最終更新日 2025-06-28

田中吉次

「田中吉次」の画像

戦国の影、悲劇の嫡男 ― 田中吉次、その生涯の徹底的考察

序章:歴史の影に消えた嫡男 ― 田中吉次、その悲劇の生涯

筑後三十二万石の大大名、田中吉政。彼は豊臣秀吉、そして徳川家康の下で乱世を生き抜き、関ヶ原の戦いでは石田三成を捕縛するという大功を立てた、戦国時代を代表する武将の一人である。その嫡男として生まれ、将来を嘱望されながら、歴史の表舞台から忽然と姿を消した人物がいる。それが田中吉次(たなか よしつぐ)である。

彼の名は、父・吉政の輝かしい功績の陰に隠れ、あるいは父との確執と廃嫡という悲劇的な結末によって、断片的に語られるに過ぎない。しかし、その短い生涯を丹念に追うとき、我々は豊臣政権から徳川政権へと移行する激動の時代に翻弄された、一人の有能な武将の光と影を目の当たりにする。なぜ彼は、約束されたはずの未来を失ったのか。その栄光と転落の軌跡は何を物語るのか。

本報告書は、この歴史の狭間に埋もれた問いから出発する。現存する『寛政重修諸家譜』をはじめとする諸系図、書状、そして江戸時代の記録など、断片的に残された史料を繋ぎ合わせ、彼の出自から、豊臣秀次の側近としての活躍、そして謎に包まれた父・吉政との不和、廃嫡に至る経緯を徹底的に追跡する。特に、これまで明確な答えのなかった父子確執の原因について、状況証拠から多角的に考察し、田中吉次という人物像の再構築を試みることを目的とする。彼の悲劇は、単なる一個人の物語に留まらず、時代の転換期における大名家の権力継承の困難さと、そこに生きた人々の宿命を象徴しているのである。


【付属資料1:田中吉次 関連年表】

田中吉次の生涯を理解するため、彼個人の動向、父・吉政の経歴、そして同時代の主要な歴史的出来事を時系列で整理する。この対比により、父子の歩みがどのように交差し、そして乖離していったかが明確になる。

西暦

和暦

田中吉次の動向

父・田中吉政の動向

主な歴史的出来事

(生年不詳)

田中吉政の嫡男として誕生。幼名は小十郎か 1

近江国にて宮部継潤に仕える 2

1584

天正12

父と共に小牧・長久手の戦いに従軍 1

豊臣秀吉の馬廻として従軍。

小牧・長久手の戦い

1585

天正13

父が秀次の筆頭家老となり、自身も秀次に仕える 1

豊臣秀次の筆頭家老となり、近江八幡山城にて政務を執る 5

豊臣秀次、近江八幡43万石の城主となる。

(不詳)

秀次より偏諱を受け「吉次」と名乗る 1

1590

天正18

奥州仕置にて、下間頼廉と協力し本願寺門徒対策にあたる 1

小田原征伐の功により三河岡崎城主5万7千石となる 2

豊臣秀吉、天下統一。奥州仕置。

1595

文禄4

秀次事件。吉政は秀次を諫言したとして連座を免れ、加増される 5

豊臣秀次、自刃。

1596

文禄5/慶長元

吉次の所領と合わせ10万石の大名となる 4

1600

慶長5

父と共に東軍に属し関ヶ原の戦いに参陣 1 。『慶長見聞記』に岡崎城主として記録される 7

関ヶ原の戦いで石田三成を捕縛する大功を立てる 3

関ヶ原の戦い

1601

慶長6

父に先んじて筑後柳川に入国。徳川秀忠・大久保忠隣へ贈答品を送る 4

筑後一国32万5千石を与えられ、柳川城主となる 2

(1601以降)

父・吉政と不和になり、柳川より逐電。廃嫡される 1

1609

慶長14

(京都にて浪人生活か)

参勤交代の途中、京都伏見にて死去 2

1617

元和3

7月3日、許されぬまま京都にて病死 1

(没)

1620

元和6

(没)

(没)

弟・田中忠政が嗣子なく死去。柳川藩田中家は改易となる 2

(江戸中期)

孫の田中政信が幕府に召し出され、210俵の旗本となる 1

(没)


第一部:栄光への道 ― 豊臣政権下の嫡男

第一章:誕生と田中家の躍進

田中吉次は、戦国末期から江戸時代初期にかけて活躍した武将・田中吉政の嫡男として生を受けた 1 。その生年は詳らかではない。父・吉政は近江国高島郡田中村の出身とも、浅井郡三川村の出身ともいわれるが 5 、当初は浅井氏の家臣である宮部継潤に仕え、そこから才覚を豊臣秀吉に見出されて、一介の武士から大名へと駆け上がった実力者であった 2 。吉次の母は、宮部継潤の家臣であった国友与左衛門の娘であり、父の立身出世の過程で結ばれた縁であったことがうかがえる 1

