本報告書は、戦国時代の石見国(現在の島根県西部)に最大級の勢力を誇った国人領主、益田藤兼(ますだ ふじかね)の生涯を、現存する史料、特に一次史料群である『益田家文書』を基軸に、多角的かつ徹底的に解明することを目的とする 1 。益田藤兼は、享禄2年(1529年)に生まれ、慶長元年(1596年)に没するまで、戦国時代の最も激しい動乱期を生きた武将である 3 。彼の生涯は、西国の大大名である大内氏、そしてその後に台頭する毛利氏という巨大勢力の狭間で、一族の存続と領国の安寧を賭けて巧みな生存戦略を駆使した、国人領主の典型例として位置づけられる。
しかし、藤兼を単なる時代の波に翻弄された地方領主として捉えるのは一面的に過ぎる。彼は、自家の存亡を左右する幾多の岐路において、冷静な情勢分析に基づき、時に大胆かつ非情な決断を下す「政治家」であった。また、日本海交易や鉱物資源を背景とした豊かな経済力を外交の切り札として活用する「経営者」であり、敵将の懐にすら飛び込み信頼関係を構築する「外交官」でもあった。
本報告書では、藤兼をこのような多面的な人物として捉え直し、その出自と彼を育んだ経済的土壌、大内氏家臣としての台頭、大寧寺の変における決断、毛利氏への帰順という最大の危機、そして毛利家中の重臣として活躍した後半生、さらには彼の文化的側面や信仰心に至るまで、その生涯のあらゆる局面を詳細に分析する。これにより、一人の国人領主の視点を通して、戦国時代という時代のダイナミズムと、そこに生きた人間の複雑な実像を浮き彫りにすることを目指す。
益田藤兼という人物の戦略と行動を理解するためには、まず彼が率いた益田氏の歴史的背景と、その力の源泉となった経済基盤を把握することが不可欠である。益田氏は単なる地方の武士団ではなく、由緒ある家系と、他の国人を圧倒する経済力を有していた。
益田氏の出自は、平安時代中期の公家である藤原氏に遡るとされる 5 。初代とされる藤原国兼は、永久2年(1114年)に石見守として下向し、任期終了後も同地に留まり土着したことに始まると伝えられる 5 。当初は浜田の御神本(みかもと)に拠点を構え「御神本氏」を称したが、4代兼高の代、建久9年(1192年)に本拠を益田の地に移し、以降「益田氏」を名乗るようになった 5 。
中世を通じて益田氏は、石見国において着実に勢力を拡大した。兼高の次男・兼信は三隅氏、三男・兼広は福屋氏を興し、5代兼季の代には周布氏、末元氏などの庶流が分出する 5 。これにより、益田氏は石見国西部に広範な一族のネットワークを形成し、その惣領家として君臨した。南北朝の動乱期には、宗家は北朝方に、分家は南朝方に付くなど分裂も見られたが、観応の擾乱以降は大内氏の傘下に入り、石見国人筆頭としての地位を確立していく 5 。藤兼が生まれる頃には、益田氏は大内氏の有力な国人領主として、その軍事行動にも積極的に参加する名門となっていた。
益田氏の強大さを支えた最大の要因は、その卓越した経済力にあった。本拠地である益田平野は、日本海に面し、高津川と益田川という二つの河川がもたらす水運の利に恵まれていた 7 。この地理的優位性を活かし、益田氏は古くから日本海交易に深く関与していた。
その経済力の豊かさは、史料の端々に記録されている。永正15年(1518年)頃には、益田氏の船が若狭国小浜(現在の福井県小浜市)にしばしば寄港していた記録が残っており、北国との交易ルートを確立していたことがわかる 9 。また、後年、藤兼が毛利元就に帰順する際に献上した品々の中には、虎の皮、数の子、昆布といった、自領では産出されない希少な舶来品や北海の産物が含まれていた 9 。これらは、朝鮮半島や大陸、あるいは北国との広域な交易ネットワークを益田氏が掌握していたことを雄弁に物語る証左である。
