本報告書は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活動した武将、正木時茂(まさき ときしげ)について詳述するものである。ここで対象とする正木時茂は、里見氏第七代当主・里見義頼の次男として天正4年(1576年)に生まれ、寛永7年6月20日(西暦1630年7月29日)に没した人物である 1 。
日本の戦国史において、「正木時茂」の名を持つ人物は複数存在する。特に、本報告の対象人物と混同されやすいのが、正木時綱の子である正木時茂(永正10年(1513年)誕生、永禄4年4月6日(西暦1561年5月29日)死亡)である 3 。この正木時茂は、「槍大膳」の異名を持つ勇将として知られ、房総里見氏の勢力拡大に大きく貢献した。本報告書では、これら二人の「正木時茂」を明確に区別し、里見義頼の子である時茂の生涯と事績に焦点を当てる。以下の表に両者の主な情報を整理し、比較する。
表1:二人の正木時茂の比較
項目 |
正木時茂(本報告の対象) |
正木時茂(槍大膳) |
生年 |
天正4年(1576年) 1 |
永正10年(1513年) 5 |
没年 |
寛永7年(1630年) 1 |
永禄4年(1561年) 5 |
父 |
里見義頼 1 |
正木時綱 5 |
母 |
正木時茂(槍大膳)の娘 1 |
不明 |
主な活動時期 |
安土桃山時代 – 江戸時代初期 1 |
戦国時代中期 5 |
通称・官名 |
弥九郎、大膳亮 1 |
弥九郎、大膳亮 4 |
主な事績・異名 |
里見家筆頭重臣、里見氏改易後池田家預かり 1 |
「槍大膳」、里見氏の武将として各地で活躍 4 |
墓所 |
鳥取県倉吉市 大岳院 1 |
不明(諸説あり) |
本報告の対象である正木時茂の母が、「槍大膳」と称されたもう一方の正木時茂の娘であったという事実は、単なる血縁関係に留まらず、彼の生涯において重要な意味を持つこととなる 1 。特に、里見義頼が次男である彼に正木氏の名跡を継がせた際、この母方の血筋は、正木氏内部や他の勢力に対して、その継承の正統性や権威性を示す上で戦略的な要素となった可能性が考えられる。戦国時代から江戸初期にかけての武家の家督相続や勢力維持において、血縁や婚姻がいかに重要な役割を果たしたかを示す一例と言えよう 9 。
正木時茂は、天正4年(1576年)、安房里見氏の第七代当主である里見義頼の次男として誕生した 1 。父・義頼は、房総半島に勢力を誇った戦国大名であり、時茂の出自は里見氏の嫡流に近いものであった 10 。
母は、勇猛で知られた武将、「槍大膳」こと正木時茂(正木時綱の子)の娘である 1 。この母は「龍雲院」とも称され、里見義頼の側室であったと伝えられている 10 。義頼には正室として北条氏政の娘である鶴姫、継室として北条氏康の娘である菊姫がいたが、時茂の母は正木氏の血を引く女性であった 10 。
時茂の母が「槍大膳」正木時茂の娘であるという事実は、当時の里見氏と、その有力な家臣でありながらも独立性の強い正木氏との間の複雑な関係性を象徴している。正木氏は、房総半島において強大な勢力を有し、里見氏の支配にとって不可欠な存在であった一方で、時には自立的な動きも見せるなど、両家の関係は常に緊張と協調の中にあった 8 。この婚姻は、両家の結びつきを強化し、正木氏の強大な軍事力や影響力を里見氏の体制内に効果的に取り込むための戦略の一環であった可能性が高い。そして、この母方の血筋は、後に時茂が正木氏の名跡を継承する際に、大きな意味を持つこととなる 9 。
里見義頼の次男として生まれた時茂の幼名は、「別当丸(べっとうまる)」と伝えられている 1 。これは武家の男子が元服前に用いられる一般的な呼称である。
