最終更新日 2025-07-14

的場昌長

紀州の「小雲雀」的場昌長 ― 鉄砲と誇りに生きた武士の実像

序章:紀州の「小雲雀」、的場昌長の謎に迫る

戦国時代の紀伊国に、その名を轟かせた一人の武将がいた。的場昌長(まとば まさなが)、通称は源四郎。彼は、戦国最強と謳われた鉄砲傭兵集団「雑賀衆(さいかしゅう)」の有力な将として、石山合戦では本願寺方に与し、織田信長の大軍を幾度となく苦しめた。特に、敵陣深くに潜入しては狙撃を繰り返し、神出鬼没に立ち去るその戦術から「小雲雀(こひばり)」の異名で恐れられたことは、現代においても歴史シミュレーションゲームなどを通じて語り継がれている 1

しかし、こうした「織田軍を震え上がらせた狙撃の名手」という勇猛なイメージは、彼の生涯の一側面に過ぎない 1 。彼の人生の軌跡を丹念に追うと、そこには単なる武勇伝では語り尽くせぬ、一人の武士の誇りと苦悩、そして時代の大きなうねりの中で翻弄される地方豪族の宿命が浮かび上がってくる。本報告書は、断片的に伝わる史料を体系的に整理し、的場昌長という人物の実像に迫ることを目的とする。彼の出自から、石山合戦での輝かしい武功、特異な戦術の背景、そして天下統一の奔流の中での流転と壮絶な最期までを追い、その生涯を「雑賀衆の栄枯盛衰の縮図」として捉え直す。これにより、的場昌長という一人の武士の生き様を通して、雑賀衆という特異な集団の実態と、戦国という時代の本質を深く考察する。

第一章:出自と雑賀衆における台頭

第一節:的場一族の系譜と誇り

的場昌長の出自は、紀伊国雑賀荘中之島(現在の和歌山市の一部)を本拠とした土豪、的場氏に遡る 4 。父は的場昌清とされ、昌長自身は源四郎という仮名で知られていた 4 。的場氏は、その系譜を古代の氏族である的戸田宿禰(まとべたのすくね)の末裔と称し、さらに時代を下って、南北朝の動乱期に南朝に仕えた武将・的保輝(まとべ てる)の子孫であると伝えている 4

戦国時代の地方豪族が、南北朝時代の、特に南朝方の武将を祖とすることは決して珍しいことではない。これは単なる家系の誇りという内面的な問題に留まらず、極めて政治的な意味合いを帯びていた。中央の権威が失墜し、下剋上が常態化した乱世において、かつて「正統」とされた皇統に連なるという由緒は、在地における自らの支配の正当性を補強し、周辺の競合勢力に対する優位性を主張するための重要なプロパガンダであった。特に、紀伊の守護大名などの外部権力から常に自立を志向していた雑賀衆のような地侍集団にとって、こうした歴史的権威に自らを接続することは、共同体の結束を固め、その独立性を維持するための不可欠なアイデンティティの一部を形成していたと考えられる。的場氏が南朝の忠臣を祖とすることは、彼らが抱いていたであろう独立不羈の精神性を象徴している。

第二節:戦国最強の傭兵集団「雑賀衆」の実像

的場昌長がその半生を捧げた雑賀衆は、特定の戦国大名に常時臣従することなく、独立性の高い地侍たちの連合体(惣国一揆)として組織されていた 6 。彼らは早くから鉄砲という新兵器の有用性に着目し、その集団運用戦術を高度に発展させた。一説には常時5,000挺から8,000挺もの鉄砲を保有していたとされ、その卓越した軍事力から「雑賀衆を味方にすれば必ず勝ち、敵にすれば必ず負ける」とまで評された 8

従来、雑賀衆は本願寺との強い結びつきから「雑賀一向一揆」、すなわち浄土真宗(一向宗)の門徒による宗教的武装集団と同一視されることが多かった。しかし、近年の歴史研究、特に研究者・武内善信による詳細な分析によって、その見方は大きく修正されている 10 。武内氏によれば、当時の雑賀地域は浄土真宗だけでなく、浄土宗西山派や真言宗の勢力も色濃く混在しており、宗教的に一枚岩ではなかった 6 。地縁的な結びつきに基づく惣国一揆としての「雑賀衆」と、鷺森御坊(本願寺の紀州における拠点)を中心とする宗教的信徒集団としての「雑賀一向衆」は、構成員が重なり合う部分も大きいものの、必ずしも同一の組織ではなかったのである 6

