戦国時代の房総半島、とりわけ上総国は、関東における古河公方体制の動揺と新興勢力である後北条氏の台頭、そして在地領主間の複雑な権力闘争が織りなす、激動の舞台であった。この渦中にあって、上総武田氏の一族である真里谷氏は、巧みな外交と軍事行動によって一時期、房総に大きな影響力を行使した。その中心人物が真里谷恕鑑(まりやつ じょかん)である。本報告では、しばしば「真里谷信保(のぶやす)」という名でも言及されるこの武将について、その出自、実名に関する諸説、政治・軍事活動、そして彼の一族が抱えた家督相続問題を中心に、現存する史料と近年の研究成果に基づいて多角的に検討し、その実像に迫ることを目的とする。
本報告の構成は以下の通りである。まず第一部では、真里谷恕鑑の出自と実名に焦点を当て、上総武田氏と真里谷氏の成立過程、恕鑑の生没年や家族構成、そして特に「信清」説と「信保」説を中心とした実名に関する諸問題を考察する。第二部では、恕鑑の政治・軍事活動を扱い、上総国における勢力基盤の確立、小弓公方足利義明との関係性の変遷、さらには北条氏、里見氏、扇谷上杉氏といった周辺勢力との複雑な外交・抗争関係を明らかにする。第三部では、恕鑑の死後に顕在化する家督相続問題を主題とし、庶長子・信隆と嫡男・信応の対立、そしてそれが周辺勢力の介入を招き、真里谷氏の内部対立を長期化させた過程を追う。第四部では、本報告の契機ともなった「真里谷信保」という呼称について再度検討し、史料上の用例や恕鑑の弟・全方との関連性から、その歴史的解釈を試みる。最後に結論として、真里谷恕鑑の歴史的評価と、彼の一族のその後の衰退への影響を総括する。
真里谷恕鑑が属する真里谷氏は、甲斐源氏武田氏の傍流にあたる上総武田氏の分家である 1 。上総武田氏の祖は、甲斐守護武田信満の次男である武田信長とされる 3 。信長は室町時代中期の康正2年(1456年)、古河公方足利成氏の命を受けて上総国に侵攻し、真里谷城(現在の千葉県木更津市)や庁南城(現在の千葉県長生郡長南町)などを築いて房総経営の拠点とした 3 。これが房総武田氏(上総武田氏)の始まりであり、信長はその祖と位置づけられている 3 。
その後、信長の孫にあたる信興(のぶおき)が真里谷城を本拠とし、真里谷氏を称したことで、上総武田氏から真里谷氏が分立した 3 。真里谷氏は、信興から信勝(のぶかつ)、そして恕鑑(じょかん、実名については後述)の父とされる信清(のぶきよ、または信勝、信嗣とも 2 )の代にかけて勢力を伸張させた。特に恕鑑の時代には、小弓公方足利義明を擁立するなど、房総半島における有力な戦国領主としての地位を確立するに至る。
上総武田氏初期の系譜に関しては、近年の研究で新たな視点が提示されている。歴史学者の黒田基樹氏は、上総武田氏二代当主とされる武田信高(信長の子)や、その子で真里谷氏の祖となった信興、庁南氏の祖となった道信(みちのぶ)の系譜について、詳細な検討を加えている 7 。黒田氏は、造海城(現在の千葉県富津市)近くの三柱神社に残る文明17年(1485年)の棟札銘「大檀那武田八郎氏信年十一歳」に着目し、この武田氏信が信長の嫡孫で、同時期に上総武田氏の宗家当主であった可能性を指摘する。さらに、系譜上信高の子とされるものの、活動時期から信長の庶子である可能性が高い武田清嗣(せいし/きよつぐ、信興と同一人物と推定)が、幼少の氏信に代わって上総武田氏の主導権を握り、真里谷・庁南両氏の祖となったと推測している 7 。これらの研究は、真里谷氏の出自を理解する上で、従来の系図の記述に留まらない多角的な史料分析の重要性を示唆している。
真里谷恕鑑の生年は不詳であるが、没年については天文3年7月1日(1534年8月10日)とされている 2 。法名は寿星庵恕鑑(じゅしょうあん じょかん) 8 、あるいは寿里庵恕鑑(じゅりあん じょかん)、円邦恕鑑(えんぽう じょかん)とも伝えられる 2 。
