戦国時代の終焉から徳川幕府の盤石な体制が確立されるまでの激動の過渡期において、一人の武将がその堅実な働きで歴史の礎を支えた。その名は水野分長(みずの わけなが)。彼は、徳川家康の生母・於大の方を輩出した水野一族に連なり、家康とは従兄弟という極めて近い血縁関係にあった 1 。この出自は彼の生涯にわたる徳川家からの信頼の基盤となったが、彼の地位は単なる縁故によってのみ得られたものではなかった。小牧・長久手の戦いや九戸政実の乱における武功、そして幕府の要職である大番頭としての忠実な勤務を通じて、彼は自らの実力でその価値を証明し続けた。
分長の生涯は、戦国の荒々しい気風が薄れ、新たな秩序と官僚制が形成されていく新時代の武将像を体現している。しかし、その経歴は平坦なものではない。特に、豊臣恩顧の有力大名であった蒲生氏郷への出向、幕府の軍事中枢を担う大番頭としての役割、そして彼の生涯における最大の謎とされる晩年の水戸藩「付家老」就任と、嫡男が存在したにもかかわらず「無嗣」として領地が収公された不可解な結末は、深く考察するに値する。
本報告書では、これらの事象を史料に基づき丹念に追い、水野分長の生涯の実像と、彼が徳川の天下泰平という巨大な事業の中で果たした歴史的意義を解明することを目的とする。彼の人物像をより鮮明に浮かび上がらせるため、本報告書では、同じ水野一族に生まれながら対照的な生涯を送った「鬼日向」の異名を持つ従兄弟、水野勝成を比較の鏡として随時参照する。勝成の奔放で英雄的な生き様と対比することで、分長の持つ「堅実さ」が徳川の時代においてどのような意味を持ったのかを立体的に描き出したい。
西暦(和暦) |
年齢 |
主要な出来事・役職・知行 |
1562年(永禄5年) |
1歳 |
尾張国にて水野忠分の子として誕生 2 |
1579年(天正7年) |
18歳 |
父・忠分が有岡城の戦いで戦死 3 |
1584年(天正12年) |
23歳 |
小牧・長久手の戦いに叔父・忠重の配下として参陣、木下利匡を討つ 2 |
1591年(天正19年) |
30歳 |
徳川家康の命により蒲生氏郷の与力となり、九戸政実の乱で先陣を務める 1 |
1599年(慶長4年) |
38歳 |
徳川家康に召し返され、大番頭に就任(慶長13年以降の説も併記) 2 |
1601年(慶長6年) |
40歳 |
尾張緒川藩主(約1万石)となる 2 |
1606年(慶長11年) |
45歳 |
三河新城藩主(1万石)に移封 2 |
1614年(慶長19年) |
53歳 |
大坂冬の陣に家康付大番頭として参陣 2 |
1620年(元和6年) |
59歳 |
水戸藩主・徳川頼房の付家老となる。新城藩は嫡男・元綱が相続。自身は安房・上総に1万5千石を与えられる 2 |
1623年(元和9年) |
62歳 |
3月1日死去。安房・上総の1万5千石は「無嗣」として収公される 1 |
水野分長は永禄5年(1562年)、尾張国に生まれた 2 。彼の家系である水野氏は、清和源氏の流れを汲むとされ、戦国期には知多半島から西三河にかけて勢力を有した国人領主であった 8 。その地位を決定的に重要なものとしたのが、分長の祖父にあたる水野忠政の娘、於大の方の存在である。彼女は岡崎城主・松平広忠に嫁ぎ、後の天下人、徳川家康を産んだ 10 。この婚姻により、水野氏は徳川家と極めて強固な姻戚関係を結ぶことになり、分長は家康の従兄弟という特別な立場に立つこととなった 1 。この血縁は、彼の生涯を通じて徳川家から寄せられる信頼の源泉であり、彼のキャリアを方向づける重要な要素であったことは疑いない。
分長の父・水野忠分は、忠政の八男であり、早くから尾張の織田信長に仕えた武将であった 3 。彼は知多半島南部の布土城主を務め、信長の主要な合戦にも参加していた 4 。しかし、天正6年(1579年)、信長に反旗を翻した荒木村重が籠もる摂津有岡城攻めの最中に、分長が18歳の若さで戦死を遂げる 3 。
一家の主を失った若き分長は、水野宗家の当主であり、家康の叔父にもあたる水野忠重の庇護下に入った 1 。忠重は、兄・信元が信長の命で誅殺された後、水野家の家督を継ぎ、織田家、豊臣家、そして徳川家という時の権力者の間で巧みに立ち回り、一族の存続を図った歴戦の武将であった 13 。分長は、この強大な叔父の配下として、武将としてのキャリアをスタートさせることになる。
