最終更新日 2025-07-15

水野忠重

徳川家康の叔父、水野忠重の生涯 ― 激動の時代を生き抜いた武将の実像

序章:乱世の狭間に立つ武将

戦国時代から安土桃山時代にかけて、数多の武将が歴史の舞台で興亡を繰り返した。その中にあって、水野忠重(みずの ただしげ)という武将は、特異な光彩を放つ存在である。彼は、江戸幕府を開府した徳川家康の実の叔父という、極めて重要な血縁的背景を持ちながら、その生涯は決して安寧なものではなかった。むしろ、織田、徳川、豊臣という当代随一の権力者の狭間を渡り歩き、常に時代の激流の中心に身を置くことを余儀なくされた 1

忠重の人生は、劇的な出来事に満ちている。惣領であった兄・信元の非業の死による予期せぬ家督相続、後に「鬼武蔵」と恐れられる奔放な嫡男・勝成との壮絶な確執、そして天下分け目の関ヶ原合戦の直前、酒宴の席で突如として命を奪われるという悲劇的な最期 2 。これらの出来事は、彼が単なる縁故の武将ではなく、戦国の世の複雑な人間関係と政治力学の渦中で、自らの智勇と決断によって家を支え、激動の時代を生き抜いた一人の武将であったことを物語っている。

本報告書は、断片的に語られがちな水野忠重の生涯を、一次史料を含む広範な資料に基づき、体系的かつ多角的に再構成することを目的とする。彼の出自から青年期の苦悩、武将としての輝かしい戦功、そしてその不可解な死の真相に至るまでを丹念に追うことで、大大名の姻戚という立場がもたらす栄光と悲劇、そして戦国武将の生き様の実像に迫るものである。

第一章:水野家の出自と忠重の青年期

水野忠重の生涯を理解するためには、まず彼が生まれた水野氏の置かれた地理的・政治的環境と、その出自を把握することが不可欠である。

尾張・三河国境の豪族

水野氏は、尾張国知多郡東部から三河国碧海郡西部にまたがる地域を本拠とした国人領主であった 5 。この地は、西に織田氏、東に今川氏、そして同じ三河国内に松平氏という有力勢力がひしめく、まさに力の緩衝地帯であった。水野氏は、これらの大勢力に挟まれながら、時には婚姻を結び、時には敵対し、常に天下の趨勢を見極めながら一族の存続を図るという、極めて高度な政治的判断を要求される立場にあった。

徳川家康の叔父として

忠重は、天文10年(1541年)、尾張緒川城主・水野忠政の九男として生を受けた 3 。『寛政重修諸家譜』によれば、母は忠政の継室であった華陽院(大河内元綱の養女)とされる 3 。九男、すなわち末子であった忠重は、当初、家督を継承する可能性は極めて低かった。

彼の運命を大きく規定したのは、実姉である於大の方の存在である。於大の方は、岡崎城主・松平広忠に嫁ぎ、天文11年(1542年)に竹千代、後の徳川家康を産んだ 3 。これにより、忠重は天下人となる家康の実の叔父という、他の武将にはない極めて強固な血縁関係を持つことになった。この事実は、彼の生涯を通じて、庇護と栄光の源泉となると同時に、時として複雑な政治的立場を強いる要因ともなった。

兄への臣従と若き日の武功

家督は異母兄である水野信元が継承し、忠重は当初、その信元に仕える一武将としてキャリアを開始した 3 。信元は父・忠政の路線を転換し、今川氏から離れて織田信長に臣従したため、忠重も信長の陪臣(家臣の家臣)という立場に置かれた 3

若き日の忠重の武勇と人柄を伝える逸話が残されている。永禄元年(1558年)の尾張緒川・石瀬での戦いにおいて、忠重は一番に槍を合わせ敵を突き崩すという功名を立てた。しかし彼は、その首級を自らの手柄とせず、兄の忠分に譲ったという。この話を聞いた織田信長は、自ら首を獲るよりも優れた行いであると深く感心したと伝えられる 3 。この逸話は、忠重が単なる武勇だけでなく、一族内の協調を重んじる思慮深さを備えていたことを示唆している。

しかし、この末子という立場と、惣領である兄に従うという運命は、彼自身の野心や戦略眼と必ずしも一致するものではなかった。やがて彼は、自らの意志で新たな道を切り拓くべく、大きな決断を下すことになる。

