慶長5年(1600年)9月15日、美濃国関ヶ原。天下分け目の合戦の趨勢を、その一挙手一投足で決定づけた小早川秀秋の裏切り。この歴史的転換点において、その軍勢の中にありながら、主君の「不義」なる命令を断固として拒絶し、沈黙のうちに戦場を去った一人の武将がいた。その名は、松野主馬重元(まつの しゅめ しげもと) 1 。この劇的な行動により、彼は後世「武士の鑑」として称揚され、その名は忠義と義烈の象徴として語り継がれることとなる。
しかし、「忠義の士」という一面的な評価は、彼の複雑で波乱に満ちた生涯の全体像を十分に捉えきれているとは言い難い。重元の生涯は、主君への諫言という一点のみに集約されるものではない。本報告書は、松野重元の出自から、豊臣秀吉に見出された青年期、小早川家での重責、関ヶ原での決断、そして二つの主家(田中家、徳川忠長)に仕え、謎に包まれた晩年に至るまでの軌跡を、現存する資料に基づき徹底的に追跡するものである。特に、通説となっている京都での死と、鳥取藩士の旧家に伝わる『多田家資料』が示す陸奥白河での死という、二つの異なる終焉説を比較検討し、彼の生涯の真実に迫ることを目的とする 3 。
松野重元の行動を理解する上で重要なのは、彼の行動が表層的な主君への「不忠」の裏に、より高次の規範への忠誠を秘めていた点である。主君・小早川秀秋の命令に背き戦線を離脱するという行為は、通常であれば厳罰に処されるべき主命への反逆である 2 。しかし、彼が発したとされる「左様なる不義の軍法は小早川家には無き事に候」(そのような不義な戦のやり方は小早川家にはない)という言葉は、彼の判断基準が主君個人の命令の絶対性ではなく、その命令が「義」に適うか否かという点にあったことを明確に示している 4 。彼が守ろうとしたのは、秀秋個人への忠誠ではなく、豊臣家から連なる「小早川家」の武門の誉れであった。戦の途中で味方を裏切る「楯裏の裏切り」は、その誉れを永久に汚す「不義」であると彼は断じたのである。この行動は、結果として豊臣家への恩義を貫いたと見なされ、敵方であった徳川家康からも咎められることなく、むしろ戦後の田中吉政への高禄での仕官へと繋がった 3 。これは、彼の行動が当時の武士の倫理観の中でも一定の理解と尊敬を集めたことを示唆している。したがって、彼の行動は単なる不忠ではなく、「義」を貫くための諫言の究極の形であり、近世武士道における忠義の概念の複雑さを象徴する事例と言えよう。
年代(西暦/和暦) |
年齢(推定) |
出来事 |
所属/役職 |
知行/扶持 |
典拠資料 |
不詳 |
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松野重定の子として誕生。通称・平八。 |
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3 |
天正10年(1582) |
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伯父・松野一忠、本能寺の変後に追腹。 |
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3 |
天正15年(1587) |
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父・松野重定、九州征伐で戦死。 |
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3 |
天正19年(1591) |
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父を継ぎ秀吉に仕え、丹波に300石を得る。 |
豊臣秀吉 馬廻 |
300石 |
3 |
天正20年(1592) |
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豊臣姓を賜る。知行1万石となる。 |
豊臣秀吉 家臣 |
1万石 |
3 |
文禄4年(1595) |
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秀吉の命で小早川秀秋の付家老となる。鉄砲頭に任じられ、従五位下主馬首に叙任。 |
