序論:板垣信方という武将
本報告書は、戦国時代の甲斐武田氏に仕えた武将、板垣信方(いたがき のぶかた)の生涯、業績、人物像、そして後世への影響について、現存する資料に基づき詳細かつ徹底的に調査し、その実像に迫ることを目的とする。板垣信方は、武田信虎・信玄の二代にわたり武田家を支え、特に武田信玄の傅役(もりやく、教育係)として、また家中の重臣、軍事指揮官として、その草創期から発展期に至るまで極めて重要な役割を果たした人物である 1 。彼の生涯は、武田家の興隆と分かち難く結びついており、その多岐にわたる活動は、単なる一武将の枠を超え、政治家、教育者、そして軍略家としての側面をも併せ持っていたことを示唆している。本報告書では、これらの側面を各章で詳細に検討していく。
信方は武田二十四将の一人に数えられる名将として知られるが 1 、その評価は後世の軍記物である『甲陽軍鑑』に依拠する部分も大きい。そのため、本報告書では関連史料の性質にも留意しつつ、信方の実像を多角的に明らかにすることを目指す。彼の傅役としての信玄への影響、信虎追放における役割、武田家中での地位、軍事・内政両面での功績、そして悲劇的な最期に至るまで、その生涯を丹念に追うことで、戦国という時代を生きた一人の武将の姿を浮き彫りにしたい。
第一章:板垣信方の生涯と出自
一、生誕と家系
板垣信方の生年については、1489年(延徳元年)頃とされているが 5 、生年不詳とする資料も存在し 2 、確定的ではない点に留意が必要である。いずれにせよ、戦国時代初期から中期にかけて活躍した武将であったことは間違いない。
板垣氏は、清和源氏の流れを汲む名門であり、甲斐源氏の祖である武田信義の次男(三男説もあり 4 )、板垣三郎兼信を始祖とする 2 。これは、板垣氏が武田家にとって単なる家臣ではなく、親族衆という極めて近い関係にあったことを示している 1 。武田氏の分家筋にあたるこの家格は、信方が武田家中で重用された背景の一つと考えられる。源頼朝の時代、板垣兼信はその強勢を警戒され、一時不遇をかこったが、その子孫は甲斐国に残り、武田宗家に仕え続けた 4 。信方は、この板垣兼信から数えて十三世孫 1 、あるいは十五世孫 4 とされる。資料によって代数に差異が見られるものの、彼が由緒正しい家柄の出身であったことは明らかである。板垣家の家紋は「花菱(裏花菱)」、そして信方個人の馬印は「三日月」であったと伝えられている 1 。このような家格と武田家との親密な関係は、信方が若き日の武田信玄の傅役という重責を担い、後に最高幹部へと登用される上で、その個人的能力に加えて大きな意味を持ったであろう。主家に対する忠誠心の高さを示すものと見なされやすい親族衆という立場は、特に武田信虎から信玄への政権移行期のような不安定な時期において、信玄が信方を信頼する上で重要な要素となったと考えられる。
二、武田信虎の時代
板垣信方は、武田信玄の父である武田信虎の代から武田家に仕えた宿将であった 3 。信虎が甲斐国の統一を進め、さらに信濃国への勢力拡大を図る中で、信方はその武将として、また時には交渉役として重要な役割を果たした。
特に天文9年(1540年)、信虎による信濃国佐久郡への侵攻においては、敵城十数城を陥落させるという目覚ましい軍功を挙げている 8 。これは、信方が単に勇猛なだけでなく、攻略戦術にも長けていたことを示唆している。また、軍事面での活躍に留まらず、信虎の命を受けて甲斐国内の国衆(在地領主層)との交渉にも奔走し、多くの国衆を武田家に従わせることに成功したという 3 。この経験は、彼が武力だけでなく、外交や説得といった知略にも長けていたことを示しており、後の信玄時代における多岐にわたる貢献の基盤を形成したと言えるだろう。
この時期の経験を通じて、信方は「武は民を守るためにある」「理なき戦は民を苦しめるだけ」といった為政者としての理念を培った可能性も指摘されている 3 。これらの言葉は、彼が単に主君の命令に従うだけでなく、統治者としての視点や民衆への配慮を持っていたことをうかがわせる。信虎時代における軍事・交渉両面での実績と、そこで培われたであろう理念は、後の武田信玄からの深い信頼を得る上で、そして諏訪郡代としての善政へと繋がる重要な要素であったと考えられる。
第二章:武田信玄の傅役として
一、若き晴信(信玄)の教育と薫陶
板垣信方の経歴において特筆すべきは、武田信虎の嫡男である晴信(はるのぶ、後の武田信玄)の傅役(もりやく)、すなわち守り役であり教育係を務めたことである 1 。傅役は、次期当主となるべき子弟の人格形成や統治者としての素養育成に深く関与する極めて重要な立場であり 7 、信方がこの役に任じられたことは、彼が武田家中でも特に信頼され、かつ高い識見を持つ人物と目されていたことを示している。