第二章:兄との確執と新たな主君

忠重の生涯における最初の大きな転機は、水野家の当主であった兄・信元との決別と、甥である徳川家康への接近であった。この行動は、単なる兄弟間の不仲に留まらず、彼の将来を見据えた戦略的な主君選びという側面を持っていた。

兄・信元との不和と出奔

永禄3年(1560年)の刈谷十八丁畷の戦いなどで軍功を挙げた忠重であったが、その直後から兄・信元との関係が悪化する 7 。永禄4年(1561年)頃、ついに忠重は信元と袂を分かち、出奔するに至った 1 。史料にはその具体的な原因は明記されていないが、当時の水野氏は織田信長への従属を強めており、この路線に対する考え方の違いや、個人的な性格の不一致などが背景にあったと推測される。

この出奔は、戦国武将にとって極めて重大な決断であった。それは、水野家という「家」の方針に異を唱え、自らの判断で主君を選び直すことを意味したからである。彼は、織田家という巨大勢力に連なる兄の許を離れ、当時はまだ三河統一の途上にあった家康の将来に賭けたのである。

徳川家康への帰属と鷲塚城

出奔した忠重が頼ったのは、実の甥である徳川家康であった 9 。家康は叔父である忠重を温かく迎え入れ、その庇護下に置いた。そして、三河国鷲塚(現在の愛知県碧南市)の地を与え、忠重はそこに鷲塚城を築き、あるいは居城としたと伝えられる 12 。これは、家康が忠重を単に親族として遇しただけでなく、自陣営の重要拠点を知勇兼備の叔父に託したことを示している。この決断は、忠重が織田家の陪臣という立場から、次世代の有力者である家康の直臣(かつ叔父)という、より直接的で将来性のある地位を確保しようとする、高度な政治的判断であった可能性を示唆している。

三河一向一揆での戦功

忠重が家康の期待に応える最初の機会は、永禄6年(1563年)に勃発した三河一向一揆であった。この一揆は、家臣団の半数が敵に回るという、家康の生涯における最大の危機の一つであった。この危機に際し、忠重は家康方として奮戦する。驚くべきことに、この戦いでは袂を分かったはずの兄・信元も家康を支援しており、水野兄弟は一時的に共闘することとなった 15

忠重は、一揆方の拠点であった鷲塚御坊を攻め、寺を焼き払った。さらに、一揆軍に包囲されて窮地に陥っていた西尾城へ兵糧を搬入するという困難な任務を成功させ、家康軍の勝利に大きく貢献した 15 。この一向一揆における忠誠と戦功により、忠重は家康からの信頼を絶対的なものとし、徳川家臣団の中で確固たる地位を築くに至ったのである。

第三章:非業の兄、予期せぬ家督

兄との決別と家康への帰属という自らの決断によって新たな道を歩み始めた忠重であったが、彼の運命は再び、兄・信元の存在によって劇的に転回する。信元の非業の死は、忠重に予期せぬ形で水野家の家督をもたらした。この一連の出来事は、織田信長による徳川家康への統制という、高度な政治的力学の中で展開された。

水野信元誅殺事件の真相

天正3年(1575年)12月、水野家当主であった信元は、突如として織田信長から武田勝頼への内通疑惑をかけられた。そして信長は、同盟者であるはずの家康に対し、伯父である信元を誅殺するよう厳命した 16 。家康は強大な信長の命令に逆らうことができず、三河国大樹寺において、家臣の平岩親吉らに信元を討たせた 16

この内通疑惑は、信長の重臣であった佐久間信盛による讒言であったというのが通説である 16 。信盛は、三方ヶ原の戦いなどで信元と共に徳川支援軍として派遣されており、その指揮下にあった。彼は信元の所領である刈谷を自らの支配下に置くことを画策し、事実無根の罪をでっち上げて信長に讒訴したと見られている 6

水野家再興と忠重の家督継承

信元誅殺後、刈谷城は一時、佐久間信盛に与えられた 2 。しかし、天正8年(1580年)、信長は長年にわたる石山本願寺攻めでの不手際などを理由に、19か条にわたる折檻状を突きつけて佐久間信盛を追放する 2

