戦国時代末期、越前国は歴史の巨大な転換点の渦中にあった。長きにわたりこの地を支配した名門・朝倉氏の権勢は翳りを見せ、天下布武を掲げる織田信長の勢力が目前に迫っていた。そして、その背後からは、宗教的情熱と土着のエネルギーが融合した越前一向一揆の激しい波が押し寄せていた。この三つの巨大な力が激突する越前の地で、一人の武将が時代の奔流に翻弄され、その生涯を終えた。その名は溝江長逸(みぞえ ながやす)。
彼は、朝倉氏の忠実な家臣として国境を守り、主家滅亡の際にはいち早く新たな覇者・織田信長に帰順して時流を掴んだかに見えた。しかし、旧来の因縁と新時代の混乱は、彼に束の間の栄光しか許さなかった 1 。やがて彼は、自らが守り続けた故郷の地で、一向一揆の圧倒的な力の前に一族と共に散ることとなる。
本報告書は、溝江長逸という一人の武将の生涯を、現存する史料を基に丹念に追跡するものである。彼の出自から、朝倉家臣としての活動、そしてその悲劇的な最期と一族のその後までを詳細に分析することで、戦国時代における地方豪族の過酷な実像と、時代の激動に抗い、あるいは飲み込まれていった人間たちのドラマを浮き彫りにすることを目的とする。溝江長逸の物語は、単なる一個人の戦死の記録ではなく、一つの秩序が崩壊し、新たな動乱が始まる時代の象徴的な出来事として、我々に多くを語りかけるであろう。
溝江長逸の生涯を理解するためには、まず彼が属した溝江一族のルーツと、彼らが越前国で担っていた特異な役割を明らかにする必要がある。
溝江氏の出自は、実のところ明確ではない 3 。江戸時代に作成された系図などでは、越前の戦国大名・朝倉氏の庶流、すなわち分家であると記されていることが多い 3 。しかし、これは後世に家の権威を高めるために行われた修飾の可能性も否定できず、同時代の一次史料による裏付けは存在しない。
むしろ、彼らが本拠とした越前国坂井郡溝江郷(現在の福井県あわら市)の歴史的背景は、この説に疑問を投げかける。この地域は、もともと朝倉氏と守護代の地位を争った甲斐氏の支配領域であった 2 。朝倉氏が甲斐氏を打倒し、この地を完全に掌握したのは文明四年(1472年)前後のことである 2 。
溝江氏が歴史の表舞台に確かな形で登場するのは、その約20年後、明応五年(1496年)のことである。興福寺大乗院の記録である『大乗院寺社雑事記』に、「溝江郷 溝江殿朝倉党也」という一文が見える 2 。これが、史料上で確認できる溝江氏の初見であり、彼らの歴史的出発点となる。
この記述は極めて示唆に富む。「朝倉氏庶流」ではなく「朝倉党」と記されている点は重要である。これは、溝江氏が血縁的な繋がりを持つ分家というよりも、朝倉氏が新たに獲得した領地を支配し、統治するために送り込んだ、あるいは現地で新たに取り立てた、信頼の厚い譜代の家臣団(党)であったことを強く示唆している。つまり、彼らのアイデンティティは血の繋がりよりも、朝倉政権下における「機能」、すなわち特定の役割を担う戦略的エージェントとして規定されていた可能性が高い。この出自の特性が、後の彼らの忠誠心と運命を方向づけていくことになる。
溝江氏の居館は金津城、または溝江館と呼ばれ、現在の福井県あわら市大溝にその跡地が比定されている 2 。この地は、単なる地方領主の館ではなかった。その地理的位置が、溝江氏に特別な役割を与えていた。
金津は、加賀国との国境に位置する。当時の加賀は「百姓の持ちたる国」と称され、浄土真宗本願寺教団(一向宗)の門徒たちが強大な勢力を築き、守護の富樫氏を滅ぼして事実上の自治を行っていた。そのため、朝倉氏にとって越前と加賀の国境線は、常に一向一揆勢力の侵攻に備えなければならない最前線であった 2 。金津城は、まさにその防衛ラインの要となる拠点だったのである。
史料によれば、溝江氏は代々この地で一向一揆との戦いに明け暮れ、軍功を重ねることで朝倉家中での地位を確立していったと記されている 5 。これは、金津という土地が「平和を知らない土地」であったことを意味する。溝江一族は、常に臨戦態勢を強いられる武門としての性格を強く帯び、その武勇こそが彼らの存在価値そのものであった。