傅役としての具体的な教育内容に関する直接的な史料は乏しいものの、信方が晴信の人間形成やリーダーシップの涵養に大きな影響を与えたことは想像に難くない。例えば、武田信玄が和歌や詩文を好む教養豊かな一面を持っていたこと 10 は知られているが、信方自身も後年、増長した信玄を和歌を用いて諫めたという逸話が残っており 11 、こうした文化的素養が教育の一環として伝えられた可能性も考えられる。また、信方が中国の古典兵法である『孫子』を重んじ、智略を得意としていたこと 3 は、若き晴信の戦略的思考の形成にも影響を及ぼしたかもしれない。
この傅役という立場を通じて、信方と晴信の間には単なる主従関係を超えた、師弟にも似た強い信頼の絆が育まれたと考えられる。後に晴信が父・信虎を追放して家督を相続する際、信方がその中心的な役割を担い 2 、新政権発足と同時に甘利虎泰と共に最高職である「両職」に任命された 7 事実は、晴信からの絶大な信頼なくしてはあり得ない。この強固な信頼関係の萌芽は、傅役時代に遡ると見るのが自然であり、信方は晴信の才能を見抜きその成長を助ける中で、晴信もまた信方の忠誠心と卓越した能力を深く理解していったのであろう。
二、武田信虎追放への関与とその役割
天文10年(1541年)、武田晴信(信玄)が父・信虎を駿河へ追放し、家督を相続したクーデターは、武田家の歴史における大きな転換点であった。この政変において、板垣信方は極めて重要な、中心的な役割を果たしたとされている 2 。
史料によれば、信虎が娘婿である今川義元のもとを訪れていた留守を狙い、晴信は信方、甘利虎泰、飯富虎昌、小山田虎満といった重臣たちの支持を得て、信虎の甲斐への帰路を封鎖し、事実上の追放を断行した 7 。このクーデターは極秘裏に進められ、その成功のためには周到な準備と有力家臣たちの結束が不可欠であった。中でも板垣信方は、他の重臣たちを説得し、計画実現に向けて主導的な役割を担ったと言われている 7 。
信虎追放の理由としては、信虎の悪逆非道な振る舞い、例えば理不尽な家臣の粛清や、妊婦の腹を割いたといった逸話が後世の軍記物などで語られることが多い 10 。しかし、これらの話は晴信の行動を正当化するために後から付加された可能性も指摘されており、慎重な検討が必要である 10 。一方で、信虎の専横的な統治に対し、家臣たちの間に不満が高まっていたことも事実であったようだ 12 。
このような状況下で、晴信の傅役であり、彼から深い信頼を得ていた信方が、クーデター計画の中核を担ったことは想像に難くない。信方は、晴信の決断を後押しし、その知略と交渉力をもって他の重臣たちをまとめ上げ、計画の成功に不可欠な役割を果たしたと考えられる。この信虎追放の成功は、板垣信方の政治的手腕と家中における影響力の高さを示すものであり、これにより、晴信政権下における彼のさらなる重用が約束されたと言えるだろう。
第三章:武田家中の重鎮
一、「両職」への就任:甘利虎泰との関係と武田家最高職としての職務
武田信玄が父・信虎を追放し家督を相続すると、板垣信方は甘利虎泰(あまり とらやす)と共に、武田家の最高職である「両職(りょうしょく)」に任命された 7 。これは、信玄初期の政権運営における重要な人事であり、信方の武田家における地位を象徴するものである。
「両職」の具体的な職務内容については詳細な史料が乏しいものの、『甲陽軍鑑』などの記述によれば、軍事および内政の両面にわたる国政の中枢を担う、文字通り武田家の最高指揮官、あるいは家老職に相当する重職であったと推測される 2 。信玄が父を追放するという異例の形で家督を継いだ直後であり、新当主の権力基盤が必ずしも盤石ではなかったこの時期に、信虎時代からの宿将であり家中からの信望も厚かった信方と虎泰を政権の中枢に据えることは、旧臣たちの支持を取り付け、新体制への移行を円滑に進めるための巧みな人事戦略であったと考えられる。
板垣信方と甘利虎泰は、共に信虎・信玄の二代に仕えた宿将であり、武田家の譜代家老として重きをなした 13 。両者は同じ「両職」という職位にあったが、一説には信方の方が立場が上であったとも言われている 7 。この二人の重臣に権力を分担させることで、特定の個人への権力集中を防ぎ、信玄自身のリーダーシップを発揮しやすくする狙いもあったのかもしれない。武田家の家臣団制度に見られる合議制的な要素 17 の文脈でこの「両職」を捉えることも可能であろう。奇しくも、この二人の宿老は、後の天文17年(1548年)の上田原の戦いにおいて共に討死するという運命を辿ることになる 14 。
「両職」の設置は、信玄の巧みな統治術の一端を示すものであり、武田家の安定と発展に寄与した重要な制度であったと言える。板垣信方がその一翼を担ったことは、彼の卓越した能力と、信玄からの絶大な信頼の証左である。
