最終更新日 2025-07-15

松平直政

雲州松平家の祖、松平直政公の生涯と実像

序章:二人の天下人の孫 ― 宿命と野心の萌芽

松平直政(1601-1666)は、江戸時代前期の大名であり、出雲松江藩18万6千石の初代藩主として、その後233年にわたる雲州松平家の礎を築いた人物である。彼の生涯を理解する上でまず着目すべきは、その類稀なる血脈である。父は徳川家康の次男・結城秀康、祖父は江戸幕府を開いた徳川家康。さらに父・秀康は、一時期、豊臣秀吉の養子となっていたため、直政は徳川家康と豊臣秀吉という、戦国乱世を終結させた二人の天下人を祖父に持つという、他に例を見ない貴種であった 1

この特異な出自は、父・秀康の複雑な経歴に起因する。家康の次男として生まれながら、双子であったため不遇な扱いを受け、小牧・長久手の戦いの後、人質として秀吉のもとへ送られ、その養子「羽柴秀康」となった。その後、北関東の名門・結城晴朝の養子となり結城氏を継いだ 4 。関ヶ原の戦いの功により越前北ノ庄68万石の大領を得てからは松平姓を称したとされるが 4 、その立場は徳川宗家とは一線を画す、独自の複雑さを内包していた。

直政は、慶長6年(1601年)8月5日、この結城秀康の三男として、近江国伊香郡河内(現在の滋賀県長浜市)で生を受けた 6 。幼名は出生地にちなみ河内丸(後に国丸と改める)と名付けられた 8 。母は秀康の側室であった三谷氏の娘・駒であり、正室の子ではなかった 9 。この出自は、彼の初期の境遇に大きな影響を及ぼすことになる。慶長10年(1605年)には家臣の朝日重政に預けられ、その養育を受けた 6

慶長12年(1607年)、父・秀康が34歳の若さで病没すると、家督は長兄の松平忠直が継承した。父という最大の庇護者をわずか6歳で失った直政は、これより兄・忠直の庇護下で成長する「部屋住み」の身分となる 6 。これは、将来の領地や地位が約束されていない、不安定な立場であった。徳川家康の孫という輝かしい血筋とは裏腹に、側室の子であり三男であるという現実は、彼に大きな制約を課したのである。

この不遇ともいえる初期の環境こそが、直政の強靭な精神と野心を育んだ揺り籠であったと分析できる。彼が自らの手で運命を切り拓かねばならないという強い自覚は、この時期に形成されたに違いない。その後の彼の行動原理を理解する上で、この部屋住み時代の経験は決定的に重要である。慶長16年(1611年)、11歳の時に兄・忠直の計らいで京都の二条城にて祖父・家康と謁見し、兄と養育役の朝日重政から一字ずつ取って「直政」と名乗ることを許された 6 。この謁見は、彼にとって自らの存在を徳川宗家に印象付ける最初の機会であった。そして、彼の胸中には、この血筋に相応しい功名を立て、自らの地位を確立したいという渇望が、静かに、しかし確実に芽生え始めていたのである。


第一章:初陣の誉れ ― 大坂の陣と若き武者

松平直政の名を歴史の表舞台に刻みつけたのは、慶長19年(1614年)に勃発した大坂の陣であった。この戦は、彼にとって単なる初陣ではなく、部屋住みの三男という境遇を打破し、自らの価値を天下に、そして何よりも祖父・徳川家康に示すための絶好の機会であった。

### 出陣への執念と家臣の忠義

大坂への出陣命令が越前北ノ庄城に届いた時、14歳の直政は大きな壁に直面する。部屋住みの身分であった彼には、出陣に必要な兵馬や武具を整えるための資金がなかったのである 9 。初陣を飾り、武功を立てるという彼の熱望は、立つ瀬もなく潰え去るかに見えた。この窮地を救ったのが、家臣・神谷兵庫の類稀なる忠義であった。神谷は自らの母に頼み込み、西本願寺から二千両という、当時としては破格の大金を借り受けてきたのである 7 。この資金により、直政はようやく出陣の準備を整え、兄・忠直の軍勢に加わることができた。この逸話は、直政が家臣からいかに期待され、慕われていたかを示すと同時に、彼の出陣がいかに切実なものであったかを物語っている。

