熊野湛増は源平争乱期、熊野別当として宗教的権威と熊野水軍を率い、源氏勝利に貢献。頼朝に冷遇されるも後に赦免。弁慶の父伝説も残る。
平安時代の末期、皇室と貴族による支配体制が揺らぎ、武士階級が新たな時代の担い手として台頭する激動の時代があった。院政期から平氏政権の隆盛、そして日本全土を巻き込む源平争乱へと至るこの大転換期において、中央の権力闘争から一見隔絶された紀伊半島南部の霊域、熊野もまた、歴史の渦中にあった。熊野は、全国的な信仰を集める宗教的権威の中心地であると同時に、海上交通の要衝を扼し、強力な水軍を擁する軍事・経済の一大拠点でもあった 1 。この特異な地で、聖職者としての顔と武門の棟梁としての顔を併せ持ち、時代の趨勢を鋭敏に読み解き、自らの、そして熊野の運命を切り拓いた人物がいる。第21代熊野別当、湛増(たんぞう)である。
本報告書は、熊野湛増を単なる源平合戦の一登場人物としてではなく、熊野三山という巨大な宗教組織の指導者(聖)と、熊野水軍という強力な武士団の統率者(俗)という二つの顔を巧みに使い分けた「聖俗の巨魁」として捉え、その複雑かつ戦略的な生涯を徹底的に解き明かすことを目的とする。彼の力の源泉は、単一の軍事力にあったのではない。神意を代弁する者としての宗教的権威をもって軍事行動を正当化し、人心を掌握するという、他に類を見ない権力構造にあった。彼の決断と行動は、熊野自身の運命のみならず、源平争乱の帰趨、ひいては鎌倉幕府という新たな武家政権の成立過程にまで、測り知れない影響を及ぼしたのである。
年代(西暦) |
湛増の年齢 |
主要な出来事 |
関連史料・出典 |
大治5年(1130) |
1歳 |
第18代熊野別当・湛快の次男として誕生。 |
2 |
平治元年(1159) |
30歳 |
平治の乱。父・湛快が平清盛に味方し、平氏の恩顧を受ける。 |
4 |
承安4年(1174) |
45歳 |
権別当に就任。 |
4 |
治承4年(1180) |
51歳 |
5月、以仁王の挙兵。当初は平氏方として新宮勢と戦う。10月、源頼朝の挙兵を知り、源氏方への転向を画策。 |
4 |
元暦元年(1184) |
55歳 |
10月、第21代熊野別当に補任される。 |
4 |
元暦2年(1185) |
56歳 |
2月、屋島の戦いに参戦。3月、壇ノ浦の戦いで熊野水軍を率い、源氏の勝利に貢献。 |
3 |
文治3年(1187) |
58歳 |
後白河法皇の熊野御幸の功により法印に叙せられる。頼朝に贈り物を拒否される。 |
1 |
建久6年(1195) |
66歳 |
京都にて源頼朝・頼家と対面。積年の罪を赦される。 |
2 |
建久9年(1198) |
69歳 |
5月8日、死去。極位は法印権大僧都。 |
2 |
熊野別当とは、熊野本宮、新宮、那智の三山を統括する最高責任者の職であり、その初見は長保2年(1000年)の記録にまで遡る 6 。院政期には上皇や女院の熊野御幸が盛んになるにつれて、その権威は飛躍的に高まり、単なる寺社の長官に留まらず、紀伊国南部一帯に広大な荘園と武士団を支配する、一大勢力の長としての性格を帯びていった。
湛増は、大治5年(1130年)、この熊野別当職を世襲する家系に生まれた。父は第18代別当であった湛快(たんかい)であり、湛増はその次男であった 2 。父・湛快は、熊野三山の中心の一つである本宮を拠点としていたが、やがて水陸交通の要衝である田辺に新熊野社(現在の鬪雞神社)を創建して拠点を移した 7 。これにより、湛快の家系は「田辺別当家」と呼ばれ、熊野内部における独自の勢力基盤を築き上げた。湛増は、この父が築いた政治的・経済的遺産を継承し、その後の活動の礎としたのである。