二、内政における手腕:甲州法度之次第への関与の可能性、諏訪郡代としての統治
板垣信方は、その軍事的な才能だけでなく、内政においても優れた手腕を発揮した武将であった。武田家の分国法として名高い「甲州法度之次第」の制定に、信方が何らかの形で関与した可能性が示唆されている 20 。山本勘助の意見が反映されたという伝承もあるが 20 、信方が「両職」として民政の中枢を担っていたことを考慮すれば 2 、この重要な法典の編纂に彼の知見が生かされたとしても不思議ではない。
信方の内政手腕が具体的に発揮されたのが、諏訪統治である。天文11年(1542年)に武田氏が諏訪氏を滅ぼした後 21 、信方は翌天文12年(1543年)頃に諏訪郡代(上原城城代)に任じられ、諏訪・伊那地方の占領地経営を担った 2 。諏訪は信濃攻略における武田方の最前線基地であり、戦略的に極めて重要な地域であった 21 。そのような拠点の統治を任されたことは、信方が信玄から統治能力においても全幅の信頼を得ていたことを物語っている。
諏訪郡代としての具体的な統治政策に関する詳細な史料は限られているが 22 、信方は諏訪衆を巧みに掌握し、彼らを率いて信濃経略戦で戦功を挙げたとされる 2 。これは、単に武力で押さえつけるだけでなく、被占領地の人々を武田方の戦力として組み込むことに成功したことを意味する。武田信玄は、諏訪頼重の子である虎王を名目上の後継者として立てるなど 21 、懐柔策も用いており、信方はこの方針に沿って統治を進めたと考えられる。かつて信方が抱いたとされる「民を守る武」という理念 3 が、この諏訪統治においても発揮され、比較的安定した支配の実現に寄与したのかもしれない。武田晴信(信玄)が信方に対し「汝は刀より筆の方が強いようだな」と評したという逸話 3 は、彼の知略や交渉能力が、こうした内政面でも高く評価されていたことを示唆している。信方の諏訪統治の成功は、武田氏の信濃支配における重要な布石となり、その後の占領地経営の一つのモデルケースとなった可能性も考えられる。
三、軍事的功績:主要な合戦(諏訪攻略、佐久郡侵攻、小田井原の戦い、葛尾城攻略など)における活躍
板垣信方の武名は、数々の合戦における卓越した指揮と戦功によって築かれた。信虎の時代からその武勇は知られており、天文9年(1540年)の信濃佐久郡侵攻では、敵城十数城を陥落させるという目覚ましい活躍を見せている 8 。
信玄の代になると、その軍事的才能はさらに開花する。天文11年(1542年)の諏訪攻略戦においては、甘利虎泰と共に軍の先頭に立ち、中心的な役割を果たした 3 。『甲陽軍鑑』などの記述によれば、信方は地形を巧みに利用した包囲戦を提案し、さらには内応工作を進めるなど、智略を駆使して諏訪氏を追い詰めたとされる 3 。
諏訪平定後も、信方の活躍は続く。天文11年(1542年)または翌12年(1543年)には、関東管領上杉憲政が派遣した援軍を、佐久郡の小田井原(おだいばら)において撃破する大勝利を収めた 2 。これは、武田軍の信濃における優位を決定づける重要な戦いであった。
さらに、天文13年(1544年)には、北信濃の有力国衆である村上義清の拠点の一つ、葛尾城(かずらおじょう)攻略において、信方の提案した夜襲作戦が功を奏し、これを陥落させたとされる 3 。また、小県郡(ちいさがたぐん)においては、地元の豪族との同盟締結に成功するなど、武力だけでなく調略面でも大きな成果を上げ、武田家の勢力拡大に貢献した 3 。
これらの戦功により、信方は「武田一の合戦上手」と評されることもあったという 2 (山本勘助による評価とされる)。彼の軍事的功績は、単に一軍を率いる将としての勇猛さだけでなく、戦略眼、戦術の柔軟性、そして調略をも含めた総合的な軍事能力の高さを示すものであり、武田信玄の信濃攻略戦略を初期段階で支えた最大の功労者の一人であったと言える。
第四章:人物像と逸話
一、智将としての一面:戦略、交渉術、『孫子』の活用
板垣信方は、勇猛な武将であると同時に、深い知略を備えた「智将」としての一面も有していた。彼自身(あるいは彼について記した『甲陽軍鑑』の筆者)が「戦場での武勇より、智略を得意としていた」と述懐するように 3 、その戦い方は単なる力押しに頼るものではなかった。
敵国との交渉、内通者の活用、奇襲や陽動といった多角的な戦術を駆使し、正面からの武力衝突だけではない戦い方を常に模索していたとされる 3 。特に、中国の古典兵法書である『孫子』の教えを深く理解し、実践していたことは注目に値する。「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず」という『孫子』の言葉を座右の銘とし、合戦の前には必ず敵情の偵察、地形の調査、そして味方の兵力や士気の確認といった綿密な準備を怠らなかったという 3 。このような情報収集と分析に基づく体系的な戦略思考は、戦国時代において先進的なアプローチであった可能性があり、武田軍の強さの一翼を担ったと考えられる。