吉次には、康政(吉興)、忠政、吉信といった弟たちがいたことが記録されている 1 。彼はその長男として、父が築き上げた家を継承する運命を背負って誕生した。

そのキャリアの第一歩は、父と共に豊臣秀吉に仕えることから始まる。彼は秀吉の親衛隊とも言うべき馬廻衆の一員となり、天正12年(1584年)に勃発した小牧・長久手の戦いでは、若くして父と共に戦場に赴いた 1 。この従軍は、彼が単なる家に控える嫡子ではなく、田中家の次代を担う武将として、早くから実戦経験を積んでいたことを示している。父・吉政の躍進と共に、吉次の未来もまた、輝かしいものと見なされていたに違いない。

【付属資料2:田中家 略系図】

田中家の家督相続と、その後の血脈の行方を視覚的に理解するために、以下に略系図を示す。嫡男であった吉次が廃嫡され、四男の忠政が家督を継いだこと、しかしその忠政の代で大名家としては断絶し、皮肉にも吉次の系統が旗本として存続したという複雑な経緯が一目でわかる。

田中重政

田中吉政
┏━━┳━━━━━━┳━━━━━╋━━━━━━┳━━━┓
田中吉次(長男) 田中吉信(次男) 田中康政(三男) 田中忠政(四男) 田中吉興(五男) 娘
(廃嫡)                            (家督相続)
┃                                (嗣子なく改易)
田中吉勝

田中政信
(旗本として存続)

注:兄弟の順については諸説あるが、本図は複数の史料を総合して構成したものである 1

第二章:豊臣秀次の側近としての器量 ― 奥州仕置における暗躍

田中吉次の生涯において、最初の大きな転機となったのは、父・吉政が豊臣秀次の筆頭家老に抜擢されたことであった。天正13年(1585年)、秀吉の甥である豊臣秀次(当時は三好秀次)が近江八幡に43万石の広大な領地を与えられると、吉政はその重臣筆頭として、中村一氏、堀尾吉晴、山内一豊らと共に宿老に任じられた 5 。吉政は秀次の居城である八幡山城にあって、政務全般を取り仕切る中心的な役割を担った 5

この父の昇進に伴い、吉次自身も秀次に仕えることとなる。そして、主君である秀次から「吉」の一字を拝領し、それまでの小十郎といった通称から「吉次」と名乗るようになった 1 。偏諱を受けることは、主君からの特別な信頼と期待の証であり、吉次が田中家の嫡男として、また秀次の有力な側近として公式に認められたことを意味する。これは、彼のキャリアにおける最初の栄光であった。

吉次の能力が真に発揮されたのは、天正18年(1590年)の奥州仕置に伴って発生した葛西大崎一揆の鎮圧においてであった。この時、彼は単なる一軍の将としてではなく、高度な政治交渉を担うエージェントとして、豊臣政権にとって極めて重要な任務を遂行している。

記録によれば、吉次はこの時、本願寺の坊官である下間頼廉(しもつま らいれん)と連携し、一揆の中核をなしていた浄土真宗寺院の門徒たちと緊密に連絡を取り、説得・懐柔工作にあたった 1 。この任務の背景には、かつて織田信長を10年以上にわたって苦しめた石山合戦に代表される、一向一揆の悪夢があった。浄土真宗の門徒組織は強固な結束力を持ち、一度蜂起すればその勢いは侮れない。奥州の反乱が、宗教的な色彩を帯びて全国規模の一揆へと発展することを、豊臣政権は極度に警戒していたのである。

吉次に与えられた役割は、武力による鎮圧ではなく、宗教組織の内部に働きかけ、争乱が畿内に波及するのを未然に防ぐという、極めて繊細な政治工作であった。彼がこの大役を任され、下間頼廉という本願寺中枢の人物と協力して任務を遂行したという事実は、彼が単なる武勇の士ではなく、交渉能力や政治的判断力に優れた、器量の大きい人物であったことを雄弁に物語っている。この功績は、彼が父の後継者として申し分ない能力を備えていることを、豊臣政権内外に示したはずである。