父は真里谷信勝(のぶかつ)、あるいは信嗣(のぶつぐ)とされる 2 。兄弟には、真里谷全方(ぜんほう、全芳とも書く)がおり、その実名は信保(のぶやす)あるいは信秋(のぶあき)ではないかと推測されている 2 。この全方は、恕鑑の死後に発生する家督争いにおいて重要な役割を果たすことになる。また、女子がおり、三浦義意(みうら よしおき)の妻となったとする記録もあるが、異説も存在する 2 。
恕鑑の子としては、庶長子とされる真里谷信隆(のぶたか) 2 と、真里谷信応(のぶまさ/のぶたか) 2 が知られている。信隆と信応は、恕鑑の死後、真里谷氏の家督を巡って激しく争うことになる。
真里谷恕鑑の出家前の実名については、「信清(のぶきよ)」、「信保(のぶやす)」など複数の説が存在し、確定するには至っていない 2 。この実名に関する問題は、恕鑑の人物像や真里谷氏の系譜を理解する上で重要な論点となる。
恕鑑の実名を「信清」とする説は、複数の史料や研究で支持されている 1 。例えば、恕鑑の子である真里谷信隆の父を「恕鑑(信清)」と明記する史料が存在する 11 。
一方で、この「信清」という名を持つ人物が、同時期の上総国に複数存在した可能性が指摘されており、事態を複雑にしている。特に、大永元年(1521年)に大多喜城(小田喜城とも)を築いたとされる真里谷信清 12 との関係が問題となる。歴史家の黒田基樹氏は、この大多喜城を築いた信清と、真里谷氏当主である恕鑑(実名信清説)とは別人であるとの見解を示している 12 。『上総国大多喜根古屋城主武田殿系図』によれば、小田喜真里谷氏は信清、直信、朝信と続いたとされ 12 、この初代信清は真里谷城主信勝の兄弟ともされるが定かではない 12 。黒田氏は、恕鑑の実名が信清であったとしても、それは大多喜城を築いた信清とは区別して考えるべきであると主張しており、この識別は恕鑑の事績を正確に把握する上で不可欠である。
本報告の依頼においても言及された「真里谷信保」という呼称も、恕鑑の実名候補の一つとして挙げられている 8 。『房総武田氏系図』とされる史料には、真里谷氏四代当主として「真里谷信保(1478~?)」の名が見え、その父は信勝、子は信隆と記されている 3 。この記述は、恕鑑の系譜上の位置(父が信勝、子が信隆)や活動時期(1478年生まれであれば恕鑑の活動期と重なる)と部分的に合致する。しかし、同系図では恕鑑の没年が「?」とされている点や、他の史料との整合性については慎重な検討が必要である。
さらに問題を複雑にするのは、恕鑑の弟である真里谷全方(全芳)の実名が「信保」ではないかと有力視されている点である 9 。全芳は恕鑑の死後、甥の信応を補佐して家督争いに深く関与した人物であり 6 、もし恕鑑自身も「信保」を名乗った時期があったとすれば、兄弟間で同じ実名を持つことになる。あるいは、弟・全方の実名「信保」が、何らかの経緯で兄・恕鑑の実名として誤伝されたり、混同されたりした可能性も否定できない。
房総武田氏に関する系図類については、その信頼性に疑問を呈する見解も存在する。「系図はずさんで、信用に足る物は殆ど無いとも言われる」 16 といった指摘もあり、特に実名のような具体的な情報に関しては、単一の系図のみに依拠することなく、複数の史料を比較検討し、慎重な解釈を施す必要がある 17 。
このような状況において、黒田基樹氏をはじめとする専門家の研究は、錯綜した情報を整理し、歴史的実像に迫る上で重要な手がかりを提供する。恕鑑の実名問題は未だ確定を見ていないものの、これらの研究動向を踏まえつつ、多角的な視点から検討を続けることが求められる。
