日本の戦国時代から江戸時代初期にかけて、毛利家を支えた重臣に「福原広俊」という名の人物がいる。しかし、安芸福原氏の歴史を紐解くと、同名の人物が複数存在し、その功績が混同されがちである。この事実は、福原氏という一族の特性を理解する上で極めて重要である。福原氏では、祖先の功績にあやかり、その名を子孫が意図的に襲名する慣習があった 1 。これは単なる偶然ではなく、毛利家中で築き上げた家の伝統と権威を継承し、内外にその正統性を示すための、武家社会における戦略的な営為であった。福原氏が自らの歴史と毛利家への貢献に対し、いかに強い自負を抱いていたかがうかがえる。
したがって、本報告書で論じる対象を明確に特定することが、分析の第一歩となる。本稿が主題とするのは、安芸福原氏の第13代当主であり、永禄10年(1567年)に生まれ、元和9年(1623年)に没した人物である 3 。彼は、毛利輝元の時代に家督を継ぎ、関ヶ原の戦いという毛利家最大の危機において、家の存続を賭けた重大な決断を下し、その後の萩藩(長州藩)の礎を築いたことで知られる。
特に注意すべきは、後の時代に長州藩の家老として活躍し、宇部領主として常盤池の築造といった大規模な土木事業を行った同名の福原広俊(隠岐守、1638年-1695年)との区別である 5 。両者の功績を混同することは、それぞれの人物像を不正確に捉えることに繋がるため、本報告書では、関ヶ原の動乱期を生きた第13代当主・福原広俊(越後守)の生涯と功績に焦点を絞り、その歴史的役割を徹底的に解明する。
読者の理解を助けるため、以下に福原氏の主要な当主を対照表として示す。
表1:福原氏主要当主対照表
代数 |
氏名 |
生没年 |
本稿の広俊との関係 |
主要な出来事・役職 |
8代 |
福原広俊 |
不明-1491年頃 |
高祖父 |
娘が毛利弘元の正室となり、毛利元就を産む 7 。 |
10代 |
福原広俊 |
不明-1557年 |
曽祖父 |
毛利元就の家督相続を宿老筆頭として主導 1 。 |
11代 |
福原貞俊 |
1512年-1593年 |
祖父 |
毛利輝元を補佐する「御四人衆」の一人 1 。 |
12代 |
福原元俊 |
不明-1591年頃 |
父 |
11代貞俊の子。 |
13代 |
福原広俊 |
1567年-1623年 |
本人 |
本報告書の主題。関ヶ原の戦いで内通工作を主導し、萩藩の基礎を築く 3 。 |
14代 |
福原元俊 |
不明-1653年 |
子 |
広俊の子。宇部領主となる 6 。 |
15代 |
福原広俊 |
1638年-1695年 |
孫 |
通称・隠岐守。宇部の常盤池などを築造 5 。 |
福原広俊が歴史の表舞台に登場する以前、福原氏はすでに毛利家中で他の家臣とは一線を画す、特別な地位を確立していた。その背景を理解することは、後の広俊の行動原理を解き明かす鍵となる。
福原氏の始祖は、鎌倉幕府の政所別当であった大江広元を遠祖とし、毛利氏の祖・毛利季光とは兄弟の関係にある長井時広の子孫、毛利元春の五男・広世である 1 。広世が安芸国福原荘を領したことから福原を名乗り、毛利宗家とは常に密接な関係を保ち続けた。
福原氏の地位を決定的なものとした最大の要因は、血縁、特に「外戚(がいせき)」という立場にあった。戦国の雄・毛利元就の生母は、福原氏8代当主・広俊の娘なのである 1 。これにより、福原氏は単なる家臣ではなく、主君の母方の実家という、極めて強固な信頼関係で結ばれた準一門としての特権的地位を得た。この血縁がもたらす政治的影響力は絶大であった。家中の重要問題、特に家督相続のような一大事において、福原氏の発言は単なる家臣の意見ではなく、「身内の助言」として最も重く受け止められた。この他の家臣が持ち得ない「信頼資本」こそが、福原氏の権威の源泉であった。
その象徴的な出来事が、毛利元就の家督相続である。大永3年(1523年)、毛利幸松丸が夭折し、家督継承問題が持ち上がった際、本稿の広俊の曽祖父にあたる福原広俊(10代当主)は、15名の宿老の筆頭として連署状に署名し、元就の家督相続を強く要請した 1 。この元就擁立の主導的役割は、福原氏が毛利宗家の安定に深く、そして直接的に関与してきた歴史を物語っている。
