柳生宗厳(やぎゅう むねよし、享禄2年/1529年 – 慶長11年4月19日/1606年5月25日) 1 は、戦国時代から安土桃山時代にかけてその名を刻んだ武将であり、剣術家である。彼は新陰流の正統を継承し、これを独自の高みへと昇華させ、後の柳生新陰流の揺るぎない礎を築いた人物として、日本の武道史上、特筆すべき存在と言えよう。本報告書は、この柳生宗厳の生涯、彼が到達した剣術の奥義とそこに秘められた思想、そして彼が生きた激動の時代といかに深く関わったかを、現存する多様な資料に基づき、多角的に検証し、その実像に迫ることを目的とする。
宗厳は、大和国の一土豪という出自から身を起こし、剣聖・上泉伊勢守信綱との運命的な出会いを経て、剣の道に深く分け入った。その過程で「無刀取り」や「活人剣」といった、単なる技術を超えた独自の境地を切り開き、その武名は遠く徳川家康の耳にも達した。このことが、後に息子・柳生宗矩の代における柳生家の目覚ましい隆盛の端緒を開くこととなる。本報告書では、これらの点について、資料を丹念に読み解きながら、詳細に掘り下げていく所存である。
柳生宗厳は、享禄2年(1529年)、大和国添上郡小柳生郷(現在の奈良県奈良市柳生町)を本拠とする土豪、柳生美作守家巌(やぎゅうみまさかのかみいえよし)の子として生を受けた 1 。幼名は新介、あるいは新次郎と称し、後に新左衛門と改めた。晩年には但馬入道と称し、石舟斎宗厳(せきしゅうさいそうごん)と号している 1 。
柳生氏の出自は古く、菅原氏の末裔とされ、平安時代中期に宇治関白藤原頼通が大和国の神戸四箇郷(かんべしかごう)を春日社に寄進した際、その四箇郷の一つである小柳生の庄の奉行に任じられた大膳亮永家(だいぜんのすけながいえ)を遠祖とすると伝えられている 2 。14世紀頃からは、代々大和国柳生庄一帯を治める小領主としての地位を確立していた 1 。
柳生庄は、地理的に伊賀国や甲賀郡といった忍びの術で名高い里と隣接しており、そのような環境から、日常的に武術の鍛錬を積み、また諸国の情報を独自に収集するといった、ある種の緊張感を伴う土地柄であったと推察される 4 。柳生氏に関する具体的な記録が明確になるのは南北朝時代であり、柳生永珍(ながよし)が元弘の変(1331年)の際に笠置山に籠った後醍醐天皇を助けた功により、一度は鎌倉幕府に没収された所領を、幕府滅亡後に回復したという記録が残されている 5 。
柳生氏が中央の権力闘争から比較的距離を置いた大和国の一在地領主であり、かつ伊賀のような武術的伝統を持つ地域と近接していたという地理的・文化的背景は、柳生宗厳が武術に深く傾倒し、後に柳生新陰流という独自の流派を確立する上で、看過できない重要な要素であったと考えられる。柳生氏は中央の有力大名ではなく、あくまで大和国の一土豪、小領主であった 1 。これは、常に自らの実力をもって領地と一族を守り抜かねばならないという、厳しい現実認識を彼らに植え付けたであろう。加えて、柳生庄が伊賀と隣接し、武術鍛錬や情報収集が日常的に行われる土地柄であったこと 4 は、武術が単なる嗜みではなく、生存戦略として、また地域文化として深く根付いていたことを示唆している。南北朝時代の柳生永珍の逸話 5 は、柳生氏が古くから武力をもって主家(この場合は後醍醐天皇)に貢献し、その見返りとして所領を得てきたという、武功による家門の維持という歴史的経験を物語っている。これらの要素が複合的に作用し、柳生宗厳の代においても、武術の研鑽は一族の存続と発展に不可欠なものと強く認識され、それが新陰流の導入と、それを基盤とした柳生新陰流の創始へと繋がったのではないだろうか。中央の権力闘争の直接的な影響を受けにくい環境が、逆に独自の武術文化を育み、深化させる土壌となった可能性も否定できない。
柳生宗厳の父、柳生家厳(1497年 – 1585年)の時代、柳生氏は大和国の土豪として、応仁の乱(1467年 – 1477年)以降の室町幕府の権威失墜とそれに伴う国内の混乱の中で、その存続を図っていた。家厳は、当時大和に勢力を伸張しつつあった畠山氏の重臣、木沢長政に従い、同じく大和の有力国人であった筒井氏らと戦った記録が残っている 5 。
宗厳が家督を継承したと見られる時期の大和国は、依然として争乱が絶えなかった。天文13年(1544年)、宗厳15歳の時、柳生氏の本拠地である柳生城は、筒井順昭の攻撃を受け落城の憂き目に遭う。この結果、父・家厳は筒井氏に臣従し、宗厳もまた筒井氏の家臣として、戦国武将としてのキャリアを開始することになった 7 。
しかし、戦国の世は「昨日の友は今日の敵」という言葉が示すように、勢力図が目まぐるしく変化する時代であった。永禄2年(1559年)、当時畿内に強大な影響力を持ち始めていた三好長慶の重臣、松永久秀が大和国に侵攻すると、柳生宗厳はそれまで仕えていた筒井氏を離れ、松永氏の麾下に転じるという大きな決断を下す。この転身は功を奏し、宗厳は松永氏の信頼を得て側近の一人に取り立てられるなど、松永軍の軍事的基盤として重要な役割を担い、各地の戦線で活躍した 4 。特に永禄6年(1563年)の多武峯(とうのみね)攻めなどでは、その武功を高く評価されている 4 。
宗厳が筒井氏から松永氏へと主君を変えたことは、戦国乱世における小領主の現実的かつ切実な生き残り戦略の現れであり、彼が単なる理想を追う剣術家としてだけでなく、時勢を冷静に見極め、一族の安泰と発展を図る冷徹な武将としての一面を強く有していたことを示している。柳生氏は大和の小領主であり、常に筒井氏や松永氏といったより強大な勢力の動向にその運命を左右される脆弱な立場にあった 1 。筒井氏の勢力が陰りを見せ、松永氏が台頭してきた際、宗厳が松永氏に鞍替えしたのは、より強力な勢力に付くことで自らの地位を保全し、あわよくば勢力拡大の機会を掴もうとする、戦国武将の典型的な行動様式と言えるだろう。松永氏のもとで軍功を重ね、側近にまで取り立てられた 4 という事実は、宗厳が武勇に優れていたのみならず、政治的な判断力や交渉能力をも兼ね備えていたことを示唆している。この松永氏への仕官時代に培われたであろう現実主義的な判断力は、後の徳川家康との出会いや、息子・宗矩の将来を見据えた行動にも繋がり、彼の生涯を貫く行動原理の基盤となったと考えられる。剣の道と武将としての道は、宗厳の中で決して分離されることなく、常に分かちがたく結びついていたのである。
柳生宗厳 略年表
年代(西暦) |
年齢 |
主な出来事 |
関連資料 |
享禄2年(1529年) |
1歳 |
大和国小柳生郷にて、柳生家厳の子として誕生(異説あり) |
1 |
天文13年(1544年) |
16歳 |
柳生城が筒井順昭に攻められ落城。父・家厳と共に筒井氏に臣従。 |
7 |
永禄2年(1559年) |
31歳 |
松永久秀に仕官。 |
4 |
永禄6年(1563年) |
35歳 |
多武峯攻めで武功。同年秋、奈良宝蔵院にて上泉信綱と出会い、新陰流に入門。 |