さらに、領内には都茂鉱山などの鉱物資源も存在し 8 、中国山地で盛んに行われていた「たたら製鉄」とも無縁ではなかったと考えられる 11 。これらの地域資源を川下しによって港へ運び、交易品として他地域へ積み出すことで、莫大な富を蓄積していた。
藤兼が後年見せる大胆な政治判断や、他の国人領主とは一線を画す外交戦略の根底には、単なる軍事力だけでなく、この強固な経済基盤があった。虎の皮のような希少品を外交の場で贈答に用いる行為は、単なる貢物ではなく、自らの経済力と文化的洗練度を相手に誇示し、対等な交渉相手として認めさせるための高度な政治的パフォーマンスであった。この経済力こそが、藤兼に自信と余裕を与え、激動の時代を乗り切るための最大の武器となったのである。
益田藤兼が歴史の表舞台に登場するのは、西国に覇を唱えた大内氏の力が、内側から揺らぎ始めた時期であった。若くして家督を継いだ藤兼は、この権力の過渡期を自家の勢力拡大の好機と捉え、大胆な決断を下していく。
藤兼は享禄2年(1529年)に、益田氏第18代当主・益田尹兼(まさかね)の子として生まれた 3 。天文12年(1543年)、主君である大内義隆が尼子氏を討伐するために行った第一次月山富田城の戦いに、15歳の若さで初陣を飾る 4 。
その翌年の天文13年(1544年)、藤兼は異例の形で家督を継承する。父・尹兼が存命であったにもかかわらず、祖父・宗兼が死去すると、父を飛び越えて孫の藤兼が当主となったのである 4 。これは、父の尹兼が藤兼の非凡な資質を早くから見抜き、自らは後見役に徹することを選んだためと伝えられている 4 。この逸話は、藤兼が少年時代から、一族の将来を託されるほどの器量と才覚を示していたことを物語っている。
家督継承後まもなく、時の将軍・足利義藤(後の義輝)から偏諱(名前の一字)を賜り、「藤兼」と名乗った 4 。これは、室町幕府という中央の権威との結びつきを内外に示威する重要な政治的行為であり、若き当主の権威を補強するものであった。
藤兼が当主となった頃、主家である大内氏の内部では、文治派を重用する主君・大内義隆と、武断派の筆頭である重臣・陶隆房(後の晴賢)との対立が抜き差しならないものとなっていた 16 。天文20年(1551年)、ついに陶晴賢が謀反を起こし、義隆を長門大寧寺で自害に追い込むというクーデター(大寧寺の変)が勃発する。この未曾有の事態に際し、藤兼は明確に陶晴賢への加担を決断した。
その決断の背景には、複数の要因が絡み合っていた。第一に、益田氏と陶氏の間に存在した古くからの姻戚関係である。藤兼の高祖父・益田兼堯の娘が晴賢の祖母にあたるなど、両家は代々親密な関係を築いていた 4 。第二に、そしてより決定的な要因は、石見国内における宿敵・吉見正頼の存在であった。吉見氏は義隆に近しい立場をとっていたため、その対抗上、晴賢と手を結ぶことは益田氏にとって必然的な選択であった 4 。
藤兼の行動は迅速かつ徹底していた。クーデターが勃発すると、彼は石見にあって直ちに吉見領へ侵攻 4 。さらに、義隆の側近であった相良武任の子・虎王が石見に逃れてくると、これを捕らえて殺害している 4 。これは、藤兼が単に日和見的に晴賢に従ったのではなく、クーデターの成功に積極的に関与し、新体制の樹立に貢献したことを明確に示している。
