本報告書は、戦国時代に房総半島を拠点として活躍した武将、正木時茂(まさき ときしげ)のうち、永正10年(1513年)に生まれ、永禄4年4月6日(西暦1561年5月29日)に没した、正木時綱(または通綱)の子である人物を対象とする 1 。彼の通称は弥九郎、官途名は 大膳亮(だいぜんのすけ)であった 1 。
時茂が生きた16世紀前半から中頃の日本は、室町幕府の権威が失墜し、各地で戦国大名が群雄割拠する動乱の時代であった。特に彼が主戦場とした房総半島及び関東地方は、安房の里見氏、相模の北条氏、関東管領を擁する上杉氏、そして古河公方足利氏や小弓公方足利氏といった旧勢力、さらには上総武田氏などの国人領主たちが、複雑に入り乱れて勢力を争っていた 3 。このような状況下で、時茂は里見氏の有力な家臣として、数々の合戦や戦略において重要な役割を果たした。彼の行動や選択は、この多極的な権力闘争、とりわけ里見氏と北条氏との間の熾烈な覇権争いという大きな文脈の中で理解される必要がある。彼の軍事行動や外交における役割は、単なる個人的な武勇伝としてではなく、主家である里見氏の存亡と発展に深く関わる戦略の一環として捉えるべきであろう。
本報告書を作成するにあたり、特に留意すべきは、同姓同名の人物との明確な区別である。時茂の孫にあたる人物(里見義頼の子、母は時綱の子である時茂の娘)もまた正木時茂を名乗り、天正4年(1576年)に生まれ、寛永7年(1630年)に没している 6 。両者の事績が混同されることを避けるため、本報告では常に生没年と出自を意識し、特に本報告の対象である時綱の子の時茂に焦点を当てる。この名前の継承自体も興味深い現象であり、里見義頼の子が祖父である「槍大膳」時茂の名を継いだ背景には、単なる偶然ではなく、偉大な祖父の武名と実績を継承し、内外にその正統性と期待をアピールする意図があった可能性が指摘されている 7 。これは戦国時代における「名」の持つ象徴的な重みを示唆しており、本報告の対象である時茂(時綱の子)の評価がいかに高かったかを間接的に物語るものと言えよう。
以下に、両者の基本的な情報を整理して提示する。
表1:二人の正木時茂の比較
項目 |
正木時茂(時綱の子) |
正木時茂(里見義頼の子) |
通称・官途名 |
弥九郎、大膳亮 |
弥九郎、大膳亮 7 |
生年 |
永正10年(1513年) 1 |
天正4年(1576年) 6 |
没年 |
永禄4年4月6日(1561年5月29日) 1 |
寛永7年6月20日(1630年7月29日) 6 |
享年 |
49歳(数え年) |
55歳(数え年) |
父 |
正木時綱(通綱とも) 1 |
里見義頼 6 |
母 |
不詳 |
正木時茂(時綱の子)の娘 7 |
主な主君 |
里見義堯、里見義弘 1 |
里見義康、里見忠義 7 |
主要拠点 |
上総国小田喜城(大多喜城) 6 |
上総国小田喜城、後年鳥取藩に仕官 6 |
代表的な事績・評価 |
「槍大膳」と称された勇将、里見氏の上総進出に貢献 1 |
里見家筆頭重臣、里見氏改易後は鳥取藩に仕える 7 |
正木時茂は、永正10年(1513年)に生を受けた 1 。彼の父は、史料によって正木時綱 1 あるいは正木通綱 6 と記されるが、これらは同一人物を指す可能性が高い。本報告では、より新しい情報源の記述に基づき「時綱」を主としつつ、異表記の存在にも留意する。正木氏は、相模国の名族であった三浦氏の末裔を称している 6 。この出自は、彼らが房総半島へ渡ってきた歴史的背景や、関東の他の武士団との関係性を考察する上で、一定の示唆を与えるかもしれない。特に、三浦氏が北条早雲によって滅ぼされた(新井城の戦い 10 )という経緯を考慮すると、北条氏の台頭を快く思わない勢力との連携において、三浦氏の旧縁が何らかの役割を果たした可能性も考えられる。
