最終更新日 2025-07-14

益田元祥

益田元祥の生涯と功績:戦国の武将から長州藩「中興の祖」へ

序論:乱世を駆け、藩政を築いた「石見の侍」

日本の歴史が中世から近世へと大きく舵を切る激動の時代、一人の武将がその生涯を通じて、武勇による「武」の功績と、藩政再建という「文」の功績を両立させ、主家の存亡の危機を救い、その後の繁栄の礎を築いた。その人物こそ、石見国(現在の島根県西部)の国人領主から、毛利家の筆頭家老へと上り詰めた益田元祥(ますだ もとよし、1558年 - 1640年)である。

一般に元祥は、関ヶ原の戦いで敗北し、大幅に減封された毛利家の財政を立て直した辣腕の行政家として知られている。しかし、その評価は彼の生涯の一側面に過ぎない。彼はまた、毛利軍の中核として数多の合戦を戦い抜いた歴戦の勇将であり、主家の存続を賭けた外交交渉の渦中で冷静な判断を下した戦略家でもあった。彼の生涯は、中世の独立性を有した国人領主が、近世大名の家臣団へと組み込まれていく過程を体現すると同時に、その中でいかにして一族の存続と発展を成し遂げたかという、見事な処世術の軌跡でもある。

本報告書は、現存する多様な史料に基づき、益田元祥の生涯を多角的に検証するものである。武将としての戦歴、関ヶ原の転機における決断、そして国家老として断行した藩政改革。これらを時系列に沿って詳述すると共に、その行動の背後にあった戦略性や人間性に迫る。これにより、単なる「忠臣」や「財政家」という枠組みを超え、時代の変革期を生き抜き、新たな時代を切り拓いた類稀なる人物、益田元祥の多層的な実像と、その功績が後世に与えた深遠な歴史的意義を明らかにすることを目的とする。

第一章:益田氏の勃興と毛利氏への帰属 ― 元祥前史

益田元祥という人物を理解するためには、まず彼がその血脈を受け継いだ益田氏そのものの歴史的背景と、彼が生まれる直前に一族が下した重大な決断に目を向ける必要がある。益田氏は、単なる山間の豪族ではなく、日本海を舞台とした広範な活動を通じて独自の力を蓄積した、特異な性格を持つ一族であった。

1-1. 石見の名族、益田氏の起源と勢力

益田氏の出自は、平安時代後期の永久2年(1114年)に石見国司として都から下向した藤原国兼に遡るとされる 1 。国兼は任期終了後も石見に留まり、浜田の御神本(みかもと)に拠点を構えて土着豪族化したため、当初は御神本氏を称した 2 。その後、四代目の兼高の代に、本拠を益田(現在の益田市)に移したことから、益田氏と名乗るようになった 1

益田氏が本拠とした石見国は、山陰の西端に位置し、日本海交通の要衝であった。特に益田の地は、背後に中国山地を控え、前面には日本海が広がるという地理的条件に恵まれていた。この立地は、単に防衛上の利点をもたらすだけでなく、経済的な繁栄の源泉ともなった。益田氏は、この地理的利点を最大限に活用し、日本海を通じて朝鮮半島や中国大陸との交易にも深く関与していたことが示唆されている 4 。彼らは地域の産物である木材などを輸出し、大陸の文物を輸入する「海洋領主」としての一面を持っていたのである 7

この交易活動によって培われた経済力こそが、益田氏の力の源泉であった。永禄11年(1568年)に元祥が毛利氏に正式に臣従する際、虎の皮や北海の産物である昆布、数の子といった貴重な品々を献上しているが 8 、これは彼らの広範な交易網と豊かな財力を如実に物語るものである。単なる武力や領地の広さだけでなく、商業活動から得られる富と、それに伴って磨かれた外交的な感覚が、益田氏を石見国随一の有力国人へと押し上げた。後の元祥が見せる卓越した財政手腕や交渉能力は、決して彼個人の才能のみに帰せられるものではなく、一族が代々受け継いできたこの経済的・外交的な伝統の上に花開いたものと理解すべきである。