この功績により、藤兼は晴賢が新たに擁立した大内義長のもとで重用されることとなる。特にその外交手腕は高く評価され、晴賢の命令を受けて尼子晴久との同盟締結に尽力するなど、新体制下で重要な役割を担った 4 。藤兼にとって大寧寺の変は、主家への裏切りではなく、長年の懸案であった対吉見氏政策を有利に進め、石見西部における自家の覇権を確立するための、計算され尽くした戦略的決断だったのである。
大寧寺の変は、石見国における益田氏と吉見氏の長年にわたる対立を、決定的な武力抗争へと発展させた。大内氏の新旧勢力の代理戦争という様相を呈したこの戦いは、熾烈を極めた。
変の後、陶晴賢の後ろ盾を得た藤兼は、再三にわたり吉見領へ侵攻した。天文23年(1554年)には、陶氏の大軍と共に吉見氏の居城・三本松城(津和野城)を包囲する「三本松城の戦い」が起きる 4 。吉見正頼は要害堅固な城に拠って頑強に抵抗し、大内軍は多大な損害を出しながらも城を落とすことができず、最終的には講和に至った 4 。
この一連の戦いは、藤兼が陶晴賢のクーデターを、宿敵・吉見氏を打倒する絶好の機会と捉えていたことを示している。彼の行動は防衛的ではなく、極めて攻撃的かつ能動的であった。しかし、この選択は同時に大きなリスクを伴うものであった。晴賢という強力な庇護者を頼みとする一方で、その運命と自家の運命を一体化させることになったからである。この決断が、後に藤兼を最大の危機へと追い込む直接的な原因となる。
陶晴賢への加担によって一時的に勢力を拡大した益田藤兼であったが、その蜜月は長くは続かなかった。中国地方の勢力図を根底から覆す厳島の戦いは、藤兼を絶体絶命の窮地に追い込み、彼の政治家としての真価が問われることとなる。
弘治元年(1555年)、毛利元就の奇策によって陶晴賢が厳島で討死すると、状況は一変する 4 。最大の庇護者を失った藤兼は、晴賢に与した「大内義隆を殺した大罪人」の一人として、今や飛ぶ鳥を落とす勢いの元就にとって最大の標的の一人となった 4 。
政治的に完全に孤立した藤兼に、追い打ちをかけるように周囲の情勢も悪化する。長年の宿敵であった吉見正頼は、いち早く元就と結び、その先鋒として益田領への侵攻を開始 4 。さらに石見国内では、毛利氏と結んだ尼子氏が石見銀山を巡って勢力を伸長させるなど 23 、藤兼はまさに四面楚歌の状態に陥った。
弘治2年(1556年)、元就の次男・吉川元春が率いる毛利軍本隊が、満を持して石見への侵攻を開始した 4 。この危機に際し、藤兼は覚悟を決め、本拠である山城・七尾城を大規模に増改築し、籠城による徹底抗戦の構えを見せた 4 。
しかし、圧倒的な毛利軍の兵力の前に、領民の動揺は広がり、益田軍の戦意も次第に衰えていった 17 。万策尽きた藤兼は、弘治3年(1557年)3月、毛利一門の重鎮である宍戸隆家の仲介を受け入れ、毛利氏に降伏することを決断する 4 。
降伏はしたものの、藤兼の命運は風前の灯火であった。元就は、主君・義隆を死に追いやった張本人である藤兼を許すつもりはなく、また、重要な同盟者である吉見正頼の手前、藤兼を処刑する方針であった 4 。この絶体絶命の状況を打開したのは、敵将である吉川元春の存在であった。元春は藤兼の武勇と、石見国を平定する上での彼の影響力の大きさを惜しみ、「藤兼を殺すは良将を失うもの」と父・元就を強く説得した 4 。この元春の嘆願が元就を動かし、藤兼は奇跡的に死を免れ、本領安堵という破格の条件で毛利氏の家臣となることが許されたのである 4 。