1 |
永禄8年(1565年) |
37歳 |
上泉信綱より新陰流の印可状を授かる(「一国一人」の印可)。 |
1 |
元亀2年(1571年) |
43歳 |
五男・宗矩が誕生。 |
9 |
天正元年(1573年) |
45歳 |
足利義昭が織田信長により追放され、室町幕府滅亡。柳生の地に隠棲したとされる。この頃より石舟斎と号す。 |
10 |
天正5年(1577年) |
49歳 |
松永久秀が織田信長に反旗を翻し滅亡。 |
6 |
天正13年(1585年) |
57歳 |
豊臣秀吉による太閤検地。柳生氏、所領を没収され困窮。この頃、豊臣秀次に仕えた可能性も。 |
6 |
文禄2年(1593年) |
65歳 |
剃髪入道し、石舟斎と号す。『兵法百首』をまとめる。 |
7 |
文禄3年(1594年) |
66歳 |
徳川家康に招かれ無刀取りを披露。家康に入門を請われるも固辞し、五男・宗矩を推挙。家康より二百石の俸禄を得る。 |
1 |
慶長5年(1600年) |
72歳 |
関ヶ原の戦い。家康の命を受け、宗矩と共に大和国で徳川方として活動。 |
6 |
慶長11年(1606年) |
78歳 |
4月19日、柳生庄にて死去。 |
1 |
柳生宗厳が剣聖・上泉信綱と邂逅し、新陰流の奥義に触れる以前から、既に彼は一流の武術家としての素養を十分に身につけていた。記録によれば、宗厳は36歳で信綱に出会う以前に、新当流をはじめとする諸武芸を完全に修めており、その兵法家としての名声は五畿内(山城・大和・河内・和泉・摂津の各国)に鳴り響いていたと伝えられている 1 。
その具体的な師伝については諸説が存在する。一説には、神取新十郎に就いて新当流を学んだとも 1 、また、戸田一刀斎(富田勢源の説もある)に師事し、その奥義を究めたとも言われている 1 。江戸柳生家の家譜である『玉栄拾遺』には、戸田一刀斎から富田流を学び、その秘技「獅子の洞入(ししのほらいり)」を修めたと記されており、一方、尾張柳生家に伝わる『柳生新陰流縁起』では、神取新十郎に新当流を学び、その武名は五畿内のみならず、その周辺地域にまで知られていたとされている 7 。
念流を学んだという直接的かつ確実な証拠は、現存する資料からは見出し難い。しかし、宗厳の師となる上泉信綱自身が、新陰流を創始するにあたり、念流、神道流、陰流といった諸流を深く学んでいたことはよく知られている 13 。このため、宗厳が新陰流を学ぶ過程で、念流の技法や思想に間接的に影響を受けた可能性は十分に考えられる。
宗厳が上泉信綱に出会う以前に、既に畿内でも高名な兵法家であったという事実は、彼が新陰流という革新的な剣術を短期間で習得し、さらにそれを独自の境地へと発展させることができた背景に、既存の武術流派、特に新当流や富田流といった実戦的な剣術に対する深い理解と、極めて高い技術レベルを有していたことを強く示唆している。これは、柳生新陰流が全くの白紙状態から生まれたのではなく、宗厳がそれまでに培ってきた多様な武術的知見と経験が、上泉信綱から授かった新陰流の教えと融合し、昇華した結果であることを裏付けていると言えよう。宗厳は信綱に出会う以前、36歳にして既に「兵法者としての名声は五畿内に高かった」 1 とされる。新当流や戸田一刀斎(富田流)からの学びが伝えられていること 1 は、彼が当時実戦的な剣術として評価されていた流派の奥義に精通していたことを物語る。上泉信綱自身も諸流を修めた上で新陰流を興しており 13 、その高弟となるためには、相応の武術的基盤が必要であったはずである。宗厳が信綱に敗れた後、即座に弟子入りし、比較的短期間で印可を得ている 1 のは、彼が既に高度な武術の基礎と、新しい教えを吸収する卓越した理解力を持っていたからこそ可能だったと考えられる。したがって、後に大成される柳生新陰流の独自性と深みは、新陰流そのものの革新性に加え、宗厳がそれまでに体得してきた武術の粋が、その基層として豊かに存在していたことによるところが大きいと言えるだろう。
柳生宗厳の剣術家としての生涯において、決定的な転機となったのは、剣聖・上泉伊勢守信綱(秀綱とも記される)との出会いであった。永禄6年(1563年)秋、宗厳が35歳( 8 による。 1 では36歳とされている)の時、大和国奈良の宝蔵院において、関東随一と謳われた兵法家、上泉信綱と邂逅する 1 。この出会いの経緯については諸説あり、信綱が伊勢神宮へ参詣する途上で柳生の噂を耳にし大和へ足を運んだとも、あるいは伊勢国の国司であった北畠具教から宝蔵院の槍術家・胤栄(いんえい)の名声を聞き、宝蔵院を訪れた際に、そこに居合わせた宗厳と出会ったとも伝えられている 16 。
当時、既に畿内でも名の知れた兵法家であった宗厳は、信綱の供をしていた弟子、疋田豊五郎(景兼)と立ち合ったとも、あるいは信綱自身と直接手合わせをしたとも言われるが、いずれにせよ、その神の如き技の前に完敗を喫したとされている 8 。この敗北は、それまで自らの剣に自負を抱いていたであろう宗厳にとって、計り知れない衝撃であったに違いない。彼は信綱の剣技に深く感服し、即座に弟子入りを懇請したという 8 。
宗厳の熱意を受け入れた信綱は、柳生の里に半年間(一説には3年間とも)滞在し、宗厳に対して新陰流の奥義を余すところなく伝授した 8 。そして永禄8年(1565年)頃、信綱は宗厳に対し、「一国一人」の印可状、すなわち一国においてただ一人にのみ与えられる新陰流の正統な継承者としての証と、新陰流の形や理念を図解した絵目録などを授け、宗厳は新陰流正統第二代となった 1 。これは、信綱が数多くの弟子たちの中で、宗厳の才能と剣への真摯な姿勢を特に高く評価した証左と言えるだろう。
上泉信綱との出会いと、その圧倒的な剣技の前に喫した敗北は、既に一流の兵法家として名声を得ていた柳生宗厳にとって、それまでの自身の武術観を根底から覆すほどの強烈な体験であり、自己の剣をさらに高い次元へと昇華させる決定的な転機となった。この一度の敗北と、それに続く謙虚な弟子入りがなければ、後の柳生新陰流の隆盛、そして柳生家が徳川将軍家師範として武道史に確固たる地位を築くことはあり得なかったであろう。宗厳は当時、畿内でも名を知られた兵法家であり 1 、その剣技には相応の自信もあったはずである。しかし、信綱(あるいはその高弟)の前に完膚なきまでに敗れた 8 という事実は、宗厳にとって大きな屈辱であると同時に、未知なる剣技の世界への驚嘆と畏敬の念を抱かせたに違いない。その場で即座に弟子入りを請うたという行動は、宗厳の剣に対する飽くなき探求心の強さと、真の強さに対する謙虚な姿勢を如実に示している。そして、信綱から「一国一人」という至高の印可を得たことは、宗厳の類稀なる才能と血の滲むような努力が、師である信綱に完全に認められたことを意味し、これが柳生新陰流の正統性の揺るぎない根拠となるのである。この運命的な出会いがなければ、宗厳は既存の流派の一剣士として名を残したかもしれないが、柳生新陰流の祖として、また徳川将軍家師範家としての柳生家の輝かしい歴史を築くことは、おそらく不可能だったであろう。