小早川秀秋 重臣 |
(1万石) |
3 |
慶長5年(1600) |
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関ヶ原の戦いで秀秋の裏切りに与せず戦線離脱。 |
小早川秀秋 重臣 |
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2 |
慶長6年(1601)頃 |
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田中吉政に仕官。筑後松延城の城代家老となる。 |
田中吉政 家老 |
1万2,000~1万3,000石 |
3 |
元和6年(1620) |
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田中家改易に伴い浪人。同年9月、徳川忠長に仕官。 |
徳川忠長 家臣 |
不詳 |
3 |
寛永10年(1633) |
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徳川忠長改易・自刃に伴い、再び浪人。 |
浪人 |
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3 |
正保元年(1644) |
(72歳頃) |
(白河説) 幕命により本多忠義預かりとなる。 |
本多忠義 預かり |
100人扶持 |
3 |
明暦元年(1655) |
(83歳頃) |
8月14日、死去。 |
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3 |
松野重元の強固な倫理観と行動原理の源泉を探るには、彼が育った松野一族の背景に光を当てる必要がある。彼の行動は、彼個人の資質のみならず、松野家に流れる「主君への忠義と自己犠牲を厭わない」という家風に深く根差していると考えられる。
重元の伯父にあたる松野一忠(平介)は、織田信長の馬廻衆として仕えた武将であった。天正10年(1582年)の本能寺の変で主君・信長が横死すると、一忠はその死を悼み、「追腹をして果てた」と記録されている 3 。これは、主君と運命を共にすることこそ武士の道とする、当時の理想的な殉死の姿であり、主君への絶対的な忠誠を命をもって示したものであった。
一方、重元の父である松野重定(平八)は、美濃の土岐氏に仕えた後、豊臣秀吉の馬廻として仕えた 4 。そして天正15年(1587年)、秀吉が天下統一の総仕上げとして行った九州征伐において、父・重定は戦死を遂げている 3 。主君のために戦場で命を散らすこともまた、武士の本懐とされた。
伯父の殉死と父の戦死。この二つの死は、その形こそ異なるものの、「主君への忠義」という一点で共通している。重元は、このような壮絶な忠義を貫いた肉親の物語を間近に聞き、その背中を見て育ったに違いない。その価値観は、彼の精神的支柱となり、人格形成に決定的な影響を与えたと推察される。したがって、重元が関ヶ原で主君の「不義」を拒絶したのは、松野家の人間として、父や伯父が示したような「真の忠義」の道から外れることは断じてできないという、一族の歴史と誇りを背負った上での、必然的な決断であったと考えることができる。
父・重定の死後、重元はその跡を継いで豊臣秀吉に仕えることとなった 3 。当初は、天正19年(1591年)に丹波国多紀郡に300石の知行を与えられる小身の武将に過ぎなかった 3 。しかし、彼の内に秘めた武勇や知略、そして忠勤の精神は、やがて天下人・秀吉の目に留まることになる。
天正20年(1592年)、重元は秀吉から直々に「豊臣」の姓を賜るという、破格の栄誉に浴した。同時に、その知行は1万石へと大幅に加増される 3 。これは、彼が単なる一武将から、秀吉の信頼が篤い直臣、すなわち大名格の人物へと、異例の出世を遂げたことを意味する。この急速な台頭は、彼の能力がいかに高く評価されていたかの証左であり、後の小早川秀秋への付家老抜擢という、彼の運命を大きく左右する人事に繋がる重要な伏線であった。
