氏家卜全(うじいえ ぼくぜん)は、日本の戦国時代、とりわけ美濃国(現在の岐阜県南部)が激動の渦中にあった時期に活動した武将である。この時代は、美濃守護であった土岐氏の権威が失墜し、斎藤道三が下剋上によって国主の座を奪い、さらには尾張国(現在の愛知県西部)から織田信長が美濃へと侵攻してくるという、目まぐるしい権力闘争が繰り広げられた時代であった。氏家卜全は、こうした主家の変遷や時勢の大きなうねりの中で、時に主君を替え、時に他の有力武将と連携しつつ、西美濃における有力な勢力としての地位を維持し続けた。
本報告書は、氏家卜全の出自や名乗り、斎藤氏への仕官、西美濃三人衆としての活動、織田信長への帰順、そしてその最期に至るまでの生涯と事績について、現存する史料や研究成果に基づき、多角的に検証するものである。また、彼の人間関係、特に西美濃三人衆との連携や、彼が関与した主要な合戦における動向を詳細に分析することで、戦国時代の一武将としての氏家卜全の実像に迫ることを目的とする。氏家卜全の生涯は、主家が次々と入れ替わる戦国乱世において、武将がいかにして生き残りを図り、家名を存続させようとしたかという、当時の武士の行動原理を考察する上で示唆に富む事例と言える。特に、稲葉一鉄、安藤守就らと共に「西美濃三人衆」として、斎藤氏の滅亡と織田信長の美濃平定という歴史的転換点において重要な役割を果たしたことは、単なる一個人の動向を超え、地域勢力の力学が中央の政局にも影響を与え得たことを示す好例である。
氏家卜全の出自や名乗りに関しては、複数の情報が伝えられており、その生涯を理解する上で基本的な情報となる。
生誕地と推定される生年
氏家卜全の生年については、いくつかの説が存在する。一つは永正9年(1512年)とするもので 1 、もう一つは永正2年から永正6年(1505年~1509年)頃とする説である 4 。『美濃国諸旧記』には、元亀2年(1571年)に59歳で死去したという記述があり 3 、これを基に逆算すると永正9年(1512年)生まれという説が有力視される。しかし、生年が確定しているわけではない。出身地については、美濃国加茂郡の片田舎であったとされている 4 。ただし、父である氏家行隆の居城が美濃国牧田城(現在の岐阜県養老郡)であったとする記述 2 もあり、加茂郡との具体的な関連性については、さらなる史料の検討が必要である。この時代の地方武士に関する記録は断片的であることが多く、生年や正確な出生地を特定することはしばしば困難を伴う。
桑原姓から氏家姓へ
氏家卜全は、当初は桑原直元(くわばら なおもと)と名乗っていたとされる 1 。後に氏家直元と改姓しているが、美濃の旧族である氏家氏との間に直接的な血縁関係はなかったとする見方が有力である 1 。戦国時代においては、家格や社会的な地位向上のために、有力な氏の姓を名乗ることや、養子縁組、名跡継承といった手段が用いられることは珍しくなかった。卜全が氏家姓を名乗った背景にも、美濃国内で影響力を持つ氏家氏との何らかの戦略的な関係構築があった可能性が考えられる。この点に関しては、『寛政重修諸家譜』などの系図資料 7 や関連研究 1 を通じた詳細な検討が求められるが、現時点ではその具体的な経緯は明らかではない。
諱「直元」と号「卜全」
諱(いみな、実名)は直元(なおもと)である 1 。一般には、出家後の号である卜全(ぼくぜん)、あるいは貫心斎卜全(かんしんさい ぼくぜん)の名で広く知られている 1 。一説によれば、「卜全」という名は成人した後に自ら選んだものであり、占いの「卜」と完全を意味する「全」を合わせ、世の行く末を見通す眼力と全てを包み込む度量を持ちたいという願いが込められていたとされる 4 。この号の選択は、彼自身の内面的な希求や、激動の時代に対する彼なりの認識を反映している可能性があり、単なる武人としてだけではない一面をうかがわせる。