### 真田丸での奮戦と「軍扇」の逸話

慶長19年12月4日、大坂冬の陣における真田丸の攻防戦で、直政は初陣を飾る 7 。兄・忠直が率いる越前勢の一員として、豊臣方の猛将・真田信繁(幸村)が守る難攻不落の出城・真田丸へと突撃した。14歳の少年とは思えぬ勇猛果敢な戦いぶりは、敵味方の注目を集めた。

この時、後世に語り継がれる有名な逸話が生まれる。直政の若武者ぶりに感嘆した敵将・真田信繁が、賞賛の意を込めて自らの軍扇を投げ与えたというものである 6 。この「真田の軍扇」は松江藩の至宝として代々受け継がれ、現在も松江城天守閣にその姿を伝えている 9

この逸話は、一般に直政の武勇を称える物語として知られているが、その背景を深く考察すると、異なる側面が見えてくる。真田信繁と直政の父・結城秀康は、共に豊臣秀吉に仕え、人質という似た境遇を経験した間柄であり、面識があった可能性が高い 13 。信繁にとって、眼前で無謀とも思える突撃を敢行する少年武者は、単なる敵兵ではなく、「旧知の結城秀康の遺児」であり、自らの子・大助とも重なる存在であったかもしれない。戦場で若き命が散るのを忍びなく思った信繁が、機転を利かせた行動であったとも解釈できる。軍扇を「褒美」として与えることで、直政は面目を失うことなく戦場から退く口実を得る。これは、信繁の温情であり、無益な殺生を避けるための高度な戦術的判断であった可能性も否定できない。この解釈は、直政の武勇を損なうものではなく、むしろ敵味方を超えた人間ドラマとして、この逸話に一層の深みを与えるものである 13

### 夏の陣での武功と祖父からの承認

翌年の大坂夏の陣においても、直政の武勇は衰えることを知らなかった。天王寺・岡山の最終決戦において、兄・忠直の軍が真田信繁隊と激突し、信繁を討ち取るという大功を挙げる中、直政もまた奮戦し、数多の敵将を討ち取った 6 。この時、家臣の武藤太兵衛が、恐怖で萎縮していないかを確認するために直政の陰嚢を握り、「殿のは縮んでおりません」とその豪胆さを確かめたという、戦場の生々しさを伝える逸話も残っている 7

母から「卑しき母の子として生まれたと後ろ指を差されることのないよう、祖父(家康)の目にかなうように」と諭されて戦場に臨んだ直政の願いは、見事に成就する 9 。戦後、祖父・家康は直政の武功を激賞し、褒美として自らが使っていた「打飼袋(食料などを入れる袋)」を授けた 6 。これは、単なる褒賞ではない。天下人・徳川家康から、その孫として、一人の武将として、公に認められたことの何よりの証であった。この打飼袋は、真田の軍扇と共に月照寺に現存し、直政の生涯の転機を物語る貴重な遺品となっている 6 。大坂の陣での活躍は、彼の未来を大きく切り開く、まさに決定的な一歩となったのである。


第二章:大名への道 ― 異例の出世と藩主としての歩み

大坂の陣で示した武功は、松平直政の運命を劇的に好転させた。部屋住みの身分から、彼は驚異的な速さで立身出世の階段を駆け上がっていく。その背景には、個人の能力に加え、徳川宗家との血縁という強力な後ろ盾が存在した。

### 独立大名への第一歩と兄の失脚

大坂の陣での功績により、直政はまず兄・忠直から越前国内に1万石を分与された 7 。そして元和2年(1616年)5月、幕府から正式に上総姉ヶ崎に1万石を与えられ、従五位下・出羽守に叙任される。これにより、彼は晴れて独立した大名となった 7 。その後、元和5年(1619年)には1万石を加増され、姉ヶ崎藩は2万石となる 14

彼の出世街道にさらなる追い風となったのが、皮肉にも兄・忠直の失脚であった。忠直は、大坂の陣で真田信繁を討つという第一等の功績を挙げながらも、期待した大幅な加増がなかったことへの不満などから次第に酒に溺れ、家臣を斬殺するなど数々の乱行が目立つようになった 15 。幕府はこの問題を看過できず、元和9年(1623年)、忠直に隠居を命じ、豊後国(現在の大分県)へ配流処分とした 8

兄の没落と対照的に、直政は着実に評価を高めていく。寛永元年(1624年)、忠直の旧領から3万石を加増され、越前大野5万石の藩主へと移封された 7 。兄の挫折が、結果として弟の飛躍を促す形となったのである。