文禄4年(1595年)、豊臣政権の権力構造に大きな変化が訪れる。秀吉に実子・秀頼が誕生したことで、それまで養子であった羽柴秀俊(後の小早川秀秋)の立場は微妙なものとなった。秀吉は、この秀俊を西国の重鎮・小早川隆景の養子とした 9 。これは、豊臣政権による西国大名、特に強大な毛利家に対する統制策の一環であり、秀秋の存在は極めて政治的な意味合いを帯びていた。
この年、秀秋が丹波亀山城から筑前名島城(福岡)へと移封される際、秀吉は自身の信頼する直臣である松野重元を、「特に小早川氏の重臣として附け」た 3 。これは単なる家臣の派遣ではない。秀吉恩顧の重元を送り込むことで、若く経験の浅い秀秋を補佐すると同時に、その動向を監視し、豊臣家の意向を徹底させる「傅役(もりやく)」としての役割を期待された人事であった可能性が極めて高い。
さらに、重元はこの時、小早川家の軍事の中核をなす「鉄砲頭」に任じられている 3 。当時、最新兵器であった鉄砲隊を統括するこの役職に、譜代の家臣ではなく秀吉直臣の重元を就けたことは、小早川家の軍事力を実質的に豊臣政権の管理下に置こうとする、秀吉の深謀遠慮が透けて見える。
秀秋の重臣として筑前へ赴くにあたり、重元は朝廷より従五位下主馬首(しゅめのかみ)の官位に叙任された 1 。後世に広く知られる「松野主馬」という通称は、この官途名に由来する。この官位は、彼が小早川家中においても特別な地位にあることを内外に示すものであった。
しかし、その立場は必ずしも安泰ではなかったと考えられる。秀吉から送り込まれた「付家老」である重元と、小早川家譜代の家臣団、さらには秀秋が独自に登用した稲葉正成(後の春日局の夫)のような新興の側近との間には、目に見えない緊張関係や主導権争いが存在した可能性が指摘されている 11 。資料によっては重元が「丹波以来の家臣」と記されていることから 11 、彼は秀秋のキャリア初期からの側近グループに属し、毛利以来の譜代層とは異なる派閥を形成していた可能性も示唆される。こうした複雑な家中力学の中で、重元は秀吉から託された重責を果たそうと努めていたのであろう。
慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後に顕在化した徳川家康と石田三成の対立は、ついに天下を二分する関ヶ原の戦役へと発展した。松野重元は主君・小早川秀秋に従い、西軍の一員としてこの歴史的な戦いに臨む。緒戦である伏見城攻めに参戦した後 3 、秀秋率いる1万5,000の小早川軍は、決戦の地・関ヶ原の南西に位置し、戦場全体を見下ろす戦略的要衝、松尾山に布陣した。
9月15日、合戦の火蓋が切られる。戦況は当初、石田三成らが率いる西軍に有利に進んだ。しかし、松尾山の小早川軍は動かない。西軍からの再三の催促にも応じず、秀秋は日和見の態度を続けた。この膠着状態に業を煮やした東軍の徳川家康が、秀秋の決断を促す威嚇射撃、いわゆる「問い鉄砲」を松尾山に撃ち込ませたのを合図に、秀秋はついに東軍への寝返りを決断。眼下で奮戦する西軍・大谷吉継の部隊へ攻撃を開始するよう命令を下した 12 。
この土壇場での裏切りという、武士として最も不名誉とされる行為に対し、鉄砲頭として先鋒部隊を率いていた重元は敢然と異を唱えた。彼は秀秋からの使者に対し、あるいは直接秀秋に、次のように諫言したと伝えられる。「東方へ加勢の思召しならば初めよりそう仰せられるべきである。今になって東方に加勢するのは『楯裏の裏切り』(味方のふりをして背後から討つ卑劣な行為)に他ならない。左様な不義の軍法は、小早川家には断じて無い。我ら、この儀には同意致しかねる」と、命令を断固として拒絶した 2 。
この言葉は、彼の行動原理が「主君の命令」という絶対的な規範の上位に、「武家の名誉」や「義」という、より普遍的な倫理を置いていたことを明確に物語っている。秀秋や家老からの再度の説得にも応じず、諫言が聞き入れられないと悟った重元は、主君の不義に加担することを潔しとせず、自らが率いる部隊と共に静かに戦場から離脱し、出奔した 3 。この主君への忠誠と武士としての矜持との間で後者を選んだ彼の決断は、後世にまで語り継がれ、その姿は関ヶ原合戦図屏風にも描かれているとされる 1 。
