黒田家の精鋭家臣団「黒田二十四騎」の一人として、その名を後世に遺す毛屋武久(けや たけひさ) 1 。しかし、彼の真価は、その輝かしい称号の内のみに留まるものではない。彼の生涯は、主君を八度変え、戦国の荒波を自らの武と智のみを頼りに乗り越えた、一人の武士の生き様そのものであった。本報告書は、近江国の一豪族の子として生を受け、流転の末に筑前福岡藩の重臣となったこの人物について、利用者様が既にご存知の情報の範疇に留まらず、現存する史料を基にその実像に深く迫るものである。
毛屋武久の人生の軌跡は、個人の武勇と才覚が最大の価値を持つ「渡り奉公」が武士の経歴として成立した戦国乱世から、藩への絶対的な忠誠と秩序が求められる近世江戸時代への、大きな時代の移行期を象徴している。彼の生涯を丹念に追うことは、一個人の伝記を超え、戦国という時代そのものの構造と、そこに生きた武士の倫理観を理解する上で、極めて重要な示唆を与える。本報告書では、彼の出自から晩年に至るまでの足跡を追い、その時々の決断の背景にある歴史的文脈を解き明かし、一人の武士の立体的な人物像を提示することを目的とする。
毛屋武久は、天文23年(1554年)、近江国神崎郡(現在の滋賀県東近江市周辺)において、田原長久の嫡男として生を受けた 2 。幼名は虎千代と伝わる。彼の本姓は田原氏であり、「毛屋」は後に自らの武功によって勝ち取る姓である。
彼の故郷である近江国は、京の喉元に位置する戦略的要衝であり、常に畿内の政治情勢の荒波に晒されていた。当時、南近江は守護大名である六角氏の支配下にあったが 4 、尾張から勢力を伸長する織田信長との間で激しい抗争が繰り広げられていた。この争乱の渦中で、父・長久は六角義賢方として信長軍と戦い、討死したと記録されている 2 。
幼くして父を失い、天涯孤独の身となった虎千代は、六角氏に仕える書家であった建部賢文(たけべ けんもん)に引き取られ、養育された 2 。武家の棟梁たる父を失い、文人の下で育つという経験は、彼の後の人生における強靭な精神力と、武辺一辺倒ではない広い視野を育む一助となった可能性が考えられる。
元亀2年(1571年)、虎千代は元服し「田原金十郎」と名乗ると、摂津の武将・和田惟政に仕官し、武士としての第一歩を踏み出す。しかし、彼の最初の主君となった惟政は、同年のうちに信長と対立した末に討死し、金十郎は再び主を失うこととなる 2 。主家の滅亡という戦国の非情を、彼はキャリアの初期から身をもって体験したのである。
その後、故郷の近江に戻った金十郎は、在地領主であった山崎片家に仕えた。山崎氏は元々六角氏の配下であったが、時代の趨勢を鑑み、織田氏へと転属した勢力であり、当時の近江における権力構造の流動性を象
徴するような存在であった 2。
この山崎片家の配下として、金十郎は彼の武名を知らしめる最初の、そして後年に極めて重要な意味を持つ武功を立てる。播磨国の三木城攻め(三木合戦)に従軍した際、織田方の部隊が苦戦し敗走する中、後に会津42万石の大名となる蒲生氏郷の軍勢が危機に陥った。金十郎はこの時、見事な働きで氏郷の軍を救出したと伝えられている 2 。この一戦は、単なる一人の若武者の手柄に留まらず、十数年の時を経て、彼の人生を大きく左右する伏線となったのである。
彼の青年期は、主家の滅亡や鞍替えの連続であり、特定の家に安住することが許されない状況であった。このような環境下では、家への盲目的な忠誠よりも、いかにして戦場で功を立て、自らの価値を証明するかという、一個人の「武芸」と「状況判断能力」が生存のための必須条件となる。彼のキャリアは、血筋や縁故に頼らず、実力のみが評価される戦国時代のプロフェッショナルな武士の典型例として始まったのである。
彼の流転の生涯を理解するため、その主君と石高(知行高)の変遷を以下にまとめる。
時期 |
主君 |
所属勢力 |
主な出来事・役職 |
石高(判明分) |
~元亀2年 (1571) |
和田惟政 |
織田方 |
田原金十郎と名乗る |
不明 |
元亀2年~ |
山崎片家 |
織田方 |
三木合戦にて蒲生氏郷を救出 |
不明 |
~天正11年頃 |
柴田勝家 |
織田方 |
長篠の戦い等に従軍、「毛屋主水正」を拝命 |
300石 |
~天正8年 (1580) |
前田利家 |
織田方 |
寄食(賭博疑惑で柴田家を退去後) |
80石(扶持) |
天正8年~天正11年 (1583) |
池田恒興 |
織田方 |
|
700石 |