上泉信綱より新陰流の印可を受けた柳生宗厳は、その卓越した教えを基礎としながらも、それに飽き足らず、独自の工夫と修練を重ねることで、柳生新陰流とも称される流派を大成させた 1 。宗厳自身は生涯を通じて、自らの流派を師から受け継いだ「新陰流」と名乗り続けたが、後世、その流儀は「柳生流」あるいは「柳生新陰流」として広く知られるようになる 7 。
師である上泉信綱が創始した新陰流は、それまでの剣術諸流派、特に陰流の奥義を深く研究し、そこに「転(まろばし)」という独自の理論を導入した点に大きな特徴があった。「転」とは、敵の力を巧みに利用し、受け流し、あるいは無力化して相手を制するという、柔らかな発想に基づく理合(りあい)である 13 。
宗厳自身は「新陰流」を名乗り続けたが、後世になって「柳生新陰流」と区別して呼ばれるようになった背景には、宗厳自身、そしてその子孫、特に息子の宗矩や孫の十兵衛三厳、利厳(兵庫助)らによる、顕著な独自の工夫と流派の発展があったことが挙げられる。彼ら柳生家の人々によって、その流儀が確立され、盤石なものとして伝承された事実が、この呼称に反映されていると言えよう。宗厳は上泉信綱から正統な継承者として認められた 1 ものの、単にその教えを受け継いだだけでなく、例えば「無刀の位」の工夫を加えるなど、新陰流を独自の視点から再構築した 13 。その息子である柳生宗矩は江戸において、また孫の柳生利厳(兵庫助)は尾張において、それぞれ柳生新陰流を広め、各々の地で独自の発展を遂げさせた 9 。これらの柳生家による顕著な活動と流儀の発展が、元の新陰流と区別して「柳生」の名を冠する呼称を生んだと考えられる。これは、流派の正統性を示しつつも、柳生家独自の貢献を明示するという意味合いを持っていたのであろう。
「無刀取り」は、上泉信綱が新陰流の奥義として編み出した秘技であり、文字通り、自身は武器を持たず、素手で相手の振るう刀を制する技である 4 。柳生宗厳は、師である信綱との立ち合いにおいて、この神技とも言える無刀取りを身をもって体験し、その深遠さに衝撃を受け、生涯をかけてこの技を極めようと決意したと伝えられている 4 。
宗厳は、信綱から公案として出された「無刀取り」の工夫という課題に対し、一年間もの間、真摯に取り組み、その成果を認められて印可を得たとされる 8 。そして文禄3年(1594年)、宗厳は徳川家康の御前でこの無刀取りを披露し、家康を大いに感嘆させたという逸話は名高い 1 。
柳生新陰流における無刀取りは、単に素手で相手の刀を奪い取るという技術的な側面に留まるものではない。それはむしろ、「刀を持たずとも負けない剣術」という、より高次な武術的理想を目指すものであり、争いを未然に防ぐ、あるいは最小限の力で相手を制するという、平和的な思想をその根底に有している 4 。
一説には、新陰流の無刀取りは柔術の体捌きや組討の技法を取り入れているとも言われ、柳生宗厳やその子・宗矩の門下から、起倒流柔術をはじめとする柔術諸流派が生まれたという説も存在する 19 。しかしながら、新陰流の伝書や形の中に、柔術としての明確な体系が存在しないことから、この説に対しては異論も呈されており、その関連性については更なる研究が待たれるところである 19 。
宗厳にとって「無刀取り」は、師・信綱から受け継いだ単なる一つの技法ではなく、それを自己の武術哲学の中心に据え、「戦わずして勝つ」「相手を傷つけずに制する」という、より高度な武道的理想を追求するための重要な手段へと昇華させたものと言える。これは、戦国乱世の終焉から泰平の世へと移行しつつあった時代において、武術のあり方そのものを示す先駆的な思想であった。無刀取りは、相手の攻撃力を巧みに利用し、それを無力化する技である 4 。宗厳はこれを「刀を持たずとも負けない剣術」 4 へと発展させようとした。これは、物理的な武器の有無を超越した精神的な強さ、あるいは戦術的な優位性を追求する姿勢の表れである。徳川家康への披露 1 は、この技が実戦的でありながら、同時に為政者にとって魅力的な「平和の剣」としての側面も有していたことを示唆している。後に息子・宗矩が「人をきるにはあらず、悪をころす也。一人の悪をころして、万人をいかすはかりごと也」 20 と述べた思想は、この無刀取りの精神的背景と深く通底しており、力は抑制的に、そして大義のためにのみ行使されるべきであるという、柳生新陰流の核心的な考え方を示している。この思想は、後の「活人剣」の理念へと繋がり、武士の倫理観や武道の精神性の形成にも大きな影響を与えた可能性が考えられる。
柳生新陰流の根底に流れる理念の一つに、敵の生命をも尊重し、その生を無闇に断つことを避け、相手の戦闘力を失わしめることを主眼とするという考え方がある 13 。柳生宗厳は、師・上泉信綱から受け継いだ新陰流に、自身が深化させた「無刀の位」の工夫を新たに加え、流儀を再構築することで、「平和の剣」としての完成度を一層高めたと評される 13 。この思想こそが「活人剣(かつにんけん)」、すなわち「人を活かす剣」であり、単に敵を殺傷することを目的とする「殺人刀(せつにんとう)」とは明確に対比される概念である。
宗厳が後に『兵法百首』としてまとめたとされる和歌に詠まれた思想や、「治国平天下の剣(ちこくへいてんかのけん)」、すなわち国を治め天下を泰平にするための剣という考え方も、この活人剣の理念と深く通じている 4 。
この高邁な思想は、息子の柳生宗矩にも確実に継承された。宗矩は、その主著である『兵法家伝書』において、「人をきるにはあらず、悪をころす也」あるいは「殺人刀即活人剣(さつにんとうすなわちかつにんけん)」といった言葉で、戦乱の時代が終わり、平和な時代を迎えた武士が持つべき心構え、剣のあり方を説いた 9 。
宗厳が提唱し、宗矩が体系化した「活人剣」の思想は、戦国時代の終焉と江戸時代という泰平の世の到来という大きな時代的背景の中で、武士の存在意義や武術の役割そのものを再定義しようとする、深い洞察に満ちた試みであったと言える。それは、武術を単なる戦闘技術の域から、自己の人格を陶冶し、社会の秩序維持に貢献するための「道」へと昇華させることを促すものであり、現代の武道にも通じる普遍的な価値観を提示したものであった。戦国時代は実力主義が支配し、剣術もまた、敵を確実に倒すための実践的技術、すなわち「殺人刀」としての側面が何よりも重視された 24 。しかし、泰平の世においては、武士の主たる役割は戦場での戦闘から、社会の統治や秩序維持へと移行し、それに伴い剣術もまた、そのあり方を変革する必要に迫られたのである。宗厳の「活人剣」は、剣を振るう究極の目的を、他者を生かし、社会全体の平和と安寧に貢献することに置いた 13 。これは、武士が新たな時代において持つべき倫理観や社会的な責任感を明確に示したものと言える。この思想は、息子・宗矩によってさらに理論的に深化され、徳川将軍家の兵法指導という立場を通じて、広く武家社会に影響を与えた 9 。「活人剣」は、武術が単なる暴力の行使ではなく、精神的な修養や社会的な貢献を伴うべきであるという高潔な理念であり、これは後の武士道精神の形成や、現代武道の理念にも大きな影響を与え続けていると言えるだろう。