初名については「時堯(ときたか)」という名が伝わっているものの、これを裏付ける確実な史料は現在のところ確認されていない 1 。複数の資料で「時堯」の名が散見されるが、その確実性については慎重な判断が求められる。この「時堯」という名が、彼が正木氏を継ぐ以前の里見一門としての活動を示唆するものなのか、あるいは後世の系図編纂の過程で何らかの意図をもって付与されたものなのかは、現時点では断定できない。ただ、「時」の字は母方の祖父である「槍大膳」時茂や、彼が継承することになる正木氏の通字とも考えられ、何らかの関連性があった可能性は否定できない。
時茂には、以下の兄弟姉妹がいたことが記録されている 1 。
注目すべきは、弟たちの中に「正木」姓を名乗る者が複数(義断、忠勝)存在することである。これは、里見氏が正木氏の勢力を自家の体制内に効果的に取り込むため、時茂だけでなく他の子息にも正木氏の分家や名跡を継がせていた可能性を示唆している。房総には小田喜正木氏、勝浦正木氏、内房正木氏など、複数の正木氏の家系が存在しており 8 、里見義頼が次男である時茂に小田喜正木氏の本宗家を継がせたように 1 、他の子息も別の正木家の名跡を継承したり、新たに正木姓を名乗って分家を興したりしたと考えられる。これは、房総半島における正木氏の重要性と、里見氏による同化政策が広範に行われていたことを物語っている。
天正9年(1581年)、上総大多喜城主であった正木憲時が、主家である里見氏に対して謀反を起こした 1 。正木憲時は、時茂の母方の祖父にあたる「槍大膳」正木時茂(時綱の子)の養嗣子(あるいは実子信茂の子、または時茂の弟の子で養子など諸説あり 8 )であり、正木氏の本宗家を継ぐ立場にあった。しかし、この反乱は里見義頼によって鎮圧され、憲時は討死した。
正木氏は、長年にわたり里見氏の房総支配において軍事的に重要な役割を担ってきた有力な一族であったため 8 、その本宗家が当主を失い断絶の危機に瀕したことは、里見氏にとって看過できない大きな損失であった 1 。
正木憲時の反乱は、単なる一個人の謀反というよりも、より複雑な背景があったと考えられる。例えば、里見氏内部の権力構造の変化や、当時里見氏と敵対していた北条氏など外部勢力の調略が影響した可能性も指摘されている 9 。また、それ以前の国府台合戦での敗北により正木氏が大きな痛手を被ったことなど 9 、積年の不満が爆発したという見方もできる。正木氏は里見氏の家臣でありながらも、独自の領国を形成するほどの強大な勢力を保持しており 8 、憲時の行動は、里見氏からの完全な自立を目指した動き、あるいは北条氏と結託して里見氏の弱体化を狙ったものであった可能性も否定できない。この反乱の鎮圧は、里見義頼にとって、正木氏の力を完全に自らの統制下に置く好機となった側面もあろう。
正木氏本宗家の断絶という事態に直面した里見義頼は、次男である別当丸(後の正木時茂)に正木氏の名跡を継がせることを決断した 1 。この措置の主な目的は、正木氏が有していた軍事力や領地、家臣団を里見氏の体制内に円滑に取り込み、憲時討伐によって生じた戦力低下を補強することにあった。
この相続において、時茂の母が初代正木時茂(時綱の子)の娘であり、正木氏の直系血統に連なるという事実が、極めて重要な役割を果たした 1 。この血縁的な繋がりは、旧正木家臣団の心理的な抵抗を和らげ、新たな当主としての時茂の正当性を高め、スムーズな名跡継承を実現するための大きな後ろ盾となったと考えられる 9 。