興味深いことに、信方の子孫とされる板垣退助もまた、『孫子』を丸暗記するほど熟知していたと伝えられている 4 。これは、信方の知将としての側面や兵法への造詣が、家学として、あるいは武田流軍学の一部として、後世の板垣家に受け継がれていた可能性を示唆している。信方のこの側面は、武田信玄自身の軍略思考にも影響を与えた可能性があり、彼の智将としての評価を確固たるものにしている。
二、山本勘助の推挙とその慧眼
板垣信方の人物眼の鋭さを示す逸話として、山本勘助(やまもと かんすけ)を武田晴信(信玄)に推挙したとされる件が挙げられる 2 。当時、山本勘助は浪人であり、その容貌や出自などから武田家中の多くの家臣からは評価されず、仕官に反対する声も少なくなかったという 2 。
そのような状況下で、信方は勘助の持つ非凡な才幹を見抜き、晴信に強く推挙したと伝えられている。結果として、山本勘助は武田軍の中核を担う軍師として活躍し、数々の戦功を挙げ、武田信玄の覇業に大きく貢献することになる。この一点だけでも、信方の推挙がいかに的確であり、先見の明に富んでいたかがわかる。
この逸話は、信方が旧来の慣習や家中の評判、あるいは表面的な評価にとらわれることなく、個人の本質的な能力を見抜く力に長けていたことを示している。多様な人材を登用し、その能力を最大限に活用したとされる武田信玄の組織運営にも通じるものがあり、信方のこの姿勢は信玄の考えと軌を一にするものであったのかもしれない。
NHK大河ドラマ『風林火山』などの創作物においては、山本勘助や、彼が世話をしたとされる諏訪御料人(由布姫)にとって、板垣信方が唯一の後ろ盾となる頼もしい存在として描かれることがある 2 。これは、信方の度量の大きさと、才能ある者に対する理解の深さを象徴するエピソードとして、広く語り継がれている。
三、性格と評価:廉直義烈、晩年の増長と信玄による和歌の逸話
板垣信方の性格については、史料によっていくつかの側面が伝えられている。軍記物『甲越信戦録』においては、「邪(よこしま)なことが嫌いな廉直義節(れんちょくぎせつ)の勇士」と評されている 2 。義に外れた行いを厳しく律したため、時には周囲から憎まれることもあったが、主君である武田晴信(信玄)は、その廉直さを深く信頼していたという 2 。これは、信玄の傅役時代からの忠誠心や、信虎追放における功績、そして両職としての働きぶりからもたらされた信頼であろう。
一方で、特に晩年においては、長年の功績と高い地位からか、増長とも取れる振る舞いが見られたとする記述も存在する。『甲陽軍鑑』などによれば、戦勝の際に晴信の許可を得ずに勝鬨の儀式や首実検を行うようになり、軍才もやや衰えが見られたとされる 11 。このような信方の振る舞いに対し、晴信は次のような和歌を送って、その行き過ぎをそれとなく諫めたという有名な逸話がある。
「誰もみよ、満つればやがて欠く月の 十六夜(いざよい)ふ空や、人の世の中」 11
この歌は、「満月もやがては欠けていくように、人の世も栄華が永遠に続くものではない。そのことを理解しているだろうか」といった意味合いで、信方の馬印が「三日月」であったこと 1 に掛け、月の満ち欠けに人の世のありようを重ねて諭したものである。信玄が直接的な叱責ではなく、このような教養ある形で諫言したのは、かつての傅役に対する敬意の表れであったか、あるいは信方の功績とプライドに配慮した高度なコミュニケーションであったとも解釈できる。
また、信方は野心家でやや気性の激しい面もあり、自分が武田家を支えているという強い自負心を持っていたが、それゆえに信玄からはある種の警戒感も抱かれていたという評価も存在する 25 。これらの逸話は、板垣信方の性格が、若い頃の廉直さと忠誠心、そして晩年の自信や自負心に起因する可能性のある増長という、二面性を持っていた可能性を示唆している。これは、長年にわたり武田家の中枢にあったことによる人間的な変化とも解釈でき、信玄との関係性の機微を示すものとして興味深い。
四、煙草にまつわる伝承
板垣信方にまつわる興味深い伝承の一つに、煙草との関わりがある。信方は愛煙家であったと言い伝えられており、その最期の地である長野県上田市の上田原古戦場跡に建てられた墓所(板垣神社)には、現代に至るまで訪れる人々によってタバコが供えられているという 26 。
さらに、上田原の合戦において、緒戦で勝利した信方が首実検を行っている最中、煙草を吸って休憩していたところを村上軍の不意の反撃に遭い、討死したという逸話も存在する 4 。