関ヶ原での重元の行動は、結果的に豊臣家への恩義を貫いたと評価された。戦後、徳川家康からその忠義を咎められることはなく、むしろ新たな仕官の道が開かれる。彼を召し抱えたのは、関ヶ原で石田三成を捕縛する大功を挙げ、筑後一国を与えられて柳川32万石の大名となった田中吉政であった。吉政は、小早川家との軋轢をも覚悟の上で重元の器量を見込み、1万2,000石(一説に1万3,000石)という、家臣団の中でも最高クラスの破格の厚遇で彼を迎え入れた 3 。
重元は、柳川藩の支城である山門郡の松延城(別名・吉井城)の城代家老に任じられた 3 。ここで彼は、戦場での武勇伝のみに留まらない、卓越した才能を開花させる。それは、優れた行政官としての手腕であった。戦国武将の評価は、しばしば戦場での武功に偏りがちであるが、重元は藩政の重職を担い、特に治水事業や堤防工事でその能力を遺憾なく発揮した。彼自身も治水巧者として名高い主君・吉政の下 15 、領内の河川改修などを指揮し、その功績は領民から深く感謝された。彼が改修を手掛けた川は、親しみを込めて「主馬殿川」と呼ばれ、その名は後世まで語り継がれたという 3 。この治績は、彼が戦乱の世を生き抜く戦闘技術だけでなく、泰平の世を治めるための民政・土木技術をも兼ね備えた、極めて有能な人物であったことを示す動かぬ証拠である。この行政手腕こそが、後に主家が断絶してもなお、彼が浪人として埋もれることなく新たな仕官先を見出すことができた大きな要因であったに違いない。
元和6年(1620年)、田中家は二代目の忠政が嗣子なく死去したため、無嗣断絶により改易となる。これにより、重元は再び浪々の身となった 3 。しかし、彼の能力を求める声はすぐにかかる。同年9月、彼は駿河大納言・徳川忠長に仕官することになった 3 。
忠長は、二代将軍・徳川秀忠の三男であり、三代将軍・家光の弟という、徳川宗家直系の貴公子であった 7 。しかし、その出自ゆえに兄・家光との間には確執が絶えず、その立場は常に政治的に微妙で不安定なものであった。重元のキャリアは、有能でありながらも、仕えた主君がことごとく悲劇的な結末を迎えるという不運の連続であった。最初の主君・小早川秀秋は関ヶ原の汚名を着たまま21歳で夭折し 4 、次の主君・田中家は二代で断絶した。そして三番目の主君・徳川忠長もまた、その例外ではなかった。
寛永10年(1633年)、忠長は数々の不行状を理由に幕府から改易を命じられ、上野国高崎にて自刃に追い込まれた 3 。これにより、重元は三度目の主君を失い、60歳を過ぎて再び仕えるべき家を持たない浪人となった。これらの主家の没落は、いずれも重元自身の責任によるものではない。彼は常に有能な家臣として忠勤に励みながらも、時代の大きなうねりの中で、ついに安住の地を得ることができなかった。彼の生涯は、個人の能力や忠誠心だけではどうにもならない、戦国から江戸初期への権力移行期を生きた武士の悲哀を体現しているかのようである。
徳川忠長の改易後、松野重元の後半生は深い謎に包まれている。彼の死については、大きく分けて二つの説が存在し、どちらが真実であるか、今なお議論が続いている。この二つの説は、単なる没地の違いに留まらず、江戸幕府という新たな統治体制の中で、重元という存在がどのように扱われたかという、彼の晩年の生き様そのものに関わる本質的な問いを投げかけている。
長く一般に信じられてきたのは、京都でその生涯を閉じたとする説である。この説によれば、徳川忠長の改易後、重元はどの藩にも再仕官することなく京都で隠棲し、明暦元年(1655年)8月14日に病のため静かに息を引き取ったとされる 3 。墓所は、京都市右京区にある臨済宗の大本山・妙心寺の塔頭である海福院と伝えられている 3 。この海福院は、同じく豊臣恩顧の武将である福島正則が建立した寺院である 17 。この説は、諸侯からの厚禄での誘いを断り、「二君に仕えず」の気概を貫いて隠士として生涯を終えたという、潔い武士の美学を想起させるものであり、物語性に富んでいる。
近年、この通説に一石を投じたのが、旧鳥取藩士の多田家に伝来した古文書群『多田家資料』である。この資料が示す重元の晩年は、京都での静かな隠棲生活とは全く異なるものであった 3 。
