彼は忠輝の附家老として、その広大な領国経営を実質的に支える役割も担っていた 22 。忠輝の75万石という巨大な領地は、長安の行政手腕なくしては円滑な統治は不可能であったろう 29 。
しかし、その栄華は長くは続かなかった。慶長18年(1613年)に長安が病死すると、生前の不正な蓄財が露見する。その額は莫大なものであったとされ、幕府は長安の遺体を掘り起こして磔にするという、死後としては異例の厳しい処罰を下した。さらに、その息子7人は切腹、縁者も多数が連座して改易や処罰を受けるという、一大疑獄事件へと発展した 29 。
この事件の激震は、当然のことながら忠輝をも直撃した。長安は単なる附家老ではない。長安の六男は、忠輝の重臣である花井吉成(忠輝の異父姉の婿)の娘を妻に迎えており、両者の関係は姻戚関係にまで及ぶ、極めて密接なものであった 6 。このため、忠輝自身も幕府から厳しい追及と、拭い去りがたい疑念の目を向けられたことは想像に難くない。
さらに、この事件を巡っては、不穏な噂がまことしやかに囁かれた。それは、長安が伊達政宗と裏で結託し、忠輝を新たな将軍として擁立する倒幕計画を企てていた、というものである 31 。この説の真偽を確かめる術はない。しかし、そのような噂が流布したという事実自体が、幕府、特に将軍秀忠とその側近たちが、「忠輝=政宗」というラインをいかに危険視していたかを如実に物語っている。
大久保長安事件は、忠輝の運命に三つの決定的な打撃を与えた。第一に、彼の領国経営を支えていた実務的な支柱を完全に失ったこと。第二に、幕府中枢に「松平忠輝は、幕府転覆を企みかねない危険人物である」という強固なコンセンサスを形成させる決定的な契機となったこと。そして第三に、舅・伊達政宗との関係に、「謀反」という致命的な嫌疑を上塗りしてしまったことである。
この事件以降、忠輝はもはや単なる「素行の悪い将軍の弟」ではなくなった。彼は、幕府の安定を脅かす最大の脅威として認識されるに至ったのである。二年後に訪れる大坂の陣での彼の行動は、この既に固まっていた幕府の方針を実行に移すための、格好の口実として利用されたと解釈するのが、最も妥当な見方であろう。
元和元年(1615年)、豊臣家との最後の決戦である大坂夏の陣が勃発する。この戦いにおける松平忠輝の不可解な行動と、それに続く改易という結末は、彼の人生における最大のクライマックスであり、徳川幕府の非情な政治的意志が最も明確に示された瞬間であった。
大坂冬の陣では江戸城の留守居役を命じられ、不満を抱いていた忠輝は、夏の陣では満を持して大軍を率いて出陣した 12 。しかし、彼の行動は初めから不可解であった。まず、道中の近江守山において、自軍の進路を横切ったとして将軍・徳川秀忠の直属の旗本二名を斬殺するという事件を起こす 1 。当時の軍法では、他部隊の進路妨害に対する罰は馬や武具の没収であり、斬殺は明らかに過剰な処置であった。これは、兄である将軍・秀忠の権威に対する、公然たる挑戦行為と見なされても仕方がない。
さらに、主戦場である天王寺・岡山での決戦に遅参する。その理由については謎が多いが、後年、忠輝自身が家康に対し、遅参の理由を「舅の伊達政宗に進軍を妨害されたためだ」と弁明したという衝撃的な記録が残っている 32 。これが、責任を政宗に転嫁するための苦しい嘘であったのか、あるいは政宗が何らかの深謀遠慮から忠輝の軍を意図的に留め置いたのか、真相は藪の中である。
そして、決定的な失態は、5月7日の最終決戦において起こる。真田信繁(幸村)率いる決死隊が家康の本陣に猛突撃をかけ、家康自身が死を覚悟するほどの危機に陥った際、忠輝の軍勢は戦場のすぐ近くに布陣していながら、高みの見物をしていたと伝えられている 1 。父の最大の危機を前にして動かなかったこの行動は、豊臣方への内通を疑われても弁解の余地がない。それは、彼の幕府に対する根深い反感と、独立不羈の精神の最も過激な表出であったのかもしれない。