第三章:三河国における統治者として ― 西尾城主説の検証

奥州仕置と同年の天正18年(1590年)、父・吉政は小田原征伐での功績を認められ、徳川家康が関東へ移封された後の三河岡崎城主に任命された 2 。当初5万7400石であった所領は、後に加増を重ね、最終的に吉次の分と合わせて10万石の大名となる 4 。吉政は岡崎において、城郭の大規模な改修や、城下を貫く東海道を屈曲させて防衛機能を高めた「岡崎の二十七曲り」の整備など、優れた都市設計家として卓越した手腕を発揮した 5

この三河時代における田中吉次の立場については、史料によっていくつかの異なる記述が見られ、彼の役割の重要性をうかがわせる。

一つの説として、父が岡崎城主であった頃、吉次は三河国のもう一つの要衝である西尾城を治めていた、というものがある 4 。これは、嫡男に支城を任せ、領国経営を分担させるという、当時としては一般的な形である。

しかし、より詳細な研究、特に西尾市側の史料によれば、天正18年(1590年)の時点では西尾城を含む幡豆郡は豊臣氏の蔵入地(直轄領)か、あるいは秀次の所領であり、吉政はまず代官として管理していたに過ぎないという指摘がある 7 。吉政が正式に西尾城を預けられたのは文禄4年(1595年)以降と考えられており、この説に従えば、吉次が当初から西尾城主であった可能性は低くなる。

ここで注目すべきは、江戸時代初期の三浦浄心による随筆『慶長見聞記』の記述である。この書物には、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの頃、「西尾城主は田中吉政、岡崎城主はその子息の吉次」であったと記されている 7 。『慶長見聞記』は逸話や風聞を多く含むため、その記述の歴史的信憑性には慎重な検討が必要であるが 13 、この記録は非常に興味深い。家康生誕の地であり、より重要度の高い岡崎城を嫡男の吉次が、父の吉政は西尾城を本拠としていたというこの記述が事実、あるいはそれに近い状況を反映しているとすれば、吉次が単なる支城の主ではなく、田中家の本拠地の実質的な統治を任されるほどに、父から絶大な信頼を置かれていたことを示唆する。

いずれの説が正しいにせよ、これらの断片的な記録が共通して示すのは、吉次が三河統治時代において、単に父の庇護下にある後継者ではなく、領国経営の一翼を担う重要な存在であったという事実である。彼は、来るべき当主として着実に実績を積み重ねていた。この三河での経験が、彼の栄光の頂点であったと言えるかもしれない。

第二部:運命の分岐点 ― 関ヶ原、そして父との確執

第一章:筑後国主の嫡男 ― 栄華の頂点と徳川政権への接近

慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発する。豊臣秀吉の死後、父・吉政は早くから徳川家康に接近しており、この大戦において迷わず東軍に与した 3 。吉政は岐阜城攻めなどで軍功を挙げ、何よりも敗走した西軍の総大将・石田三成を伊吹山中で捕縛するという、決定的な大功を立てた 3 。この功績は絶大であり、戦後、家康から筑後一国三十二万五千石という破格の恩賞を与えられ、柳川城主として国持ち大名の仲間入りを果たした 2

この時、嫡男である吉次もまた、父と共に東軍として参陣している 1 。そして、父が大大名となったことで、吉次の立場もまた、一躍、三十二万石の世子へと上昇した。彼の人生における栄華は、この時に頂点を迎えたと言ってよい。

その栄光を象徴する逸話が、筑後入国時の彼の行動に見て取れる。慶長6年(1601年)、田中家が新領地である筑後国へ入る際、吉次は父・吉政に先んじて柳川へ向かった 4 。これは、新領地の接収と地ならしを行う先遣隊の指揮官という役割を担っていたことを意味する。しかし、彼の任務はそれだけではなかった。

この時、吉次は江戸の徳川秀忠(二代将軍)とその側近である大久保忠隣に対し、博多の酒や「芳次」といった贈答品を送っている。そして、それに対する大久保忠隣からの丁重な礼状(同年3月18日付)が現存しているのである 4 。この書状の存在は極めて重要である。それは、吉次が単なる武官としてではなく、田中家の後継者として、新しい天下人である徳川家、特に次期将軍とその側近との外交・交渉窓口という、高度に政治的な役割を担っていたことを明確に示している。

この時点において、父子の関係は良好であり、吉次が名実共に田中家の後継者であることは、家中のみならず、徳川政権からも認知されていたと見て間違いない。彼は父の功業の最大の受益者であり、その未来は磐石であるかのように見えた。