1-2. 父・藤兼の決断 ― 毛利氏への帰属

元祥の父、益田藤兼(19代当主)が生きた戦国時代中期、中国地方は周防の大内氏、出雲の尼子氏、そして安芸の毛利氏という三大勢力が覇を競う、まさに群雄割拠の時代であった 2 。石見の国人領主である益田氏は、これらの巨大勢力の狭間で、常に巧みな舵取りを要求される危うい立場に置かれていた。

藤兼は当初、西国に強大な勢力を誇った大内氏に属していた。大内氏とは姻戚関係もあり、その結びつきは強固であった 3 。しかし、天文20年(1551年)、大内義隆が家臣の陶晴賢の謀反によって討たれる(大寧寺の変)と、益田氏は晴賢が主導する新体制に従った 2 。だが、その陶晴賢も天文24年(1555年)の厳島の戦いで毛利元就に討ち取られ、中国地方の勢力図は劇的に塗り替えられる。

大内氏という長年の後ろ盾を失った藤兼に対し、元就は次男の吉川元春を総大将とする軍勢を益田領へと差し向けた 2 。圧倒的な毛利軍の前に、藤兼は籠城戦の末、弘治3年(1557年)に降伏し、毛利氏の軍門に下ることを決断した 2 。この決断は、益田氏が数百年にわたり維持してきた独立領主としての地位を放棄し、毛利氏という一大大名の家臣団に組み込まれることを意味した。

しかし、この帰順は単なる敗北ではなかった。それは、激変する情勢の中で一族の存続を賭けた、極めて戦略的な転換点であった。この決断により、益田氏は確かに独立性を失ったが、その代償として、やがて中国地方の覇者となる毛利家の中枢に連なる道が開かれたのである。藤兼が下したこの苦渋の決断こそが、その翌年に生まれる息子・元祥の生涯の出発点を「毛利家臣」として規定し、彼の行動原理の根幹をなす主家への忠誠心と奉公の精神を形成する上で、決定的な意味を持つことになったのである。

第二章:武将・益田元祥 ― 毛利軍中核としての戦歴

父・藤兼の決断によって毛利家臣となった益田氏。その新たな時代を担うべく生まれた元祥は、武将として目覚ましい活躍を見せ、毛利家における地位を不動のものとしていく。彼の武功は、単なる個人的な勇猛さの証明に留まらず、益田家を毛利家中で特別な存在へと押し上げるための戦略的な布石でもあった。

2-1. 毛利家への統合と地位の確立

元祥は永禄元年(1558年)に、益田藤兼の次男として生まれた 7 。兄の少輔若丸が早世したため、彼が益田家の世継ぎとなった 10 。永禄11年(1568年)、11歳の元祥は父・藤兼と共に毛利氏の本拠地である安芸吉田郡山城に赴き、当主の毛利元就を烏帽子親として元服。「元」の一字を拝領し、「元祥」と名乗った 7 。これは、益田氏が毛利家の支配体制に正式に組み込まれたことを象徴する儀式であった。

元祥の地位を決定的に高めたのは、元亀元年(1570年)の家督相続後に行われた婚姻であった。彼は、毛利元就の次男であり、「鬼吉川」の異名を持つ猛将で、毛利家の軍事部門を統括していた吉川元春の長女(吉川広家の姉)を正室に迎えたのである 8 。この婚姻は、単なる縁組以上の、極めて高度な政治的意味合いを持っていた。

これにより、元祥は毛利一門、特に軍事の中核を担う吉川家と不可分な関係で結ばれた。天正6年(1578年)には、吉川家の当主・元長が元祥との間で盟約を再確認し、彼を「一族同様」に重視する旨を伝えている 8 。これは、外様の国人領主出身である元祥が、毛利一門に準ずる特別な地位を獲得したことを意味する。他の譜代家臣とは一線を画すこの強力な後ろ盾と信頼関係は、その後の彼の軍事的な活躍の場を広げると同時に、後年、関ヶ原の戦いにおける吉川広家との連携や、藩の存亡を賭けた藩政改革を断行する際の揺るぎない政治的基盤となったのである。

