15世紀半ばから17世紀初頭にかけての日本は、戦国時代と呼ばれる未曾有の政治的混乱と社会変動の時代であった。室町幕府の権威は失墜し、各地では守護大名や国人といった地域勢力が実力で領国を支配する「戦国大名」へと変貌を遂げ、あるいは新たな勢力が勃興した 1 。この時代を象徴する現象が「下剋上」、すなわち下位の者が上位の者を実力で凌駕し、その地位を奪う風潮であった。
近江国(現在の滋賀県)は、その地理的条件から、この戦国動乱において特に重要な位置を占めていた。東国と京、そして日本海沿岸を結ぶ交通の要衝であり、琵琶湖を中心とする水運も発達していた 3 。肥沃な土地は経済的にも豊かであり、この地を制することは天下の趨勢にも影響を与えうるため、多くの勢力がその支配を巡って激しく争った。
近江国では、伝統的に北近江を京極氏、南近江を六角氏という二つの守護家が分治していた。しかし、戦国時代の混乱の中でこれらの守護家の力も衰え、特に京極氏は内部抗争を繰り返し、その支配力は著しく弱体化していた 3 。このような権力の空白は、野心的な国人領主たちにとって、自らの勢力を拡大する絶好の機会となった。
かかる戦国時代の近江国に現れ、一介の国人から戦国大名へと駆け上がり、北近江に確固たる勢力を築き上げた人物が、本稿の主題である浅井亮政(あざい すけまさ、浅井勝政とも 9 )である。亮政の生年は延徳3年(1491年)、没年は天文11年(1542年)とされており、これが通説となっている 5 。一部史料には異なる生没年を記すものも存在するが(例えば、美濃出身の別人物に関する記述として 43 がある)、本稿では近江の浅井亮政に関する一般的な年代を採用する。
亮政は、戦国大名としての浅井氏初代当主であり、後に織田信長の妹お市の方を娶り、信長と激しく争ったことで知られる浅井長政の祖父にあたる 5 。彼の登場と活躍がなければ、浅井氏が「浅井三代」 6 と称されるような戦国大名としての地位を築くことはあり得なかった。まさに、亮政こそが浅井氏興隆の礎を築いた人物と言える。彼の生涯は、守護大名の権威が失墜し、実力主義が横行した戦国時代における典型的な下剋上物語の一つであり、その過程は当時の社会の流動性とダイナミズムを如実に示している。京極氏の被官という立場から、主家の内紛に乗じて巧みに立ち回り、ついには主家を凌駕して北近江の支配者へと成り上がった亮政の軌跡は、戦国という時代が生み出した英雄の一つの姿を我々に伝えている 3 。
浅井亮政の父は浅井直種(なおたね)と伝えられている 5 。浅井氏は元来、北近江の守護であった京極氏の「根本被官」、すなわち譜代の家臣であった 5 。亮政は、浅井氏の惣領家(本家)当主であった浅井直政の娘・蔵屋(くらや)を娶り、その養子となることで浅井一族の宗家を継承した 5 。これは単なる個人的な縁組に留まらず、亮政が浅井一族内の主導権を確立し、後の飛躍のための足場を固める上で極めて重要な意味を持った。戦国時代のような実力主義の世においては、まず自らの一族内部を強固にまとめ上げることが、外部勢力との競争を勝ち抜くための不可欠な前提条件であったからである。通称を新三郎、官途名を備前守と称した 5 。
亮政が歴史の表舞台に本格的に登場するのは、主家である京極氏の内部で深刻な権力闘争が顕在化した時期である。当時、北近江の守護であった京極氏は、家督相続問題を巡って一族内が分裂し、その支配力は著しく弱体化していた 3 。特に、京極氏の執権であった上坂家信が死去し、その子・信光が後を継いだ大永元年(1521年)以降、政情は一層不安定化した 6 。
この混乱を巧みに利用し、自らの勢力拡大の好機としたのが浅井亮政であった。彼の台頭は、単一のクーデターによるものではなく、周到な計算と状況に応じた柔軟な対応の積み重ねによって成し遂げられた。
決定的な転機となったのは、大永3年(1523年)に勃発した京極氏の家督相続争いであった。当主の京極高清が、嫡男の高広(高延とも)を疎んじ、次男の高慶(高吉とも)に家督を譲ろうとしたことが紛争の直接的な原因となった 5 。
