最終更新日 2025-06-30

津野定勝

忠義に散った土佐の豪族 ― 津野定勝の生涯と『長宗我部地検帳』に秘められた謎

序章:土佐戦国史における津野氏の位置づけ

日本の戦国時代、列島各地で群雄が割拠し、下剋上が常態と化す中で、四国の土佐国(現在の高知県)もまた、激しい動乱の時代を迎えていました。この地の勢力図は、中央から下向した公家大名である土佐一条氏を別格の権威として頂点に置き、その下に「土佐七雄」と称される在地豪族たちがひしめき合う、複雑な構造を呈していました 1 。七雄とは、本山氏、安芸氏、大平氏、津野氏、吉良氏、香宗我部氏、そして、後に土佐を席巻することになる長宗我部氏を指します 2 。当初の長宗我部氏は、これら七雄の中でも最も弱小な勢力の一つに過ぎませんでした 2

このような権力構造の中で、土佐国中西部の高岡郡に広大な勢力圏を築いていたのが津野氏です 3 。室町時代には足利将軍家や管領細川氏に臣従し、戦国期に入ると土佐一条氏の支配下でその命脈を保っていました 4 。本報告書は、この土佐七雄の一角を占めた津野氏の当主でありながら、歴史の大きな転換点において悲劇的な運命を辿った武将、津野定勝(つの さだかつ)の生涯に焦点を当てます。

定勝の人生は、新興勢力・長宗我部元親の圧倒的な力の前に、旧来の主家・一条氏への「忠義」を貫くか、一族の「存続」のために新たな支配者に「恭順」するかの、過酷な選択を迫られたものでした。結果として家臣団に追放されるという悲運に見舞われた彼の動向は、戦国時代の在地領主が直面した普遍的なジレンマを象徴しています。本報告書は、津野定勝という一人の武将の生涯を軸に、彼を取り巻く土佐の政治力学を解き明かすとともに、特に軍記物語では多くを語られない追放後の謎に包まれた晩年について、信頼性の高い一次史料である『長宗我部地検帳』の記述を手がかりに、その実像に深く迫ることを目的とします。

第一部:津野氏の勃興と一条氏への臣従

津野定勝という人物の行動原理と、彼が下した決断の歴史的背景を理解するためには、まず彼が背負っていた津野一族の来歴と、その存立基盤となっていた主家・一条氏との関係性を把握することが不可欠です。本章では、津野氏の起源から、土佐における一大勢力としての地位を確立し、やがて一条氏の支配下へと組み込まれていく過程を詳述します。

第一章:津野氏の系譜と本拠地

一族の起源と入国伝承

津野氏の家伝によれば、その祖は平安時代の公卿・藤原基経の後裔とされる藤原経高に遡るとされています 3 。伝承では、経高は罪を得て延喜10年(910年)に伊予国(現在の愛媛県)へ下り、その後、同13年(913年)に土佐国に入って高岡郡の山間部を開拓し、地名にちなんで姓を「津野」に改めたと伝えられています 2 。しかし、これはあくまで後世に整えられた家伝であり、その史料的確実性については慎重な吟味が必要です。中央の貴族が地方の荘園を支配するために、子弟を婚姻や養子縁組によって送り込むことは常套手段であり、津野氏の起源についても複数の説が存在するのが実情です 3

支配領域と拠点

津野氏は、土佐国高岡郡の中西部に位置する津野荘、山間部の津野新荘、そして檮原荘を拠点としていました 3 。その支配領域は、現在の高知県高岡郡津野町や梼原町を中心とする「津野山」と呼ばれる山間地帯から、須崎市周辺の沿岸部にまで及ぶ広範なものでした 6 。津野荘は、元は京都の下鴨神社(賀茂御祖神社)の社領であり 6 、津野氏はその地頭として力を蓄え、やがては荘園そのものを侵食して自らの支配下に収めていったと考えられています 5

本城・姫野々城

津野氏が代々の居城としたのが、姫野々城(ひめののじょう)です 8 。別名を半月城とも呼ばれるこの城は、現在の津野町姫野々、新荘川中流を見下ろす標高189メートルの丘陵上に築かれた山城でした 8 。発掘調査の結果、城の主郭部分は少なくとも南北朝時代には機能を開始しており、室町時代から戦国時代にかけて、敵の侵攻を防ぐための竪堀(たてぼり)や堀切(ほりきり)が数多く整備され、要塞としての機能が強化されていったことが判明しています 5 。出土した陶磁器などから、特に15世紀から16世紀前半にかけてが、この城が最も活発に使用された最盛期であったと推測されています 5 。この城は、津野氏の権勢を象徴する拠点であり、現在は町の史跡として整備されています 9