この初期の経歴は、分長の人物像形成に決定的な影響を与えたと考えられる。父の早すぎる死により、彼は若くして自らの家を率いる立場にありながら、まずは一族の宗主である叔父の権威の下で経験を積むという、ある種寄食に近い形からの出発を余儀なくされた。これは、独立した勢力の長としてではなく、より大きな権力構造、すなわち水野宗家、ひいては織田・徳川といった巨大な組織の一部として行動することを、キャリアの早い段階で学んだことを意味する。この経験こそが、後の蒲生氏郷への出向や徳川家直臣としての奉公といった、組織の中で忠実に任務を遂行する彼の「堅実な」性格を形成した一因であろう。彼の生涯が、奔放な従兄弟・水野勝成のような個人の武勇譚よりも、主君の命令をいかに遂行したかという文脈で語られることが多いのは、この出発点に根差しているのかもしれない。
父の死後、叔父・忠重の下で武将としての経験を積んだ分長が、その名を初めて歴史に刻んだのは、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いであった。この戦いで、徳川・織田連合軍に属した叔父・忠重の軍勢の一員として参陣した分長は、羽柴秀吉方の中核部隊であった三好信吉(後の豊臣秀次)の別働隊と激突した 13 。この戦闘において、分長は敵将・木下利匡(秀吉の縁者)を討ち取るという明確な武功を挙げた 2 。時に23歳。この戦功は、若き分長にとって、単なる血縁者としてではなく、一人の武人としての評価を徳川家中に確立する上で、極めて重要な意味を持つものであった 1 。
分長のキャリアにおける最初の大きな転機は、天正18年(1590年)の小田原征伐後に訪れる。彼は突如として水野氏を離れ、徳川家康の直接の命令により、会津92万石の領主となった蒲生氏郷のもとへ属することになった 1 。これは、豊臣秀吉による天下統一事業の総仕上げである奥州再仕置の一環であり、氏郷は奥州北部に反旗を翻した九戸政実を討伐する総大将に任じられていた 17 。
この遠征において、分長は氏郷麾下の軍勢の中で「先陣」という極めて重要な役割を担い、見事に戦功を挙げたと記録されている 1 。蒲生氏郷は、自ら銀の鯰尾の兜をかぶって常に先頭に立つことを信条とする当代きっての猛将であった 20 。その氏郷が、家康から派遣されたに過ぎない与力である分長に、軍の先鋒を任せたという事実は、分長の武勇と部隊統率能力が高く評価されていたことを雄弁に物語っている。
この人事は、家康の深謀遠慮から生まれた戦略的な一手であったと解釈できる。家康が信頼する従兄弟の分長を、豊臣恩顧の有力大名であり、かつ奥州の要である伊達政宗の監視役を担う氏郷のもとへ派遣した目的は、単なる兵力の提供に留まらない。第一に、秀吉の天下統一事業に協力する姿勢を示すことで豊臣政権への忠誠をアピールし、第二に、将来の日本の勢力図を左右しかねない重要人物である氏郷の動向を探り、直接的な関係を構築するための戦略的な「与力」派遣であった可能性が極めて高い 23 。家康は、信頼できる身内を政権の重要拠点に送り込むことで、情報網と影響力の拡大を図ったのである。
分長自身にとっても、この経験は計り知れない価値があった。彼は、当代随一の名将と謳われた氏郷の指揮下で、数万の軍勢が動く大規模な軍事行動を実地で経験した。氏郷の先進的な軍略や厳格な軍律、さらには商人重視の革新的な領国経営の手法を間近で学んだことは、彼の能力を武将として、また後の藩主として飛躍的に高める決定的な成長機会となったに違いない 21 。小牧・長久手が局地的な戦闘であったのに対し、九戸の乱は天下統一の総仕上げという国家的な事業であった。この大戦役で中核的な役割を果たしたことで、分長の格は水野一族の一武将から、天下の情勢に関わる武将へと大きく飛躍を遂げたのである。
九戸政実の乱で武功を立てた分長は、慶長4年(1599年)、徳川家康に呼び戻され、幕府の直轄精鋭部隊である大番の隊長、すなわち「大番頭」に任じられた 2 。大番頭は、将軍の身辺警護と江戸城の中枢防衛を担う軍事上の重職であり、この任命は家康からの絶大な信頼の証であった。