2-2. 歴戦の勇将としての活躍

吉川家という強力な後ろ盾を得た元祥は、毛利軍の主要な合戦に次々と参加し、武将としての名声を高めていく。彼の初陣は天正元年(1573年)とされる 12

天正6年(1578年)、織田信長の中国方面軍と毛利軍が激突した播磨上月城の戦いでは、義父の吉川元春、義兄の元長父子と共に参陣 11 。天正8年(1580年)には、毛利氏に反旗を翻した伯耆羽衣石城主・南条元続の討伐に参加し、その功によって所領を与えられている 11 。これらの山陰平定戦における活躍は、彼が毛利軍の有力な一員として確固たる地位を築いたことを示している。

本能寺の変後、毛利氏が豊臣秀吉の支配下に入ると、元祥も秀吉の天下統一事業に従軍する。天正15年(1587年)の九州征伐では、豊前宇留津城攻めで軍功を挙げた 7

さらに、秀吉が大陸への野望を燃やした文禄・慶長の役(朝鮮出兵)では、義弟の吉川広家に従って二度も朝鮮半島へ渡海した。文禄の役では、明の大軍と激突した碧蹄館の戦いでその武略を発揮し、敵軍を撃退 11 。慶長の役においても、加藤清正が籠城する蔚山城を救援する戦いで広家と共に奮戦し、明・朝鮮連合軍を打ち破る功績を挙げた 7

これらの度重なる戦功は高く評価され、元祥の地位と名声は不動のものとなった。天正5年(1577年)には、毛利氏が庇護していた亡命将軍・足利義昭から右衛門佐(うえもんのすけ)に任官 7 。文禄5年(1596年)には、関白豊臣秀吉から従五位下・玄蕃頭(げんばのかみ)に叙せられ、豊臣姓を与えられる栄誉に浴した 7 。これは、彼が毛利家臣という枠を超え、全国的な大名・武将の一人として公に認められたことを意味していた。

第三章:関ヶ原の転機 ― 忠義と決断

順風満帆に見えた武将・益田元祥のキャリアは、慶長5年(1600年)に勃発した関ヶ原の戦いによって、最大の転機を迎える。この天下分け目の決戦は、主君・毛利家の運命を根底から揺るがし、元祥自身にも、一族の将来を左右する重大な決断を迫ることになった。

3-1. 関ヶ原の戦いと毛利家の敗北

豊臣秀吉の死後、徳川家康が台頭すると、全国の諸大名は家康方の東軍と、石田三成方の西軍に分かれて対立した。毛利輝元は、安国寺恵瓊らの画策により、西軍の総大将に担ぎ出される。しかし、毛利家中は一枚岩ではなく、輝元の従兄弟にあたる吉川広家は、早くから家康との交渉を通じて毛利家の安泰を図ろうとしていた。

元祥は、義兄である広家と行動を共にし、関ヶ原の本戦では南宮山に布陣した 7 。広家は家康との密約に基づき、毛利本隊の戦闘参加を阻止。これが有名な「宰相殿の空弁当」の逸話であり、結果として西軍の敗北を決定づける一因となった。この行動は、毛利家を滅亡から救うための苦渋の策であったが、戦後、毛利家が西軍の総大将であったという事実は覆せず、徳川家康から極めて厳しい処分を受けることとなる。

戦後処理の結果、毛利氏は中国地方8カ国112万石という広大な領地を没収され、周防・長門の二カ国、約30万石(朱印高は36万9千石)へと大幅に減封された 8 。これは、所領が4分の1近くに激減することを意味し、毛利家にとって建国以来最大の危機であった。

3-2. 徳川家康の誘いと元祥の選択

この主家の危機は、元祥個人にも直接的な影響を及ぼした。減封に伴い、益田氏は鎌倉時代から約400年にわたって本拠としてきた石見国益田の地を離れ、毛利家の新たな領国である長門国須佐(現在の山口県萩市須佐)へ移住することを余儀なくされたのである 1