この時、浅井亮政はまだ京極氏傘下の国衆の一人に過ぎなかったが、同じく国衆であった浅見貞則らと共に、高清の長男・高広の擁立を画策し、高清の計画に公然と反旗を翻した 5 。『江北記』によれば、亮政らは浅見貞則と謀り、小野江城に立てこもったとされる 6 。この結果、京極氏は二分され内戦状態となったが、最終的には亮政や浅見ら国衆側が勝利を収めた。高清は追放され、高広が京極家の家督を継ぎ、浅見貞則が執権の地位に就いたのである 5 。
しかし、高広政権下で執権となった浅見貞則が権勢を振るい始めると、亮政はこれを新たな障害と見なした 5 。彼はかつて対立した上坂信光と和睦し、さらには追放した京極高清とも手を結ぶという大胆な戦略転換を行う 6 。そして、浅見貞則を打倒し、京極氏内部における実質的な主導権を握るに至った 5 。この一連の動きは、亮政が単なる武辺者ではなく、状況に応じて敵味方を巧みに入れ替え、自らの政治的地位を向上させる高度な戦略眼を持っていたことを示している。
浅井亮政が北近江における最有力者としての地位を内外に示した象徴的な出来事が、天文3年(1534年)8月20日に行われた京極高清・高広親子を小谷の自邸に招いて催した盛大な饗応であった 5 。この饗応の様子は『天文三年浅井備前守宿所饗応記』に記録されている 5 。これは、かつての主君であった京極氏親子を、いわば自らの庇護下に置いたことを公に示すものであり、他の国人領主たちとは一線を画す亮政の権勢を北近江に知らしめるものであった。主家を傀儡化し、その権威を利用しつつ実権を掌握するという、下剋上の典型的な手法がここに見られる。
このように、浅井亮政は京極氏の内部抗争という絶好の機会を捉え、段階的に、しかし着実にその勢力を伸張させた。主家の弱体化に乗じ、時には同盟者を巧みに変え、最終的には主家をも凌駕する力を手に入れたのである。この過程は、戦国時代における権力闘争の冷徹さと、個人の才覚が如何に重要であったかを物語っている。
浅井亮政は、北近江における自らの本拠地として小谷城(現在の滋賀県長浜市)を定めた 3 。小谷城の築城者や正確な築城年については諸説あり、亮政自身が築いたとする説 8 や、『浅井三代記』が伝える永正13年(1516年)説 12 などがあるが、いずれにせよ、亮政の時代に浅井氏の政治・軍事の中心拠点として整備され、その後三代にわたる浅井氏の本城となったことは間違いない 3 。
小谷城は、標高約495メートルの小谷山に築かれた山城であり、その戦略的価値は極めて高かった。眼下には琵琶湖や湖北平野を一望でき、北国街道や中山道といった主要な陸上交通路を押さえる位置にあった 4 。また、前面には高時川や姉川が流れ、水運の利用も可能であった 4 。天然の地形を巧みに利用した堅固な城であり、後に日本五大山城の一つにも数えられるほどの要害であった 13 。
戦国時代において、堅固で戦略的に有利な位置にある本拠地を確保することは、領国の防衛と勢力拡大の両面において死活的に重要であった。小谷城の選定と整備は、浅井亮政が北近江に独立した勢力圏を確立しようとする強い意志の表れであり、その後の浅井氏の発展の基礎となった。この城を拠点として、亮政は南の六角氏や他の敵対勢力に対抗し、北近江の支配を磐石なものとしていったのである。
浅井亮政の生涯における主要年表
年代(和暦・西暦) |
主要な出来事 |
主な敵対/同盟勢力 |
亮政にとっての成果・意義 |
関連史料例 |
延徳3年(1491年) |
浅井亮政、誕生(通説) |
|
|
5 |
大永元年(1521年) |
京極氏執権上坂家信死去、子信光が継承し政情不安に |
|
後の介入の土壌形成 |
6 |
大永3年(1523年) |
京極高清の家督相続問題発生。亮政、浅見貞則らと高清の嫡男・高広を擁立し、高清を追放。 |
敵:京極高清、高慶。味方:浅見貞則、京極高広 |
京極氏内部での影響力増大、国人一揆の中核へ |
5 |
大永3年以降 |
執権となった浅見貞則が専横。亮政、上坂信光や京極高清と結び浅見貞則を打倒。 |
敵:浅見貞則。味方:上坂信光、京極高清 |