別名としては友国(ともくに)も伝えられている 1 。官途名(官職名)としては、常陸介(ひたちのすけ)や三河守(みかわのかみ)を称した記録が残っている 1 。
氏家卜全 略歴
項目 |
内容 |
本名(諱) |
直元(なおもと) 1 |
号 |
卜全(ぼくぜん)、貫心斎卜全(かんしんさい ぼくぜん) 1 |
一般的な呼称 |
氏家卜全 |
その他の名 |
友国(ともくに) 1 、桑原直元(くわばら なおもと) 1 |
官途名 |
常陸介(ひたちのすけ)、三河守(みかわのかみ) 1 |
生年(諸説) |
永正9年(1512年) 1 、または永正2年~6年(1505年~1509年)頃 4 |
没年(年月日) |
元亀2年5月12日(1571年6月4日) 1 (日付については諸説あり 5 ) |
享年(諸説) |
59歳 3 、または38歳 3 |
出身地(推定) |
美濃国加茂郡 4 |
父 |
氏家行隆(ゆきたか) 1 (幸国(ゆきくに)とも 13 ) |
母 |
長井利隆娘 1 |
主な子 |
直昌(なおまさ) 1 、行広(ゆきひろ) 1 、行継(ゆきつぐ) 1 |
氏家卜全の武将としてのキャリアは、美濃国の有力大名である土岐氏、そしてそれに取って代わった斎藤氏への仕官を通じて形成されていった。
土岐頼芸への臣従
卜全は、当初、美濃国守護であった土岐頼芸(とき よりのり)の家臣として仕えたと伝えられている 1 。土岐氏は鎌倉時代以来の名門守護家であったが、卜全が仕えた頃にはその勢力は衰退しつつあった。土岐頼芸の下での卜全の具体的な活動内容については、現存する史料からは詳らかではないものの、美濃の国衆の一人として、守護家の家臣団に名を連ねていたと考えられる。
斎藤道三への臣従とその経緯
天文11年(1542年)頃、土岐頼芸は重臣であった斎藤道三(さいとう どうさん)によって美濃国を追放され、道三が事実上の国主となった。この大きな権力変動に伴い、氏家卜全も道三の家臣団に加わることとなる 1 。道三は「美濃の蝮」と恐れられた梟雄であったが、卜全はその能力を認められたようである。ある逸話によれば、道三は卜全に対し「氏家よ、汝の領する地は小さくとも要所である。油断なく守り、道三に忠義を尽くせば、いずれ相応の恩賞あらん」と述べたとされ、卜全はその言葉を胸に、美濃国内の要所の警護や、時には反道三派の鎮圧といった任務に従事したという 4 。また、道三の時代には、伊勢神宮の御師(おし、神職の一種)である福島氏との交渉窓口を務めていたことも記録されており 1 、卜全が武勇だけでなく、外交や調整といった能力も有していたことがうかがえる。道三のような実力主義の人物に認められ、重要な役割を任されたことは、卜全が単なる追従者ではなく、実力によって評価される武将であったことを示している。
斎藤義龍への臣従と長良川の戦いにおける立場
弘治2年(1556年)、斎藤道三とその嫡男・義龍(よしたつ)との間で、家督を巡る深刻な対立が生じ、長良川の戦いへと発展した。この親子間の争いにおいて、氏家卜全は義龍方に与したと見られている 1 。道三に近しい家臣であったとされる卜全が義龍に味方した背景には、複雑な事情があったと推察される。一説には、道三の強権的な統治に対する不満が美濃国内の武士たちの間に広まっており、義龍がそれらの勢力を結集して父に対抗したという状況があった。卜全もまた、時代の流れや美濃国内の勢力図を冷静に見極め、義龍に従うという現実的な判断を下したのかもしれない。 4 の記述によれば、義龍は父・道三に近い者たちに対しても「過去は問わぬ。今より義龍に忠誠を誓うならば、相応の地位を与えよう」と呼びかけ、卜全もこれを受け入れたとされる。この長良川の戦いを経て、卜全は稲葉一鉄(いなば いってつ)、安藤守就(あんどう もりなり)と共に、斎藤義龍政権下で家中の重臣として扱われるようになったと記されている 4 。