文化的側面

津野氏は、武力によって勢力を伸張させた典型的な戦国豪族であると同時に、高い文化性を備えた一族でもありました。特に室町時代には、一族の中から五山文学の最高峰と称される絶海中津(ぜっかいちゅうしん)と義堂周信(ぎどうしゅうしん)という二人の傑出した禅僧を輩出しています 2 。彼らは足利義満の信任も厚く、中央の文化・政治にも大きな影響を与えました 10 。この事実は、津野氏が単なる地方の武辺者ではなく、京都の文化とも通じた、独自の文化圏を領内に形成していたことを示唆しています。

第二章:一条氏の支配下へ ― 従属への道程

津野氏は高岡郡に確固たる地盤を築いていましたが、戦国時代の土佐において圧倒的な権威と勢力を誇った公家大名・土佐一条氏との関係が、その運命を大きく左右することになります。

永正の敗戦と衰退の始まり

津野氏の自立性に大きな影を落とす最初の転機は、永正14年(1517年)に訪れました。当時の当主であった津野元実(つの もとざね)は、一条氏の属城であった戸波城を攻撃しましたが、一条本家からの援軍の前に恵良沼(えらぬま)の戦いで大敗を喫し、元実自身もこの戦いで討ち死にしてしまいます 8 。この敗戦は津野氏にとって痛恨事であり、一族の勢力は大きく衰退しました。結果として、津野氏は一条氏の支配下に入ることを余儀なくされ、その独立性は著しく損なわれたのです 13

天文の反乱と完全臣従

それでもなお、津野氏内部には一条氏の支配から脱しようとする動きが燻っていました。津野定勝の父である津野基高(つの もとたか)は、天文12年(1543年)、主君である一条房基(いちじょう ふさもと)に対して謀反を起こします 3 。しかし、この反乱も一条軍の前に鎮圧され、基高は降伏せざるを得ませんでした 7

この一連の出来事は、津野氏の運命を決定づけました。永正の敗戦で軍事的に劣勢となり、天文の反乱失敗で政治的にも完全に屈服した津野氏は、もはや一条家の「家臣」という立場から動くことが不可能な状況に追い込まれたのです。津野元実の「対決」、そして父・基高の「反乱と屈服」という、二代にわたる自立の試みがことごとく失敗に終わったという苦い歴史は、その跡を継いだ津野定勝の代に、極めて重い意味を持つことになります。彼が家督を相続した時点で、津野家は一条氏への臣従という枠組みの中でしか生き残れないという現実を、痛切に突きつけられていたのです。

第二部:津野定勝の決断と流転

土佐一条氏への完全臣従という形で家の存続を図った津野氏。しかし、戦国の世は、一人の傑物の登場によって、その勢力図を根底から覆そうとしていました。長宗我部元親の台頭です。本章では、この時代の奔流の中心に立たされた津野定勝の生涯、特に彼の運命を決定づけた長宗我部氏との対立と、その後の追放劇を、関連年表と共に詳細に追跡します。


表1:津野定勝関連年表

西暦(和暦)

津野定勝および津野氏の動向

一条氏の動向

長宗我部氏の動向

1517年(永正14年)

津野元実、一条氏と戦い戦死する 11

津野氏を破り、高岡郡への影響力を強める。

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1521年(大永元年)頃

津野定勝、誕生したと推定される 14

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1543年(天文12年)

父・津野基高、一条房基に反乱を起こすも敗れ、降伏する 3

津野基高の反乱を鎮圧し、津野氏を完全に臣従させる 13

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1560年(永禄3年)

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長宗我部元親、家督を相続する 15

1568年(永禄11年)

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一条兼定、伊予・鳥坂峠で河野・毛利連合軍と対陣する 16

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1569年(永禄12年)

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長宗我部元親、安芸国虎を滅ぼす 17

1570年(元亀元年)頃

定勝、長宗我部元親からの降伏勧告を拒否。家臣団により伊予へ追放される 2

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勢力を拡大し、津野氏に降伏を勧告する。

1574年(天正2年)