### 従兄弟・家光との厚い信頼関係

直政の異例の出世を理解する上で最も重要な要素は、3代将軍・徳川家光との関係である。直政は家光の従兄弟にあたり、幼少時から懇意であったと伝えられる 9 。この親密な血縁関係が、彼のキャリアにおける最大の推進力となった。

その象徴的な出来事が、寛永10年(1633年)に信濃松本7万石へ移封された後の政策である。寛永13年(1636年)、直政は松本に新銭座を設け、幕府の公式通貨である「寛永通宝」の鋳造を許可された 8 。通貨鋳造は国家の根幹に関わる事業であり、通常、7万石程度の小藩の主に許される特権ではない。これは、家光からの絶大な信頼がなければ到底不可能なことであり、直政が単なる譜代大名ではなく、徳川宗家にとって特別な存在であったことを明確に示している。

松本藩主としての直政は、為政者としても優れた手腕を発揮した。松本城に月見櫓と辰巳附櫓を増築して城郭を整備し、その際に呼び寄せた職人たちの人足役を免除した 9 。さらに、城下町の地子年貢(地代)も免除するなど、善政を敷いて領民から大いに慕われたと伝えられている 8

### 国持大名への栄転

そして寛永15年(1638年)、直政の経歴は頂点を迎える。出雲・隠岐を領していた京極忠高が嗣子なく没し改易となると、その後任として直政が抜擢されたのである。彼は11万6千石もの加増を受け、合計18万6千石で出雲松江藩へ移封。同時に幕府の直轄地であった隠岐国1万4千石も預かることとなり、名実ともに出雲一国を治める「国持大名」の仲間入りを果たした 7

部屋住みの三男として始まった彼の人生は、大坂の陣での武功を足掛かりに、将軍家光との強い絆を最大限に活用することで、わずか20年余りで国持大名にまで上り詰めた。彼の軌跡は、個人の武勇と政治的手腕、そして時代の権力構造が複雑に絡み合った、江戸時代初期ならではの成功物語であった。

【表:松平直政の立身出世の軌跡】

時期 (西暦)

石高

主な出来事・役職

1615年

越前福井藩内

1万石

大坂の陣の功により兄・忠直から分与 7

1616年-1624年

上総姉ヶ崎藩

1万石→2万石

独立大名となる。従五位下・出羽守に叙任 7

1624年-1633年

越前大野藩

5万石

兄・忠直の改易に伴い加増移封。従四位下・侍従 8

1633年-1638年

信濃松本藩

7万石

寛永通宝の鋳造。松本城の増改築 8

1638年-1666年

出雲松江藩

18万6千石

雲州松平家の初代藩主となる。隠岐国も預かる 2


第三章:出雲の国主として ― 松江藩233年の礎を築く

寛永15年(1638年)、38歳で出雲松江藩主となった松平直政は、これまでの武人としての顔に加え、優れた領国経営者としての一面を開花させる。彼が築いた藩政の基盤は、その後2世紀以上にわたる松平家の支配を支える強固な礎となった。彼の統治スタイルは、領内の実情に即した「継承と発展」を基本とする柔軟な姿勢と、徳川親藩としての立場を明確に示す厳格な姿勢を併せ持つ、「剛柔一体」のものであった。

### 藩政の基盤固めとインフラ整備

直政は、入封するとまず藩政の安定化に着手した。前藩主・京極忠高の政策を基本的に継承することで、領内の混乱を巧みに避けた 9 。家臣団については、信濃松本から率いてきた自らの家臣に加え、前領主である京極氏の遺臣も積極的に登用し、新たな支配体制を構築した 19 。特に、乙部氏、三谷氏(直政の生母の実家)、神谷氏(出陣資金を調達した兵庫の家)、朝日氏(養育役の家)といった、直政が深く信頼する家々を代々家老職に就け、藩政の中枢を固めた 19

領国経営において直政が最も力を注いだのが、長年の懸案であった治水事業である。出雲平野は、暴れ川として知られる斐伊川の氾濫に度々悩まされてきた。直政は、前藩主・京極氏が着手していた流路変更工事を継承・発展させ、斐伊川の本流を完全に宍道湖へ流入させる大工事を完成させた 21 。さらに、明暦3年(1657年)には「若狭土手」と呼ばれる堤防を築くなど、精力的に治水に取り組み、水害の軽減と新田開発の基礎を築いた 9

