溝尾茂朝(みぞお しげとも)。この名を聞いて、歴史愛好家の多くが思い浮かべるのは、主君・明智光秀の最期に寄り添った忠臣の姿であろう。通称を庄兵衛(しょうべえ)といい、光秀の側近として比類なき信頼を得ていた彼は、天正10年(1582年)の山崎の合戦に敗れた後、落ち延びる途上で致命傷を負った光秀の命を受け、介錯という最も過酷な役目を果たした。そして、主君の首を敵の手に渡さぬよう藪の中へ隠し、後を追って自害したと伝えられる 1 。この壮絶な最期は、彼の人物像の核をなし、後世に「忠義の士」としての印象を強く刻み込んできた。
しかし、この劇的な死は、あくまで彼の生涯の終着点に過ぎない。我々が知る溝尾茂朝像は、本能寺の変から山崎の合戦を経て彼が命を絶つまでの、わずか十数日間の出来事にそのほとんどが凝縮されている。彼の前半生や、明智家臣団の中で具体的にどのような役割を担ってきたのかについては、驚くほど知られていない。本報告書は、この断片的なイメージの先にある謎を解き明かし、一人の武将の生涯を立体的に再構築することを目的とする。
この調査を進める上で、避けては通れない最大の論点が、「溝尾茂朝」と「三沢秀次(みさわ ひでつぐ)」という武将が同一人物であるとする説の存在である 2 。もしこの説が正しければ、茂朝の経歴は飛躍的に広がりを見せる。彼は単に光秀の傍に仕える側近だっただけでなく、朝倉氏滅亡後の越前統治を担った織田家の代官であり、丹波平定戦の第一線で活躍した実務官僚としての顔を持っていたことになる。
本報告書は、この同一人物説の検証を一つの軸としながら、点在する史料の断片を繋ぎ合わせ、彼の生涯を時系列に沿って丹念に追っていく。これにより、「介錯人」という単一のイメージに留まらない、彼の武将としての多面的な能力と、激動の時代を生きた一人の人間の実像に迫る。
歴史の記録は、しばしば劇的な出来事や物語性の高いエピソードに光を当て、その陰にある地道な功績や日々の活動を覆い隠してしまう傾向がある。溝尾茂朝に関する記録が、彼の最期の瞬間に極端に集中しているのはその典型例と言える。一方で、三沢秀次としての記録は、それ以前の数年間にわたる行政官としての活動を伝えている 2 。この記録の偏りは、主君の滅亡がいかに有能な家臣の功績をも歴史の闇に葬り去りうるかという、戦国武士社会の過酷な現実を物語っている。本報告書は、その闇に光を当て、歴史の狭間に消えた忠臣の真の姿を浮かび上がらせる試みである。
溝尾茂朝の生涯の始点である生年については、記録によって揺れが見られる。天文7年(1538年)生まれとする説 2 と、天文12年(1543年)生まれとする説 1 が存在する。天正10年(1582年)に没した際の享年が45歳であったという記述 4 から逆算すると1538年説が有力と見なせるが、複数の説が存在すること自体が、彼の出自に関する記録が不確かであったことを示唆している。
彼の出自を解き明かす鍵は、前述の「三沢秀次」という名にある。三沢氏は、出雲国(現在の島根県)にルーツを持つ一族で、信濃源氏の流れを汲むともされる 2 。阿波徳島藩蜂須賀家に伝来した系図によれば、秀次の父とされる人物は出雲国亀嵩城主であったと記されており、茂朝が単に美濃出身の明智家臣という漠然とした存在ではなく、由緒ある武士団の系譜に連なる人物であった可能性が浮上する 2 。
「溝尾茂朝」「溝尾庄兵衛」「三沢秀次」といった複数の名が、なぜ一人の人物を指し示す可能性があるのか。これを理解するためには、当時の武家社会における姓名の複雑な慣習を知る必要がある。現代の我々が用いる「姓名」とは異なり、当時の武将は複数の名を状況に応じて使い分けていた 7 。
この慣習に照らせば、「三沢」が彼の本来の家系を示す名字であり、「溝尾」は明智家に仕える中で居住した地名や、功績によって光秀から与えられた新たな名字であった可能性が考えられる。そして「庄兵衛」が日常の呼び名、「茂朝」や「秀次」が実名ということになる。
これらの呼称を整理するため、以下の表を作成する。
呼称の種類 |
具体的な名前 |