この複雑な内部構造は、雑賀衆の動向を理解する上で極めて重要である。内部には、鈴木重秀(通称・孫一)に代表される、本願寺との関係を重視しつつも、時には織田信長とも協調する柔軟な派閥と、土橋守重に代表される、より強固な反信長姿勢をとる派閥などが存在し、情勢に応じて対立と協調を繰り返していた 6 。的場昌長の行動を分析する際も、彼を単なる熱心な一向宗門徒としてではなく、この複雑な地縁的・政治的共同体の一員として捉える視点が不可欠となる。

第三節:鉄砲大将としての台頭

的場昌長が歴史の表舞台に明確に姿を現すのは、天正四年(1576年)の石山合戦においてである。しかし、彼がこの時点で既に雑賀衆の最高幹部の一人であったことは、史料の記述から明らかである。本願寺を支援するために雑賀衆が援軍を派遣した際、『真鍋真入齋書付』という史料は、その軍勢を「馬上百騎、鉄砲千挺ほど」と記し、その「鉄砲衆の大将」として鈴木重秀、横庄司加仁右衛門(よこしょうじ かにえもん)と共に、的場昌長(源四郎)の名を挙げている 4

これは、1576年の時点で昌長が、雑賀衆が誇る鉄砲部隊の最高指揮官の一人として、鈴木重秀という雑賀衆を代表する人物と肩を並べるほどの地位と名声を確立していたことを示している。史料には「紀伊各地で武功を挙げたとされ」とあるように 4 、石山合戦以前から、紀伊国内やその周辺地域で頻発していた数多の紛争において、彼は鉄砲部隊を率いて戦果を重ね、その卓越した指揮能力と武勇によって、雑賀衆内部で確固たる地位を築き上げていたと推察される。

第二章:石山合戦と織田信長との死闘(天正四年~六年)

第一節:本願寺への加勢と鉄砲大将としての役割

天正四年(1576年)、天下布武を掲げる織田信長と、その支配に抵抗する石山本願寺との対立は、ついに全面戦争へと発展した(石山合戦)。この時、雑賀衆は明確に本願寺に味方する決断を下す。前節で述べたように、『真鍋真入齋書付』は、雑賀衆が騎兵百騎、火縄銃千挺という、当時としては破格の大規模な援軍を石山本願寺に派遣したと記録している 4 。この精鋭部隊の中核をなす鉄砲衆の大将として、的場昌長は鈴木重秀らと共にその名を連ねており、彼の軍事キャリアにおける最初のクライマックスが始まろうとしていた。

第二節:天王寺の戦い ― 織田軍の将・原田直政を討ち取る

同年五月三日、石山本願寺の兵站線を断つべく、織田軍の将・原田直政が率いる大軍が天王寺砦(現在の大阪市天王寺区)周辺に進出した。これを迎え撃ったのが、的場昌長ら雑賀衆の精鋭部隊であった。この戦いの様子は、昌長の盟友であった佐武義昌(さたけ よしまさ)の活躍を記録した『佐武伊賀働書』に詳述されている 15

それによると、合戦前日、織田方に潜入していた門徒から「原田直政が大軍を率いて出撃する」との情報がもたらされた。これを受け、鈴木重秀と的場昌長は軍議を開き、昌長と佐武義昌が先遣隊として三津寺まで進出することを決定する。夜が明けても敵影が見えなかったため、二人は一度引き返しかけるが、その途中で駆けつけた鈴木重秀が「よく見定めるように」と指示。三人が再び三津寺に戻ったところ、まさに織田軍が来襲するところであった 4

この一連の動きは、雑賀衆が高度な情報網と、それに基づいた迅速な意思決定能力、そして見事な連携プレーを展開していたことを示している。全体の情報収集と戦略判断を鈴木重秀が担い、的場昌長と佐武義昌が最前線での実働部隊を指揮するという、効果的な役割分担がなされていた。この「雑賀の三頭体制」とも言うべき連携により、彼らは織田軍の奇襲を未然に察知し、有利な態勢で迎撃することに成功した。