斎藤龍興への臣従
永禄4年(1561年)、斎藤義龍が若くして病没すると、その子である龍興(たつおき)がわずか14歳で家督を継いだ。氏家卜全、稲葉一鉄、安藤守就の三名は、この若年の主君を補佐する立場となり、「西美濃三人衆」として国政に関与することになる 4 。しかし、若き龍興は父祖のような器量に恵まれず、酒色に溺れて政務を疎かにするなどの行動が見られたため、三人衆は斎藤家の将来を深く憂慮するようになったと伝えられている 4 。この龍興政権の不安定さが、後の織田信長への内通へと繋がる伏線となっていく。卜全が土岐氏から斎藤道三、そして義龍、龍興へと主君を変遷させていったことは、戦国武将特有の現実主義的な判断と、自らの勢力基盤を維持し、家名を存続させようとする戦略の現れと解釈できる。
氏家卜全は、斎藤氏の家臣として活動する中で、稲葉一鉄、安藤守就と共に「西美濃三人衆」と称される有力な地域勢力の中核を成した。
西美濃三人衆の形成と卜全の役割・影響力
斎藤義龍の時代から、氏家卜全、稲葉一鉄、安藤守就の三名は、美濃国西部に強固な地盤を持つ武将として「西美濃三人衆」と総称されるようになった 4 。彼らは単に個々の有力武将というだけでなく、一種の地域連合体としての性格を帯びていたと考えられ、美濃国西部に共同の独立的勢力を確立していたとされる 2 。その証左の一つとして、彼らが共同で段銭(たんせん、臨時に課される軍資金)の徴収権などを有していたことが挙げられる 2 。
三人衆の中でも、氏家卜全は特に有力な存在であったと評されており 10 、最盛期には美濃国の三分の一に相当する広大な領地を支配していたとも伝えられている 3 。この西美濃三人衆の形成と彼らの動向は、斎藤氏の政権運営や、後の織田信長による美濃攻略において、個々の武将の判断以上に大きな影響力を行使した可能性が高い。なお、史料によっては不破光治(ふわ みつはる)を加えて「西美濃四人衆」と呼称される場合もあるが 16 、不破光治は他の三人とは異なり、斎藤氏に対して最後まで忠節を尽くしたとも言われており 16 、三人衆の結束の強さや、他の美濃武士との間に存在した政治的スタンスの違いをうかがわせる。
大垣城主としての活動
氏家卜全は、永禄2年(1559年)に大垣城(おおがきじょう、現在の岐阜県大垣市)へ移り、以後、この城を主要な拠点とした 2 。大垣城は美濃西部における戦略的要衝であり、卜全がこの城の主であったことは、彼の西美濃における影響力の大きさを物語っている。弘治2年(1556年)に宮川安定が築いた城郭を、斎藤龍興の命を受けて修築・拡張したとも伝えられている 21 。それ以前には、楽田城(現在の岐阜県大垣市楽田町か、あるいは愛知県犬山市の楽田城か、史料により記述が異なるが、美濃国内の武将であることから大垣市内の可能性も指摘される)の城主であった時期もあるとされる 19 。
金山城と領国経営
大垣城を公的な拠点とする一方で、氏家卜全は斎藤氏に仕えていた頃から美濃国加茂郡の一部を領有し、金山城(かなやまじょう、兼山城とも。現在の岐阜県可児市)を私的な本拠地、あるいは東美濃方面への抑えとしていた記録がある 4 。金山城は、木曽川沿いの急峻な山に築かれた天然の要害であり、美濃平野の一部を見渡し、東方の信濃国へと通じる街道を抑える戦略的に重要な位置にあった 4 。