典拠・備考 |
名字(本姓か) |
三沢(みさわ) |
『朝倉記』などで確認される。出雲国の武士団の系譜 2 。 |
名字(通称か) |
溝尾(みぞお) |
『明智軍記』など後代の軍記物で多用される。光秀から与えられた姓とも 4 。 |
通称 |
庄兵衛(しょうべえ) |
最も一般的に知られる呼び名。勝兵衛とも 2 。 |
諱 |
茂朝(しげとも) |
主に後代の記録や創作物で見られる実名 5 。 |
諱 |
秀次(ひでつぐ) |
越前統治時代の記録に見られる実名。秀儀とも 2 。 |
一人の武将が複数の名字を持つことは、彼が属する共同体や果たすべき役割に応じて、自己のアイデンティティを使い分けていた証左とも言える。「三沢」という名は、彼の出自や血縁のネットワークにおける立場を示し、「溝尾」という名は、明智家臣団という新たな共同体における地位を象徴する。そして「庄兵衛」という通称は、日々の職務における彼の公的な顔であった。彼の生涯の複雑さは、その名前の多様性に既に現れているのである。
溝尾茂朝と三沢秀次を同一人物と仮定すると、彼のキャリアは天正元年(1573年)まで遡ることができる。この時期、彼は「三沢庄兵衛秀次」として、織田信長の天下統一事業の最前線で、高度な実務能力を発揮する行政官として活躍していた。
天正元年(1573年)8月、信長は長年の宿敵であった越前の朝倉義景を滅ぼした。戦後処理と新領土の統治のため、羽柴秀吉、明智光秀、滝川一益という重臣たちが現地へ派遣される。そして、彼らが去った後、織田家の代官として北ノ庄(現在の福井市)に留め置かれたのが、木下祐久、津田元嘉、そして明智光秀の代官である「三沢庄兵衛」であった 2 。
この時、越前の名目上の支配者である守護代には、元朝倉家臣の桂田長俊が任じられていた。しかし、統治の現実は大きく異なっていた。『朝倉記』などの史料によれば、寺社領の安堵状や年貢・諸公事の収納許可状は、桂田ではなく、三沢ら三人の代官の連署によって発行されていた 2 。これは、越前支配の実権が彼ら代官衆にあり、三沢秀次が単なる武人ではなく、占領地の民政を担う高度な行政スキルを持った官僚であったことを明確に示している。
しかし、彼の越前でのキャリアは順風満帆ではなかった。天正2年(1574年)1月、圧政に反発した現地の国人衆と一向宗門徒が蜂起し、越前一向一揆が勃発する。一揆勢はまず守護代の桂田長俊を討ち取ると、その矛先を北ノ庄の三代官に向けた 2 。
北ノ庄城に立てこもった三沢らは、瞬く間に数万の一揆勢に包囲され、絶体絶命の窮地に陥る。しかし、彼はここで冷静な判断を下した。現地の有力者であった朝倉景胤らの仲介を受け入れ、一揆勢と和睦。城を明け渡すことを条件に、命からがら京都へと逃走したのである 2 。この敗走は彼の経歴における一つの汚点かもしれないが、無謀な玉砕を選ばず、現実的な判断で危機を脱したとも評価できる。この経験は、彼の完璧な忠臣像に、より人間的な深みを与えるものであろう。
京都へ帰還した三沢秀次は、主君・光秀が心血を注いでいた丹波平定事業に従軍する。ここでも彼の行政官としての能力は遺憾なく発揮された。天正4年(1576年)には、光秀が丹波国内の村落に宛てて発給した安堵の判物に、添状を発している記録が残っており、彼が継続して文書行政の中枢に関わっていたことがわかる 2 。
また、彼は単なる文官ではなかった。天正7年(1579年)、難攻不落の八上城攻略が大詰めを迎えると、光秀の使者として丹後国の武将・和田弥十郎のもとへ赴き、落城後の丹後侵攻への協力を要請している 2 。これは、彼が軍事作戦の最前線で、外交交渉や伝令という重要な役割も担っていたことを示している。丹波平定後、光秀が築城した周山城では、城内の重要な郭に「三沢庄兵衛」が屋敷を与えられており、彼が丹波統治における中核メンバーの一人として重用されていたことは疑いようがない 2 。
以下の年譜は、「三沢秀次」としての記録と、後に見られる「溝尾茂朝」としての記録が、一人の人物の経歴として見事に連続していることを示している。