この「主家守護」の役割は、世代を超えて継承されていく。広俊の祖父にあたる福原貞俊(11代当主)は、元就の死後、若き当主・毛利輝元を補佐する最高意思決定機関「御四人衆」の一人に数えられた 1 。彼は吉川元春、小早川隆景、口羽通良といった重鎮らと肩を並べ、特に隆景を補佐して山陽方面の統治を担うなど、毛利家中枢で絶大な影響力を行使した 1 。
曽祖父が元就を擁立し、祖父が輝元の初期の治世を支えた。この歴史の連続性は、福原氏に「毛利宗家が危機に瀕した際には、家の安泰のために身を挺して尽力する」という、家訓とも言うべき強固な役割意識を植え付けた。本稿の主題である福原広俊が、後に関ヶ原の戦いで下す重大な決断は、この一族に代々受け継がれてきた「主家守護」という歴史的文脈の中で捉え直すことで、その真意がより深く理解できるのである。
永禄10年(1567年)、福原元俊(12代当主)の子として生を受けた福原広俊は、天正19年(1591年)に家督を継承し、毛利輝元に仕える若き重臣としてそのキャリアをスタートさせた 3 。彼が家督を継いだ時期は、豊臣秀吉による天下統一が成り、戦国乱世が終焉を迎え、日本の統治体制が大きく変わろうとする激動の時代であった。
この時期、毛利家は中国地方の覇者から、豊臣政権下の一大名という新たな立場への適応を迫られていた。広俊は、輝元に随行して大坂や京に頻繁に出仕し、中央政権との複雑な外交交渉や政務の現場を直接経験したと考えられる 15 。それは、単に武勇を競うだけでは生き残れない、新たな時代の武将に求められる政治力と交渉術を磨く絶好の機会であった。輝元から「秀吉公の前では遠慮するな。毛利家の誇りを持って堂々と振る舞え」と励まされ、中央の権力者を前にしても臆することなく毛利家の立場を主張する経験を積んだと伝えられている 15 。
広俊の能力と特性を方向づけた決定的な経験が、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)であった。この国を挙げた大事業において、毛利家も小早川隆景や吉川広家をはじめとする多くの武将を朝鮮半島へ派遣した。しかし、広俊は渡海して前線で指揮を執るのではなく、国内に留まり「留守居役」として後方支援の重責を担った 15 。これは、彼が単なる武辺者としてではなく、統治能力や兵站管理能力を高く評価されていたことを示唆している。
「留守居役」の任務は、決して地味なものではない。大規模な外征において、兵糧や武器の補給路を確保し、膨大な経費を算段し、領国の治安を維持する後方支援の成否は、前線の勝敗に直結する。広俊はこの任務を通じて、毛利家の国力、財政、そして人的資源の限界を肌で感じたはずである 15 。この現実的な国力認識は、彼の思考に強いリアリズムを植え付けた。後の関ヶ原の戦いにおいて、彼が安国寺恵瓊らの主戦論に与せず、一貫して和平工作という現実的な路線を模索した根本的な要因は、この朝鮮出兵での後方支援の経験に求められるであろう。
広俊のキャリアは、戦場での武勇(武)よりも、統治や交渉といった政務(文)の側面が際立っている。朝鮮出兵での後方支援、そして関ヶ原後の藩政運営と、彼の活躍の舞台は常に政治・行政の最前線であった。これは、個人の武力が雌雄を決した戦国の時代が終わり、安定した統治機構の構築が求められる近世封建社会へと移行する時代の変化を、彼自身が体現していたことを示している。福原広俊は、旧来の武功一辺倒の武将ではなく、近世的な官僚・政治家としての資質を強く持つ、新時代のリーダーであった。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いは、毛利家にとって存亡を賭けた最大の危機であった。この国家的な動乱において、福原広俊は主家の未来を見据え、歴史を左右する重大な決断を下す。
豊臣秀吉の死後、五大老筆頭の徳川家康と、五奉行の石田三成の対立が先鋭化する。この状況下で、毛利家の外交僧であった安国寺恵瓊らは、五大老の一人である主君・毛利輝元を西軍の総大将として担ぎ上げることに成功する 16 。輝元は豊臣秀頼を保護するとの名目で大坂城西の丸に入り、名目上は100万石を超える大軍を率いる西軍の最高指導者となった。しかし、輝元自身は大坂城から一歩も動こうとせず、前線には養子の毛利秀元を総大将として派遣するに留まった 16 。