この説によれば、忠長改易後、重元は駿府、後に大津に居宅を構えていたが、その存在は確立期にあった江戸幕府から危険視されていたという。かつて1万石以上の知行を領し、多くの家臣を抱えたまま浪人している有力武将は、体制の不安定要因となりかねなかった。正保元年(1644年)8月、江戸城の評定所は、龍造寺伯庵や加藤風庵といった他の有力浪人と共に、松野重元の処遇を協議した。その結果、幕府は治安対策上の観点から、彼らを江戸から遠ざけることを決定する 3 。
これにより、重元は越後村上藩主であった本多忠義に「御預け」の身となり、監視下で生活することになった。ただし、罪人としてではなく、100人扶持を与えられるという、彼の格に配慮した形での軟禁状態であった 3 。その後、本多忠義が陸奥白河藩へ転封となると、重元もそれに従って白河へ移り、京都説と同じ明暦元年(1655年)、83歳でその波乱の生涯を閉じたとされる 3 。
この白河説は、物語的なロマンには欠けるものの、江戸初期における幕府の具体的な統治政策(有力浪人の管理)と連動しており、歴史的実像としては非常に説得力が高い。「御預け」という具体的な処遇や「100人扶持」という扶持額まで記録されている点は、その信憑性を補強している。この説に従うならば、重元の晩年は、自らの意思で世を捨てた「隠士」ではなく、幕府の統制下に置かれ、不自由な生活を強いられた「元大名」であったことになる。それは、関ヶ原で「義」を貫いた武士が、泰平の世においては、体制を脅かす可能性のある「危険人物」として管理されるという、時代の非情な現実を浮き彫りにしている。
松野重元の生涯は、戦国乱世の終焉と江戸幕藩体制の確立という、日本史上最大の転換期を、その身一つで体現するものであった。彼は、豊臣秀吉に見出された武人としてキャリアの頂点を極め、関ヶ原では自らの「義」を貫いて主君に背き、泰平の世では有能な行政官として治績を残した。しかし、そのキャリアは常に主家の没落という不運に見舞われ、最後は新時代の秩序の中で管理される存在として生涯を終えた可能性が高い。
彼の歴史的意義を再評価する時、彼は単なる「豊臣恩顧の頑固な忠臣」という枠に収まる人物ではないことがわかる。彼の関ヶ原での行動は、主君への盲目的な服従を是とした中世的な忠誠観から、主君の命令が「義」に適っているかを自ら判断し、然るべき道を選ぶという、より理性的で内省的な近世的武士道への過渡期を象徴している。
例えば、同じく西軍として戦い、豊臣家への義理を尽くして敗れた立花宗茂は、改易され浪人となった後もその武勇と人望を徳川家康に認められ、最終的に旧領柳川への復帰という奇跡を成し遂げた 20 。また、前田利政は、人質に取られた妻子や家康への反発から中立を保った結果、改易されている 22 。これらに対し、重元の選択は「戦場での不作為」という、極めて特異な形での意思表示であった。彼は戦いもせず、降伏もせず、ただ自らの信じる「義」に反する命令を拒否し、戦場を去った。
松野重元の生涯を追うことは、戦国武将の多様な生き様と、泰平の世が確立される過程で、彼らが如何にして自らの「武士としての在り方」を模索し続けたかを理解するための、貴重な鍵を我々に提供してくれる。彼の名は、単なる美談としてではなく、時代の矛盾と苦悩を一身に背負い、自らの信念に従って生きた一人の生身の人間の記録として、記憶されるべきである。
人物名 |
重元との関係 |
概要 |
典拠資料 |
松野一忠(平介) |
伯父 |
織田信長の馬廻。本能寺の変後に殉死。重元の忠義観に影響を与えたと考えられる。 |
3 |
松野重定(平八) |
父 |
豊臣秀吉の馬廻。九州征伐で戦死。 |
3 |
豊臣秀吉 |
主君 |
重元を300石から1万石に引き立て、豊臣姓を与えた恩人。 |
3 |
小早川秀秋 |
主君 |
秀吉の命で付家老として仕える。関ヶ原で裏切り、重元に諫言される。 |
4 |
田中吉政 |
主君 |
関ヶ原後、重元を1万2,000石で召し抱える。筑後柳川藩主。 |
3 |
徳川忠長 |
主君 |
田中家改易後に仕官。二代将軍秀忠の三男。後に改易・自刃。 |
3 |
本多忠義 |
預かり主(白河説) |
幕命により重元を預かる。越後村上藩主、後に陸奥白河藩主。 |
3 |
松野重時 |
子 |
(多田家資料)父と共に本多家に同行し、後に400石で仕えたとされる。 |
19 |
一柳直末の娘 |
妻 |
豊臣系の武将、一柳直末の娘と伝えられる。 |
3 |