また、堀尾吉晴によって築かれた松江城と城下町の整備も進めた 6 。堀尾氏が定めた軍事防衛的な骨格を維持しつつ、松平氏の時代を通じて武家地や町人地が拡張され、元禄期(17世紀末)から享保期(18世紀初頭)にかけて、現在につながる城下町の姿が完成していった 22

### 産業の振興と文化の導入

直政は、出雲国が持つ潜在的な経済力にも着目した。古くからこの地で盛んであった「たたら製鉄」を藩の重要産業と位置づけ、田部家、櫻井家、絲原家といった「鉄師」と呼ばれる製鉄業者を保護・統制することで、藩財政の安定化を図った 20 。直政が入封した時期は、これらの鉄師たちが事業を本格化させる時期と重なっており、彼の支援がその後の発展に寄与したと考えられる 25

また、後に「雲州木綿」として全国に名を馳せる木綿生産も奨励した 27 。江戸時代を通じて松江藩の財政を支えることになる鉄と木綿という二大産業の基礎は、初代藩主である直政の時代に固められたのである 28

文化面においても、直政は大きな遺産を残している。前任地である信濃国松本からそば打ちの職人を伴って移り住み、その技術を伝えた。これが今日の「出雲そば」の起源になったとされている 30 。これは、彼の統治が単なる経済・インフラ整備にとどまらず、地域の文化を豊かにすることにも目を向けていた証左である。

### 厳格な統治:キリシタン弾圧

一方で、直政は統治者として極めて厳格な一面も持ち合わせていた。当時、幕府が国策として最も厳しく禁じていたキリスト教に対して、彼は徹底した弾圧を行った。その厳しさは、前領主の堀尾氏や京極氏とは「比べ物にならないほど苛烈であった」と伝えられている 7 。これは、彼が徳川宗家の一員、親藩大名としての立場を強く自覚し、幕府への絶対的な忠誠を行動で示そうとした結果であった。領内に対しては実利を重んじる柔軟な姿勢を見せる一方で、幕府の基本方針に対しては一切の妥協を許さない。この剛柔併せ持った統治こそが、松江藩の長期的な安泰を確固たるものにしたのである。


第四章:直政の実像 ― 「油口」の才と数々の逸話

松平直政は、武勇や行政手腕だけでなく、その個性的な人柄を伝える数々の逸話によっても知られている。これらの逸話は、彼の人間的な魅力を浮き彫りにすると同時に、彼が激動の時代を生き抜き、大藩の主として成功を収めた要因を解き明かす鍵となる。

### 「油口」と評された弁舌

直政は非常に弁舌に長けた人物であったとされ、その巧みな口ぶりから、影では「油口(あぶらぐち)」と揶揄されるほどであったという 9 。「油口」という言葉には、ややもすればおべっかや口先だけといった軽薄な響きがある。しかし、彼の生涯を俯瞰すると、この卓越したコミュニケーション能力が、彼の政治的成功を支える重要な資質であったことがわかる。

例えば、将軍家光との親密な関係を維持するためには、単に従兄弟という血縁だけでは不十分であったはずだ。幕府の中枢で自らの立場を有利にし、時には困難な交渉をまとめる上で、彼の弁舌の才、すなわち「油口」と評された外交術が大きな力を発揮したことは想像に難くない。これは、彼が持つ重要なソフトパワーであった。

### 機知と頓智の君主像:「このしろ伝説」

直政の機知に富んだ人柄を最も象徴するのが、松江城にまつわる「このしろ伝説」である 32

寛永15年(1638年)、直政が松江に入国し、初めて松江城の天守閣最上階(天狗の間)に登った時のこと。突如として一人の美しい女性の霊が現れ、「この城は、わらわが城なり」と告げた。並の人物であれば度肝を抜かれるこの場面で、直政は臆することなく、即座にこう切り返した。「このしろ(城)が欲しければ、明日にでも漁師に獲らせて進ぜよう」 32 。この見事な頓智に、女の霊は煙のように消え去ったという。その後、直政は実際に魚のコノシロを天守に供え、それ以来、霊が現れることはなくなったと伝えられる 33

この伝説は、松江城築城の際に人柱になった娘の霊の物語 33 と結びつきながら、直政の動じない胆力と機転を後世に伝えている。予期せぬ危機的状況に対し、言葉(この場合は駄洒落)を用いて瞬時に状況を掌握し、解決に導く能力。これは単なる頓智ではなく、彼の危機管理能力と精神的な強靭さの発露と見ることができる。「油口」と「このしろ伝説」は、表裏一体の能力を示している。すなわち、平時における交渉力と、有事における即応力であり、いずれも彼の言葉の力に基づいていた。この才覚は、大坂の陣で見せた武勇とは異なる、直政のもう一つの武器であった。