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一条兼定、家臣により追放される 19

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1575年(天正3年)

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追放された兼定が伊予から再起を図るも、元親に敗れる 15

四万十川の戦いで一条兼定を破り、土佐統一を果たす 15

1578年(天正6年)

子・津野勝興、死去。長宗我部元親の三男・親忠が養子となる 3

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1587年(天正15年)

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長宗我部元親、豊臣政権下で「長宗我部地検帳」の作成を開始する 21

1616年(元和2年)頃

津野定勝、死去したと推定される 14

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第三章:当主・津野定勝の登場

津野基高の子として、文亀3年(1503年)生まれの父に続き、大永元年(1521年)頃に生まれたとされる津野定勝は、一族が一条氏への臣従を強いられる激動の時代に成長しました 3 。彼の諱(いみな)である「定勝」の「定」の一字は、当時の主君であった土佐一条氏当主・一条兼定(いちじょう かねさだ)から偏諱(主君が家臣に名前の一字を与えること)を賜ったものである可能性が極めて高く、津野氏が一条家の家臣として位置づけられていたことを明確に示しています 3

さらに、定勝は一条家の娘を正室として迎えています 14 。この妻が一条兼定本人の娘であるという記述も存在しますが、両者の生年から考えると、兼定の叔母にあたる女性であったとする説が有力視されています 14 。いずれにせよ、この婚姻は津野氏と主家・一条氏との間に血縁という強固な結びつきをもたらし、津野氏を一条家の支配体制にさらに深く組み込む役割を果たしました。定勝にとって、一条家は単なる主君ではなく、姻戚関係にある「身内」でもあったのです。この事実が、後の彼の頑ななまでの忠誠心の源泉となったことは想像に難くありません。

第四章:長宗我部元親の台頭と津野家の内紛

定勝が津野家の当主として領地を治めていた頃、土佐の勢力図は劇的に塗り替えられようとしていました。土佐七雄の中でも最弱小と見なされていた長宗我部氏から、国親・元親という非凡な親子が登場したのです。

「土佐の出来人」の躍進

長宗我部元親は、永禄3年(1560年)に家督を継ぐと、その類稀なる軍事的・政治的才能を発揮し、破竹の勢いで領土を拡大していきます。「姫若子」と揶揄された色白の若者は、初陣で武功を挙げると「土佐の出来人」と称されるようになり、一領具足(いちりょうぐそく)と呼ばれる半農半兵の戦闘集団を巧みに率いて、周辺の豪族を次々と打ち破りました 23 。永禄11年(1568年)には土佐中部の最大勢力であった本山氏を降伏させ 25 、翌年には東部の雄・安芸国虎を滅ぼすなど 2 、その勢いは誰にも止められないものとなっていました。

運命の選択 ― 降伏勧告と拒絶

土佐の中部と東部を完全に制圧した元親の次なる目標は、西部、すなわち一条氏の所領と、その配下にある津野氏の領地でした。元亀元年(1570年)頃、元親はついに津野定勝に対し、降伏を勧告します 3 。この時、定勝は人生最大の岐路に立たされました。

彼の前には二つの道がありました。一つは、新興の覇者である元親の軍門に降り、一族の安泰と領地の保全を図る道。もう一つは、たとえ滅びようとも、父の代から誓った主家・一条氏への忠義を貫き、元親の要求を拒絶する道です。定勝が選んだのは、後者でした。彼は、妻の実家でもある一条家を裏切ることを潔しとせず、元親の勧告を断固として拒否したのです 2

家中の分裂とクーデター

しかし、定勝のこの決断は、津野家中に深刻な亀裂を生じさせました。一族の存続を第一に考える家臣たちにとって、定勝の行動は、没落しつつある一条家と運命を共にし、一族を滅亡へと導く無謀な選択に他なりませんでした 2 。当時、一条氏の衰退は誰の目にも明らかであり、現に安芸国虎は一条氏の援軍を当てにしながらも、それを得られずに滅亡するという先例があったのです 26