柳生宗厳は、文禄2年(1593年)、自身の兵法に関する深遠な見識や哲学を、百九首からなる和歌の形にまとめ、『兵法百首』として著したと伝えられている 7 。この歌集は、宗厳の剣術思想を知る上で極めて重要な資料と位置づけられる。
その冒頭に置かれたとされる歌、「世を渡るわざのなきゆへ兵法を 隠れ家とのみたのむ身ぞ憂き」 7 には、豊臣政権下で所領を失い、経済的にも困窮していた当時の宗厳の、自らの境遇に対する自嘲的な思いが込められている。しかし、同じく『兵法百首』の中で、「うかまざる兵法ゆえというき名やすえにのこさん」 26 とも詠んでおり、兵法によってその名を後世に遺そうという、不屈の気概と武術家としての矜持も同時に示している。
『兵法百首』において宗厳は、あらかじめ定められた固定的な戦法に固執するのではなく、対峙する敵の動きや状況の変化に応じて、自在に自らの戦術を転化させ、柔軟に対処することの重要性を説いているとされる 27 。これは、新陰流の核心的な理合である「転(まろばし)」の思想と深く合致するものである。
また、前述した「活人剣」や「治国平天下の剣」といった、宗厳の剣術哲学の根幹をなす理念も、この『兵法百首』の中に体系的に詠み込まれ、表現されていると考えられている 4 。
具体的な和歌の例としては、「三学(さんがく)や 九箇(くか)天狗太刀(てんぐだち) 六の太刀(ろくのたち) また二十七(にじゅうしち) 截相(きっそう)のこと」という歌が挙げられている 28 。この歌は、新陰流の形(勢法)の名称を、修練の階梯順に並べて詠んだものであり、直接的に剣術思想の深奥を表現したものではない。しかし、流派の重要な教えや技法の体系を、和歌という伝統的な詩形に託して伝えるという、当時の武術流派に見られた伝授の一形態を示している点で興味深い。
『兵法百首』は、柳生宗厳が経済的にも精神的にも困難な時期にありながらも、兵法を自らの存在意義そのものとし、それを文化として後世に伝えようとした強い意志の結晶であると言える。自嘲の念と不屈の気概が同居する和歌の数々は、彼の複雑な心境を映し出すと同時に、いかなる逆境にあっても兵法の道を真摯に追求し続けた、求道者としての執念を雄弁に物語っている。豊臣政権下で所領を失い、経済的に困窮していた 6 宗厳にとって、「世を渡るわざのなきゆへ」という嘆きは、この厳しい現実を率直に反映したものであろう。そのような状況下で兵法を「隠れ家」としながらも、「たのむ身ぞ憂き」と詠むのは、兵法にしか頼ることができない現状に対する複雑な思いと、それでもなお失われることのない兵法家としての矜持が入り混じった感情の表出に他ならない。しかし、同時に「すえにのこさん」と、自らの兵法の名を後世に遺すことを期する言葉には、自己の到達した兵法に対する絶対的な自信と、それを一つの文化として確立し、永く伝えようとする強靭な意志が感じられる 26 。和歌という詩形を選んだのは、兵法の奥義や戦いに臨む心構えを、単なる技術的な解説としてではなく、より深い精神性や哲学と共に伝えようとした宗厳の工夫であったのかもしれない。これは、兵法を単なる戦闘技術としてではなく、人間形成に至る「道」として捉える、宗厳の深遠な思想の表れとも言えるだろう。
柳生宗厳の武将としての経歴は、大和国における有力者であった筒井順慶への仕官から始まる。しかし、戦国乱世の常として、勢力図は常に変動し、宗厳は後に、当時畿内で梟雄としてその名を轟かせていた松永久秀の麾下に転じることとなる 4 。
松永久秀のもとでは、宗厳はその武勇と知略を遺憾なく発揮し、久秀の深い信頼を得て側近として重用された。特に永禄6年(1563年)に行われた多武峯(とうのみね)攻めにおいては、「比類無き働き」と賞賛され、感状を与えられるほどの武功を挙げている 4 。この時期は、宗厳が武将として最も活動的であり、その能力を存分に示した時代の一つと考えられる。
しかし、栄枯盛衰は戦国の習いである。天正5年(1577年)、主君であった松永久秀が、天下布武を掲げる織田信長に反旗を翻し、壮絶な最期を遂げて滅亡すると、柳生氏は再び苦境に立たされることとなった 6 。久秀の滅亡後、大和国を信長から任されたのは、かつて宗厳が仕えた筒井順慶であった。しかし、宗厳は順慶には従わず、むしろ縁の深かった十市氏(十市遠長)と結託する道を選んだ 6 。この宗厳の選択が、後の柳生氏のさらなる没落の一因となった可能性は否定できない。
松永久秀への仕官は、柳生宗厳にとって、武将としての類稀な能力を存分に発揮し、柳生家の地位を一時的にではあれ高める好機であった。しかし、その主君である久秀の劇的な滅亡は、柳生家を再び窮地に追い込むことになった。その後の筒井順慶への不従という選択は、宗厳の不屈の独立志向の表れと見ることもできるが、結果として豊臣政権下でのさらなる没落を招き、彼を剣の道へより深く専念させる遠因となった可能性も考えられる。松永久秀は当時畿内で大きな影響力を持った武将であり、彼に仕えることは、小領主であった柳生家にとって、時流に乗るための有利な選択であったと言える 4 。宗厳は久秀のもとで数々の軍功をあげ、その信頼を得ていた 4 ことは、彼が単なる剣術家ではなく、優れた武将としての器量をも兼ね備えていたことを示している。しかし、主君久秀の滅亡は、宗厳と柳生家にとって計り知れない打撃となった 6 。その後の筒井順慶への不従 6 という決断は、柳生家としての独立を保とうとしたのか、あるいは過去の複雑な経緯から従うことができなかったのか、その理由は一概には言えないであろうが、結果として大和国内における柳生家の立場を一層不安定なものにした。この一連の出来事が、宗厳を武将としての栄達から遠ざけ、むしろ兵法家としての道を深める方向へと彼を導いたのではないだろうか。武将としての不遇が、剣術家としての高みを目指すという、もう一つの道への動機を強めた可能性は十分に考えられる。
柳生宗厳と、天下統一を目前にした織田信長との関係については、いくつかの史料からその接点を窺い知ることができる。松永久秀が織田信長と同盟関係にあった時期、宗厳は信長からもその存在を認知される立場にあった 6 。一部の資料においては、宗厳が一時的にではあるが織田信長に仕えたとの記述も見られる 1 。
特に注目されるのは、柳生家に伝来する織田信長発給の書状2通(八月廿一日付、および十二月一日付)の存在である。これらの書状は、信長が宗厳(当時の通称である柳生新左衛門尉宛)に対し、松永久秀との連携を密にし、上洛を促し、忠節を尽くすよう求めている内容と解釈されている 30 。これらの書状が発給された年代については、研究者の間で見解が分かれており、奥野高広氏は永禄10年(1567年)・永禄11年(1568年)説を、今村嘉雄氏は元亀元年(1570年)頃・永禄11年頃説などを提唱している 30 。近年の田中光郎氏による詳細な年代考証では、永禄11年(1568年)説が有力視されている 30 。