年(西暦/和暦) |
「三沢秀次」としての活動記録(典拠史料) |
「溝尾茂朝」としての活動記録(典拠史料) |
|||
1573年(天正元年) |
朝倉氏滅亡後、光秀の代官として越前北ノ庄に着任(『朝倉記』) 2 |
|
|||
1574年(天正二年) |
越前一向一揆に敗れ、北ノ庄を明け渡し京都へ逃走(『朝倉記』) 2 |
|
|||
1576年(天正四年) |
丹波平定戦に従軍。光秀の判物に添状を発給 2 |
|
|||
1579年(天正七年) |
八上城攻めの際、光秀の使者を務める。周山城に屋敷を構える 2 |
|
|||
1582年(天正十年) |
|
5月:徳川家康饗応役の実務を指揮 10 |
6月1日:亀山城での謀反の密議に参加 12 |
6月2日:勝竜寺城の守備を命じられる 12 |
6月13日:山崎の合戦で先鋒を務め、敗走。光秀を介錯し自害 4 |
このように、「三沢秀次」の記録が途絶える天正7年以降、入れ替わるように「溝尾茂朝」としての活動が顕著になる。これは、両者が同一人物であるという説を強力に裏付ける状況証拠と言えるだろう。
丹波平定が成り、明智光秀が織田家中で最大級の領土を持つ有力大名へと飛躍を遂げる頃、歴史の記録における彼の名は「三沢秀次」から「溝尾茂朝」へと移り変わっていく。彼はもはや織田家の代官ではなく、明智家の宿老として、主君の運命を左右する重大な局面に関与していくことになる。
溝尾茂朝は、明智秀満、斎藤利三、藤田行政らと並び、明智家の最高幹部である「明智五宿老」の一人に数えられている 2 。また、光秀がまだ織田信長に仕える以前、放浪の身であった頃から付き従っていた最も古い家臣の一人であったとも伝えられており 9 、その長年にわたる忠勤こそが、彼を家臣団の筆頭格である宿老の地位にまで押し上げた原動力であったと考えられる。
天正10年(1582年)5月、武田氏を滅ぼした信長は、戦功のあった徳川家康を安土城に招き、盛大な饗応(きょうおう)を行うことを決定した。この国家的な一大イベントの接待役という大役を命じられたのが、明智光秀であった。そして、この饗応の準備から実行まで、現場の実務一切を取り仕切ったのが溝尾茂朝であったと記録されている 10 。
これは、彼のキャリアにおいて極めて重要な意味を持つ。家康の饗応は、織田政権の威光を内外に示すための国家的行事であり、些細な失敗も許されない。その実務責任者に任命されたということは、光秀が茂朝の行政手腕と管理能力に絶対の信頼を置いていたことの証左に他ならない。越前統治で培われた彼の能力は、この大舞台で遺憾なく発揮されたのである。
家康饗応役を解任された光秀は、羽柴秀吉の援軍として中国地方へ出陣するよう命じられる。そして天正10年6月1日夜、出陣の拠点であった丹波亀山城で、歴史を揺るがす決断が下された。『惟任退治記』などの信頼性の高い史料によれば、この夜、光秀は重臣たちを集め、「信長を討ち果たし、天下の主となろう」と、謀反の決意を打ち明けた 12 。この密議の場に、明智秀満、斎藤利三らと共に、溝尾茂朝も列席していた 9 。
彼は、主君の生涯を賭した大博奕の計画を、その最初期から共有した中枢の人物であった。これは、彼が単なる命令の実行者ではなく、主君と運命を共にする覚悟を持った、真の腹心であったことを物語っている。
6月2日未明、本能寺を急襲し、信長を討ち果たした光秀は、直ちに次の行動に移る。安土城の確保へ向かうにあたり、光秀は後方の重要拠点である勝竜寺城の守備を溝尾茂朝に命じた 12 。
勝竜寺城は、京都と西国を結ぶ交通の要衝であり、中国地方から驚異的な速さで引き返してくるであろう羽柴秀吉軍を迎え撃つための最前線基地であった。この戦略的に極めて重要な拠点を任されたという事実は、光秀が茂朝の忠誠心のみならず、その軍事的能力をも高く評価していたことを示している。