家臣団は、長宗我部氏に恭順すべきであると定勝に進言しますが、彼は頑として聞き入れません 2 。ここに、主家への「名」を重んじる当主と、一族の「実」を優先する家臣団との間で、埋めがたい対立が生じました。議論は平行線をたどり、ついに家臣団は実力行使という最終手段に打って出ます。彼らはクーデターを起こし、主君である定勝を当主の座から追放。そして、その子である津野勝興を新たな当主として擁立し、長宗我部氏への恭順の意を示したのです 2 。行き場を失った定勝は、土佐を追われ、隣国の伊予へと落ち延びていきました 14 。この悲劇は、定勝個人のものであったと同時に、津野家という組織が戦国の荒波を乗り越え、生き残るために払った大きな犠牲であったと言えるでしょう。

第五章:伊予への追放と再起の試み

家臣団のクーデターによって領地を追われた津野定勝は、伊予国へと亡命しました。彼のその後の足取りを直接的に示す史料は乏しいですが、当時の政治状況から、彼が伊予でどのような立場に置かれ、何を試みていたのかを推察することは可能です。

伊予での潜伏と再起の機会

定勝が追放された伊予は、単なる逃亡先ではありませんでした。彼の主君であり、義理の縁者でもある一条兼定もまた、天正2年(1574年)に家臣によって追放された後、豊後(現在の大分県)の大友氏を頼り、伊予を拠点として土佐への反攻を幾度も試みています 27 。定勝が伊予に身を寄せたのは、こうした一条氏の勢力圏、あるいはその影響下にある国人領主を頼ったからに他なりません。土佐と伊予の国境に連なる山々 29 や、そこに関所を設けていたという事実 31 は、この地域が両国間の軍事的な要衝であったことを物語っています。定勝の存在は、一条氏にとって、土佐国内の旧臣を糾合し、反長宗我部勢力を結集させるための重要な旗印となる可能性を秘めていました。

鳥坂峠合戦への関与の可能性

定勝が伊予にいた時期と重なる永禄11年(1568年)、まさにその伊予国で、一条兼定の命運を賭けた大きな戦いがありました。「鳥坂峠の戦い」です 16 。この戦いで一条兼定は、伊予の宇都宮豊綱と結び、土佐・伊予の国人衆を率いて伊予国高島に進出。これに対し、伊予の河野氏は中国地方の雄・毛利氏に援軍を要請し、小早川隆景率いる毛利軍と一条軍が鳥坂峠で激突しました 16

この戦いには、一条軍として多くの土佐国人が動員されていました。追放の身であったとはいえ、主君・兼定の再起をかけたこの一大決戦に、定勝が何らかの形で関与しようとしたと考えるのは、極めて自然な推論です。彼が前線に立ったか、後方で兵の結集に動いたか、具体的な記録は残っていませんが、この戦いは定勝にとって、土佐へ帰還し、家を再興するための最大の好機であったはずです。しかし、戦いは膠着状態の末、毛利軍の本格的な伊予上陸によって一条・宇都宮連合軍の敗北に終わり、定勝の再起の夢もまた、この鳥坂峠で潰えたのかもしれません。

第三部:晩年の帰郷と歴史的評価

伊予での再起の夢も絶たれ、歴史の表舞台から姿を消したかのように見えた津野定勝。しかし、彼の物語はここで終わりませんでした。驚くべきことに、彼を追放した敵である長宗我部氏が作成した公的な土地台帳に、彼の存在を示す記述が残されていたのです。本章では、この史料を手がかりに、謎に包まれた定勝の晩年と、その歴史的意味を徹底的に分析します。

第六章:『長宗我部地検帳』に記された「御座」の謎

一次史料としての『長宗我部地検帳』

定勝の晩年の姿を解明する鍵となるのが、『長宗我部地検帳』です。これは、天正15年(1587年)から長宗我部元親が実施した大規模な検地(土地調査)の結果を記録した台帳群であり、現在も368冊が重要文化財として保管されています 21 。太閤検地の一環として、豊臣政権下の大名が自らの領国支配を確立するために行ったこの事業は、土地の面積、等級、石高(収穫量)、そして直接の耕作者(名請人)を1筆ごとに確定させるものでした 34 。そのため、物語的な脚色が含まれる可能性のある『土佐物語』などの軍記物とは一線を画し、当時の社会の実態を客観的に伝える極めて信頼性の高い一次史料と評価されています 36