第二章:父子不和と廃嫡 ― 栄光からの転落

しかし、その栄光は長くは続かなかった。筑後入国後、順風満帆に見えた吉次の人生は、突如として暗転する。諸史料が一致して伝えるところによれば、吉次は父・吉政と「不和」になり、居城である柳川から「逐電(ちくでん)」、すなわち出奔・逃亡した。そして、この事件を理由に、彼は嫡男の座を追われ、廃嫡されたのである 1 。家督は、弟で四男の田中忠政が継ぐこととなった 1

なぜ、将来を約束されていたはずの嫡男が、父と決定的に対立し、全てを投げ打って出奔するという異常事態に至ったのか。この「不和」の具体的な原因を直接的に記した一次史料は、残念ながら今日まで発見されていない 16 。歴史の記録は、この父子の間に何があったのかについて沈黙している。それゆえ、我々はその真相を、残された状況証拠から多角的に推察するほかない。

第一に考えられるのは、父・吉政の人物像に起因する可能性である。吉政は「土木の神様」と称えられるほど優れた行政手腕を持つ一方で、目的のためには強硬な手段も辞さない、極めて厳格な性格の持ち主であったことがうかがえる。三河岡崎城主時代、彼は城下町の整備のために多くの寺社の移転や所領の没収を断行した。その苛烈さは、地元の寺院が残した『萬徳寺縁起』といった記録にも伝えられている 5 。さらに、その厳しさは身内にも向けられた。吉政は実の弟である田中氏次とも不和となり、結果として氏次は家を出て豊前の細川忠興に仕えるという道を歩んでいる 5 。この事実は、吉政が自らの意に沿わない者に対しては、たとえ肉親であっても容赦しない人物であったことを示唆している。このような厳格な父と、後継者である吉次との間に、深刻な衝突が起きる素地は十分にあったと考えられる。

第二に、新領地・筑後における統治方針を巡る対立である。岡崎時代の10万石から、一気に三倍以上となる32万5千石の広大な領地を統治することは、田中家にとって未曾有の大事業であった。大規模な検地の実施、新たな家臣団の編成と知行割 18 、そして柳川城の大改修や、有明海の干拓、筑後川の治水といった巨大な土木事業 5 。これらのいずれもが、家中を二分するほどの大きな論争を引き起こしうるテーマである。特に、既に奥州仕置などで政治手腕を発揮していた吉次が、父の政策に何らかの異を唱え、それが許されざる対立へと発展した可能性は高い。

第三に、豊臣家への忠誠心と、徳川家への態度の違いという、政治的・思想的な路線対立である。吉次は、その名を豊臣秀次から拝領したことからもわかるように、豊臣家、特に秀次との結びつきが強かった 1 。秀吉の死後、父・吉政が現実主義的な判断から速やかに家康に接近し、関ヶ原で豊臣恩顧の大名である石田三成を捕らえたのとは対照的である。時代の支配者が徳川へと完全に移行する中で、旧主・豊臣家への思いを断ち切れない吉次と、新時代の秩序に家を適応させようとする父との間に、埋めがたい価値観の溝が生じ、それが何かのきっかけで爆発したという筋書きも十分に考えられる。

最後に、史料には一切残されていないが、吉次自身の個人的な不行跡が原因であった可能性も排除できない。女性問題、家臣との刃傷沙汰、あるいは財政的な大失敗など、厳格な父の逆鱗に触れるような何らかのスキャンダルが、廃嫡という極端な処分の引き金になったという見方である。

これら複数の要因が複雑に絡み合い、最終的に「逐電」という破局的な結末を迎えたと考えるのが最も妥当であろう。特に、強烈な個性を持つ創業者である父と、その下で育ち自らの能力にも自負を持つ二代目との間に生じる軋轢は、時代を問わず見られる構図である。筑後という新天地での大きなプレッシャーが、父子の間に潜在していた対立を一気に顕在化させ、修復不可能な亀裂を生んだのかもしれない。

第三部:失意の後半生と後世への遺産

第一章:京都での最期 ― 許されざる者の晩年

父と決裂し、柳川から逐電した田中吉次の後半生は、栄光に満ちた前半生とは対照的に、失意と不遇に彩られていた。諸史料によれば、彼は京都で暮らしたとされる 1 。三十二万石の大名の嫡男という輝かしい身分を失い、浪人としての日々を送ったと推測されるが、その具体的な生活の様子を伝える史料は極めて乏しい 20 。かつては豊臣政権の中枢で活躍し、徳川家の次期将軍とも誼を通じた人物が、どのような思いで京の空を眺めていたのか、想像に難くない。

父・吉政は慶長14年(1609年)、参勤交代の途上で京都伏見の屋敷で病没している 2 。この時、同じ京の都にいたはずの吉次が、父の死に目に会えたのか、あるいはそれすらも許されなかったのかは定かではない。