しかし、この地理的宿命は、諸刃の剣であった。朝倉氏という巨大な防波堤が存在する限り、彼らの武勇は称賛され、勢力を伸長させる源泉となった。だが、ひとたびその防波堤が失われた時、彼らは真っ先に一向一揆の激流に飲み込まれる運命にあった。金津という土地の地政学的特性が、溝江氏の存在意義を規定し、後の栄光と悲劇の両方を準備したのである。
本報告書で言及される溝江一族の主要な人物の関係を以下にまとめる。この系図は、一族が辿った劇的な運命の変転を理解する助けとなるだろう。
世代 |
人物名 |
続柄・役職 |
備考 |
典拠 |
1 |
溝江景逸 |
長逸の父 |
天正二年(1574年)、長逸と共に金津城で自刃。 |
2 |
2 |
溝江長逸 |
本報告書の主人公 |
朝倉家臣、金津城主。官位は大炊助。天正二年に自刃。 |
1 |
2 |
辨栄 |
長逸の弟 |
菩提寺・妙隆寺の住職。兄と共に金津城で自刃。 |
8 |
3 |
溝江長氏(長澄) |
長逸の子 |
落城を脱出し、豊臣秀吉に仕え大名として家を再興。 |
2 |
4 |
溝江長晴 |
長氏の子 |
関ヶ原の戦いで西軍に属し改易。後に彦根藩士となる。 |
4 |
溝江長逸は、主君・朝倉義景の治世下で、朝倉家臣団の一員として活動した。彼の家臣団内での立場や具体的な行動を分析することは、彼の人物像をより深く理解する上で不可欠である。
永禄十一年(1568年)、後の室町幕府十五代将軍・足利義昭が、織田信長を頼る前に朝倉義景を頼って越前に下向した。その際、義景は義昭を歓迎する盛大な饗応の席を設けた。この時の席次を記録した史料に、溝江長逸の名が見える。しかし、その場所は末席であった 14 。
饗応の席次は、当時の武家社会における家格や一門内での序列を厳格に反映するものであった。長逸が末席であったという事実は、溝江氏が朝倉一門衆の中でも中核的な家柄ではなく、家格としては決して高くなかったことを示している。これは、第一章で考察した、溝江氏が血縁よりも機能性を重んじられて登用された「朝倉党」であったという説を補強するものである。
しかし、この形式的な序列の低さと、彼が実際に担っていた役割の重要性との間には、大きな乖離があったと考えられる。後述する堀江景忠の追放事件において、彼は主君の命令を実行する重要な役割を担っている。また、国家の存亡に関わる対一向一揆の最前線を任されていた事実からも、彼の軍事的・実務的な重要性は、饗応の席次が示す以上に高かったことは疑いようがない。
したがって、溝江長逸は、朝倉家臣団の中で、伝統的な家格は高くないものの、国境防衛という実務において不可欠な能力を持つ、実力派の武将であったと評価できる。この「家格」と「実力」のギャップこそが、彼の人物像と行動原理を理解する上での鍵となる。
永禄十年(1567年)、朝倉家中を揺るがす事件が起こる。加賀国に駐在していた朝倉氏の重臣・堀江景忠に謀叛の風聞が立ったのである 1 。これに対し、主君・義景の命を受けた溝江長逸は、父・景逸と共に兵を率いて堀江景忠を攻撃し、彼を越前から追放した 14 。この事件は、軍記物である『朝倉始末記』にも記されている 15 。
「風聞」という不確かな情報に基づいて、同僚の重臣を武力で攻撃し追放するという行為は、尋常ではない。これは、当時の朝倉家中に深刻な派閥対立が存在し、政敵を排除するための口実として「謀叛の風聞」が利用された可能性を示唆している。長逸がこの強硬策の実行部隊となったことは、彼が主君・義景の命令に極めて忠実であったか、あるいは特定の派閥に属し、政敵排除の動きに積極的に加担したことを意味する。
いずれにせよ、この行動によって、長逸は堀江景忠から個人的かつ消しがたい恨みを買うことになった。そしてこの遺恨が、七年後に彼の運命を決定づけることになる。天正二年(1574年)に越前一向一揆が蜂起した際、一揆勢と手を組んだ堀江景忠が真っ先に金津城を目指した背景には 16 、単なる戦略的判断だけでなく、この七年前の恨みを晴らすという、極めて個人的で執拗な動機が存在したと考えられる。
