徳川家臣団が綺羅星の如く輝いた戦国乱世から江戸黎明期にかけて、その中にあって「勇将」と謳われながらも、一度の蹉跌によって歴史の表舞台から退いた一人の武将がいる。その名は牧野康成(まきのやすなり)。三河国牛久保城主として徳川家康に仕え、数多の戦場で武功を重ね、ついには上野国大胡(おおご)二万石の大名にまで上り詰めた人物である 1 。しかし、彼の名は関ヶ原の戦いにおける第二次上田合戦での軍令違反という、輝かしい戦歴とは対照的な出来事によっても記憶されている 3 。
本報告書の対象とする牧野康成は、弘治元年(1555年)に生まれ、従五位下・右馬允に叙された人物である 5 。同時代には、武蔵国石戸領主であった同姓同名の牧野半右衛門康成(初名は正勝)も存在するが、こちらは徳川家康の伊賀越えに随行したことで知られる別人物であり、明確に区別する必要がある 6 。
本報告書は、利用者が既に把握している「牛久保城主、関ヶ原合戦で秀忠軍に属し上田城攻めで奮戦するが、軍令違反があり、蟄居する」という情報の範疇に留まらず、康成の出自と彼が属した三河牧野氏の複雑な背景、徳川家への帰順に至る政治的決断、初代大胡藩主としての統治、そして彼のキャリアに決定的な影を落とした軍令違反事件の深層を、現存する史料を基に多角的に解き明かすことを目的とする。彼の栄光と蹉跌に満ちた生涯を追うことは、戦国武将が近世大名へと変貌を遂げる過渡期のダイナミズムと、そこに生きた人間の苦悩を理解する上で、極めて重要な示唆を与えるであろう。
牧野康成の人物像を理解するためには、まず彼が属した三河牧野氏の起源と、戦国期の東三河におけるその複雑な立ち位置を把握することが不可欠である。一地方豪族(国人)に過ぎなかった牧野氏が、いかにして徳川譜代大名への道を歩み始めたのか、その軌跡を辿る。
三河牧野氏の出自は一様ではなく、複数の伝承が存在する。最も広く知られているのは、四国阿波国を起源とする紀姓田口氏の後裔であるとする説である 1 。『寛政重修諸家譜』などによれば、平安末期に平清盛に仕えた田口成良・教良父子の子孫が、室町時代の応永年間(1394年-1428年)に、時の将軍足利義持の命、あるいは守護大名細川氏に従って三河国宝飯郡牧野村(現・愛知県豊川市)に移住し、その地名から「牧野」を称したことに始まるとされる 1 。
しかし、牧野氏は決して一枚岩の集団ではなかった。戦国期には、今橋城(後の吉田城)を拠点とした「田蔵系」、そして康成の家系に繋がる牛久保城を拠点とした「平三郎系」や「平四郎系」など、複数の系統が並立し、時には互いに対立することもあった 9 。このような一族内の複雑な関係性は、戦国時代の国人領主が抱える内部の脆弱性を示すものであった。
また、注目すべきは、徳川家康に仕えるようになってから、牧野氏がその本姓を(それまでの紀姓や平姓から)清和源氏と称するようになった点である 11 。これは、徳川家という新たな主君の下で譜代大名としての家格を確立しようとする、当時の武家社会に共通する戦略的な権威付けの一環であったと考えられる。
康成の父・成定の時代、牧野氏の本拠地は牛久保城であった 1 。この城は享禄2年(1529年)に築かれ、城の周囲に武家屋敷や寺社を計画的に配置した、近世城下町の先駆的な構造を持っていたと評価されている 12 。
当初、東三河に勢力を持つ牧野氏は、駿河国の戦国大名・今川氏の支配下にあり、西三河から急速に勢力を拡大する松平氏(後の徳川氏)とは敵対関係にあった 9 。松平清康(家康の祖父)の侵攻によって一時はその軍門に降るも、清康が「守山崩れ」で横死すると、再び今川方に復帰するなど、牧野氏は今川・松平という二大勢力の狭間で、自家の存続を賭けて揺れ動く国人領主の典型的な姿を示していた 9 。