戦闘が始まると、昌長ら本願寺方と織田方は激しい銃撃戦を繰り広げた。やがて本願寺から多数の鉄砲部隊が増援として到着すると、織田方は総崩れとなり、大将の原田直政は乱戦の中で討ち死にした 4 。方面軍の総大将を失うというこの大敗は、織田信長に大きな衝撃を与え、的場昌長と雑賀衆の名を天下に轟かせることとなった。

第三節:第一次紀州征伐と小雑賀城の防衛戦

天王寺での屈辱的な敗戦に激怒した信長は、翌天正五年(1577年)二月、報復として自ら10万とも言われる大軍を率いて紀州へと侵攻した(第一次紀州征伐)。織田軍の圧倒的な兵力の前に、雑賀衆の一部は早々に降伏したが、的場昌長は徹底抗戦の道を選ぶ。

彼は盟友・佐武義昌と共に小雑賀城(こざいかのしろ)に籠城し、織田軍の猛攻に立ち向かった。『佐武伊賀働書』によれば、その籠城期間は三十二日間に及んだという(『南紀古士傳』では二十一日間とする) 4 。最終的に、長期間の抵抗の末に和議が成立し、城を明け渡すこととなるが、これは一方的な敗北ではなかった。少数で大軍の足止めに成功し、信長に多大な消耗を強いた上での戦略的撤退であり、雑賀衆の抵抗力の強さを改めて証明する戦いであった。

第四節:荒木村重の反乱と花隈城への派兵

信長との和議後も、雑賀衆の反信長姿勢は変わらなかった。天正六年(1578年)十一月、信長の重臣であった摂津の荒木村重が突如謀反を起こすと、雑賀衆はこれに呼応する。鈴木重秀が村重方の拠点である摂津花隈城(はなくまじょう、現在の神戸市中央区)に入り、防衛の指揮を執ると、的場昌長もまた、横庄司蟹右衛門、中村右衛門九郎らと共に「鉄砲千挺之大将」として同城に籠もり、織田方の池田恒興軍と激戦を繰り広げた 4 。この事実は、雑賀衆の活動範囲が紀伊一国に留まらず、反信長連合の一翼を担う広域的な軍事勢力として、近畿一円の政治・軍事状況に大きな影響を与えていたことを示している。

第三章:「小雲雀」の戦術と武勇伝

第一節:神出鬼没の狙撃戦法

的場昌長の武勇を象徴する「小雲雀」という異名は、彼の得意とした特異な戦術に由来する。その戦法は、敵陣深くに単独もしくは少数で忍び込み、大将級の武将を狙撃して混乱に陥れ、追手がかかると俊足の馬で素早く戦線を離脱するという、まさに一撃離脱(ヒット・アンド・アウェイ)の極致であった 1 。この戦術は『的場源四郎事跡』にも記録されており、彼の代名詞として知られていたことがわかる 19

この戦法は、昌長個人の技量のみならず、雑賀衆全体が培ってきたゲリラ戦術の思想に基づいている。彼らは、自らの本拠地である紀伊の複雑な地形を熟知しており、大軍を相手に正面から決戦を挑むことを避け、局地的な優位を作り出しては敵に継続的な損害と心理的圧迫を与えることを得意としていた 9 。昌長の狙撃戦術は、この思想を個人レベルで体現したものであった。彼の武勇の背景には、当時の最新兵器であった火縄銃の性能を最大限に引き出すための、高度な戦術的理解が存在した。

項目

詳細

関連史料

有効射程

50mから100m程度。この距離内では高い命中精度と威力を発揮。

20

貫通力

30mの距離で鉄製の胴丸具足を射抜くことが可能。50m圏内でも甲冑を貫通する威力があった。

20

雑賀衆の集団戦術

連射のための役割分担: 射撃手、弾込役、火薬充填役などを分担し、銃を交換しながら射撃間隔を短縮する「つるべ撃ち」のような戦法。

9

一斉射撃: 個別に発砲するのではなく、部隊単位で一斉に射撃することで、面としての制圧力を最大化。

23

ゲリラ戦: 地理的優位を活かし、少人数で奇襲・狙撃を行い、敵を消耗させる。

9

この表が示すように、昌長の「狙撃」は、火縄銃が最も効果を発揮する50mから100mの距離にまで、いかにして敵将に接近し、確実に仕留めて離脱するかという、極めて高度な技術と戦術的思考を要するものであった。