「御座」の記述と所在地・多ノ郷村

この『長宗我部地検帳』を詳細に調査すると、高岡郡多ノ郷村(おおのごうむら、現在の高知県須崎市多ノ郷)の条に、極めて特異な記述が見出されます。ある土地の記録に、耕作者の名ではなく、「御座(ござ)」という言葉が記されているのです 14 。多ノ郷村は、かつての津野氏の本拠地である津野荘にも近く 5 、歴史研究者の間では、この「御座」こそ、追放されたはずの津野定勝その人を指すものと考えられています 14

「御座」の意味の解読

「御座」という言葉は、単なる個人名ではありません。これは本来、神仏や天皇、あるいは高貴な人物が座る場所を指す言葉であり、転じてその人物自身への敬称としても用いられます。検地帳という、土地と耕作者を直接結びつけて年貢負担者を確定させることを目的とした行政文書に 38 、このような抽象的かつ敬意のこもった言葉が記されているのは、極めて異例なことです。

この一見不可解な記述は、長宗我部元親による高度な政治的判断の結果と解釈することができます。元親は、土佐統一後、旧領主やその家臣団、領民をいかにして自らの支配体制に組み込んでいくかという、統治の課題に直面していました。津野定勝の処遇は、その試金石の一つでした。

まず、定勝を「津野定勝」と個人名で検地帳に記せば、それは彼を単なる一介の土地所有者へと格下げすることを意味し、旧津野家臣団のプライドを傷つけ、不必要な反発を招く恐れがありました。かといって、彼に旧領主としての何らかの特権を認めれば、自らの支配体制の根幹を揺るがしかねません。

そこで元親が編み出したのが、「御座」という呼称を用いるという絶妙な解決策でした。この敬称を用いることで、元親は定勝の過去の身分に敬意を払うという「ポーズ」を示し、旧臣たちの面目を保たせました。同時に、「御座」という、いわば神格化された存在として彼を位置づけることで、直接的な土地支配からは完全に切り離し、実権を剥奪したのです。これは、定勝を実質的な「名誉隠居」あるいは「恩給受給者」として遇し、政治的に無力化する措置でした。武力で敵を制圧した後の「統治」の段階に入った元親の、支配者としての老練さ、成熟を示すものと評価できるでしょう。

第七章:終焉の地・多ノ郷

『長宗我部地検帳』の記述から、津野定勝が晩年を故郷である土佐で過ごした可能性が濃厚となりました。彼がその終の棲家とした多ノ郷村は、彼の処遇を巡る長宗我部元親の深謀遠慮をさらに裏付ける、象徴的な場所でした。

多ノ郷村の地理的・歴史的背景

定勝が晩年を過ごしたとされる多ノ郷村は、彼がかつて居城とした山深い姫野々城とは対照的に、須崎湾に面した沿岸部に位置します 7 。この地は、津野氏が勢力を拡大する原点となった「津野荘」の中心地であり、津野氏にとっては先祖代々の故地とも言える場所でした 5 。一方で、この地は長宗我部氏が土佐統一後に本拠地とした浦戸城(現在の高知市)からも海路で近く、監視が容易であるという戦略的な側面も持っていました。元親は、定勝を先祖ゆかりの地に帰還させるという温情を見せつつも、自らの監視下に置くことを怠らなかったのです。

津野氏の氏神・賀茂神社との関連

さらに注目すべきは、この多ノ郷村に、津野氏が代々氏神として篤く崇敬してきた賀茂神社(加茂大明神)が鎮座していることです 39 。伝承によれば、この神社は津野氏の祖先が勧請したとされています 40 。定勝がこの神社の膝下とも言える場所で余生を送ったことは、単なる偶然とは考えにくいです。元親は、定勝を俗世の領主の地位から引き離し、氏神の庇護下にある、いわば聖域の「隠居」として扱うことで、その存在を無害化しようとしたのではないでしょうか。旧領民にとって、旧主・定勝が氏神のそばで静かに暮らしているという事実は、新たな支配体制への不満を和らげ、旧領主への思慕の念を穏やかに昇華させる効果があったと推察されます。これは、武力だけでなく、人々の信仰や伝統をも巧みに利用した、元親の計算された支配術の一環であったと考えられます。