この出来事は、単なる軍事的降伏劇ではない。藤兼が自らの「利用価値」を的確に提示し、敵方の中のキーパーソンである元春の心を動かした結果であり、高度な政治交渉の成果であった。そして、この時に結ばれた藤兼と元春の間の信頼関係は、その後の益田氏の運命を大きく左右する礎となった。
処刑を免れたとはいえ、猜疑心の強い元就が、かつての宿敵である藤兼を心から信頼したわけではなかった。藤兼は、この見えざる懐疑を払拭するため、慎重かつ巧みな人心掌握術を展開していく。
その集大成が、永禄11年(1568年)に行われた毛利氏の本拠・吉田郡山城への訪問であった。藤兼は嫡男・元祥(当時は次郎)を伴って元就に謁見し、忠誠の証として、鎧兜12領、馬20頭、刀120振といった武具に加え、自らの経済力を象徴する虎の皮や、北海の産物である昆布・数の子などを大量に献上した 9 。さらに、毛利一門や家臣団を招いて盛大な饗応(酒宴)を催し、その献立が『益田家文書』に詳細に記録されている 28 。
この一連の行動は、元就の心を動かすのに十分であった。元就は藤兼の忠誠を認め、自らの名前から「元」の一字を与え、嫡男はこれより「元祥」と名乗ることになる 9 。これは、益田氏が毛利一門に準ずる特別な家臣として、公に認められたことを意味する画期的な出来事であった。加えて、藤兼は元就の体調を気遣う手紙を送るなど、人間的な配慮も欠かさなかったとされ、物質的な贈り物と人間的な細やかさを組み合わせることで、時間をかけて謀将の懐疑を解きほぐしていった 14 。
敗北した後、プライドを捨てて現実を受け入れ、新たな主君の性格や家中での力学を的確に分析し、最も効果的なアプローチを選択する。この藤兼の柔軟性と戦略性こそ、益田氏が近世まで存続できた最大の要因であったと言えよう。
毛利氏への帰順を果たした益田藤兼は、その立場を大きく変え、かつての敵であった毛利氏の忠実な家臣として、山陰地方の平定戦で目覚ましい活躍を見せる。彼は単なる一指揮官に留まらず、毛利家の権力構造の中で巧みに立ち回り、自家の地位を盤石なものとしていった。
毛利氏の家臣となった藤兼は、直ちにその軍事力を対尼子氏戦線に投入される。永禄4年(1561年)には、石見国で毛利氏に反旗を翻した国人・福屋隆兼の討伐に参加し、これを鎮圧 4 。毛利氏への忠誠を具体的な戦功で示した。
そして、毛利氏による尼子氏攻略の最終段階である第二次月山富田城の戦い(永禄8年〜9年、1565年〜1566年)では、主力部隊の一つとして参陣する 4 。この長期間にわたる包囲戦の中で、益田氏の歴史に刻まれる有名な一騎討ちが発生した。
第二次月山富田城の戦いが膠着状態にあった永禄8年(1565年)9月、士気の低下に悩む尼子軍を鼓舞するため、尼子再興軍の象徴的存在である勇将・山中幸盛(鹿介)が陣頭に姿を現した。これに対し、益田藤兼の家臣で弓の名手として知られた品川大膳(将員、あるいは勝盛とも)が、一騎討ちを挑んだ 4 。
軍記物『雲陽軍実記』によれば、その戦いは壮絶なものであった 35 。両者は川を挟んで名乗りを上げ、太刀を交えて打ち合った。力では勝る品川が優勢に見えたが、やがて組討となり、もつれ合う中で幸盛が下から腰刀で品川の股を抉り、弱ったところを組み伏せて首を討ち取ったという 35 。幸盛は「出雲の鹿が石見の狼を討ち取ったぞ」と勝ち鬨を上げ、この勝利は尼子軍の士気を大いに高めたと伝えられる 33 。この一騎討ちは、戦の勝敗を直接左右するものではなかったが、両軍の兵が見守る中での名誉を賭けた戦いとして、後世まで語り継がれる名場面となった。
尼子氏が滅亡し、毛利氏が中国地方の覇者となると、藤兼は毛利家臣団の中での地位固めに乗り出す。彼は、毛利宗家と、それを支える吉川元春・小早川隆景の「毛利両川体制」という権力構造を巧みに利用した。