「信保」という名称の混乱は、単なる記録ミスという以上に、真里谷氏内部の複雑な権力関係や、後世の系図編纂における何らかの意図、あるいは誤伝が積み重なった結果である可能性も考えられる。例えば、恕鑑の弟・全方が「信保」と推測される中で 9 、もし恕鑑自身も「信保」を名乗ったとすれば、その背景にはどのような事情があったのか。あるいは、全方の子孫が系図を作成する過程で、祖先である全方の名を強調しようとした結果、それが恕鑑と混同されるに至ったというシナリオも想定しうる。系図の信頼性が低いという事実は 16 、このような後世の編纂意図による情報の揺らぎを考慮に入れる必要性を示している。
表1: 真里谷恕鑑の基本情報と諸説
項目 |
内容 |
主な典拠 (スニペットID) |
備考 |
通称・法号 |
真里谷恕鑑(まりやつ じょかん) |
2 |
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法名 |
寿星庵恕鑑、寿里庵恕鑑、円邦恕鑑 |
2 |
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実名候補 |
信清(のぶきよ) |
1 |
黒田基樹氏など有力説。大多喜城築城の真里谷信清とは別人説 12 。 |
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信保(のぶやす) |
3 |
『房総武田氏系図』 3 に「真里谷信保(1478~?)」として記載。弟・全方の実名が信保である可能性 9 との関連・混同が指摘される。 |
生年 |
不詳 |
2 |
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没年 |
天文3年7月1日(1534年8月10日) |
2 |
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父 |
真里谷信勝(のぶかつ)または信嗣(のぶつぐ) |
2 |
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兄弟 |
真里谷全方(ぜんほう)/全芳(ぜんぽう) |
2 |
実名は信保または信秋と推測される。恕鑑の死後の家督争いで信応を補佐。 |
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女子(三浦義意妻) |
2 |
異説あり。 |
子 |
真里谷信隆(のぶたか) |
2 |
庶長子とされる。恕鑑死後、家督を巡り信応と争う。 |
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真里谷信応(のぶまさ/のぶたか) |
2 |
恕鑑死後、家督を巡り信隆と争う。 |
主な拠点 |
上総国真里谷城(千葉県木更津市) |
5 |
その他、椎津城、大多喜城などにも影響力を持った。 |
役職等 |
八郎五郎、式部丞、式部大夫、三河守 2 。自ら「房総管領」を称した 6 。 |
2 |
|
この表は、恕鑑に関する基本的な情報を整理し、特に実名に関する諸説を比較検討する上で有効である。各情報の典拠を明示することで、本報告の議論の透明性を高めることを意図している。
真里谷恕鑑の政治・軍事活動の基盤は、上総国に築かれた真里谷氏の所領であった。その中心的な拠点は、現在の千葉県木更津市に位置した真里谷城である 5 。この城は、上総武田氏の祖である武田信長が康正2年(1456年)に築城したとされ、庁南城と共に上総武田氏の政治・軍事拠点として機能した 3 。真里谷氏は、この真里谷城を核として、周辺に椎津城(現在の市原市)、佐是城(現在の市原市か)、中尾城(現在の木更津市)、笹子城(現在の君津市)、久留里城(現在の君津市)、さらには里見氏に対する備えとして佐貫城(現在の富津市)、造海城(現在の富津市)といった支城網を構築し、上総国における支配体制を固めていった 3 。