天正11年~天正16年 (1588) |
佐々成政 |
織田→豊臣方 |
|
不明 |
天正16年~寛永3年 (1626) |
黒田長政 |
豊臣→徳川方 |
旗奉行、武蔵守。当初300石、関ヶ原後に加増 |
700石 |
この表は、彼の武士としての「市場価値」が、その時々の武功や状況によって大きく変動したことを示している。特に、柴田家を出た後の80石から池田家での700石への飛躍は、彼の能力が高く評価されていたことの証左である。そして最終的に黒田家で得た700石という安定は、それまでの流転の人生との劇的な対比を成している。
山崎家を辞した後、田原金十郎は織田家中の重鎮、「鬼柴田」の異名を持つ筆頭家老・柴田勝家 6 の家臣となった。当時の織田軍団は天下最強と謳われた軍事組織であり、その中で彼は、天正3年(1575年)の長篠の戦いをはじめとする数々の合戦に従軍し、武士としての技量と経験をさらに磨き上げていった 2 。
彼の人生における大きな転機は、越前国で訪れる。同国毛屋畠(けやばたけ、現在の福井県内に比定されるが正確な場所は不明)で発生した一揆を鎮圧するという武功を立てたのである。この功績を高く評価した勝家は、彼に300石の知行を与えると同時に、その戦功の地名に由来する「毛屋」の姓を授けた 2 。これにより、彼は「田原金十郎」から「毛屋主水正(けや もんどのしょう)」へと、その名と存在を新たにした。自らの働きによって新たな姓を勝ち取ることは、武士にとって最高の名誉の一つであり、彼の武士としてのアイデンティティが確立した瞬間であった。
しかし、順風満帆に見えた柴田家中での彼のキャリアは、思わぬ形で暗転する。「賭博の疑惑をかけられた」ことにより、柴田家を退去せざるを得なくなったのである 2 。この逸話の真偽は定かではないが、たとえ「疑惑」であったとしても、それが原因で家を去らねばならないほど、武士社会における面目や信用がいかに重要であったかを示している。
この苦境において、彼に救いの手を差し伸べた人物がいた。同僚の毛受勝照(めんじゅ かつてる)である。勝照は後に賤ヶ岳の戦いで主君・勝家と運命を共にする勇将であり、彼の助けを得て、武久は無事に柴田家を去ることができた。この事実は、武久が家中で完全に孤立していたわけではなく、個人の武勇や人柄を評価する者との信頼関係を築いていたことを示唆している。
柴田家を去った武久は、能登を治める前田利家のもとに身を寄せ、3年間にわたり80石の扶持を受けて匿われた 2 。利家が、将来を見越して彼の能力に投資したとも考えられる。この流浪の時期、彼は天正6年(1578年)の有岡城の戦いに織田方の雑兵として参加した記録も残っており、浪々の身であっても戦場の感覚を失うまいとする、彼の武士としての執念が垣間見える。この時期の経験は、武功だけでは安定した地位は得られないという、戦国武士の厳しい現実を武久に教え、後の黒田家での慎重な立ち振る舞いに繋がった可能性がある。
前田利家のもとを辞した後の毛屋武久は、再び自らの才覚を頼りに新たな主君を求めた。天正8年(1580年)、摂津の池田恒興に700石という高禄で迎えられる 2 。前田家での80石の扶持から大幅な加増であり、彼の武士としての市場価値が非常に高く評価されていたことの何よりの証拠である。
しかし、天正11年(1583年)、池田家が美濃国大垣城主へと転封になった際に、彼は恒興のもとを致仕し、北陸の勇将・佐々成政に仕えた 2 。この決断の理由は定かではないが、主家の転封が、歴戦の士である彼の活躍の場に関する考えと合致しなかった可能性が考えられる。
彼の最後の渡り奉公の主となった佐々成政は、天正16年(1588年)、肥後国人一揆を誘発した統治失敗の責を問われ、豊臣秀吉の命により改易、切腹させられる 8 。主君を失い再び浪人となった武久は、他の佐々旧臣らと共に、新たに豊前国中津17万石の領主として入部してきた黒田長政に300石で仕官した 2 。これが、彼の生涯で八人目にして最後の主君となった。
黒田家に仕官して2年後の天正18年(1590年)、毛屋武久の人生を象徴する極めて重要な出来事が起こる。かつて三木合戦で彼に命を救われた蒲生氏郷が、奥州会津42万石の大大名となっており、その恩義に報いるため、武久を「一万石」という破格の待遇で家臣に迎えたいと招聘してきたのである 2 。当時の彼の知行は300石。実に33倍以上という、武士として望みうる最高の出世の機会であった。
