最終更新日 2025-07-15

溝口貞泰

戦国武将・溝口貞泰の生涯と『溝口家記』 — 信濃小笠原氏再興を支えた知勇兼備の忠臣

序章:乱世に生きた忠臣、溝口貞泰

日本の戦国時代は、数多の英雄や梟雄が覇を競った時代として知られるが、その華々しい歴史の陰には、主家の存亡を己が双肩に担い、黙々と忠節を尽くした無数の武士たちが存在した。本報告書で詳述する溝口貞泰(みぞぐち さだやす)もまた、そうした歴史の舞台裏で極めて重要な役割を果たした一人である。彼は、甲斐の武田信玄によって一度は故地を追われた信濃国の名門・小笠原氏の再興を、文武両面から支え抜いた「知勇兼備の忠臣」であった。彼の生涯は、主家の浮沈と密接に連動しており、戦国末期から江戸時代初期にかけての、激動の時代を生きた地方武士の生き様を象徴する、格好の事例と言える。

従来、溝口貞泰は「小笠原家臣。主君・貞慶の旧領復帰に尽力し、後に『溝口家記』を著した人物」として、断片的に知られるに過ぎなかった 1 。しかし、現存する史料を丹念に読み解くことで、その人物像はより立体的かつ鮮明に浮かび上がってくる。本報告書は、貞泰を単なる一介の武将としてではなく、第一に主家の領国経営を差配した有能な「官僚」として、第二に軍団を率いて敵と対峙した「侍大将」として、そして第三に自らが見聞した主家の歴史を後世に遺した「記録者」として、これら三つの側面から多角的にその実像を解明することを目的とする。彼の行動原理と、彼が遺した記録である『溝口家記』の史料的価値を徹底的に分析し、戦国乱世における忠臣の実像に迫るものである。

第一章:溝口氏の出自と信濃小笠原氏

溝口貞泰の生涯を理解する上で、まず彼が属した溝口氏の出自と、その主家である信濃小笠原氏との関係性を明らかにすることが不可欠である。彼の行動の根幹には、信濃に根差した小笠原氏の譜代家臣としての強い帰属意識が存在した。

第一節:清和源氏小笠原氏族としての淵源

溝口氏の系譜を辿ると、その源流は信濃国の名門・小笠原氏の一族に遡る。『信濃史源考』によれば、清和源氏の流れを汲む小笠原政長の子孫、三郎氏長が信濃国伊那郡溝口郷を領有し、その地名を姓としたのが信濃溝口氏の始まりであるとされる 2 。この事実は、彼の家系が古くから小笠原氏と深い繋がりを持つ、由緒ある家柄であったことを示している。

ここで特筆すべきは、戦国時代から江戸時代にかけて越後国新発田藩主として存続した溝口氏との明確な違いである。新発田藩主家は、清和源氏の中でも武田氏の流れを汲むと称しており 3 、その出自も尾張国中島郡溝口郷と伝えられている 4 。両者は同じ「溝口」姓を名乗りながらも、その系統は全く異なる。貞泰のアイデンティティは、あくまで信濃小笠原氏の家臣団という枠組みの中にあり、彼の生涯にわたる忠節の対象が小笠原家であったことの根源的な理由がここにある。

また、家紋からもその独自性を窺い知ることができる。『溝口家記』には、小笠原氏配下の諸将の家紋が記録されており、その中で自家の家紋を「松笠菱に井桁」と記している 2 。これは、主家である小笠原氏の定紋「三階菱」 5 や、越後溝口氏が用いたとされる「掻摺菱(かきずりびし)」 2 とも異なるものであり、小笠原家臣団の中で一定の独立性を保った家格であった可能性を示唆している。

溝口貞泰自身の直接の系譜については、小笠原氏の家臣であった溝口長友の八男として生まれたと記録されている 7 。父・長友は、小笠原宗家の当主・長時の弟で伊那郡鈴岡城主であった小笠原信定に仕えたとされ 2 、貞泰の代に至るまで、溝口家が代々小笠原氏に忠義を尽くしてきた譜代の家臣であったことがわかる。