また、大多喜城(小田喜城とも、現在の夷隅郡大多喜町)も、恕鑑の時代における真里谷氏の勢力圏内にあった重要な城郭である。この城は大永元年(1521年)に真里谷信清(前述の通り、恕鑑とは別人とする説が有力)によって築かれたとされている 12 。恕鑑の支配下にあったかは直接的な史料に乏しいものの、その戦略的位置から、真里谷氏の勢力拡大において無視できない役割を果たしたと考えられる。
真里谷恕鑑の政治的影響力を示す最も顕著な事績の一つが、小弓公方足利義明(あしかが よしあき)の擁立である。足利義明は、関東の最高権威であった古河公方足利政氏の次男であったが、家督争いに敗れて関東各地を流浪していた 6 。この義明に目を付けたのが恕鑑であった。
永正15年(1518年)、武田恕鑑(史料によっては実名を信清と記す)は、足利義明を奉じ、当時下総国小弓城(現在の千葉市中央区)を拠点としていた原氏を攻撃し、これを陥落させた 5 。そして、義明を小弓城に迎え入れ、「小弓公方」として推戴したのである 3 。この動きは、上総の在地領主であった真里谷氏が、関東の公方権威を自らの勢力圏に引き込み、その威光を利用して房総半島における主導権を握ろうとする戦略的な行動であった。恕鑑自身は「房総管領」を称し、小弓公方の後援者としてその勢力を大きく拡大させた 5 。
しかし、この協力関係は長続きしなかった。当初は恕鑑の支援に依存していた義明も、次第に傀儡としての立場からの脱却を図り、独自の権力を行使しようと試みるようになった。義明の専横な振る舞いは、彼を政治的道具として利用しようとしていた恕鑑にとって許容できるものではなく、両者の間には次第に溝が生じていった 6 。恕鑑は、関東に急速に勢力を拡大しつつあった後北条氏に接近するなどの動きを見せ始め、かつての庇護者と被庇護者の関係は、緊張をはらんだ対立関係へと変質していったのである。この関係性の変化は、房総半島、ひいては関東全体の政治情勢に新たな不安定要因をもたらすことになった。
真里谷恕鑑の活動期は、房総半島が関東中央の政治動向(古河公方、関東管領)、相模の新興勢力(北条氏)、安房の在地勢力(里見氏)など、複数の勢力が複雑に絡み合う、まさに草刈り場ともいえる過渡期であった。このような状況下で、恕鑑は真里谷氏の勢力維持と拡大を目指し、巧みかつ柔軟な外交政策を展開した。
相模国から急速に関東へ勢力を拡大していた後北条氏との関係は、恕鑑の外交戦略において特に重要な位置を占めていた。当初、恕鑑は北条早雲(伊勢宗瑞)の支援を受けて、同じく上総に勢力を持つ原氏と争ったとされている 6 。これは、新興勢力である北条氏と連携することで、在地における競争相手を排除し、自らの勢力基盤を固めようとする動きであったと考えられる。
しかし、北条氏の勢力があまりにも急拡大すると、周辺の旧勢力との間には緊張が高まる。大永4年(1524年)に北条氏綱が江戸城を奪取するなど、その脅威が現実のものとなると、扇谷上杉朝興は北条氏への対抗策を講じ始める。大永5年(1525年)、朝興は恕鑑に対し、北条氏綱と手を切るよう要請した 25 。この時期、朝興は武田信虎(甲斐)や山内上杉氏とも連携を模索しており、恕鑑を反北条連合の一翼に組み込もうとしたのである。恕鑑はこの要請に応じ、一時的に北条氏と敵対関係に入った。
だが、前述の通り、小弓公方足利義明との関係が悪化すると、恕鑑は再び北条氏に接近する姿勢を見せるようになる 6 。これは、特定の勢力に固定的に従属するのではなく、常に自らの勢力にとって最も有利な提携相手を模索するという、戦国武将特有の現実主義的な外交感覚の現れと言えよう。
安房国を拠点とする里見氏との関係もまた、複雑な様相を呈した。恕鑑の父とされる真里谷信勝は、永正14年(1517年)に里見氏と同盟を結び、足利義明を擁立して小弓公方を創設したとされている 3 。この同盟関係を恕鑑も当初は継承していたと考えられる。