時茂の運命を大きく左右したのは、天文2年(1533年)に勃発した里見氏の内訌、いわゆる「稲村の変」である 1 。この内乱において、時茂の父・時綱(通綱)と兄が戦死するという悲劇に見舞われた 1 。時茂自身もこの時に負傷しながら辛うじて難を逃れたと伝えられており 1 、この結果、若くして正木家の家督を相続することとなった。稲村の変は、当時の里見氏当主であった里見義豊が、叔父にあたる里見実堯(里見義堯の父)および正木時綱(時茂の父)らを殺害したことに端を発する骨肉の争いであった 3 。実堯の子である里見義堯は、北条氏綱の支援を得て義豊を討ち、里見氏の新たな当主となった 3 。この時、時茂とその弟・時忠は義堯方に与して戦功を挙げたとされる 12 。
この稲村の変における父兄の死、そして自身の負傷という壮絶な体験は、若き時茂にとって、家督相続が単に地位を継承するという以上の、一族存亡の危機と直結するものであったことを意味する。このような極限状況下での家督相続は、時茂に強烈な危機感と責任感を植え付け、その後の彼の行動原理、特に主君・里見義堯への強い忠誠心や、武功を立てて家名を再興しようとする強い意志の形成に繋がった可能性は十分に考えられる。事実、彼はその後、里見義堯の信頼篤い武将として、数々の戦場でその武勇を発揮することになる。また、「上野家文書」に関する記録によれば、稲村の変の最中に正木時茂が同族間の争いに介入し、一方の勝利を背景にその財産と地位を認める内容の文書を発給しており、内乱の激しさと、その中での時茂の初期の役割の一端を垣間見ることができる 15 。
稲村の変を経て家督を相続した正木時茂は、里見氏の新たな当主となった里見義堯に寄騎として属した 1 。義堯が安房本国を掌握した後、時茂はそれまで居城としていたとされる上総国金谷城(現在の千葉県富津市金谷)に入ったとされている 1 。金谷城は東京湾に面した内房の戦略的要衝であり、対岸の相模国を本拠とする北条氏を睨む上で重要な位置にあったと考えられる。
天文3年(1534年)、時茂は義堯による前当主・里見義豊の討伐戦に従い、その勝利に貢献した 1 。興味深いことに、その翌年の天文4年(1535年)、北条氏綱が扇谷上杉家と争った際には、里見氏は北条方の援軍として時茂らを派遣している 1 。これは、当時の里見氏と北条氏の関係が必ずしも一貫した敵対関係ではなく、関東の複雑な情勢の中で流動的であったことを示している。
やがて里見氏と北条氏の関係が決定的な対立へと移行し、また、同じく内房に勢力を持っていた同族の内房正木氏が北条方に離反するなどの状況変化、さらには上総武田氏の勢力が内紛などにより衰退したことを受けて、時茂は金谷城から安房国朝夷郡へと一時的に本拠を移した後、本格的に東上総への進出を開始する 1 。
この東上総への進出は、時茂の武将としてのキャリアにおいて極めて重要な意味を持つ。天文11年(1542年)、時茂は弟の正木時忠と共に東上総に兵を進め、勝浦城(現在の千葉県勝浦市)を攻略した 1 。この結果、弟の時忠が勝浦城主となり、外房地域における正木氏の拠点を築いた 6 。
さらに時茂は、天文13年(1544年)には、当時上総小田喜城(おだきじょう、後の大多喜城、現在の千葉県夷隅郡大多喜町)の城主であった真里谷朝信(まりやつ とものぶ、上総武田氏の一族)を攻め、これを討ち取ると、小田喜城を奪取して自身の新たな居城とした 1 。小田喜城は東上総のほぼ中央に位置し、広範囲を支配する上で絶好の拠点であった。時茂はここを足がかりとして、夷隅郡から長狭郡、朝夷郡(現在の鴨川市周辺)に及ぶ広大な領域をその影響下に置き 16 、上総東部を制する有力な領主へと成長を遂げた 8 。これにより、正木氏は里見氏による上総経営の重要な一翼を担う存在となったのである 17 。