湛増の青年期は、平氏が権力の絶頂へと駆け上る時代と重なる。平治元年(1159年)に平治の乱が起こると、父・湛快は平清盛に味方し、その勝利に貢献した。これにより熊野別当家、とりわけ田辺家は平氏政権から多大な恩顧を受け、その庇護のもとで勢力を牟婁郡西部から日高郡へと拡大させていった 4 。湛増自身もこの平氏との強い結びつきを背景に、若い頃から京都と熊野を頻繁に往来し、平氏一門や都の貴族たちと密接な交流を持った。承安2年(1172年)頃には京都に邸宅を構え、武士を従者として抱えながら、中央の政治情勢に関する情報を貪欲に収集していたことが記録されている 4 。
しかし、彼の立場を複雑かつ興味深いものにしているのは、その巧みに張り巡らされた姻戚関係である。彼は平氏と深く結びつくと同時に、そのライバルである源氏とも血縁の繋がりを確保していた。この二股の血縁関係は、単なる偶然の産物とは考え難い。むしろ、中央の二大権力と等距離を保ち、どちらが勝利しても交渉の窓口を失わないようにするための、地方勢力としての極めて戦略的な「保険」であったと解釈するのが妥当であろう。
人物名 |
湛増との関係 |
所属勢力 |
備考 |
湛快 |
父 |
平氏方 |
第18代熊野別当。田辺別当家の勢力を確立 2 。 |
平忠度 |
義兄(妹の夫) |
平氏 |
平清盛の異母弟。この関係により平家と強固な繋がりを持つ 3 。 |
妻 |
妻 |
(源氏縁戚) |
源為義の孫娘。母は「たつたはらの女房(鳥居禅尼)」 3 。 |
源行家 |
義理の叔父 |
源氏 |
妻の母方の叔父。以仁王の令旨を熊野にもたらす 3 。 |
源頼朝 |
義理の従兄弟 |
源氏 |
妻の母方の従兄弟。戦後、湛増を冷遇するが後に赦免 1 。 |
源義経 |
義理の従兄弟 |
源氏 |
妻の母方の従兄弟。屋島・壇ノ浦で共闘。この関係が頼朝の不興を買う一因となる 1 。 |
武蔵坊弁慶 |
子(伝承) |
源氏 |
史実ではないが、『平家物語』などで語られる伝説上の関係 2 。 |
湛顕 |
嫡男 |
- |
湛増の後継者の一人 2 。 |
平氏政権下で順調に勢力を伸ばした湛増であったが、熊野三山の内部は一枚岩ではなかった。承安4年(1174年)、湛増の田辺家と競合関係にあった新宮別当家出身の範智(はんち)が第20代別当に就任し、湛増は彼を補佐する権別当(ごんのべっとう)の地位に甘んじることとなった 4 。これは、熊野三山内部に、湛増の田辺家と、新宮・那智の諸勢力との間に根深い対立構造が存在したことを示している。
この内部抗争は、治承・寿永の内乱が勃発すると、源平の対立と結びついて一気に表面化する。治承4年(1180年)の以仁王の挙兵に際し、源氏方の新宮勢と、平氏方についた湛増の田辺勢が、熊野の地で実際に干戈を交えるに至ったのである 4 。この事実から、内乱初期における湛増の行動原理は、源平いずれかに与するという大局的な判断よりも、まず熊野三山内での主導権を確立するという、より内向きで地域的な動機に強く支配されていたことが窺える。彼は全国的な動乱を、長年のライバルである新宮勢力を、平氏の権威を借りて打倒するための好機と捉えていたのであろう。
治承4年(1180年)5月、後白河法皇の皇子である以仁王が、平氏打倒の令旨を発して挙兵した。この令旨を全国の源氏や大寺社に伝達する密使の役を担ったのが、湛増の義理の叔父にあたる源行家であった。行家は熊野に潜伏し、源氏方への蜂起を促した。京都に情報網を張り巡らせていた湛増は、いち早くこの行家の動きを察知し、直ちに平氏にその動向を報告した 4 。
この時点での湛増の行動は、明確に平氏方であった。彼は配下の田辺勢・本宮勢を率い、行家の呼びかけに呼応した源氏方の新宮勢・那智勢と交戦した。しかし、この戦いで湛増は敗退を喫する 4 。この敗北は、平氏の威光だけでは熊野全土を掌握できないという厳しい現実を、彼に突きつける結果となった。
転機は同年10月に訪れる。伊豆で挙兵した源頼朝が関東一円を制圧し、源氏の旗が再び大きく掲げられたのである。この新たな情勢を前に、湛増は極めて現実的かつ大胆な政治的決断を下す。平氏を見限り、源氏方へと舵を切ったのだ。