この信盛追放に伴い、信長は信元の冤罪を認めるという形で、事態の収拾を図った。そして、家康の下に身を寄せていた信元の弟、すなわち忠重を呼び寄せ、兄の旧領である三河刈谷を与えて水野家の家督を継承させたのである 2 。これにより、忠重は兄の死から5年の歳月を経て、水野家の惣領となり、刈谷城主として返り咲いた。同時に、彼は信長の直臣となり、特に嫡男である織田信忠の軍団に組み込まれることとなった 3

この忠重の家督相続は、単に信長の「悔恨」という感情的な理由によるものではない。これは、信長による極めて計算された政治的判断の結果であった。信元誅殺は、家康との清洲同盟の根幹を揺るがしかねない危険な一手であった。信長は、讒言者である信盛を追放し、その後継として家康と血縁が深く、信頼関係にある忠重を当主に据えることで、家康への配慮を示し、同盟関係を再確認・強化した。同時に、独立性の高かった信元に代わり、自らの恩義によって当主となった忠重を信忠の指揮下に置くことで、水野家という国境勢力を織田家の軍団に完全に組み込むことに成功したのである。忠重の人生は、彼自身の意図を超えた巨大な政治力学によって、再び大きく動かされたのであった。

第四章:本能寺後の動乱と小牧・長久手の智略

予期せぬ形で水野家の当主となった忠重は、織田信長の家臣として新たなキャリアを歩み始めた。しかし、そのわずか2年後、本能寺の変によって織田政権は崩壊し、日本全土は再び動乱の時代へと突入する。この混乱期において、忠重は武将としての真価を発揮し、特に小牧・長久手の戦いではその智略によって戦局に大きな影響を与えた。

本能寺の変と信雄への帰属

天正10年(1582年)6月、本能寺の変が勃発した際、忠重は主君である織田信忠に従って京都に滞在していた。信忠は明智光秀軍の襲撃を受けて二条御新造で自刃したが、忠重は辛くも難を逃れ、京都に潜伏した後、6月11日に居城である三河刈谷へと帰還した 1

織田政権崩壊後、その後継者を巡って激しい主導権争いが始まる。忠重は、信長の次男であり、旧来の地盤であった尾張・伊勢を継承した織田信雄に属した 1 。当時の信雄の家臣団の序列を記した『織田信雄分限帳』には、忠重が刈谷・緒川に加え、北伊勢にも所領を持つ1万3千貫文の大身であったことが記録されており、信雄陣営の有力武将として重きをなしていたことがわかる 3

小牧・長久手の戦いにおける的確な進言

天正12年(1584年)、織田信雄は徳川家康と結び、天下人の道を突き進む羽柴秀吉と対決する(小牧・長久手の戦い)。忠重も信雄・家康連合軍の主力としてこの戦いに参陣した 3

この戦いにおける忠重の最大の功績は、長久手での合戦に先立つ軍議での的確な進言であった。秀吉は、家康の本陣である小牧山城を攻めあぐね、別動隊を編成して家康の背後にある岡崎城を奇襲する作戦(中入り)を敢行した。この秀吉軍別動隊の動きを察知した連合軍は、小幡城にて軍議を開いた。その席で忠重は、「敵の大軍に正面から当たるのは得策ではない。敵の意図は我々の背後を突くことにあるのだから、その伸びきった後方をついて、最後尾を攻撃するのがよい」と進言した 3

この戦術提案は、敵の意図を正確に見抜き、その弱点を突くという、極めて高度な戦術眼に基づいていた。榊原康政ら諸将もこれに賛同し、この作戦は実行に移された。結果、連合軍は三好秀次(後の豊臣秀次)が率いる羽柴軍の別動隊を奇襲して壊滅させ、長久手における決定的な勝利を掴んだ。忠重のこの進言がなければ、戦いの趨勢は大きく異なっていた可能性があり、彼の智将としての一面を如実に示す出来事であった。

さらに、同年6月の蟹江城合戦では、自らも最前線で奮戦。兜に矢を四、五本も受け、一本は頭に刺さるほどの重傷を負いながらも敵の首を挙げた。その姿を見た家康は、「そなたが首を挙げるのは珍しいことではない。今日の兜の前立てこそ見事なものだ」と、その凄まじい武勇を賞賛したと伝えられている 3