里見義頼が実子に有力家臣の名跡を継がせるという手法は、戦国時代において大名が家臣団を統制し、一族の勢力を強化・拡大するための常套手段の一つであった。この措置により、小田喜正木氏は里見氏の一門として組み込まれることとなり、その独立性は大きく削がれる結果となった 8 。これは、単に空いた家名を埋めるという消極的な意味合いだけでなく、強力な家臣団を姻戚関係や養子縁組によって一門化し、大名家を中心とした中央集権的な支配体制を強化しようとする、戦国大名の典型的な戦略であったと言える。これにより、正木氏が再び里見氏に反旗を翻すといった潜在的な危険性を排除し、その軍事力や経済基盤を里見氏の直接的な支配下に置くことが可能になったのである。
別当丸は、正木氏の名跡を継ぐにあたり、母方の祖父であり、かつて「槍大膳」と称され武勇でその名を天下に轟かせた正木時茂(時綱の子)と同名を名乗ることになった 1 。これは、単に名前を受け継ぐという以上に、内外に対して、自身があの勇猛果敢な「槍大膳」正木時茂の武威と名声を正統に継承した人物であることを強く印象づけ、旧正木家臣団に対する求心力を高めるとともに、周辺の諸勢力に対してもその存在感を示す狙いがあったと考えられる。
この結果、房総の歴史において二人の「正木大膳亮時茂」が存在することとなり、後世の研究や伝承においてしばしば混同が生じる一因となった 8 。
「襲名」という行為は、戦国時代の武家社会において、先代のカリスマ性や実績、そして家名に付随する無形の価値をも引き継ぐという象徴的な意味合いを強く持っていた。特に、武勇で知られた初代時茂の名を継ぐことは、武門の誉れを何よりも重んじる当時の価値観において、非常に大きな意味を持ったであろう。若年の新当主である時茂(里見義頼の子)は、この偉大な祖父の名を借りることで自身の権威を高め、家臣団の結束を維持しようとしたと考えられる。これは、実力だけでなく、家柄や名声、伝統といった要素が複雑に絡み合いながら影響力を行使した、戦国武家社会の特質を色濃く反映している。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が行われ、北条氏が滅亡した。この結果、里見氏は北条氏に与力したと見なされ、上総国を没収されるという大きな打撃を受けた 1 。この時、上総国小田喜城を本拠としていた正木時茂も、安房国への引き上げを余儀なくされた 9 。
困難な状況下ではあったが、時茂は安房国内において8000石の知行を与えられ、兄である里見義康の政権下で里見家の筆頭重臣としての地位を確立した 1 。具体的な知行地の名称については、安房国内であること以外、詳細な地名は特定されていない 1 。この時期、時茂は兄・義康を献身的に支え、内政の安定や外交交渉の補助などに尽力したと伝えられている 9 。
上総国の失領は里見氏にとって深刻な痛手であったが、そのような危機的状況の中で時茂が筆頭重臣として8000石という厚遇を受けた事実は、彼の能力や兄・義康からの篤い信頼を物語っている。また、彼が房総の有力国人であった正木氏の名跡を継いでいたことが、家臣団内での彼の地位を確立する上で有利に働いた可能性も考えられる。特に上総を失った後、安房国内の地盤を固め、家臣団を再編していく過程において、正木氏という伝統的な勢力基盤を持つ時茂の存在は、義康にとって極めて重要であったと推測される。
慶長8年(1603年)、里見義康が若くして死去すると、その子である忠義(幼名:梅鶴丸)がわずか10歳で家督を相続し、館山藩主となった 1 。
幼い主君を支えるため、叔父にあたる正木時茂は、堀江頼忠など他の重臣たちと共に 21 、館山藩の藩政を補佐する中心的な役割を担った 1 。この時期の時茂は、いわば「里見の副将」として、内外の困難な課題に対処したと言われている 9 。