堀江景忠追放事件は、長逸の朝倉家への忠誠心の現れであると同時に、彼の未来に破滅をもたらす時限爆弾を設置した行為であった。彼の悲劇的な最期は、この時に始まった因果応報の物語の、必然的な終着点だったのである。
溝江長逸の器量と、金津城が担っていた役割を示すもう一つの事例が、客将・富樫泰俊の存在である。富樫泰俊は、かつて加賀国の守護であった名門・富樫氏の末裔である。彼は一向一揆との抗争の末に国を追われ、流浪の身となっていたが、長逸は彼とその一族を客将として金津城に迎え入れ、庇護していた 2 。
富樫氏は、一向一揆によって滅ぼされた旧支配者であり、いわば「反一揆」の象徴的な存在であった。その彼らを庇護するという行為は、溝江氏が対一向一揆の最前線を担うという立場を、内外に鮮明に示すものであった。また、没落したとはいえ旧守護家の当主を客分として丁重に遇する姿勢は、長逸個人の器量の大きさを示している。
これは、金津城が単なる一武将の居城ではなく、越前・加賀国境地域における反一向一揆勢力の結節点、あるいは最後の砦としての役割を担っていたことを物語っている。そして、天正二年の落城の際、富樫泰俊とその子らもまた、長逸ら溝江一族と運命を共にし、城中で自害して果てた 2 。彼らの共倒れは、越前・加賀における旧来の武士支配層が、一向一揆という新たな時代の波の前に完全に敗北したことを象徴する、悲劇的な出来事であった。
天正元年(1573年)、戦国史を大きく塗り替える出来事が起こる。織田信長による越前侵攻である。この激動の中で、溝江長逸は生き残りを賭けた重大な決断を下す。
天正元年(1573年)八月、織田信長は浅井長政を滅ぼすと、その勢いのまま越前へ侵攻した。長年越前に君臨した主君・朝倉義景は、家臣団の離反もあってなすすべなく敗走し、一乗谷の館を焼かれ、最終的には大野郡にて自害した。ここに、戦国大名・朝倉氏は滅亡したのである 2 。
主家の滅亡は、それに仕える家臣たちにとって、自らの存在基盤が根底から覆される一大事であった。多くの家臣が主君と運命を共にするか、あるいは逃亡・潜伏して歴史の闇に消えていった。この混乱の渦中にあって、金津城主・溝江長逸は、父・景逸と共に、極めて現実的な選択をする。それは、新たな支配者となった織田信長に降伏し、その麾下に入ることだった 2 。
長逸の決断は迅速かつ的確であった。彼は、主家滅亡の運命に殉じるのではなく、新たな時代の覇者に恭順の意を示すことで、一族の存続を図ったのである。そして、この決断は織田信長に高く評価された。
信長は、長逸父子の降伏を受け入れると、彼らの旧領である金津の所領を安堵した。それだけではない。信長はさらに、旧朝倉家臣であった朝倉景行の旧領をも与え、溝江氏を五千石から六千石を知行する大身の領主へと取り立てたのである 2 。
信長が長逸をこれほど厚遇した理由は明白である。それは、第一章で述べた溝江氏の「対一向一揆エージェント」としての価値を、信長が正確に見抜いていたからに他ならない。当時、信長にとって最大の敵の一つは、各地で蜂起する一向一揆であった。特に、加賀国を本拠とする一揆勢力は、越前支配を安定させる上で大きな脅威であった。その国境の守りの専門家であり、長年の経験と知見を持つ溝江氏を味方に引き入れることは、信長にとって極めて合理的な戦略であった。
こうして溝江長逸は、主家滅亡という最大の危機を乗り越え、むしろ以前よりも大きな力を持つ領主として再出発を遂げた。これは、彼の優れた時勢判断能力と、戦国武将としての生存戦略がもたらした輝かしい成功であった。しかし、皮肉なことに、この成功こそが、彼の悲劇の序章となった。越前の旧朝倉家臣や一向一揆の門徒たちから見れば、長逸は「主家を裏切り、新たな支配者に媚びへつらう憎き敵」と映った。彼の生涯で最も輝かしい瞬間は、実は破滅へのカウントダウンの始まりでもあったのである。
溝江長逸が織田信長から厚遇され、安堵したのも束の間、越前の情勢は急速に悪化する。天正二年(1574年)、彼の運命を決定づける越前一向一揆が勃発し、その矛先は真っ先に金津城へと向けられた。