しかし、武久の返答は、彼の武士としての矜持を示すものであった。彼は氏郷からの使者に対し、丁重に、しかしきっぱりとこう述べたという。
「黒田家は間もなく唐入り(文禄・慶長の役)を控えております。主家の一大事を前に家を去ることは、武士の道に反すること。この御恩は生涯忘れませぬが、今お受けすることはできませぬ。もし、この大戦から無事に生きて帰ることができましたならば、その折には御家にお仕え致したく存じます」 2 。
この返答の核心は、仕官して間もない黒田家への個人的な忠誠心というよりも、主君が国家的な大事業(戦争)に臨む際に、家臣が私的な理由で離脱することは武士としての面目を失う「不義理」である、という当時の武士階級に共通した倫理観にあった。彼の判断基準は「忠誠」か「裏切り」かの二元論ではなく、「義理を果たすべき時機」だったのである。
この言葉通り、武久は文禄・慶長の役において、その豊富な戦闘経験を遺憾なく発揮し、数々の戦功を立てた。そして無事に帰還したが、彼の能力を高く評価し、手放すことを惜しんだ主君・長政の妨害により、蒲生家への移籍はついに叶わなかったと伝えられている 2 。この逸話は、多くの主君を渡り歩いた彼が、なぜ最終的に黒田家で重んじられたかを雄弁に物語っている。彼は、目先の私利私欲よりも武士としての行動規範を優先する、信頼に足る人物であることを自らの行動で証明したのである。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、毛屋武久は黒田長政の軍にあって、旗奉行(はたぶぎょう)という重責を担った 2 。旗奉行は、軍の象徴である主君の馬印や旗指物を守り、その動きによって部隊の進退を示す、極めて重要な役職である。これを任されたことは、長政が武久の武勇と冷静な判断力に絶大な信頼を寄せていたことの証左に他ならない。
合戦の最中、毛屋武久の生涯における最大の晴れ舞台が訪れる。東軍総大将である徳川家康自らに直接召し出され、敵方である西軍の情勢について意見を求められたのである 2 。一介の武将が、合戦の趨勢が決する重要な局面で総大将から直々に諮問を受けるというのは異例のことであり、彼の戦場での経験と卓越した分析能力が、黒田家中に留まらず、広く知られていたことを示唆している。
この時、家康から西軍の兵力について問われた武久の返答は、彼の真骨頂を示すものであった。単に「敵は寡勢である」と報告したという通説 [ユーザー提供情報] に留まらない、より高度な分析であったことが、後世の軍記物などから窺える。
『関原軍記大成』などを基にした近年の研究によれば、そのやり取りは以下のようなものであったとされる。家康が「西軍の兵力は如何ほどと見るか」と問うと、武久は「実際に石田三成のために戦う兵は、およそ二万ほどかと見受けられます」と答えた。これに対し家康が「いや、布陣している兵は十四、五万はいるはずだが」と重ねて問うと、武久は「山上に陣取る兵(松尾山の小早川秀秋や南宮山の毛利秀元ら)は、平地での戦いには加わりますまい」と断言したという 11 。
これは単なる兵数の報告ではない。西軍内部の不和や、日和見を決め込む諸将の動向を的確に見抜き、名目上の兵力と実働兵力とを明確に区別した、極めて高度な戦況分析であった。彼の眼は、戦場の霧の向こうにある、人心の動きまでも見通していたのである。
武久の的確な報告に感心した家康は、褒美として饅頭を与え、その功を労ったと伝えられている [ユーザー提供情報]。この逸話の直接的な一次史料は限定的であり、その真偽を確定することは難しい。しかし、この物語は、天下人である家康が、一人の歴戦の武士の的確な分析を認め、賞賛したという象徴的な出来事として、特に黒田藩内で語り継がれていった。
興味深いことに、武久が用いたとされる兜は「金箔押饅頭形兜(きんぱくおしまんじゅうがたかぶと)」であったと伝わっている 12 。この饅頭の逸話と兜の形状との間に直接的な因果関係を示す史料はないが、彼の人物像を彩る逸話として記憶されている。
この関ヶ原での彼の役割は、単なる「物見(ものみ)」、すなわち斥候や偵察の域を遥かに超えている。それは「軍監(ぐんかん)」や「戦況分析官」に近い、高度な専門職であったと言える。彼の近江出身という経歴 1 と、この卓越した情報収集・分析能力が結びつき、後世に「毛屋武久は甲賀忍者だったのではないか」という説 1 を生む土壌となった。ゲームソフトなどで彼が忍者として設定されているのは 1 、この解釈の延長線上にある。史実としての彼は、特定の忍術流派に属した記録はないが、その能力は忍者に比肩するほど高度なものであり、「極めて優秀な軍事インテリジェンスの専門家」であったと評価するのが最も妥当であろう。