第二節:主家・小笠原氏の盛衰と流浪

貞泰が仕えた小笠原氏は、鎌倉時代に初代・長清が源頼朝に仕えて以来、信濃守護職を世襲し、室町時代には弓馬の術と礼法を統合した「小笠原流」を確立するなど、武家の名門として栄華を誇った 5 。しかし、戦国時代に入るとその勢力に陰りが見え始める。

天文19年(1550年)、甲斐の武田信玄(当時は晴信)による苛烈な信濃侵攻の前に、小笠原氏は本拠地である深志城(後の松本城)を失陥。当主であった小笠原長時は信濃からの撤退を余儀なくされ、越後の上杉氏、次いで会津の蘆名氏などを頼って流浪の身となった 5 。この主家の没落は、貞泰ら家臣団にとっても苦難の時代の始まりであった。

長時の三男であった小笠原貞慶(幼名・小僧丸)は、わずか9歳で父と別れ、阿波の三好氏など各地を流浪する苦難の青年期を送った後、三河の徳川家康に仕えることとなる 5 。この約30年にも及ぶ雌伏の期間は、貞慶にとって旧領回復への執念を燃やす歳月であったに違いない。溝口貞泰が歴史の表舞台に登場するのは、まさにこの旧領回復運動が具体化する時期であり、主家の最も困難な時代を共に乗り越える運命共同体として、そのキャリアをスタートさせることになるのである。

第二章:主君・小笠原貞慶の旧領回復と貞泰の活躍

溝口貞泰の名が歴史上、明確な足跡として刻まれ始めるのは、天正10年(1582年)の小笠原貞慶による信濃旧領回復事業においてである。彼はこの未曾有の好機を逃さず、文武両面でその非凡な才能を発揮し、主家の再興に不可欠な存在となった。

第一節:「天正壬午の乱」と旧領回復の好機

天正10年(1582年)3月、織田信長の甲州征伐によって、長年にわたり信濃を支配してきた武田氏が滅亡した。しかし、そのわずか3ヶ月後の6月、京都で本能寺の変が勃発し、信長が横死すると、信濃国は巨大な権力の空白地帯と化した。この混乱は「天正壬午の乱」と呼ばれ、旧武田領の支配権を巡って、南から徳川家康、北から上杉景勝、東から北条氏直という三大勢力が侵攻し、激しく角逐する状況を現出した 11

この千載一遇の好機を、小笠原貞慶は見逃さなかった。彼は徳川家康の後援を取り付けると、各地に離散していた旧臣たちを糾合し、故郷信濃への帰還を果たす 9 。溝口貞泰は、この旧領回復を目指す貞慶の軍に、運動の初期段階から忠実に従っていたことが記録されている 7

第二節:深志城奪還と領国経営 — 文官としての手腕

貞慶の当面の目標は、かつての小笠原氏の本拠地であった深志城の奪還であった。当時、深志城は上杉景勝の支援を受けた貞慶の叔父・小笠原洞雪斎が押さえていた 14 。天正10年(1582年)7月、貞慶は徳川軍の支援を受けつつ、これを攻略。実に32年ぶりに府中小笠原氏の本拠地を奪還することに成功した。この時、貞慶は深志の名を「松本」と改め、これが現在の松本城の名の起こりとなった 5

深志城奪還という軍事行動の直後、貞泰が間髪を入れずに所領宛行や検地といった領国経営の中枢を担った事実は、彼の特異な能力を物語っている。新生小笠原領の安定化には、抵抗勢力の軍事的な鎮圧と、新たな支配体制の迅速な構築という二つの喫緊の課題が存在した。貞慶にとって、この文武にまたがる重要任務を、一人の信頼できる側近が統括できたことの利点は計り知れない。貞泰は、貞慶の「側近」として、回復した領地の安定化に不可欠な「所領の宛行(あておこない)」や「検地役」といった、極めて重要な政務(所務沙汰)を担ったのである 7 。これは、彼が単なる武人ではなく、新生小笠原領の骨格を築く行政官僚としての高い実務能力を備えていたことを証明している。

