日本の戦国時代、奥州の覇者としてその名を馳せる伊達政宗。その祖父・伊達晴宗と父・輝宗の時代に、伊達家の権力中枢を主君以上に掌握し、絶大な権勢を誇った親子がいた。伊達家宿老・中野宗時と、その次男でありながら名門・牧野家の家督を継いだ牧野久仲である 1 。彼らの存在は、単なる有力家臣という範疇に収まらず、伊達家の家督相続や世代交代という過渡期において、主家の統制を根底から揺るがす「内部の敵」へとその姿を変えていった。
本報告書は、伊達家臣・牧野久仲という一人の武将の生涯を徹底的に調査し、その出自から権力掌握の過程、主君・伊達輝宗に対する謀叛の顛末、そして一族のその後に至るまでを、史料に基づき多角的に検証するものである。彼の栄枯盛衰の物語を追うことは、伊達家内部で繰り広げられた激しい権力闘争の実態を解明し、戦国大名家における主君と家臣の間の緊張に満ちた関係性を浮き彫りにすることを目的とする。
年号(西暦) |
主要な出来事 |
関連人物の動向 |
天文11年 (1542) |
伊達稙宗・晴宗父子の対立が激化し、「天文の乱」が勃発。 |
中野宗時は晴宗方に与し、乱の主要な画策者となる。 |
天文17年 (1548) |
天文の乱が終結。晴宗方が勝利を収める。 |
宗時は晴宗政権下で絶大な権力を掌握。牧野景仲は乱で戦死。 |
天文22年 (1553) |
桑折景長が移封され、牧野久仲が小松城主となる 3 。 |
久仲は父の権勢を背景に、名門・牧野家の養子となる。 |
(時期不明) |
伊達晴宗が奥州探題に任官。久仲は陸奥国守護代に就任 2 。 |
中野・牧野父子による伊達家中枢の支配が確立する。 |
永禄7年 (1564) |
伊達晴宗が隠居し、輝宗が家督を相続 5 。 |
輝宗と父・晴宗の間に確執が生じ、不安定な権力構造が続く。 |
元亀元年 (1570) |
元亀の乱 |
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4月4日 |
中野宗時・牧野久仲父子の謀叛計画が露見 6 。 |
遠藤基信の計略が功を奏し、新田景綱が息子・義直を捕縛・密告。 |
4月4日夜 |
宗時、米沢城下に放火し、久仲の居城・小松城へ逃亡 6 。 |
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4月5日 |
輝宗、小松城を攻撃。宗時・久仲は城を脱出し敗走 6 。 |
亘理元宗・重宗親子が逃走する反乱軍を撃破。 |
4月以降 |
宗時・久仲父子は相馬領へ落ち延びる 1 。 |
輝宗、父子を生涯許さず。 |
没年不明 |
宗時・久仲父子、流浪のうちに死去 1 。 |
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慶安3年 (1650) |
仙台藩士となっていた牧野家(牧野盛仲)が改易される 9 。 |
久仲の系統とされる牧野家は、元亀の乱後と慶安年間の二度の改易を経て、最終的に平士として存続した 10 。 |
牧野久仲が伊達家中で手にした権力は、彼個人の才覚のみによって築かれたものではない。それは、父・中野宗時の周到な戦略と、伊達家の屋台骨を揺るがした「天文の乱」という巨大な内乱の産物であった。彼の権力基盤は、実力と権威の二重構造の上に巧みに構築されたものであった。
牧野久仲は、伊達氏の重臣であった中野宗時の次男として生を受けた 1 。彼の運命を大きく左右したのは、父・宗時が深く関与した伊達家史上最大の内乱「天文の乱」(1542-1548年)である。この乱は、伊達家14代当主・伊達稙宗が、三男の時宗丸を越後守護・上杉定実の養子にしようとしたことや、周辺大名への支配を強化する婚姻政策に、嫡男の晴宗や一部の重臣が猛反発したことに端を発する 3 。