この輝元の消極的な態度は、毛利家中の深刻な意見対立を反映していた。恵瓊ら主戦派が西軍勝利を楽観視する一方で、福原広俊や吉川広家らは、家康率いる東軍の強大さと、西軍の結束の脆さを見抜き、この戦に勝機はないと冷静に分析していた。岐阜城の早期陥落など、戦況が西軍不利に傾く情報がもたらされると、広俊と広家の危機感は確信へと変わる。「このままでは毛利は滅びる」―そう判断した二人は、主君・輝元の意向に反してでも、家を存続させるための道を探るべく、水面下で行動を開始した 8 。
広俊と広家は、東軍の黒田長政を仲介役として、徳川家康への内通交渉を開始した 18 。この交渉は極秘裏に進められ、合戦前日の9月14日、ついに家康方との間で密約が成立する。その証として、家康の側近である井伊直政と本多忠勝、さらに輝元を東軍に勧誘した福島正則と黒田長政から、広家と広俊宛に連署の血判起請文が送られた 8 。
この起請文の内容は、毛利家の運命を決定づけるものであった 19 。
この起請文の宛名が、当主の輝元ではなく、家臣である広家と広俊になっている点は極めて重要である。これは、徳川方がこの時点で、輝元を交渉相手として信頼しておらず、毛利家を実質的に動かしているのは広家と広俊であると正確に認識していたことを示している。福原広俊は、もはや単なる一重臣ではなく、毛利家の運命を左右するキーパーソンとして、敵方からも認められていたのである。
この密約に基づき、関ヶ原の戦い当日、毛利勢は意図的なサボタージュを実行する。南宮山の山頂に布陣した毛利秀元率いる本隊の前面に陣取った吉川広家は、麓からの進軍路を完全に封鎖した 21 。背後の安国寺恵瓊や長宗我部盛親の部隊から再三にわたり出撃要請が来ても、広家は「今、兵に弁当を食べさせている」などと理由をつけて頑として動かなかった。これが後世に伝わる「宰相殿の空弁当」の逸話である(宰相とは参議の唐名であり、当時参議の官位にあった毛利秀元を指す) 22 。
この広家の行動は、単独で行われたものではない。福原広俊は、この不戦工作の共同立案者であり、最高責任者の一人であった。彼らの狙い通り、1万5千という毛利の大軍は、終日戦場を傍観するだけで、東軍に一矢も報いることなく終わった。この毛利勢の不戦は、西軍の敗北を決定づけた要因の一つとなった。
広俊と広家の行動は、西軍の視点から見れば紛れもない裏切りである。しかし、毛利家の視点から見れば、その評価は全く異なる。彼らは、主君・輝元や主戦派の判断が家を滅ぼすという客観的な情勢分析に基づき、主君の意向に反してでも「家」そのものを存続させる道を選んだ。これは、主君個人の意思よりも組織全体の存続を優先する、一種の「家中クーデター」と評価できる。彼らは、輝元を「暴走する経営者」とみなし、それを止める「冷静な取締役」として行動したのである。この決断の根底には、第一章で述べた、福原氏に代々受け継がれる「主家守護」の強固な使命感があったことは想像に難くない。
関ヶ原の戦いは東軍の圧勝に終わり、西軍総大将であった毛利家は絶体絶命の窮地に立たされた。福原広俊と吉川広家が結んだ密約により、本来であれば死罪や改易は免れないところであったが、結果は過酷なものであった。戦後、毛利家は安芸・備後など中国地方8カ国120万石の所領を没収され、周防・長門の2カ国、わずか36万9千石へと大減封されたのである 8 。
この未曾有の国難にあたり、福原広俊は、関ヶ原で果たした「家を存続させる」という役割を、今度は「新たな藩を確立する」という形で完遂させるべく、その政治手腕を遺憾なく発揮する。彼の生涯における最大の功績は、この萩藩初期の混乱期を乗り切ったことにあると言っても過言ではない。
減封により、毛利家は膨大な数の家臣を抱えたまま収入が4分の1に激減し、藩財政は破綻寸前であった。領内では減封に不満を持つ者による一揆も発生し、まさに内憂外患の状態であった。この危機的状況を収拾するため、広俊は藩の最高意思決定機関である「加判役(かはんやく)」に就任し、藩政再建の全権を担うことになった 8 。