しかし、彼の転向は単純な寝返りではなかった。それは周到に計算された段階的なプロセスであった。まず彼は、先の戦いで敵対した新宮・那智勢力との宥和を図り、熊野内部の結束を優先した。その上で、源氏への与力を妨げるであろう熊野内部の反対派、すなわち新宮別当家出身の行命や、実の弟である湛覚らを追放し、自らの主導権を盤石なものとした 4 。外部の動乱を利用して内部の政敵を排除し、万全の態勢を整えた上で、最も有利な側(源氏)に付くという、彼の行動は熟練した権力政治家のそれであった。治承5年(1181年)には、熊野の衆徒が志摩国で平家方の武将・伊豆江四郎を撃破するなど 4 、源氏方としての明確な軍事行動を開始するに至る。
湛増のこの困難な政治的決断は、後世、軍記物語『平家物語』の中で、非常に象徴的かつ劇的な逸話として語り継がれることになった。「鶏合わせ(とりあわせ)」の伝説である。
物語によれば、源平双方から味方になるよう矢のような催促を受け、進退窮まった湛増は、神意に決断を委ねることにした。彼は田辺の新熊野権現(現在の鬪雞神社)に七日間参籠し、神楽を奏して祈願した。すると神託が下り、「白旗(源氏)につけ」と告げられたという 3 。しかし、それでもなお一族郎党の意見がまとまらず、決断に迷った湛増は、最後の手段として、源氏の白旗にちなんだ白い鶏7羽と、平家の赤旗にちなんだ赤い鶏7羽を、神前で戦わせた 3 。結果は、赤い鶏がことごとく敗れ去り、白い鶏が圧勝した。これを見た湛増と一族郎党は、ついに源氏に味方することを決意した、と物語は語る 3 。
この「鶏合わせ」の逸話は、史実とは考え難い。しかし、この伝説がなぜ生まれ、語り継がれたのかを考察することは、湛増という人物を理解する上で極めて重要である。平氏から多大な恩顧を受けていた湛増にとって、源氏への転向は「裏切り」と見なされかねない、極めて困難な決断であった。この政治的に危険な行動を、人の意思ではなく「神意」という絶対的な権威によるものとして示すことで、彼は自らの決断を正当化し、2000人以上ともいわれる一族郎党の心を一つにまとめ上げたのである。鶏合わせは、史実ではなかったとしても、湛増の優れた政治的演出能力と、彼の権力が宗教的権威と分かちがたく結びついていたことを示す、象徴的な物語と言えよう。
鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』が彼の行動を権力力学の中で淡々と記すのに対し、『平家物語』が彼を神に導かれた英雄として描く 11 。この二つの史料を比較検討することで、政治的実利家としての湛増の実像と、物語の中で形成された英雄としての虚像が、立体的に浮かび上がってくるのである。
湛増が源氏方への転向を決断した背景には、彼が切り札として掌握していた強力な軍事力、すなわち熊野水軍の存在があった。熊野水軍は、単なる海賊衆の寄せ集めではなかった。彼らは熊野三山の強大な経済力と、別当を頂点とする統制された組織力を背景に持ち、紀伊半島沿岸の海運を支配する、高度に組織化された海上戦闘集団であった。
一方、源頼朝や義経が率いる源氏軍の主力は、坂東の武士団であり、その戦力は陸戦、特に騎馬戦に特化していた。瀬戸内海の制海権を完全に掌握し、西国に強固な地盤を持つ平氏を最終的に打ち破るためには、海上戦力は不可欠であった。源氏にとって、湛増が率いる200艘ともいわれる大船団は、まさに喉から手が出るほど欲しい、戦局を決定づける戦略的価値を持つ存在だったのである 1 。
源氏方は、湛増と熊野水軍を味方に取り込むため、彼を最大限に遇した。元暦元年(1184年)10月、長年権別当の地位にあった湛増は、ついに第21代熊野別当に正式に補任された 4 。これは、彼の軍事力を交渉の切り札として、長年の目標であった熊野の最高位を手に入れたことを意味する。彼はただ戦に参加したのではなく、参戦を機に自らの政治的地位を確立した、 shrewd な交渉人でもあった。
