最終更新日 2025-07-14

正木為春

正木為春は徳川家康の側室の兄。家康に仕え三浦姓に復し、紀州藩主頼宣の傅役・家老として藩政に貢献。文人でもあり、仮名草子『あだ物語』を著した。
正木為春

武将、藩老、そして文人 ― 正木(三浦)為春の生涯と時代

専門家紹介

本報告書は、日本の戦国時代から江戸時代初期にかけての武家社会、特に武士の政治的キャリアと文化的活動の相互関係を専門とする歴史研究家の視点から執筆されたものである。大名の家臣団の編成、幕藩体制の確立期における個人の立身出世の軌跡、そして武士階級の精神性、特に信仰や文学の分析に焦点を当て、正木為春という人物の多面的な生涯を解き明かす。


序章:激動の時代に生まれた武士、正木為春

本報告書は、日本の歴史が大きな転換点を迎えた時代、すなわち戦国乱世の終焉から徳川幕藩体制の確立期を生きた一人の武士、正木為春(まさき ためはる)、後の三浦為春(みうら ためはる)の生涯を多角的に分析することを目的とする。彼の人生は、単なる一武将の立身出世物語にとどまらない。彼は徳川御三家筆頭である紀州藩の家老として藩政を支えた「武」の人であり、仮名草子『あだ物語』をはじめとする数々の著作を残した「文」の人であり、そして時の権力と相容れない厳格な教義を持つ日蓮宗不受不施派を篤く信仰した「信」の人でもあった。これら三つの側面は、為春の中で矛盾なく共存し、彼の複雑で奥行きのある人物像を形成している。

本報告書では、為春の出自から説き起こし、彼の運命を決定づけた徳川家への仕官、紀州藩家老としての功績、そして文人・信仰者としての活動を順に詳述する。それぞれの事象を単に羅列するのではなく、その背景にある家族関係、時代の要請、そして彼自身の内面性にまで踏み込み、事象間の因果関係と歴史的意義を明らかにすることで、近世初期という新しい時代を生きた武士の姿を立体的に描き出すことを目指す。

為春が生きた天正元年(1573年)から承応元年(1652年)までの80年間は、日本史上、類を見ない激動の時代であった。織田信長による天下布武、豊臣秀吉による天下統一、そして関ヶ原の戦いを経て徳川家康が江戸幕府を開府し、大坂の陣によって豊臣氏が滅亡、武家による安定した統治体制が盤石となる過程と、為春の生涯は完全に重なっている。このような時代背景が、房総の一武将の子であった彼の運命をいかに形作り、そして彼自身がその時代にいかなる足跡を刻んだのかを、以下の年表を道標としながら探求していく。