ただし、その就任時期については異説も存在する。『寛政重修諸家譜』などの公式記録では慶長4年とされているが、関ヶ原合戦時に彼が大番頭であったことを否定する資料もある 2 。その場合、弟の水野重央が家康付きの大番頭から徳川頼宣の付家老に転じた慶長13年(1608年)以降に、その後任として就任したという可能性も指摘されており、今後の研究が待たれる点である 2 。
いずれの時期に就任したにせよ、分長は徳川家の中核を担う武将として、天下の趨勢を決する重要な戦いに参陣している。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い、そして慶長19年(1614年)から元和元年(1615年)にかけての大坂冬の陣・夏の陣において、彼は家康付きの大番頭として従軍した 2 。これらの戦いにおいて、従兄弟の勝成のような華々しい戦闘記録は残されていない。しかし、それは彼の役割が、個人の武功を立てることではなく、主君である家康や秀忠の側近くにあって、軍事的中枢の警備という地味ながらも極めて重要な任務を遂行することにあったからである。彼の立場が、もはや「戦場の英雄」ではなく、「主君の信頼篤い側近」へと移行していたことを象徴している。
分長の忠勤は、領地という形で報われた。彼は二つの藩の初代藩主を務めている。
関ヶ原の戦いの論功行賞として、慶長6年(1601年)、分長は水野氏発祥の故地である尾張国知多郡緒川に9820石(約1万石)を与えられ、緒川藩を立藩した 2 。この地は、かつて彼の父・忠分も拠点を構えた場所であり 9 、水野一族にとって象徴的な意味を持つ領地への凱旋であった 13 。藩主としての治績としては、慶長10年(1605年)、家康の母・於大の方が菩提所と定めていた善導寺が、度重なる水害に悩まされていたのを現在の高台に移築し、寺領20石と屋敷を寄進したことが記録されている 27 。これは、彼が単なる武人ではなく、地域の文化や信仰の保護にも心を配る為政者であったことを示している。
慶長11年(1606年)、分長は緒川から三河国新城へ1万石で移封され、新城藩の初代藩主となった 1 。これにより緒川藩は廃藩となり、その旧領は清洲藩主松平忠吉に与えられた 5 。新城は東三河における軍事・交通の要衝であり、この地を任されたことは、彼が譜代大名として徳川政権から高く評価されていたことを意味する。新城藩主としての具体的な治績に関する詳細な記録は乏しいものの、彼はこの地で14年間にわたり統治を行い、藩の基礎を築いた 2 。
分長のキャリアは、戦場で武功を立てる「武人」から、幕府の組織を運営する「官僚」、そして領地を経営する「藩主」へと、徳川体制の確立という時代の大きな流れと共に着実に移行している。これは、多くの戦国武将が新時代に適応していく過程の典型例であり、彼が政権の意図を深く理解し、与えられた役割を忠実にこなすことで評価を高めていった、極めて「優等生」的な武将であったことを示している。
元和6年(1620年)、分長は59歳にして、そのキャリアの最終章ともいえる新たな役職に就く。徳川御三家の一つ、水戸藩の初代藩主・徳川頼房の付家老に任命されたのである 2 。付家老とは、御三家や一部の有力大名に、幕府が直接指名して付属させる家老のことである。その役割は、若年の藩主を後見・補佐し、藩政を安定させると同時に、幕府の意向を藩に伝え、藩の動向を幕府に報告する、いわば幕府による大藩統制の楔ともいえる重要な役職であった。この大任に、家康の従兄弟であり、大番頭として忠勤に励んだ分長が選ばれたのは、彼の能力と忠誠心に対する幕府の絶対的な信頼の表れであった。
この付家老就任に伴い、分長の知行形態は極めて異例かつ複雑なものとなった。まず、彼がそれまで藩主を務めていた三河新城の領地(この時までに近江国内での加増分を含め1万2千石となっていた)は、嫡男の水野元綱が相続することが認められた 2 。これにより、分長が興した大名家は元綱の代で存続することになった。
一方で、付家老となった分長自身には、新城の領地とは全く別に、安房国・上総国内において新たに1万5千石の知行が与えられた 2 。これは、同じく付家老となった弟・水野重央のケースとは大きく異なる点であった。重央は、紀州藩主・徳川頼宣の付家老として、頼宣の領地内である紀伊国新宮に3万5千石を与えられた 32 。藩主の領国内に自らの知行地を持つのが付家老の一般的形態であったのに対し、分長の知行地は彼が補佐すべき水戸藩の領国外に設定されたのである。