これらの活躍は、水野忠重が単に「家康の叔父」という血縁に頼るだけの武将ではなく、戦局全体を俯瞰する冷静な分析力と、自ら敵陣に斬り込む個人的な武勇を兼ね備えた、第一級の指揮官であったことを明確に証明している。

第五章:天下人・秀吉の臣として

小牧・長久手の戦いは局地的な戦闘では徳川・織田連合軍が勝利したものの、政治的には主君である織田信雄が羽柴秀吉と単独で和睦したため、秀吉の優位が確定した。この結果、忠重もまた、天下人への道を歩む秀吉の臣下として組み込まれていく。豊臣政権下での彼の動向は、秀吉による全国的な大名統制策と、それに対して着々と影響力を蓄える徳川家康の深謀遠慮が交錯する中で展開された。

豊臣政権への臣従と伊勢神戸への移封

天正13年(1585年)、主君・信雄の命により、忠重は正式に秀吉に仕えることとなった 23 。彼は武者奉行に任じられ、天正15年(1587年)には従五位下和泉守に叙任され、豊臣姓を賜るなど、秀吉政権下で4万石を領する大名としての地位を公に認められた 3

天正18年(1590年)、秀吉が小田原の北条氏を滅ぼし天下統一を成し遂げると、全国規模での大規模な大名の配置転換(国替え)が行われた。この時、徳川家康は東海五か国から関東へ移封され、それに伴い忠重も長年の本拠地であった三河刈谷から、伊勢国神戸(かんべ)4万石へと移封された 2

この移封は、秀吉の大名統制策の一環として理解することができる。秀吉は、有力大名を先祖代々の土地から引き離すことで、その地域における影響力や家臣団との強い結びつきを弱体化させることを狙った 28 。家康の関東移封がその最たる例であり、その叔父である忠重を家康の旧領国に近い三河から伊勢へ移すことも、叔父と甥の強力な連携を物理的に断ち切ろうとする秀吉の明確な意図の表れであったと考えられる。

文禄の役と異例の刈谷復帰

豊臣政権下の大名として、忠重もまた秀吉の対外政策に従った。文禄元年(1592年)から始まった朝鮮出兵(文禄の役)では、多くの西国大名と共に朝鮮半島へ渡海することはなかったものの、出兵の拠点である肥前名護屋城に在陣し、留守居番衆として城の守備などを担当した 3

しかし、そのわずか2年後の文禄3年(1594年)、忠重は伊勢神戸から、かつての旧領である三河刈谷3万石(石高は減少)に復帰するという、極めて異例の措置を受ける 2 。これは、大名を本領から切り離すという秀吉の基本方針に明らかに反するものであった。

この背景には、秀吉政権末期の権力構造の変化と、家康の増大する影響力があったと推測される。この時期、豊臣政権内では秀次事件が起こるなど、秀吉の権勢にも陰りが見え始めていた。家康は、秀吉亡き後の天下を見据え、自らの旧本拠地であり戦略的要衝でもある三河に、最も信頼できる親族である忠重を再配置することの重要性を認識し、秀吉に対して強く働きかけた可能性が高い。

忠重のキャリアにおけるこの移封と復帰は、彼個人の意思を超えた、天下の二大巨頭、秀吉と家康の政治的綱引きの縮図であった。秀吉は忠重を家康から引き離そうとし、家康は彼を自らの影響圏に引き戻そうとした。その結果としての刈谷復帰は、豊臣政権末期における家康の政治力の高まりを象徴する出来事として位置づけることができる。忠重は再び、来るべき動乱の時代に備え、徳川の東海の守りの一翼を担うことになったのである。

第六章:父子の相克 ― 嫡男・勝成との断絶と和解

水野忠重の生涯において、公的な武将としての側面とは別に、彼の人間性や武家の長としての厳格さを浮き彫りにするのが、嫡男・水野勝成との激しい確執である。この父子の物語は、戦国武将が「家長(父)」と「組織の長(主君)」という二つの役割の狭間で、いかに非情な判断を迫られたかを示す象徴的な事例と言える。

「傾奇者」水野勝成の気性

忠重の嫡男として永禄7年(1564年)に生まれた勝成は、後に「鬼日向(おにひゅうが)」と称されるほどの比類なき猛将であった。しかしその一方で、彼の気性は極めて荒く、既成の権威や秩序に反発する「傾奇者(かぶきもの)」としても知られていた 1 。小牧・長久手の戦いでは、結膜炎を理由に兜を着用せず鉢巻姿で出陣し、それを咎めた父・忠重に反発して敵陣に一番乗りを果たしたという逸話も残る 9