織田信長に降った後も、信長は卜全の能力を高く評価し、引き続き美濃国加茂郡の支配と金山城の守りを任せた 4 。信長は卜全に対し「氏家よ、汝は武だけでなく、民の統治にも長けていると聞く。引き続き加茂郡の民を治め、金山城を守護せよ」と述べたとされ 4 、これは卜全が単なる武勇だけでなく、領国経営においても優れた手腕を持っていたことを示唆している。実際に、卜全は領国経営において農民に適切な年貢を課し、過度な負担を強いることなく、領内の治安を安定させていたと伝えられている 4 。また、信長政権下においては、金山城の修築や周辺の支城・砦の配置による東美濃の防御体制の強化、領内の年貢米の確保や物資の調達といった後方支援体制の整備にも尽力し、信長の上洛戦や周辺国への侵攻を支えた 4 。これらの事実は、卜全が武将としてだけでなく、有能な統治者としての一面も持ち合わせていたことを裏付けている。
斎藤龍興の代になると、その器量不足や家中の混乱から、氏家卜全ら西美濃三人衆は斎藤氏の将来に見切りをつけ、新たな主君として隣国尾張の織田信長に接近していく。
斎藤龍興からの離反と織田信長への内通の経緯
斎藤龍興の政務放棄や家中の混乱は、永禄7年(1564年)頃には極みに達していたとされる 4 。西美濃三人衆は、もはや龍興に美濃国を任せることはできないとの思いを共有するようになった。 4 の記述によれば、ある夜、安藤守就が「このままでは美濃国は滅びる。隣国・尾張の織田信長に従うことも、一考に値するのではないか」と卜全と稲葉一鉄に語りかけ、稲葉もこれに同意したという。長年斎藤家に仕えてきた卜全にとって、主家への忠義と美濃国の存亡をかけた決断は容易ではなかったが、「裏切り者の汚名を着せられるやもしれん。されど、このまま斎藤家と運命を共にすれば、美濃国そのものが危うい」と数日熟考した末、ついに織田信長に内通する決意を固めたとされる。
永禄10年(1567年)、西美濃三人衆は織田信長に対して内応を約束し、その証として人質を差し出すことを伝えた 15 。この内応は、信長の美濃攻略において決定的な意味を持つことになった。
稲葉山城攻略における具体的な貢献と役割
西美濃三人衆の内応は、織田信長による稲葉山城(後の岐阜城)攻略を大きく後押しした 4 。難攻不落とされた稲葉山城も、内部からの協力者を得たことで、信長の攻略は格段に容易になった。 4 の記述によれば、三人衆は城内の守備を意図的に手薄にし、織田軍の侵入を助けたとされる。また、氏家卜全の配下の兵が城下で織田軍に呼応して蜂起したとも記されている。
この結果、斎藤龍興は稲葉山城を追われ、斎藤氏は事実上滅亡した。織田信長は、西美濃三人衆の功績を高く評価し、氏家卜全に対しては「汝の功績は大きい。引き続き美濃国加茂郡を領し、金山城の守りを固めよ」と述べ、旧領を安堵した 2 。これは、信長が敵対勢力の重臣であっても、その実力を認めれば登用するという、彼の人材登用策の一端を示す事例と言える。卜全の統治能力をも評価し、旧領の安堵に加えて新たな役割を与えたことは、信長が美濃平定後の安定統治も見据えていたことを示唆している。
信長配下としての活動(姉川の戦いなど主要な参戦記録と戦功)
織田信長に仕えた後、氏家卜全ら西美濃三人衆は信長の直臣として遇され、信長の天下統一事業に貢献すべく各地の戦いに従軍した 2 。
特に重要な参戦記録としては、元亀元年(1570年)の姉川の戦いが挙げられる。この戦いで卜全は織田・徳川連合軍の一翼を担い、浅井・朝倉連合軍との激戦において勝利に貢献したとされる 19 。『国史大辞典』の稲葉一鉄の項目においても、姉川の戦いなどで軍功をあげた人物として氏家直元(卜全)の名が併記されており 31 、その活躍が認められていたことがわかる。ただし、具体的な戦功に関する詳細な記述は、提供された資料からは限定的である。