まさにその時、元祥のもとに天下人となった徳川家康から、驚くべき誘いがもたらされる。家康は、元祥の武将としての能力と、彼の旧領・益田が石見銀山に近いという戦略的重要性を高く評価していた。そして、「毛利家を離れて徳川家に仕えるならば、石見の旧領をそのまま安堵し、独立した大名として取り立てよう」という破格の条件を提示したのである 7 。これは、先祖代々の土地を取り戻し、一国一城の主となれるまたとない機会であった。

しかし、元祥はこの家康の誘いをきっぱりと断り、減封され苦境に喘ぐ毛利家への忠義を貫き、「一家臣」として運命を共にすることを選んだ 16 。この選択は、後世「忠臣の鑑」として称賛され、主君・輝元を感激させた 13

だが、この決断の裏には、単なる感情的な忠義や報恩の念だけでは説明できない、極めて冷徹な戦略的判断が存在した。元祥は、二つの道を天秤にかけたはずである。一つは、家康の誘いに乗り、独立した小大名として徳川の世を生きる道。もう一つは、没落した毛利家に留まり、その再建に尽くす道。前者は短期的な利益(旧領安堵)こそ大きいが、新政権下で常に監視され、些細なことで改易されるリスクを伴う孤立した存在となる。一方、後者は茨の道ではあるが、この未曾有の危機を救うことができれば、藩内で比類なき恩と信頼を勝ち取り、一族の地位を永続的に保証する「永代家老」という制度的権力を確立できる。

元祥は、短期的な利益よりも、長期的な一族の安泰と影響力の最大化を選択したのである。彼のこの決断は、単なる美談として語られるべきではない。それは、自らの家運を切り開き、巨大な組織の中で確固たる地位を築き上げるための、高度な政治的計算に基づいた戦略家の選択であった。この決断こそが、彼を単なる忠臣から、萩藩「中興の祖」へと押し上げる第一歩となったのである。

第四章:萩藩財政再建 ― 国家老・牛庵の手腕

徳川家康の誘いを断り、主君・毛利輝元と共に長州へ移った益田元祥。彼を待ち受けていたのは、藩の存亡そのものが問われる絶望的な財政危機であった。しかし、元祥はこの逆境においてこそ、その真価を発揮する。武将から行政家へと役割を変え、後に「牛庵(ぎゅうあん)」と号した彼は、辣腕を振るい、破綻寸前の萩藩(長州藩)を見事に再建していく。

4-1. 破綻寸前の藩財政と「返租米問題」

関ヶ原の戦後、防長二カ国に減封された毛利家は、収入が4分の1に激減したにもかかわらず、旧領から移住してきた10万人を超えるともいわれる膨大な家臣団を抱え、その財政は事実上の破綻状態にあった 10 。家臣に与える知行(給料)すらままならない状況であった。

この危機的状況に追い打ちをかけたのが、いわゆる「返租米(へんそまい)問題」であった。これは、関ヶ原の戦いがあった慶長5年(1600年)に、毛利氏が旧領である安芸・備後など6カ国で徴収した年貢米を、戦後にその地を新たな所領とした福島正則らの新領主へ全額返還せよ、という幕府からの厳しい命令であった 18 。すでに徴収し、消費してしまった米を返還することは不可能に近く、輝元は絶望のあまり、与えられた防長二カ国すら幕府に返上し、隠遁しようと考えるほどに追い詰められていた 19

この国家存亡の危機に際し、輝元が頼ったのが元祥であった。元祥は、同じく重臣の福原広俊と共に輝元の命を受け、筑前福岡城の黒田如水(官兵衛)のもとへ相談に赴いた 19 。如水は「領地を返上しても返租の義務は消えない。むしろ二カ国を抱えたままでこそ、何か方策も生まれよう」と助言した 19 。この言葉に活路を見出した元祥は、一つの大胆な解決策を立案する。それは、引き続き毛利領となった防長二国の家臣から徴収した米を、この返租米の支払いに充てるというものであった 19 。これは家臣に多大な負担を強いるものであったが、他に選択肢はなく、元祥と広俊の尽力により、慶長7年(1602年)までにこの難題を完済した 18 。この返租米問題の解決は、元祥の交渉能力と実行力を藩内外に示し、彼が藩政の実権を握る上で絶対的な信頼を勝ち取る決定的な出来事となった。