しかし、天正元年(1573年)に15代将軍足利義昭が信長によって京都から追放され、室町幕府が事実上滅亡すると、宗厳は柳生の地に隠棲したと伝えられている 11 。
織田信長との関係を示す書状が存在するものの、柳生宗厳が信長に本格的に仕官し、その直臣として恒常的に活動したかについては、史料上明確ではない。書状の内容やその年代の解釈によって、宗厳が信長の急速な勢力拡大の中でどのような立場にあり、いかなる役割を期待されていたのか、その評価は分かれるところである。しかしながら、天下人となりつつあった信長が、大和国の一地方武将に過ぎない宗厳に直接書状を送っているという事実は、宗厳の武名や大和における影響力が、遠く中央の信長の耳にも達し、無視できない存在として認識されていたことを強く示している。信長からの書状の存在は、両者の間に何らかの接触があったことを証明するものである 30 。その内容は、信長が宗厳に対して軍事的な協力や忠誠を期待していたことを示唆している 30 。しかし、宗厳が信長の直臣として恒常的に仕えたという明確な記録は乏しく、むしろ松永久秀の滅亡後や足利義昭の追放後は柳生の地に隠棲したとの記述も見られる 6 。これは、宗厳が中央の巨大な権力に完全に取り込まれることを必ずしも望まず、自らの本拠地である柳生と、何よりも剣の道を守ることを優先した可能性を示唆している。あるいは、信長側から見ても、宗厳を直臣として完全に召し抱えるよりも、大和における間接的な協力者、あるいは影響力のある人物として利用する方が、戦略的に都合が良かったのかもしれない。いずれにせよ、この時期の宗厳の動向は、急速な中央集権化を進める信長と、その強大な力に翻弄されつつも、独自の道を模索しようとする地方武将の一つの姿を鮮やかに映し出していると言えるだろう。
天正13年(1585年)、天下統一を目前にした豊臣秀吉の命により、大和国の支配者はそれまでの筒井氏から、秀吉の実弟である豊臣秀長へと代わった。この支配体制の変革は、大和国の武士たちにとって大きな転換期となり、彼らは秀長の統治下で伊賀国への移住を強要されるか、あるいは武士の身分を捨てて帰農するかの厳しい選択を迫られた 7 。
柳生氏もこの激動の例外ではなかった。江戸時代中期に成立したとされる『柳生雑記』によれば、柳生氏は豊臣秀吉が全国的に実施した太閤検地に関連して、「隠田の科(かくしだのとが)」、すなわち検地に際して田畑を隠したという罪状で、先祖代々受け継いできた所領を没収され、一族は深刻な困窮状態に陥ったと記されている 6 。この「隠田の科」という罪状の具体的な内容については諸説あるが、中世以来の荘園制の崩壊に伴い、柳生家が代々保持してきた荘官としての権益を失ったことを指すのではないかという見方も有力視されている 7 。
このような危機的な状況の中、天正13年11月9日付で、宗厳は近江国愛智郡において百石の知行を与えるという内容の、差出人が不明な知行文目録を授かっている 7 。当時、近江国周辺は秀吉の甥であり、関白の地位にあった豊臣秀次が領有していたことから、柳生家の家譜である『玉栄拾遺』の編者は、この時期の宗厳が秀次に仕えていたのではないかと推測している 7 。
その後、文禄2年(1593年)に宗厳は剃髪して入道し、石舟斎と号してからは、領主としての活動よりも、もっぱら兵法家としての道に深く分け入り、その研鑽と体系化に注力していくことになる 7 。
豊臣政権による所領没収は、柳生氏にとってまさに存亡の危機であったと言える。しかし、この逆境こそが、柳生宗厳を兵法家としての道に一層深く専念させ、後の徳川家康との運命的な出会いに繋がる精神的・技術的な基盤を醸成した重要な期間であったと捉えることも可能である。武将としての地位や経済的基盤を失ったことが、逆に剣術家としての純粋な探求を深め、彼の剣技と思想をより高次なものへと昇華させる結果となったのかもしれない。太閤検地とそれに伴う所領没収は、柳生氏の領主としての屋台骨を大きく揺るがした 6 。『兵法百首』の冒頭に詠まれた「世を渡るわざのなきゆへ兵法を隠れ家とのみたのむ身ぞ憂き」 7 という歌は、まさにこの時期の宗厳の苦しい心境を率直に反映していると言えよう。領主としての政治的な活動が大きく制約されたことで、宗厳は剣術の研鑽と、その理論や形の体系化に没頭する時間と、ある種の精神的な動機を得たと考えられる。豊臣秀次への仕官の可能性が示唆されている 7 ことは、彼が完全に世俗から離れてしまったわけではないことを示しているが、かつての大和の国人領主としての立場とは明らかに異なるものであった。この、いわば「雌伏」とも言える期間が、宗厳の剣術思想を深め、後の徳川家康への無刀取り披露や、息子・宗矩の推挙といった、柳生家再興の重要な布石となった。逆境が新たな道を開く転機となった、歴史上しばしば見られる典型例の一つと評価できるかもしれない。
豊臣政権下で不遇をかこっていた柳生宗厳にとって、最大の転機は徳川家康との出会いであった。文禄3年(1594年)5月、当時豊前国の大名であった黒田長政の仲介により、宗厳は京都の鷹峯(たかがみね)において、豊臣政権の五大老の一人として強大な影響力を持っていた徳川家康に招かれる機会を得た 1 。この時、宗厳は家康本人の前で、柳生新陰流の奥義である「無刀取り」の術技を披露した。その神技に感嘆した家康は、その場で宗厳に入門を誓い、二百石の俸禄を与えることを約したと伝えられている 7 。
家康は宗厳に対し、自身の側近として出仕するよう求めたが、宗厳は既に老齢であることを理由にこれを固辞し、代わりに同行していた五男の柳生宗矩を推挙した 1 。この宗矩の推挙こそが、後の柳生家が徳川幕府において不動の地位を築き、大名にまで列せられるという、輝かしい隆盛の直接的なきっかけとなったのである。
慶長5年(1600年)に勃発した関ヶ原の戦いにおいては、宗厳は家康の命を受け、本拠地である大和国において、息子の宗矩と共に徳川方として活動し、西軍の後方攪乱や情報収集といった重要な任務を果たし、東軍の勝利に貢献した 6 。この戦功により、宗矩はかつて柳生家が没収された旧領である柳生庄二千石を与えられ、柳生家の再興を果たした 6 。
興味深いことに、宗厳はこの時期、徳川家康だけでなく、同じく五大老の一人であり、後に関ヶ原の戦いで西軍の総大将となる毛利輝元に対しても兵法を教授しており、両陣営との関係を巧みに維持していた 7 。慶長4年(1599年)、すなわち関ヶ原の戦いの前年には、輝元に対して新陰流の皆伝印可を与え、その中で「兵法之極意傳を少しも残らず相伝したこと」を記し、さらに「兵法」のみならず「表裏別心のない」ことを誓っている 7 。