牧野氏の運命を決定的に変えたのは、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いである。今川義元が織田信長に討たれると、三河におけるパワーバランスは崩壊し、自立した徳川家康が三河統一に乗り出した。この時、牧野氏は今川方としての立場を堅持し、家康に対して頑強に抵抗した 9 。永禄4年(1561年)には、家康自らが牛久保城への奇襲攻撃を仕掛けるなど、両者の間では激しい攻防が繰り広げられた 15 。
この抵抗は、単なる日和見主義ではなく、今川家への旧恩や、駿府に送られていた人質の問題などが背景にあったと考えられる 14 。しかし、今川氏の衰退は覆うべくもなく、援軍も期待できない状況下で、城主・牧野成定は永禄9年(1566年)頃までに家康に服属するという苦渋の決断を下した 9 。これは単なる降伏ではなく、徳川という新たな秩序の中で家の存続と発展を図るための、極めて戦略的な転換であった。この決断こそが、子・康成の代に譜代大名として飛躍する礎を築いたのである。
成定の死後、康成は家康の承認と後援を得て家督を相続した。その際には一族の牧野成元との間で遺領を巡る争いがあったとされ、家康の支持が康成の地位を盤石にしたことが窺える 16 。こうして牧野氏は、戦国時代の国人領主から、徳川政権を支える近世大名へと脱皮していく第一歩を踏み出したのである。
父・成定が下した徳川家への帰順という決断は、息子・康成の代で大きく花開くこととなる。彼は徳川家臣団の一員として武功を重ね、家康の天下取り事業に貢献。その功績によって、ついには一国一城の主となった。
表1:牧野康成 年表
西暦 |
和暦 |
年齢 |
主な出来事 |
典拠 |
1555年 |
弘治元年 |
1歳 |
三河国にて牧野成定の嫡男として誕生。 |
1 |
1566年頃 |
永禄9年頃 |
12歳頃 |
父・成定が徳川家康に服属。 |
9 |
1566年 |
永禄9年 |
12歳 |
父・成定が死去。家康の承認を得て家督を継ぐ。 |
12 |
1575年 |
天正3年 |
21歳 |
長篠の戦いに従軍。以後、徳川軍の主要な合戦に参加し武功を重ねる。 |
1 |
1590年 |
天正18年 |
36歳 |
家康の関東移封に伴い、上野国勢多郡大胡城主となり2万石を領する。 |
1 |
1600年 |
慶長5年 |
46歳 |
関ヶ原の戦いで徳川秀忠軍に属し、第二次上田合戦に参加。刈田行為と追撃で軍令違反を犯す。 |
3 |
1600年以降 |
慶長5年以降 |
46歳以降 |
軍令違反を咎められ、上州吾妻にて蟄居を命じられる。 |
3 |
1604年 |
慶長9年 |
50歳 |
徳川家光の誕生に伴う恩赦により処分を解かれ、大胡藩2万石に復帰。 |
5 |
1604年以降 |
慶長9年以降 |
50歳以降 |
公事を嫡男・忠成に任せ、大胡にて閑居(隠居)する。 |
5 |
1610年1月6日 |
慶長14年12月12日 |
55歳 |
上野国大胡にて死去。 |
1 |
父の跡を継いだ康成は、主君・徳川家康からその名の一字である「康」の字を与えられている 19 。これは、主君が家臣に与える最大の栄誉の一つであり、康成が徳川家中で確固たる地位を築き、大きな期待を寄せられていたことの証左である。