4-2. 藩政改革の断行 ― 萩藩のグランドデザイン

返租米問題を乗り越えた後、元祥は国家老(当職)に就任し、福原広俊らと共に、藩の根本的な再生計画に着手する 18 。彼の改革は、単なる場当たり的な緊縮財政ではなく、歳入構造の抜本的改革と徹底したリストラクチャリングを両輪とする、萩藩の未来を見据えたグランドデザインであった。

表1:益田元祥主導の萩藩初期財政改革一覧

改革分野

施策名

具体的内容

目的・成果

関連史料

歳入増加

指出検地

検地竿の長さを従来の6尺3寸から6尺にするなど、石盛(反あたりの標準収穫量)を厳格に再評価し、隠田を摘発。

表高36万9千石に対し、実質的な収穫高(内高)を54万石まで引き上げ、税収基盤を抜本的に拡大。

8

歳入増加

三白政策

米だけに依存しない財源確保のため、藩の特産品である紙(和紙)・塩・蝋を「三白」と称し、藩の専売事業として育成・強化。

藩の安定した現金収入源を確立し、米依存経済からの脱却を図る。後の長州藩の財政を支える重要産業となる。

20

歳出削減

知行削減(半知令等)

家臣の知行(給与)を大幅に削減。正保3年(1646年)の元祥の孫・元堯の改革では2割減知が断行された。

藩の最大の支出である人件費を劇的に圧縮し、財政の均衡を図る。

19

構造改革

家臣団の整理

膨大な家臣団を養うため、一部の武士を帰農させ、開墾に従事させる(帰農武士)。

食糧生産力の向上と、藩が直接扶持する人口の削減を同時に実現。

19

構造改革

知行制度改革

家臣が領地を直接支配する地方知行制から、藩が年貢を徴収し蔵米として給与を支給する蔵米制への移行を促進。

藩主による財政と家臣の一元的な支配を強化し、近世的な中央集権体制を確立。

11

これらの改革は、多岐にわたる施策が有機的に連携した、包括的な経営再建計画であった。特に、厳しい「指出検地」は、藩の収入の根幹である石高そのものを増大させる画期的なものであった 8 。元祥自身、自らの旧領・石見の所領は長門の検地基準で言えば7、8万石に相当すると述べており 8 、この検地がいかに厳格なものであったかがうかがえる。また、「三白政策」は、近世を通じて長州藩の財政を支える重要な布石となった 20 。一方で、知行削減や帰農といった施策は、家臣に多大な痛みを強いるものであり、強力なリーダーシップなくしては断行不可能なものであった。

4-3. 改革の成果と歴史的意義

元祥の断行した一連の改革は、絶大な成果を上げた。藩が抱えていた莫大な負債は、寛永9年(1632年)には完済され、さらには余剰米を備蓄できるほどにまで財政は健全化した 11 。同年、元祥は74歳で藩政の第一線から引退。その8年後の寛永17年(1640年)、83歳でその生涯を閉じた 10

彼の功績は、単に藩の借金をなくしたという次元に留まらない。より重要なのは、彼が築き上げたものが、その後の長州藩の在り方を決定づけたという点にある。元祥の改革は、中世的な分権体制の残滓を払拭し、藩主が財政と家臣を直接掌握する近世的な中央集権体制を確立するものであった。この強固な財政基盤と集権的な統治システムは、江戸時代を通じて萩藩の経営を安定させ、宝暦年間や天保年間に行われた村田清風らの藩政改革の土台となった 27