第二節:異名の由来 ― 根来寺との壮絶な抗争

昌長の「小雲雀」の異名の由来を伝える逸話は、彼の武勇と、ある種の狂気すら感じさせる執念を物語っている。当時、雑賀衆と勢力を二分していた紀州のもう一つの武装集団、根来寺(ねごろじ)の僧兵との間に激しい抗争があった。その中で、昌長は「敵の首級を三十三級挙げれば、その菩提を弔う供養ができる」という話を聞き、既に斬獲していた十四、五級の首級に加えて、さらに首を集めることを決意したという 4

ここから、彼の常軌を逸した「首級狩り」が始まる。彼は宮郷(現在の和歌山市)近くの麦畑に潜伏し、通りかかる根来寺の武士を見つけては、その得意の鉄砲で次々と狙撃した。追手が迫れば、俊足の馬を駆って巧みに逃れ、再び身を隠す。その神出鬼没で予測不可能な動きは、あたかも麦畑から飛び立っては姿を消す小鳥のようであったことから、人々は畏怖を込めて彼を「小雲雀」と呼んだ 4 。この恐怖はすさまじく、昌長一人のために、二万人の僧俗を抱える大寺院であった根来寺の人々が恐れて外出できなくなったとまで伝えられる。そして三十六日後、彼はついに三十三級の首級を集め、紀三井寺で盛大な供養を執り行ったという 4

この逸話は、単なる個人的な武勇伝や残虐性の物語として片付けるべきではない。これは、敵対勢力である根来衆の活動を物理的に、そして心理的に麻痺させることを目的とした、極めて効果的な非対称戦、すなわち戦略的テロリズムであったと分析できる。物理的な損害以上に、「いつ、どこで狙われるか分からない」という恐怖を敵の組織内に蔓延させることで、兵站や情報伝達といった日常活動を妨害し、組織全体を機能不全に陥らせる。昌長は、鉄砲という武器が持つ心理的効果を深く理解し、それを戦略的に活用できる稀有な指揮官であった。

第三節:敵将を感服させた気概と複雑な人間性

冷酷な狙撃手として恐れられた昌長だが、彼の人間性の複雑さを示す逸話も残されている。彼の「首級狩り」の最中、根来寺の僧兵・赤井坊(あかいぼう)が六、七名の従者を連れて宮郷を通りかかった。彼は麦畑に潜む昌長の存在に気づくと、臆することなく馬を止め、おもむろに上着を脱ぎ捨てて胸をさらし、「任憑射撃(撃てるものなら撃ってみろ)」という気概を示した 4

その死をも恐れぬ堂々たる態度に、昌長は深く感服した。彼は引き金を引くことなく、その勇気を称えて赤井坊を無事に通したという。この出来事はすぐに根来寺にも伝わり、後日、根来寺の有力者であった杉坊や泉鉄坊から、昌長のもとへわざわざ感謝状が送られたと伝えられている 4

この逸話は、昌長の人物像の核心に迫るものである。彼の行動規範は、現代的な善悪の二元論では到底測ることができない。そこには、敵であっても「もののふ」としての気概を示した者には敬意を払い、その命を助けるという、戦国武士特有の価値観(美学)が色濃く反映されている。目的のためには冷酷非情な手段を厭わないリアリストとしての一面と、敵の勇気に感動するロマンチストとしての一面。この両極端な性質の共存こそが、彼を単なる殺戮者ではない、魅力と深みを持った歴史上の人物たらしめているのである。

第四章:激動の時代を生きる ― 信長死後の流転

第一節:本願寺からの恩賞と雑賀衆の分裂

十年以上に及んだ石山合戦は、天正八年(1580年)の和睦によって終結した。その後、本願寺宗主・顕如は紀州の鷺森御坊に拠点を移していたが、天正十二年(1584年)八月に紀州を退去する際、長年の功労者たちに恩賞を与えた。的場昌長もその一人であり、石山合戦での多大な功績を称えられ、顕如から直々に信国作の名刀、黄金、そして時服(季節に応じた衣服)などを賜った 4 。これは、本願寺教団内における彼の評価がいかに高かったかを物語る、栄誉の証であった。