関ヶ原の戦いにおける黒田長政の功績は絶大であり、戦後、徳川家康から筑前国52万石を与えられ、福岡藩が成立した 14 。この論功行賞において毛屋武久も加増を受け、その知行は都合700石となった。彼は益田正親(ますだ まさちか)の組下に配属され、その地位は不動のものとなる 2 。福岡藩の家臣団階級において、彼は豊前中津時代からの家臣を指す「古譜代」に分類され 14 、藩の重鎮の一人として遇された。
長きにわたり各家を渡り歩き、戦いに明け暮れていたためか、武久は40歳を過ぎるまで所帯を持っていなかった。これを見かねた主君・長政の命により、彼は妻を迎えることとなる。その相手は、かつて豊前国人一揆で黒田家と敵対し、戦死した鬼木掃部宗正(おにき かもん むねまさ)の娘・長(ちょう、または秋姫)であった 2 。これは、戦国の遺恨を乗り越え、藩内の融和と安定を図るための政略的な縁組であり、武士の私生活がいかに藩の統制下にあったかを示す好例である。
江戸時代に入っても、彼の豊富な経験と実務能力は藩にとって不可欠であった。慶長19年(1614年)からの大坂の陣には高齢ながら従軍し、元和6年(1620年)には大坂城の再建普請にも参加している 2 。
元和8年(1622年)、武久の藩内における重鎮としての地位を示す出来事が起こる。同僚である菅正利(かん まさとし)の子・重利に、由緒ある通称「主水正」を譲るため、長政の命によって新たに「武蔵守(むさしのかみ)」を称することとなったのである 2 。これは、藩内における世代交代と秩序の維持を円滑に進めるための措置であり、彼が藩の長老として深く尊重されていたことを物語っている。
寛永3年(1626年)、武久は子の武重に家督を譲り、七十余年にわたる武士としての務めを終え、隠居の身となった。その後、中風を患い、剃髪して「文賀(ぶんが)」と号した 2 。
そして、寛永5年(1628年)10月26日、戦国の動乱を生き抜き、新たな時代にその役割を全うした歴戦の士は、病を得て静かにその生涯を閉じた。享年75 2 。それは、激動の時代を自らの才覚で渡りきった末の大往生であった。
毛屋武久個人の墓として明確に特定されているものは、現在のところ確認されていない。しかし、彼は黒田家の功臣であり、その亡骸は黒田家の菩提寺である福岡市博多区の崇福寺(そうふくじ) 15 や、その他の縁の寺院(例:中央区の少林寺 18 、円応寺 20 )に、他の家臣たちと共に葬られたと考えるのが自然である。
特に崇福寺の広大な黒田家墓所は、昭和25年(1950年)に改葬工事が行われ、藩主などを除く二十数基あった家臣の墓石は、新たに設けられた合葬碑にまとめられたと記録されている 16 。毛屋武久の霊も、この合葬碑の下で、彼が生涯を捧げた主君や同僚たちと共に、静かに眠っている可能性が極めて高い。
毛屋武久の生涯は、特定の主家に縛られず、自らの実力で道を切り拓く「戦国武士」から、藩という組織の一員として秩序と忠誠を重んじる「近世武士」へと、時代と共に自らを変革させていった過程そのものであった。
後世に彼を称える「黒田二十四騎」という枠組みは、江戸時代中期以降に成立した顕彰のための呼称である 23 。彼の本質は、その枠に安住する人物ではなかった。彼は黒田家にとって、播磨以来の譜代家臣ではなく、「外様」に近い「古譜代」の立場であった 14 。にもかかわらず、その卓越した専門的能力と、何よりも武士としての「義理」を貫く高潔さによって、譜代中の譜代と並ぶ、あるいはそれ以上の評価と信頼を勝ち取ったのである。
結論として、毛屋武久は、巷説で語られるような「忍者」ではなかった。しかし、その情報収集・分析能力は、忍者のそれに比肩するほど高度なものであった。彼は、華々しい一騎駆けの武勇伝で歴史に名を刻むタイプの武将ではないかもしれない。しかし、その時々の主君に実務能力をもって誠実に仕え、特に人生の岐路において、目先の利益よりも武士としての矜持を貫いた彼の生き様は、乱世を生きる一つの理想形として、後世に語り継がれるべき価値を持つ。彼の人生は、激動の時代における一個人の生存戦略と、武士道という倫理観の相克を見事に体現した、貴重な歴史の証左なのである。