【表1】正木(三浦)為春 略年表

西暦

和暦

年齢

正木(三浦)為春の動向

日本史の主要な出来事

1573

天正元年

1歳

相模国小田原にて、正木頼忠の子として誕生 1

室町幕府滅亡。

1577

天正5年

5歳

妹・お万(後の養珠院)が小田原で誕生 2

-

1582

天正10年

10歳

-

本能寺の変。

1586

天正14年

14歳

小田原から上総国勝浦城の父の許へ帰還 2

-

1590

天正18年

18歳

後北条氏滅亡。主家・里見氏が上総・下総を没収される 1

豊臣秀吉、天下統一。徳川家康、関東へ移封。

1598

慶長3年

26歳

妹・お万の方の縁で徳川家康に召し出され3,000石を拝領。三浦姓に復す 1

豊臣秀吉、死去。

1600

慶長5年

28歳

-

関ヶ原の戦い。

1603

慶長8年

31歳

徳川頼宣(長福丸)の傅役(守役)に任じられる 1

徳川家康、征夷大将軍に就任し江戸幕府を開く。

1609

慶長14年

37歳

頼宣の駿府転封に従い、8,000石を領す。頼宣と加藤清正の娘の結納使を務める 3

-

1614

慶長19年

42歳

大坂冬の陣に頼宣と共に従軍 1

-

1615

元和元年

43歳

大坂夏の陣に従軍。京都で日蓮宗不受不施派の祖・日奥の教化を受ける 1

武家諸法度、禁中並公家諸法度制定。

1619

元和5年

47歳

頼宣の紀州転封に従い、紀伊国貴志に1万5,000石を領し、貴志城を築く 1

-

1623

元和9年

51歳

父・頼忠の菩提を弔うため、紀伊に了法寺を建立 1

-

1624

寛永元年

52歳

家督を嫡男・為時に譲り隠居 1

-

1626

寛永3年

54歳

従五位下長門守に叙任される 1

後水尾天皇、二条城へ行幸。

1627

寛永4年

55歳

了法寺にて剃髪入道し、遁庵定環と号す。江戸に妙善寺を建立 1

-

1640

寛永17年

68歳

仮名草子『あだ物語』を刊行 7

-

1651

慶安4年

79歳

-

徳川家光、死去。慶安の御触書。由井正雪の乱。

1652

承応元年

80歳

7月2日、死去。墓所は和歌山市の了法寺 1

-


第一章:房総の雄、正木一族と為春の出自

正木為春の生涯を理解する上で、彼がその血を受けた正木氏の歴史と、彼自身の特異な出自をまず把握することが不可欠である。正木氏は単なる一地方豪族ではなく、戦国期の関東において、その動向が地域の勢力図を左右するほどの力を持った一族であった。

1.1. 三浦氏から正木氏へ ― 一族のルーツと安房における勢力

正木氏のルーツを遡ると、桓武平氏の流れを汲み、鎌倉幕府の創設に多大な功績を挙げた相模国の名門・三浦氏に行き着く 9 。三浦氏は宝治合戦で北条氏に滅ぼされるが、その一族の一部が安房国に逃れ、後に「正木」を名乗るようになったと伝えられている 9

戦国時代に入ると、安房正木氏は安房国の戦国大名・里見氏の最も有力な家臣団として台頭する。特に、為春の祖父・正木時忠の兄にあたる正木時茂は、「槍大膳」の異名で恐れられた猛将であり、里見氏の勢力拡大に大きく貢献した。彼らが率いる水軍は東京湾の制海権を巡って相模の後北条氏と激しく争い、正木氏は「房総の雄」としてその名を関東に轟かせた 11 。このように、為春の血筋は、戦国乱世の荒波の中で武勇をもって家名を成した、誇り高き武門の系譜であった。

1.2. 父・正木頼忠の生涯 ― 里見家臣としての苦悩と選択

為春の父・正木頼忠(1551-1622)は、正木時忠の五男として生まれた 4 。彼の生涯は、強大な二つの勢力、主家である里見氏と、関東の覇者・後北条氏との間で揺れ動く、苦難に満ちたものであった。

第二次国府台合戦で里見氏が北条氏に大敗を喫した後、父・時忠は里見氏から離反し、後北条氏に属するという苦渋の決断を下す 13 。この時、頼忠は人質として北条氏の本拠地である小田原城へと送られた 4 。兄・時通の急死を受けて家督を継ぎ、上総勝浦城主となった後も、彼の立場は常に不安定であった。里見氏に帰参しつつも、北条氏との関係も維持しなければならないという、まさに綱渡りのような外交を強いられたのである 4 。頼忠は、忠誠と裏切りが紙一重であった戦国時代の武将の苦悩を体現した人物であったと言えよう。

1.3. 小田原での誕生と幼少期 ― 人質という境遇が与えた影響

正木為春の人生の出発点は、極めて特異なものであった。彼は天正元年(1573年)、父・頼忠が人質として生活していた敵地、相模国小田原で生を受けたのである 1 。彼の母は、北条氏隆(または氏堯)の娘とされており、為春は幼少期を、敵方であるはずの後北条一門の外祖父の庇護の下で過ごした 1

父・頼忠が家督を継ぐために上総勝浦へ帰還した後も、為春はそのまま小田原に留め置かれ、14歳になる天正14年(1586年)にようやく父の元へ戻ることができた 1 。この事実は、為春の人格形成と後のキャリアを考える上で、決定的に重要な意味を持つ。

彼の原風景は、主家・里見氏の領国である房総の海辺ではなく、関東の覇者・後北条氏の巨大城下町・小田原であった。彼が物心ついた頃に接していたのは、里見の家臣たちではなく、北条家の武士たちであり、その文化であった。この経験は、彼の中に「里見家臣・正木氏の一員」というアイデンティティと同時に、あるいはそれ以上に、「北条家と縁戚関係にある武家の公子」としての意識を育んだ可能性が高い。