しかし、その栄光の裏で、彼の属する雑賀衆は崩壊の危機に瀕していた。天正十年(1582年)の本能寺の変で共通の敵であった織田信長が斃れると、抑えられていた内部対立が一気に表面化する。親信長派とも目されていた鈴木重秀は勢力を失い、代わって反信長派の土橋氏が主導権を握るが、これも長続きせず、雑賀衆は組織としての統制を急速に失っていった 6

第二節:小牧・長久手の戦いと徳川家康への与力

雑賀衆が内部分裂に揺れる中、中央では信長の後継者の座を巡る争いが激化していた。天正十二年(1584年)、羽柴秀吉と、織田信雄・徳川家康連合軍が激突した小牧・長久手の戦いが勃発すると、的場昌長は家康方に味方して和泉国へ出陣し、秀吉方の中村一氏の軍勢と交戦した 4

この選択は、彼の反信長という立場が、そのまま反秀吉へと引き継がれたことを示している。信長の後継者として天下統一を進める秀吉に対し、旧反信長勢力の一員として抵抗の姿勢を見せたのである。これは、翌天正十三年(1585年)に秀吉が断行する紀州征伐において、多くの雑賀衆が最後まで抵抗したこととも軌を一にする行動であった。

第三節:豊臣政権下での仕官 ― 桑山氏への所属と朝鮮出兵

天正十三年(1585年)、秀吉は自ら大軍を率いて紀州に侵攻。雑賀衆は内輪揉めもあって有効な抵抗ができず、太田城の水攻めなどを経て事実上壊滅した 24 。独立勢力としての雑賀衆が消滅したことで、的場昌長をはじめとする多くの武士たちは、新たな主君を求めて再仕官の道を模索せざるを得なくなった 23

昌長が選んだ道は、秀吉の弟・羽柴秀長の家臣であった桑山重晴を頼ることだった。桑山氏は紀伊に所領を持つ大名であり、昌長にとって縁のある人物であった。彼は桑山氏の配下となり、独立した領主から、天下人の家臣(それも直臣ではなく、家臣の家臣である陪臣)の一員へとその立場を大きく変えることになった 4

彼の人生のこの転換は、戦国乱世の終焉期における多くの地方豪族が辿った典型的な末路を示している。地域の独立という大義よりも、激動の時代を生き抜き、一族を存続させるという現実的な問題が優先されるようになったのである。その後、昌長は桑山氏の麾下として、秀吉が引き起こした文禄・慶長の役(朝鮮出兵)にも従軍し、朝鮮半島に渡って戦った 4 。後世、彼の末裔である的場家には、この時に昌長自身が描いたとされる朝鮮の居城の図が遺品として伝えられている 5 。独立不羈の鉄砲大将が、天下人の壮大な対外戦争の一翼を担う一武将へと変貌していく姿は、戦国的な秩序が、より中央集権的な近世の秩序へと再編されていく時代の過渡期を鮮やかに映し出している。

第五章:誇り高き武士の最期と後世への遺産

第一節:浅野家への仕官拒否と一族の行方

慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いを経て、天下は徳川家康のものとなり、日本は新たな時代を迎えた。戦後、紀伊国には徳川方の武将・浅野幸長が新たな国主として入国する。幸長は、紀州の旧勢力を懐柔し、領国経営を安定させるため、かつて勇名を馳せた的場昌長に仕官を勧めた。しかし、昌長はこの誘いを毅然として固辞した 4

一方で、彼の長子である源八は父とは対照的に、浅野家に仕官して五百石の禄を得る道を選んだ。そして、元和五年(1619年)に浅野家が安芸広島へ転封となると、それに従って紀伊を離れた 4 。この父子の対照的な選択は、時代の大きな転換点を象徴する出来事であった。