これらの伝承の史実性については慎重な検討が必要である。日本への煙草の伝来は16世紀末頃とされており、信方の没年である天文17年(1548年)の時点では、彼が生前に喫煙していた可能性は低いと考えられる。
しかし、史実としての確証とは別に、このような伝承が生まれ、現代まで語り継がれている事実は、板垣信方という歴史上の人物が、地域の人々にとって単なる過去の武将ではなく、人間味あふれる親しみやすい存在として記憶され、敬愛されていることの現れと見ることができる。特に、墓所にタバコが供えられるという習俗は、彼への供養の形として定着しており、地域文化の中で信方が生き続けていることを示している。この煙草にまつわる伝承は、歴史上の人物がどのように記憶され、後世の文化の中で意味づけられていくかの一例として、非常に興味深いものである。
第五章:上田原の戦いと最期
一、合戦の経緯と戦術的側面
天文17年(1548年)2月(旧暦3月)、武田晴信(信玄)は、北信濃に勢力を張る村上義清(むらかみ よしきよ)を討伐するため、大軍を率いて信濃国小県郡(ちいさがたぐん)へ進軍した 3 。これが、武田信玄にとって初の本格的な敗北として知られる上田原(うえだはら)の戦いの発端である。
武田軍は、まず諏訪の上原城で板垣信方率いる諏訪衆などと合流し、大門峠を越えて小県郡南部に侵攻した 28 。一方、村上義清は居城である葛尾城(坂城町)と戸石城(と いしじょう)を拠点とし、軍勢を率いて上田原に進出。産川(うぶかわ)を挟んで武田軍と対峙する形となった 28 。
戦術的な側面を見ると、村上方は山際に本陣を構えたことで戦場全体を見渡しやすく、武田軍の動きを把握する上で有利な位置を占めていたとされる 18 。兵力では武田軍が優勢であったと見られるが、村上義清は寡兵ながらも巧みな戦術を用いたと伝えられている。一説には、義清は緒戦で意図的に敗走を装い武田勢を誘い込み、油断したところを反撃に転じたとも言われている 18 。
この上田原の戦いは、それまで連勝を重ねてきた武田信玄にとって、手痛い敗北となった。この一戦で、武田軍は板垣信方、甘利虎泰という二人の宿老を同時に失うという甚大な損害を被った 18 。この敗北は、武田軍の慢心や油断が招いた結果とも言え、信玄に大きな教訓を与えた戦いであった。また、村上義清の武将としての評価を不動のものとした戦いでもあった。
二、板垣信方の奮戦と討死:最期の状況と武田軍への影響
上田原の戦いにおいて、板垣信方は甘利虎泰と共に武田軍の先鋒を務めた 2 。緒戦においては、信方率いる部隊は村上軍の一部を打ち破るなど、勇猛果敢に戦ったと伝えられている 11 。
しかし、その後の戦況は武田軍にとって不利に転じる。『甲陽軍鑑』などの記述によれば、緒戦の勝利に気を緩めた信方は、勝鬨をあげて首実検を始めた 11 。その隙を突いて態勢を立て直した村上軍が急襲し、信方は馬に乗ろうとしたところを敵兵に槍で突かれ、壮絶な討死を遂げたとされる 11 。この時、煙草を吸って休憩していた際に不意を突かれたという逸話も残っている 4 。異説としては、退却する村上軍を深追いしすぎたために孤立し、反撃に転じた村上軍の武将、上条織部によって討たれたという説もある 11 。
板垣信方の戦死は、天文17年2月14日(新暦1548年3月23日)のこととされている 4 。享年は60であったという 19 。信方の討死は武田軍に大きな衝撃を与え、彼が率いていた板垣隊は総崩れとなり、武田軍全体も大きな損害を出す結果となった 18 。この戦いで信玄自身も二箇所の傷を負い、一時危機に陥ったが、工藤助長(後の内藤昌豊)らの奮戦によって窮地を脱したと伝えられている 18 。
板垣信方と甘利虎泰という、信玄を支えてきた二人の宿老の死は、武田家にとって計り知れない損失であった。単に有能な指揮官を失っただけでなく、信玄にとっては精神的な支柱をも失うことを意味したであろう。この敗北と宿老の死は、信玄に大きな教訓を与え、その後の慎重な戦略や家臣団の再編成、世代交代を進める一つの契機となったとも考えられる 19 。信方の最期は、一時の勝利に油断した結果の悲劇として描かれることが多いが、これは単に個人の油断というよりも、それまでの武田軍の連戦連勝がもたらした組織全体の慢心の現れであった可能性も否定できない。
三、墓所(板垣神社)について
板垣信方が討死したとされる地は、現在の長野県上田市下之条付近である 26 。この地には、信方の墓とされる五輪塔が建てられ、後に鳥居なども設けられて「板垣神社」として祀られるようになった 4 。
この板垣神社には、信方が愛煙家であったという伝承にちなみ、今もなお訪れる人々によってタバコが供えられている 26 。また、墓所の五輪塔と並んで立つ碑には、「もののふの夢さますなよ鉦叩(かねたたき)・里庵(りあん)」という句が刻まれている 27 。この句は、静かに眠る武士の魂を、秋の夜長に鳴く鉦叩の音で妨げないように、との思いが込められているのであろうか。