第三節:侍大将としての武功 — 武将としての勇名

貞泰は、領国経営という文官としての役割を果たす一方で、武将としても第一線で活躍した。深志城を回復した後も、信濃国内、特に筑摩郡や安曇郡の北部には上杉氏に通じる在地勢力の抵抗が根強く残っていた。小笠原氏にとって、これらの敵対勢力を制圧し、領内を平定することは急務であった。

その中でも特筆されるのが、天正10年8月から9月にかけて行われた日岐城(ひじきじょう、現在の長野県東筑摩郡生坂村)の攻撃である。日岐城は仁科氏の城郭の中でも随一の堅城とされ、小笠原軍は攻略に大いに苦戦した 15 。この重要な戦いにおいて、溝口貞泰は「侍大将」として主力部隊を率いて出陣している 7 。この戦いには、小笠原長継・貞朝といった小笠原一門の有力者も動員されており、9月には貞慶自らも府中から出馬するほどの総力戦であった 15 。このような重要な局面で侍大将という軍事指揮官を任された事実は、貞泰が小笠原軍団の中核をなす武将として、主君から絶大な信頼を寄せられていたことを示している。貞泰は、小笠原氏再興という事業全体の円滑な遂行を担う、いわば執行責任者のような役割を果たしていたのである。

第三章:貞慶の側近としての信任と小笠原家の激動

溝口貞泰が小笠原家中で占めた地位は、単なる有能な家臣という言葉では言い尽くせない。主君・貞慶との間には、戦国時代の主従関係としては異例とも言えるほどの固い絆が存在し、それは現存する史料からも具体的に確認することができる。

第一節:主君との固い絆を物語る史料

貞慶が貞泰に寄せていた信頼の厚さは、いくつかの一次史料から明確に読み取ることができる。その一つが、天正11年(1583年)3月24日付で貞慶が貞泰(当時は貞秀と名乗っていた)に与えた知行宛行状の案文である。これによれば、貞慶は「数代に亘る奉公、特にここ五年の奉公」に報いるとして、塩尻の千貫文、北熊野井(北熊井)の二百貫文という広大な所領を貞泰に与えている 7 。旧領を回復して間もない、財政基盤も盤石とは言えない時期に、これほどまでの厚遇を与えたことは、貞泰の功績がいかに破格のものであったかを物語っている。

年月日

宛行者

受領者

知行地

貫高

典拠史料

備考

天正11年(1583)3月24日

小笠原貞慶

溝口貞泰(貞秀)

塩尻

1,000貫文

宛行状案 7

数代にわたる奉公と、特に直近5年間の功績に対して。

(同上)

(同上)

(同上)

北熊野井

200貫文

(同上)

(同上)

さらに注目すべきは、天正17年(1589年)9月3日付で、主君である貞慶が家臣である貞泰に対して「起請文」を送っていたという記録の存在である 7 。起請文とは、神仏に誓って約束事を記す文書であり、通常は家臣が主君へ忠誠を誓うために提出するものである。主君から家臣へ、という逆の形式が取られたことは極めて異例であり、両者の関係が通常の主従の枠を超えた、強い相互信頼に基づいていたことを示唆している。この背景には、貞慶が何らかの重大な政治的・軍事的決断を下すにあたり、家中の中核をなす貞泰の絶対的な支持と協力を確約する必要があった、あるいは、家臣団内部の軋轢の中で、主君自らが貞泰の特別な立場を保証する必要があったなど、様々な状況が推測される。いずれにせよ、この起請文の存在は、溝口貞泰が単なる家臣ではなく、主君・貞慶が「盟友」として遇し、その意向が小笠原家の意思決定に不可欠な要素となっていた可能性を強く物語っている。

第二節:豊臣、徳川の間で揺れる主家の航路

貞慶と貞泰らの尽力によって再興を果たした小笠原家であったが、その前途は中央政局の激動と無縁ではいられなかった。天正壬午の乱において徳川家康の支援を受けた貞慶は、その証として嫡男の秀政(当時は貞政)を家康のもとへ人質として差し出していた。秀政は徳川家の重臣・石川数正に預けられていた 10