桑山氏には仕えた昌長が、なぜ浅野家への仕官は拒んだのか。これは、彼の武士としての自己認識、すなわちプライドに関わる問題であったと考えられる。桑山氏への所属は、まだ戦国の気風が色濃く残る中での、一個の武将としての能力を評価された上での協力関係に近いものであったかもしれない。対して、完全に徳川の世となった江戸幕藩体制下で浅野家に仕えることは、近世的な官僚機構の一員になることを意味する。独立した精神で戦場を駆け抜けてきた「戦国武士」としての昌長の矜持が、それを許さなかったのではないか。彼は、自らの価値観が通用する時代の終わりを悟り、新たな時代の秩序に組み込まれることを潔しとしなかった。そして、息子の仕官を認めることで、一族の存続という現実的な責務と、自らの生き様を貫くという武士としての誇りを両立させようとした。それは、彼が下した最後の、そして最も苦渋に満ちた決断であったのかもしれない。

第二節:病、そして壮絶なる自刃

晩年、昌長は重い病に侵された。彼は治療を求めて堺の安立軒という医者を訪ね、五、六十日にわたって薬を服用したが、その効果は一向に現れなかった 4 。安立の勧めにより、さらに高名な京の医師・驢庵玄朔(はんい ろあん、当代随一の名医・半井驢庵と同一人物か)の診察を受けたものの、下された見立ては安立と同じであり、もはや手の施しようがないことを悟る。

失意の中、彼は「あちこち駆け回り命を惜しむように見えるのは心外だ」との趣旨を記した書き置きを残した 4 。そして、京から堺へと戻る道中の駕籠の中で、彼は自らの腹を切り、その壮絶な生涯に自ら幕を下ろしたのである 4

昌長の最期は、彼の生き様そのものを凝縮している。彼の直接の死因は病ではなく、自らの手による「切腹」であった。その動機は、病の苦しみから逃れるためではない。「命に執着し、無様に生き長らえようとする姿」を他者に見せ、自らの武士としての名誉を汚すことへの、耐え難い屈辱感にあった。これは、肉体的な生よりも、「名誉」や「誇り」といった抽象的な価値を上位に置く、戦国武士の死生観の究極的な発露である。戦場で華々しく死ぬことが叶わなかった彼が、自らの死に場所と死に様を自ら選び取った、最後の、そして最大の自己表現であったと言えるだろう。

第三節:結論 ― 戦国乱世に咲いた徒花か、時代の奔流に抗った巨星か

的場昌長の生涯は、鉄砲という新技術を駆使して時代の寵児となりながらも、天下統一という巨大な潮流の中で独立を保つことができず、最後は個人の誇りに殉じた、まさに「戦国武士」の典型であった。彼の生き様は、雑賀衆という稀有な独立武装集団の栄光と没落の歴史そのものを体現している。

彼は、時代の変化に巧みに適応して生き残る道を選んだ多くの武士たちとは一線を画し、自らが信じる武士としての美学を最後まで貫き通した。その意味で、彼は時代の奔流に抗い続けた、孤高の巨星として記憶されるべき人物である。彼の物語は、戦国という自由だが過酷な時代が終わりを告げ、近世という安定した秩序が生まれる中で、失われていったものの価値を我々に静かに問いかけている。

彼の死後、嫡流の家は絶えたものの、次男・勝吉の子である源八包好の家などが分家として存続した 5 。昌長が顕如から賜った信国の刀や、朝鮮での居城図といった遺品は、この子孫の家によって後世に伝えられ、彼の生きた証は確かに受け継がれていったのである 5

引用文献

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  2. 的場昌長(まとばまさなが)『信長の野望・創造』武将データ http://hima.que.ne.jp/souzou/souzou_data_d.cgi?equal1=C404
  3. 武将データ ~ 和歌山市「雑賀孫市と雑賀衆のまち」 - 信長の野望・天道 ユーザーズページ https://www.gamecity.ne.jp/regist_c/user/tendou/dl09.htm
  4. 的場昌長 - 信長のWiki https://www.nobuwiki.org/tag/%E7%9A%84%E5%A0%B4%E6%98%8C%E9%95%B7
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  9. 紀伊国・雑賀の里 - 和歌山市観光協会 https://www.wakayamakanko.com/img/pdf_saika.pdf
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