この特異な出自は、彼の人生に一種の「流動性」を内包させた。後年、豊臣秀吉による小田原征伐で北条氏が滅亡し、里見氏もまた領地を削られて衰退するという時代の激変に直面した際、彼が旧来の主従関係に固執することなく、新たな覇者である徳川家康へとその身を投じることを可能にした心理的な素地は、この小田原での幼少期に形成されたと考えられる。彼のキャリアは、始まる前から既に、一つの主家に骨を埋めるという従来の武士の生き方とは異なる軌道を辿る可能性を秘めていたのである。


第二章:人質の子から徳川の臣へ ― 運命の転換

後北条氏の滅亡と里見氏の衰退は、正木一族にとって存亡の危機であった。しかし、この危機は為春にとって、自身の運命を劇的に好転させる千載一遇の好機ともなった。その鍵を握っていたのは、彼の妹・お万の方の存在であった。

2.1. 妹・お万の方(養珠院)の入輿と徳川家康

為春の人生における最大の転機は、妹であるお万の方(おまんのかた、蔭山殿、後の養珠院)が、関東の新領主となった徳川家康の側室として迎えられ、その寵愛を一身に受けたことであった 1 。お万の方は、その美貌と才気、そして熱心な信仰心で知られ、家康との間に二人の男子をもうけた。これが、後の紀州徳川家初代藩主・徳川頼宣と、水戸徳川家初代藩主・徳川頼房である 15

これにより、為春は単なる一介の牢人から、徳川御三家の藩祖の外戚(伯父)という、極めて強力な政治的地位を手に入れることになった。なお、徳川家康の側室には同名の「お万の方」(結城秀康の生母)が存在するが、本報告書で扱うのは、あくまで頼宣・頼房の生母である養珠院の方である 17 。彼女の存在なくして、為春のその後の栄達はあり得なかった。

2.2. 正木から三浦へ ― 徳川家臣としての新たな出発

豊臣秀吉による小田原征伐後、里見氏は惣無事令違反を問われ、上総・下総の領地を没収された。これにより、勝浦を本拠としていた正木氏もまたその所領を失い、安房へと退くことを余儀なくされた 1

こうした中、慶長3年(1598年)、妹・お万の方の縁故によって、為春は既に隠居していた父・頼忠に代わって家康に召し出される。そして、3,000石の知行を与えられ、徳川家の家臣として新たな人生を歩み始めることになった 1 。この時、家康は為春に対し、姓を「正木」から、その祖先である相模の名門「三浦」に復するよう命じた 1

この改姓命令は、単なる先祖返りを促したものではなく、家康の巧みな人事戦略が込められた政治的行為であったと分析できる。まず、「正木」という姓は、房総における里見氏の家臣としてのアイデンティティと強く結びついている。それを捨てさせることで、家康は為春の過去を清算させ、里見氏への忠誠心から完全に切り離そうとした。次に、鎌倉時代以来の名門である「三浦」の姓を、自身の恩恵によって復活させるという形を取ることで、為春に絶対的な恩義を感じさせ、その忠誠心を徳川家に向けさせようとした。これは、為春のアイデンティティを「徳川家臣・三浦為春」として再定義し、彼を心身ともに徳川の人間として取り込むための、象徴的な儀式だったのである。

2.3. 慶長・元和期の動向 ― 大坂の陣への従軍と役割

徳川家臣となった為春は、武将としても着実に実績を積み上げていく。慶長14年(1609年)、主君となる徳川頼宣と、肥後の大名・加藤清正の娘である八十姫との婚儀が整うと、為春はその結納の使者という大役を命じられ、肥後国へと赴いている 1 。これは、主君の婚姻という極めて重要な儀礼を任されるほど、彼が頼宣の側近中の側近として、また家康からも厚い信頼を得ていたことを示している。