その他、永禄12年(1569年)には、北畠具教(きたばたけ とものり)を伊勢大河内城(おかわちじょう)に攻めた戦いにも参戦した記録が残っている 2 。これらの戦歴は、卜全が信長配下として、主要な軍事行動に動員される有力武将であったことを示している。
氏家卜全の斎藤家から織田家への帰順は、戦国武将が直面したであろう旧主への忠誠心と、自領や民の安寧、そして自身の家名存続という現実的な問題との間での苦悩の末の決断であったと推察される。 4 で描かれる卜全の内面描写、「裏切り者の汚名を着せられるやもしれん。されど、このまま斎藤家と運命を共にすれば、美濃国そのものが危うい」という言葉は、その葛藤を象徴している。この決断は、彼の価値観や時代認識を考察する上で重要な要素であり、戦国時代の「忠誠」の概念が、後世の武士道とは異なる側面を持っていたことを示唆する。
織田信長に仕えた氏家卜全であったが、その最期は信長にとって最大の難敵の一つであった一向一揆との戦いの中で訪れることとなる。
長島一向一揆への参戦経緯と戦況
元亀元年(1570年)、摂津国の石山本願寺が織田信長に対して兵を挙げると、これに呼応する形で各地の一向宗門徒が蜂起した。伊勢国長島(現在の三重県桑名市長島町)においても大規模な一向一揆が発生し、織田信長の弟である織田信興(のぶおき)が討ち取られるなど、織田家にとって看過できない脅威となっていた 5 。
これに対し、信長は長島の一向一揆を鎮圧すべく、数度にわたり軍勢を派遣した。氏家卜全が参戦したのは、元亀2年(1571年)5月に行われた長島攻略戦においてである。この時、信長自身も津島(現在の愛知県津島市)まで出陣しており、卜全は柴田勝家(しばた かついえ)らと共に、美濃国と伊勢国の境界に近い、川西の多芸山(たぎやま)太田口(現在の岐阜県海津市南濃町付近か)に布陣した 5 。
元亀2年(1571年)の戦死
長島の一向宗門徒の抵抗は極めて激しく、織田軍は苦戦を強いられた。氏家勢もまた、門徒たちの激しい反撃に遭い、敗退を余儀なくされた 5 。
『信長公記』巻四に収められた「大田口合戦の事」には、その最期の様子が記されている。元亀2年5月16日(他の史料では5月12日 1 や5月22日 3 とするなど日付に異同が見られるが、ここでは同時代性の高い『信長公記』の記述を主とする)、織田軍が長島から撤退する際、まず柴田勝家が殿(しんがり、退却する軍の最後尾で敵の追撃を防ぐ部隊)を務めたが、負傷して後退した。その後、二番手として氏家卜全が殿軍の任を引き継ぎ、追撃してくる一揆勢と激しく交戦したが、奮戦及ばず討死したとされている 12 。
戦死した場所は、美濃国石津郡太田郷安江村七屋敷(現在の岐阜県海津市南濃町安江)と伝えられており 3 、この地は彼の終焉の地として記憶されている。撤退戦における殿軍は、味方本隊の安全な離脱を確保するための極めて重要な役割であると同時に、敵の追撃を直接受け止めるため、最も危険な任務であった。卜全がこの危険な任務を引き受け、命を落としたことは、彼の武将としての勇猛さと責任感の強さを示すものと言えよう。また、西美濃三人衆の筆頭格であり、織田軍の有力武将であった卜全を討ち取るほど、長島の一向一揆勢が強力な戦闘力を有していたことも、この戦いの激しさを物語っている。
享年に関する諸説
氏家卜全の享年については、いくつかの説がある。『美濃国諸旧記』には59歳で死去したと記されており 3 、これが永正9年(1512年)生まれとする説と符合する。一方で、享年38歳とする説も存在するが 3 、彼の経歴や活動期間を考慮すると、59歳説が比較的有力であると考えられる。ただし、生年同様、享年についても確たる史料に乏しく、断定は難しい。