彼の仕事は多岐にわたった。まず急務であったのは、新たな統治拠点となる城の選定である。広俊は「江戸当役」として江戸に赴き、幕府の実力者であった本多正信・正純父子らと直接交渉を重ねた 4 。毛利側は防府や山口を希望したが、幕府は山陰の僻地である萩を指定。これは、毛利家を封じ込めるという幕府の明確な意図の表れであったが、広俊はこれを受け入れ、幕府との関係正常化に努めた。さらに、慶長11年(1606年)には、諸大名に課せられた江戸城の普請事業の担当も務め、幕府への恭順の意を形にすることで、毛利家への風当たりを和らげることに腐心した 4 。
対外的な交渉と並行して、広俊は藩内の深刻な対立の鎮静化にも奔走した。萩城の築城中、工事の進め方を巡って重臣間で対立が激化し、ついに輝元が一方の重臣である熊谷元直を粛清するという「熊谷元直事件(五郎太石事件)」が発生した 27 。この事件の背景には、関ヶ原以来くすぶっていた主戦派(毛利秀元ら)と和平派(広俊・広家ら)の対立があった。広俊は輝元と共にこの事件を迅速に鎮圧し、800名を超える家臣から改めて忠誠を誓う起請文を徴収することで、藩内の動揺を抑え込み、自らの主導権を確立した 4 。
最大の危機管理能力が問われたのが、大坂の陣(1614年-1615年)の際に発覚した「佐野道可事件」である。これは、毛利家臣が豊臣方へ内通を試みたという嫌疑であり、一歩間違えれば、徳川への反逆と見なされ、藩が取り潰される可能性のある大事件であった 4 。この時も広俊が処理に奔走し、幕府の追及をかわして事なきを得た 28 。
これらの功績を鑑みれば、萩藩の初代藩主は形式上、毛利輝元・秀就親子であるが 23 、実質的な藩政の設計と実行を担ったのは福原広俊であった。対外的には幕府との関係を安定させ、対内的には反対勢力を抑え込み、財政難と混乱の中で藩の統治機構の骨格を作り上げた。彼の卓越した危機管理能力と政治手腕なくして、萩藩の初期の安定はあり得なかった。福原広俊こそ、新生毛利家の「実質的な創業者」と評価することができるのである。
関ヶ原の戦後処理と萩藩の創設という、息つく暇もない激務に生涯を捧げた福原広俊は、藩の体制がおおむね軌道に乗ったことを見届けると、静かに歴史の表舞台から身を引いた。
元和8年(1622年)、広俊は嫡男の元俊に家督を譲り隠居する 8 。そして翌年の元和9年(1623年)3月21日、57年の波乱に満ちた生涯を閉じた 3 。彼の墓所は、萩にある福原家の菩提寺・徳隣寺ではなく、隠居後の領地であった周防国吉敷(現在の山口市吉敷佐畑)の黄龍山玄済寺に建てられている 30 。萩の徳隣寺には、14代元俊以降の歴代当主の墓が並んでいるが 31 、萩藩存続の最大の功労者である13代広俊の墓が、その喧騒から離れた地に静かに眠っているという事実は、彼の生涯を象徴しているかのようである。
広俊の死後も、福原家は毛利家中で特別な地位を保ち続けた。彼の子孫は代々、長州藩の永代家老として藩政に重きをなし、その領地は長門国宇部に移された 8 。幕末には、当主の福原元僴(もとたけ)が禁門の変の責任を負って自刃するという悲劇もあったが、一族は明治維新まで毛利家を支え続けた 8 。
福原広俊は、戦国乱世の価値観と、近世封建社会の価値観が交錯する時代の転換点を生きた、象徴的な人物であった。彼の最大の功績は、言うまでもなく、関ヶ原の戦いという絶体絶命の危機において、主家の存続という至上命題を達成し、その後の萩藩二百数十年の歴史の礎を築き上げたことにある。
彼は、戦場での武勇を誇るタイプの伝統的な武将ではなかった。むしろ、冷静な情勢分析能力、卓越した交渉力、そして地道な行政手腕を武器に、主家を支え続けた「政治家」「行政官」であった。彼の行動は、時に「内通者」「裏切り者」という一面的な評価を受けることもある。しかし、その行動原理の根底には、常に「毛利家」という組織全体の利益を最優先する、一貫したリアリズムと、福原家に代々受け継がれてきた「主家守護」の強い使命感があった。
主君の判断が家を滅ぼしかねないという極限状況において、彼は主君個人の意向よりも「家」の永続を選んだ。その冷徹な決断と、戦後の地道で困難な再建事業がなければ、毛利家は近世大名として生き永らえることはできなかったであろう。福原広俊は、毛利家を近世大名へと軟着陸させた「影の功労者」として、再評価されるべき人物である。彼が敷いた盤石な基礎があったからこそ、長州藩は二百数十年後の幕末に、再び日本の歴史の表舞台に登場することになるのである。