この一連の拠点移動(金谷城→朝夷郡→勝浦城攻略→小田喜城確保)は、単に戦果を積み重ねた結果というよりも、房総半島における里見氏の勢力基盤を、北条氏と近接する内房から、より戦略的縦深性のある東上総へと計画的に拡大していく明確な意図の表れと見ることができる。特に小田喜城の確保は、東上総支配を確固たるものにする上で決定的な布石であったと言えよう。また、時茂が小田喜城、弟の時忠が勝浦城をそれぞれ拠点としたことは、兄弟による巧みな連携と役割分担を示しており、広範囲な地域支配と、それぞれの拠点を中心とした「国づくり」 16 を可能にした。この連携は、一族内で複数の拠点を持ち、相互に支援し合うことで支配を安定させるという、戦国期における典型的な地域支配戦略の成功例と評価できる。
正木時茂は、里見氏の主要な合戦の多くにその名を連ねている。
これらの参戦記録、特に第一次国府台合戦や小田原攻めへの参加は、時茂が単に上総の一領主であるだけでなく、里見氏の対北条戦略全体における重要な軍事指揮官として深く信頼されていたことを示している。特に小田原攻めへの参加は、里見氏が関東の反北条連合の一翼を担う上で、時茂の武力が不可欠であったことを物語っていると言えよう。
正木時茂の武名は、特にその卓越した槍術によって広く知られていた。彼はその勇猛さから「槍大膳(やりだいぜん)」という異名で呼ばれ、敵味方双方に恐れられた 1 。この「槍大膳」の名は、彼の武将としてのアイデンティティそのものであり、その武勇を象徴するものであった。
時茂の武勇や非凡さを示す逸話として、特に有名なのが12歳の時の乗馬訓練にまつわる話である 2 。彼が乗馬の訓練を受けていた際、師匠の指導に反して片手で手綱を操って乗ることを好んだという。師匠がこれを諌めると、時茂少年は「わたしは将来、一軍を任されるほどの侍大将となることを目指しています。大将であれば、馬から下りて敵に向かっていき、槍をあわす機会はほとんどありません。大将として馬上において下知をし、また敵と戦うためには、片手綱の達者になっておくべきではないでしょうか」と答えたと伝えられている。この言葉に師匠は感嘆し、彼の将来を嘱望したという。この逸話は、時茂が幼少期から既に常人離れした洞察力と将来を見据えた自己鍛錬の意識、そして強い独立心を持っていたことを示している。単なる武勇だけでなく、彼の戦略的思考やリーダーシップの萌芽をうかがわせる点で非常に興味深い。
時茂の武名は、同時代を生きた他の武将たちにも知れ渡っていた。その証左として、越前の名将・朝倉宗滴(あさくら そうてき)が語った言葉をまとめたとされる『朝倉宗滴話記』(または『宗滴夜話』)の中に、時茂の名が挙げられている点が注目される 1 。同書には、当時の優秀な武将を列挙する中で、「日本に国持人使の上手よき手本と可申仁は、今川殿、甲斐武田殿、三好修理大夫殿、長尾殿(上杉謙信)、安芸毛利(毛利元就)、織田上総介(織田信長)方、関東正木大膳亮方、此等の事」と記されており、錚々たる戦国大名と並んで「関東正木大膳亮方」として時茂が評価されているのである。この記述における「国持人使の上手よき手本」という表現は、単に個人の武勇が優れているというだけでなく、領主としての統率力や家臣団の運用能力、すなわち組織運営能力も含めた総合的な評価であった可能性が高い 1 。時茂が関東の一武将でありながら、中央の視点から見ても注目すべき統治能力を持っていたと認識されていたことを示唆しており、彼の「槍大膳」という武勇のイメージに、優れた領主・指揮官という側面を加える重要な評価と言えるだろう。