特に、自身の助命の恩人である吉川元春との関係を重視し、そのパイプを強化することで、他の国衆出身の家臣とは一線を画す特別な地位を築き上げた 9 。その仕上げとなったのが、元亀元年(1570年)の嫡男・元祥と元春の娘との婚姻であった 9 。これにより益田氏は毛利一門と姻戚関係を結び、その地位は不動のものとなった。
同年に藤兼は家督を元祥に譲るが、これは形式的なものであり、以後も後見人として実権を握り続けた 9 。元亀2年(1571年)の布部山の戦いでは、元祥と共に吉川軍の一部として出陣し、尼子再興軍の撃破に貢献している 4 。
藤兼の視野は、中国地方だけに留まらなかった。織田信長の台頭によって中央政局が流動化すると、備後の鞆に亡命していた将軍・足利義昭にいち早く接近し、太刀や馬を献上して歓心を買い、見返りとして自らや元祥の官位(越中守、右衛門佐など)の授与を受けている 39 。これは、毛利家という巨大組織に属しながらも、中央の権威と直接結びつくことで自家の「格」を高めようとする、藤兼独自のしたたかな外交戦略であった。この動きは、毛利家中の他の家臣には見られないものであり、益田氏が単なる従属者ではなく、半ば独立した政治主体としての側面を保持し続けていたことを示している。
戦場での勇猛さや政略の巧みさの陰で、益田藤兼は領国経営者として、また文化の保護者として、そして篤い信仰者としての一面も持っていた。これらの活動は、単なる個人的な営みに留まらず、益田氏の支配を盤石にするための統治行為そのものであった。
益田氏の領国支配の拠点は、平時の居館である「三宅御土居(みやけおどい)」と、戦時の詰城である山城「七尾城」の二つからなっていた 40 。三宅御土居は益田川のほとりに築かれた大規模な館で、周囲を堀と土塁で固め、領国経営の中枢として機能した 41 。一方、七尾城は背後の丘陵に築かれた堅固な山城であり、藤兼が毛利氏の侵攻に備えて大規模な改修を行ったことは先に述べた通りである 4 。
この平城と山城を一体的に運用する体制は、中世武士の城館経営の典型例であり、藤兼が防衛と統治の両面において優れた手腕を持っていたことを示している。七尾城の縄張りには、本丸や調度丸(武具庫)といった軍事施設が計画的に配置されており 43 、彼の築城術への関心の高さが窺える。
益田の地は、藤兼の時代より以前から、高い文化水準を誇っていた。特に画聖として名高い雪舟との関わりは特筆に値する。藤兼の祖先である15代当主・益田兼堯は、雪舟を益田に招き、萬福寺と崇観寺(現在の医光寺の前身)に、今日まで名園として伝わる庭園を築かせた 1 。また、雪舟筆の『益田兼堯像』は、雪舟の数少ない肖像画の基準作として国宝級の価値を持つ 44 。
藤兼もまた、この文化的伝統を継承する教養豊かな領主であった。彼が毛利元就を饗応した際の献立が詳細な記録として残っていることは 28 、彼が単なる武辺者ではなく、洗練されたもてなしの文化を身につけていたことを示唆している。こうした文化的な厚みは、益田氏の「家格」を内外に示す上で重要な役割を果たした。
史料は、藤兼が晩年、仏教への信仰を篤くしたことを伝えている 32 。彼の信仰は、単なる個人の内面の問題に留まらず、領国支配と深く結びついたものであった。
藤兼は益田氏の菩提寺である曹洞宗の古刹・妙義寺を特に手厚く保護し、多くの寺領を寄進してその興隆を支えた 45 。長州(山口県)大寧寺から高僧・関翁珠門和尚を招いて住職とするなど、寺の教学の発展にも貢献している 49 。また、辻ノ宮八幡宮の再建や遠田八幡宮への神田寄進など、神社への崇敬も忘れなかった 39 。