その期待に応えるように、康成は武将として目覚ましい活躍を見せた。天正3年(1575年)の長篠の戦いをはじめ、家康が繰り広げた数々の合戦に従軍し、その勇猛さから「勇将の名をうたわれた」と記録されている 1 。特に、家康の勢力基盤を固める上で重要であった東海道平定戦においても、康成は多大な武功を挙げたとされる 19 。これらの戦場での働きが、後の大名への取り立ての直接的な理由となったことは言うまでもない。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐の後、徳川家康は東海地方から関東へと移封される。この歴史的な国替えに伴い、康成は三河以来の功績を賞され、上野国勢多郡(現在の群馬県前橋市の一部)に大胡城を与えられ、2万石を領する譜代大名となった 1 。これにより、康成は父祖の地・三河を離れ、新たな領地の統治者としての道を歩み始める。
康成は、単に武勇に優れただけの武将ではなかった。初代大胡藩主として、彼は領国経営にも手腕を発揮した。特に、大胡地区の城下町の基礎を築いた「町割り」を行ったことは、彼の統治者としての一面を物語る重要な功績である 19 。これは、戦乱の世が終わり、安定した統治が求められる新しい時代への移行を象徴する事業であった。康成が築いた町割りの基礎は、現在の大胡地区の骨格として今なお残り、その功績を称えて「大胡城・牧野氏まつり」が隔年で開催されていることは、彼の遺産が地域に深く根付いていることを示している 20 。戦場での武功と、平時における統治能力の両立。これこそが、戦国武将から近世大名へと脱皮するために不可欠な資質であり、康成はそれを備えていたのである。
武功と統治能力を兼ね備え、譜代大名として順風満帆な道を歩んでいるかに見えた牧野康成。しかし、天下分け目の関ヶ原の戦いが、彼の運命に大きな影を落とすことになる。この戦役において彼が犯した一つの過ちが、その後の武将としてのキャリアを大きく狂わせたのである。
慶長5年(1600年)、徳川家康は会津の上杉景勝討伐を名目に兵を挙げ、石田三成を中心とする西軍との決戦は避けられない情勢となった。この時、康成は家康の本隊ではなく、嫡男・徳川秀忠が率いる3万8000の別働隊に配属された 3 。秀忠軍は、東海道を進む家康本隊とは別に、中山道を通って西上する任務を帯びていた。この部隊編成が、康成の運命の分かれ道となる。
秀忠軍の進路上には、西軍に与した知将・真田昌幸とその子・信繁(幸村)が籠城する信濃国の上田城が存在した 23 。秀忠は当初、昌幸が提示した降伏を受け入れ、無血開城させようと試みる。しかしこれは、城の守りを固めるための昌幸の時間稼ぎの策であった。偽りの降伏交渉に翻弄された挙句、挑発的な態度を取られた秀忠は激怒し、上田城への総攻撃を決意する 25 。こうして、後に「第二次上田合戦」と呼ばれる戦いの火蓋が切られた。
9月6日、秀忠軍による上田城攻めが開始された。その口火を切ったのは、他ならぬ牧野康成と、その嫡男・忠成が率いる部隊であった。彼らは上田城下の田の稲を刈り取る「刈田(かりた)」という行為を行った 17 。これは、城兵を挑発して誘き出すための常套戦術であった。
挑発に乗って城から出てきた真田軍を一度は撃退したものの、徳川軍は真田の巧みな籠城戦術の前に苦戦を強いられる 27 。大手門まで追撃した牧野勢に対し、総大将・秀忠から撤退命令が下された。しかし、功を焦る康成の部隊はこれを無視、あるいは聞き入れずに深追いし、大手門まで迫ったとされる 17 。これが決定的な軍令違反となった。
この行動は、戦国時代以来の「抜け駆けは戦の習い」という、個人の武功を第一とする古い武士の価値観に根差していた可能性が高い 18 。しかし、総大将の厳格な指揮命令系統の下で統制された行動が求められる、近世的な軍団においては許されざる逸脱行為であった。軍監を務めていた本多正信や大久保忠隣らはこの違反を厳しく追及し、康成の旗奉行であった贄掃部(にえかもん)は死罪を命じられた(ただし、康成の黙認のもと逃亡したという) 28 。この事件は、単なる一個人の過ちではなく、戦国的な個人の武勇伝が、近世的な組織の規律へと取って代わられていく時代の転換点を象徴する出来事であった。