京極氏の実権掌握、北近江国人衆の盟主としての地位確立 |
5 |
大永5年(1525年) |
六角定頼、北近江へ侵攻。小谷城攻め。亮政、国人一揆の盟主となる。 |
敵:六角定頼 |
六角氏との本格的な抗争開始、一時越前へ退避するも帰国 5 |
5 |
享禄4年(1531年) |
箕浦合戦。六角氏に敗北。 |
敵:六角氏 |
軍事的敗北、勢力後退 |
16 |
天文2年(1533年) |
六角氏と和睦(『羽賀寺年中行事』)。今井秀信を誅殺。 |
敵:六角氏(和睦)、(今井秀信) |
一時的な和平、内部引き締め |
16 |
天文3年(1534年) |
京極高清・高広親子を小谷の宿所に招き饗応。 |
(京極高清、高広を庇護下に) |
北近江における浅井氏の優越的地位を内外に示す |
5 |
天文7年(1538年) |
京極高清死去。京極高慶、六角定頼と結び挙兵。佐和山合戦で六角軍と衝突、佐和山城陥落。小谷城近辺でも敗北。 |
敵:六角定頼、京極高慶 |
六角氏の優位確定、京極高慶の入部を許す |
6 |
天文10年(1541年) |
京極高広、亮政に反旗を翻す。 |
敵:京極高広 |
晩年の内憂 |
16 |
天文11年1月6日(1542年1月21日) |
浅井亮政、死去。 |
|
浅井氏初代当主の死、子・久政が家督相続 |
5 |
浅井亮政が北近江に確固たる勢力を築き上げる過程は、絶え間ない戦いと、生き残りのための巧みな外交交渉の連続であった。特に、南近江の強大な勢力である六角氏との抗争、そして北の越前朝倉氏との同盟は、浅井氏の運命を左右する重要な要素であった。
南近江の守護であり、京極氏よりも家格が高いとされた佐々木源氏の嫡流六角氏 9 は、北近江に勢力を伸張しようとする浅井亮政にとって最大の脅威であった 3 。亮政の生涯を通じて、六角氏、特に当主であった六角定頼との間には、数多くの軍事衝突が発生した 5 。
亮政は、大永5年(1525年)以降、六角氏による侵攻に幾度も直面し、その都度苦戦を強いられた 5 。時には敗北を喫し、越前国(現在の福井県)へ一時的に逃れることもあったと記録されている 5 。具体的な合戦としては、享禄4年(1531年)の箕浦(みのうら、現在の米原市)での敗北 16 が挙げられる。
さらに、天文7年(1538年)には、京極高清の死を契機として、その次男・高慶が六角定頼と結託して挙兵した。これに対し亮政は、佐和山城(現在の彦根市)の麓で六角軍と激突したが(佐和山合戦)、同年5月には佐和山城は六角方の手に落ちた 16 。同年9月には、亮政の本拠地である小谷城近辺でも戦闘が行われ、ここでも六角方が勝利を収めた。その結果、六角氏に有利な条件で和議が結ばれ、京極高慶が北近江に入部することを亮政は認めざるを得なかった 16 。
しかし、これらの敗北にもかかわらず、浅井亮政は驚くべき粘り強さで勢力を回復し、六角氏への抵抗を続けた。この背景には、後述する越前朝倉氏からの支援が大きく貢献していた 5 。また、史料によれば、天文2年(1533年)には六角氏と和睦したとされており(『羽賀寺年中行事』) 16 、亮政は単に武力に頼るだけでなく、外交交渉によって一時的な安定を図る柔軟性も持ち合わせていたことがうかがえる。六角氏との絶え間ない緊張関係は、浅井氏にとって過酷な試練であったが、同時にそれは浅井氏の軍事力を鍛え上げ、領国経営の巧緻化を促し、そして何よりも北近江の国人衆を浅井氏のもとに結束させる要因ともなった。亮政が敗北から立ち直り、抵抗を継続できた事実は、彼の不屈の精神と指導力を物語っている。
越前国を支配する朝倉氏は、浅井亮政にとって極めて重要な同盟者であった 3 。この同盟は、主に南の強敵である六角氏に対抗するという共通の戦略的利害に基づいて成立し、維持された。六角氏による度重なる侵攻に際して、朝倉氏は浅井亮政に軍事的な援助を提供したことが記録されている 5 。特に、亮政が六角氏に敗れて苦境に陥るたびに、朝倉氏に援軍を要請したと伝えられている 19 。