宗厳が徳川家康に五男・宗矩を推挙したことは、単に息子の将来を案じた親心からの行動というよりも、豊臣政権下で没落した柳生家の存続と再興を賭けた、深謀遠慮に基づく戦略的な一手であったと評価できる。また、関ヶ原の戦いを目前に控えた緊迫した情勢の中で、東軍の総帥となる家康と、西軍の総大将となる輝元の双方に誼を通じていたことは、戦国乱世を生き抜いてきた武将としての宗厳の、極めて鋭い政治感覚と、危険を分散させるための巧みな処世術を示している。豊臣政権下で没落し、苦難の道を歩んだ柳生家にとって、次なる天下人となる可能性を秘めた徳川家康との結びつきは、まさに起死回生のための絶好の機会であった。宗厳自身は既に老齢であったため 6 、将来性のある若き息子・宗矩を推挙することで、柳生家の未来を託したのである。この背景には、家康が宗矩の器量と才能を見抜くこと、そして何よりも柳生新陰流の武術としての価値を高く評価することへの強い期待があったに違いない。結果として、この宗矩の推挙は成功し、関ヶ原の戦いにおける功績も相まって、柳生家は旧領を回復し、江戸幕府における確固たる地位を築くことになる 6 。一方で、毛利輝元との関係も維持していた 7 のは、天下の情勢がまだ不確定な中での、いわば保険であり、どちらの陣営が最終的な勝利を収めたとしても、柳生家が生き残れる道を探るという、戦国武将特有のリアリズムの表れであった。この一見すると日和見主義的とも取れる二股膏薬的な戦略は、しかし、大国の狭間で翻弄される小領主であった柳生家が、激動の時代を乗り切り、家名を保つための切実な知恵であり、宗厳が単なる剣術の達人ではなく、時勢を読む眼に長けた優れた戦略家でもあったことを雄弁に物語っている。
柳生宗厳の正室は、奥原助豊の娘で、名を鍋(おなべ)、あるいは春桃御前(しゅんとうごぜん)とも呼ばれた女性である 7 。彼女に関する詳細な記録は多くないものの、宗厳が旅先から妻に宛てて送ったとされる遺言状が現存しており、その内容からは夫婦間の深い信頼関係と、宗厳の家族に対する配慮が窺える。この遺言状の中で宗厳は、万が一自身が客死した場合の葬儀の費用について、所持している茶道具を売り払って充てるよう指示し、さらに遺産の分与についても細かく言及している。特に注目すべきは、その遺産分与において、妻である鍋の取り分を確保した上で、残りを五男の宗矩に与えるよう指示している点であり、このことから宗厳が宗矩を実質的な跡継ぎと見なしていたことが明らかになる 7 。
宗厳が妻・鍋に宛てたこの遺言状は、単に財産分与の指示に留まらず、当時の武家の夫婦関係や家督相続に関する考え方を知る上で貴重な史料と言える。遺言状という極めて重要な文書を妻に託していること自体が、宗厳の鍋に対する絶対的な信頼を物語っている 7 。遺産分与において、まず妻の生活を保障し、その上で残りを宗矩に与えるよう指示している 7 ことは、宗厳が宗矩こそが柳生家を継承し、その財産を適切に管理・運用する能力があると判断していたことを明確に示している。長男である厳勝が戦傷により身体に不自由を抱えていたこと 7 も、この判断に影響を与えた一因であろうが、他の息子たち(久斎、徳斎、宗章)を差し置いて、序列としては末子に近い五男の宗矩を選んだのは、単に家督相続の便宜上の順序というよりも、宗矩の持つ非凡な器量、政治的なセンス、卓越した剣の才能、そして何よりも新しい時代に適応していくであろう将来性を見抜いていたからに他ならない。この宗厳の慧眼が、後の柳生家の隆盛に繋がったと言っても過言ではないだろう。
柳生宗厳には、記録によれば五人の息子がいたとされる。長男の厳勝(よしかつ)、次男の久斎(きゅうさい)、三男の徳斎(とくさい)、四男の宗章(むねあき)、そして五男であり柳生家を最も発展させた宗矩(むねのり)である 7 。
長男の 厳勝 は、辰市城攻めの際に銃弾を受け、身体に障害を負い、武将としての第一線で活躍することは叶わず、生涯を柳生庄で逼塞して送ったと伝えられている 7 。しかし、剣術の道においては父・宗厳から認められ、慶長11年(1606年)2月には宗厳より『没慈味手段口伝書(もつじみしゅだんくでんしょ)』と共に新陰流の皆伝印可を授けられている 7 。厳勝の子である柳生利厳(としよし、通称・兵庫助)は、後に尾張徳川家に仕え、尾張柳生家の祖となる 7 。
次男の 久斎 と三男の 徳斎 については、僧侶になったと伝えられている 6 。彼らの具体的な事績に関する詳細な資料は乏しく、その生涯の多くは謎に包まれている 1 。
四男の 宗章 は、武士として他家に仕える道を選び、岡山藩主小早川秀秋に、その後は米子藩主中村一忠に仕えた記録が残っている 7 。
そして五男の 宗矩 は、本報告書においても度々言及されるように、父・宗厳の後継者として柳生新陰流を江戸幕府に広め、徳川将軍家の兵法指南役として絶大な信頼を得て、柳生家を旗本から大名へと押し上げた最大の功労者である 1 。(宗矩の詳細は7.2.1.で後述する)。
柳生宗厳の息子たちが、武家社会での直接的な活躍(宗矩、宗章)、剣術の家系としての継承(厳勝、そしてその子利厳)、あるいは仏門への道(久斎、徳斎)と、それぞれ多様な進路を辿ったことは、戦国末期から江戸初期にかけての武家の生き方の多様性を示すと同時に、柳生家が様々な形でその家名を存続させ、影響力を保持しようとした一種の戦略の一端を垣間見せている。長男・厳勝は戦傷により武将としての活躍は難しかったものの、剣術の印可を受けており、その血筋は尾張柳生というもう一つの大きな流れへと繋がっていく 7 。これは、身体的な困難があったとしても、流派の命脈を繋ぐという重要な役割を期待されたことを示している。久斎・徳斎が僧侶になった 6 のは、戦乱の世における武家の次男三男の一般的な進路の一つであり、また、当時の社会において大きな影響力を持っていた寺社勢力との繋がりを保つという意味合いも含まれていたかもしれない。宗章が他家に仕官した 7 のも、柳生家のネットワークを広げ、その家名を他の領国にも知らしめるという役割を担っていたと考えられる。そして、宗矩が中央政権である徳川家で目覚ましい活躍を遂げた 9 のは、柳生家全体の地位向上に最も直接的かつ決定的に貢献した。これらの多様な進路は、必ずしも全てが宗厳の当初からの計画通りではなかったかもしれないが、結果として柳生家の影響力を多方面に広げ、様々なリスクに対応できる、より強靭な家門の体制を築くことに繋がったと言えるだろう。
柳生宗厳の娘に関する直接的かつ確実性の高い史料は、残念ながら乏しいのが現状である 7 。一部の創作物や後世に編纂された記録においては、宗厳に娘がいたことを示唆する記述が見られることがあるものの 36 、これらを学術的な史料に基づいて厳密に検証することは困難を伴う。