幼主を戴いた藩においては、家臣間の主導権争いや派閥対立が生じやすいのが常である 24 。実際に当時の里見家中にも、印東房一を中心とする保守派と、堀江頼忠らを中心とする改革派の対立があったとされ、時茂は保守派に与していたとも伝えられている 24 。そのような状況下で、時茂が藩政を安定的に補佐し得た背景には、彼が里見一門(義頼の子)であると同時に、有力な正木氏の当主という重層的な立場にあったことが大きく影響していると考えられる。先代からの筆頭重臣としての実績と、これらの立場から来る影響力が、藩内の意見集約や対外的な交渉において、若き忠義の統治を初期段階で支える重要な要素となったと推測される。
正木時茂(里見義頼の子)については、その武勇を伝える逸話がいくつか残されている。特に、大変な怪力の持ち主であったという伝説は広く知られている 1 。後年、鳥取藩預かりの身となった際にも、相撲の技を披露して人々を驚かせ、大いに賞賛されたという逸話が伝えられている 1 。
また、江戸時代に成立した軍記物である『里見代々記』には、時茂が神子上典膳(みこがみ てんぜん)という武芸者と一騎討ちを行い、互角に渡り合ったという記述が見られる 1 。これらの記述は、時茂が単に藩政を担う行政官僚的な能力に長けていただけではなく、武人としての優れた資質も兼ね備えていたことを示唆している。ただし、『里見代々記』は後世に編纂された物語的要素の強い史料であり、その記述の史実性については慎重な吟味が必要である点に留意しなければならない 1 。
これらの怪力や武勇に関する伝説は、彼が母方の祖父であり、「槍大膳」としてその武名を天下に馳せた正木時茂(時綱の子)の勇名を、意識的あるいは無意識的に継承していた、もしくは周囲からそのように期待されていたことの現れである可能性が考えられる。正木氏の当主として、特に戦国の気風が色濃く残る時代において、武勇は不可欠な資質と見なされていたであろう。主家が困難な状況に直面する中で、家臣団の士気を高め、内外にその武威を示すために、彼の武勇伝が語り継がれたのかもしれない。
表2:正木時茂(里見義頼の子)略年表
年号 |
西暦 |
出来事 |
典拠 |
天正4年 |
1576年 |
里見義頼の次男として誕生 |
1 |
天正9年 |
1581年 |
正木憲時討伐後、正木氏の名跡を相続 |
1 |
天正18年 |
1590年 |
小田原征伐後、里見氏上総国没収。時茂は安房国にて8000石を与えられ、里見家筆頭重臣となる |
1 |
慶長8年 |
1603年 |
兄・里見義康死去。甥・里見忠義の藩政補佐を開始 |
1 |
慶長19年 |
1614年 |
大久保忠隣失脚に連座し、里見忠義改易。時茂は駿府に滞在中、忠義一行と合流し伯耆国倉吉へ |
1 |
(慶長19年以降) |
(1614年以降) |
大坂の陣後、徳川家康により再び駿府へ召喚 |
1 |
元和3年 |
1617年 |
徳川秀忠の命により江戸桜田へ移され、監視下に置かれる |
1 |
元和8年 |
1622年 |
里見忠義死去、倉吉藩無嗣改易。時茂は鳥取藩主・池田光政預かりとなる |
1 |
寛永7年 |
1630年 |
6月20日、預かりの身のまま病死。享年55。 |
1 |
慶長19年(1614年)、徳川家康の側近として幕政に重きをなした大久保忠隣が失脚するという事件が起こった 1 。里見忠義は、この大久保忠隣の孫娘を正室として迎えていたため 22 、この政変に連座する形で、安房国館山12万石(資料により9万2千石とも)を没収(改易)され、伯耆国倉吉3万石(実高は4000石程度であったとも伝えられる)への移封を命じられた 1 。これは事実上の配流処分であった。