この特殊な措置の背景には、分長の嫡流である元綱が既に独立した大名として存在するという事実があった。幕府としては、水野弾正忠家(分長の家系)を大名として存続させつつ、経験豊富な分長個人の能力を水戸藩の安定のために活用したいという意図があったと考えられる。
分長の弟である水野重央もまた、徳川家康に重用され、徳川頼宣の付家老という同様の道を歩んだ 12 。しかし、その境遇には微妙な違いがあった。重央は、浜松藩主2万5千石の大名から、頼宣の紀州転封に伴い新宮3万5千石の付家老となった 32 。この時、彼は幕府直参の大名としての資格を失い、身分上は紀州藩の家臣(陪臣)という扱いになった 32 。この「陪臣」への身分低下は、水野家にとって大きな葛藤を生んだ。重央の死後、嫡男の重良は「陪臣の3万5千石よりも、直参旗本2千石の方が望ましい」と述べ、付家老職の継承を一時的に拒否する事件まで起きている 34 。
分長もまた、水戸藩の付家老として同様に陪臣の身分となったはずだが、彼がこの身分をどう受け止めていたかを伝える記録はない。しかし、彼の知行形態の特殊性から、その立場を推察することができる。分長に与えられた安房・上総1万5千石は、世襲を前提とした「大名領」ではなく、彼が付家老という役職を務める一代限りの給与、すなわち「役知(やくち)」あるいは「役料(やくりょう)」であった可能性が極めて高い。江戸幕府には、特定の役職に就いている間だけ、本来の家禄とは別に土地(役知)や米(役料)を支給する制度が存在した 36 。分長の嫡男が独立した大名として家を継いでいる以上、分長個人に与えられたこの1万5千石は、彼の家禄ではなく、幕府の重職である「水戸藩付家老」に対する俸禄と考えるのが最も合理的である。この解釈は、次章で論じる彼の死後の不可解な措置を解明する上で、決定的な鍵となる。
元和9年(1623年)3月1日、水戸藩付家老としての務めを果たしていた水野分長は、62歳でその生涯を閉じた 1 。その直後、幕府は彼が有していた安房・上総1万5千石の領地に対し、驚くべき措置を取る。各種史料は一致して、その領地が「相続する者がなく収公された」、すなわち後継者がいないことを理由に幕府に没収されたと記している 1 。
これは、水野分長の生涯における最大の謎である。なぜなら、彼には三河新城藩1万2千石の藩主として家督を継いだ嫡男・水野元綱が厳然と存在していたからである 2 。息子が大名として健在であるにもかかわらず、父の領地が「後継者なし」として没収されるというのは、常識的に考えて極めて不可解な事態である 31 。この一点をもって、分長が晩年に何らかの失脚をしたのではないかという憶測すら生まれてきた。
しかし、この謎は前章で提示した「役知」仮説を用いることで、合理的に解明することが可能である。分長に与えられた安房・上総1万5千石が、世襲を前提とした「大名領(家禄)」ではなく、水戸藩付家老という役職に付随した一代限りの「役知(役職給)」であったと考えるならば、彼の死によって付家老の役職が解かれた時点で、その給与であった領地が幕府に返還(収公)されるのは、制度上、当然の手続きであった。
史料に記された「無嗣(むし)」という言葉は、現代的な感覚で「子供がいない」と解釈するべきではない。これは、江戸時代の武家社会における法的な記録用語であり、「その特定の知行に対する法的な相続人が指定されていない」状態を指すものと理解すべきである。嫡男・元綱はあくまで「水野弾正忠家」の家督と、それに付随する新城藩の領地を相続する者であり、父が個人として拝領した「役知」の相続人ではなかった。したがって、幕府の記録上、「安房・上総1万5千石」という役知に対する相続人がいない(無嗣)と記述されたのは、幕府側の事務的な処理の帰結に過ぎない。
この解釈に立てば、分長の死後の領地収公は、幕府による不当な処置や彼の名誉を傷つけるような失脚劇ではなく、江戸初期に確立されつつあった官僚制度・俸禄制度の論理的な帰結であったと結論付けられる。彼は最後まで幕府の重臣として遇され、その死後も制度に則った処理がなされたのである。