中野宗時は、この対立を巧みに利用し、晴宗を擁立して反乱を主導した中心人物の一人とされる 2 。伊達家の公式記録である『伊達治家記録』においても、天文の乱は宗時の策謀によって引き起こされたと記されており、彼が晴宗を唆して内乱を誘発した張本人であったことが示唆されている 2 。6年にも及ぶ内乱の末、晴宗方が勝利を収めると、その最大の功労者である宗時は晴宗政権下で他の追随を許さない絶大な権力を掌握した 2 。牧野久仲のその後の栄達は、すべてこの父の成功という土台の上に成り立っていたのである。
晴宗政権下で権勢を固めた中野宗時が次なる一手として打ったのが、次男・久仲を伊達家中の名門・牧野家へ養子として送り込むことであった。久仲が継いだ牧野氏は、伊達家が鎌倉時代に奥州へ下向して以来の譜代の家臣であり、7代当主・伊達行朝の時代から宿老を務めるなど、家中で極めて高い家格を誇っていた 10 。また、陸奥国守護代という要職を輩出する家柄でもあった 11 。
この名門の当主であった牧野景仲は、天文の乱において晴宗方として戦い、戦死した 11 。宗時はこの機を逃さず、跡継ぎを失った牧野家に久仲を養嗣子として送り込み、その家督を継がせたのである 2 。
この養子縁組は、単に家名を存続させるための温情的な措置ではなかった。むしろ、史料が「牧野家をのっとった」と表現するように 2 、これは宗時による極めて戦略的な権力拡大策であった。天文の乱で台頭した新興勢力である中野家は、その「実力」はあっても、牧野家のような「伝統的な権威」には欠けていた。宗時は、久仲を通じて牧野家という由緒ある権威を自らの支配下に置くことで、この弱点を補ったのである。これにより、父・宗時が「実力」を、子・久仲が「権威」をそれぞれ掌握するという、盤石な権力ブロックが形成された。これは伊達家臣団の伝統的な秩序への侵食であり、他の重臣たちが容易に介入できない強固な支配体制を築き上げるための、巧妙な布石であった。
父子による権力基盤が固まると、牧野久仲は伊達家におけるキャリアの頂点へと駆け上る。伊達晴宗が室町幕府より奥州探題に任命されると、久仲は桑折貞長と共に、その代官である陸奥国守護代に任じられた 1 。守護代は、主君である守護(この場合は奥州探題である晴宗)の権限を代行し、領国内の政務や軍事を統括する極めて重要な役職であった 19 。
父・宗時が自らはその地位に就かず、息子の久仲を就任させた点も、彼の老獪な政治手腕を物語っている。これにより、宗時は表向き一歩引いた立場を保ちつつ、守護代となった久仲を通じて家中の実務を完全に掌握することができた。この時代の伊達家の実情を、『伊達治家記録』は「何事も中野・牧野が裁配に因れり」と記している 2 。これは、伊達家の政務が、主君である晴宗の意向ではなく、すべて中野・牧野父子の判断によって決定されていたことを示すものであり、彼らによる権力の中枢の完全な支配が確立したことを如実に物語っている。
中野・牧野父子の権勢が頂点に達した頃、伊達家では新たな世代交代の波が押し寄せていた。若き当主・伊達輝宗の登場は、盤石に見えた父子の権力構造に静かな、しかし決定的な亀裂を生じさせ、やがて来る破局への序曲となった。
晴宗政権下で、中野宗時・牧野久仲父子の権勢は留まるところを知らなかった。『伊達治家記録』は、宗時の人物像を「佞奸邪智(ねいかんじゃち)」、すなわち、口先がうまく、よこしまで邪な知恵を持つ者と厳しく断じている 2 。これは後世の編纂物であるため、輝宗・政宗の正統性を強調するための意図的な悪評である可能性は否めないが、父子が主君を軽んじ、専横を極めていた事実は複数の記録から窺える 2 。