度重なる不行跡、特に夏の陣での一連の行動は、ついに父・家康の堪忍袋の緒を切らした。忠輝は家康から勘当を言い渡され、戦後、病に伏した家康との最後の対面さえも許されなかった 12 。彼は駿府城下の一寺院で父の死を待つしかなかったのである。
そして元和2年(1616年)4月、家康が死去。そのわずか3ヶ月後の7月、兄である二代将軍・秀忠は、忠輝に対して改易を命じた 1 。公式に挙げられた理由は、大坂夏の陣での遅参、旗本殺害、軍令違反といったものであった 12 。しかし、その背後には、秀忠政権の基盤を盤石にするため、潜在的な脅威であり、異分子である忠輝を徳川一門から完全に排除するという、冷徹な政治的意志があったことは明らかである 3 。
この忠輝の排除という決定は、徳川の統治体制を考える上で重要な意味を持つ。家康は、将軍家を支える磐石な体制として、自身の息子たちを始祖とする尾張・紀伊・水戸の「御三家」の創設を進めていた 34 。この構想は、将軍家に万が一後継者が絶えた場合に備えるとともに、徳川一門による全国支配を確固たるものにするためのものであった。この秩序だった権力構造の設計図において、将軍家に次ぐ75万石という巨大な石高を持ち、伊達政宗という一筋縄ではいかない大大名と姻戚関係にある忠輝の存在は、極めて異質でコントロール不能な要素であった。
したがって、忠輝の改易は、単なる懲罰ではなく、徳川宗家を頂点とするヒエラルキーを完成させるための、いわば構造的な必然であった。彼は、家康が描いた「徳川による平和(パクス・トクガワーナ)」の青写真からはみ出してしまった存在であり、その青写真を維持するためには、排除されなければならなかったのである。
忠輝の転落は、彼の妻である五郎八姫の運命をも大きく変えた。慶長11年(1606年)、忠輝は伊達政宗の長女である五郎八姫を正室に迎える 35 。これは、徳川と伊達という二大勢力を結ぶ、極めて重要な政略結婚であった 36 。
政略結婚ではあったものの、二人の夫婦仲は良好であったと伝えられている 10 。しかし、元和2年(1616年)の忠輝の改易に伴い、この婚姻関係は幕府の命令によって解消され、五郎八姫は父・政宗のもとへ送り返されることとなった 36 。彼女は、父が嘆くほどの美貌と聡明さを兼ね備えた女性であったという 39 。
彼女は熱心なキリシタンであったとされ、忠輝がキリスト教に理解を示したのも、その影響があったのかもしれない 3 。離縁後、彼女が生涯再婚しなかったのは、離婚を認めないキリスト教の教義を固く守ったためである、という説もある 39 。二人の間に公式な子供はいなかったとされるが、離縁後に仙台へ戻った五郎八姫が密かに男子を出産したという伝説も、悲劇の夫婦の物語に一層の哀愁を添えている 38 。
改易という決定は、25歳の忠輝を栄光の頂から奈落の底へと突き落とした。しかし、彼の物語はそこで終わらない。彼はその後、67年という長きにわたる配流生活を送り、92歳で大往生を遂げる。その後半生は、権力を剥奪された人間が如何にして尊厳を保ち、生き抜いたかを示す、驚くべき記録である。
元和2年(1616年)7月、忠輝は江戸を離れ、配流の旅に出た。最初の配流先は伊勢国朝熊(あさま)の金剛證寺であった 20 。ここで約2年間を過ごした後、元和4年(1618年)には飛騨国高山城主・金森重頼預かりとなり、高山へ移される 10 。この時、忠輝は移送を拒み、「このような仕打ちを受けるくらいなら、潔く死罪にしてくれ」と望んだと伝えられており、彼の誇り高い気性の一端を窺わせる 10 。
高山での8年間の後、寛永3年(1626年)、忠輝は35歳で信濃国諏訪藩主・諏訪頼水預かりとなり、高島城へと移された。ここが、彼の終の棲家となる 26 。
忠輝は、諏訪高島城の本丸南西に、彼を収容するために特別に増設された「南の丸」と呼ばれる屋敷で、実に58年という歳月を過ごした 6 。周囲を堀と柵で厳重に囲まれた隔離された空間ではあったが、その生活は必ずしも厳しい監禁生活ではなかったようだ 6 。