そして、この潮流は幕末へと繋がっていく。幕末の長州藩が、表高37万石の藩でありながら「実力は100万石以上」と評価され 29 、討幕運動の中心的役割を担うほどの経済力と組織力を持ち得たのは、遡れば、藩の創成期に益田元祥が築き上げたこの強固な基盤があったからに他ならない。彼の改革は、250年後の日本の夜明けを準備する、遠大なる布石だったのである。

第五章:人物像と逸話 ― 政治家、文化人、そして人間・元祥

藩政改革という偉業を成し遂げた益田元祥は、果たしてどのような人物だったのか。彼は冷徹な合理主義者であったのか、それとも情に厚い文化人であったのか。残された逸話や史料は、彼の多面的な人物像を浮かび上がらせる。

5-1. 「五郎太石事件」に見る権力闘争と冷徹さ

元祥の政治家としてのしたたかさと、藩内における彼の絶大な影響力を示す象徴的な事件が、慶長9年(1604年)に始まった萩城築城の際に発生した「五郎太石(ごろたいし)事件」である 30

元祥は築城の総宰(総責任者)の一人であったが、彼の配下の人夫が、他の重臣である天野元信や熊谷元直の担当区域から、石垣の隙間を埋めるための小石(五郎太石)を盗んだことが発端となり、重臣間の深刻な対立へと発展した 10 。当初の非は明らかに元祥の家臣側にあった。元祥は事を収めるため、盗みを働いた家臣3名を処刑し、その首を天野側に届けたが、天野側は納得せず、事態は泥沼化。築城工事は2ヶ月以上も遅延し、幕府の不興を買うことを恐れた輝元を激怒させた 30

最終的に、主君・輝元が下した裁定は驚くべきものであった。輝元は、事件のきっかけを作った元祥を不問に付す一方、対立した天野元信、熊谷元直の一派を「築城を妨害した」として一方的に断罪し、一族を粛清するという強硬手段で事件を収拾したのである 30

この一連の出来事は、単なる喧嘩の仲裁ではない。それは、減封直後で未だ旧国人領主としての意識が根強く残る、寄せ集めの家臣団に対する高度な政治的デモンストレーションであった。輝元は、この事件を利用して、藩の再建を託した元祥に絶対的な権威を与え、その改革に異を唱える者は容赦なく排除するという断固たる意思を、全家臣の目前で可視化したのである。この冷徹な政治決着によって、元祥の藩内における権力基盤は不動のものとなり、家臣の既得権益を侵害する痛みを伴う大改革を、反対を恐れることなく断行するための政治的環境が完全に整えられた。元祥がこの過程でどのような役割を果たしたかは定かではないが、結果として彼が最大の受益者となったことは疑いようのない事実である。

5-2. 文化人としての一面と権力との距離感

冷徹な政治家としての一方で、元祥は当代一流の文化に親しむ教養人でもあった。そのことを示す逸話が、茶人・千利休との交流である 36 。元祥は自身の蔵にあった古い壺を利休に鑑定させたところ、利休はこれを絶賛し、「益田壷」と名付けて天下一の名品であるとのお墨付きを与えた 36

しかし、この名品の噂はすぐに主君・輝元の耳に入る。物好きで知られた輝元は、わざわざ元祥のもとを訪れて壷の拝見を求め、ついには「貸してほしい」と頼み込んだ。元祥は嫌な予感を抱きつつも断れず、案の定、輝元は壷を手放そうとしなくなった。結局、元祥は「大事にしてくれるなら」という条件を付けて、この至宝を輝元に献上せざるを得なかった 36 。この逸話は、元祥の優れた審美眼と文化的素養を示すと同時に、いかに藩内で絶大な権力を持とうとも、藩主との間には絶対的な主従関係が存在するという、近世武士としての彼の立場を象徴している。

また、現存する重要文化財《益田元祥像》に描かれた、銀小札萌黄縅(ぎんこざねもえぎおどし)の華やかな甲冑や、黄金造りの太刀は、彼の武将としての威厳と美意識を伝えている 8 。さらに、彼が所用したと伝わる木綿の帷子(かたびら)は、当時まだ希少であった木綿を異国から入手できるほどの財力と、最先端の文物に対する関心の高さを示している 38