ところが天正13年(1585年)、その石川数正が突如として徳川家を出奔し、豊臣秀吉のもとへ走るという大事件が起こる。この際、人質であった秀政も数正に同行したため、小笠原氏は否応なく徳川方から離反し、豊臣政権に臣従するという政治的立場の大転換を迫られた 17

その後、天正18年(1590年)に豊臣秀吉が小田原北条氏を滅ぼして天下を統一すると、徳川家康は関東へ移封される。これに伴い、小笠原家も信濃の旧領を離れ、当主となっていた秀政が下総国古河(現在の茨城県古河市)に3万石で移封されることになった 9 。溝口貞泰も主君に従い、長年かけて回復した故郷信濃を再び離れることになったと考えられる。主家の度重なる政治的立場の変更と、それに伴う移封は、貞泰ら家臣団の生活にも多大な影響を与えたことは想像に難くない。

第四章:『溝口家記』の編纂とその歴史的価値

溝口貞泰の功績は、文武両面での活躍に留まらない。彼が後世に遺した最大の遺産は、自らの見聞を記録した『溝口家記』という一冊の書物であった。この記録は、彼の記録者としての一面を明らかにすると同時に、戦国時代の信濃史を研究する上で欠かせない貴重な史料となっている。

第一節:執筆の背景と献上

慶長13年(1608年)7月、溝口貞泰は『溝口家記』を執筆し、時の主君であった小笠原秀政(貞慶の子)に献上した 7 。一部の系図史料によれば貞泰は1539年生まれとされており 8 、これが正しければ、執筆当時は69歳という高齢に達していたことになる。長年の奉公を終え、晩年に差しかかった彼が筆を執った動機は、複合的なものであったと推測される。第一に、武田氏によって滅亡の淵に立たされた小笠原家が、いかにして再興を成し遂げたかという苦難の歴史と、その過程で功績を挙げた家臣たちの活躍を、次代の当主や後世に正しく伝えるという使命感。第二に、その中でも特に大きな役割を果たした自らの一族(溝口家)の忠節を記録し、家の名誉を後世に遺すという目的。そして第三に、主家の歴史を鑑とし、新当主である秀政への教訓とする意図があったと考えられる。

興味深いことに、貞泰は生涯で秀泰、貞秀、貞康、貞泰と複数回名を変えていることが知られている 7 。国立情報学研究所のデータベースには、「溝口貞康(ミゾグチ テイコウ)」の著作として『小笠原歴代略記 松本大變記』という書誌情報が存在する 19 。これは、貞泰が「貞康」と名乗っていた時期の著作、あるいは『溝口家記』そのものの異本か異名である可能性が考えられ、今後の研究が待たれる点である。

第二節:『溝口家記』の内容分析と比較史料学

『溝口家記』は、小笠原氏の歴史、特に武田氏との一連の戦いや、天正壬午の乱前後の詳細な動向、そしてその中で活躍した家臣団の働きについて、当事者の視点から詳述した貴重な家伝史料である。しかし、この種の家伝を読む際には、その記述が著者の立場や家の利害によって左右される可能性を常に念頭に置く必要がある。

実際に、『溝口家記』の記述を、同じく小笠原家臣であった二木氏が著した『二木家記』と比較すると、興味深い相違点が見られる。例えば、天文17年(1548年)の塩尻峠の戦いで小笠原長時が武田軍に大敗を喫した際、主君を裏切ったとされる人物について、『溝口家記』は西牧四郎左衛門と三村駿河守の名を挙げる。これに対し、『二木家記』では三村氏と山家氏が裏切ったとされており、記述に食い違いが見られる 20

このような記述の相違は、単なる記憶違いや情報の錯綜というだけではなく、小笠原家臣団内部に存在したであろう「歴史認識を巡る闘争」の痕跡と見ることもできる。家伝の執筆目的の一つには、自家の名誉を高め、他家の評価を相対的に下げるという側面が含まれることがある。この食い違いは、小笠原家臣団が一枚岩ではなく、内部に対立や派閥が存在し、過去の出来事の解釈を巡って溝口家と二木家が異なる立場にあった可能性を示唆している。貞泰が『溝口家記』を執筆した行為は、単なる過去の記録ではなく、自らの家(溝口家)の視点から見た「正史」を確立しようとする、ある種の政治的な営みであったと解釈することも可能である。