そして、徳川と豊臣の最終決戦となった大坂の陣(慶長19年の冬の陣、元和元年の夏の陣)では、頼宣に従って出陣 1 。この戦役での働きは家康からも直接賞賛の言葉を授かるほどであり 3 、為春は外戚というだけでなく、実戦経験を積んだ有能な武将としての評価も確立した。これにより、彼の徳川家中における地位は、より一層強固なものとなったのである。


第三章:紀州藩主・徳川頼宣の傅役として

三浦為春のキャリアにおいて、妹・お万の方の存在と並んで重要なのが、その息子である徳川頼宣の傅役(もりやく)に任じられたことである。この役職は、彼のその後の人生と、彼が創始した三浦家の運命を決定づけるものとなった。

3.1. 傅役(守役)の職責と為春の役割

慶長8年(1603年)、家康の十男・長福丸(後の頼宣)が誕生すると、為春はその傅役に任命された 1 。当時の武家社会における傅役(守役ともいう)は、単に学問を教える家庭教師のような存在ではない。主君が幼少の頃から常にその側に侍り、武芸や学問の師範役を選定し、その成長を見守るとともに、主君の人格形成、政治的判断、さらには家臣団の統率に至るまで、あらゆる面で後見し、指導する極めて重要な役職であった 21 。傅役の言動や思想は、若き主君に絶大な影響を与え、その後の藩政の方向性をも左右する可能性があった。

為春は、頼宣にとって血縁上は伯父にあたる。この親族としての情愛と、傅役としての厳格な指導者という二つの側面を併せ持つ存在であった。この特異な関係性が、二人の間に主従という形式を超えた、強固な信頼の絆を育んでいくことになる。

3.2. 頼宣の成長と水戸、駿府、そして紀州への転封

頼宣は、わずか2歳で常陸水戸25万石の藩主となる。当然、幼い頼宣に政務が執れるはずもなく、傅役である為春が水戸に赴き、実質的な統治代行者として藩政の基礎を築いた 3 。その後、頼宣は駿府50万石へと加増転封され、最終的に元和5年(1619年)、御三家筆頭として紀伊国和歌山55万5,000石の太守となる。

為春は、この頼宣の栄達の道のりに常に付き従った。彼の禄高も、頼宣の出世に伴って、徳川家臣となった当初の3,000石から、水戸時代には5,000石、駿府時代には遠江国浜名城主として8,000石、そして最終的に紀州では1万5,000石へと、着実に加増されていった 1 。この禄高の推移は、為春の貢献度と能力が、家康や二代将軍・秀忠といった幕府中枢からいかに高く評価されていたかを如実に物語っている。

3.3. 藩主との主従関係を超えた信頼の構築

為春は、頼宣が幼少の頃からその成長を見守り、時には父のように、時には師のように、そして常には最も信頼できる側近として支え続けた。伯父と甥という血縁関係と、傅役と主君という主従関係が重なり合うことで、両者の間には他の家臣とは比較にならないほどの強固な信頼関係が構築された。

この深い絆こそが、為春を紀州藩創成期における最も重要な人物の一人たらしめ、そして彼が興した三浦家が、代々紀州藩の家老として重きをなす礎となったのである。為春の存在は、若き藩主・頼宣にとって、精神的にも政治的にも不可欠な支柱であった。


第四章:紀州藩家老三浦家の祖 ― 藩政における役割と貴志城

元和5年(1619年)、徳川頼宣が紀州55万5,000石の藩主として和歌山城に入国した際、三浦為春もこれに従い、紀州藩家老としての新たな段階に入る。彼がこの地で築いた地位と基盤は、幕末に至るまで続く三浦長門守家の繁栄の礎となった。

4.1. 一万五千石の万石陪臣 ― 紀州藩における三浦家の位置づけ

紀州に入国した為春は、那賀郡貴志邑(現在の和歌山県紀の川市貴志川町周辺)に1万5,000石の知行を与えられた 1 。1万石以上の知行を持つ大名の家臣は「万石陪臣」と呼ばれ、実質的には小大名に匹敵する格式と動員力を持っていた。これは、陪臣としては破格の待遇であり、為春が藩内でいかに重要な存在と見なされていたかを示している。