別当職に就いた湛増は、元暦2年(1185年)、源義経からの要請に応じ、ついに動く。200余艘の船に2000余の兵を乗せ、熊野権現の御正体を船に祀り、旗には守護神である金剛童子を描いて、源平最後の決戦の地、壇ノ浦へと向かった 3 。
壇ノ浦の海上に出現した熊野水軍の船団を見た源平両軍は、その神々しさに揃って手を合わせたという。しかし、その船団が源氏の白旗が翻る陣営へと合流したのを見た平家方の将兵は、甚だしく士気を喪失したと『平家物語』は伝える 3 。熊野水軍の参戦は、単なる兵力の追加に留まらず、平氏の精神的な支柱を打ち砕く決定的な一撃となったのである。湛増自身も、鉄製の烏帽子甲(えぼしかぶと)をかぶり、自ら先頭に立って奮戦したと伝えられている。現在、和歌山県田辺市の鬪雞神社には、その時湛増が着用したとされる鉄烏帽子や鉄扇が社宝として大切に保管されている 3 。
湛増は、屋島の戦いから志度、そして壇ノ浦へと、源義経の軍と密接に連携して戦った 5 。義経は湛増の軍事力を高く評価し、平氏を挟撃するために九州へ別働隊として派遣する計画を立てたという説もあるほど、両者の関係は深かった 1 。しかし、この義経との強固な結びつきが、戦後、彼の運命に暗い影を落とすことになる。源氏の棟梁である兄・頼朝と、戦の天才である弟・義経との間に、修復不可能な亀裂が生じつつあったからである。
壇ノ浦で平氏を滅ぼし、源氏の勝利に決定的な貢献をしたにもかかわらず、戦後の湛増が鎌倉の源頼朝から受けた処遇は、意外にも極めて冷淡なものであった。その最大の理由は、彼が頼朝と対立し、やがて追われる身となる源義経と深く結びついていたためである 1 。頼朝にとって、義経の与党は、自らが構築しようとする新たな武家政権にとって潜在的な脅威であり、容赦なく粛清すべき対象であった。
その頼朝の厳しい姿勢を象徴する出来事が、文治3年(1187年)に起こる。この年、湛増は後白河法皇の熊野御幸での功績により法印の僧位に叙せられた。彼はこの叙任の礼を述べるという名目で鎌倉へ使者を送り、贈り物を届けさせた。これは、義経が都を落ちた今、頼朝との関係を再構築しようとする必死の試みであった。しかし、頼朝の返答は無慈悲なものであった。『吾妻鏡』によれば、頼朝は「荘園などは神仏に寄進したものであり、別当や神主などに与えたものではない」という理屈を述べ、贈り物の受け取りをきっぱりと拒否したのである 1 。これは、敵対した弟の仲間であった湛増を簡単には許さないという、頼朝の強い政治的意志の表明に他ならなかった。
頼朝によるこの8年にも及ぶ冷遇は、単なる個人的な感情によるものではない。それは、全国の旧来勢力に対する見せしめであり、鎌倉幕府という新たな中央政権の権威を確立するための、高度な政治的パフォーマンスであった。戦の英雄である湛増をあえて冷遇し、長年許さない姿勢を見せることで、他の全ての寺社勢力や地方豪族に対し、「幕府への恭順なくして安泰はない」という強烈なメッセージを送ったのである。
頼朝からの厳しい仕打ちに耐えながらも、湛増は粘り強く赦免への働きかけを続けたと推測される 1 。雌伏の時を経て、事態が動いたのは建久6年(1195年)のことである。将軍として上洛していた頼朝と湛増は、ついに京都で対面の機会を得る。この時、湛増は頼朝とその嫡男・頼家に甲(かぶと)を献上し、恭順の意を最大限に示した。これを受けて頼朝は、ついに積年の罪を赦したのである 2 。
この一連の出来事は、熊野のような伝統的な権威を持つ寺社勢力が、鎌倉という新たな武家政権の支配体制下に、否応なく組み込まれていく過程を象徴している。湛増が頼朝親子に拝謁し、貢物を捧げるという形で赦免がなされた儀式は、西国の大勢力である熊野が、鎌倉の権威に公然と服従したことを天下に示すものであり、武家政権の支配が確立したことを告げる画期的な事件であった。