柳生宗厳の娘に関する記録が乏しいのは、当時の武家社会において、女性の事績が公式な歴史記録に詳細に残されることが稀であったという、一般的な傾向を色濃く反映している。柳生家のような武名で知られる家系であっても、女性の役割やその存在は、男性中心の歴史記述の中で埋もれてしまいがちであった。戦国時代から江戸初期にかけて編纂された家譜や各種記録は、主に家督相続や武功に関わる男性を中心に記述されることが常であった。女性は、婚姻を通じて他家との間に同盟関係や姻戚関係を結ぶという、政治的にも社会経済的にも極めて重要な役割を担っていたにもかかわらず、その個人の具体的な事績が詳細に記録されることは稀であった 37 。柳生宗厳の息子たちについては、程度の差こそあれ比較的多くの記録が残存しているのに対し、娘に関する情報が極めて少ないのは、この時代の記録の特性を端的に示していると言える。仮に宗厳に娘がいたとしても、その生涯や具体的な役割を、現存する史料の制約から詳細に知ることは非常に難しいと言わざるを得ない。
柳生宗厳家系図(主要人物)
コード スニペット
graph TD
A[柳生家厳] --> B(柳生宗厳);
B --> C{妻:奥原鍋(春桃御前)};
B --> D[長男:厳勝];
D --> E[柳生利厳(兵庫助)<br>※尾張柳生祖];
B --> F[次男:久斎<br>(僧侶)];
B --> G[三男:徳斎<br>(僧侶)];
B --> H[四男:宗章];
B --> I[五男:宗矩];
I --> J[柳生三厳(十兵衛)];
I --> K[柳生宗冬];
I --> L[列堂義仙<br>(芳徳寺初代住持)];
注:上記は主要人物を抜粋した略系図であり、全ての家族関係を網羅するものではない。
柳生宗厳とその一族ゆかりの地は、奈良県柳生地方に数多く残されており、中でも芳徳寺(ほうとくじ)と一刀石(いっとうせき)は、宗厳の人物像や柳生新陰流の精神を今に伝える重要な史跡として知られている。
芳徳寺 は、奈良市柳生下町に位置し、柳生家の菩提寺として名高い。この寺は、寛永15年(1638年)、柳生宗矩が父である石舟斎宗厳の菩提を弔うために、かねてより親交のあった禅僧・沢庵宗彭(たくあんそうほう)を開山として迎え、かつての柳生城があったとされる場所に建立したものである 3 。本堂には、本尊の阿弥陀如来像を中心に、柳生宗厳や宗矩の木像、そして沢庵和尚の像が安置されており、また、柳生氏に関連する貴重な古文書や武具などの資料も多数所蔵されている 3 。境内には柳生一族代々の墓所があり、静かに歴史を物語っている 39 。
一方、 一刀石 は、奈良市柳生町の戸岩谷(といわたに)と呼ばれる地域にあり、天石立神社(あまのいわたてじんじゃ)の奥深くにその姿を見せる巨石である。この石には、柳生宗厳が山中で剣術修行に励んでいた際、突如現れた天狗と斬り結び、天狗を斬ったと思った瞬間、実際にはこの巨石を真っ二つに断ち割っていたという有名な伝説が残されている 3 。この一刀石が鎮座する天石立神社自体も、古くから巨石を御神体として祀る自然崇拝の場であり、柳生一族の修練の場であったと伝えられている 3 。
芳徳寺や一刀石のような、柳生宗厳にゆかりの深い史跡や伝説の地は、彼という歴史上の人物、そして彼が追求した剣術とその思想を、単なる文献上の知識としてではなく、具体的な場所や物語を通じて後世に伝え、人々の記憶に深く刻み込む上で、極めて重要な役割を果たしている。特に一刀石の伝説は、柳生宗厳の剣技が人知を超えたものであったという、ある種の神格化されたイメージを強く植え付ける象徴として機能していると言えるだろう。芳徳寺は、息子・宗矩が父・宗厳のために建立した寺院であり 3 、柳生家の歴史と信仰の中心地となっている。ここには宗厳の木像や遺品などが祀られ、寺を訪れる人々に宗厳の存在をより具体的に感じさせる。一刀石の伝説 3 は、その史実性の検証とは別に、宗厳の剣技が超人的な領域に達していたというイメージを一般に広く、かつ強く植え付ける効果を持っている。このような伝説は、歴史上の人物のカリスマ性を高め、その記憶をより鮮明に残しやすくする。これらの場所は、柳生の里を訪れる人々にとって、一種の歴史的な巡礼地としての意味を持ち、柳生一族の壮大な物語を体験的に理解するための貴重な手がかりとなる。近年では、人気漫画・アニメ『鬼滅の刃』の作中シーンとの類似性から、この一刀石が新たな注目を集めている 3 という現象も見られる。これは、歴史的な記憶や伝説が、現代のポップカルチャーと結びつくことによって、新たな生命力を得て、若い世代にも柳生宗厳の名を知らしめるという、興味深い文化現象の一例と言えるだろう。
柳生宗矩(1571年 – 1646年)は、柳生宗厳の五男として生まれ、父・宗厳の推挙によって徳川家康、秀忠、家光の徳川三代に仕え、将軍家兵法指南役という重責を担った人物である 1 。
宗矩は、父・宗厳から受け継いだ新陰流の兵法をさらに発展させ、特に禅僧・沢庵宗彭との深い交流を通じて禅の思想を剣術に取り入れ、「活人剣」や「剣禅一如」といった独自の兵法思想を大成させた。これらの思想は、彼の主著である『兵法家伝書』において体系的に述べられている 9 。
宗矩は剣術家としてだけでなく、政治家としても卓越した手腕を発揮し、幕府の要職である大目付を務め、最終的には1万2500石を領する大名(大和柳生藩初代藩主)にまで昇進した。これにより、柳生家は「天下の柳生」と称されるほどの隆盛を極めることとなった 9 。
柳生利厳(としよし、通称・兵庫助。1579年 – 1650年)は、宗厳の長男である厳勝の子であり、宗厳にとっては嫡孫にあたる。彼は祖父である石舟斎宗厳から直接新陰流の薫陶を受け、その才能を開花させた。慶長10年(1605年)には、宗厳から、流祖・上泉信綱より与えられた印可状や目録の一切を相伝されたと伝えられている 18 。
元和元年(1615年)、利厳は尾張藩初代藩主である徳川義直の兵法師範として召し抱えられ、尾張柳生家の礎を築いた 9 。利厳は『始終不捨書(しじゅうふしゃしょ)』という伝書を著し、その中で太平の世に対応した「今の教(いまのおしえ)」を説いた。これは、江戸の将軍家に仕えた柳生宗矩の系統(江戸柳生)とは異なる、尾張柳生独自の発展を示唆するものとされる 17 。江戸柳生(宗矩)とは不和であったという説も伝えられている 9 。
柳生三厳(みつよし、通称・十兵衛。1607年 – 1650年)は、柳生宗矩の長男として生まれ、隻眼の剣士として数々の伝説に彩られた人物である 9 。
三厳は、父・宗矩や祖父・宗厳から受け継いだ新陰流の教えを深く探求しつつ、独自の剣術観を磨き上げ、その成果を『月之抄(つきのしょう)』という伝書に著した 3 。この『月之抄』において、三厳は新陰流の技法と哲理を学術的とも言える詳細さでまとめ上げ、特に「後の先の勝ち」、すなわち相手の動きに応じて先を取り勝利するという、平時の素肌(甲冑を着用しない)剣法への転換を示唆したと評価されている 52 。