浅井氏と朝倉氏の関係は総じて「良好」であり 5 、この同盟は亮政の時代だけでなく、その孫である浅井長政の代まで継続し、戦国時代の政治状況に大きな影響を与えた 10 。北近江という地は、南の六角氏と北の朝倉氏という二大勢力に挟まれた緩衝地帯としての性格も持っていた。朝倉氏との同盟は、浅井氏にとって六角氏の圧力を相殺するための生命線であり、地政学的な安定をもたらす上で不可欠であった。この同盟なくして、新興勢力である浅井氏が強大な六角氏の攻勢に耐え、北近江における独自の勢力圏を確立することは困難であったろう。小国が大国間のバランス外交を巧みに利用して自立を保つという、戦国時代によく見られた戦略の一典型がここにも見て取れる。
浅井氏は、美濃国(現在の岐阜県南部)の斎藤氏とも婚姻を通じた同盟関係を築いていた。斎藤道三の子である斎藤義龍は、浅井亮政の娘(浅井久政の養女、実際には久政の妹で亮政の娘とされる)を正室に迎えている 20 。一部史料では彼女を久政の実の娘とするものもあるが、義龍の子・龍興の生年(天文16年(1547年)または17年(1548年)頃)から逆算すると、久政の娘では年齢的に無理があり、亮政の娘で久政の妹を、久政が養女として嫁がせたとする説が有力視されている 20 。
この婚姻は、亮政の存命中、あるいはその死後間もない時期に成立したと考えられ、その主な政治的背景には、やはり六角氏への対抗があった。斎藤道三に追放された美濃の旧守護・土岐頼芸が六角氏を頼ったことから、斎藤氏と六角氏の関係は険悪であった 20 。そのため、六角氏と敵対していた北近江の浅井氏と婚姻同盟を結ぶことは、斎藤氏にとっても、浅井氏にとっても、六角氏に対する牽制という意味で戦略的な意義があった。
しかし、この種の同盟は、戦国時代の常として、必ずしも永続的なものではなかった。亮政の跡を継いだ久政は六角氏に従属する時期があり、さらにその子・長政は六角氏に反旗を翻すなど、浅井氏の対六角政策は揺れ動いた。一方、斎藤義龍も後には六角氏との関係改善を図り、浅井氏との婚姻関係を解消した(離縁または死別と推定される)可能性が指摘されている 20 。この浅井・斎藤間の婚姻同盟は、当時の複雑な国際関係の中で、各勢力が自らの生き残りと勢力拡大のために、合従連衡を繰り返した戦国時代特有の外交戦略の一端を示すものである。それは永続的な信頼関係というよりは、状況に応じて結びつき、また解消される、極めて現実的で流動的なものであった。
浅井亮政の功績は、単に軍事的な成功や外交的な手腕に留まらない。彼は、京極氏の旧臣から戦国大名へと脱皮する過程で、北近江における新たな支配体制を構築し、その後の浅井氏三代の基礎を築いた。
亮政の台頭は、北近江の国人衆(在地武士団)を巧みに組織し、指導したことに負うところが大きい。彼は、当初は国人たちが結成した「国人一揆」の一員であったが、やがてその指導者となり、ついには主家である京極氏をも凌駕する存在へと成長した 3 。この過程は、単に他の国人衆を力で圧倒するだけでなく、彼らの利害を調整し、共通の目標(例えば対六角氏防衛)に向けて結束させる能力が必要であった。
国人一揆の盟主から、より集権的な戦国大名へと移行するにあたり、亮政は他の有力国人を自らの支配体制に組み込み、時には抵抗する者を排除することも厭わなかった 5 。戦国大名としての権力基盤を固めるためには、国人衆を単なる同盟者ではなく、家臣団として組織化する必要があったからである。この「対等な連合体の盟主」から「絶対的な支配者」への転換は、多くの戦国大名が経験した道であり、亮政もまたその困難な課題を遂行したのである。
浅井亮政の具体的な統治政策や経済政策に関する詳細な記録は、現存する史料からは断片的にしか窺い知ることができない。しかし、いくつかの点からその一端を推測することは可能である。
これらの断片的な情報から推測される亮政の統治は、戦乱の時代にあって領国の安定と経済力の維持・向上を目指す、現実的かつプラグマティックなものであったと考えられる。
