徳川家康の天下統一を支えた四人の武将、徳川四天王。その一角を占める榊原康政は、武威と知略をもって徳川幕府の礎を築いた傑物として知られる 1 。本報告書は、この偉大な父の跡を継ぎ、戦国の終焉と泰平の黎明という時代の大きな転換期を生きた三男、榊原康勝(さかきばら やすかつ)の短いながらも激動の生涯に光を当てるものである。
康勝の生涯は、父が築いた威光という「光」と、若くして大藩を継いだ当主としての「影」が常に付きまとった。彼の人生を丹念に追うことは、徳川政権創成期における「二代目」大名の苦悩と役割、そして「功臣の家」が持つ特有の価値と、その裏に潜む脆弱性を理解する上で不可欠な作業となる。一般に、康勝は父の七光りを受け、大坂の陣で戦功を立てた後に夭折した悲劇の若武者として語られることが多い。しかし、その背景には、複雑な家督相続の力学、若き藩主としての統治の苦悩、そして自らの死が引き金となった榊原家の存続危機という、より深い物語が存在する。
本報告書では、康勝が家督を継ぐに至った運命的な経緯から、藩主としての統治、徳川政権最後の総力戦である大坂の陣での武功、そして彼の早すぎる死が榊原家にもたらした危機と再生のドラマまでを、時系列に沿って詳細に分析・叙述する。これにより、父の影に隠れがちな一人の武将の実像を明らかにし、その歴史的意義を再評価することを目的とする。
表1:榊原康勝 略年表
和暦(西暦) |
年齢 |
主な出来事 |
出典 |
天正18年(1590年) |
1歳 |
相模国小田原にて、榊原康政の三男として誕生。 |
3 |
慶長3年(1598年) |
9歳 |
徳川家康・秀忠父子に初めて拝謁する。 |
4 |
慶長10年(1605年) |
16歳 |
徳川秀忠の将軍宣下に供奉。従五位下・遠江守に叙任される。 |
4 |
慶長11年(1606年) |
17歳 |
父・康政の死去に伴い、上野国館林藩10万石の家督を相続。 |
4 |
慶長19年(1614年) |
25歳 |
大坂冬の陣に参陣。鴫野の戦いで佐竹義宣軍の窮地を救う武功を挙げる。 |
4 |
慶長20年(1615年) |
26歳 |
大坂夏の陣に参陣。天王寺・岡山の戦いで激戦を繰り広げる。 |
4 |
慶長20年(1615年)5月27日 |
26歳 |
大坂から引き上げた先の京都にて、戦傷の悪化により死去。 |
5 |
榊原康勝の生涯を理解する上で、父・康政の存在は絶対的な前提条件となる。康政は元々、松平氏(後の徳川氏)の譜代家臣である酒井忠尚に仕える陪臣という、有力とは言えない家柄の出身であった 2 。しかし、13歳で徳川家康に見出されて小姓となると、三河一向一揆での初陣を皮切りに、その類稀なる才覚を発揮していく 2 。
康政の特質は、単なる武勇に留まらなかった点にある。姉川の戦いや三方ヶ原の戦いといった主要な合戦で勇猛果敢に戦う一方、幼い頃から学問を好み、能筆家としても知られ、家康の書状を代筆することもあったという 2 。小牧・長久手の戦いでは、豊臣秀吉の出自を痛烈に批判する檄文を書き、激怒した秀吉が康政の首に10万石の懸賞金をかけたという逸話は、彼の知略と剛胆さを象徴している 10 。
関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠の軍に従軍。上田城攻めに手こずり本戦に遅参した秀忠と、激怒する家康との間を取り持つなど、徳川家中における調整役としても絶大な信頼を得ていた 10 。これらの功績により、家康の関東入府に際して上野国館林に10万石という破格の領地を与えられ、榊原家は譜代大名の中でも別格の地位を確立したのである 11 。康勝は、このような偉大な父が一代で築き上げた栄光と重責を、生まれながらにして背負っていた。
通常、武家の家督は長男が継ぐのが原則である。しかし、榊原家では三男である康勝が後継者となった。その背景には、二人の兄が置かれた特殊な事情があった。
長兄の 大須賀忠政 は、康政の正室、すなわち徳川家の重臣であった大須賀康高の娘との間に生まれた、正嫡の男子であった 2 。しかし、母方の祖父である大須賀康高には跡を継ぐ男子がいなかった。徳川家にとって、高天神城の戦いなどで多大な功績を挙げた大須賀家の断絶は避けたい事態であった。そのため、康政の長男である忠政が、外祖父・康高の養子として大須賀家を継ぐことになったのである 1 。これは、個人の意思よりも「家」の存続を優先する当時の武家社会の論理であり、徳川家臣団全体の安定を図るための高度な政略的措置であった。