柳生新陰流、特に柳生宗矩が体系化した「活人剣」や「剣禅一如」といった思想は、江戸時代の武士道精神の形成に測り知れないほど大きな影響を与えた 9 。剣術が単なる殺人術ではなく、自己の人格完成を目指す「道」であるという考え方は、他の武術流派にも影響を及ぼし、武士階級全体の倫理観や精神性の向上に寄与したと言える。
柳生新陰流の具体的な技法や思想が、小野派一刀流や直心影流といった後世の主要な剣術諸派にどのような影響を与えたかについては、さらなる詳細な比較研究が必要とされるものの、その影響の大きさは疑いようがない 14 。
柳生新陰流が、江戸幕府の将軍家に仕えた江戸柳生(宗矩系)と、尾張徳川家に仕えた尾張柳生(利厳系)という、二つの主要な流れを持ち、それぞれが独自の発展を遂げたという事実は、この流派が内包する多様性と、時代や環境への高い適応能力を示している。江戸柳生が幕府中枢という政治の中心において、「治国平天下の剣」としての側面を強調し、武士の統治者としての心得を説いたのに対し、尾張柳生はより実戦的な技法や個人の武勇、精神性の追求に重きを置いた可能性が考えられる。この二つの流れは、それぞれ異なる形で武士道精神の形成に寄与したと言えるだろう。宗矩は将軍家師範という立場から、剣術を人間教育や政治思想にまで高め、その思想を『兵法家伝書』に著した 9 。これは、泰平の世における武士の新たな役割を示すものであり、武士道における「文武両道」や「修己治人(己を修めて人を治める)」といった理念と深く共鳴する。一方、利厳は『始終不捨書』において「今の教」を説き、時代に合わせた剣術の変革を試みた 18 。これは、伝統を重んじつつも、現実的な状況に柔軟に対応しようとする、武士の実践的な精神の表れと言える。江戸柳生と尾張柳生の間に不和があったという説 18 は、流派内の解釈や方向性の違いから生じた可能性も否定できないが、むしろそれぞれの立場で新陰流を発展させようとした結果と捉えることもできる。この二つの流れは、武士道が持つ多面性――すなわち、為政者としての高度な倫理観、個人の武技の飽くなき追求、そして深い精神修養といった側面――をそれぞれ体現し、江戸時代の武士たちに多様な生き方のモデルを提供したのではないだろうか。「活人剣」の思想は、単に「不殺」を意味するだけでなく、個人の能力を最大限に活かし、社会に積極的に貢献するという、より能動的な意味合いをも含んでおり、これが武士道における自己鍛錬と社会への奉仕という精神に深く繋がった可能性がある。
柳生宗厳、そして柳生一族、特にその中でも柳生十兵衛三厳は、近現代の歴史小説、映画、漫画、演劇といった様々な創作物において、頻繁に登場する人気の高い題材である 48 。
これらの創作物において、柳生一族はしばしば「剣豪集団」「将軍家お家流の剣術指南役」「幕府の隠密」といった、ある種の神秘性と権力性を帯びたイメージで描かれることが多い。特に柳生十兵衛は、「天才剣士」「隻眼のヒーロー」として、その超人的な強さと謎めいたキャラクターで絶大な人気を誇っている 53 。
柳生宗厳自身は、息子の宗矩や孫の十兵衛に比べて、物語の主役として描かれる機会は少ないものの、柳生新陰流の創始者として、あるいは厳格で孤高な武術家、一族の精神的支柱としての重厚なイメージで描かれることが一般的である。
これらの創作物は、一般の人々が柳生一族に対して抱くイメージの形成に、間違いなく大きな影響を与えている。しかし、その一方で、物語としての面白さやキャラクターの魅力を追求するあまり、史実とは異なる脚色や誇張が含まれることも少なくない点には留意が必要である 53 。例えば、前述した一刀石の伝説が、宗厳ではなく十兵衛の逸話として語られることがあるのも、その一例と言えるだろう 53 。
創作物における柳生一族の描写は、彼らの知名度を飛躍的に高め、剣術や武士道といった日本の伝統文化への関心を喚起するという肯定的な側面を持つ一方で、特定のステレオタイプなイメージ(例えば、柳生十兵衛の超人的な強さ、柳生一族の陰謀を巡らす暗躍ぶりなど)を固定化し、史実における複雑な人物像や多面的な歴史的背景から乖離させてしまうという危険性も孕んでいる。山田風太郎氏の『魔界転生』や、深作欣二監督の映画『柳生一族の陰謀』といった著名な作品 53 は、柳生十兵衛や柳生一族を極めてドラマチックかつ魅力的に描き出し、観客や読者に強烈な印象を与えた。これらの作品では、エンターテイメント性が最優先されるため、史実の忠実な再現よりも、キャラクターの個性や物語の劇的な展開が重視されることが多い。その結果、例えば「柳生=隠密・陰謀」といった、ある種紋切り型のイメージが形成されやすくなる傾向がある 57 。柳生宗厳自身も、創作物の中では「厳格な流派の創始者」といった、やや一面的な描かれ方をされることがあり、彼が戦国武将として経験したであろう苦悩や政治的な駆け引き、そして人間的な側面が見過ごされがちになる。一般の人々が歴史上の人物や出来事に触れる最初のきっかけが、こうした創作物である場合も少なくないため、そこで形成されたイメージが、そのまま史実認識の基礎となってしまう可能性は常に存在する。したがって、学術的な報告書としては、この点を十分に踏まえ、史実に基づいた多面的かつ客観的な宗厳像を提示することが肝要となる。
柳生宗厳は、その生涯を通じて、単に剣術の技を極めた達人という範疇に収まる人物ではなかった。彼は、戦国という未曾有の乱世を自らの知力と武力で生き抜き、家名を保った武将であり、同時に、上泉信綱より受け継いだ新陰流の兵法を、単なる戦闘技術から「活人剣」という深遠な武術思想へと昇華させた、稀代の思想家でもあった。
彼の生涯を振り返るとき、そこには剣の道をひたすらに追求する求道者としての姿と、激動の時代の中で一族の存続と発展のために知略を巡らす武将としての姿が、複雑に絡み合いながら浮かび上がってくる。それは、時代の荒波に翻弄されながらも、自己の信念を貫き通し、一族の未来を切り開いた、一人の人間の力強い軌跡として捉えることができるだろう。
柳生宗厳が歴史に残した最大の功績は、疑いもなく、剣聖・上泉信綱から正統に受け継いだ新陰流の兵法に、彼自身の独自の工夫と哲学を加え、それを息子・柳生宗矩へと確かに繋いだことにある。この継承と発展こそが、柳生新陰流が後に徳川将軍家の兵法として採用され、日本の武道史において極めて重要な流派として確固たる地位を築くための、揺るぎない基礎となったのである。
さらに、彼が生涯をかけて追求した「無刀取り」の技と、その根底に流れる「活人剣」の思想は、単なる武術の技術論や戦術論を超え、泰平の世における武士のあり方や、武道が持つべき精神性を示すものとして、後世に計り知れないほど大きな影響を与えた。
柳生宗厳の波乱に満ちた生き様と、彼が遺した剣技と思想は、現代においても武道を学ぶ者、歴史を探求する者にとって、尽きることのない多くの示唆を与え続けていると言えるだろう。彼の存在は、戦国という時代が生んだ、武と智、そして深い人間性を兼ね備えた、稀有な人物像として、今後も語り継がれていくに違いない。