彼の信仰活動の頂点を示すのが、朝廷との関わりである。藤兼は、皇居造営に際して献金を行うなど、朝廷への奉仕を続けた結果、正親町天皇から「光源院殿大蘊全鼎大居士」という法号と、従四位下侍従という高い官位を授与された 4 。これは、彼の篤い信仰心を示すと同時に、中央の権威を借りて自らの支配を正当化し、毛利家中の他の家臣に対する「格の違い」を明確にするための、極めて戦略的な投資であった。
藤兼の死後、息子・元祥は父の菩提を弔うため、移封先の長門国須佐に大薀寺を建立しており 51 、その信仰心が次代にまで深く受け継がれたことがわかる。藤兼にとって文化・宗教政策は、軍事・外交と並ぶ、領国を安定させるための重要な統治の柱だったのである。
益田藤兼の生涯を総括する時、我々は一人の人物の中に、驚くほど多様な貌を見出すことができる。彼は、戦場にあっては自ら兵を率いる勇猛な「武将」であり、時代の潮流を冷静に読み解き、時に主君を乗り換える非情さをも併せ持つ「政治家」であった。さらに、日本海交易を背景とした経済力を外交の武器に変える「領国経営者」であり、敵将の懐にすら飛び込んで信頼を勝ち取る術を知る「外交官」でもあった。
彼の真価が最も発揮されたのは、大内氏の滅亡と陶晴賢の敗死という、一族存亡の危機に瀕した時であった。処刑寸前の窮地を、敵将・吉川元春との人間関係構築と、自らの利用価値を的確に提示することによって乗り越え、ついには猜疑心の強い毛利元就の信頼をも勝ち得たその手腕は、戦国国人の生存戦略の極致と評するに値する。
藤兼の生涯にわたる奮闘は、益田氏を単なる戦国時代の敗者や、巨大勢力に吸収され消えていった数多の国人領主の一つに終わらせなかった。彼が築いた毛利氏、特に吉川氏との強固な関係と、家中における特別な地位は、その後の益田氏が近世を通じて長州藩の永代家老という最高位の家臣として存続するための、決定的な礎となった。藤兼の選択と行動なくして、近世益田氏の繁栄はあり得なかったと言っても過言ではない。
今日、我々が益田藤兼という一国人領主の動向をこれほど詳細に追うことができるのは、奇跡的に現代まで伝えられた膨大な『益田家文書』の存在に負うところが大きい 1 。彼の生涯は、戦国という激動の時代を、中央の大名ではなく地方の国人領主の視点から解き明かすための、比類なき価値を持つ第一級の歴史的ケーススタディである。彼は、乱世を生き抜くとはどういうことか、その答えを我々に示し続けている。
西暦 |
元号 |
藤兼年齢 |
益田藤兼・益田氏の動向 |
国内外の主要な出来事 |
1529 |
享禄2 |
1歳 |
石見国にて誕生 4 。 |
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1543 |
天文12 |
15歳 |
大内義隆に従い、第一次月山富田城の戦いに初陣 4 。 |
大内義隆、出雲遠征に失敗。 |
1544 |
天文13 |
16歳 |
祖父・宗兼の死去に伴い、父・尹兼を越えて家督を継承 4 。 |
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1546頃 |
天文15頃 |
18歳頃 |
将軍・足利義藤(義輝)より「藤」の字を賜り、藤兼と名乗る 4 。 |
足利義藤が第13代将軍に就任。 |
1551 |
天文20 |
23歳 |
大寧寺の変。陶晴賢に与し、吉見領へ侵攻。相良武任の子を殺害 4 。 |