紀州藩には、幕府から直接付けられ、藩主の監視役も兼ねる安藤家(紀伊田辺3万8,000石)と水野家(紀伊新宮3万5,000石)という二つの「御附家老」が存在した 23 。三浦家は、この御附家老に次ぐ家格と実力を有していた。何よりも、藩祖・頼宣の外戚(母方の伯父)であるという出自が、三浦家を他の家老とは一線を画す特別な存在たらしめていたのである 22

4.2. 貴志城の築城と知行地の統治

為春は、自身の知行地である貴志の地に、居城として貴志城を築いた 1 。この事実は、彼が単に和歌山城下に屋敷を構えて藩主の側で勤めるだけの家老ではなく、自身の領地と城を持つ一人の領主であったことを意味する。『貴志川町史』などによれば、貴志城は上野山と呼ばれる丘陵に築かれ、貴志川と丸田川を天然の外堀として利用した堅固な城であったとされる 26 。彼はこの城を拠点として、1万5,000石の領地を直接統治していたのである。

4.3. 藩政初期における具体的な貢献

為春は、紀州藩の創成期において、藩政の中枢で重要な役割を担った。頼宣の入国後、藩都である和歌山城の城代を務めたという記録がある 27 。城代は、藩主不在時に城の守備と城下の行政を統括する最高責任者であり、この重職を任されたことからも、頼宣の為春に対する絶対的な信頼が窺える。彼は、安藤、水野といった御附家老らと共に、藩の軍制や諸制度の制定に深く関与し、紀州藩の統治機構の基礎を築く上で多大な貢献をしたと考えられる 27

4.4. 隠居と後継者・三浦為時への継承

寛永元年(1624年)、為春は52歳で家督を嫡男の為時(ためとき)に譲り、隠居の身となった 1 。しかし、彼の政治的影響力は隠居後も衰えなかった。その2年後の寛永3年(1626年)には、従五位下長門守に叙任されている 1 。これは、彼が藩の「大御所」的な存在として、引き続き藩政に対して強い発言権を持ち続けていたことを示唆している。

家督を継いだ息子の為時は、父の築いた基盤の上に、さらに家名を高めた。父の死後、為時は藩主・頼宣から大老に任じられ、若年の御附家老・安藤義門を補佐して藩政を主導した 28 。こうして、三浦家は藩祖の外戚という特別な家柄から、代々藩政を担う世襲家老家としての地位を完全に確立し、幕末まで続く三浦長門守家の繁栄の歴史が始まったのである 1


第五章:文人武将としての顔 ― 著作と文学的評価

三浦為春の人物像を語る上で、紀州藩家老としての政治的手腕と並び立つのが、優れた文人としての一面である。彼は武士が刀槍だけでなく、筆と教養によってもその価値を示す新しい時代の到来を体現した「文人武将」の好例であった。和歌、連歌、俳諧など多岐にわたる文芸に精通し、自らも数多くの作品を世に残している。

5.1. 近世初期文学「仮名草子」の世界

為春の文学活動を代表するのが、仮名草子(かなぞうし)の執筆である。仮名草子とは、江戸時代初期の慶長年間から天和年間にかけ、木版印刷技術の普及を背景として流行した、平易な仮名文字で書かれた散文作品群の総称である 30 。その内容は、物語、説話、名所記、教訓書など多岐にわたり、武士や僧侶といった知識人だけでなく、女性や子供を含む幅広い読者層を対象としていた 31 。教訓的・啓蒙的な性格が強いものが多く 30 、中世の御伽草子の伝統を受け継ぎつつ、後の井原西鶴らによる浮世草子の先駆けとなった、近世小説史における過渡期の文学ジャンルである 30

5.2. 代表作『あだ物語』 ― 成立の背景、内容、そして後水尾天皇による跋文の意義

為春の著作の中で最も名高いのが、寛永17年(1640年)に刊行された仮名草子『あだ物語』二巻である 7 。この時、為春は68歳。既に隠居の身であった。この作品は『寛政重修諸家譜』に「女子のために」作ったと記されており、自身の娘に対する教訓的な意図を持って執筆されたことが窺える 5

その題名である「あだ」という言葉には、「儚い」「移ろいやすい」「実がない」といった意味が含まれる。これは、仏教、特に中世以来の文学を貫く「無常観」と深く結びついている思想である 37 。熱心な日蓮宗徒であった為春が、この世の栄華や男女の恋情の「儚さ」をテーマとし、それを娘への教えとして物語の形にしたと考えることは、極めて自然な解釈であろう。『あだ物語』は単なる娯楽小説ではなく、作者自身の深い仏教的世界観が反映された、教訓文学としての側面を強く持っていた可能性が高い。