源頼朝からの赦免を得た湛増は、鎌倉幕府の御家人としてその地位を公認され、ようやく安定した晩年を迎えた 1 。文治3年(1187年)に法印に叙せられて以降、彼の僧位は順調に昇進し、極位は法印権大僧都(ほういんごんのだいそうず)にまで至った 2 。これは、当時の僧侶として極めて高い地位であった。
そして建久9年(1198年)5月8日、時代の荒波を乗り越えた聖俗の巨魁は、69年の生涯に幕を閉じた 2 。鎌倉時代の説話集『古事談』によれば、彼の死後、立派な墓堂が建てられ、家人の桂林房上座覚朝(けいりんぼうじょうざかくちょう)がその墓守を務めたと伝えられている 2 。
湛増には7人の息子と5人の娘がいたとされ、嫡男は湛顕(たんけん)であった 2 。しかし、湛増という卓越した政治力とカリスマ性を持つ指導者を失った熊野別当家は、彼の死後、再び内部対立の時代へと逆戻りしてしまう 1 。湛増の権力基盤は、盤石な制度というよりも、彼の強烈な個性と個人的な力量に大きく依存していた。そのため、彼の死という「重し」が取れた途端、抑え込まれていた諸勢力の対立が再燃し、熊野は統一した行動が取れない脆弱な状態に陥ったのである。
湛増が築き上げた熊野の権勢が、その死後にいかに脆いものであったかを決定づけたのが、承久3年(1221年)に勃発した承久の乱であった。後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒の兵を挙げたこの国家的な動乱に際し、熊野別当家は一族内で上皇方と幕府方に分裂するという、最悪の事態を迎える 6 。
当時の別当であった湛政(たんせい)をはじめとする主流派は上皇方についたが、乱は幕府軍の圧勝に終わる。その結果、熊野別当家は勝利した幕府から厳しい処罰を受け、多くの所領を没収され、その勢力は決定的に衰退した 1 。湛増が一代で築き上げた栄華は、彼の死からわずか20年余りで、大きく傾くことになったのである。
史実における湛増の政治的遺産は、彼の死後、急速に失われた。しかし、彼の名は別の形で後世に長く記憶されることになる。それが、剛勇無双の僧兵・武蔵坊弁慶の父であるという伝説である 2 。『平家物語』や『義経記』といった物語の中で、弁慶の出自は熊野別当の子とされ、その父が湛増であるという説が広く流布した。この伝説は、湛増の人物像に、現実の政治家としての一面とは別に、勇猛な武人としての英雄的なイメージを付与し続けている。
その記憶は、彼の本拠地であった和歌山県田辺市に、今なお色濃く残っている。源平の運命を決した「鶏合わせ」の舞台とされる鬪雞神社には、その故事を再現した湛増と弁慶の像が建てられ、多くの参拝者を集めている 9 。また、近隣の海蔵寺には、湛増が源平合戦に出陣する際に戦勝を祈願したと伝わる観音像が安置されるなど 13 、彼の記憶は地域の歴史と文化に分かちがたく結びつき、語り継がれているのである。
熊野湛増の生涯を振り返るとき、我々は彼を一人の人物の中に存在する、宗教家、軍事指導者、そして政治家という三つの側面から多角的に評価する必要がある。彼は、院政期以来の荘園制や寺社勢力といった伝統的権威と、鎌倉幕府という新たな武家政権が激しく衝突する時代の狭間で、自らの、そして熊野という共同体の生き残りをかけて、変幻自在に立ち回った時代の申し子であった。
『吾妻鏡』などの史料に見られる彼の姿は、冷徹なまでに現実を見据え、権力力学を計算し尽くして行動する政治家(実像)である。一方で、『平家物語』や弁慶伝説によって形作られた彼の姿は、神意に導かれて大義を選び、豪勇な子を持つ英雄(虚像)である。
この実像と虚像は、決して矛盾するものではない。むしろ、この二つの像が重なり合うことによって、「熊野湛増」という歴史上の人物は、単なる史実の対象としてだけでなく、後世の人々の記憶に残り続ける豊かな物語性を獲得したのである。彼は、動乱の時代を生き抜くために、神の権威と武力を巧みに操り、自らの運命を切り拓いた。そのしたたかで強靭な生き様は、時代の転換期における人間の知恵と戦略のあり方を、我々に鮮やかに示している。