上田城を攻略できず、結果的に関ヶ原の本戦に遅参するという大失態を演じた秀忠の怒りは激しかった。軍令に背き、さらに罪に問われた部下を弁護した康成は、上州吾妻での蟄居を命じられた 3 。これは、彼の武将としての栄光に泥を塗る、最大の汚点となった。
しかし、牧野家は改易、すなわち領地没収という最悪の事態は免れた 5 。これは、三河以来の功臣であり、徳川家中で重要な位置を占める譜代大名である牧野家を完全に排除することが、確立途上にあった徳川政権にとって得策ではないという、高度な政治的判断が働いた結果であろう。
蟄居から4年後の慶長9年(1604年)、後の三代将軍・徳川家光の誕生という祝事を契機とした恩赦により、康成は処分を解かれ、大胡藩2万石の領主として復帰を許された 5 。これは、軍令の絶対性を示すという「ムチ」を振るう一方で、将来の禍根を残さぬよう、祝事を口実に功臣を救済するという「アメ」を与える、徳川政権の巧みな統治術、すなわちプラグマティズムの現れであった。
上田城での蹉跌とそれに続く蟄居生活は、牧野康成の心に深い影を落とした。赦免され大名としての地位は保ったものの、かつての栄光を取り戻すことはなく、彼の晩年は失意のうちに過ぎていったとされる。しかし、彼個人のキャリアとは裏腹に、彼が築いた家格と人脈は、一族の未来を盤石なものにしていく。
表2:牧野康成 近親系図
関係 |
氏名(院号) |
続柄・備考 |
典拠 |
父 |
牧野成定 |
三河牛久保城主。徳川家康に帰順。 |
1 |
本人 |
牧野康成 |
上野大胡藩初代藩主。 |
5 |
正室 |
鳳樹院(於虎) |
酒井忠次の養女(一説に実娘)、後に徳川家康の養女。 |
5 |
長男 |
牧野忠成 |
越後長岡藩初代藩主。 |
5 |
次男 |
牧野秀成 |
|
5 |
三男 |
牧野儀成 |
旗本。子・成貞は五代将軍綱吉の側用人。 |
5 |
嫡女 |
昌泉院 |
徳川家康の養女として、福島正則の継室となる。 |
5 |
娘 |
充(永昌院) |
肥前平戸藩主・松浦隆信の正室となる。 |
5 |
三女 |
慶台院 |
家臣・牧野正行の室となる。 |
5 |
四女 |
馨香院 |
家臣・牧野正成の室となる。 |
5 |
大胡藩に復帰したものの、康成が再び政治の表舞台で活躍することはなかった。彼は藩の公事をすべて嫡男の忠成に委ね、自身は城下で静かな閑居生活に入った 5 。
同時代史料である『当代記』には、康成が「死去の六・七年前から世の中を恨んで隠居した」という、彼の内面を窺わせる記述が残されている 5 。この一文からは、上田城での一件で武人としての誇りを深く傷つけられ、自身の評価に納得できないまま、世を拗ね、憤懣を抱えて生きた康成の姿が浮かび上がってくる。そして慶長14年(1609年)12月12日、彼はその波乱の生涯を大胡の地で閉じた。享年55であった 1 。
康成の人物像を物語る興味深い逸話が残されている。彼が正室・於虎(鳳樹院)を娶る際、彼女の養父であった徳川四天王の一人・酒井忠次は、「康成は油断ならぬ男だ。いつか謀反を起こし、三河一国を乗っ取りかねない」と警戒し、結婚に強く反対した。これを聞いた徳川家康は、「それほどの器量者であればこそ、そなたの娘を与えて味方に取り込むべきだ。あれほどの勇士が確かな味方となれば、これほど心強いことはない」と忠次を諭し、縁組を後押ししたという 19 。この逸話は、康成が単なる猛将ではなく、主君の重臣にさえ警戒されるほどの野心と才幹を秘めた、底知れぬ人物と見なされていたことを示している。
家康が康成の「器量」を高く評価していたことは、その子女の婚姻政策にも表れている。