次兄の 榊原忠長 は、天正13年(1585年)に生まれたが、家督を継ぐことなく慶長9年(1604年)に20歳の若さで早世してしまった 1 。
この結果、側室であった花房氏を母に持つ三男の康勝が、榊原家の家督を継承する唯一の選択肢として浮上したのである 6 。康勝の家督相続は、兄たちが継げなかったという消極的な理由によるものであったが、その背景には、功臣の家を戦略的に維持・管理しようとする徳川家康の深謀遠慮が存在していた。康勝は、個人の資質が問われる以前に、こうした政治的力学の中で後継者としての道を歩むことを運命づけられていた。
表2:榊原康政の子女と家督相続関係図
親 |
子 |
続柄・動向 |
家督相続 |
父:榊原康政 |
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┣ 正室:大須賀康高の娘 |
大須賀忠政 |
長男。母方の 大須賀家へ養子 に出る。 |
(大須賀家を継承) |
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聖興院 |
長女。酒井忠世の正室となる。 |
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┣ 側室:花房氏 |
榊原康勝 |
三男。兄たちの事情により後継者となる。 |
榊原家を継承 |
┣ 生母不明 |
榊原忠長 |
次男。家督相続前に 早世 する。 |
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福正院(鶴姫) |
次女。池田利隆の正室となる。 |
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1 )
慶長10年(1605年)、康勝は16歳にして父・康政と共に二代将軍・徳川秀忠の将軍宣下の儀式に供奉し、この時に従五位下・遠江守に叙任されている 4 。これは、彼が次期当主であることを内外に公式に披露する重要な儀礼であった。
そして翌年の慶長11年(1606年)5月14日、父・康政が館林城にて59年の生涯を閉じた 2 。これを受け、康勝はわずか17歳で、上野国館林10万石という広大な領地と、「徳川四天王の家」という比類なき重責をその両肩に背負うこととなったのである 4 。
若き康勝が藩主として直面した最初の課題は、深刻な財政問題であった。彼が家督を継いだ頃、館林藩の財政は既に逼迫した状態にあったことが記録されている 6 。父・康政は、領内の堤防工事や街道整備に力を尽くすなど、領国経営にも優れた手腕を発揮した武将であった 10 。しかし、10万石という大藩としての格式を維持するための出費や、幕府から課せられる軍役の負担は莫大であり、それらが藩財政を圧迫していたと推察される。偉大な父が残した栄光は、同時に莫大なコストを伴うものであり、経験の浅い若い藩主にとって、その舵取りは極めて困難なものであった。
このような苦境の中で、康勝にとって大きな支えとなったのが、彼の正室・本浄院(通称:古屋)の実家との関係であった。康勝は、肥後熊本52万石の藩主であり、豊臣恩顧の大名として絶大な影響力を持っていた加藤清正の娘を正室に迎えていた 6 。
この婚姻は、単なる大名家同士の縁組以上の、深い政治的意味合いを持っていた。この縁組が、徳川家康直々の仲介によるものであった可能性が指摘されているように 14 、そこには家康の巧みな戦略が隠されていたと考えられる。第一に、若く経験の浅い康勝の藩政を安定させるため、領国経営や治水・築城の名手として知られる清正を、いわば「後見役」としてあてがう狙いがあった。事実、清正は娘婿である康勝の藩の財政状況を深く憂慮し、その再建のためにたびたび具体的な助言を与えていたという記録が残っている 6 。
第二に、この婚姻は徳川政権の安定化を目的とした、高度な大名統制策の一環であった。清正は豊臣家への忠誠心が厚いと見なされていた外様大名の筆頭格である。その清正を、徳川譜代の中でも最も信頼の厚い四天王の家と姻戚関係にさせることで、豊臣方への傾倒を牽制し、徳川の体制内に深く取り込むという深謀があった。
このように、康勝と清正の娘との婚姻は、康勝個人への支援であると同時に、天下統一後の徳川家による巧みな政治的布石であった。康勝の藩政は、常に江戸幕府という大きな政治的枠組みの中で、その動向を注視されながら進められていたのである。