この『あだ物語』を文学史上で特異な存在にしているのが、後水尾天皇が自ら跋文(ばつぶん、奥書)を記したという驚くべき逸話である 1 。伝わるところによれば、為春の作品は、時の大覚寺門跡であった空性法親王(後陽成天皇の弟宮)の手を経て、その甥にあたる後水尾天皇の天覧に供された。作品に深く感銘を受けた天皇が、自ら筆を執ってその巻末に跋文を書き入れたという。

一介の陪臣、それも武家の家老が著した通俗的な小説に、天皇が跋文を寄せるというのは、前代未聞の出来事であった。この事実は、いくつかの重要な点を示唆している。第一に、為春が、主君である紀州徳川家を介して、朝廷や皇族といった最高位の文化的ネットワークに連なっていたことである。これは、為春個人の名声というよりは、彼が属する紀州徳川家の、将軍家に次ぐ権威と文化的影響力の大きさを示すものと言える。第二に、この逸話は『あだ物語』という一作品を、数多ある仮名草子の中から、近世初期文学史において特筆すべき一作へと昇華させた。そして第三に、大坂の陣を経て泰平の世が到来し、武士の価値基準が武勇一辺倒から、学問や教養をも重んじる方向へと転換していく中で、武家の文化活動が朝廷からも評価されるようになったことを示す、象徴的な出来事として位置づけることができる。

5.3. 『太笑記』『野奸集』など、その他の著作の紹介と分析

為春の文筆活動は『あだ物語』にとどまらない。彼の多才ぶりは、残された著作の多様性からも明らかである。彼は紀行文、俳諧、連歌といった複数のジャンルで健筆を振るった。

特に注目されるのは、俳諧の分野での活動である。松永貞徳によって大成された「貞門俳諧」の黎明期に、為春は俳人としても活動していた 2 。彼の句集『野奸集』(やかんしゅう)や『犬俤』(いぬおもかげ)は、当時の俳諧の動向を知る上で貴重な資料となっている。これらの作品は、彼が中央の文壇の最新の動きにも通じていた、本格的な文化人であったことを証明している。

【表2】三浦為春の著作一覧

ジャンル

書名

成立・刊行年

内容・特記事項

仮名草子

『あだ物語』

寛永17年(1640)刊

全二巻。娘のために書かれた教訓的物語。後水尾天皇の跋文を得たことで知られる 1

紀行文

『太笑記』

慶長17年(1612)頃

紀行文。為春の比較的若い時期の作品 2

俳諧集

『野奸集』

慶安3年(1650)

俳諧集。貞門俳諧初期の作品として重要 1

俳諧集

『犬俤』

慶安年間(1648-52)

俳諧集。為春の晩年の作品 1

俳諧集

『発句帳』

-

為春没後に遺稿が整理されたもの 2

俳諧集

『七十句付』

-

為春没後に遺稿が整理されたもの 2

連歌書

『汚塵集』

-

連歌集。為春が連歌にも通じていたことを示す 2

この著作リストは、為春が武辺一辺倒の武士ではなく、和歌、連歌、そして当時最新の文芸であった俳諧に至るまで、幅広い分野に深い造詣を持っていたことを雄弁に物語っている。彼の存在は、戦乱の世が終わり、文化が武士の重要な素養となった新時代の到来を象徴している。


第六章:篤き信仰の世界 ― 日蓮宗不受不施派との関わり

三浦為春の複雑な人物像を解き明かす上で、最も重要かつ難解なのが、彼の信仰である。彼は、徳川御三家の家老という権力の中枢に身を置きながら、その権力と真っ向から対立する可能性を秘めた、極めて厳格な教義を持つ日蓮宗不受不施派(ふじゅふせは)を生涯にわたって篤く信仰した。この一見矛盾した生き様こそ、為春という人間の核心に迫る鍵である。