戦国大名は、自らの領国を効果的に統治するために、独自の法規、いわゆる分国法(または家法)を制定することが一般的であった。浅井氏もまた、そのような法規を持っていたことが史料からうかがえる 24 。これらの条文が具体的にいつ、誰によって制定されたかを特定することは困難であるが、浅井氏が戦国大名として自立していく過程で、領国支配の根幹となる法整備が進められたことは間違いない。
現存する史料断片からは、以下のような内容の規定があったことが推測される。
これらの規定は、領国内の秩序を維持し、紛争を解決し、資源を管理し、そして何よりも大名の権威を領民や家臣に対して示すためのものであった。浅井亮政が北近江に新たな支配体制を築き上げる上で、このような法制度の整備に着手した可能性は十分に考えられる。それは、旧来の守護支配から、より体系的で実効性のある戦国大名による領国支配への移行を象徴するものであった。
浅井亮政の具体的な人物像や性格を、同時代の史料から詳細に描き出すことは容易ではない。しかし、いくつかの逸話や間接的な記録、そして後代の編纂物を通じて、その輪郭をある程度推し量ることは可能である。
浅井亮政の非情さ、あるいは戦国武将としての冷徹な判断力を示す逸話として、京極氏の有力家臣であった今井秀信の誅殺が伝えられている 17 。天文2年(1533年)頃、亮政が北近江での実権を掌握しつつあり、南からは六角氏の圧力が強まっていた時期に、今井秀信が六角氏に内通したという嫌疑がかけられた。
亮政は秀信を呼び出して謀殺し、その首を小谷城の城門近くにあった大岩の上に晒したとされる。この岩は後に「首据石(くびすえいし)」と呼ばれるようになったという 17 。この逸話が史実であるとすれば、亮政が支配を確立する途上において、裏切りや内通に対しては容赦ない態度で臨んだことを示している。戦国時代という、常に謀略や裏切りが渦巻く状況下では、このような断固たる措置が、他の家臣や国人衆への見せしめとなり、内部の結束を強め、支配体制を固めるために必要であったのかもしれない。この行為は、現代の価値観からすれば残酷であるが、当時の武将の行動原理としては理解できる側面も持っている。
浅井亮政の人物像を伝える同時代の一次史料は限られている。そのため、彼の評価は、後代に編纂された軍記物や記録類、そして現代の歴史研究に依拠する部分が大きい。
浅井亮政の正確な人物像を再構築することは、史料の制約から困難な作業であるが、彼の行動の軌跡――京極氏の内紛への巧みな介入、宿敵六角氏との粘り強い戦い、朝倉氏との戦略的同盟の締結、そして北近江における支配権の確立――は、彼が非凡な能力を持った戦国武将であったことを雄弁に物語っている。
浅井亮政の生涯は、戦国時代の北近江に大きな足跡を残したが、その死は浅井氏にとって一つの転換期となった。彼が築き上げた権力基盤は、後継者の力量によってその様相を大きく変えることとなる。
浅井亮政は、天文11年1月6日(西暦1542年1月21日)に死去した 5 。その墓所は、滋賀県長浜市の徳勝寺にあると伝えられている 5 。
亮政の死後、家督は息子の浅井久政が継承した 3 。この家督相続は、比較的円滑に行われたようである。その背景には、亮政晩年の浅井氏が六角定頼の強い影響下にあったことが関係している可能性が指摘されている 6 。
父・亮政とは対照的に、浅井久政は武勇や政治的手腕において劣っていたと評価されることが多い 10 。久政の時代になると、浅井氏の勢力は一時的に弱体化し、宿敵であった南近江の六角氏に従属する状態に陥った 3 。この従属の証として、久政の子(亮政の孫)である後の長政は、元服に際して六角氏の当主から一字を与えられ「賢政」と名乗ることを強要されたり、六角氏家臣の娘を正室に迎えさせられたりした 8 。
このような久政の弱腰な外交政策や指導力の欠如は、浅井家中の不満を高める結果となった。やがて、家臣団は若年の長政を擁立してクーデターを起こし、久政を隠居に追い込んだ 3 。当主となった長政は、六角氏からの自立を目指し、野良田の戦いなどで六角軍を破り、浅井氏の勢力を再興することになる。