本能寺の変を境に、溝尾茂朝の役割は大きく変貌を遂げた。それまでは主君を支える「補佐役」「事務方」としての側面が強かったが、謀反の計画から実行段階にかけて、彼は軍事行動の中核を担う「実行者」へとその姿を変えた。平時における有能な行政官であり、同時に、非常時においては主君の野望を実現するための司令官としても機能する、万能型の武将。それこそが、溝尾茂朝の実像であった。彼の生涯のクライマックスは、この「実行者」として駆け抜けた十数日間に凝縮されている。
本能Gojiの変からわずか11日後の天正10年6月13日、明智光秀の運命を決する戦いの火蓋が切られた。世に言う山崎の合戦である。溝尾茂朝は、この決戦において、そして続く敗走の中で、主君への最後の忠義を尽くすことになる。
山崎の地で羽柴秀吉の大軍と対峙した明智軍。その布陣において、溝尾茂朝は極めて重要な役割を担った。彼は明智軍の第一番隊、すなわち先鋒部隊の司令官として、敵陣の先駆けを務めたと伝えられている 10 。先鋒は軍の士気を左右する最も名誉ある役目であり、これを任されたことは、彼の武勇と統率力が家中で高く評価されていたことの証である。彼は、文官としての能力だけでなく、一軍を率いて敵陣に切り込む武人としての側面も兼ね備えていた。
しかし、兵力と士気で勝る秀吉軍の前に、明智軍は奮戦むなしく敗北を喫する。戦の趨勢が決すると、光秀は再起を期すべく、居城である坂本城を目指して戦場を離脱した。この絶望的な逃避行に、溝尾茂朝をはじめとする数名の側近が付き従った 4 。
一行は、勝竜寺城から淀川右岸を北上し、山城国小栗栖(おぐるす、現在の京都市伏見区)の竹藪に差し掛かった。ここで、彼らを悲劇が襲う。『明智軍記』などの軍記物によれば、一行が狭い道を進んでいたところ、潜んでいた落ち武者狩りの土民が竹槍で襲いかかった。そして、その不意の一撃が、光秀の脇腹を深く貫いたのである 13 。
致命傷を負ったことを悟った光秀は、もはやこれまでと自害を決意する。そして、傍らにいた溝尾茂朝に、介錯を命じた 11 。主君の首を自らの手で落とす。それは、家臣にとって最も過酷で、そして最も純粋な忠義の形であった。この瞬間、二人の主従関係は、極限状況下でその究極の姿を見せたと言える。
いくつかの記録によれば、光秀はこの時、懐から一紙を取り出し、茂朝に託したという 15 。そこに記されていたのが、彼の辞世の句とされる漢詩であった。
逆順二門に無し 大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来れば 一元に帰す
(『明智軍記』 16 )
「世の道理に従うも逆らうも、本質的な違いはない。人の進むべき真の道は、我が心にこそ通じている。五十五年の人生も夢のようなもの。今その夢から覚め、万物の根源へと帰るのだ」と解されるこの詩は、信長を討ったことへの後悔も、秀吉に敗れたことへの無念も見せず、自らの意志を貫いた者の静かな覚悟を示している。これが事実であれば、茂朝は光秀の肉体的な最期のみならず、その精神的な最期にも立ち会った、唯一の証人であったことになる。
茂朝は主君の命令通り、その首を打ち落とし、最後の忠勤を果たした。小栗栖の竹藪に響いた刃の音は、明智光秀の天下、そして溝尾茂朝の人生の終わりを告げるものであった。
主君・光秀の介錯という大役を果たした後、溝尾茂朝自身はどのような最期を遂げたのか。そして、彼が守ろうとした光秀の首はどこへ消えたのか。この点に関しては、史料や伝承によって記述が異なり、今なお多くの謎に包まれている。
茂朝自身の最期については、大きく分けて二つの説が存在する。
どちらの説が真実であるかを断定することは困難だが、いずれにせよ、彼が主君への忠義を貫いて死んだことに変わりはない。
茂朝が命を懸けて守ろうとした光秀の首の行方についても、複数の伝承が各地に残されている。
これらの伝承の多様性は、単なる情報の混乱として片付けるべきではない。むしろ、それは明智光秀という人物が、後世においていかに多面的に評価されてきたかを反映している。秀吉側の視点では、彼は討たれるべき「逆賊」であった。しかし、彼が治めた丹波のような地域では、その死を悼むべき「名君」であった。溝尾茂朝の最期の行動は、これらの対立する「光秀像」を形成する上で、極めて重要な核となっている。彼が首を守りきれたか否かという問いは、光秀を英雄と見るか逆賊と見るかという、後世の人々の視線の対立そのものを象徴しているのである。