特に深刻だったのは、主家の内紛に介入し、自らの権力維持に利用しようとする画策であった。宗時は、隠居した晴宗と新当主となった輝宗の間を往来し、それぞれに都合のいいように異なる情報を吹き込むことで、親子間の不和を煽っていたと伝えられている 2 。これは、主家が一枚岩となることを妨げ、両者の対立構造の中で自らがキャスティングボードを握り続けるための、彼らの常套手段であった可能性が高い。
永禄7年(1564年)、晴宗は家督を輝宗に譲り隠居するが、これは伊達家における権力闘争の新たな幕開けを意味した 5 。家督は譲られたものの、実権は依然として隠居した晴宗や、彼を後ろ盾とする中野・牧野父子が握り続けるという、極めて不安定な二重権力構造が生まれたのである 2 。
この状況は、伊達家の支配体制をめぐる新旧勢力の対立を必然的なものとした。天文の乱の勝者である晴宗と、その功臣である中野・牧野父子は、有力家臣との妥協の上に成り立つ、いわば分権的な支配体制の象徴であった 12 。彼らは、乱の恩賞として家臣に与えられた守護不入などの特権を維持することで、自らの地位を保っていた。
一方、若き当主・輝宗は、父の代に内乱で低下した伊達家の求心力を回復し、強大な権限を持つ家臣団を統制下に置くことで、強力な当主中心の中央集権体制を確立することを目指していた 12 。この両者の目指す国家像の根本的な違いが、衝突を不可避にした。輝宗にとって、旧体制の最大の受益者であり、自身の権力確立における最大の障害である中野・牧野父子の排除は、真の当主として実権を掌握するための避けては通れない「通過儀礼」だったのである。
この膠着した状況を打破するきっかけとなったのが、一人の男の登場であった。遠藤基信、その人である。彼は元々、中野宗時に仕える「門士」(門番)に過ぎなかったが、諸国を旅して見聞を広めた才知と、特に連歌の才能によって輝宗の目に留まり、側近として取り立てられた 2 。
宗時は当初、輝宗を軽んじて自らは出仕せず、その代理として基信を輝宗のもとへ送り込んでいた 2 。宗時の狙いは、基信を輝宗への連絡役、そして自らの意向を伝え、輝宗を監視するための駒として利用することにあったのだろう。しかし、この目論見は完全に裏目に出る。基信は宗時の代理人としてではなく、輝宗個人に忠誠を誓う腹心として、その類まれな才覚を発揮し始めたのである 2 。
輝宗がこの有能な側近を得たことで、政治の風向きは大きく変わった。これまで何事も中野・牧野父子に頼らざるを得なかった輝宗は、基信という新たな政治的リソースを手に入れたことで、父子への依存度を急速に低下させていった 2 。それは同時に、輝宗が旧守派の重臣たちを排除し、自らの親政体制を築くための政治的条件が整いつつあることを意味していた。
輝宗親政体制の確立を目指す動きと、それに抵抗する中野・牧野父子の思惑が交錯する中、伊達家中の緊張は限界点に達していた。元亀元年(1570年)、水面下で進行していた権力闘争はついに一線を越え、謀叛という形で激しい武力衝突へと発展する。
人物名 |
立場・役職 |
陣営 |
乱における役割 |
牧野久仲 |
陸奥守護代、小松城主 |
謀叛方 |
謀叛の首謀者の一人。小松城に籠城。 |
中野宗時 |
伊達家宿老 |
謀叛方 |
謀叛の首謀者。輝宗への反乱を主導。 |
伊達輝宗 |
伊達家16代当主 |
討伐方 |
討伐軍の総大将。父子の追放を断行。 |
遠藤基信 |
輝宗側近 |
討伐方 |
謀叛計画の露見に繋がる計略を仕掛け、輝宗を補佐。 |
新田景綱 |
伊達家臣 |
討伐方 |
実子・義直の謀叛加担を密告し、討伐軍の先鋒を務める。 |
新田義直 |
景綱の子、宗時の孫婿 |
謀叛方 |
宗時に誘われ謀叛に加担するが、父により捕縛される。 |
亘理元宗・重宗 |
伊達家一門 |
討伐方 |
敗走する中野・牧野一党を待ち伏せ、撃破する。 |
相馬盛胤 |
相馬家当主 |
その他 |
伊達家と敵対。敗走した宗時・久仲を領内に匿う。 |