幕府が公式に示した改易の理由は、「大久保忠隣への合力(加担)」、「館山城の無断修築(城普請)」、「分不相応な数の牢人の召し抱え」などであったとされる 28 。しかし、これらの理由は表向きのものであり、真の狙いは、徳川幕府による外様大名、特に江戸に近い有力大名であった里見氏を中央から排除し、その勢力を削ぐことにあったとする見方が有力である 29 。また、間近に迫っていた大坂の陣を前に、諸大名に対する見せしめとしての意味合いも含まれていた可能性も指摘されている 29 。
里見氏の改易は、徳川幕府がその初期において権力基盤を確立していく過程で見られた、外様大名統制策の典型的な一例と解釈できる。大久保忠隣事件は、幕府にとって都合の良い口実に過ぎず、房総半島という江戸湾の入り口に位置する戦略的要衝を、より信頼の置ける譜代大名で固めたいという幕府の強い意向が働いたと考えられる。関ヶ原の戦いを経て覇権を握った徳川家康は、大坂の豊臣家との最終決戦を前に、国内の不安定要素を徹底的に排除し、江戸を中心とする支配体制を盤石なものにする必要に迫られていた 33 。その中で、外様大名であり、かつ地理的にも重要な位置を占める里見氏は、幕府にとって潜在的な脅威と見なされた可能性が高い。
正木時茂は、主家である里見氏が改易される1年前の慶長18年(1613年)頃から、駿府に滞在していた 1 。これは徳川家康自身の呼び出しによるものであったとされている。その後、慶長19年(1614年)に里見忠義が改易となり、伯耆国倉吉へ向かう途中で駿府に立ち寄った際、時茂は忠義一行に合流した 1 。
しかし、大坂の陣が終結した後、時茂のみが再び家康によって駿府に呼び戻されるという異例の措置が取られた 1 。家康が時茂を繰り返し駿府に呼び寄せた真意は定かではないが、単なる監視目的だけでなく、彼が有する正木氏当主としての立場や、房総地域における旧里見家臣団への影響力を、何らかの形で利用しようとした、あるいは逆に無力化しようとした可能性が考えられる。里見氏改易後も、時茂が旧領や旧家臣団に対して一定の影響力を保持していると家康が判断していたとしても不思議ではない。大坂の陣という国家的な大事業を前に、後顧の憂いを断つため、あるいは房総方面の安定化を図るために、時茂を自身の直接的な管理下に置く必要性を感じていたのかもしれない。
駿府で一時的に里見忠義一行に合流した時茂は、主君に従い、配流の地である伯耆国倉吉(現在の鳥取県倉吉市)へと同行した 1 。これは、改易という厳しい処分を受けた主君を見捨てず、運命を共にしようとする忠臣としての行動であった。
この時点では、時茂はまだ里見家の一員として忠義と行動を共にしていた。しかし、前述の通り、大坂の陣後に彼だけが駿府へ呼び戻されるという事実は、彼が忠義や他の里見家臣とは異なる、幕府からの特別な(あるいは警戒を伴う)扱いを受ける前兆であったと言えるだろう。
徳川家康の死後、元和3年(1617年)、今度は二代将軍・徳川秀忠の直接の命令により、正木時茂は江戸の桜田に屋敷を与えられ、そこに住まうことを命じられた 1 。しかし、これは名誉ある召し出しではなく、江戸城中への出入りは固より、他の旗本衆の屋敷へ出入りすることさえも許されないという、極めて厳しい監視下に置かれた生活であった 1 。
秀忠政権下におけるこの処遇は、時茂が依然として徳川幕府にとって潜在的な危険分子、あるいは何らかの政治的価値を持つ存在として認識されていたことを強く示唆している。単なる罪人であれば、より厳しい処罰や地方への永続的な配流が一般的であったが、江戸の中枢に近い桜田に居住させ、その上で厳しく行動を制限するという措置には、幕府の複雑な意図が込められていたと考えられる。家康から秀忠へと政権が移行する中で、外様大名や旧勢力の扱いに関する方針に変化があった可能性も否定できない。時茂が有する正木氏としての影響力、あるいは旧里見家臣団との繋がりを、幕府が依然として警戒していたか、あるいは将来的に何らかの形で利用する可能性を留保していたとも解釈できる。桜田という場所は、江戸城に近く、幕府の直接的な管理下に置きやすいという地理的条件も、この措置の背景にあったのかもしれない。