泰平の世へと移行する中で、康勝のような二代目大名にとって、自らの武威を天下に示す機会は限られていた。徳川と豊臣の最終決戦となった大坂の陣は、彼にとって武将としての真価が問われる、最初で最後の試金石であった。
慶長19年(1614年)、大坂冬の陣が勃発すると、康勝は徳川方の大名として直ちに出陣した 6 。同年11月26日、戦いの焦点は、大坂城の東北に位置する今福・鴫野地区に移った 15 。
この日、今福村で豊臣方の柵を攻撃していた佐竹義宣の軍勢が、木村重成や後藤基次らが率いる豊臣方の猛烈な反撃に遭い、一時は大将の義宣自らが太刀を振るうほどの窮地に陥った 16 。この危機的状況を救ったのが、対岸の鴫野に布陣していた榊原康勝の軍勢であった。康勝は、同じく鴫野にいた上杉景勝の軍と共に迅速に救援行動を開始。大和川の中州まで兵を進めて豊臣軍の側面を威嚇し、効果的な銃撃を加えることでその進撃を食い止め、撤退へと追い込んだ 16 。この的確な判断と行動により、佐竹軍は壊滅を免れ、徳川方全体の戦線を維持することに成功した。これは、康勝が単なるお飾りの大将ではなく、戦況を的確に読み、一手の大将として有効な軍事行動を指揮できる能力を持っていたことを示す、特筆すべき戦功であった。
翌慶長20年(1615年)の夏の陣において、康勝はさらに重要な役割を担うこととなる。5月7日に行われた最終決戦、天王寺・岡山の戦いにおいて、康勝の部隊は徳川家康の本陣が置かれた茶臼山の前面、天王寺口に布陣した 19 。この場所は、豊臣方の真田信繁(幸村)や毛利勝永らが、家康本陣への決死の突撃を敢行した、大坂の陣全戦線を通じて最も苛烈な激戦地であった 19 。
康勝は、徳川軍の主力部隊の一角として、天王寺口の二手目の大将という重責を担った 19 。戦いが始まると、豊臣方の凄まじい猛攻に晒され、榊原隊が属する戦線は甚大な被害を受けた。康勝の部隊の先鋒を務めていた同役の本多忠朝は討死。さらに、康勝の指揮下にあった寄騎の小笠原秀政・忠脩父子も相次いで討死するなど、まさに死闘と呼ぶにふさわしい状況であった 6 。しかし、康勝はこうした混乱と激闘の中にあっても持ち場を固守し、一手の大将としての責務を最後まで果たし抜いた。
この夏の陣での康勝の戦いぶりを物語る、壮絶な逸話が軍記物『難波戦記』などに記されている。それによれば、康勝は以前から腫れ物(一説には痔)を患っており、冬の陣の時点ですでにその症状が悪化していた 6 。夏の陣の激しい戦闘は、その病状をさらに深刻化させた。
しかし、康勝は痛みに屈することなく、戦場で指揮を執り続けた。その様は、鞍壺(鞍の中央にある窪んだ部分)が傷口からの出血で満たされるほどであったと伝えられている 6 。この逸話の医学的な真偽はともかく、これは康勝が置かれていた状況を象徴している。彼は「徳川四天王・榊原康政の子」として、周囲から寄せられる絶大な期待と、自らの武勇を証明しなければならないという強烈なプレッシャーの中にいた。彼の壮絶な戦いぶりは、偉大な父の名を辱めまいとする、二代目としての悲壮なまでの決意の表れであった。大坂の陣は、泰平の世に育った彼のような二代目大名にとって、自らの武を幕府と天下に示す最初で最後の機会であり、康勝はその好機に、自らの肉体が削られるのも厭わず、武将としての意地を示そうとしたのである。
大坂夏の陣は徳川方の圧倒的な勝利に終わり、豊臣家は滅亡した。戦後、康勝は自軍を引き連れて京に滞在していたが、彼の身体は既に限界に達していた 6 。天王寺口での激戦で悪化した腫れ物が致命傷となり、慶長20年(1615年)5月27日、京都の片原屋敷にて息を引き取った 4 。享年26。あまりにも早い、志半ばでの夭折であった。その亡骸は故郷の館林に送られ、父・康政が眠る善導寺に葬られた 6 。
康勝の死は、榊原家に深刻な後継者問題をもたらした。康勝には、正室である加藤清正の娘・古屋以外の女性との間に生まれた、榊原勝政(幼名:平十郎)という庶子がいた 6 。しかし、康勝の急死後、幕府が榊原家の相続人について問い合わせた際、家老の中根吉衛門、原田権左衛門、村上弥右衛門の三名は、驚くべきことに「康勝に嗣子なし」と虚偽の報告を行ったのである 14 。