5-3. 『牛庵覚書』に記された自己認識

元祥の人物像と思想を知る上で最も重要な史料が、彼自身が書き残した『牛庵一代御奉公之覚書』(通称『牛庵覚書』)である 11 。これは単なる日記や回想録ではなく、自身の功績、特に財政再建の困難な道のりを後世の藩主や子孫に伝え、益田家の働きを永く記憶させることを目的とした、公式な報告書としての性格を強く持つ 40

この覚書には、返租米問題で黒田如水に相談した際のやり取りや、財政改革を断行する上での苦悩と自負が、当事者ならではの生々しい筆致で記されている 19 。そこからは、主家への奉公を一義としながらも、自らの手腕によって藩の危機を救ったという強い自負心、物事を論理的に分析し解決策を導き出す合理的な思考、そして巨大な組織を一身に背負うことの重圧といった、彼の人間的な側面を垣間見ることができる。この史料は、益田元祥という人物が、自らの功績を歴史の中にどう位置づけようとしていたかを知る上で、他に代えがたい価値を持っている。

結論:益田元祥の歴史的評価と後世への遺産

益田元祥は、戦国時代の動乱を武将として生き抜き、近世初期という新たな社会秩序の中で卓越した行政家として主家の危機を救った、まさに時代の転換点を象徴する人物であった。彼の生涯は、武力による領土の維持拡大が絶対的な価値を持った中世から、安定した統治と財政運営能力が求められる近世へと、武士に要求される能力が変化していく過程そのものであったと言える。

元祥の最大の功績は、疑いもなく、関ヶ原の敗戦によって破綻寸前に陥った萩藩の財政と組織を再建し、その後250年以上にわたる藩経営の盤石な基礎を確立したことにある 11 。彼が断行した指出検地や三白政策、家臣団の再編といった一連の改革は、単に目先の赤字を解消しただけでなく、藩の歳入構造を根本から変革し、藩主による中央集権的な支配体制を確立した。この強固な財政基盤と統治システムなくして、幕末における長州藩の目覚ましい雄飛はあり得なかったであろう。

この絶大な功績により、元祥は主君・輝元から絶対的な信頼を得て、益田家は毛利一門に次ぐ「永代家老」という最高の家格を与えられた 3 。彼の子孫は江戸時代を通じてその地位を世襲し、藩政の中枢で重きをなし続けた。幕末、禁門の変の責任を負って自刃した家老・益田親施も、元祥の直系の子孫である 16

後世、長州藩では「萩の土塀は須佐(益田家の所領)で持つ」という言葉が語り継がれた 13 。これは、萩藩の屋台骨を支えているのは、まさに益田家の財力と貢献である、という最大の賛辞であった。寛永17年(1640年)に83歳で大往生を遂げた元祥は、その死後も「牛庵様」と慕われ続けた 7 。彼の墓所は、長門国須佐の笠松山にあり、現在、笠松神社としてその功績と共に静かに祀られている 11 。武将として、そして行政家として、主家の危機を救い、新たな時代の礎を築いた益田元祥は、長州藩「中興の祖」として、その名を日本史に不滅のものとして刻んでいる。