6.1. 不受不施派の教義 ― なぜ権力と対立したのか

日蓮宗不受不施派の教義の根幹は、その名の通り「不受」と「不施」にある。すなわち、「法華経を信じない者(謗法者)からは、いかなる布施も受けず(不受)」、「法華経を信じない者(他宗の信者や寺社)には、布施をしない(不施)」という、極めて排他的かつ厳格な戒律である 39

この教義は、日蓮の「謗法呵責(ほうぼうかしゃく)」(法華経以外の教えを厳しく批判する)の精神を純粋に継承しようとするものであった。しかし、天下統一を進め、諸宗派の融和を図ることで国内の安定を目指した豊臣秀吉や徳川家康といった時の権力者にとって、この思想は社会の秩序を乱す反権力的なものと映った。秀吉が主催した方広寺大仏殿での千僧供養会への出仕を拒否したことに始まり、不受不施派は幕府から危険視され、江戸時代を通じて厳しい弾圧の対象となったのである 40

6.2. 不受不施派の祖・日奥との交流とその影響

為春がこの厳格な信仰に身を投じるきっかけとなったのが、不受不施派の派祖である仏性院日奥(にちおう)との出会いであった。大坂夏の陣が終結した直後の元和元年(1615年)、主君・頼宣と共に京都に滞在していた為春は、妙覚寺にいた日奥を訪ね、その教化を受けた 1

日奥は、幕府の弾圧により対馬へ流罪にされた経験を持ちながらも、その信念を曲げなかった高僧である。日奥は為春の深い求道心を高く評価し、為春もまた日奥の純粋で妥協のない信仰の姿勢に深く帰依した 2 。この師弟関係は、為春のその後の信仰生活を決定づけた。為春は、妹であるお万の方(養珠院)と共に日奥の有力な外護者(檀家)となり、その交流は書簡などを通じて宗派内の教義論争にまで影響を及ぼすほどであった 44

6.3. 了法寺と妙善寺の建立 ― 信仰の具現化としての寺院創建

為春の信仰の篤さは、彼が建立した二つの寺院からも明らかである。元和9年(1623年)、彼は前年に亡くなった父・正木頼忠の菩提を弔うため、自身の知行地である紀伊国貴志荘上野山村に、父の法号をとって了法寺(りょうほうじ)を建立した 1 。この寺は当初、日奥の思想に連なる不受不施派の寺院として創建された 22

さらに寛永4年(1627年)には、江戸の藩邸に近い麻布桜田町に妙善寺(みょうぜんじ)を建立している 1 。これらの寺院建立は、多額の私財を投じて自身の信仰を社会の中に具現化する行為であり、彼の信仰が単なる内面的な思索にとどまらない、実践的なものであったことを力強く物語っている。

6.4. 藩屏の重臣と反骨の信仰 ― 為春の内面に存在する二律背反の分析

ここに、三浦為春という人物の最大の謎がある。徳川将軍家の藩屏たる御三家の家老という、幕藩体制の根幹を支えるべき立場の人間が、なぜ体制から危険視される反権力的な信仰を持ち続けることができたのか。この表面的には完全な矛盾としか思えない生き方は、どのようにして可能になったのであろうか。

その要因を分析すると、三つの要素が浮かび上がってくる。

第一に、個人的・家系的な敬虔さである。三浦(正木)氏は、為春の祖父の代から代々日蓮宗の熱心な信者であり、その信仰は政治的な立場とは別に、一族の伝統と彼個人の深い求道心に根差した、純粋なものであった 2。

第二に、 精神的支柱としての必要性 である。戦国の動乱を生き抜き、泰平の世では権力の中枢で複雑な人間関係や政治的駆け引きに身を置く中で、世俗的な権威や価値観を相対化し、絶対的な精神の拠り所を求める心が、彼を不受不施派の純粋主義へと向かわせたのではないか。厳しい戒律は、彼の精神に揺るぎない規律と安定を与えたのかもしれない。

そして第三に、最も現実的かつ決定的な要因として、 妹・お万の方(養珠院)による政治的庇護 の存在が挙げられる。彼女もまた不受不施派の熱心な信者であり、その信仰のためには時の天下人である家康にすら助命嘆願を直訴し、聞き入れられなければ師と共に死ぬとまで言い放つほどの胆力と影響力を持っていた 46 。藩祖・頼宣の生母とその兄という、いわば「聖域」ともいえる立場にあったからこそ、幕府や藩も、為春の信仰を公然と問題視することが極めて困難だったのである。