康成個人の野心と才幹は、結果として彼自身のキャリアを蹉跌させたが、皮肉にもその「器量」があったからこそ、徳川家は牧野家を重用し、戦略的な婚姻を通じてその地位を盤石なものにした。康成個人の失意とは裏腹に、一族は繁栄への道をひた走ることになるのである。
牧野家には、三河牛久保の厳しい環境の中で培われた「常在戦場(じょうざいせんじょう)」という家訓が伝わっている 20 。これは「常に戦場にあるかのような心構えで物事に処すべし」という意味であり、康成の勇将としての生き様をまさに象徴する言葉である。
しかし、この精神は諸刃の剣でもあった。上田城での功名心に駆られた行動は、この「常在戦場」の精神が裏目に出た結果と見ることもできる。一方で、この家訓は、平時においても緊張感を失わずに政務に臨むべしという、統治者としての心構えとも解釈できる。武勇と統治、栄光と蹉跌。この家訓は、康成の多面的で複雑な人物像を映し出す鏡と言えるだろう。
牧野康成の生涯は、個人的には失意のうちに幕を閉じたかもしれない。しかし、彼が遺したものは、決して小さなものではなかった。彼が築いた礎は、物理的な史跡として現代にその姿を留めると同時に、一族の繁栄という無形の遺産として江戸時代を通じて受け継がれていった。
康成の死後、家督を継いだ嫡男・忠成は、父が遺した基盤の上で目覚ましい飛躍を遂げる。慶長19年(1614年)からの大坂冬の陣・夏の陣において、忠成は徳川方として参陣し、多大な戦功を挙げた 18 。
この功績が高く評価され、牧野家は加増移封を重ねることになる。元和2年(1616年)、康成が築いた上野大胡2万石から、越後国長峰5万石へと移封。さらにその2年後の元和4年(1618年)には、越後長岡6万石(後に7万4000石まで加増)の主となり、ここに幕末まで続く名門・越後長岡藩が誕生した 2 。康成が徳川家臣として命懸けで築き上げた2万石の所領と譜代大名としての家格が、息子の代での大躍進を可能にしたのである。一族の菩提寺も、三河牛久保の光輝院や栄凉寺から、上州大胡の養林寺、そして越後長岡の栄凉寺へと、その移封に伴って移転していった 38 。
牧野康成の生涯を物語る史跡は、彼の原点である三河と、終焉の地となった上野に今なお点在している。
これらの史跡は、康成という一人の武将の生涯と、彼が属した牧野一族の歩みを現代に伝える貴重な遺産である。
牧野康成の生涯は、東三河の一国人領主の子として生まれ、徳川家康という稀代の英雄の下で武功を重ね、譜代大名へと駆け上がった「栄光」の物語であった。彼は戦場で求められる武勇と、平時に求められる統治能力を兼ね備えた、有能な武将であったことは間違いない。
しかし同時に、その生涯は関ヶ原の戦いにおける第二次上田合戦での軍令違反という一つの「蹉跌」によって、大きくその輝きを失った。この事件は、個人の武功を至上とする戦国の価値観と、厳格な軍律を要請する近世の組織論理との間で、康成が完全には適応しきれなかったことを示す、過渡期ならではの悲劇であったと言えよう。
彼自身は「世の中を恨んで」失意のうちに世を去ったかもしれない。だが、歴史の評価は個人の感慨のみでは決まらない。彼が築いた家格と、徳川政権内で培った信頼という無形の遺産は、息子・忠成の代における越後長岡藩の創設という形で結実した。そして、その血脈は幕末の動乱期に至るまで、日本史において重要な役割を果たし続けることになる。
個人のキャリアは絶たれながらも、一族の永続的な繁栄の礎を築いた牧野康成。彼はまさに、戦国乱世の終焉と泰平の世の到来という、時代の大きなうねりの中で生きた武将の典型であり、その栄光と蹉跌に満ちた生涯は、徳川政権の安定化に貢献した譜代大名の一つの実像として、後世に多くのことを語りかけている。