しかし、里見氏内部で天文の内訌と呼ばれる家督争いが勃発すると、恕鑑はこの内紛に介入する。当時の里見氏当主であった里見義豊と、その叔父実堯及び実堯の子義堯との間で争いが生じると、恕鑑は義豊を支援した 2 。里見義豊は天文3年(1534年)、真里谷恕鑑(信清)らの協力を得て安房国に復帰しようとしたものの、犬掛の合戦で義堯方に大敗し、自害に追い込まれた 27 。この介入は、里見氏内部の混乱に乗じて影響力を拡大しようとする意図があったとも考えられるが、結果として支援した義豊が敗死したことで、恕鑑の戦略は裏目に出た。
なお、歴史学者の黒田基樹氏は、この里見氏内訌に関連する真里谷朝信(小田喜城主で、恕鑑の配下ともされる)の事績について、恕鑑(実名信清説)自身の行動が混同されて記述されている可能性を指摘している 15 。この点は、恕鑑の里見氏内訌への具体的な関与の度合いや形態を考察する上で、今後の研究が待たれる部分である。義豊の死後、家督を継いだ里見義堯との関係は、必ずしも良好ではなく、時には対立することもあった 6 。
関東管領を世襲した山内上杉氏と並ぶ名門であった扇谷上杉氏もまた、恕鑑の外交対象であった。特に当主の上杉朝興は、北条氏の急速な台頭に危機感を抱き、広範な反北条連合の形成を試みていた。前述の通り、大永5年(1525年)、江戸城を北条氏綱に奪われた朝興は、巻き返しを図るため、甲斐の武田信虎や山内上杉氏に加え、上総の実力者であった真里谷恕鑑にも同盟を働きかけている 25 。この連携の模索は、当時の関東における旧勢力が、新興の北条氏にいかに対抗しようとしていたかを示す具体例であり、その中で真里谷氏が一定の戦略的価値を持つ存在として認識されていたことを物語っている。
これらの外交・軍事行動は、真里谷恕鑑が房総半島における独立した勢力として生き残るために、多角的かつダイナミックな戦略を展開していたことを示している。しかし、その複雑な外交関係は、一歩間違えれば自らの立場を危うくする諸刃の剣でもあった。
表2: 真里谷氏関連年表(恕鑑の時代を中心に)
年代(西暦) |
真里谷氏・恕鑑の動向 |
周辺勢力(小弓公方、北条、里見、扇谷上杉)の主な動向 |
典拠 (例) |
康正2 (1456) |
(上総武田氏祖・武田信長、真里谷城築城) |
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5 |
永正14 (1517) |
父・信勝、里見氏と同盟し足利義明擁立を画策 |
里見氏と連携 |
3 |
永正15 (1518) |
恕鑑(信清)、足利義明を奉じ小弓城を攻略、義明を小弓公方とする |
足利義明、小弓公方となる |
5 |
大永元 (1521) |
(真里谷信清(別人説)、大多喜城築城) |
|
12 |
大永4 (1524) |
|
北条氏綱、江戸城を奪取 |
26 |
大永5 (1525) |
扇谷上杉朝興の要請を受け、北条氏綱と手切れか |
扇谷上杉朝興、恕鑑に反北条の同盟を打診 |
25 |
大永6 (1526) |
|
里見義豊、北条氏と鶴岡八幡宮で戦う |
27 |
天文2 (1533) |
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里見氏、天文の内訌勃発(義豊 対 実堯・義堯) |
27 |
天文3 (1534) |
恕鑑、里見義豊を支援するが義豊敗死。 真里谷恕鑑死去 (7月1日)。家督争い始まる。 |
里見義豊、犬掛の合戦で敗死。義堯が里見氏当主に。 |
2 |
天文6 (1537) |
家督争い激化。信隆(北条氏支援) 対 信応(小弓公方・里見氏支援)。信隆、峰上城等で敗れ武蔵金沢へ逃れる。 |
小弓公方義明、信隆方の城を攻撃。 |
6 |
天文7 (1538) |
|
第一次国府台合戦。小弓公方足利義明敗死。 |