氏家卜全の死後も、彼の子孫たちは戦国乱世から近世へと続く時代を生き抜き、また、彼の記憶は墓所や伝承として現代に伝えられている。
子息とその後の氏家氏
氏家卜全の死後、家督は長男である氏家直昌(なおまさ、諱は直重とも伝わる)が継承した 1 。直昌は父同様に織田信長に仕え、天正元年(1573年)に越前国で起こった一乗谷城の戦いでは、かつての主君であった斎藤龍興を討ち取るという武功を挙げている 42 。しかし、直昌は天正11年(1583年)に病没したとされている 21 。
卜全の次男には氏家行広(ゆきひろ、後に荻野道喜(おぎの どうき)と改名)がいた。行広は兄・直昌の死後に家督を継いだとされ 42 、豊臣秀吉に仕えて伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)において2万2千石を領する大名となった 43 。しかし、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与したため、戦後に改易処分となった。その後、慶長19年(1614年)からの大坂の陣では豊臣方として大坂城に入り活躍したが、元和元年(1615年)の大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡すると、落城と共に自刃したと伝えられている 43 。
三男には氏家行継(ゆきつぐ、諱は定元とも伝わる)がおり、彼もまた武将として活動した記録がある 1 。文書で確認できる諱は「定元」であるとされる 45 。関ヶ原の戦いでは兄・行広と共に西軍に属したとされている 43 。
氏家氏の子孫の系譜については、『大垣城主氏家氏の子孫』 46 や、江戸幕府が編纂した大名・旗本の系譜集である『寛政重修諸家譜』 7 などに詳細な記述が含まれていると推測される。特に46の調査によれば、『大垣城主氏家氏の子孫』という書籍には「美濃国諸家系譜」中の「氏家系譜」が収録されており、そこには卜全の後裔が明治維新に至るまで存続したことが言及されているという。これらの史料を詳細に調査することで、氏家氏のその後の系統を具体的に辿ることができる可能性がある。卜全の死後も、子息たちがそれぞれ武将として活動し、特に次男・行広は大名にまでなったものの、関ヶ原の戦いや大坂の陣といった大きな政変の中で翻弄された。それでもなお、氏家氏の系統が明治維
新まで続いたとされる点は、戦国時代から近世への移行期における武家の多様な生き残り戦略の一端を示すものとして興味深い。
卜全塚、卜全沢の伝承と現状
氏家卜全が戦死したと伝えられる岐阜県海津市南濃町安江には、彼を葬ったとされる「卜全塚(ぼくぜんづか)」が現存している 2 。この塚は、養老鉄道美濃山崎駅から南へ約800メートル進んだ線路の東側に位置するとされている 5 。
また、同じく安江地内には、戦死した卜全の首を洗い清めた場所と伝えられる「卜全澤(ぼくぜんさわ)」の碑も残されている 5 。これらの史跡は、氏家卜全の最期の地として、また西美濃三人衆の一人として戦国時代にその名を刻んだ彼の存在を今日に伝える貴重な文化財であり、地域史の一部として記憶され、語り継がれていることを示している。
氏家卜全の生涯を概観すると、彼は戦国時代の美濃国という、権力構造が目まぐるしく変化する地域において、巧みに時勢を読み、主君を変えながらも自らの勢力を維持し、最終的には織田信長の美濃平定に大きく貢献した武将であったと言える。
氏家卜全の生涯と歴史的意義の再評価