彼らの動機については複数の説がある。一つは、「生まれたばかりの幼君では、戦功を立てて立身出世することは難しい」「幼い藩主では、幕府から領地を削減される恐れがある」といった、家の将来を案じた(あるいは自分たちの地位を保つための)打算的な判断であったというものである 14 。また、別の説として、康勝と正室・古屋との婚姻が家康直々の仲介によるものであった手前、側室の子である勝政の存在が公式に露見した場合、制定されたばかりの武家諸法度に抵触し、幕府の不興を買うことを恐れたという見方もある 14 。いずれにせよ、この家臣団の策謀により、本来の後継者である勝政の存在は闇に葬られ、榊原家は公式には後継者不在という、断絶の危機に瀕した。
嗣子なしとの報告を受け、徳川家康は榊原家の処遇について裁定を下すことになった。ここで家康は、榊原康政が幕府創設に果たした第一等の功績を重んじ、その血統が絶えることを深く憂慮した 2 。徳川四天王の家が、当主の夭折という不運によって断絶することは、幕府の威信に関わる問題だと判断したのである。
家康は直々に介入し、異例の措置を命じた。それは、康勝の長兄で、既に大須賀家を継いで遠江横須賀藩主となっていた大須賀忠政の長男、すなわち康勝から見れば甥にあたる大須賀忠次(当時10歳)に、榊原宗家を継がせるというものであった 2 。この裁定により、榊原家は断絶の危機を免れ、存続することができた。しかしその一方で、忠次が榊原家を継いだことにより、大名家としての大須賀家は断絶するという結果を招いた 25 。
この一連の出来事は、徳川幕府草創期において、「徳川四天王の家」というブランドがいかに絶対的な政治的価値を持っていたかを物語っている。家康は、同じく功臣の家である大須賀家を一つ犠牲にしてでも、幕府の正統性と権威を象-徴する「榊原家」という看板を守ることを選んだ。康勝の死は、期せずしてその事実を証明する試金石となったのである。榊原家は、幕府にとって「潰せない家」であった。
家康の裁定によって榊原家の家督を継いだ榊原忠次(大須賀忠次)は、その期待に応え、後に陸奥白河藩、播磨姫路藩へと加増転封を重ね、将軍の補佐役である大政参与にまで出世した。彼の治世の下で、榊原家は譜代大名としての地位をさらに盤石なものとしていった 23 。
一方、家臣によってその存在を隠されていた康勝の実子・勝政は、後に養母となった古屋が阿部家に再嫁する際にその存在が幕府に届け出られ、公のものとなった 14 。彼は最終的に幕府から1000石を与えられ、旗本として召し出されることになった 22 。
ここに、歴史の皮肉とも言うべき興味深い事実がある。後年、忠次が築いた本家である大名榊原家で嗣子が絶える危機が訪れた際、この旗本榊原家、すなわち康勝の実子である勝政の血筋から政邦が養子として迎えられ、本家の家督を継いだのである 2 。康勝が残した血脈は、一度は本流から外されながらも、時を経て形を変え、結果的に榊原宗家を断絶の危機から救い、存続させるという重要な役割を担うことになった。
榊原康勝は、偉大な父・康政の跡を継ぎ、戦国の乱世が終わり泰平の世へと移行する、時代の大きな転換点に生きた人物であった。彼の生涯は、徳川四天王の二代目という栄光と、それに伴う計り知れない重圧、そして若き藩主としての苦悩に満ちていた。
藩主としては、財政難という厳しい現実に直面しながらも、義父である加藤清正の助言を仰ぐなど、若年ながら統治に意を尽くそうとした姿勢がうかがえる。武将としては、徳川政権にとって最後にして最大の総力戦であった大坂の陣において、一手の大将としての重責を果たし、特に鴫野の戦いでの的確な判断と功績は、彼の軍事的才能を証明するものであった。しかし、26歳というあまりに短い生涯であったため、父・康政のように後世に長く語り継がれるほどの政治的・軍事的偉業を成し遂げる時間的猶予は与えられなかった。
康勝の最大の歴史的意義は、彼の武功そのものよりも、彼の存在と夭折がもたらした結果にあると言えるかもしれない。彼の死によって引き起こされた榊原家の相続危機と、それを救った家康の特例的な裁定は、「徳川四天王の家」が徳川幕府にとって単なる功臣の家系ではなく、幕府の権威を象徴する政治的ブランドであったことを明確に示した。彼は、自らの死をもって、徳川幕府草創期における「功臣とその家の処遇」という重要なテーマを体現する存在となったのである。
榊原康勝は、父の偉大な影に隠れがちな悲劇の若武者として記憶されることが多い。しかし、その生涯を深く掘り下げることで、時代の奔流の中で自らの役割を全うし、藩主として、そして武将として確かな足跡を残した一人の人物の実像が浮かび上がってくる。彼は、短い生涯を懸命に生き抜き、その死をもって結果的に榊原家という「ブランド」の絶対的価値を後世に証明した、重要な歴史の証人であったと評価できよう。