陣中での家臣斬殺と父による「奉公構」

父子の関係を決定的に破綻させた事件は、天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いの最中、羽柴軍と対峙する桑名の陣中で起こった。勝成は、自らの不行状を父・忠重に讒言したとされる、父の寵臣・富永半兵衛を、陣中において斬殺してしまったのである 3

この報告を受けた忠重の怒りは凄まじかった。彼は勝成を単に勘当するに留めず、「奉公構(ほうこうがまえ)」という、武士社会における最も厳しい処断を下した 4 。奉公構とは、追放した家臣について、他家がこれを召し抱えることを禁じる回状を出す制度である。これを破って召し抱えた大名は、発令者への敵対と見なされるため、事実上、武士としての社会生命を完全に絶つに等しい処置であった。実の父が嫡男に対してこの処分を下すのは、前代未聞のことであった 4

この忠重の決断は、単なる父親の怒りという感情的なものではない。事件が軍事行動中の陣中で起きたことは、軍律の根幹を揺るがす重大な違反行為である。また、殺害されたのが父の「寵臣」であったことは、家中の秩序と忠重自身の権威に対する直接的な挑戦と受け取られた。忠重は、嫡男一人を許すことで家中の規律が崩壊することを恐れ、水野家という組織の長として、その秩序維持を最優先したのである。そこには、家の存続のためには血の繋がった後継者さえも切り捨てるという、大名としての冷徹かつ非情な判断があった。

十五年の放浪と関ヶ原前夜の和解

奉公構の身となった勝成は、以後15年近くにわたり、諸国を流浪する生活を送ることになる。彼は織田信雄や徳川家康に仕官を申し出るも、父の奉公構のために断られ、その後は佐々成政、小西行長、加藤清正といった名だたる武将の下を傭兵のように渡り歩いた 9

この長い断絶期間を経て、父子の和解が実現するのは、皮肉にも忠重の死の直前、慶長5年(1600年)のことであった。関ヶ原の戦いに向けて徳川家康が会津征伐の軍を起こすと、流浪していた勝成は家康の陣に駆けつけ、奉公構の身でありながら自主的に本陣の警護にあたった。この忠義に感じ入った家康が仲介し、また重臣の山岡景友らの尽力もあって、ついに父子は十数年ぶりに和解を果たしたのである 9 。しかし、この和解からわずか数か月後、忠重は非業の最期を遂げることになる。

第七章:関ヶ原前夜の悲劇 ― 池鯉鮒における最期

十数年にわたる息子・勝成との和解を果たし、徳川家康の天下取り事業に重臣として参画しようとしていた水野忠重を、あまりにも突然の、そして不可解な死が襲った。慶長5年(1600年)7月、関ヶ原の戦いの火蓋が切られる直前に起こったこの暗殺事件は、彼の生涯の悲劇的な終幕であると同時に、天下分け目の戦いが単なる野戦ではなく、諜報や謀略を含む総力戦であったことを示す象徴的な出来事であった。

事件の概要:池鯉鮒での酒宴

慶長5年(1600年)7月、徳川家康は会津の上杉景勝を討伐するため、諸大名を率いて東国へ向かった。この間、忠重は本拠地である三河刈谷城に留まり、後方の守りを固めていた 3

7月19日、忠重は三河国池鯉鮒(ちりゅう、現在の愛知県知立市)の宿場において、家康から越前府中に新たな領地を与えられ、任地へ向かう途中であった堀尾吉晴を歓待するための酒宴を催した 3 。この宴席には、美濃加賀野井城主であった加賀井重望(かがのい しげもち)も同席していた。宴もたけなわとなった頃、忠重と加賀井重望の間で口論が起こり、激昂した重望は佩刀を抜き、忠重を斬殺した 3 。享年60(満59歳)であった。凶行に及んだ重望は、その場で同席していた堀尾吉晴によって討ち取られたが、吉晴もまた17か所の槍傷を負うほどの激しい斬り合いであったという 38