板垣神社として信方の墓所が維持され、現代に至るまで地域の人々によって信仰の対象となっている事実は、彼が単なる歴史上の人物としてではなく、その地域社会において記憶され、敬愛され続ける存在であることを示している。タバコの供物や句碑の存在は、形式的な慰霊だけでなく、信方の人となりや逸話が語り継がれ、親しみを込めて記憶されていることの現れと考えられる。上田原という地は、信方にとっては非業の最期を遂げた場所であるが、地域にとっては歴史的な出来事の舞台であり、信方はその中心人物として、今もなお語り継がれているのである。
第六章:子孫と後世への影響
一、嫡男・板垣信憲と板垣家のその後
板垣信方の討死後、その家督と遺領は嫡男である板垣信憲(のぶのり、通称:弥次郎)が相続した 1 。父・信方は武田家屈指の功臣であり、信憲にも大きな期待が寄せられていたはずである。
しかし、信憲のその後の経歴は順風満帆とは言い難かった。『甲陽軍鑑』などの記述によれば、信憲は出陣命令に従わなかったり、配下の者たちをぞんざいに扱ったりするなど、懈怠(けたい)や不行跡が目立ったという 1 。これらの振る舞いが武田信玄の勘気を被り、結果として改易処分を受けたとされる 1 。
信憲の最期については諸説ある。一説には、甲府の長禅寺に謹慎させられていたところを、同輩であった本郷八郎左衛門の私怨によって殺害されたとも言われている 1 。また、許されずに改易された後に誅せられたとする記述も見られる 1 。いずれにせよ、偉大な父を持った信憲の末路は悲劇的なものであった。これは、戦国時代における家督相続の難しさや、個人の資質がいかに家の存続に大きな影響を与えるかを示す事例と言えるだろう。信玄が信憲を許さなかった背景には、信憲個人の問題だけでなく、家中統制の厳格さや、他の家臣への示しといった政治的判断があった可能性も考えられる。
板垣信方の直系である板垣家は、信憲の代で一時的に武田家中での地位を失った。しかし、史料によれば、信憲の死の翌年には、信玄の命によって信方の娘婿であった於曾孫三郎信安(おそ まごさぶろう のぶやす)が板垣氏の名跡を継ぎ、板垣信安と名乗って家名を再興したとされている 31 。これは血統による相続ではなく、信方の功績を考慮した信玄による名跡の存続措置であった。
一方で、信憲の嫡子である板垣正信(まさのぶ)は、父の死後、家臣の都築久太夫(つづき きゅうだゆう)や北原羽左衛門(きたはら うざえもん)らに養育された 1 。その後、正信は土佐国に入り、山内一豊に仕えて土佐藩士となり、姓を「乾(いぬい)」と改めたと伝えられている 4 。この乾氏の系統が、後の時代に自由民権運動の指導者として名を馳せる板垣退助へと繋がっていくのである。家臣の忠義や他家への仕官によって血脈が保たれたことは、武士社会における主従関係や家名の重さを物語っている。
二、板垣退助との系譜的繋がり
戦国時代の武将・板垣信方の名は、数百年後の幕末維新期に、自由民権運動の指導者として活躍した板垣退助(いたがき たいすけ)によって再び歴史の表舞台に登場する。板垣退助は、板垣信方の子孫であるとされている 1 。
その系譜は、前述の通り、信方の嫡男・信憲の子である正信に遡る。正信は土佐藩士となり乾氏を称したが、その子孫である乾正形(いぬい まさかた)、すなわち後の板垣退助が、戊辰戦争の最中である慶応4年(1868年)に、姓を本姓である「板垣」に復したのである 4 。退助は、板垣信方から数えて十二世の孫にあたるとされる 4 。
板垣退助が姓を「板垣」に戻した背景には、単に旧姓に復するという以上の意味合いがあったと考えられる。特に注目すべきは、復姓の時期と理由である。一説によれば、退助が板垣姓に復したのは、戊辰戦争における甲州勝沼の戦いの直前であり、その日が奇しくも先祖である板垣信方の命日にあたっていたためであるという 33 。これは、退助が戦国時代の名将である信方の武威にあやかり、その加護を期待したという意図を強く示唆している。幕末維新という激動の変革期において、歴史的英雄の子孫であると名乗ることは、自身の権威付けや行動の正当性を主張する上で、少なからぬ影響力を持ったであろう。
さらに、板垣退助自身も先祖・板垣信方を深く意識しており、武田流軍学や『孫子』を学んでいたと伝えられている 4 。また、退助の曾祖父にあたる乾正聡(いぬい まさとし)は、武田流軍学に関する稀覯書を多数収集していたという 4 。これらの事実は、板垣家(乾家)において、武田家や板垣信方との繋がりが代々意識され、大切に受け継がれていたことを物語っている。板垣退助の復姓は、単なる姓の変更ではなく、自らのアイデンティティを歴史的英雄に繋げ、その精神を受け継ごうとする意思の表れであったと言えるだろう。