伝承と最期

こうして故郷の土に帰った津野定勝は、元和2年(1616年)頃、90歳を超える長寿を全うしてその波乱の生涯を閉じたと伝えられています 14 。彼の最期を具体的に物語る郷土の伝承は、現在のところ確認されていません。

一方で、定勝の追放後に家督を継いだ息子の勝興は天正6年(1578年)に没し、その後、津野氏の名跡は長宗我部元親の三男・親忠が養子として継ぎました 3 。しかし、この津野親忠もまた、元親の死後に勃発した長宗我部家の後継者争いに巻き込まれ、弟の盛親によって暗殺されるという悲劇的な最期を遂げます 2 。主家への忠義を貫いて追放された父・定勝。そして、新たな支配者に恭順することで家名を保とうとしながらも、結局は政争の渦に呑み込まれて断絶した津野氏本家。その対照的な運命は、戦国の世の無常を雄弁に物語っています。

終章:津野定勝という武将の再評価

津野定勝の生涯は、長宗我部元親による土佐統一という、より大きな歴史物語の中では、しばしば「時代の潮流を読めなかった頑固な旧守派」として、脇役的に語られがちです。しかし、彼の選択と行動を、当時の価値観と彼が置かれた状況に即して丹念に読み解くとき、その人物像はより深く、複雑な様相を帯びて浮かび上がってきます。

忠義と現実の狭間で

定勝の決断は、決して単なる時代錯誤の産物ではありませんでした。父・基高の代に確定した一条氏への臣従関係、そして自らの婚姻によって結ばれた血縁。これらに基づく主家への「忠義」は、彼が生きた時代の武士にとって、最も重要な道徳律の一つでした。彼は、新興勢力に媚びて安寧を得るという「現実」よりも、たとえ滅びようとも守るべき「名」を重んじたのです。それは、戦国という価値観が大きく転換する時代における、一つの誠実な、しかし悲劇的な生き方であったと評価することができます。彼を追放した家臣団の選択が、一族を存続させるための現実的な判断であったこともまた事実であり、どちらか一方を単純に断罪することはできません。この相克こそが、戦国乱世の厳しさそのものなのです。

歴史の記録から浮かび上がる人物像

本報告書では、『土佐物語』に代表される軍記物が描く「主家のために追放された悲劇の将」という物語的な側面と、信頼性の高い一次史料『長宗我部地検帳』が暗示する「『御座』として名誉ある処遇を受けた隠居」という実証的な側面を統合することで、津野定勝の立体的な人物像の再構築を試みました。彼は、政治の舞台からは強制的に退場させられたものの、その存在は最後まで無視できない重みを持ち続け、勝者である長宗我部元親にすら、特別な配慮を強いるほどの人物でした。追放されながらも、最終的には故郷の、それも先祖ゆかりの地で大往生を遂げたという事実は、彼の人生の複雑な結末を象徴しています。

歴史は、勝者や英雄の物語だけで紡がれるものではありません。津野定勝のような、歴史の主役とはなり得なかった人物の生涯を深く掘り下げることによって、私たちは初めて、戦国という時代の在地社会のリアルな動態や、大名による領国支配の巧緻な実態を、より鮮明に理解することができるのです。彼の生涯の探求は、土佐戦国史に、そして日本の戦国時代研究に、豊かで示唆に富む視点を提供してくれるに違いありません。

引用文献

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  5. 高知県葉山村 - 姫 野 々 城 跡 1 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/12/12938/10050_2_%E5%A7%AB%E9%87%8E%E3%80%85%E5%9F%8E%E8%B7%A1.pdf
  6. 津野荘(つののしょう)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%B4%A5%E9%87%8E%E8%8D%98-1186590
  7. 窪川+須崎:高幡地域縦断紀行。地味で地味で個性的な街を巡る+朝倉 (土佐市・須崎市) https://4travel.jp/travelogue/11914374
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  9. 姫野々城の見所と写真・100人城主の評価(高知県津野町) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/1099/
  10. 史(れきし) - 津野町観光ネット | 高知県 http://town.kochi-tsuno.lg.jp/tsunobura/rekishi/
  11. 第343回:姫野々城(土佐七雄 津野氏の本拠地) http://tkonish2.blog.fc2.com/blog-entry-366.html
  12. 津野元実(つの もとざね)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%B4%A5%E9%87%8E%E5%85%83%E5%AE%9F-1092522
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