元和8年(1622年)、配流先の伯耆国倉吉において、旧館山藩主・里見忠義が29歳という若さで病死した 1 。忠義には嗣子がいなかったため、これにより倉吉藩は無嗣改易となり、かつて房総に威勢を誇った里見氏は、大名家としては完全に断絶することとなった 1 。
この時、正木時茂は江戸桜田にて監視下に置かれていたため、主君・里見忠義の最期に立ち会うことは叶わなかった 32 。忠義の早すぎる死とそれに伴う里見家の完全な断絶は、徳川幕府による外様大名取り潰し政策の一つの結末であり、時茂自身の運命をさらに大きく変転させる決定的な出来事となった。主家が完全に消滅したことにより、時茂は帰属する場所を失い、幕府の直接的な管理下に置かれる「罪人」としての立場がより一層明確になったのである。
里見忠義の死後、幕府の命令により、正木時茂は鳥取藩主であった池田光政のもとへ、「罪人」として預けられることとなった 1 。これは元和8年(1622年)11月のことであった 32 。
「罪人」という公式の身分にもかかわらず、時茂は池田家において厚遇されたと伝えられている。当時の鳥取藩士であった上野大蔵が、正木康長に宛てた書状によれば、時茂は池田家の家老衆から大変懇意にされたという 1 。さらに、生活の扶助として、毎年合力米2000俵という破格の量が給付されていたと記録されている 1 。
この2000俵という合力米は、小身の旗本や大藩の上級家臣の知行高にも匹敵するものであり、単なる生活扶助以上の意味合いがあったと考えられる。この厚遇の背景には、池田光政(後の岡山藩名君)の人柄や、幕府から預かった重要人物であるため丁重に扱うよう何らかの指示があった可能性も考えられる。また、時茂が旧里見家の筆頭重臣であったという家格や、母方を通じて「槍大膳」正木時茂の血を引くという名門の血筋を、池田家あるいは幕府が依然として重んじていたことの現れとも解釈できる。これは、彼の身分をある程度保証しつつ、反抗心を抱かせないための懐柔策であった可能性も否定できない。いずれにせよ、単なる罪人扱いではなく、一定の敬意を払った監視体制であったことがうかがえる。
寛永7年(1630年)6月20日(旧暦)、正木時茂は預かりの身のまま、病によりその生涯を閉じた。享年55であった 1 。没した場所については、池田光政預かりの地である鳥取であったと推測されるが、墓所は伯耆国倉吉(現在の鳥取県倉吉市)にある大岳院(だいがくいん)に築かれた 1 。
特筆すべきは、その墓がかつての主君・里見忠義の墓の傍らに寄り添うようにして葬られていることである 1 。罪人として預けられた人物が、旧主の墓の傍らに葬られることは異例であり、これが許された背景には、時茂の忠誠心に対する池田家の敬意や、あるいは里見主従の悲運を憐れんだ関係者の配慮があったものと考えられる。この墓所の配置は、時茂と忠義の固い絆を後世に伝える無言の証となっている。
正木時茂の死後、その跡目は長男である甚十郎(じんじゅうろう)が継いだ 1 。時茂には、他に養子として正木采女正忠堯や伝左衛門時俊がいたとする資料も存在するが 3 、甚十郎が嫡流を継承した点については複数の史料で一致している。
寛永9年(1632年)6月、それまで鳥取藩主であった池田光政が備前岡山藩へ移封されることになった。この際、甚十郎も父・時茂を預かっていた光政に従い、鳥取から岡山へと移り住んだ 1 。