また、後世には『溝口家記』を増補・校訂した『増補溝口家記』という書物も存在し、『松本市史』の編纂過程などで参照されている 22 。これは、『溝口家記』が小笠原家の歴史を語る上で重要な基本史料として認識され、代々読み継がれ、補われていったことを示している。

第三節:後世への影響と史料としての生命

『溝口家記』は、その記述に著者である溝口家の立場が色濃く反映されていることを考慮する必要はあるものの、小笠原氏の歴史、とりわけ戦国末期の激動の時代を当事者の視点から知ることができる、一級の内部史料であることに疑いはない。

その価値は、近代以降の歴史学においても高く評価されている。『新編信濃史料叢書』 24 や『松本市史』 22 といった、信頼性の高い現代の歴史叢書や自治体史において、『溝口家記』は基本史料の一つとして採用されている。これは、同書が学術的な検証に耐えうる史料的価値を持つと、専門の研究者によって判断されていることの証左である。したがって、『溝口家記』を読む際には、そこに書かれている「事実」を鵜呑みにするのではなく、なぜ貞泰が「そのように書いたのか」という執筆の意図や背景を読み解く批判的な視点が求められる。史料の背後にある家臣団の力学や、著者の立場を考察することで、より深層的な歴史理解が可能となるのである。

結論:溝口貞泰の生涯と遺産

溝口貞泰の生涯を総括するならば、それは滅亡の淵にあった主家を、その類稀なる文武の才覚と揺るぎない忠誠心によって蘇らせた、理想的な家臣の軌跡であったと言える。彼は、単に武勇を誇るだけの武辺者でもなければ、机上の空論を弄するだけの文官でもなかった。戦場にあっては侍大将として軍を率いて敵を討ち、平時にあっては側近として領国を治め、そして晩年にはその全ての経験を後世に伝えるべく筆を執った。

彼の存在なくして、小笠原貞慶による天正10年の信濃旧領回復は、遥かに困難な道のりとなっていたであろう。貞泰の行政手腕がなければ、回復した領地はたちまち混乱に陥り、その軍事指揮官としての能力がなければ、領内に割拠する敵対勢力を平定することはできなかったかもしれない。

さらに、彼が遺した『溝口家記』は、単なる一個人の記録に留まらず、小笠原氏の歴史、ひいては戦国時代の信濃史を今に伝える貴重な水脈となった。他の史料との比較検討を通じて、我々は当時の複雑な人間関係や歴史認識を多角的に読み解くことができる。溝口貞泰は、自らの行動によって歴史を創り、そして自らの筆によって歴史を遺した、稀有な人物であった。彼は、華々しい大名たちの影に隠れがちな、しかし戦国の世を確かに支えた忠臣の鑑として、再評価されるべき存在である。

引用文献

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  2. 武家家伝_溝口氏 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/og_mizo.html
  3. 溝口秀勝の先祖と家系 http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/mizoguti1.htm
  4. 溝口氏とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E6%BA%9D%E5%8F%A3%E6%B0%8F
  5. 小笠原家 Ogasawara - 一般財団法人 小笠原財団 http://ogasawarafoundation.org/ogasawara03.html
  6. 小笠原氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E6%B0%8F
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  8. 信濃国武将 - 小助官兵衛の戦国史 http://koskan.nobody.jp/hoka.html
  9. 【戦国時代の境界大名】小笠原氏――名門武家、宿願のために三英傑の元を渡り歩く - 攻城団 https://kojodan.jp/blog/entry/2021/01/22/180000
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  22. 史跡小笠原氏城跡 保存活用計画 - 松本市 https://www.city.matsumoto.nagano.jp/uploaded/attachment/56646.pdf
  23. 史跡小笠原氏城跡保存活用計画 - 松本市 https://www.city.matsumoto.nagano.jp/uploaded/attachment/50567.pdf
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