引用文献

  1. 益田氏(中世-近世) | 島根県益田市観光公式サイト https://masudashi.com/kankouspot/kankouspot-692/
  2. 益田氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%8A%E7%94%B0%E6%B0%8F
  3. 武家家伝_益田氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/masuda.html
  4. ますだ歴史探検 (PDFファイル - 益田市 https://www.city.masuda.lg.jp/material/files/group/5/masuda-rekishitanken.pdf
  5. 歴中世益田を味わう日本遺産26選 https://masudashi.com/japan-heritage/
  6. 中世日本の傑作 益田を味わう ―地方の時代に輝き再び― https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/datas/files/2023/08/03/5f8f44b56757ec171250ac6c8f6ee77f1cdf4298.pdf
  7. 島根県 益田市 益田氏 中世 益田元祥 ますだ地域づくり協議会 https://www.masuda-tiikidukuri.com/motoyosi
  8. 石見の領主と戦国大名~益田氏らと毛利氏~ - 島根県 https://www.pref.shimane.lg.jp/bunkazai/plusonline2/index.data/2kou.pdf
  9. 益田氏の系譜について(石見への土着から現代まで) - 備陽史探訪の会 https://bingo-history.net/archives/13025
  10. 益田 元祥 - BIGLOBE http://www7a.biglobe.ne.jp/~onmyousansaku/masuda-motoyosi0.htm
  11. 益田元祥とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E7%9B%8A%E7%94%B0%E5%85%83%E7%A5%A5
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  20. 長州藩永代家老家を築いた 益田元祥(ますだもとなが)とその父・益田藤兼の物語 (益田氏は毛利家譜代の臣ではない) https://www.xn--bbk2a4dae5evcwgzbygv287k.com/wp-content/uploads/2022/06/%E9%95%B7%E5%B7%9E%E8%97%A9%E6%B0%B8%E4%BB%A3%E5%AE%B6%E8%80%81%E7%9B%8A%E7%94%B0%E5%AE%B62017-7.pdf
  21. 長州藩とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E9%95%B7%E5%B7%9E%E8%97%A9
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  23. www.bekkoame.ne.jp http://www.bekkoame.ne.jp/i/ga3129/kiheitai.html
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  25. 萩藩で馳走米がはじまる - 山口県文書館 http://archives.pref.yamaguchi.lg.jp/user_data/upload/File/archivesexhibition/AW18hajimeru/R05_08.pdf
  26. 益田元祥(ますだ げんしょう)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%9B%8A%E7%94%B0%E5%85%83%E7%A5%A5-1109716
  27. 村田清風の生涯 https://murataseihuu.com/murataseifuu/
  28. 長州藩における宝暦の改革 https://ypir.lib.yamaguchi-u.ac.jp/sc/1110/files/140154
  29. 朝礼ネタ:実力100万石を築いた長州藩官僚 その活躍が日本の歴史を変えた!? - 経営ノート https://keiei-note.com/cyourei10/
  30. 五郎太石事件 - 須佐郷土史研究会 https://susakyodoshi.sakura.ne.jp/works/gorotaishi/gorotaishi_affairs.htm
  31. 五郎太石事件 - 須佐郷土史研究会 https://susakyodoshi.sakura.ne.jp/fruit/gorotaishi_affairs.htm
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  36. 拾章 益田壷の献上 - BIGLOBE http://www7a.biglobe.ne.jp/~onmyousansaku/huzikane-10.htm
  37. 井上寛司、岡崎三郎編集・執筆「益田家文書の語る中世の益田」 (益田市教育委員会発行) 利休が天下一と認めた「益田の壺」も https://www.city.masuda.lg.jp/material/files/group/48/14523_33741_misc.pdf
  38. 益田元祥が着ていたとされる帷子(かたびら)についての研究論文が発表されました https://www.city.masuda.lg.jp/soshikikarasagasu/kyoikuiinkai/bunkazaika/8/keisaijoho/8118.html
  39. 休庵(牛庵)様覚書 - 須佐郷土史研究会 https://susakyodoshi.sakura.ne.jp/fruit/mashino_manuscript/mashino_10_7.htm
  40. 牛庵様御時代覚書 https://susakyodoshi.sakura.ne.jp/fruit/kenkyushiryo/009.pdf
  41. 益田親施 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%8A%E7%94%B0%E8%A6%AA%E6%96%BD
  42. 【萩のお散歩 須佐(すさ)物語⑤ 須佐の町の原形ができたのは隣の益田市からやってきた「益田氏」のおかげ?】 | 萩のお宿 花南理の庭 https://hananari.site/?p=1242
  43. 歴史スポット(毛利家永代家老「益田氏」の町を探訪) - 須佐おもてなし協会 https://kanko.susa.in/historyspot/
  44. 益田家墓所 - 萩市観光協会公式サイト https://www.hagishi.com/search/detail.php?d=100109