結論として、為春の信仰は、個人的な敬虔さと精神的な希求を核としながら、妹の絶大な権威という政治的シールドによって守られていた、極めて特殊なケースであったと言える。彼は、世俗の主君である徳川頼宣への絶対的な忠誠と、法(法華経)の教えへの絶対的な忠誠という、二つの異なる忠誠を、大きな矛盾を内包しながらも生涯を通じて両立させた。この二律背反の緊張感の中に身を置き続けたことこそが、三浦為春という人物の最も複雑で、人間的な深みを感じさせる部分なのである。


終章:晩年と後世への遺産

武将として、藩老として、そして文人・信仰者として、激動の時代を駆け抜けた三浦為春。その晩年は、彼の人生が集約されたかのように、静謐でありながらも豊かな精神世界に彩られていた。

7.1. 遁庵定環としての隠居後の生活

寛永元年(1624年)に家督を譲った後も、為春はしばらく藩政の後見役として重きをなしていたが、寛永4年(1627年)、自らが建立した了法寺にて剃髪入道し、「遁庵定環(とんあん ていかん)」と号した 1 。これは、彼が世俗の務めから一歩退き、本格的に仏道と文芸に専心する生活に入ったことを意味する。

後水尾天皇の跋文を得た『あだ物語』の刊行(1640年)や、俳諧集『野奸集』の成立(1650年)など、彼の代表的な文化活動の多くがこの隠居後の時期になされている。伝わるところによれば、晩年の彼は常に法華経を読誦し、その題目(南無妙法蓮華経)を書写することを日課としていたという 1 。戦国の世を生き抜き、権力の中枢で藩政を動かしてきた武将が、その人生の最終章において、筆と経文の中に安らぎと真理を見出そうとしていた姿が目に浮かぶようである。

7.2. 為春の死と、紀州藩家老として続く三浦家の系譜

承応元年(1652年)7月2日、三浦為春は波乱に満ちた生涯を閉じた。享年80 1 。戦国の生まれとしては、まさに大往生であった。その亡骸は、和歌山市にある菩提寺・了法寺に、先に亡くなった父・頼忠と共に葬られた 1

彼が一代で築き上げた三浦長門守家は、その後も彼の遺産を継承し、幕末に至るまで紀州藩の世襲家老職として藩政に重きをなし続けた 1 。藩祖の外戚として始まり、藩政の創成期を支え、文芸の世界でも名を馳せた初代・為春の存在は、後代の当主たちにとって大きな誇りであり、その地位を揺るぎないものにする権威の源泉であり続けたであろう。

7.3. 総括:正木為春という人物が日本史に刻んだもの

正木(三浦)為春の生涯を振り返る時、我々はそこに、一つの典型と一つの稀有な事例を見出すことができる。

彼の人生は、第一に、戦国乱世から徳川泰平の世へと移行する時代の流れの中で、血縁と時運を巧みに捉え、一介の武士の子から大藩の重臣へと駆け上がった、立身出世物語の典型である。彼の軌跡は、旧来の価値観が崩壊し、新たな秩序が形成される過渡期において、個人の能力と機会がいかに重要であったかを物語っている。

第二に、彼は武士がもはや武勇のみで評価されるのではなく、筆と教養によってもその価値を示す新しい時代の到来を体現した「文人武将」の好例であった。彼の多彩な著作は、武家文化が新たな段階へと発展していく過程を示す貴重な証言である。

そして何よりも、彼の生涯は、権力の中枢にありながら、それに迎合することなく、己の信じる絶対的な価値(信仰)を貫き通した、稀有な精神史の事例として記憶されるべきである。幕藩体制という巨大な権力構造の一翼を担う「武」の顔、宮中にも通じる洗練された「文」の顔、そして時の権力と対峙する反骨の「信」の顔。この三つの要素が、一人の人間の中で矛盾を抱えながらも分かちがたく結びつき、織りなす豊かで奥行きのあるタペストリー、それこそが三浦為春という人物が日本史に刻んだ、真の姿なのである。

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