分長が築いた大名家は、嫡男・元綱の代に上野国安中藩へ2万石で転封となり、さらなる発展が期待された 6 。しかし、その繁栄は長くは続かなかった。
分長の孫にあたる3代藩主・水野元知が、寛文7年(1667年)、突如として乱心し、正室(出羽山形藩主・水野忠善の娘)に斬りつけ、自らも自害を図るという衝撃的な事件を起こした 40 。この前代未聞の不祥事により、幕府は元知の所業を咎め、安中藩水野家は改易、すなわち領地没収の厳罰に処された 12 。
堅実な生涯を送った祖父・分長とはあまりに対照的な、孫の代での悲劇的な結末であった。これにより、分長が興した大名家としての家系は、わずか3代でその歴史に幕を閉じた。ただし、家名そのものは、元知の子・元朝が2千石の旗本として存続を許されており、完全に断絶したわけではなかった 40 。この一連の出来事は、武家の「家」の存続がいかに困難であり、個人の資質や偶発的な事件によって、いとも容易にその運命が覆されうるものであったかを示す、一つの悲劇的な実例といえるだろう。
水野分長の人物像を深く理解するためには、同時代を生きた従兄弟、水野勝成との比較が極めて有効である。二人は徳川家康の従兄弟という同じ出自を持ちながら、その生き様は光と影、あるいは静と動とでも言うべき、見事な対照をなしている。
水野分長の生涯は、一貫して「忠実」と「堅実」という言葉で特徴づけられる。彼は、主君の命令を絶対のものとし、与えられた役職を一つ一つ着実にこなすことでキャリアを築き上げた。彼の行動原理は、個人の武勇を戦場で誇示することよりも、組織の一員として与えられた任務を完璧に遂行することにあった。蒲生氏郷の与力として奥州に赴き、幕府の大番頭として将軍を警護し、水戸藩の付家老として御三家を補佐した経歴は、その象徴である。彼は、戦乱の世から泰平の世へと移行する中で、武士に求められる資質が「個人の武勇」から「組織への忠誠と実務能力」へと変化していく様を、身をもって体現した。いわば、新時代の官僚型武将の先駆けであったと言える。
対照的に、水野勝成はまさに戦国時代の荒々しい気風を最後まで持ち続けた人物であった 43 。その生涯は逸話に満ちている。
この二人の生き様が示すのは、時代の大きな転換点である。勝成が、圧倒的な「個」の力で乱世を生き抜き、その規格外の能力ゆえに泰平の世においても重用された「最後の戦国武将」であるとすれば、分長は、徳川という巨大な「組織」の論理を深く理解し、その中で忠実に自己の役割を果たすことで生き抜いた「最初の江戸武士」であった。分長と勝成。この対照的な二人の従兄弟は、同じ水野一族に生まれながら、全く異なる方法で成功を収めた。彼らの存在は、戦国から江戸へと移行する時代のダイナミズムと、武士に求められる価値観の変容を、個人の生き様を通して鮮やかに描き出している。
水野分長の生涯は、徳川家康の信頼篤い親族として、また有能な実務官僚として、徳川幕府の草創期を揺るぎないものにするために捧げられた、堅実な一生であった。彼は、戦場の最前線で華々しい功名を求めるのではなく、主君から与えられた任務を、それが奥州への与力派遣であれ、将軍の警護であれ、あるいは御三家の補佐であれ、常に忠実に、そして高い水準で遂行し続けた。
彼の存在は、徳川政権がいかにして個人の武勇やカリスマに依存する戦国的な支配体制から、法と制度、そして組織への忠誠に基づく近世的な官僚統治機構へと移行していったかを物語る、極めて貴重な証左である。彼の晩年の処遇をめぐる「無嗣除封」の謎は、一見すると不可解な歴史の断片でありながら、その実、確立されつつあった幕府の俸禄制度の合理性を浮き彫りにする。それは、属人的な恩賞から、役職に基づいた体系的な給与制度への移行を示す象徴的な出来事であった。
従兄弟・水野勝成が放つ強烈な光の陰で、分長の存在は地味に見えるかもしれない。しかし、歴史の巨大な建築物は、華麗な装飾だけで成り立つものではない。水野分長は、徳川という天下泰平の礎を築いた巨大な建築物を、その根底で見えない場所から支え続けた、目立たずとも決して欠かすことのできない「堅実なる礎石」であった。彼の生涯を丹念に追うことは、徳川三百年の平和を支えた統治システムの深層を理解する上で、不可欠な作業であると結論付ける。