5 |
|
(第一次国府台合戦後)信隆、北条氏の支援で復権し椎津城を本拠とする。 |
北条氏綱、勢力拡大。 |
5 |
天文13 (1544) |
(大多喜城主・真里谷朝信、里見氏家臣正木時茂に討たれる) |
里見氏、上総への影響力拡大。 |
12 |
天文21 (1552)頃 |
(真里谷信応・信政(信隆の子)自害か。真里谷氏の勢力大きく後退) |
|
1 |
天正18 (1590) |
(真里谷信高の代、小田原征伐により真里谷城廃城。真里谷氏滅亡) |
豊臣秀吉、小田原北条氏を滅ぼす。 |
3 |
この年表は、真里谷恕鑑の活動と彼を取り巻く房総半島の複雑な情勢を時系列で概観する一助となる。特に、恕鑑の死後、家督争いが周辺勢力の動向と密接に連動しながら展開していく様子が注目される。
真里谷恕鑑の死は、真里谷氏にとって大きな転換点となった。彼の強力な指導力が失われた後、かねてから潜在していた家督相続問題が一気に顕在化し、一族を二分する深刻な内訌へと発展した。この内部対立は、結果として真里谷氏の国力を著しく消耗させ、周辺勢力の介入を招き、その後の衰退を決定づける大きな要因となった。
真里谷恕鑑には、主要な後継者候補として二人の息子がいた。一人は庶長子とされる真里谷信隆であり、もう一人は正室から生まれたとされる(異説あり)真里谷信応である 2 。一部の史料によれば、恕鑑は当初、信隆を後継者として指名していたとされる 6 。信隆は「庶出ながら一人息子であった」が、その後、正室から信応が生まれたことで状況が変化したという 6 。戦国時代において、家督相続における嫡庶の別はしばしば紛争の火種となり、真里谷氏もその例外ではなかった。
恕鑑が生前、信隆を後継者と考えていたとしても、信応の誕生によって家臣団の間には動揺が広がった。「嫡出の信応を後継者とすべきである」とする一派と、「一度信隆を後継者と決めた以上は変更すべきではない」とする一派が形成され、対立の萌芽が見られた 6 。
天文3年(1534年)に恕鑑が死去すると、この対立は公然たる家督争いへと発展した 2 。多くの史料が伝えるところによれば、まず信隆が家督を継承したものの、これに対して小弓公方足利義明が強く反対し、信応を擁立した 6 。信応の後見人には、恕鑑の弟である真里谷全方(全芳、実名は信保か)が就き、一族の本拠地である真里谷城を拠点とした 6 。
一方、家督の座を追われる形となった信隆は、椎津城などに退き、当時関東で勢力を伸張しつつあった後北条氏の当主・北条氏綱に支援を求めた 3 。これにより、真里谷氏の家督争いは、単なる一族内部の問題に留まらず、房総半島における有力勢力の代理戦争の様相を呈していくことになる。
真里谷氏の家督争いは、信隆を支援する古河公方(およびその背後にいる北条氏)と、信応を支援する小弓公方足利義明(およびその同盟者である里見氏)という、関東の二大対立軸を巻き込む形で展開した 6 。
天文6年(1537年)、小弓公方義明は信応を支援するため、信隆方の拠点であった峰上城や佐貫城などを攻撃した 6 。この攻撃により信隆は敗れ、足利義明に降伏。峰上城などを明け渡し、北条氏を頼って武蔵国金沢(現在の神奈川県横浜市金沢区)へ逃れたとされている 6 。
しかし、この状況は長くは続かなかった。翌天文7年(1538年)に勃発した第一次国府台合戦において、小弓公方足利義明が北条氏綱軍に敗れて戦死するという大きな政変が起こる 5 。これにより、信応方の最大の支援者であった小弓公方の勢力は壊滅し、信応の立場は著しく弱体化した。この機に乗じ、北条氏綱の強力な支援を受けた信隆が上総に復帰し、椎津城を本拠として真里谷氏当主の座に返り咲いた 5 。