輝宗の寵愛が日に日に遠藤基信へと移っていく状況に、中野宗時は強烈な嫉妬と危機感を募らせていた。自らの影響力の低下は、輝宗側近である基信の台頭と反比例していたからである 2 。権力者としてのプライドを傷つけられた宗時は、ついに実力行使という凶行に及ぶ。連歌の会からの帰宅途中の基信を、盗賊に扮した手勢に襲撃させ、その暗殺を謀ったのである 2 。
しかし、この計画は失敗に終わる。刺客の刃は基信の衣服を切り裂いたものの、その命を奪うには至らなかった。命拾いした基信は、この事実を直ちに主君・輝宗の元へ報告した 2 。
この暗殺未遂事件は、両者の対立がもはや交渉や駆け引きでは解決不可能な段階に入ったことを示す、非可逆的な転換点であった。宗時にとっては、輝宗の権威そのものである基信を排除しようとする最後の抵抗であり、輝宗にとっては、家臣が当主の側近に刃を向けたという、決して許すことのできない反逆行為であった。この事件を境に、輝宗は中野・牧野父子の完全排除を密かに決意したと考えられる。
輝宗が反撃の機会を窺う中、事態は思わぬ形で動き出す。元亀元年4月4日、伊達家臣の新田景綱が、実の息子である義直を捕縛し、輝宗の御前へと突き出した 6 。景綱の報告によれば、中野宗時と牧野久仲が謀叛を企てており、義直もそれに加担していたという。義直は宗時の嫡男・親時の娘婿という立場から謀叛に誘われたが、父・景綱に相談したことで計画が露見したのである 6 。
この密告は、遠藤基信が事前に仕組んだ計略の成果であったとも言われる 6 。基信は、忠義に厚い景綱の息子を宗時の縁者とすることで、謀叛が起きた際に情報が漏れる安全弁として機能することを見越していたのである。
計画の露見を察知した宗時の行動は迅速だった。同日夜、米沢城下の自邸と配下の家々に火を放って混乱を引き起こすと、その煙に紛れて実子・久仲が城主を務める出羽国小松城(現在の山形県川西町)へと逃げ込んだ 6 。この放火により、米沢の城下町は「一宇も残らず焼亡」するほどの壊滅的な被害を受けたと記録されている 6 。
翌4月5日、輝宗は自ら軍勢を率いて小松城を包囲。新田景綱や小梁川宗秀らを先鋒として、激しい攻城戦が開始された 6 。
小松城に籠城した中野・牧野一党であったが、輝宗の迅速な攻撃の前に、援軍を待つ時間的猶予はないと判断。城の囲みの一角を突破し、逃亡を図った 6 。しかし、輝宗の追討計画は周到であった。逃走経路にあたる刈田郡の河原では、伊達一門の重鎮である亘理元宗・重宗親子が軍勢を率いて待ち伏せていた 6 。
不意を突かれた反乱軍は抗う術もなく大敗を喫し、一党は離散。辛うじてその場を逃れた宗時と久仲は、伊達氏と長年敵対関係にあった相馬盛胤を頼り、その領内へと落ち延びていった 1 。相馬氏は天文の乱で稙宗方に与して以来、晴宗・輝宗の系統とは対立を続けており、伊達家の内紛から生まれた亡命者を受け入れることは、敵を弱体化させる好機と捉えたのであろう 12 。こうして、伊達家中を震撼させた権力者たちの時代は、謀叛の失敗と追放という形で、あまりにも呆気ない幕切れを迎えた。
元亀の乱に敗れ、伊達領を追われた牧野久仲と父・中野宗時。彼らが歴史の表舞台から姿を消した後、伊達家では輝宗による新たな支配体制が確立される一方、謀叛人の一族であるはずの牧野家は、数奇な運命を辿ることになる。
宿敵・相馬氏の領内へ逃げ込んだ宗時と久仲は、なおも伊達家への帰参を諦めていなかった。彼らは輝宗の叔父にあたる重鎮・伊達実元や、隠居の身であった父・晴宗を介して、輝宗に赦免を繰り返し願い出た 1 。しかし、輝宗の決意は固く、その願いが生涯許されることはなかった 1 。