暗殺計画説とその背景

この事件は、表面的には酒席での偶発的な口論が原因の殺傷事件として記録されている。しかし、その背景には、関ヶ原の戦いを目前にした東西両軍の熾烈な水面下での駆け引きがあったとする説が有力である。

『徳川実紀』をはじめとする後世の記録では、この事件は西軍の首脳であった石田三成、あるいは大谷吉継が、東軍の要人を暗殺し、その後方を攪乱するために仕掛けた計画的犯行であったとされている 1 。加賀井重望は、西軍に与することを決めており、三成らから東軍の有力武将を暗殺する密命を帯びていたというのである。

この説を補強する記録として、『武者物語』には、重望を討ち取った堀尾吉晴が彼の懐を改めたところ、「水野忠重と堀尾吉晴の両名を討ち取ったならば、三河・遠江の二国を与える」という内容の、石田三成が発給した証文(約束手形)を所持していた、という記述がある 39 。この証文の真偽は定かではないが、事件の計画性を示唆する重要な伝承である。

この暗殺が計画的なものであったとすれば、その標的は忠重個人に限定されていたわけではなく、家康方の有力者であれば誰でもよかった可能性が高い 1 。忠重は家康の叔父であり、徳川家の本拠地である三河の重要拠点・刈谷城の城主であった。彼の死は、東軍にとって大きな動揺と戦力低下をもたらす。この事件は、関ヶ原の戦いが、戦場での衝突が始まる以前から、熾烈な情報戦・謀略戦として既に始まっていたことを物語っている。豊臣政権末期には、前田利長暗殺計画の風聞が流れるなど、要人暗殺が政争の手段として現実味を帯びていた 41 。水野忠重の死は、彼自身がそれだけ東軍にとって重要な人物であったことの悲劇的な証明であり、天下分け目の戦いの暗い前哨戦として、歴史に刻まれることとなった。

終章:水野忠重の遺産

関ヶ原合戦前夜という、最も重要な局面で命を落とした水野忠重。彼の突然の死は、徳川家、そして水野家にとって大きな衝撃であったが、その死は決して無駄にはならなかった。彼がその生涯をかけて築き、守り抜こうとしたものは、息子・勝成に引き継がれ、江戸時代を通じて繁栄する譜代大名・水野家の確固たる礎となった。

忠重の死の報せを受けた徳川家康の対応は迅速かつ的確であった。家康は直ちに刈谷城の家老衆に書状を送り、「和泉守(忠重)不慮の仕合わせにてあい果てられ、是非に及ばず候(忠重が不慮の死を遂げたことは、誠に残念である)」とその死を悼みつつ、「しからば六左衛門(勝成)指し越し候、和泉殿にあい替わらず馳走肝要に候(そこで勝成をそちらへ遣わすので、忠重の代わりとして変わらず忠節を尽くすことが肝要である)」と命じた 43 。これにより、家康は水野家の家督相続を速やかに承認し、家中が動揺する隙を与えず、東軍への結束を固めたのである。

家督を継いだ水野勝成は、父の遺志を継いで関ヶ原の戦いに臨んだ。彼は本戦には参加しなかったものの、大垣城の抑えという重要な役目を担い、本戦の勝利後、城に籠城していた西軍の将兵を降伏させた。その際、父を殺害した加賀井重望の子息を自らの手で討ち取り、見事に父の仇討ちを果たしたと伝えられている 15

水野忠重は、自らが天下人となるタイプの英雄ではなかったかもしれない。しかし、徳川家康の叔父という血縁を最大限に活かしつつ、織田、豊臣という巨大権力の間を渡り歩く中で培われた武勇と智略、そして最終的に徳川方として命を落としたその生涯は、徳川幕府成立の過程において、決して小さくない役割を果たした。

彼の死によって、水野家は徳川家に対する「特別な忠誠」を証明する形となり、その後の徳川政権下で譜代大名として確固たる地位を築く礎となった。勝成は大坂の陣での活躍などを経て備後福山藩10万石の初代藩主となり、その子孫は江戸時代を通じて幕府の老中を7人も輩出する名門として栄えた 15 。さらに、忠重の別の子である忠直の血筋からは、9代将軍・徳川家重の生母である深徳院、そして12代将軍・家慶の生母である香琳院が出ており、水野家の血は将軍家にも繋がっている 3