だが、信隆の復権後も真里谷氏の内紛が完全に終息することはなかった。天文9年(1540年)頃から、笹子城や中尾城といった支城を巡って再び一族間の抗争が再燃したと伝えられている 11 。このような長期にわたる内訌は、真里谷氏の国力を著しく疲弊させた。その結果、後北条氏や里見氏といった周辺の有力大名にとって、真里谷氏の領国への介入はより容易なものとなった 11 。
真里谷氏の家督争いは、戦国時代における家督相続の不安定さ、有力家臣団の派閥形成、そして外部勢力の巧みな介入戦略が複雑に絡み合った結果、泥沼化した典型例と言える。皮肉なことに、かつて恕鑑自身が里見氏の内訌に介入したように 2 、今度は自らの一族が周辺勢力による介入の対象となり、その勢力を削がれていくことになったのである。この構造的な問題は、戦国期における「家」の脆弱性を示しており、当主の強力なリーダーシップや明確な後継者指名、そして家臣団の結束がいかに重要であったかを物語っている。恕鑑が生前にこの家督争いの深刻な火種にどこまで気づき、具体的な対策を講じようとしたのか、あるいは彼の特定の息子への処遇や判断が、死後の混乱を結果的に助長したのかについては、史料の制約から詳らかではない。しかし、黒田基樹氏が指摘するように、恕鑑とほぼ同時期に「嫡子とみられる大夫も死去した」 2 という情報が事実であれば、これが信応を指すのか、あるいは別の嫡男がいたのか、そしてその死が家督問題にどのような影響を与えたのかは、さらなる検討を要する複雑な問題である。
本報告の依頼において特に言及された「真里谷信保」という呼称について、これまでの議論を踏まえつつ、改めてその歴史的背景と解釈を試みる。この呼称が真里谷恕鑑自身を指すのか、あるいは別人を指すのか、それとも何らかの混同によるものなのかを明らかにすることは、恕鑑の実像に迫る上で避けて通れない課題である。
前述の通り、真里谷恕鑑の実名候補として「信保」を挙げる史料が存在する。具体的には、『房総武田氏系図』とされるものに、真里谷氏四代当主として「真里谷信保(1478~?)」の名が見え、その父は信勝、子は信隆と記されている 3 。この系譜上の記述は、活動時期(1478年生まれであれば恕鑑の活動期と重なる)や父子関係(父が信勝、子が信隆)において、恕鑑のプロファイルと一致する部分が多い。また、 8 の記述においても、恕鑑の実名に関する諸説の一つとして「信保」が挙げられている。
しかしながら、これらの史料と、恕鑑の実名を「信清」とする他の有力な説(特に黒田基樹氏の研究によるもの 2 )との間には、整合性の問題が生じる。例えば、 3 の系図では、三代当主として真里谷信清(信興の次男、?~1534年)が、信勝の子である信保に家督を譲ったとされている。この三代信清の没年(1534年)は、恕鑑の没年(天文3年=1534年)と一致する。もし、この三代信清が恕鑑(実名信清説)と同一人物であると仮定すると、恕鑑(信清)が自身の子である信保( 3 の四代当主)に家督を譲ったという解釈になるが、これは恕鑑の子が信隆と信応であるという他の多くの史料と矛盾する。あるいは、 3 の三代信清と恕鑑(実名信清説)は別人であり、かつ恕鑑の実名が信保であったという可能性も考えられるが、これもまた複雑な解釈を必要とする。
「信保」という名が真里谷氏の歴史において注目されるもう一つの理由は、恕鑑の弟である真里谷全方(全芳)の実名が「信保」であると有力視されている点である 9 。全芳は、恕鑑の死後に勃発した家督争いにおいて、甥の真里谷信応を補佐し、真里谷城を拠点として信隆方と対峙した重要な人物である 6 。
もし、恕鑑自身も「信保」を名乗ったことがある、あるいは通称として用いていたとすれば、弟の全方(実名信保説)との間で名前が重複することになる。戦国時代において兄弟が同じ実名を持つ例は皆無ではないが、一般的ではない。より可能性が高いのは、弟・全方の実名である「信保」が、何らかの理由で兄・恕鑑の呼称として誤伝されたり、後世の系図編纂の過程で混同されたりしたというシナリオである。特に、全方が家督争いにおいて一定の役割を果たしたことを考えると、彼の子孫や関係者が作成した記録の中でその名が強調され、それが恕鑑と結びつけられた可能性も排除できない。