主君と共に滅び去ったかに見えた溝尾茂朝。しかし、その血脈と忠義の記憶は、意外な形で後世へと受け継がれていく。
本能寺の変の後、明智一族は秀吉によって徹底的に滅ぼされた。しかし、茂朝(三沢氏)の血筋は、この過酷な粛清を生き延びていた。その背景には、明智家と深い縁を持つ一人の女性、春日局(かすがのつぼね)の存在があった。
春日局は、茂朝と同じく明智五宿老の一人であった斎藤利三の娘である。彼女は後に三代将軍・徳川家光の乳母として絶大な権勢を誇ることになるが、その推挙により、茂朝の縁者とされる「三沢局(みさわのつぼね)」が、四代将軍・家綱の乳母に抜擢されるという驚くべき後日談が伝わっている 2 。逆臣の家臣の縁者が、徳川将軍家の奥深くに入り込んだという事実は、歴史の皮肉を感じさせる。
また、別の一族は阿波徳島藩主の蜂須賀家に仕え、武士としての家名を存続させた記録も残っている 2 。主君に殉じた茂朝の忠義が、何らかの形で評価され、一族の再興に繋がったのかもしれない。
溝尾茂朝は、その劇的な最期から、光秀を題材とした映画やテレビドラマなどの歴史創作物にも度々登場してきた 4 。その多くは、やはり小栗栖で光秀の介錯を行う忠臣という役回りに集約される。しかし、彼の知られざる前半生、すなわち三沢秀次としての行政官としての活躍が研究で明らかになるにつれ、今後はより深みのある人物として描かれることが期待される。
本報告書を通じて明らかになった事実を統合すると、溝尾茂朝の人物像は、従来の「忠臣」という一言では到底語り尽くせない、多面的なものであることがわかる。
第一に、彼は主君への絶対的な忠誠心を抱く、熱い情念を持った武士であった。小栗栖での最期は、その紛れもない証明である。
第二に、彼は極めて有能な行政官僚であった。朝倉氏滅亡後の越前統治や、徳川家康の饗応役といった大任をこなし、文書行政にも通じていた。光秀の領国経営が安定していた背景には、茂朝のような実務能力の高い家臣の存在が不可欠であった。
第三に、彼は戦場にあっては一軍を率いる軍人でもあった。丹波平定戦での前線での活動や、山崎の合戦で先鋒を務めた事実は、彼の武人としての一面を物語っている。
冷静な判断力を備えたテクノクラートの顔と、主君のためには死をも厭わない熱き魂。この二つを高いレベルで兼ね備えていたことこそ、溝尾茂朝という武将の本質であったと言える。彼は、明智光秀という非凡な主君が最も信頼し、その栄光と没落の双方を支えた、第一級の家臣であった。
本報告書の調査は、日本の歴史上、最も劇的な事件の一つである本能寺の変において、中心人物の傍らで重要な役割を果たしながらも、その生涯の多くが知られてこなかった一人の武将、溝尾茂朝の実像に光を当てることを目的としてきた。
調査の結果、彼は単に主君の最期を看取った「介錯人」という存在に留まらない、極めて有能かつ多才な人物であったことが明らかになった。特に、「三沢秀次」との同一人物説を軸に彼の経歴を再構築することで、織田政権下で越前統治や丹波平定といった重要政策に深く関与した行政官僚としての一面が浮かび上がった。この視点なくして、彼の生涯、そして明智家臣団における彼の真の価値を理解することは不可能である。この説を受け入れることで、彼の人物像は飛躍的に豊かになる。
溝尾茂朝の生涯は、歴史の大きな物語の陰に、いかに多くの個人の生と死、そして彼らが果たした重要な役割が埋もれているかを示している。彼の人生を丹念に追う作業は、光秀の栄光と没落の軌跡を、より人間的な解像度で捉え直すことに繋がる。断片的な史料を繋ぎ合わせ、矛盾する伝承を比較検討する中で、一人の人間の実像が鮮やかに蘇る。溝尾茂朝の探求は、歴史研究の醍醐味が、まさにこうした地道な作業の中にあることを我々に教えてくれる好例と言えよう。彼の忠義の物語は、これからも多くの人々の心を打ち続けるに違いない。