激動の時代を生き抜き、数々の苦難と栄光を経験し、最後は謀略の犠牲となった水野忠重。彼が遺した最大の功績は、その波乱に満ちた生涯そのものをもって、徳川の世における名門・水野家の繁栄の道を切り拓いたことにあると言えよう。


付属資料

表1:水野忠重 関連人物相関図

カテゴリ

人物名

水野忠重との関係

備考

水野一族

水野忠政

緒川城主

華陽院

忠政の継室

於大の方

徳川家康の生母

水野信元

異母兄

水野家当主。忠重と不和の後、誅殺される 5

水野勝成

嫡男

「鬼武蔵」。父に勘当されるも後に和解し家督を継ぐ 4

水野忠胤

次男

大名となるも、家臣の不祥事により改易・切腹 45

水野忠清

四男

大和郡山藩主、信濃松本藩主。沼津藩水野家の祖 3

主君

織田信長

主君

信元誅殺後、忠重に家督を継がせる 2

織田信忠

主君(所属軍団長)

本能寺の変で共に京都にいた 3

織田信雄

主君

本能寺の変後、信雄に属す 1

豊臣秀吉

主君

忠重を伊勢神戸へ移封 3

徳川家

徳川家康

忠重の姉・於大の子。忠重の生涯にわたり深く関わる 9

松平広忠

義兄

於大の方の最初の夫、家康の父

暗殺事件

堀尾吉晴

同席者

忠重が饗応していた東軍の武将。重傷を負いながらも加賀井を討つ 38

加賀井重望

加害者

西軍の武将。酒宴で忠重を殺害 39

石田三成

黒幕(説)

西軍首脳。重望に暗殺を命じたとされる 1

表2:水野忠重 生涯年表

西暦(和暦)

年齢

出来事

所属/主君

居城/所領

1541 (天文10)

1

水野忠政の九男として誕生 7

-

緒川城

1558 (永禄元)

18

緒川・石瀬の戦いで初陣、武功を挙げる 3

水野信元 (織田信長)

緒川城

1561 (永禄4)

21

兄・信元と不和になり出奔。徳川家康に仕える 1

徳川家康

(三河へ)

1563 (永禄6)

23

三河一向一揆で家康を助け、鎮圧に貢献 15

徳川家康

鷲塚城

1575 (天正3)

35

兄・信元が武田内通の嫌疑で家康に誅殺される 16

徳川家康

鷲塚城

1580 (天正8)

40

佐久間信盛追放に伴い、信長の命で水野家の家督を相続 2

織田信長・信忠

刈谷城

1582 (天正10)

42

本能寺の変で信忠が自刃。難を逃れ刈谷に帰還。織田信雄に属す 1

織田信雄

刈谷城

1584 (天正12)

44

小牧・長久手の戦いで軍議で進言し勝利に貢献。嫡男・勝成が家臣を斬殺し勘当、「奉公構」とする 3

織田信雄 (徳川家康)

刈谷城

1585 (天正13)

45

主君・信雄の和睦に伴い、羽柴(豊臣)秀吉に仕える 23

豊臣秀吉

刈谷城

1587 (天正15)

47

従五位下・和泉守に叙任される 3

豊臣秀吉

刈谷城

1590 (天正18)

50

小田原征伐後、伊勢国神戸4万石に移封される 2

豊臣秀吉

伊勢神戸城

1592 (文禄元)

52

文禄の役で肥前名護屋城に在陣 3

豊臣秀吉

伊勢神戸城

1594 (文禄3)

54

旧領である三河刈谷3万石に復帰する 27

豊臣秀吉

刈谷城

1598 (慶長3)

58

豊臣秀吉が死去。遺物として左文字の刀を受領 3

(徳川家康へ接近)

刈谷城

1600 (慶長5)