父・時茂が「罪人」として預けられた身であったにもかかわらず、その子である甚十郎が藩主の国替えに同行することを許されたという事実は、この時点で正木家と池田家の間に一定の主従関係に近いものが形成されつつあったことを示唆している。池田光政が、時茂の旧功や家柄に配慮し、その子である甚十郎を将来的に家臣として登用する可能性を見据えていたか、あるいは甚十郎自身が池田家への奉公を強く望み、それが認められた結果であるとも考えられる。
岡山へ移った後も、正木家はしばらくの間、公式には「預かりの身」という立場に置かれていた 1 。しかし、状況が大きく変わるのは、時茂の死から約30年後の寛文元年(1661年)12月のことであった。この時、江戸幕府は、それまで諸大名へお預け処分となっていた改易諸藩の旧家臣たちに対する大規模な赦免令を発した 1 。
この大赦により、正木家の子孫(時茂の孫たちの代)もようやく「預かりの身」から解放され、岡山藩の正式な家臣として召し抱えられることとなった 1 。これにより、里見義頼の子である正木時茂の血筋は、岡山藩士正木家として近世を通じて存続することになったのである。岡山藩士としての具体的な石高や役職については、岡山藩の分限帳や家臣録などの史料を詳細に調査する必要があるが、『吉備史談会講演録』には塚本吉彦氏による「正木大膳亮時堯の伝」という講演記録が収録されており 16 、この「時堯」が本報告の対象である時茂、あるいはその子孫を指している可能性があり、岡山における正木氏に関する貴重な情報が含まれているかもしれない。
正木家が岡山藩士として正式に登用された背景には、父・時茂の代から続いていた池田家との良好な関係、そして甚十郎自身の池田家に対する忠勤が実を結んだ結果と言えるだろう。また、寛文年間の大赦という幕府全体の政策転換が、最終的な身分回復の大きな契機となった。これは、個々の武士や家の運命が、主家の動向のみならず、幕府の政策というより大きな歴史的枠組みによっても左右されることを示す好例である。
本報告で詳述した正木時茂(里見義頼の子)の生涯は、安房里見氏の有力な一門としての誕生に始まり、正木氏という名家の名跡継承、そして主家である里見氏の改易に伴う流転の運命、さらには大大名である池田家預かりという、まさに波乱に満ちたものであった。
彼の人生は、戦国時代の終焉から江戸時代初期へと移行する激動の時代を生きた一人の武士の姿を象徴的に示している。特に、主家の盛衰に翻弄され、自身の意思とは関わりなく運命が大きく左右される家臣の立場を色濃く反映していると言えよう。母方を通じて「槍大膳」と称された勇将・正木時茂の血を引くという出自は、彼が正木氏の名跡を継承する上での正当性を与え、また周囲から武勇を期待される要因ともなった。
罪人として大大名に預けられるという厳しい境遇にありながらも、池田家から格別の厚遇を受けた背景には、彼自身の人間性や、当時の武家社会において依然として重視された家格や血筋に対する配慮があった可能性が考えられる。そして、その子孫たちが最終的に赦免され、岡山藩士として家名を後世に伝えたことは、近世武家社会における「家」の存続のあり方を示す一つの事例として歴史的な意義を持つ。
最後に、本報告書を作成するにあたり最も留意した点は、同姓同名の武将である正木時茂(正木時綱の子、「槍大膳」)との明確な区別である。両者は生きた時代も、その事績も大きく異なる。本報告の対象とした正木時茂(里見義頼の子)は、房総の雄・里見氏の終焉と、それに続く徳川幕府による支配体制確立の時代を、数奇な運命の中で生き抜いた人物として記憶されるべきである。それぞれの歴史的役割を正しく理解し、混同を避けることの重要性を改めて強調し、本報告の結びとしたい。
(注:上記参考文献リストは、提供されたスニペット情報とアウトラインに基づき主要なものを抽出したものです。実際の学術報告書では、より網羅的かつ厳密な形式での記載が求められます。)