輝宗が彼らを許さなかったのは、単なる私怨からではなかった。これは、家中の綱紀を粛正し、自らが伊達家唯一の絶対的な支配者であることを内外に示すための、断固たる政治的決断であった。主君に弓を引いた者を許せば、他の家臣への示しがつかず、確立しかけた当主の権威は再び揺らぎかねない。父子の追放は、輝宗が目指す新しい伊達家のための、いわば生贄であった。
赦免の道が絶たれた宗時と久仲は、その後、流浪のうちにその生涯を終えたと伝えられる 8 。しかし、その具体的な没年や場所を記した確かな記録は現存しておらず、権勢を極めた男たちの最期は歴史の闇に包まれている 1 。
元亀の乱が、天文の乱のような大規模な内乱に発展することなく、迅速に鎮圧されたことは、伊達家にとって大きな意味を持った 30 。家中最大の実力者であった中野・牧野一派という「重し」が取れたことで、輝宗の支配体制は一気に安定化し、盤石なものとなったのである 5 。
輝宗は乱後、家臣団の再編成に直ちに着手した。中野・牧野父子に代わる新たな執政の筆頭には、乱の勝利に大きく貢献した遠藤基信を抜擢 15 。基信は特に外交面でその手腕を発揮し、輝宗の意向を忠実に反映させることで、輝宗親政体制の確立を支えた 5 。この権力基盤の安定こそが、天文の乱以来続いていた伊達家の内紛に終止符を打ち、後の伊達政宗の時代における奥州統一への飛躍を準備する礎となったのである。
主君への謀叛という大罪を犯した牧野久仲の一族は、断絶するのが戦国の常である。事実、元亀の乱により牧野家は一度「改易」(所領・家禄の没収)処分を受けている 10 。しかし、驚くべきことに、牧野氏の家名はその後も仙台藩士として存続した 16 。
その後の牧野家の歩みは、さらに数奇な運命を辿る。江戸時代に入り、慶安3年(1650年)、当主・牧野盛仲(あるいは茂仲)の代には、2,500石という大身にまで返り咲いていた記録がある 9 。しかし、この年に何らかの理由で再び改易処分を受けてしまう(慶安の改易) 9 。
二度もの改易を受けながらも、牧野家はなおも存続を許された。最終的には、惣領家が500石、分家とされる竹谷牧野家が435石の知行を持つ平士として、幕末までその家名を保ったのである 10 。
この異例とも言える生命力の背景には、牧野という家名が持つ「ブランド価値」が、伊達家にとって政治的に利用可能であった可能性が考えられる。謀叛人である久仲個人は許されなくとも、伊達家譜代の宿老という「牧野家」そのものを家臣団に留め置くことは、伊達家の支配の正統性や歴史の連続性を内外に示す上で、象徴的な意味を持っていたのではないか。一度は2,500石もの大身に復帰させている事実は、その家格が軽視されていなかった証左と言える。牧野家の歴史は、戦国から江戸期にかけての大名家における、家臣団統制の功罪を超えた複雑な論理の一端を物語っている。
牧野久仲の生涯は、父・中野宗時と共に伊達家の権力構造を内側から支配し、その頂点を極めながらも、最終的には新しい時代の潮流の前に敗れ去った旧世代の権力者の象徴であった。彼らの権勢は、天文の乱という内乱が生み出した特殊な状況下でのみ成立し得たものであり、主君の代替わりという必然的な変化に対応することができなかった。
久仲の謀叛と失脚は、単なる一重臣の反乱に留まらない。それは、若き当主・伊達輝宗が、父祖伝来の分権的な家臣団連合体制から脱却し、強力な当主独裁体制を確立する上で不可欠な「創造的破壊」であった。中野・牧野父子という旧体制の象徴を排除することで、輝宗は初めて真の当主となり、伊達家を次なる時代へと導くための権力基盤を築いたのである。
この意味において、牧野久仲の物語は、戦国時代における主君と家臣の間の絶えざる緊張関係、世代交代に伴う権力闘争の非情さ、そして一個人の野心と栄華が、時代の大きなうねりの中でいかに翻弄され、やがては歴史の彼方へと消えていくかを示す、極めて示唆に富んだ歴史的事例であると言えよう。