亮政の築いた権力基盤も、指導者の力量次第で容易に揺らぐという戦国時代の非情な現実が、久政の時代の浅井氏の動向から見て取れる。亮政という卓越した指導者を失った後、浅井氏が一時的に衰退したことは、戦国大名家の存続がいかに当主個人の資質に依存していたかを物語っている。軍事力と政治的才覚が領主にとって最も重要な資質であり、それが欠如していると見なされれば、外部からの侵攻を招き、内部からの離反を引き起こす可能性が高かったのである。
浅井久政の時代に一時的な困難はあったものの、浅井亮政が成し遂げた最大の功績は、浅井氏を単なる京極氏の被官、一介の国人領主から、北近江を支配する独立した戦国大名へと押し上げたことである 3 。彼は、主家の内紛という好機を逃さず、巧みな戦略と時には非情な決断をもって、北近江における政治的・軍事的な主導権を確立した。
具体的には、以下の点が亮政の重要な功績として挙げられる。
これらの基盤があったからこそ、孫の浅井長政は後に織田信長と同盟を結び、そして対立するという、全国的な戦国史の舞台で重要な役割を演じることができたのである 6 。亮政がいなければ、浅井氏は歴史の片隅に埋もれた一地方勢力に過ぎなかった可能性が高い。彼はまさに、戦国大名浅井氏の「創業者」としての役割を果たしたと言える。
浅井亮政は、戦国時代の近江国に彗星の如く現れ、一代で浅井氏を戦国大名の地位にまで押し上げた稀有な人物である。彼の生涯と業績を振り返ることで、戦国という時代の特質と、その中で生き抜いた武将たちの姿がより鮮明に浮かび上がる。
浅井亮政の最大の功績は、主家であった京極氏の内部抗争を巧みに利用し、北近江の国人衆をまとめ上げ、独立した戦国大名としての浅井氏の基礎を築き上げた点にある。具体的には、戦略的拠点としての小谷城の確立、宿敵六角氏との粘り強い抗争、そして越前朝倉氏との間に築かれた強固な同盟関係が挙げられる。これらは、彼が卓越した政治感覚と軍事的才能を兼ね備えていたことを示している。
一方で、彼が直面した課題もまた大きかった。南には強大な六角氏が常に圧力を加え続け、北近江内部の国人衆の完全な掌握も容易ではなかった。彼が築いた権力基盤は、その死後、後継者久政の時代に一時的に揺らぐことからもわかるように、まだ盤石とは言えない側面も持っていた。戦国時代特有の権力構造の流動性と脆弱性は、亮政の築いた浅井氏の支配にも影を落としていた。
浅井亮政は、近江国の歴史において、北部に新たな独立勢力を確立したという点で、その政治地図を大きく塗り替えた重要な人物である。彼の登場は、伝統的な守護支配体制の崩壊と、実力主義に基づく新たな権力秩序の形成を象徴している。
より広い戦国史の文脈においては、亮政の生涯は「下剋上」という時代精神を体現した典型例として位置づけられる。一介の被官から身を起こし、主家を凌駕して戦国大名へと成り上がるその軌跡は、多くの戦国武将に共通するパターンであり、戦国時代のダイナミズムと社会の流動性を示している。
孫である浅井長政の影に隠れがちではあるが、亮政による基礎固めがなければ、長政が織田信長という中央の覇者と渡り合うことも、またお市の方との婚姻やその後の悲劇的な結末も起こり得なかったであろう。浅井亮政こそが、戦国大名浅井氏三代の歴史の真の創始者であり、その功績は再評価されるべきである。
浅井亮政に関する研究は、史料的な制約という課題を抱えている。『浅井三代記』のような後代の編纂物は、物語性が強く、史実との区別が難しい部分が多い 35 。一方で、『江北記』や各種古文書、そして考古学的発見などは、彼の時代の状況を明らかにする上で貴重な手がかりとなる。
今後の研究においては、亮政の具体的な領国経営、特に経済政策や家臣団統制の具体的なあり方について、さらなる史料の発掘と分析が期待される。例えば、彼が行ったとされる徳政令の具体的な内容や効果、用水支配や検地の実施状況、小谷城下町の発展過程など、未解明な点は少なくない( 3 といった史料群は、亮政の子孫や一般的な戦国期の慣行に触れるものが多く、亮政自身の具体的な政策についてはさらなる検証が必要である)。これらの点を明らかにすることで、浅井亮政という戦国武将の全体像、そして彼が生きた時代の地域社会の姿が、より深く理解されることになるであろう。