記録によれば、彼の生活は比較的自由が許されており、城下町を散策したり、夏の日には諏訪湖で泳いだりすることもあったという 6 。また、元々文化的な素養の深かった彼は、茶道や絵画に親しみ、悠々自適の晩年を送ったとされている 26 。
さらに、彼は地域社会との交流も持っていた。地元の文人と交友を結び 6 、また、預かり先の藩士である伊藤氏の娘・お須磨との間に男子をもうけたという逸話も残されている 43 。特に興味深いのは、権力者を嫌う流浪の旅芸人集団「倶儡子(くぐつ)」と気さくに交流し、彼らと共に路上で鍋を囲んで談笑するのを楽しみにしていたという話である 3 。こうした気さくで分け隔てのない人柄は、藩民からも慕われたという 3 。
75万石の大守から一介の流人へと転落しながら、絶望に屈することなく、92歳まで生き抜いたという事実。そして、配流先で新たな人間関係を築き、文化的な生活を営んだという記録。これらは、彼が単なる粗暴な暴君ではなかったことを雄弁に物語っている。その内には、いかなる逆境にも屈しない驚異的な精神力と適応能力、そして人々を惹きつける人間的な魅力が秘められていた。彼の後半生は、権力という外的要因を剥奪された後も失われることのなかった、一個の人間としての豊かさと強靭さの証明であった。
忠輝がその長い生涯を閉じたのは、天和3年(1683年)7月3日、五代将軍・徳川綱吉の治世であった 20 。彼が生まれたのは豊臣秀吉が天下を治めていた時代。その92年の生涯は、戦国の動乱の終焉から、江戸幕府の確立、そして安定期に至るまでの、日本の大きな時代の変化と完全に重なっている。
驚くべきは、幕府が最後まで彼への警戒を解かなかったことである。92歳の老人が配流先で死去した際にも、江戸からわざわざ検使役として服部久右衛門が派遣され、その死を厳重に確認している 20 。これは、忠輝という存在が、その死の瞬間まで、徳川幕府にとって潜在的な脅威であり続けたことを示している。彼の持つカリスマ性と、伊達家の血を引く妻がいたという事実は、幕府にとって決して無視できない不安要素だったのであろう。
彼の亡骸は諏訪の貞松院に葬られ、その墓は今なお、数奇な運命を辿った異端の貴公子の生涯を静かに物語っている 26 。
松平忠輝の生涯を多角的に検証してきた結果、浮かび上がるのは、単一のレッテルでは到底捉えきれない、極めて多面的で複雑な人物像である。彼は、家臣の諫言に耳を貸さず、将軍の直臣を斬殺する「粗暴な武人」であった。同時に、複数の外国語を操り、絵画や笛に長けた「非凡な才能を持つ文化人」でもあった。そして、父と兄の政治的判断によって歴史の表舞台から追放された「政治の犠牲者」でありながら、60年以上に及ぶ配流生活を生き抜き、地域の人々と交流した「逆境に屈しない強靭な精神の持ち主」でもあった。
彼の物語が、後世、隆慶一郎の小説『捨て童子・松平忠輝』に代表されるように、なぜこれほどまでに人々を惹きつけ、魅力的なアンチヒーローとして描かれ続けるのか 6 。その理由は、彼の生涯が内包する圧倒的なドラマ性、確立された権力への反抗、そして悲劇的な運命にあるだろう。彼の存在は、均質化と安定を求める社会システムの中で、規格外の個性がどのように扱われるかという普遍的な問いを我々に投げかける。
結論として、松平忠輝は、父・家康の複雑な愛情と冷徹な政治的計算、兄・秀忠の権力基盤確立への強い意志、そして舅・伊達政宗の尽きせぬ野心という、巨大な政治的歯車の狭間で翻弄された人物であったと言える。彼の持つ規格外の才能、国際的な視野、そして独立不羈の精神は、安定と秩序を至上命題とする徳川幕府の統治システムとは、根本的に相容れないものであった。それゆえに、彼は歴史の表舞台から排除されなければならなかったのである。
彼の92年の生涯は、一個人の悲劇であると同時に、徳川という巨大なシステムが「二百数十年の平和」を築き上げる過程で、必然的に生み出された一つの「歪み」の物語として理解することができる。彼は、そのシステムの完成のために切り捨てられた、最後の異端児だったのである。