そして元和3年(1617年)7月3日、田中吉次はこの世を去った。史料は「許されないまま京都にて病死」と記している 1 。この「許されないまま」という一節は、彼の悲劇を象徴している。父・吉政は既に亡くなっているため、これは田中家当主の座を継いだ弟・忠政からの赦免もなかったこと、そして何よりも、生前の父の勘気が解かれることがついになかったという事実を意味する。かつての栄光を知る者も少なくなったであろう京の片隅で、彼は失意のうちにその生涯を閉じたのである。

第二章:田中家の終焉と吉次の血脈

吉次の廃嫡後、田中家の家督は四男の忠政が継承した。忠政は早くから人質として江戸に送られ、徳川家康・秀忠父子に仕えていた人物である 4 。彼は父・吉政と同じくキリスト教に寛容な政策を取り、禁教令下で信者を迫害した家老を処罰したという逸話も残るほどであった 4 。しかし、元和6年(1620年)8月、忠政は嗣子がないまま36歳の若さで急逝してしまう 2

これにより、関ヶ原の戦功で筑後一国を与えられた柳川藩田中家は、わずか二代、約20年で無嗣断絶として改易されることとなった 2 。豊臣恩顧の大名であった田中家が、徳川の治世が盤石となったこの時期に取り潰されたことは、時代の必然であったとする見方もある。

ここに、歴史の皮肉が存在する。大名としての田中本家は断絶したが、廃嫡されたはずの田中吉次の血脈は、細々とながらも生き残ったのである。

吉次の子・吉勝を経て、その孫にあたる田中政信が、後に江戸幕府に召し出され、210俵取りの旗本として家名を再興することが許された 1 。また、一説には吉次の系統は肥後細川藩に仕官し、その家系を伝えたともいう 4

この事実は、重要な示唆を含んでいる。もし吉次の「罪」が、徳川幕府に対する反逆や政治的な敵対行為であったならば、その血筋が赦されることはなかったであろう。彼の家系が旗本として取り立てられたということは、幕府が吉次の問題を、あくまで田中家内部の、父子間の個人的な確執と見なしていたことを物語っている。幕府は、関ヶ原で大功を立てた吉政への配慮を示しつつ、大名としての田中家は改易してその力を削ぎ、一方で嫡流から外れた分家を小身の旗本として存続させることで、巧みに恩威を示すという、極めて計算された政治的判断を下したのである。結果として、父に追われた嫡男の血統だけが、徳川の世を生き延びることになった。

結論:田中吉次が問いかけるもの

田中吉次の生涯を追うことは、歴史の大きなうねりの中で翻弄された一人の人間の宿命を辿る旅であった。彼は、豊臣から徳川へと権力が移行する激動の時代において、大名家の嫡男が直面した栄光と悲劇、そして複雑な宿命を、その身をもって体現している。

彼は、旧体制である豊臣政権下で、奥州仕置における交渉役など、その非凡な政治的手腕を証明し、将来を嘱望された有能な後継者であった。しかし、新体制である徳川の世を迎え、父・吉政が築いた筑後三十二万石という巨大な領国を経営する中で、その栄光は脆くも崩れ去った。その背景には、単なる能力不足や不運では片付けられない、根深い要因が存在した。

最大の要因は、偉大で厳格な父・吉政との関係性であったと言えよう。父の権勢と実力は、吉次に輝かしい地位と機会をもたらす「光」であった。だが同時に、その強烈な個性と、身内であろうと妥協を許さない厳格さは、最終的に吉次を破滅へと導く「影」ともなった。父子の間にどのような対立があったのか、その詳細は歴史の闇に葬られたままである。しかし、そこには新領地の統治方針を巡る現実的な対立から、旧主への思いと新時代への適応という思想的な相克まで、様々な葛藤があったと推測される。この父子のドラマは、戦国武将の親子における権力継承の難しさと、人間的な感情の相克を示す、普遍的な一例といえる。

田中吉次の物語はまた、歴史研究における重要な視座を我々に提供する。彼の生涯のように、史料が乏しく、歴史の表舞台から消え去った人物であっても、残された断片的な記録や周辺の状況証拠を丹念に拾い集め、分析することで、その実像に迫ることは可能である。彼の悲劇的な生涯は、天下統一や関ヶ原の戦いといった大きな歴史叙述の陰に埋もれた、無数の個人のドラマの存在を我々に思い起こさせる。田中吉次という一人の武将の人生を再構築する試みは、歴史の解像度を高め、その多層的な理解を深める上で、ささやかではあるが、重要な意義を持つものである。

引用文献

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