「槍大膳」という異名は、単に個人の武勇を示すだけでなく、正木軍全体の強さや士気を象徴する一種のブランドとして機能し、敵対勢力に対する威嚇や、味方の結束力を高める効果があったと考えられる。時茂自身もこの評価を意識し、戦略的に活用した可能性は否定できない。12歳の時の逸話に見られるように、彼が自己のイメージや評価を意識的に形成しようとしていたとすれば、それは戦国武将としての生存戦略の一環であったとも言える。
なお、史料によっては複数の「正木大膳」が登場するため注意が必要であるが、館山市の資料によれば、正木通綱(時茂の父)、時茂(本稿の対象)、時茂の子・憲時、そして里見義頼の子で時茂の孫にあたる時茂(憲時の養子とも)の四人が「正木大膳」を名乗ったとされ、その中でも特に「槍の大膳」として勇名を馳せたのは、本稿で扱っている正木時綱の子の時茂であると明確にされている 9 。
正木時茂は、その武勇で里見氏の軍事的中核を担っただけでなく、外交や戦略の面でも重要な役割を果たしていたことが記録からうかがえる。
特に注目されるのは、永禄3年(1560年)、北条氏康によって里見義堯の本拠地である久留里城(現在の千葉県君津市)が包囲されるという危機的状況において、時茂が里見氏を代表して越後の長尾景虎(後の上杉謙信)に関東への出兵を要請したという事実である 3 。この時期、里見氏は強大な北条氏の圧迫に苦しんでおり、単独では対抗しきれない状況にあった。そのため、関東の諸勢力に影響力を持つ越後の上杉氏(当時は長尾氏)との連携は、里見氏にとって死活問題とも言える戦略的選択であった。時茂がこの極めて重要な外交使節として選ばれたことは、彼が里見家中において武勇だけでなく、交渉能力や忠誠心においても高い信頼を得ていたことを示唆している。「槍大膳」としての武名が、交渉相手である上杉謙信に対しても一定の重みを持った可能性も考えられる。この出来事は、時茂が単なる武辺者ではなく、外交交渉の才覚も認められていたことを示すと同時に、この時期の里見氏が、北条氏の圧迫に対して、越後の上杉氏という遠方の勢力と結ぶことで活路を見出そうとする、広域的な外交戦略へと舵を切っていたことを象徴している。
時茂の要請に応える形で、長尾景虎は永禄3年(1560年)8月に関東へ出陣を開始した 23 。そして翌永禄4年(1561年)初頭、景虎率いる関東諸将の連合軍は北条氏の本拠地である小田原城を包囲するに至る(小田原城の戦い)。この時、里見氏も当主・里見義堯の嫡男である里見義弘を将として軍勢を派遣し、正木時茂も嫡男の信茂と共にこれに従って参陣している 1 。史料には「里見氏からも里見義弘・正木時茂が参加していました」と明確に記されており 20 、この大規模な共同作戦は、里見・上杉間の同盟関係を具体的に示すものであり、時茂はその最前線に身を置いていた。また、別の記録によれば、永禄4年(1561年)1月には正木時茂・時忠兄弟が下総国に侵攻し、浜野(現在の千葉市中央区)の本行寺に弟の時忠が制札を交付したとされており 24 、これは上杉謙信の関東出兵と連動した、北条氏に対する多方面からの牽制行動であった可能性が高い。
しかしながら、この大規模な小田原包囲戦は、堅固な小田原城を攻め落とすことができず、結果的に上杉連合軍は撤退に追い込まれた 20 。これは、当時の反北条勢力の連携の限界と、北条氏の防衛力の強大さを示すものであった。そして、この小田原攻めの直後である永禄4年4月に時茂は死去することになる。この時期的な近接性は、彼の死とこの戦役との間に何らかの関連性があった可能性を強く示唆している。