表1:板垣信方 略年譜
和暦年号 |
西暦 |
年齢(推定) |
出来事 |
関連史料 |
延徳元年頃 |
1489年頃 |
0歳 |
生誕 |
5 |
(不詳) |
(不詳) |
(不詳) |
武田信虎に出仕 |
5 |
天文9年 |
1540年 |
52歳頃 |
武田信虎の信濃佐久郡侵攻に従軍、敵城十数城を落とす |
8 |
(不詳) |
(不詳) |
(不詳) |
武田晴信(信玄)の傅役に就任 |
1 |
天文10年 |
1541年 |
53歳頃 |
武田信虎追放のクーデターで中心的役割を果たす |
2 |
天文10年以降 |
1541年以降 |
53歳頃~ |
甘利虎泰と共に「両職」に就任 |
7 |
天文11年 |
1542年 |
54歳頃 |
諏訪攻略で活躍 |
3 |
天文12年頃 |
1543年頃 |
55歳頃 |
諏訪郡代(上原城城代)に就任 |
2 |
天文11年または12年 |
1542/43年 |
54/55歳頃 |
小田井原の戦いで上杉憲政軍を破る |
2 |
天文13年 |
1544年 |
56歳頃 |
葛尾城攻略で夜襲作戦を成功させる |
3 |
天文14年5月20日 |
1545年 |
57歳頃 |
高野山成慶院で父・信泰(推定)の追善供養を行う |
8 |
天文17年2月14日 |
1548年 |
60歳頃 |
上田原の戦いで村上義清軍と戦い討死(新暦3月23日) |
5 |
第七章:史料における板垣信方
一、『甲陽軍鑑』における記述とその史料的価値に関する考察
板垣信方の生涯や人物像に関する記述の多くは、江戸時代初期に成立したとされる軍学書『甲陽軍鑑』に依拠している部分が大きい。例えば、武田家の最高職「両職」についての言及 8 や、信方の傅役としての信玄への諫言、晩年の増長ぶり、そして上田原の戦いにおける最期の詳細な描写 11 などは、『甲陽軍鑑』が主要な典拠となっている。
『甲陽軍鑑』は、武田家の旧臣である高坂弾正昌信(春日虎綱)が口述した内容を基に、その甥である春日惣次郎や家臣の大蔵彦十郎らが筆記し、後に小幡景憲が編纂・加筆して成立したと伝えられている 12 。この成立過程から、武田家内部の情報や戦国時代の武士の思想を知る上で貴重な史料とされる一方で、その史料的価値については長年にわたり議論が交わされてきた。
江戸時代から合戦の年紀の誤りなどが指摘され、明治時代以降の実証主義歴史学においては、史実との齟齬が多いとして史料的価値が低いと見なされる傾向にあった 34 。しかし、1990年代以降、国語学者の酒井憲二氏らによる文献学的・書誌学的研究が進み、『甲陽軍鑑』の成立過程や記述内容に対する再評価の動きが見られるようになった 34 。近年の研究では、年紀や細部の誤りは認められるものの、武田家の軍事制度や家臣団の様子、武士の心構えなどを伝える史料として、一定の価値が認められつつある 34 。特に、武士道精神の源流を探る上での重要性や 34 、そこに描かれる人物描写が後世に与えた教訓的な側面 36 は無視できない。
したがって、板垣信方に関する『甲陽軍鑑』の記述を読む際には、これらの史料的特性を十分に理解する必要がある。例えば、信方の傅役としての直言居士ぶり 11 や、上田原の戦いにおける油断といった劇的なエピソード 11 は、事実そのものを伝えるというよりも、後世の読者(特に武士階級)に対する教訓や、あるべき武将像を投影したものとして解釈する視点も重要である 19 。『甲陽軍鑑』が描く信方像と、史実の信方との間には差異が存在する可能性を常に念頭に置き、他の一次史料との比較検討を通じて、その実像に迫る努力が求められる。
二、『高白斎記』など他の一次史料に見る信方
『甲陽軍鑑』以外の、より信頼性が高いとされる同時代の一次史料において、板垣信方がどのように記録されているかを見ることは、彼のより客観的な実像に迫る上で重要である。武田家の家臣であった駒井高白斎(こまい こうはくさい)の日記とされる『高白斎記(甲陽日記)』は、武田氏研究における基本的な一次史料の一つであるが、現存する資料からは、板垣信方に関する詳細な動向を伝える記述は限定的である。
しかし、他の記録からは、信方の活動の一端を垣間見ることができる。例えば、『武田御日坏帳二番』という記録によれば、天文14年(1545年)5月20日に、板垣信方が高野山成慶院において「積翁浄善禅定門(しゃくおうじょうぜんぜんじょうもん)」という戒名の人物の追善供養を行っている 8 。この人物は信方の父・信泰にあたるのではないかと推測されており、事実であれば、信方の信仰心や家族関係を示す貴重な記録となる。