朝倉氏滅亡後、織田信長は越前の守護代として、元朝倉家臣で信長に寝返った前波吉継(桂田長俊)を任命した 18 。しかし、吉継は旧同僚たちに対して傲慢な態度をとり、過酷な統治を行ったため、越前国人衆の不満は瞬く間に高まっていった 5 。
この不穏な空気を好機と捉えたのが、本願寺勢力であった。本願寺宗主・顕如によって越前に派遣された下間頼照や杉浦玄任といった坊官たちは、吉継への不満を巧みに利用して一向宗門徒を扇動した 14 。天正二年(1574年)一月、ついに一揆が蜂起。一揆勢はまず国人たちの憎悪の的であった桂田長俊を討ち取り、瞬く間に越前一国を制圧した。
越前を手中に収めた一揆勢は、次なる標的として、織田信長が越前支配の楔として残した溝江長逸に狙いを定めた。同年二月、加賀国からの一揆勢も加わった総勢二万余りともいわれる大軍が、怒涛のごとく金津城に殺到した 2 。
この軍勢の中には、かつて長逸によって越前から追放された、あの堀江景忠の姿もあった 16 。攻撃の主導者は杉浦玄任や下間頼照ら本願寺の坊官であったが 14 、金津城攻めには複数の動機が複雑に絡み合っていた。それは、織田信長とその代理人である溝江長逸を「仏敵」と見なす一向宗門徒の純粋な宗教的情熱であり、越前を「百姓の持ちたる国」とするための織田支配体制の橋頭堡(金津城)を破壊するという政治的野心であり、そして何よりも、堀江景忠による長逸への積年の恨みを晴らすための個人的な復讐であった。
金津城に押し寄せた二万の軍勢は、単一の目的で動く集団ではなかった。宗教、政治、そして私怨という三つの強力なベクトルが、「溝江長逸打倒」というただ一点に収斂した、極めて執拗かつ破壊的なエネルギーの奔流であった。長逸は、時代のあらゆる負の力を、その身一つで受け止めることになったのである。
圧倒的な大軍に包囲されながらも、溝江方は奮戦した。城に籠もった長逸らは、九日間にわたって必死の防戦を続けたと伝えられる 2 。『信長公記』の記述によれば、鉄砲を用いて激しく反撃し、一揆勢の二、三百人を討ち取るなど、多大な損害を与えたとされる 14 。
しかし、衆寡敵せず、兵力差は覆しがたかった。天正二年二月十九日、ついに金津城は陥落する。城主・溝江長逸は、城内の女性たちを手にかけた後、父・景逸、菩提寺の住職であった弟・辨栄、そして客将として運命を共にした富樫泰俊・稙春親子ら、一族郎党三十余名と共に自害して果てた 2 。長逸の没年は、この天正二年(1574年)である 10 。
彼の辞世の句が、今日に伝えられている。
「思ひきや果つるまじ身も梓弓矢もさしはけず朽ち果てんとは」 10
この句は、「まさか、武具である弓矢を十分に振るうこともできずに、このような形で朽ち果てることになろうとは思ってもみなかった」と解釈できる。これは、単なる死への嘆きではない。対一向一揆の専門家として、生涯を戦場で生きてきた武人であった長逸にとっての無念は、野戦で武人らしく戦い抜くのではなく、圧倒的多数に城を包囲され、防戦一方の末に自害するという「戦い切れなかった」ことへの無力感にあったのではないか。主家が滅んでも生き残り、信長に認められ、これからという矢先の破滅。このあまりに理不尽で「予期せぬ」展開こそが、彼の最大の無念であった。
溝江長逸の最期は、戦国武将としての本懐を遂げられなかったことへの深い絶望と、抗いがたい運命への慟哭が込められている。彼の死は、一個人の悲劇であると同時に、戦国の世の非情さと、いかなる実力者も抗しがたい「時代の奔流」の恐ろしさを、雄弁に物語っている。
溝江長逸の壮絶な死によって、金津の溝江氏は滅亡したかに見えた。しかし、一族の血脈は、絶望的な状況の中から奇跡的に生き延び、戦国から近世へと続く新たな時代を生き抜いていく。
金津城落城の際、城主・長逸は自害する前に、嫡男である長氏(ながうじ、別名:長澄)を城から脱出させることに成功していた 2 。父や祖父、叔父をはじめ一族のほとんどが果てた地獄の中から、彼は一族の未来を託されて生き延びたのである。