正木時茂の活動を理解する上で、彼の家族、特に弟や子との関係は重要である。彼らは時茂の生前も死後も、正木氏の勢力維持と発展に深く関わっていくことになる。
時茂の父・正木通綱(時綱)の三男とされる正木時忠(ときただ)は、兄・時茂にとって最も重要な協力者の一人であった 10 。天文2年(1533年)の稲村の変においては、時茂と共に里見義堯に味方し、義堯の家督相続に貢献した 14 。
その後、時茂が東上総へ進出する際には、時忠もこれに従い、大きな役割を果たした。時茂が小田喜城を本拠地としたのに対し、時忠は勝浦城(現在の千葉県勝浦市)を拠点とし、兄弟で連携して東上総における正木氏の勢力を拡大した 6 。時忠は大多喜を本拠とする兄・時茂を補佐する立場にあったとされている 14 。この小田喜・勝浦という二大拠点の分担統治は、正木氏全体の組織力と戦略的配置の巧みさを示しており、広範囲の支配と、一方に危機が迫った際の相互支援体制を可能にしたと考えられる。永禄4年(1561年)1月には、兄弟揃って下総へ侵攻した記録も残っている 24 。
兄・時茂の死後、時忠は正木氏一族の中で実力者としての地位を高めた。一時は里見氏から離反して北条氏に与する動きも見せたが、最終的には里見氏に帰参している 5 。時茂の死が、正木一族内のパワーバランスに変化をもたらし、時忠の行動に影響を与えた可能性が考えられる。
時茂の嫡男は正木信茂(のぶしげ)である 1 。通称は大太郎 6 、あるいは平七 26 とも伝えられる。信茂は、父・時茂の晩年である永禄4年(1561年)初頭の上杉謙信による小田原攻めに、父と共に里見義弘に従って参陣しており、若くして既に武将としての経験を積み始めていた 1 。
父・時茂が同年に死去すると、信茂は家督を継承した 26 。彼は主君・里見義堯の娘である種姫を娶り 26 、里見氏の北上政策の中心的な存在として、下総の千葉氏や大須賀氏などと戦った。この頃から、上総・下総における里見軍の命令は信茂の名義で発給されるものが多くなり、若年ながら既に里見軍の中心的な人物の一人であったと考えられている 26 。
しかし、信茂の活躍は長くは続かなかった。永禄7年(1564年)、第二次国府台合戦において、里見軍は北条軍に大敗を喫し、この戦いで信茂は討死した 20 。享年は25歳であった 26 。時茂が比較的若くして(48歳で)亡くなったことは、後継者である信茂にとって、十分な経験を積む前に家督と父の重責を引き継ぐことを意味した。父・時茂の早すぎる死が、信茂の短いキャリアと、結果としての正木氏本宗家の早期の弱体化に間接的な影響を与えた可能性は否定できない。
史料には、時茂の子として正木憲時(のりとき)の名も挙げられている 6 。一部の記録では、時茂の晩年の功績とされるものや「正木大膳(亮)」の名乗りは、この憲時の事績である可能性も指摘されている 1 。憲時は後に里見氏に対して反乱を起こし、当主・里見義頼によって討伐されている 3 。憲時が時茂の実子であったのか、あるいは養子であったのか、また信茂との関係(兄弟であったのか、信茂没後の後継者であったのかなど)については、提供された資料からは明確に断定することは難しいが、時茂の系統を継ぐ重要人物の一人として位置づけられる。
正木時茂の最期は、永禄4年(1561年)に訪れた。近年発見された高野山にある妙音院所蔵の「里見家過去帳」や、同じく高野山の慈恩院に残る「正木一家法名」といった史料の分析により、彼の没年は永禄4年4月6日(西暦1561年5月29日)であることが特定された 1 。これにより、長らく諸説あった時茂の没年に関する議論に一つの決着がついたと言える。