また、同じく『武田御日坏帳二番』には、年未詳ながら3月20日に、信方が「御きたさま」(武田信虎の正室である大井夫人を指すと考えられている)の代理として、向嶽寺(こうがくじ)へ寺領を寄進したという記録も残されている 8 。これは、信方が武田家の当主だけでなく、その正室からも信頼され、重要な公的任務を任される立場にあったことを示唆している。彼が単なる武官としてだけでなく、武田家の家政全般に関わる重臣であったことの証左と言えるだろう。
これらの一次史料に見える信方の姿は断片的ではあるものの、彼が武田家の宗教的行事や外交儀礼にも関与する、家中の枢要な人物であったことを裏付けている。これらの記録は、『甲陽軍鑑』が描く英雄的な軍功や劇的な逸話とは異なる、より実務家としての一面を垣間見せるものであり、信方の人物像に奥行きを与える。上田原の戦いに関する『高白斎記』や『妙法寺記』の記述については、アクセス可能な資料からは詳細を確認できなかったが 39 、今後の研究においては、さらなる一次史料の発掘と丹念な分析を通じて、『甲陽軍鑑』の記述を補完・検証し、板垣信方のより詳細な実像を解明していくことが期待される。
表2:板垣信方と関連主要人物
人物名 |
信方との関係 |
主要な関連事項 |
関連史料 |
武田信虎 |
旧主君 |
信虎の代から仕える。後に晴信(信玄)による信虎追放クーデターに中心的役割を果たす。 |
2 |
武田信玄(晴信) |
主君 |
傅役を務める。信玄の家督相続を助け、重臣(両職)として軍事・内政両面で活躍。 |
1 |
甘利虎泰 |
同僚 |
共に「両職」を務める。上田原の戦いで信方と共に討死。 |
7 |
山本勘助 |
被推挙者(とされる) |
信方がその才を見抜き、信玄に推挙したとされる軍師。 |
2 |
板垣信憲 |
嫡男 |
信方の死後家督を継ぐが、不行跡により改易、後に殺害されたとされる。 |
1 |
板垣退助 |
子孫(とされる) |
明治時代の政治家。先祖である信方を顕彰し、板垣姓に復姓。 |
4 |
村上義清 |
敵将 |
北信濃の雄。上田原の戦いで武田軍を破り、板垣信方・甘利虎泰を討ち取る。 |
18 |
大井夫人 |
主君(信虎)の正室、主君(信玄)の生母 |
信方が代理として寺領寄進を行った記録がある。 |
8 |
結論:武田家を支えた名将・板垣信方の再評価
板垣信方の生涯と業績を総括すると、彼は武田信虎・信玄の二代にわたり、武田家の発展、とりわけ武田信玄初期の体制確立と信濃攻略において、計り知れない貢献を果たした名将であったと言える。その多岐にわたる役割は、単なる一武将の枠を超え、教育者、政治家、そして軍略家としての側面を併せ持っていた。
信玄の傅役としてその成長を見守り、人間形成に影響を与えたことは、後の両者の強固な信頼関係の礎となった。父・信虎追放という武田家の大きな転換点においては、主導的な役割を果たし、若き信玄の家督相続を盤石なものとした。新政権下では甘利虎泰と共に最高職「両職」に就き、軍事・内政の両面で辣腕を振るい、特に諏訪郡代としての統治は、武田氏の信濃支配における重要な布石となった。数々の合戦における軍功、とりわけ諏訪攻略や小田井原の戦いでの勝利は、武田家の勢力拡大に大きく寄与した。
また、智将としての一面も際立っており、『孫子』などの兵法に通じ、情報収集と分析を重視した戦略的思考は、当時の武将の中でも先進的であった可能性が高い。山本勘助の才能を見抜き推挙したとされる逸話は、その優れた人物眼を物語っている。一方で、晩年には増長とも取れる振る舞いが見られ、信玄から和歌をもって諫められたという人間味あふれる逸話も残されている。
天文17年(1548年)の上田原の戦いにおける討死は、信玄にとって初の本格的な敗北であり、信方という軍事・精神両面での大黒柱を失ったことは、武田家にとって大きな痛手であった。しかし、その死は信玄に大きな教訓を与え、その後の武田家の戦略や組織運営に影響を与えたとも考えられる。
『甲陽軍鑑』における記述は、史実との間に差異を含む可能性があり、批判的な検討が必要であることは論を俟たない。しかし、そこに描かれる忠臣・名将としての板垣信方像が、後世、特に子孫とされる板垣退助に影響を与え、その名を再び歴史に刻む一助となったこともまた事実である。
「主君のため、国のため、民のため」 3 という彼の指針が、その行動の根底にあったとすれば、彼の生涯は、激動の戦国時代において、己の信じる道を貫いた一人の武将の生き様として、現代の我々にも多くの示唆を与えてくれる。
板垣信方の実像については、未だ解明されていない部分も多く残されている。今後の研究においては、さらなる一次史料の発掘と分析、そして『甲陽軍鑑』をはじめとする関連史料のより精密な読解を通じて、この武田家を支えた名将の多面的な姿が、より鮮明に描き出されることが期待される。彼の功績は、武田信玄の華々しい業績の陰に隠れがちであるが、その歴史的役割は再評価されるべきであり、その名は戦国史において記憶され続けるに値する。