長氏はその後、父が仕えた織田信長に、そして信長の死後は天下人となった豊臣秀吉に仕えた 5 。特に秀吉の下では馬廻衆として重用され、その才能を発揮する。慶長三年(1598年)には、越前国内で一万七百七十三石の所領を与えられ、大名として旧領に復帰を果たし、見事に溝江家の再興を成し遂げた 11 。
注目すべきは、長氏が立身した道筋である。父・長逸が戦場での武勇を本分とする典型的な戦国武将であったのに対し、長氏は豊臣政権下で蔵入地(豊臣家の直轄領)の管理などを担う「吏僚(官僚)」としての能力で評価された 5 。これは、時代が純粋な「武」の力だけでなく、統治や経済運営といった「治」の能力を求める時代へと移行しつつあったことを象徴している。溝江家の再興は、長氏が父とは異なるスキルセット、すなわち時代の変化に対応する柔軟な能力を持っていたからこそ可能であった。父の悲劇を乗り越え、新たな時代を生き抜く術を身につけた長氏の姿は、戦国から近世への移行期における武家の見事な生き残り戦略の一典型を示している。
しかし、溝江氏の運命は再び暗転する。大名として家を再興した長氏は、天下分け目の関ヶ原の合戦が起こる直前の慶長五年(1600年)二月に病死してしまう 11 。跡を継いだ子の長晴(ながはる)は、関ヶ原の戦いで西軍に与し、北陸で東軍の前田利長と戦うも降伏 4 。戦後、徳川家康によって所領はすべて没収され、溝江氏は再びその地位を失い、長晴は浪人となることを余儀なくされた 4 。
長晴の浪人生活は、二十八年という長きに及んだ 13 。しかし彼は、一族再興の望みを捨てなかった。そして寛永五年(1628年)、ついにその努力が実を結ぶ。徳川譜代大名の筆頭格である彦根藩主・井伊直孝に召し抱えられ、溝江氏は彦根藩士として再び武家社会に復帰したのである 4 。一度改易された大名家が、名門中の名門である井伊家に仕官できた背景には、父・長氏が豊臣政権下の大名として活動する中で築いた人脈や縁が、息子の窮地を救った可能性が指摘されている 13 。
こうして彦根藩士となった溝江氏の血脈は、その後も絶えることなく、幕末を経て現代にまで続いている 13 。長逸の悲劇から始まった溝江氏の物語は、子・長氏の復活、孫・長晴の再度の没落と執念の再興を経て、近世武家社会の中にその確かな居場所を見出したのである。これは、戦国・近世を通じて、武家の存続には個人の能力だけでなく、家としての人脈という無形の資産がいかに重要であったかを示す好例と言えよう。
溝江長逸の生涯は、忠義、時勢判断、そして抗いがたい運命という要素が複雑に絡み合った、戦国時代の縮図ともいえる悲劇であった。
彼は、朝倉家臣として国境防衛の任を全うし、堀江景忠追放事件では主命に忠実に行動した。主家滅亡という未曾有の危機に際しては、感情に流されることなく、新たな覇者・織田信長に帰順するという優れた時勢判断を示し、一族の存続と発展の道筋をつけた。そして、一向一揆の猛攻に際しては、武人としての本分を尽くし、最後まで城を枕に戦った。彼の行動の一つ一つは、戦国の武将として合理的であり、賞賛されるべきものであったかもしれない。
しかし、彼の全ての努力と的確な判断は、過去の因縁(堀江景忠の復讐)と、時代の巨大なうねり(一向一揆の宗教的・政治的エネルギー)という、彼個人の力ではどうにもならない二つの奔流によって、無残にも水泡に帰した。
溝江長逸の物語は、戦国時代が単なる英雄たちの華々しい活躍の舞台ではなかったことを、我々に強く突きつける。それは、数多の地方武将たちが、自らの能力や意思だけでは制御不可能な巨大な力に翻弄され、歴史の波間に消えていった過酷な現実の記録である。歴史の教科書が語るマクロな視点では見えにくい、戦国という時代のミクロな実像、すなわち、巨大な構造の中で生きる人間の無力さと、それでもなお最後まで自らの役割を果たそうとした人々の尊厳を、溝江長逸という一人の武将の生涯は、鮮やかに映し出している。彼の悲劇的な生涯を深く見つめることは、戦国乱世を生きた人々の、生々しい息遣いに触れることに他ならない。