氏家卜全は、美濃国の守護であった土岐氏に始まり、斎藤道三、その子義龍、孫の龍興と斎藤氏三代に仕え、最終的には織田信長に帰順するという、戦国武将特有の流転の生涯を送った。この主君の変遷は、単なる変節と捉えるべきではなく、激動の時代を生き抜き、自らの家名と領地、そして領民を守るための現実的な選択であったと解釈できる。特に、斎藤龍興の治世下で見られたような、主家の衰退が明らかになった状況においては、新たな有力者に従うことで活路を見出すことは、当時の武士にとって合理的な行動であった。
卜全の歴史的意義を考える上で最も重要なのは、稲葉一鉄、安藤守就と共に「西美濃三人衆」として、美濃国西部に強固な勢力を築き、織田信長の美濃攻略において決定的な役割を果たした点である。彼らの信長への内応がなければ、難攻不落とされた稲葉山城の陥落はさらに遅れ、信長の天下統一事業の初期段階における展開も異なっていた可能性がある。この意味で、卜全は単なる一地方武将に留まらず、中央の歴史の大きな流れにも影響を与えた人物と言える。
人物像に関する考察(史料に基づく知略、統治能力、性格など)
史料からうかがえる氏家卜全の人物像は多面的である。まず、武将としての勇猛さは疑いようがない。長島一向一揆との戦いにおいて、織田軍の撤退時に殿軍という最も危険な任務を引き受け、壮絶な最期を遂げたことは、その武勇と責任感の強さを示している 5 。
また、織田信長から「武だけでなく、民の統治にも長けている」と評価されたように 4 、金山城を中心とした領国経営においても優れた手腕を発揮した統治者としての一面も持っていたと考えられる。領民に過度な負担を強いることなく、治安を維持したという逸話は 4 、彼が単に武力に頼るだけでなく、民政にも心を配るバランス感覚を持っていたことを示唆する。
さらに、斎藤道三の時代に伊勢神宮との交渉役を務めたという記録は 1 、彼が外交や調整といった、武勇以外の能力にも長けていた可能性を示している。成人後に自ら選んだとされる「卜全」という号に、「世の行く末を見通す眼力と、全てを包み込む度量を持ちたい」との願いが込められていたという伝承も 4 、彼が単なる武辺者ではなく、時代を深く洞察しようとする思慮深さを持ち合わせていた可能性を示唆しており興味深い。
彼の生涯は、戦国武将の処世術、地域勢力の動向、そして中央の覇権争いが複雑に絡み合う当時の日本の様相を象徴しており、その多面的な能力と行動は、現代においても歴史研究の対象として多くの示唆を与えてくれる。
氏家卜全 年表
年代(和暦・西暦) |
出来事 |
関連人物 |
主な史料根拠 |
永正9年(1512年)頃? |
美濃国加茂郡にて誕生(桑原直元として) |
氏家行隆(父) |
1 |
天文11年(1542年)頃 |
斎藤道三に仕える |
土岐頼芸、斎藤道三 |
1 |
弘治2年(1556年) |
長良川の戦い。斎藤義龍方に付く |
斎藤道三、斎藤義龍 |
1 |
永禄2年(1559年) |
大垣城主となる |
|
19 |
永禄4年(1561年) |
斎藤龍興に仕える(西美濃三人衆として補佐) |
斎藤義龍、斎藤龍興、稲葉一鉄、安藤守就 |
4 |
永禄10年(1567年) |
西美濃三人衆として織田信長に内応。稲葉山城攻略に貢献 |
斎藤龍興、織田信長 |
4 |
|
信長より美濃国加茂郡・金山城を安堵される |
織田信長 |
4 |
元亀元年(1570年) |
姉川の戦いに参戦 |
浅井長政、朝倉義景 |
19 |
元亀2年5月12日(1571年6月4日) |
長島一向一揆との戦い(大田口の戦い)で殿を務め戦死 |
柴田勝家 |
5 |
|
享年59歳(または38歳) |
|
3 |
この年表は、氏家卜全の生涯における主要な出来事をまとめたものである。彼の人生は、まさに戦国乱世そのものであり、その中で彼が下した決断と行動は、彼自身の運命だけでなく、美濃国、そして織田信長のその後の歴史にも少なからぬ影響を与えたと言えるであろう。