60

息子・勝成と和解 36 。7月19日、三河池鯉鮒にて加賀井重望に殺害される 3

徳川家康

刈谷城

引用文献

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  2. 【愛知県】刈谷城の歴史 三河にあるのに織田の城だった!?家康と関わりの深い水野氏が築城 https://sengoku-his.com/1946
  3. 水野忠重 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E5%BF%A0%E9%87%8D
  4. 水野勝成の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/38360/
  5. 水野信元(みずの・のぶもと) ?~1575 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/MizunoNobumoto.html
  6. 水野信元 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E4%BF%A1%E5%85%83
  7. 水野忠重- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E5%BF%A0%E9%87%8D
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  9. 水野勝成とはどんな人? 徳川家康のいとこの規格外な生き様を見よ! - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/78000/
  10. G606 水野貞守 - 清和源氏 - 系図コネクション https://www.his-trip.info/keizu/entry389.html
  11. 水野氏と阿部氏 - 備後 歴史 雑学 http://rekisizatugaku.web.fc2.com/page008.html
  12. 徳川家康のいとこ、水野勝成の生誕地?|愛知県碧南市、鷲塚城跡 ... https://delight-net.biz/archives/4359
  13. 『鷲塚城』 碧南の不思議な話 トボトボ歩く碧南市 http://www.katch.ne.jp/~hiro32/mysteries/mysteries10.htm
  14. 鷲塚(わしづか)城 - aitisirohekikai ページ! - 碧海地区の城 https://aitisirohekikai.jimdofree.com/%E7%A2%A7%E6%B5%B7%E5%9C%B0%E5%8C%BA%E3%81%AE%E5%9F%8E/%E7%A2%A7%E5%8D%97%E5%B8%82/%E9%B7%B2%E5%A1%9A%E5%9F%8E/
  15. 家康を助け徳川の天下を支えた水野氏 - 東浦町観光協会 https://higashiura-kanko.com/history/mizunoke/
  16. 水野信元は何をした人?「家康と信長をつないだ仲人だったのに恩を仇で返された」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/nobumoto-mizuno
  17. 水野信元 どうする家康/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/89872/
  18. 水野信元~徳川家康に誅殺された於大の方の兄~ - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/sengoku/jinbutu/mizuno-nobumoto.html
  19. 佐久間信盛・信長躍進を支えた筆頭家老!まさかの追放劇はなぜ起きた? - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=C592dQxv-Zc&t=68s
  20. 水野信元とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E4%BF%A1%E5%85%83
  21. 「水野信元」は若き家康の良き相談役であった! | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/639
  22. 佐久間信盛 日本史辞典/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/sakuma-nobumori/
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  24. 1582年(前半) 本能寺の変と伊賀越え | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1582-2/
  25. 水野氏とは? わかりやすく解説 - Weblio国語辞典 https://www.weblio.jp/content/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E6%B0%8F
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  28. 徳川家康はなぜ関東移封されたのか /ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/102450/
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  31. 水野勝成・戦国最強の武将で傾奇者【ドラマ化されないのが不思議な武将】 - 草の実堂 https://kusanomido.com/study/history/japan/sengoku/37148/
  32. 鬼日向・水野勝成~波乱万丈の生涯だった家康の従弟 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4928
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  35. 知名度の低い"戦国最強" 水野勝成が凄すぎる | AERA DIGITAL(アエラデジタル) https://dot.asahi.com/articles/-/16003?page=1
  36. 水野勝成の武将年表/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/64633/
  37. 家康公のお母さんの実家 - 紀行歴史遊学 https://gyokuzan.typepad.jp/blog/2019/01/%E6%B0%B4%E9%87%8E.html
  38. 堀尾吉晴 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E5%B0%BE%E5%90%89%E6%99%B4
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  40. 池鯉鮒宿 http://youjirouwalk.arrow.jp/toukai_walk/40chiryufu/40hp.htm
  41. 五奉行・五大老は関ヶ原でどうしたか http://chushingura.biz/aioi&ako/aioi_gakko/08/old_htm/002.htm
  42. (わかりやすい)関ヶ原の戦い https://kamurai.itspy.com/nobunaga/sekigahara.htm
  43. 慶長5年7月25日水野和泉守忠重家臣3名宛徳川家康感状を読む https://japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com/entry/20180720/1532080109
  44. 前期のみ展示 - (鹿角脇立兜・小具足付/本多忠勝所用) (個人蔵・岡崎市美術博物館寄託) https://fukuyamajo.jp/dist/wp-content/uploads/2022/09/%E7%89%B9%E5%88%A5%E5%B1%95%E4%B8%AD%E8%BA%AB.pdf
  45. 水野氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E6%B0%8F
  46. 水野忠胤とは? わかりやすく解説 - Weblio国語辞典 https://www.weblio.jp/content/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E5%BF%A0%E8%83%A4
  47. 水野忠清- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E5%BF%A0%E6%B8%85