戦国時代の武将が複数の名前(実名、幼名、通称、官途名、受領名、法名、号など)を持つことは極めて一般的であり、真里谷恕鑑もその例外ではなかったと考えられる。彼が「恕鑑」という法号で広く知られている一方で、その実名については「信清」説が有力視されつつも、「信保」説も完全に否定するには至っていない。
「信保」という呼称が、恕鑑の一時的な名乗りであったのか、あるいは特定の文書群や特定の系統の系図においてのみ使用された呼称であったのか、現存する史料だけでは断定することは難しい。房総武田氏に関する系図の信頼性が総じて低いとされること 16 は、この問題を考察する上で常に念頭に置かなければならない重要な前提である。史料の成立した時代背景や編纂者の意図によって、特定の呼称が意図的に選択されたり、あるいは単純な誤記や誤伝が生じたりする可能性は十分に考えられる。
現時点での研究状況を踏まえると、真里谷恕鑑の主要な実名は「信清」であった可能性が高いと推測される。その上で、「真里谷信保」という呼称がなぜ生じたのかについては、
本報告では、戦国期上総国の武将、真里谷恕鑑(信保)について、その出自、実名、政治・軍事活動、そして彼の一族を揺るがした家督相続問題を中心に考察を加えてきた。
真里谷恕鑑は、房総半島が関東中央の政治動乱と周辺勢力の覇権争いの渦中にあった戦国時代初期において、巧みな政治力と軍事力を駆使し、一時は上総国に確固たる勢力を築き上げた武将として評価できる。特に、小弓公方足利義明を擁立したことは、既存の権威構造に揺さぶりをかけ、関東の政治秩序に少なからぬ影響を与えようとした野心的な試みであった。しかし、この戦略は結果として義明との対立を招き、さらには自身の死後の家督争いを複雑化させる一因ともなった。
恕鑑の実名、特に本報告の契機となった「信保」という呼称に関しては、依然として確定的な結論を出すことは難しい。弟・全方の実名との混同や、特定の系図における記述など、複数の可能性が考えられるが、現時点では「信清」を実名とする説が比較的有力であると言えよう。この問題は、戦国期の史料研究における名前の同定の重要性と困難性を示す象徴的な事例である。
恕鑑の死後、その強力な指導力を失った真里谷氏は、庶長子・信隆と嫡男・信応の間で激しい家督争いを繰り広げた。この内訌は、単なる一族内の対立に留まらず、北条氏や里見氏といった周辺の有力大名の介入を招き、長期化・泥沼化した。その結果、真里谷氏の国力は著しく消耗し、自立性を失っていった。天文21年(1552年)頃には信応や信隆の子・信政が相次いで自害に追い込まれたとされ 1 、真里谷氏の勢力は大きく後退した。最終的には、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際、当主であった真里谷信高が本拠地の真里谷城を放棄し、ここに戦国大名としての真里谷氏は終焉を迎えた 3 。恕鑑の時代の戦略や、彼が解決しきれなかった家督問題の火種は、確実に次世代への負の遺産となり、一族の衰亡への道を早めたと言わざるを得ない。
真里谷恕鑑の生涯と真里谷氏の興亡は、戦国時代における地方勢力の栄枯盛衰の一典型を示している。それは、個人の力量のみでは抗し難い時代の大きなうねりの中で、いかにして勢力を維持し、次代へと繋いでいくかという、普遍的な課題を我々に突きつけている。リーダーシップのあり方、内紛の破壊的な影響、そして激動する外部環境への対応戦略の巧拙といった要素が、一族の運命を左右した様は、現代においても多くの示唆を与えるものであろう。恕鑑に関する未解明な点については、今後のさらなる史料の発見と研究の深化に期待したい。