この没年は、彼が永禄4年(1561年)初頭に行われた上杉謙信(当時は長尾景虎)による小田原攻めに参陣した直後である点が注目される。前述の通り、この大規模な軍事行動は、参加した諸将にとって大きな負担を強いるものであった。時茂の死因について直接的な記録は乏しいが、戦死したという記録は見当たらない。 1 の注釈部分では、同時期に上杉謙信の陣中で感染症が流行し、同じく永禄4年に没した関東の名将・長野業正の死因もこれであった可能性が指摘されている。このことから、時茂の死も小田原攻めに関連する戦陣での病、あるいは過労などが原因であった可能性が示唆される。華々しい武功で知られた「槍大膳」も、必ずしも戦場で散ったわけではなく、当時の過酷な戦陣の現実の中で命を落としたのかもしれない。
従来、時茂の没年については、元亀年間(1570年~1573年)の末から天正年間(1573年~1592年)の初め頃、あるいは具体的に天正4年(1576年)や天正6年(1578年)といった説が存在し、混乱が見られた 1 。例えば、ある資料では「生没年不詳。永禄4年4月6日に没したとする説があるが、永禄7年(1564)1月の国府台の合戦:その2では北条勢の先陣を突き崩す活躍を見せ、永禄10年(1567)8月の三船台の合戦においては伏兵を率いて北条勢をさんざんに打ち破ったとする史書もある」と記されており 28 、没年に関する情報が錯綜していたことがわかる。しかし、これらの永禄4年以降の活躍とされるものは、 1 で指摘されているように、嫡男である正木信茂(永禄7年の第二次国府台合戦で戦死)や養子とされる正木憲時らの事績との混同である可能性が高い。近年の史料研究の進展により、永禄4年没が確実視されるようになったため、本報告ではこの説を採用する。この没年の確定は、正木時茂個人の生涯を正確に捉え直すだけでなく、里見氏や房総の戦国史全体の理解を深める上でも重要な意義を持つ。
時茂が葬られた場所は、安房国長狭郡宮山(現在の千葉県鴨川市)にある長安寺とされている 1 。彼の法号は、長安寺殿武山正文(ちょうあんじでんぶさんしょうぶん)、または松徹主順(しょうてつしゅじゅん)と伝えられている 1 。鴨川市富川にある長安寺は、正木大膳の菩提寺の一つとしても知られている 9 。
正木時茂(時綱の子)は、戦国時代の房総半島において、里見氏の興隆と勢力拡大に不可欠な役割を果たした傑出した武将であった。彼の生涯を総括すると、以下の点がその歴史的意義として挙げられる。
第一に、稲村の変という里見氏の内訌とそれに伴う父兄の死という困難な状況下で家督を継承し、若くして主君・里見義堯を支え、その後の里見氏の房総における覇権確立の過程で多大な軍事的貢献をなした点である。特に「槍大膳」と称された彼の卓越した武勇は、数々の合戦において里見軍の中核として機能し、敵対勢力にとっては大きな脅威となった。
第二に、上総経営における功績である。時茂は弟・時忠との巧みな連携のもと、東上総へ進出し、小田喜城(大多喜城)を戦略的拠点として確保した。これにより、広大な領域を実質的に支配下に置き、里見氏の勢力範囲を大きく東へと拡大させることに成功した。これは、単なる軍事占領に留まらず、地域支配の安定化にも繋がる重要な布石であった。
第三に、外交・戦略面での貢献である。北条氏の圧迫が強まる中、時茂は里見氏を代表して越後の上杉謙信に関東出兵を要請し、その後の小田原攻めにも参陣するなど、里見氏の対北条戦略、さらには関東全体の政治・軍事動向にも深く関与した。これは、彼が単なる勇猛な武将であるだけでなく、大局的な戦略眼と交渉能力をも兼ね備えていたことを示している。
第四に、その武名が『朝倉宗滴話記』に記されるなど、関東の一武将でありながら、中央の著名な武将たちからも一目置かれる存在であった点である。これは、彼の武勇や統率力が、地域限定的なものではなく、当時の日本全体で見ても高い水準にあったことを物語っている。