陶晴賢が謀反、大内義隆が自害。 |
1554 |
天文23 |
26歳 |
陶晴賢と共に吉見正頼の居城・三本松城を攻撃(三本松城の戦い) 4 。 |
|
1555 |
弘治元 |
27歳 |
|
厳島の戦い。毛利元就が陶晴賢を破り、晴賢は自害。 |
1556 |
弘治2 |
28歳 |
吉川元春率いる毛利軍が石見に侵攻。七尾城を改修し籠城の備え 4 。 |
毛利元就が防長経略を開始。 |
1557 |
弘治3 |
29歳 |
吉川元春の助命により、毛利氏に降伏。本領を安堵される 4 。 |
大内義長が自害し、大内氏が滅亡。 |
1561 |
永禄4 |
33歳 |
毛利氏に反乱した福屋隆兼の討伐に参加 4 。 |
|
1562 |
永禄5 |
34歳 |
毛利氏の裁定により、長年の懸案であった吉見氏との所領問題が解決 4 。 |
毛利氏、尼子氏を破り石見銀山を掌握。 |
1565 |
永禄8 |
37歳 |
第二次月山富田城の戦いに参陣。家臣・品川大膳が山中幸盛との一騎討ちで討死 4 。 |
毛利元就が月山富田城を包囲。 |
1566 |
永禄9 |
38歳 |
|
尼子義久が降伏し、尼子氏が滅亡。 |
1568 |
永禄11 |
40歳 |
嫡男・元祥を伴い吉田郡山城を訪問。元就に謁見し、元祥が偏諱を授かる 9 。 |
織田信長が足利義昭を奉じて上洛。 |
1570 |
元亀元 |
42歳 |
家督を嫡男・元祥に譲る。元祥が吉川元春の娘と婚姻 9 。 |
|
1571 |
元亀2 |
43歳 |
布部山の戦いで、元祥と共に尼子再興軍を撃破 4 。 |
毛利元就が死去。 |
1573 |
天正元 |
45歳 |
正親町天皇より「大蘊全鼎大居士」の法号と従四位下侍従の官位を授かる 4 。 |
室町幕府が滅亡。 |
1577 |
天正5 |
49歳 |
将軍・足利義昭より越中守に任じられる 39 。 |
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1596 |
慶長元 |
68歳 |
12月1日、三隅大寺にて死去。菩提寺の妙義寺に葬られる 4 。 |
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時期 |
主要事件 |
益田藤兼の立場・同盟相手 |
吉見正頼の立場・同盟相手 |
結果・影響 |
大寧寺の変以前 (〜1551年) |
領地境界紛争 |
大内義隆の家臣。 陶隆房(晴賢)と親密。 |
大内義隆の家臣。 義隆に近しく、陶氏とは険悪。 |
潜在的な対立関係が継続 4 。 |
変後〜厳島の戦い (1551年〜1555年) |
大寧寺の変 三本松城の戦い |
陶晴賢方に加担。 吉見領へ侵攻し、抗争が激化 4。 |
大内義隆方(反陶氏)。 益田・陶連合軍と死闘を繰り広げる 4。 |
益田氏は一時的に優位に立つが、陶氏の敗死により状況が一変する。 |
毛利氏の石見侵攻 (1556年〜1557年) |
防長経略 毛利軍の石見侵攻 |
孤立。 陶氏滅亡により最大の庇護者を失う。 |
毛利元就の同盟者。 毛利軍の先鋒として益田領へ侵攻 4。 |
益田氏が四面楚歌の状態に陥り、毛利氏への降伏を余儀なくされる。 |
毛利氏帰順後 (1557年〜) |
所領問題の裁定 対尼子戦線 |
毛利氏家臣。 特に吉川元春と強固な関係を構築 4。 |
毛利氏家臣。 元就の重要な同盟者。 |
毛利氏の裁定により、両者の長年の領土紛争が形式的に解決 4 。以降は毛利氏の同僚として共闘するが、緊張関係は続いた 53 。 |