### 信仰心と最期

直政は、信仰心の篤い人物でもあった。松江入封後、夢枕に立った稲荷神のお告げに従い、城内に稲荷社を創建した。これが現在の城山稲荷神社の始まりである 34 。また、信州松本から松江へ移る際に、お抱えの大工職人たちを伴っており、彼らを大切にした姿勢も伝えられている 12

晩年、直政は藩主として最後の大役を務める。寛文3年(1663年)、幕府の命により霊元天皇即位の賀使として上洛した 7 。しかし、この大役が心労となったのか、同年暮れに病に倒れる。その後、体調が回復することなく、寛文6年(1666年)2月3日、江戸の藩邸にてその生涯を閉じた。享年66 10

彼は臨終に際し、「我が百年の後、命終わらば、この所(月照寺)に墳墓を築き、葬送の地とせよ」との遺言を残した 10 。この遺言に従い、月照寺は直政以降、松江藩主代々の菩提寺となり、現在もその廟所が荘厳な姿で残されている 7


終章:松平直政が遺したもの

松平直政の66年の生涯は、不遇な境遇から自らの才覚と努力で道を切り開き、徳川御家門の名に恥じない大藩の礎を築き上げた、まさに立志伝中の物語であった。彼が歴史に残した功績は、単に一つの藩の創始者であるにとどまらず、江戸時代初期における為政者の理想像の一つを提示した点にある。

直政が初代藩主となって以降、雲州松平家は明治維新に至るまで10代、233年間にわたり出雲国を安定的に統治した 2 。彼が整備した治水事業、奨励した鉄や木綿といった産業、そして確立した藩政の仕組みは、後継の藩主たちにとって盤石の基盤となった。さらに、次男・近栄に広瀬藩3万石、三男・隆政に母里藩1万石を分与して支藩を創設し、松平一門による出雲支配体制をより強固なものにした 19

彼の人物像を再評価するならば、その複合的な能力にこそ本質がある。大坂の陣で示した勇猛果敢な「武」、藩主として発揮した現実的かつ的確な「政」の手腕、そして「油口」や「このしろ伝説」に見られる機知に富んだ「智」。これら三つの要素を高いレベルで兼ね備え、状況に応じて自在に使い分けることのできる、極めてバランス感覚に優れた人物であった。

松平直政の生涯は、血筋という宿命を背負いながらも、それに安住することなく、自らの力と政治的嗅覚を駆使して未来を掴み取った一人の人間の記録である。彼は、徳川幕府の安定期へと向かう過渡期において、武将から行政官へと役割が変化していく大名の姿を体現していた。彼が築いた松江の地は、その後の文化的な隆盛(七代藩主・松平不昧の茶の湯文化など)を迎えることになるが、その全ての始まりは、この初代藩主・松平直政の確かな一歩にあった。彼の功績は、松江の歴史、ひいては江戸時代の地方政治史において、不滅の価値を放ち続けている。

引用文献

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  2. 1609 松江歴史館 松江藩主 松平直政の生涯 - SENgoKU anD VISIon -乱世を追う- https://ranseoi.hatenablog.jp/entry/2016/11/03/180311
  3. 祖父は家康と秀吉 松江藩主 松平直政の生涯-真田丸攻めで初陣を飾った武将 https://matsu-reki.jp/catalog/19_naomasa/
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  11. スポット展示>いろいろな松平直政初陣図 - 松江歴史館 https://matsu-reki.jp/exhibition/spot220830/
  12. 松江旅情 22 月照寺 ②初代藩主松平直政公 | 航海記 歌いながら行くがいい https://gunship07sungship.blog.fc2.com/blog-entry-27.html
  13. 考察 「松平直政 真田軍扇の話」は在り得るのか? : 戦国を歩こう http://blog.livedoor.jp/sengokuaruko/archives/50397479.html
  14. 松江松平家 - 探検!日本の歴史 https://tanken-japan-history.hatenablog.com/entry/matsue-matsudaira
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  16. 血筋も才能も一流なのに……徳川家康の次男の子「松平忠直」はなぜ強制隠居となったのか? https://mag.japaaan.com/archives/204345
  17. 松江藩〜越前系松平家が治めるをわかりやすく解説 - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/han/250/
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