一方で、正木時茂の研究においては、同姓同名の孫(里見義頼の子)との業績の混同を避けることが極めて重要である。本報告で詳述した「槍大膳」としての武名や、永禄4年(1561年)以前の主要な戦功は、全て時綱の子である時茂(1513年~1561年)に帰属する。歴史資料や関連作品に触れる際には、両者の活動時期と出自を常に確認し、慎重な識別が求められる。
時茂の死は、里見氏にとって大きな損失であった。彼が築いた正木氏の勢力基盤は、弟・時忠や子・信茂、養子・憲時らに引き継がれたものの、その後の正木一族内の動揺(時忠の一時的離反や憲時の反乱など)や、信茂の早すぎる戦死などにより、時茂存命中のような強力なリーダーシップと安定性は維持されにくくなった。これは、里見氏の家臣団統制や対北条戦略における長期的な不安定要因の一つとなった可能性も否定できない。
しかし、「槍大膳」正木時茂の武名は後世まで長く語り継がれ、里見氏家臣団の中でも特に著名な武将の一人として記憶されている。その孫が時茂の名を継いだこと自体 7 、彼の存在がいかに大きな影響力を持っていたかを示す証左と言えよう。
近年の高野山史料の発見による没年の確定は、時茂研究における大きな進展であり、従来混同されてきた息子や養子の功績と明確に切り分け、時茂自身の活動期間と影響範囲をより正確に把握することを可能にした。これは、歴史上の人物像や出来事の評価が、新たな史料の発見や解釈によって常に更新されうることを示す好例であり、固定化された歴史像に疑問を持ち、一次史料に基づく実証的な研究を続けることの重要性を改めて教えてくれる。千野原靖方氏らによる正木氏関連の精力的な研究 14 も、時茂とその一族の動向を理解する上で不可欠である。今後も関連史料のさらなる発見や分析が進むことで、時茂の政治的手腕や具体的な領国経営の実態など、未だ詳細が明らかでない点についての解明が一層進むことが期待される。
以下に、本報告で扱った正木時茂(時綱の子)の生涯における主要な出来事を略年表として示す。
表2:正木時茂(時綱の子、1513年~1561年)略年表
年(和暦・西暦) |
時茂の年齢 |
主要な出来事 |
関連人物 |
典拠(例) |
永正10年(1513年) |
1歳 |
生誕 |
正木時綱(父) |
1 |
天文2年(1533年) |
21歳 |
稲村の変。父・時綱と兄が戦死し、家督を相続。自身も負傷。 |
里見義豊、里見実堯、里見義堯 |
1 |
天文3年(1534年) |
22歳 |
里見義堯の里見義豊討伐に従軍し勝利に貢献。上総国金谷城に入る。 |
里見義堯、里見義豊 |
1 |
天文7年(1538年) |
26歳 |
第一次国府台合戦に里見方として参陣。 |
里見義堯、足利義明、北条氏綱 |
1 |
天文11年(1542年) |
30歳 |
弟・時忠と共に東上総に侵攻。勝浦城を攻略。 |
正木時忠 |
1 |
天文13年(1544年) |
32歳 |
上総小田喜城主・真里谷朝信を討ち、小田喜城を奪取して居城とする。 |
真里谷朝信 |
1 |
永禄3年(1560年) |
48歳 |
北条氏の上総侵攻を防ぐ。里見義堯の命で上杉謙信(長尾景虎)に関東出兵を要請。 |
里見義堯、北条氏康、上杉謙信 |
8 |
永禄4年(1561年)初頭 |
49歳 |
上杉謙信の小田原攻めに、里見義弘に従い嫡男・信茂と共に参陣。同年1月、弟・時忠と共に下総へ侵攻した可能性あり。 |
里見義弘、正木信茂、上杉謙信、正木時忠 |
1 |
永禄4年4月6日(1561年5月29日) |
49歳 |
死去。安房国長狭郡宮山の長安寺に葬られる。 |
|
1 |